雪解け水に満たされた道を歩いた。
 切り取られた空の断面の上を歩いた。
 その情景に俺はいよいよ冬が明けてしまったことを自覚した。
 一ヶ月ほど袖を通していなかった制服は少しだけ窮屈に感じるようになっていた。それには自分がまだ成長期の少年であるということを自覚させられた。
 春といえば出会いの季節だろうか、別れの季節だろうか。はたまたその両方だろうか。
 人にとってはどうかわからないが、俺にとって春は別れの季節になりそうだ。
 クラスが変わればそう思うこともなくなるのだろうか。そんなことを考えながら、押しボタン式の信号を待つ。
 雪が積もっていた頃はかなり低い位置にあったボタンも、今ではもう肩より少し下くらいの位置にある。
 まだ雪が積もっていた頃は滑って転びそうで怖かった歩道橋も、今ではもうただの階段と相違ない。
 車の走行に合わせて歩道橋が左右に揺れ、空気の流れが変わるのを感じる。この感覚も久しぶりだ。老朽化によって床でも抜けてしまうんじゃないかと何度も妄想していたことを思い出す。
 学校にたどり着き、下駄箱に外靴を入れる。そして上靴を取り出そうとしたその時、デジャブを感じるタイミングで俺の耳にいつも通りの声が入ってきた。
「おはよー」
 その声に俺は思わず手を止めた。
「おはよう」
 やはりデジャブを感じる会話だったが、特に気にしないことにした。
「私とクラス離れちゃうかもしれなくて寂しい?寂しいでしょ」
 彼女は冗談を言っているかのように声高らかにそう言った。
「そうだね」
 俺はそんな彼女を動揺させるためにあえてそう言った。そして、彼女が「えっ」と動揺を見せたところで口を開いた。
「君のやかましい声がないと生活は静かで、ある意味寂しいだろうね」
 俺の言葉に彼女は上靴も履かずに無言でローキックをかましてきた。
「冗談だよ。多少は寂しいかもね」
「あっそ。じゃあね」
 彼女は拗ねたように言ってそのままその場を立ち去ってしまった。
 少しやり過ぎたかもしれないが、彼女とのこれからを考えればこれくらい、と思っていた時、約束を思い出した。
 桜が散っても死にたかったら殺すという約束だ。
 そう、俺達には時間がなかったんだ。
 救うと意気込んではいるものの、死んでしまう、いや、殺さなければいけない可能性があるというだけで俺の気は休まらなかった。その事実を思い出したのだ。
 教室にたどり着き、拗ねたように窓を眺める彼女に俺は声をかけた。
「なあ」
「何」
「ごめんね」
 俺の真剣な声色に驚いたのか、彼女は目線をこちらに向けた。
「やだ」
 しかし、どうやらそんな程度で許されるなんてことはなかったようだ。
「もうクラス替えだな」
 これは何も無かったかのようにそう話してみた。しかし、彼女から返ってきたのは「うん」というたった一言だけだった。
「ごめんね」
「別に、もう気にしてないよ」
「じゃあ何でそんなに不貞腐れた態度なの?」
「何でもない」
 そんな会話をしているうちに、チャイムの音が鳴った。こんなにこの音を聞きたくなかったことなんて今までにあっただろうか。
 辺りには「いよいよだな」「クラス変わってもずっと友達だよ」なんて声が響いていた。
「よーし、クラス替え発表するぞー」
 そんな担任の手には巻物のように巻かれた大きな紙が握られていた。
「一人ずつ読み上げるのも面倒だし、黒板に貼っておくから各自見て移動するように」
 担任の言葉に、クラスメイトは一斉に立ち上がった。混雑する黒板前で、俺は何とか自分のクラスを把握した。ついでに、ルナのクラスも。
 俺たちのクラスは別々だった。
 俺は隣に立っていたルナに声をかけた。
「なあ」
「何?」
「桜、見に行こうか」
 俺の言葉に彼女は目を見開いてから「うん!」と元気よく返事をした。
 俺達の会話にクラスの男子の一部がざわついていたのを感じたが、気のせいだと思うことにした。
「あーあ、クラス離れちゃうんだなー」
 彼女は思い出したかのようなタイミングでそう言った。
「帰りくらいなら送ってあげるよ」
 俺の言葉に彼女は「え!いいの!」と嬉しそうに言ったあとに「いやでも申し訳ないなー」と悩み始めた。
「まぁ毎日とは言わないけどね。あと、昼休みも話そうと思えば話せるだろうし」
「そうだね!それならあんまり寂しくないかも!」
 彼女は何かを誤魔化すように明るく笑顔を貼り付けているように見えた。
 笑顔を浮かべているのではなく貼り付けていると感じるのは出会ったばかりの頃以来だった。
 その光景に俺は二つの意味でため息をつきながら彼女の方に手を伸ばした。
「えっ、あっ」
 俺の思わぬ行動に彼女はそう声を上げた。
 俺の手は彼女の髪に、頭に触れていた。学校でこんなことをすれば殺し屋が一般人に殺される珍事が起きるなどと言っておきながらだ。
「大丈夫、ルナは一人じゃないよ」
「うん」
 彼女は俺の言葉に微笑みながら言った。
 そんな彼女の顔からはまるで仮面が外れたように貼り付けられた笑みなんてもう消え去っていた。
 幸いなことに、多くのクラスメイトは既に教室を出ていたし、残っていた生徒もほとんどが黒板に貼られたクラス表を凝視していたおかげで、俺が殺されることはなかった。
「さて、じゃあまたな」
 俺はそう言って彼女の頭から手を離した。
「うん、またね」
 後ろを振り返ることはせずに教室を出たが、彼女は一体どんな表情をしていたのだろうか。
 新しい教室にたどり着き、黒板に貼られた座席表を見て席に向かった。
 俺の座席は最前列の黒板前という俺の望みとは遠くかけ離れたものだったが、仕方なく着席した。
 新しいクラスでの日々はごく普通に過ぎていった。
 二年生に上がったのだからきちんと授業を受けて、でもやっぱり面倒でたまに授業をサボって。時折階段の踊り場でルナと遭遇して、数時間分授業を一緒にサボったり、たまに彼女と一緒に帰ったり。新しい友人はできなかったけれど、かなり平和に時間が過ぎていった。
 だからこそ、俺は何もかもを忘れてしまいそうになっていた。そんなある朝、薄紅梅色の吹雪が舞い始めた。
 時々花弁の一枚一枚が頬に当たって少しくすぐったい。
 俺は少し不思議な気持ちで放課後を迎えた。
 そして、俺達は今二人でバスを待っている。人通りの多い大きな通りに位置するバス停で、まるで二人だけの世界を築くように手を繋いで、バスを待っている。
「ねえ」
 彼女は神妙な面持ちで口を開いた。
「何?」
「何で、誘ってくれたの?」
 彼女は申し訳なさそうな顔をしながら言った。
「なんでだろう。なんとなくそうしたほうがいいと思ったんだ」
 彼女と共に見るのはこれで最初で最後になるかもしれない春を告げる自然の鐘を、俺は彼女と一緒に見たかった。
 そして、覚悟をしたかった。俺の願いが叶わなかった時、彼女を殺す覚悟を。
「そっか。バス、乗り間違えないでよ?」
「ずいぶん他力本願だね。まだ貸しがあったかな?」
 右目が前髪で覆われた俺の視界には、太陽に照らされて紺青色のほうが強く輝きを放っているネックレスを身に纏った彼女の姿があった。
「うーん、そうだな」と悩んでから、彼女は思いついたように「あっ」と声を上げた。
「ヘアピン、持ってる?」
「うん、持ってるよ」
 俺は彼女の言葉に肩から下げられたショルダーバッグの中から雪模様のヘアピンを取り出した。
 すると、彼女は俺からヘアピンを半ば強引に奪い去り、周りの目なんて気にせずに俺の前髪をいじり始めた。
「どうせ君、ヘアピン付けれないんでしょ」
「う、うん」
 そんな話をしているうちに、彼女はあっという間に俺の視界を広々としたものにさせた。
「やっぱこっちのほうが格好いい!はい、これで貸し一つね」
 彼女は気持ちがいいほどの笑みを浮かべながらそう言った。どうやら、彼女の笑顔に弱いのは本当に変わらないらしい。
「承知しました。それでは本日もエスコートさせていただきます」
 俺はそう言って背中に左手を付け、彼女に右手を差し出した。
「苦しゅうない」
 彼女がそう言って俺の手を取った時、ちょうどバスが到着した。
 乗り間違えていないか少し不安に思いながらバスに乗車し、適当な席に座る。もちろん、景色を楽しんでもらうために彼女が窓側だ。
 俺達は会話もなくぎゅっと手を握りしめた。
 沈黙を全く苦に思わないどころか、落ち着きを感じ始めているのは一体なぜだろうか。
 それからしばらく景色を眺めているうちに、「間もなく、モエレ沼東口です」とアナウンスが入った。
 俺はあらかじめポケットに突っ込んでおいた小銭を取り出し、空いている方の手で握り締めた。
 彼女も俺のそんな様子につられて、腹に抱えたリュックから片手で財布を取り出した。
 繋いだ手を離してしまえばきっと小銭も取り出しやすいはずなのに、それでも彼女は俺の手をぎゅっと握りしめながら小銭を取り出し、財布をリュックにしまった。
 それから少し経って、車内の揺れが収まり、扉の開くしゅこーという独特な音が鳴った。
 俺は彼女の手を引いて出口まで向かった。
 小銭を投入口に適当に入れながら車内の階段を降り、地面に足を下ろした。
 少しだけまだ身体が揺られているような感覚に襲われながらも、道を歩いていく。
 もちろん、隣には緊張しているのかより強く手を握りしめる彼女がいる。
 しばらく歩いて、橋にさしかかった。この橋を越えればモエレ沼公園だ。
「わあ!川だ。綺麗」
 彼女は手を離して橋の中心まで走り、川の方に身体を向けた。
 塀に両手をつけてワクワクに満ちた笑顔を覗かせる彼女の顔は、まさにあどけないという言葉が相応しいだろう。
 そんな彼女のそばに駆け寄り、俺も川を眺めてみる。
 そこに広がっていたのは、俺たちを照らすことに少し疲れを覚え始めた頃だろう太陽にしっかりと照らされ、水面が揺れるたびにそれと連動して光がピカピカと動く、確かに綺麗な川だった。
 左手にはガラスのピラミッド、正面には広々とした空間が遥か先まで見通せるほど広がっていて、ほうきでさっと掃かれたように広がる雲は、季節の変わり目を感じさせる。
 彼女はしばらくその景色に見入った後、何かを決心したように身体の向きを園内へと変更した。
 身体の向きを変えただけで、決して歩き出さない彼女に違和感を覚えていると、彼女が「んっ」と言って左手を差し出した。
「ちゃんと言葉にして伝えてくれないとわからないよ」
「言葉にされなくても分かってよ」
「今日だけだよ。それでは、お手を拝借」
 俺の言葉に彼女は満足げに大股で歩を進めていった。
「さて、まずはどうする?もう桜見る?」
 俺の問いに返ってきたのは想像通りの言葉だった。
「ううん!まずはガラスのピラミッドに行きたい」
「そこ、ポテトとアイスが美味しいんだよ」
 彼女の言葉を予想していた俺はそう即答した。
「まだちょっと肌寒いしアイスはいいや」
「じゃあポテトでも買ってあげようか?」
「ううん。ただピラミッドの中を見るだけで十分だよ」
 それならと俺達はガラスのピラミッドへ足を運んだ。
 真っ白な地面に、ガラス越しに空色の壁が広がっているその光景は、美しいの一言に尽きるものだった。
「わあ!すごい、すごいね、光くん」
 彼女は広場の中央でくるりと一回転しながら言った。
「周りのお客さんの迷惑にならないようにな」
 俺の言葉に彼女はもちろんと言いながらまるで子供のように辺りを見回していた。
 そんなところもやっぱり可愛いななんて思いながら俺は近くにあったベンチに腰を下ろした。
 折角彼女がはしゃいでいるのだから、写真に収めておかないと損だと思い、俺は携帯を構えた。
 しっかりとシャッター音は消して、静かにシャッターは切られた。
「光くん!」
 彼女の呼びかけに俺は慌てて携帯を下げ、「何?」と返事をする。
「満足した!」
 随分早い満足に本当に子供みたいだなと思いながら腰を上げ、彼女に近づいて手を取った。
 ガラスのピラミッドを出て俺達が次に向かったのは、サクラの森だ。
 文字通り、桜が咲き誇っている場所で、モエレ沼の春といえばここと言えるほどの名所である。
 サクラの森に着くと、薄桜色と鴇色の並木道が俺たちを歓迎した。
「綺麗!」
 彼女がそう言うと、まるで彼女が来ることを待っていたかのように風が吹いた。
 春を感じる少し暖かな風は、とても心地の良いものだった。
 汚れを知らない彼女達は、舞って舞って、舞い散った後無情にも踏まれていく。
 並木道を抜けると、様々な遊具のある広場にたどり着いた。
 大人や子供が年齢を問わず楽しそうにはしゃぎ回るそこは、桜色に囲まれていることも相まって、まさに桃源郷と言えるだろう。
 俺達は颯爽と広場を抜け、桜と緑に包まれた空間を訪れた。
 少し背の高い草は、やっと履くことができたスニーカーの背丈を超えて俺達の足首をくすぐってくる。
 しかし彼女はそんなことはお構い無しというように笑いながらそこら中を駆け回っていた。その様はまさに運命の王子にでも連れ出された囚われのお姫様でも見ているかのようだった。
 白色のワンピースを身に纏った彼女は桜との相性が良く、本当に桜のお姫様のようだ。
 風が吹くたびに彼女は「少しも寒くないわ!」と言って風向きに合わせて手を上げ、あたかも自分が桜吹雪を操っているかのように見せた。
 そんな彼女の姿をしっかりと写真に収めながら、俺は彼女について回った。
 数分、あるいは十数分ほどはしゃぎ回った後、彼女はふと我に返ったようにピタッと立ち止まった。
 周りの木々からは孤立した、一本の太い桜の木に彼女は手を伸ばした。
 幹に触れ、まるで慰めるように優しく撫でる彼女の姿は、豊穣の女神のようだった。
 でも、彼女は一人の人間だ。この世で彼女にしか味わうことのできない苦しみを抱えた、たった一人の女の子だ。
「ねえ」
 彼女は静かにそう声を発した。
「何?」
「この花が全部散ったらね、私は死んじゃうんだ」
 彼女が口にしたのは、どこかの物語で耳にしたことのあるフレーズだった。
「なんてね」なんて言葉が聞こえてくることはなく、彼女はただ一人で幹を眺めていた。
 彼女の本心、それどころか表情すらわからない俺には、なんて声をかけていいのか分からなかった。
 いっそのこと生きようなんて言葉をかけられるほど、俺は彼女と話ができていない。
 俺は彼女のことをまだまだ何も知らなかった。そのことを改めて実感した。
「なあ」
 色々考えた末に、俺はそう言葉を発した。
「何?」
「この花が全部散ったら、俺は君を殺すんだ」
 本心、とはもはや言い切れない言葉だった。
 でも、俺は彼女に本音を話すことができない。愛しているから生きてほしいなんて無責任な言葉を俺は彼女に伝えることができない。
 彼女はふふっと微笑みながら振り向くと、どこからともなく舞ってきた桜吹雪が彼女を覆った。もしくは、俺の両目が覆われたのかもしれない。
「―」
 彼女は小さく何かを呟いた。でも、その呟きは俺の耳に届くことも、目に入ることもなかった。
 彼女が一体何を言ったのか、何を思っていたのかすらも、この時の俺には分からなかった。
 それを聞く勇気すら、俺には起きなかった。

 でも、今の俺には分かる。彼女が何を言おうとしたのか。
 それは―

 君の命の花が散る頃に、俺は呼び出された。普段は閉鎖されているはずの屋上に。
 いつかと同じ部活動休養日の学校は、窓から差し込む夕陽によって照らされていた。
 最上階の隅にある古びた金属製の扉に手をかけた。
 開かないことを期待しながらドアノブを捻るも、カチャッと音を立てて扉は開いた。
 小さな足跡だけが付いた薄暗く小汚い階段を登る。
 屋上に続く扉の小窓から入る暖色の光は、小さな埃の粒を扇形に映し出している。
 階段を登り切り、屋上へ続く扉に手をかけた。
 バクッバクッという音が耳に届くほど、心臓が大きな音を鳴らしている。
 怖い、逃げたい。そんな気持ちが頭の中を支配していく。それでも、俺の心はそれを許さなかった。
 そして、俺は扉を開けた。
 落下防止柵なんてものはなく、開けた視界を向日葵色の空が覆っている。
 左手には太陽が沈んでいるのが見えて、右手には人影があった。
 過酷な環境下でも毎日必死に手入れしているであろう髪は、太陽の光をしっかりと反射し、オレンジ色に光っている。
「来ないかと思ったよ」
 彼女は振り返ることもなく穏やかな声でそう言った。
「じゃあ、早速用件を言うね」
 この言葉に、俺は聞き覚えがあった。
 次に放たれる言葉にも、見当がつく。
「君、私のこと消してよ」
「…」
 彼女の言葉に俺が真っ先に返したのは沈黙だった。
「私のことを消してって言った?」
「…うん」
「分かった。君を殺すよ」
 俺はそう言って屋上の端に佇む彼女に近づいた。
 俺が彼女に手を伸ばした時、彼女が思い出したように言った。
「あ、そうだ。これだけは伝えておかないとね」
「何かな?」
「私、君と一緒なら生きてもいいと思ったよ。でもね、私はずっと一緒なんて言葉を信じられないの。だから私は幸せなうちに死にたかったんだ。だから、君が君の手で私を幸せにしてくれている間に、君が、君の手で私を殺して」
 ようやく彼女の本音が聞けたと思った。
 でも、それはもう俺にとっては遅かった。
 今更生きてもよかったなんて言われても、もう俺には彼女を殺すことしかできない。
「うん、任せて」
 彼女は俺の言葉に肩を震わせ始めた。そして、そんな自分を落ち着かせるためか何なのか、深く息を吸って吐いてを繰り返している。
「最期に何か言い残すことは?」
「光くんのこと、愛してる」
 そう即答した彼女の瞳から、涙がこぼれ落ちたことを俺は見逃さなかった。
 俺は手を伸ばした。
 両手を彼女の背中に当てた。このままぽんっと押してしまえば彼女は真っ逆さまに落下するだろう。
「あっ」
 彼女は声を上げた。
「俺も、君を愛してる」
 俺は彼女を強く、殺してしまうんじゃないかと思うほどに抱き締めた。
「なん、なんで」
 彼女は困惑したように、怒ったように言った。
「何でって何?」
「だって、君は私が何を言っても絶対に殺すとしか言わなかった。だから私は覚悟してた。幸せな死を覚悟してた。なのに、なのに何で君は私を抱き締めてるの!!」
「ごめん。それは俺が悪かったよ。でも、本心で話すのが怖かったんだ。俺は大晦日の夜からずっとこうしたいと思ってた。もちろん、君がそれでも死にたいというのなら俺はしっかりと君をここから突き落とすよ」
 俺の言葉に彼女は俺の腕をガシッと掴みながら言った。
「じゃあ、君の本心は何なの?ずっと一緒にいるとか、永遠に君を愛するとか、そんな言葉を言うの!?」
 彼女にとってその言葉はきっといつか解ける魔法のようなものなんだろう。だから俺はそんな事は言わない。
「君を、一生殺し続けるよ」
「え?」
「消えたいと思う君を、死にたいと願う君を、僕はずっと殺し続ける。もし殺せなくなったら、その時は必ず僕が君をここから落とす」
「僕は、一生君だけの殺し屋だ。君だけを殺し続ける。だって、報酬も約束されているしね。ただ働きってわけじゃないし、今まで君を粗末に扱ってきた連中よりは信頼があるんじゃないかな」
「でも、もし仮に私のことを殺し続けてくれるとしても、それを続ける限り報酬は支払えないよ」
「じゃあ、先払いしてもらおうか」
「えっ―」
 僕は彼女の唇を奪った。
「んっ」
 彼女は目を見開いた後、目を閉じた。その目からは、涙が滴り落ちていた。
 プルプルと震えていた彼女の身体も、手も、唇も、瞳も、次第に大人しくなっていった。
 何秒、何十秒、何分間キスをしていただろうか。俺達は自然と距離を取った。
「困ったな、こんなんじゃ支払い切れないよ」
 彼女はそう言って笑ってみせた。
 そんな彼女には既に生きる希望があるように見えた。でも、まだ足りない。
「なら、もう一つ先に支払ってもらおうかな」
「何?」
「君の一生を俺にくれないか?」
 彼女は目を見開いた。混乱しているように。でも、そんな彼女の瞳はすぐにキラキラと輝いた。
「そんなことでいいの?」
「あぁ。それに、それが報酬なら俺はずっと君のそばにいなきゃいけなくなるだろ?」
「何その言い方。私と一緒にいたくないの?」
「ううん。ずっと一緒にいたいよ」
「信じられないかも」
 彼女はそう不安そうに言った。
 これは失敗したと思った俺は、すぐに挽回することにした。
 俺は再び彼女の唇を奪った。
 先程よりも潤った唇は、俺の唇を快く受け入れてくれる。
 しばらくの間抱き締めあった後、俺たちは距離を取った。
「これで信じてくれるか?」
「私、馬鹿だから君のことほんとに信じちゃうよ?」
「うん」
「浮気したら突き落とすよ」
「うん」
「私、重たいよ」
「うん」
「私、世界で一番君のことが好きだよ」
「うん、俺も好きだよ」
 俺の言葉に彼女は俺に飛びついた。
 不意を突かれた俺は尻餅をつくが、そんなことは気にも留めずに彼女を抱き締め返した。
 俺はこのときこの瞬間に、消えたい君を殺した。そして、これからも何回だって殺してやると誓った。
 夕陽に染まる目も、涙の筋も、彼女の全てを俺は愛すると誓った。
「ねえ」
「何?」
「ありがとう、光くん」
 彼女は今まで見たどんな笑顔よりも素敵で綺麗な満面の笑みを浮かべていた。
 次は泣かせないという誓いを果たすことはできなかったけれど、これは不可抗力というやつだろう。
 これからの長い人生で、一度も彼女を泣かせなければいい。ただそれだけの話だ。
「ルナ」
「何?」
「愛してる」
「私も愛してる!」
 俺は、君の命の花が散る頃に、消えたい君を殺した。
 そして、これからも―。