学校が休みの日。わたしは、父と父方の実家で夕飯をとった帰りにコンビニに立ち寄っていた。父はビールを買うからと店内へ入り、わたしは外で待っていた。
「あんたってほんと最低!!」
 近くの道から怒鳴る声が聞こえた。
 足を止めて様子を伺っていると、街灯に照らされていたおかげでひとりは女性だと分かる。すごい剣幕のようだ。
 その隣には、女性をなだめているような男性の姿が見える。何かを言っているようだったが、女性の怒りを鎮めることはできなかったのか、「もういいっ!」と女性は声を荒げてどこかへ歩いていった。
 恋人同士の喧嘩だろうか? そんなふうに考えていると、ひとり取り残された男性がこちらへ向かって歩いてくる。
 夜で暗いとはいえ、見ていたと文句をつけられたくなかったわたしは目線を下げる。
 ピロリローン。と、ドアが開いた音がして、振り向くと父がコンビニから出てきた。「帰るか」と父の言葉に頷いて歩きだすと、タイミング悪く先ほどの女性と揉めていた人とコンビニの駐車場内ですれ違う。
 わたしの少し前を歩く父に隠れるように、すれ違う瞬間に男性をちらっと見ると、どこか見覚えのある顔だった。
 わたしは立ち止まって、〝彼〟の後ろ姿を見つめる。
 一瞬だったが間違いない。
 今のはクラスメイトの瀬戸口くんだ。
 成績優秀でスポーツ万能で、物腰も柔らかくて爽やかイケメンで、困っている人を放っておけなくて、クラスメイトや先生たちからも慕われている。
 そんな王子様みたいな人がなぜ女性と口論を?
一香(いちか)どうした?」
 父に呼びかけられてわたしは、なんでもない、と返事をしてから歩きだす。
 だけど、やっぱり気になってしまって、もう一度だけ瀬戸口くんが入って行ったコンビニを見つめた。





 翌日、わたしは学校へ着くなり、少し離れた斜め前の席に座っている瀬戸口くんを見つめた。
 昨日の夜に〝あの場面〟を目撃してしまってから気になって仕方がなかった。
瀬戸口(せとぐち)くん、昨日の宿題で分からなかったところがあるんだけど教えてもらってもいい?」
 クラスメイトが彼の元へやってくると、彼はすぐに引き受けた。
 瀬戸口くんが勉強を教えているだけなのに「優しい」「かっこいい」など周りにいる人は目をうっとりさせる。
 クラスメイトの誰かが困っているとすぐに声をかけるし、みんながやりたくないと嫌煙する作業には率先して手を差し伸べる。先生たちからの信頼も厚くて、みんなから好かれている。誰も瀬戸口のことを嫌いな人はいなくて、むしろ一目置く存在だ。
 そんな人が昨日、なぜ女性と口論していたのかさっぱり謎だ。
胡桃沢(くるみざわ)さんの今日の髪型も可愛いね。それ、自分でやってるの?」
 クラスメイトの南さんがわたしに声をかけてくる。
「雑誌に載ってたからわたしも真似してみたんだ。コツさえ掴めば意外と簡単にできたよ」
 わたしは学校用の笑顔を作った。
「そうなの? わたしもそういう可愛い髪型にしてみたいけど、難しそうだから挑戦できなくって……」
 髪の毛先をくるくるといじりながら南さんが言う。
 そういえば最近、彼氏ができたってクラスの子たちが話しているのを聞いたことがある。
「南さん、ちょっとここに座ってみて」
 わたしが退いた席に南さんを座らせる。
「髪の毛、触ってもいいかな?」
 尋ねると、南さんは小さく頷いた。
 わたしは鞄の中からポーチを取り出すと、そこから折りたたみ櫛と髪ゴムを手に取り、慣れた手つきで髪の毛を束ねていく。
 そして、三分ほどして出来上がる。
「うん、可愛くできた」
 満足したあと、ポーチの中から手鏡を取り出して南さんに渡す。
「わあっ、可愛い!」
 鏡に映る自分を見た南さんは表情を緩めた。
「胡桃沢さんすごい! これどうやったの?」
「実はね、ちょっとしたコツがあって──」
 わたしが南さんに説明をしていると、周りにいたクラスメイトがヒソヒソと話し出す声が聞こえてくる。
「胡桃沢さんってほんとに何でもできるよね!」
「優しくて頼りになるし、可愛いし!」
「そうそう。それでいて頭もいいし、先生たちからの信頼も厚いよね!」
 学校でのわたしの立ち位置は、「おしとやかな優等生」だ。勉強ができて、スポーツも得意で、クラスメイトからも慕われていて、さらには先生たちからの信頼もある。
 高校に入学して一ヶ月と少し。その短い期間でわたしは自分の立ち位置を確立したのだ。
 でも、わたしがそれを望んだわけではない。
 苦しい過去から逃げるために、本来とは別の自分を作り出す必要があったからだ。
 それなのにわたしはずっと苦しいまま生き続けている。
 だけど、誰にも言うことはできない。
「胡桃沢さんのおかげで可愛くなった!」
「そんなことないよ。南さんが元々すごく可愛いからなんでも似合っちゃうんだよ」
 本来の自分とは別の自分で笑顔を作る。
 わたしはいつだって「おしとやかな優等生」でい続けなきゃいけないから。

 二限目の授業終わりに社会の先生が片付けをしていると、斜め前に座っている瀬戸口くんが席を立ち上がる。
「先生、僕手伝いますよ」
 自ら名乗りを出ると、黒板に広げていた大きな地図の紙を丸めだす。
「おー助かるよ」
 先生は嬉しそうに笑った。
 さすが、こういうところがスマートで王子様と呼ばれる所以なのかもしれない。
 だとしても、謎だけが残るのだ。
 昨日の夜、なぜ瀬戸口くんが女性と口論していたのか。そこだけがいまだに分からない。
 片付けを終えると、先生と瀬戸口くんが教室を出て行く姿が視界に入る。気になって仕方なかったわたしはそっと立ち上がりふたりのあとを追った。
 社会準備室までやって来ると、先生たちは中に入っていく。さすがにわたしは準備室までついていくことはできないため廊下で待つことにする。
 朝から瀬戸口くんの様子を伺っているけれど、これまでにおかしいところは何もない。それどころか一段と今日は王子様っぽい雰囲気すら漂っている気がする。
 そうなると、やはり昨日のあれはわたしの見間違いなのだろうか。他人の空似とか。自分にそっくりな人が世界に三人はいるというくらいだし。
「胡桃沢、そこで何をやってるんだ?」
 突然背後から声が聞こえて、少し驚く。
 ゆっくりと振り返ると、担任の先生がいた。
「校内を巡回していたらどこからかビー玉が転がってきたんです。誰かが踏んで転んでしまってもいけないので探していたところなんですけど、見失ってしまったみたいで。向こうの方を探してみます」
 わたしがいつものようにおしとやかに対応すると、先生は怪しむことなく「だったのか。見つかるといいな」と言って廊下を歩いていった。
 社会準備室の中にいる瀬戸口くんのことが気になったけれど、鉢合わせしても困るから、諦めて教室に戻ることにした。

 その後の休み時間も瀬戸口くんのことを気にかけていたけれど、手がかりになるようなことはなにもなかった。
 放課後、ホームルームが終わると一気に教室が騒がしくなる。わたしが帰り支度をしていると、「胡桃沢さんまたね!」とクラスメイトに声をかけられる。
 これもいつもの光景だ。
「うん、また明日」
 わたしはみんなに手を振り返した。
 瀬戸口くんの周りにはたくさん人が集まって話しをしているようだった。しばらくして、「バイバイ!」と言うと彼のそばを離れていく。
 瀬戸口くんもまた帰り支度を済ませると、椅子をきっちりと机の間に押し込んだ。
 わたしは彼のあとを追うように、少し距離をとってから教室を出る。
 一階の階段を降りると、昇降口でローファーに履き替えている瀬戸口くんの姿が見えた。わたしは近くに貼ってあった掲示板のポスターを眺めて時間を調整する。
 気づかれないようにちら、と目を向けて確認すると歩いていく姿が見えたので、自分の下駄箱へ向かい、ローファーに履き替えた。
 一定の距離をとって瀬戸口くんのあとを追うと、わたしとは正反対の道へ歩いていく。
 五分、十分と伸びていき、見慣れた場所から遠ざかっていることに気づく。けれど、ここまできたら引き下がれなくて、瀬戸口くんのあとを追い続けた。
 横断歩道が赤になると、彼は少し先で足を止める。今どのくらい歩いたのか気になって鞄の中からスマホを取り出すと、時刻は午後四時十分。すでに二十分も歩いているということになる。
 ちら、と前を向くと、いつのまにか信号は青になっていて瀬戸口くんはすでに横断歩道を渡り終えて、ひとつ目の角を曲がろうとしているところだった。わたしは慌ててスマホを鞄にしまうと、少しだけ小走りする。
 ひとつ目の角を曲がると、瀬戸口くんの姿があって安堵していると、彼は続いている道ではなく、近くにあったスーパーになんの躊躇いもなく入っていった。
 さすがにお店の中まであとをつけると店員さんに怪しまれるかもしれないと思い、わたしは外で待つことにする。
 買い物は十分ほどで終わり、瀬戸口くんはスーパーから出てきた。小さめの手提げ袋をひとつ右手に持っているようだった。何かを買ったのは間違いない。
 大通りを抜けて右の道へ逸れていくと、閑静な住宅地が広がっていた。ここまで結構歩いてきたけれど、瀬戸口くんはまだ立ち止まらない。どんどん先へ歩いていき、また右の道へ歩いていく。わたしは一定の距離を保って彼のあとを追いかけるが、瀬戸口くんの姿はどこにも見えなくなった。
 曲がった道を間違えた? それともまだ先に進んだ? わたしは少しだけ近くを捜索することにする。アパートや五階建てマンションなどが立ち並び、近くには小さな公園で遊ぶ子供たちの声が聞こえてくる。横断歩道を挟んだ向かい側には、薬局やパン屋さん、コンビニなどが見えた。
 さすがにこれ以上進むのはまずい、そう思ったわたしは来た道を引き返すことにする。
目印を頼りに戻っていると、
「胡桃沢さん」
 不意をつくように呼ばれた名前に動揺して、思わず足が止まる。
 恐る恐る振り向くと、先ほどまで探していた人物がしっかりとこちらを見つめていた。
「……せ、瀬戸口くん」
 一体どこですれ違ってしまったのだろう。
「胡桃沢さんは学校から僕のことつけてきてる?」
「え」
「さっきスーパーを出たときに同じ制服が見えたからちらっと顔を確認すると胡桃沢さんだったから。確か、バスで通ってるって言ってたよね。それも学校そばのバス停って」
 そこまで告げられて、反論の余地が見えずに固まっていると、
「どうして僕のことつけてきたの?」
 決定的な質問を突きつけられる。
 この際、全部本当のことを言った方がいいのかもしれない。そう思って口を開こうとした、そのとき。
「──しょうた?」
 突然、どこからか声がする。
 瀬戸口くんが振り返るから、わたしも彼の肩越しにそうっと見る。すると、そこには黒いワンピースのようなものにカーディガンを羽織っている女の人がいた。
「その子、誰?」
 瀬戸口くんに女の人は尋ねる。
 そこで気づいたけれど、昨日とは違う人だ。
 まだ昨日の謎も解けていないのに、さらに謎が増えたことに混乱したわたしが取った行動は。
「え、胡桃ざ──」
 瀬戸口くんの言葉を待たずに走って逃げた。
 大通りを抜けたあたりでペースを落として、そうっと後ろを振り返ってみるが、瀬戸口くんの姿はない。
よかった、追いかけてはきていないようだ。
 深く息を吐いて自分自身を落ち着かせると、新たに生まれた疑問を考えだす。
 さっきの人は一体誰なんだろう。
 瀬戸口くんのことを名前で呼んでいたから親しい関係なのかもしれないけれど、ただの友達同士でも名前で呼ぶ可能性だってある。
 学校では、クラスメイトからも先生たちからも慕われていて〝超〟が付くほどの完璧で優等生の王子様である瀬戸口くん。そんな人がふたりの女の人と何かしらの繋がりがある。
「……二股?」
 いやでも、その前に付き合っているかどうかも怪しいのに二股だって断定するのはよくない。
 何か別の理由があるかもしれないし、人には知られたくないことだってあるかもしれない。
 これ以上は興味本位で首を突っ込まない方がよさそうだ。
 そう思ってわたしは、ひたすら来た道を歩き続けた。