エスカレーターを登ると、辺りには轟音が響いていた。
平日の日中、それにクリスマスシーズンということも相まって、聞こえてくる話し声はどれも日本語ではないものばかりだった。
それらは、俺達の緊張感をこれでもかというくらいに高めると共に、みんなが学校に行っている時間から旅行に行く自分達に背徳感を感じさせた。
「地下鉄以外の電車、初めて乗るから緊張する」
彼女の言葉に、何の合図があるわけでもなく俺は彼女の手を握った。お互いにお互いの不安を解消するためだ。
きっと、他意はないはずだ。
異性と手を握るというのは、普通に考えればより緊張しそうなシュチュエーションだが、俺はなぜか落ち着きを感じていた。
「俺も間違った電車乗らないか不安だ」
俺の言葉に彼女はふふっと笑って「エスコートしてよ」と言った。まるでデートのようだ。
呼吸をする度に、白い息が吐き出される。まだ駅構内だというのにも関わらず、俺は寒気を感じていた。
「寒いの?」
俺の手の震えを感じたのか、彼女がそう言った。
「まぁ、少しだけ」
俺の言葉に彼女は黙り込んだ。俺は嫌な予感がした。きっと何か企んでいると思った。
そして、その予感は的中した。
「ふうー」
俺の耳元に、温かい風が送られた。それと同時に、彼女が吐き出したであろう息が視界に入る。
「うっ」
俺がそう声を上げると、彼女は微笑みながら「温まった?」と言った。
「なあ」
「何?」
「心臓に悪いことはやめてくれ」
「ふふっ、それ前も聞いたー」
そんな他愛ない会話をしながら、電車の到着を待った。
それから数分経って、「お待たせしました」とアナウンスが入った。どうやらいよいよ乗車の時間ようだ。
お互いにお互いを握る手の力がぎゅっと強くなる。
電車に乗り込み、適当な席に座った。
それから間もなく、電車が発車し、身体が後ろに引っ張られる。構内から出た電車は、陽の光を大量に取り込み、ピカピカと照らされる。
太陽に照らされる雪に染まった街並み、群青色に光る空。流れ行く景色は、まるで何かの映画のワンシーンのようだ。
そんな景色を眺めながら、俺達は手を繋いでいた。
周りの聞き取れない話し声だけが響く車内で、俺は思考を巡らせる。
俺はあの時「愛してる」と伝えた。それは間違いなく、告白と捉えられるものだ。だが、俺たちの関係は変わっていない。殺し屋と依頼主、もしくはターゲットのままだ。この関係はきっと、一生変わることはないだろう。
変わってしまえば、俺は彼女を殺すことができなくなる。
彼女はきっとまだ迷っている。生に希望を見出すのか、死に希望を見出すのか。彼女が迷っている以上、俺はいつでも彼女を殺せなくてはならない。
「綺麗だね」
流れ行く景色を眺めながら、彼女はぼーっと呟くように言った。
「そうだね。でももう少し進んだら海も見えるよ」
「海!初めて見るなぁ、楽しみ!」
そんな会話に俺は、きっと幼い娘を旅行に連れて行ったらこんな反応をするのだろうなと何となく思った。
「俺も海は何回かしか見たことないから楽しみだよ」
それから特に会話もなく、俺達は辺りの喧騒に身を隠すように沈黙した。
「ねえ」
そんな沈黙を切り裂くように、彼女は声を上げた。
「何?」
「これからも、君は私と一緒にいろんなところを見に行ってくれる?」
彼女がそう問いを投げかけたとき、外から微かに踏切の音が聞こえてきた。その音も、流れるように一瞬で聞こえなくなってしまったけれど。
これからも、その言葉は彼女にとっては常人の何倍も重たい言葉だろう。
未来を嘆く彼女にとって、未来を語ることは、生きたいと言っているようにも聞こえる。
「うん。何度だって、どこへだって一緒に行くよ」
「そっか、ありがとう」
彼女はそう言って微笑みを浮かべ、外に顔を傾けた。彼女のそんな微笑みは、本心の読み取りにくいものだった。
それからしばらく経って、彼女があっと声を上げた。
建物がなくなり、辺りには海が広がったのだ。
縹色の水に、群青色の空、まるで地上にも空にも海が広がっているようだった。
地平線に広がる真っ白な雲は、世界の広さを実感させ、何段にも連なって押し寄せる波は、音こそ聞こえないものの、まるで海のそばにいるような感覚にさせる。
「綺麗」
彼女は漏らすように声を上げた。
俺達はこの頃にはもう緊張も背徳感も忘れて、ただひたすら景色に魅入っていた。
それからしばらく海を眺めて、やっと小樽の景色が見えてきた。
「大変お待たせいたしました。終点、小樽です」
アナウンスで皆が下車準備を始める。それに乗じて、俺たちも忘れ物がないかをしっかり確認する。
身体が前に引っ張られ、扉が開く。そして、人々が次々と降りていく。俺はルナよりも先に立ち上がり、手を差し伸べる。
彼女は俺が差し出した手を掴み、立ち上がった。俺達はそのまま手を繋ぎながら駅構内を歩いていく。
改札を出て、たくさんのガラス細工に飾られた出入り口をくぐる。
左右にはマンションやビルが綺麗に一列に立ち並んでいて、正面には海が見えている。俺たちはまず海の方へ歩を進めた。
巨大な交差点で人だかりに飲まれながら、はぐれないように手をぎゅっと握る。人だかりを抜けてもなお、手は握られたままだった。
雪に飾られた街をしばらく歩き、観光地として有名な旧手宮線があるはずの場所にたどり着いた。
はず、なんて言い方になるのはそこには雪が積もり、子供達の遊び場と化していたからだ。
「雪がないと結構いい場所なんだよ」
なぜここに連れてきたの?という様子の彼女にそう声をかけると、彼女はまるで母親のような笑みを浮かべ、子供たちを見守りながら「これもこれでいい場所だけどね」と言った。
「さて、行こうか」
俺がそう声をかけて身を翻すと、彼女が俺の手を離した。なぜ手を離したのか、なんて答えは問いかけるまでもなく分かった。
「えい!」
彼女は手を真っ赤にしながら雪玉を握り、俺に投げつけた。
「お前、やったな」
そう言って俺もすぐにその場にあった雪をつかみ、彼女に投げつける。
「あは!あはは!」
本当に、彼女は何も知らない子供のように笑う。そんな様子を間近で見れることが、俺は何よりも幸せだった。
はしゃぎまわって腹をすかせた俺たちは、堺町本通りに足を運ぶことにした。
「さて、何食べる?」
俺の言葉にルナはうーんと唸って少し考えたあと、閃いたように言った。
「あっ、まずガラス細工が見たい!」
「了解、すぐ近くにあるから行こう」
そう言って俺はお楽しみの小樽運河を先に見ないよう裏道を通って目的の場所へ向かった。
古い木の看板に「小樽大正硝子館」と書かれた古風な建物にたどり着いた。
俺は、木のスライド扉を開けて中に入る。
中に入ると、店員の代わりに季節外れのチリンチリンという風鈴の音が俺達を歓迎した。
「わあ!綺麗」
そういった彼女の目線は一箇所に留まってはいなかった。様々な色、模様のガラス細工を見て、子供のように店内をはしゃぎ回る彼女の後ろをついて、俺も店内を巡る。
まるで舞を踊るかのように店内を歩いた彼女は、不意に立ち止まった。そんな彼女の目の前にあったのは、角一輪挿しだった。
「これ良いなぁ」
彼女はそう言って目を輝かせる。俺はその様子に値段を確認してみる。すると、そこに書かれていたのは二千二百円という文字だった。ガラス細工にしてはかなり値が張るが、彼女が欲しいなら買ってあげたいと思った。
「欲しいの?」
「うん」
彼女は儚げな表情を浮かべながら言った。きっと自分の財布では手が届かないのだろう。
「買ってあげようか」
「いいよ、だってどうせ壊されるし」
彼女の表情の理由は値段でも何でもなかった。その理由は、ただひたすらに悲しいものだった。
「そっか。ならいつか買いに行こう」
「うん」
そして俺は彼女の表情も確認せずに店の外に出た。自分の放った言葉にも意識はしていなかった。
堺町本通りの方に少し歩くと、凍った川があった。川の上にはキャンドルが吊るされていて、きっと夜になれば綺麗なのだろうなと思った。
「ねえ、写真撮ろ」
彼女の言葉に俺は少し疑問を感じた。
「いいのか?凍ってるし、いい画にはならないだろ」
「君と二人なら、どこだっていい画だよ!思い出作りに!」
彼女の言葉に俺は「そっか」とだけ言って凍った川を背景に携帯を構えた。
「ほら、隣こないの?」
「いく!」
彼女はそう言って笑顔を浮かべながら俺の隣まで歩いた。
パシャッとシャッター音が鳴り響き、カメラに俺たちの顔が収められた。
彼女は満面の笑みで、俺は少しぎこちない笑みで笑っている写真が撮れた。
「後で共有してね!」
彼女はそう言って歩き出した。
俺たちが次に向かったのは、「小樽出世前広場」だ。かなり美味しい食べ物が買える場所なので、中学生の頃自主研修でも足を運んだが、彼女はどうだろうか。
「来たことある?」
「ううん、そもそも私、小樽来たことないから」
俺の問いかけに帰ってきたのは、想像もしていなかった答えだった。
「自主研修とかで行かなかったのか?」
「自主研修かぁ。行ってないんだよね。お金出してくれなかったから。だから今日は私の人生貯金が火を吹いてるよ!もう三割くらいなくなったけど」
まだ片道分の交通費しか使っていないのに人生で貯金した額の三割が持っていかれている。その事実に俺は驚愕した。
「食べたいもの言って。俺が買うから」
「え、いや、申し訳ないよ」
「いいから、言って。今日だけはルナに贅沢して欲しい」
「でも」
「消しゴムのときの借り、これで返したいから」
俺の言葉に彼女はふふっと笑って言った。
「なにそれ、全然釣り合ってないじゃん」
と。確かにそうだ。だが、それでいいんだ。
「あの時、実は消しゴムの角使ったんだ」
「え!それなら話は別だよ!しょうがない、今日一日私にお金を使いなさい!」
彼女は納得したように、半ば諦めたようにそう言った。
「承知しました」
そして、俺達は列に並んだ。前の人が注文している間に、俺達はでかでかと飾られたメニューを眺める。
「何がいい?」
「うーん、オススメは?」
「カリカリじゃがバターチーズスティック」
「じゃあそれ!」
彼女がそう宣言したとき、狙いすましたかのように店員から「次の人どうぞー」と声がかかった。
「カリカリじゃがバターチーズスティック一つください」
「トッピングは何にしますか?」
「ケチャップで」
俺の言葉に店員は「かしこまりました」と言って、後ろにいた店員に「じゃがバタ一本」と伝えていた。
「一本?」
彼女は訝しむように言った。
「あぁ、俺は外でご飯食べれないんだ。なんか焦っちゃって吐き気するから」
俺の言葉に彼女は「ふーん」と不満げに声を上げた。何やらまた嫌な予感がするが、気のせいだと思いたい。
「じゃがバターのお客様」
数分待っているとそう言って注文の品が出された。
品物を受け取り、店の横にあった食事スペースに腰を下ろした。
寒い冬の中で蒸気を上げる袋に包まれたそれは想像の二倍くらい長かった。五十センチはあるだろうか。それは、外食が苦手な俺でも一口くらい食べたいと思わせるものがあった。
「はい」
そんなことを考えていると、彼女がそう言ってそれを俺に差し出した。
「ん?」
「ん?じゃないよ!一口あげる」
彼女はそう言って更にこちらにそれを近づける。
「一口くらいなら食べられるでしょ?どうぞ」
そう言って彼女は袋からそれを一口分引っ張り出し、俺の口元まで近づけた。
「いや、あの」
「この前私にもしたよね、はい、あーん」
「あ、あーん」
俺は勢いに負けてそれを頬張った。
春巻きのようなサクサクの生地に、じゃがいもの新鮮な味わい。それをチーズとケチャップが引き立てている。
「どう?美味しい?」
「おいひいれす」
「ふふっ、喋れるようになってから言いなよ」
彼女のその言葉に俺は急いで口の中に入ったそれを噛み砕き、飲み込んで言った。
「ルナが聞いてきたんだろ」
「知らなーい」
そんな会話をしながら、彼女は俺が食べたあとのそれを自分のもとに戻し、大きく口を開けた。
分かってはいたが、間接キスというやつだ。意識しないわけないが、彼女が気にしていない素振りを見せるものだから、俺もそれに合わせて平静を装う。
「うん、おいしいね」
「うん」
俺の目線は自分の手元を映していた。その様子を見た彼女は小悪魔のように微笑み口を開く。
「え、何?意識しちゃったんだ〜」
「断じて違う。ほら、ゆっくり食べろ」
「そこはさっさと食べろとかじゃないんだね」
そんな会話をしながら、彼女は着々と食事を進めていく。五十センチほどあったそれは、気が付けば最後の一口になっていた。
「はい、どうぞ」
彼女はそう言って袋から残ったそれを取り出し、手で掴んで俺の口元まで持ってくる。寒さのせいか、その手は少し震えていた。
ここで躊躇してはまた煽られると思った俺は、堂々とそれを口で受け取った。
「よしよし」
彼女はそう言って俺の前の空気を撫でてみせた。
「俺、犬じゃないんだけど」
「じゃあ猫」
「ペットじゃないって」
そんな会話をして、俺たちは席を立った。
「次はどこ行くの?」
「お土産買いたいからこのまま堺町を進もう」
彼女の問いに俺は即答し、歩き始めた。
観光名所ということもあり、街並みは小樽独特の美しさを醸し出していた。
石造りの洋風、和風の建築に、古き良き木造建築。まさに和洋一体と言えるその光景は、一度目にしたことがある俺にとっても綺麗なものだった。
家族用の土産を買うために、いくつかお菓子屋を巡ったあと、ふと目に入ったアクセサリー店に足を運んだ。
「私も色々見てくるね」
彼女はそう言って俺から離れた。
彼女に何か買いたかった俺にとってそれは好都合だったので、俺はそれを快諾した。
彼女に似合うアクセサリー、イヤリングがいいだろうか、ネックレスがいいだろうか。
彼女は顔立ちは整っているし、わざわざ顔を着飾る必要はないと考えた俺はネックレスを選ぶことにした。
そんな俺の目についたのは、二千円と少し値は張るものの、薄花桜色と紺青色が混じり合って輝くネックレスだった。
どうやら光に当たると綺麗に輝くダイクロガラスというものが使われているらしい。
俺は迷うことなくそのネックレスを手に取り、レジへ足を運んだ。
レジを見ると、彼女が先に並んでいる。どうやら会計が終わった直後のようで、彼女はこちらに向き直り目を見開いた。
「何買ったの?」という俺の問いに返ってきたのは、「内緒!」と言いながら人差し指を口の前に立てる彼女の笑顔だった。
無事にアクセサリーを買い終え、時刻を確認すると、午後四時となっていた。そろそろ日が暮れてきたころだと思い外に出ると、案の定空はオレンジ色に燃えていた。
ここから小樽運河に向かえばちょうど日が落ちる頃だろうか。
「そろそろ行こうか」
俺はそう言って彼女に手を差し出した。
「うん」
彼女は俺の言葉にそう返事をして俺の手の上に手を乗せた。俺は乗せられた手をぎゅっと握りしめ、歩き出した。
先刻まで真っ白だった世界は、まるで絵の具をこぼされたようにオレンジ色に染まっていた。
彼女の頬が赤く染まっているのも、その影響だろうか。
来た道を戻り、小樽運河を目指していると、来た当初に写真を撮った凍った川が見えた。
日没によって眠るはずのそれは、照り輝いていた。
数多くのキャンドルが光り、その光を氷が反射し、まだ微かに明るい空と光の強さを競い合っている。
「綺麗だね」
彼女は俺の手を強く握りながら言った。
この旅行も終わりが近づいてきたということを実感したのだろうか。
「そうだね」
俺はそう一言だけ言って、彼女の手を強く握り返した。それに呼応するように、彼女の手の力も強くなる。
「写真撮るか」
「うん」
彼女は微笑みを浮かべながら俺の隣でピースサインをしてみせた。だが、その表情はどこか寂しそうだ。
「なあ」
「何?」
「四引く二はー?」
「にー?」
彼女がそう口を開いた瞬間を狙って、俺はシャッターを切った。
「あ!ちょっと、今の消して、絶対変な顔してるから」
そう言って彼女は俺から携帯を奪おうとする。俺は携帯を奪われないために背伸びをしながら携帯を空へ伸ばす。
「嫌だ、いい写真だから」
「だめ!ちょっと―」
そう言って彼女が跳ねたとき、彼女は前のめりに転倒した。雪で滑ったのだろう。
俺は慌てて彼女を受け止める姿勢を取った。
「うわ」
「きゃっ」
俺は大の字になって彼女の下敷きになった。
「無事?」
「うん、光くんこそ」
そう語る俺達の距離は、今までに無いほど近かった。少しでも顔を動かせば唇と唇が当たってしまいそうな、そんな距離。
不思議と心拍数は上がらない。ただ目の前にある彼女の顔を見つめ、同様に彼女に見つめられる。
しばらく見つめ合った後、俺達は自然と距離を取り、立ち上がった。
人の下敷きになったのだから、多少身体は痛むものの、地面に雪が敷いてあったお陰か、すぐに立ち上がれるほどの痛みだった。
彼女も俺に続いて立ち上がり、小樽運河へと歩を進め直した。
小樽運河の橋の上に着くと、既に日はほとんど落ちていたが、まだイルミネーションのライトアップはされておらず、建物から漏れ出る光だけが辺りを照らしていた。その景色は、既にどこか幻想的だった。
俺達のあとに続くように続々と観光客が辺りに集まってきた。もう少し後にたどり着いていたら、いいポジションは確保できなかっただろう。
「早めに着いてよかったな」
「うん」
俺達は手を握りあったまま、周りの人々の声に耳を傾けるだけだった。
「ねえ」
「あっ」
俺達は同時にそう声を上げた。
「光くん、何?」
「いや、ルナこそ何?」
「あ、えっと。渡したいものがあるんだ」
彼女はそう言いながら横髪を指で弄っていた。
「奇遇だね。俺もだよ」
「え、ほんと?」
「うん、本当」
「じゃあ」と言って彼女がポケットに手を突っ込んだ時、辺りがピカッと光った。
その眩しさに思わず目をつぶり、次に目を開くとそこにあったものはまさに神秘的な光景だった。
青や紫を主体とした色合いの電球が運河の周りを形作っていて、水面にはそれらがまるで必死に背伸びをしているかのように映っている。
色を失いかけていた世界が、今この瞬間に色づいたのだ。
「綺麗、だね」
彼女はその光景にまるで言葉を失いかけたかのようにそう言った。
「メリークリスマス、ルナ」
俺はそう言って呆ける彼女の手を離し、一足分距離を取ってから手に持っていた小袋を差し出した。
彼女のほうが先にプレゼントに手をかけていたはずなのに、俺が先にプレゼントを渡すことができたのは、おそらく彼女が心の底からこの景色に魅入っていたからだろう。
「開けてもいい?」
「いいよ」
俺の回答にじゃあ早速という様子で彼女は小袋を開いた。
「わあ、ネックレス?」
「うん、気に入らなかったら捨ててもいいよ」
俺の言葉に彼女は俺を睨みながら言った。
「そんなことしない」
「ごめん」
「いいの。あ、でもせっかくだし許さない」
せっかくだし、という言葉に本日三度目の嫌な予感がしたが、果たして的中するのだろうか。
「何をご所望でしょうか」
「光くんに着けてほしい」
そんなことか、と俺は少し頬が緩んだ。どうやら嫌な予感は外れてくれたようだ。
「承知しました」
俺はそう言って差し出されたネックレスを両手で持ち、彼女の首に手を回す。
ネックレスなど着けたことがない俺は少し不手際な動きになってしまい、何度か首に触れてしまうが、彼女はそれを意にも介さなかった。
「着けたよ」
「うん、ありがとう」
彼女はそう言って胸元に両手を置いた。
俺のあげたネックレスはイルミネーションの光を吸収し、より深い青や紫となって輝いていた。そして、それは彼女もだった。
イルミネーションの光に照らされながら目をつぶり、微笑みを浮かべる彼女はまるで恋愛映画のヒロインのようだ。
「じゃあ次、私の番ね」
その姿に見惚れていると、彼女がそう言って何かをポケットから取り出した。
「はい、これ」
彼女はそう言って俺の手を掴み、取り出した何かを握らせた。
受け取った何かを見てみると、イルミネーションに照らされて少しだけ光を発している。全体に雪の装飾が施された小さなそれは、製作者のこだわりを感じる。
「ヘアピン?」
「うん、光くんの前髪、読書するのに邪魔そうだったから」
偶然にもそれは俺が失念していたことだった。いや、彼女のことだから俺をよく観察した上で生み出した必然なのかもしれない。
「ありがとう」
そう言って俺は早速もらったヘアピンを着けてみる。
すると、俺のヘアピンをつけた姿を見て彼女が吹き出した。
「あはは、何それ」
「変かな?」
「全然ダメ、しょうがないな、私がつけてあげる」
彼女はそう言って俺の前髪につけられたヘアピンを外し、左側に前髪を寄せながら、慣れた手際でヘアピンをつけ直す。
異性に顔を触られるというのは何というか、少しだけ緊張する。その緊張を誤魔化すため、俺は目を閉じた。
「はい、できたよ。髪上げると格好いいね」
彼女の言葉に目を開いた。そこには、普段の二倍以上の視界が広がっていた。彼女の笑顔も、イルミネーションも、周りの観光客の様子だって、いつもよりもずっと見やすかった。
「ありがとう、大切にする」
俺はそう言って体を橋の塀の方へ体を向き直した。それに呼応するように彼女も体の向きを変える。
俺達はお互いを見ることもなく、手を繋いだ。
それは、俺みたいな根暗な人間の人生でこれから先一回あるかどうかも怪しいほど、ロマンチックな手繋ぎだった。
今、この瞬間だけは周りの何もかもがぼやけて、世界のスポットもピントも全てが俺達に当たっているような、そんな感覚がした。
「ねえ」
「何?」
本当に、何度繰り返したかもわからない会話だ。でも、俺達にとってこの会話には特別な何かがあると、何となくそう思った。
「私、生きたいよ」
俺はその言葉に思わず目を見開いた。
彼女の方に目をやると、そこには俺のあげたネックレスを左手で掴みながら涙を浮かべる彼女の姿があった。
「そっか」
俺が今世界で一番喜ぶべき言葉のはずなのに、なんて言葉を発していいのか、俺には分からなかった。
「うん、だって幸せだから」
「それは、よかったよ」
俺がそう言うと彼女は目を閉じた。そして、青と紫の混じった雫をこぼした。彼女のこぼしたそれは、ネックレスと同じ綺麗な色だった。
彼女がなぜ泣いているのか、俺には全くわからなかった。生に希望を見出す事ができたのなら、それは喜ばしいことなのではないのだろうか。
もしかして、彼女は心のどこかではまだ死を願っているのだろうか。俺が与えた幸せが中途半端なものだったから、縛り付ける枷になっただけで、本心では死にたいと思っているのだろうか。
俺には何もわからなかった。だから俺には、彼女の手をぎゅっと握りしめること以外にできることはなかった。
「ねえ」
震える声で彼女は言った。
「何?」
「私も君のこと、世界で一番愛してるよ」
そう宣言した彼女は、とても綺麗な笑顔を浮かべていた。
光に照らされる目元と頬、胸元に当てられた手の真上で光り輝くネックレス。それに加え、今まで浮かべてきた満面の笑みと比べても最高の満面の笑み。
全てが相まって、この瞬間、彼女はきっと世界で一番綺麗な笑顔を浮かべていただろう。
平日の日中、それにクリスマスシーズンということも相まって、聞こえてくる話し声はどれも日本語ではないものばかりだった。
それらは、俺達の緊張感をこれでもかというくらいに高めると共に、みんなが学校に行っている時間から旅行に行く自分達に背徳感を感じさせた。
「地下鉄以外の電車、初めて乗るから緊張する」
彼女の言葉に、何の合図があるわけでもなく俺は彼女の手を握った。お互いにお互いの不安を解消するためだ。
きっと、他意はないはずだ。
異性と手を握るというのは、普通に考えればより緊張しそうなシュチュエーションだが、俺はなぜか落ち着きを感じていた。
「俺も間違った電車乗らないか不安だ」
俺の言葉に彼女はふふっと笑って「エスコートしてよ」と言った。まるでデートのようだ。
呼吸をする度に、白い息が吐き出される。まだ駅構内だというのにも関わらず、俺は寒気を感じていた。
「寒いの?」
俺の手の震えを感じたのか、彼女がそう言った。
「まぁ、少しだけ」
俺の言葉に彼女は黙り込んだ。俺は嫌な予感がした。きっと何か企んでいると思った。
そして、その予感は的中した。
「ふうー」
俺の耳元に、温かい風が送られた。それと同時に、彼女が吐き出したであろう息が視界に入る。
「うっ」
俺がそう声を上げると、彼女は微笑みながら「温まった?」と言った。
「なあ」
「何?」
「心臓に悪いことはやめてくれ」
「ふふっ、それ前も聞いたー」
そんな他愛ない会話をしながら、電車の到着を待った。
それから数分経って、「お待たせしました」とアナウンスが入った。どうやらいよいよ乗車の時間ようだ。
お互いにお互いを握る手の力がぎゅっと強くなる。
電車に乗り込み、適当な席に座った。
それから間もなく、電車が発車し、身体が後ろに引っ張られる。構内から出た電車は、陽の光を大量に取り込み、ピカピカと照らされる。
太陽に照らされる雪に染まった街並み、群青色に光る空。流れ行く景色は、まるで何かの映画のワンシーンのようだ。
そんな景色を眺めながら、俺達は手を繋いでいた。
周りの聞き取れない話し声だけが響く車内で、俺は思考を巡らせる。
俺はあの時「愛してる」と伝えた。それは間違いなく、告白と捉えられるものだ。だが、俺たちの関係は変わっていない。殺し屋と依頼主、もしくはターゲットのままだ。この関係はきっと、一生変わることはないだろう。
変わってしまえば、俺は彼女を殺すことができなくなる。
彼女はきっとまだ迷っている。生に希望を見出すのか、死に希望を見出すのか。彼女が迷っている以上、俺はいつでも彼女を殺せなくてはならない。
「綺麗だね」
流れ行く景色を眺めながら、彼女はぼーっと呟くように言った。
「そうだね。でももう少し進んだら海も見えるよ」
「海!初めて見るなぁ、楽しみ!」
そんな会話に俺は、きっと幼い娘を旅行に連れて行ったらこんな反応をするのだろうなと何となく思った。
「俺も海は何回かしか見たことないから楽しみだよ」
それから特に会話もなく、俺達は辺りの喧騒に身を隠すように沈黙した。
「ねえ」
そんな沈黙を切り裂くように、彼女は声を上げた。
「何?」
「これからも、君は私と一緒にいろんなところを見に行ってくれる?」
彼女がそう問いを投げかけたとき、外から微かに踏切の音が聞こえてきた。その音も、流れるように一瞬で聞こえなくなってしまったけれど。
これからも、その言葉は彼女にとっては常人の何倍も重たい言葉だろう。
未来を嘆く彼女にとって、未来を語ることは、生きたいと言っているようにも聞こえる。
「うん。何度だって、どこへだって一緒に行くよ」
「そっか、ありがとう」
彼女はそう言って微笑みを浮かべ、外に顔を傾けた。彼女のそんな微笑みは、本心の読み取りにくいものだった。
それからしばらく経って、彼女があっと声を上げた。
建物がなくなり、辺りには海が広がったのだ。
縹色の水に、群青色の空、まるで地上にも空にも海が広がっているようだった。
地平線に広がる真っ白な雲は、世界の広さを実感させ、何段にも連なって押し寄せる波は、音こそ聞こえないものの、まるで海のそばにいるような感覚にさせる。
「綺麗」
彼女は漏らすように声を上げた。
俺達はこの頃にはもう緊張も背徳感も忘れて、ただひたすら景色に魅入っていた。
それからしばらく海を眺めて、やっと小樽の景色が見えてきた。
「大変お待たせいたしました。終点、小樽です」
アナウンスで皆が下車準備を始める。それに乗じて、俺たちも忘れ物がないかをしっかり確認する。
身体が前に引っ張られ、扉が開く。そして、人々が次々と降りていく。俺はルナよりも先に立ち上がり、手を差し伸べる。
彼女は俺が差し出した手を掴み、立ち上がった。俺達はそのまま手を繋ぎながら駅構内を歩いていく。
改札を出て、たくさんのガラス細工に飾られた出入り口をくぐる。
左右にはマンションやビルが綺麗に一列に立ち並んでいて、正面には海が見えている。俺たちはまず海の方へ歩を進めた。
巨大な交差点で人だかりに飲まれながら、はぐれないように手をぎゅっと握る。人だかりを抜けてもなお、手は握られたままだった。
雪に飾られた街をしばらく歩き、観光地として有名な旧手宮線があるはずの場所にたどり着いた。
はず、なんて言い方になるのはそこには雪が積もり、子供達の遊び場と化していたからだ。
「雪がないと結構いい場所なんだよ」
なぜここに連れてきたの?という様子の彼女にそう声をかけると、彼女はまるで母親のような笑みを浮かべ、子供たちを見守りながら「これもこれでいい場所だけどね」と言った。
「さて、行こうか」
俺がそう声をかけて身を翻すと、彼女が俺の手を離した。なぜ手を離したのか、なんて答えは問いかけるまでもなく分かった。
「えい!」
彼女は手を真っ赤にしながら雪玉を握り、俺に投げつけた。
「お前、やったな」
そう言って俺もすぐにその場にあった雪をつかみ、彼女に投げつける。
「あは!あはは!」
本当に、彼女は何も知らない子供のように笑う。そんな様子を間近で見れることが、俺は何よりも幸せだった。
はしゃぎまわって腹をすかせた俺たちは、堺町本通りに足を運ぶことにした。
「さて、何食べる?」
俺の言葉にルナはうーんと唸って少し考えたあと、閃いたように言った。
「あっ、まずガラス細工が見たい!」
「了解、すぐ近くにあるから行こう」
そう言って俺はお楽しみの小樽運河を先に見ないよう裏道を通って目的の場所へ向かった。
古い木の看板に「小樽大正硝子館」と書かれた古風な建物にたどり着いた。
俺は、木のスライド扉を開けて中に入る。
中に入ると、店員の代わりに季節外れのチリンチリンという風鈴の音が俺達を歓迎した。
「わあ!綺麗」
そういった彼女の目線は一箇所に留まってはいなかった。様々な色、模様のガラス細工を見て、子供のように店内をはしゃぎ回る彼女の後ろをついて、俺も店内を巡る。
まるで舞を踊るかのように店内を歩いた彼女は、不意に立ち止まった。そんな彼女の目の前にあったのは、角一輪挿しだった。
「これ良いなぁ」
彼女はそう言って目を輝かせる。俺はその様子に値段を確認してみる。すると、そこに書かれていたのは二千二百円という文字だった。ガラス細工にしてはかなり値が張るが、彼女が欲しいなら買ってあげたいと思った。
「欲しいの?」
「うん」
彼女は儚げな表情を浮かべながら言った。きっと自分の財布では手が届かないのだろう。
「買ってあげようか」
「いいよ、だってどうせ壊されるし」
彼女の表情の理由は値段でも何でもなかった。その理由は、ただひたすらに悲しいものだった。
「そっか。ならいつか買いに行こう」
「うん」
そして俺は彼女の表情も確認せずに店の外に出た。自分の放った言葉にも意識はしていなかった。
堺町本通りの方に少し歩くと、凍った川があった。川の上にはキャンドルが吊るされていて、きっと夜になれば綺麗なのだろうなと思った。
「ねえ、写真撮ろ」
彼女の言葉に俺は少し疑問を感じた。
「いいのか?凍ってるし、いい画にはならないだろ」
「君と二人なら、どこだっていい画だよ!思い出作りに!」
彼女の言葉に俺は「そっか」とだけ言って凍った川を背景に携帯を構えた。
「ほら、隣こないの?」
「いく!」
彼女はそう言って笑顔を浮かべながら俺の隣まで歩いた。
パシャッとシャッター音が鳴り響き、カメラに俺たちの顔が収められた。
彼女は満面の笑みで、俺は少しぎこちない笑みで笑っている写真が撮れた。
「後で共有してね!」
彼女はそう言って歩き出した。
俺たちが次に向かったのは、「小樽出世前広場」だ。かなり美味しい食べ物が買える場所なので、中学生の頃自主研修でも足を運んだが、彼女はどうだろうか。
「来たことある?」
「ううん、そもそも私、小樽来たことないから」
俺の問いかけに帰ってきたのは、想像もしていなかった答えだった。
「自主研修とかで行かなかったのか?」
「自主研修かぁ。行ってないんだよね。お金出してくれなかったから。だから今日は私の人生貯金が火を吹いてるよ!もう三割くらいなくなったけど」
まだ片道分の交通費しか使っていないのに人生で貯金した額の三割が持っていかれている。その事実に俺は驚愕した。
「食べたいもの言って。俺が買うから」
「え、いや、申し訳ないよ」
「いいから、言って。今日だけはルナに贅沢して欲しい」
「でも」
「消しゴムのときの借り、これで返したいから」
俺の言葉に彼女はふふっと笑って言った。
「なにそれ、全然釣り合ってないじゃん」
と。確かにそうだ。だが、それでいいんだ。
「あの時、実は消しゴムの角使ったんだ」
「え!それなら話は別だよ!しょうがない、今日一日私にお金を使いなさい!」
彼女は納得したように、半ば諦めたようにそう言った。
「承知しました」
そして、俺達は列に並んだ。前の人が注文している間に、俺達はでかでかと飾られたメニューを眺める。
「何がいい?」
「うーん、オススメは?」
「カリカリじゃがバターチーズスティック」
「じゃあそれ!」
彼女がそう宣言したとき、狙いすましたかのように店員から「次の人どうぞー」と声がかかった。
「カリカリじゃがバターチーズスティック一つください」
「トッピングは何にしますか?」
「ケチャップで」
俺の言葉に店員は「かしこまりました」と言って、後ろにいた店員に「じゃがバタ一本」と伝えていた。
「一本?」
彼女は訝しむように言った。
「あぁ、俺は外でご飯食べれないんだ。なんか焦っちゃって吐き気するから」
俺の言葉に彼女は「ふーん」と不満げに声を上げた。何やらまた嫌な予感がするが、気のせいだと思いたい。
「じゃがバターのお客様」
数分待っているとそう言って注文の品が出された。
品物を受け取り、店の横にあった食事スペースに腰を下ろした。
寒い冬の中で蒸気を上げる袋に包まれたそれは想像の二倍くらい長かった。五十センチはあるだろうか。それは、外食が苦手な俺でも一口くらい食べたいと思わせるものがあった。
「はい」
そんなことを考えていると、彼女がそう言ってそれを俺に差し出した。
「ん?」
「ん?じゃないよ!一口あげる」
彼女はそう言って更にこちらにそれを近づける。
「一口くらいなら食べられるでしょ?どうぞ」
そう言って彼女は袋からそれを一口分引っ張り出し、俺の口元まで近づけた。
「いや、あの」
「この前私にもしたよね、はい、あーん」
「あ、あーん」
俺は勢いに負けてそれを頬張った。
春巻きのようなサクサクの生地に、じゃがいもの新鮮な味わい。それをチーズとケチャップが引き立てている。
「どう?美味しい?」
「おいひいれす」
「ふふっ、喋れるようになってから言いなよ」
彼女のその言葉に俺は急いで口の中に入ったそれを噛み砕き、飲み込んで言った。
「ルナが聞いてきたんだろ」
「知らなーい」
そんな会話をしながら、彼女は俺が食べたあとのそれを自分のもとに戻し、大きく口を開けた。
分かってはいたが、間接キスというやつだ。意識しないわけないが、彼女が気にしていない素振りを見せるものだから、俺もそれに合わせて平静を装う。
「うん、おいしいね」
「うん」
俺の目線は自分の手元を映していた。その様子を見た彼女は小悪魔のように微笑み口を開く。
「え、何?意識しちゃったんだ〜」
「断じて違う。ほら、ゆっくり食べろ」
「そこはさっさと食べろとかじゃないんだね」
そんな会話をしながら、彼女は着々と食事を進めていく。五十センチほどあったそれは、気が付けば最後の一口になっていた。
「はい、どうぞ」
彼女はそう言って袋から残ったそれを取り出し、手で掴んで俺の口元まで持ってくる。寒さのせいか、その手は少し震えていた。
ここで躊躇してはまた煽られると思った俺は、堂々とそれを口で受け取った。
「よしよし」
彼女はそう言って俺の前の空気を撫でてみせた。
「俺、犬じゃないんだけど」
「じゃあ猫」
「ペットじゃないって」
そんな会話をして、俺たちは席を立った。
「次はどこ行くの?」
「お土産買いたいからこのまま堺町を進もう」
彼女の問いに俺は即答し、歩き始めた。
観光名所ということもあり、街並みは小樽独特の美しさを醸し出していた。
石造りの洋風、和風の建築に、古き良き木造建築。まさに和洋一体と言えるその光景は、一度目にしたことがある俺にとっても綺麗なものだった。
家族用の土産を買うために、いくつかお菓子屋を巡ったあと、ふと目に入ったアクセサリー店に足を運んだ。
「私も色々見てくるね」
彼女はそう言って俺から離れた。
彼女に何か買いたかった俺にとってそれは好都合だったので、俺はそれを快諾した。
彼女に似合うアクセサリー、イヤリングがいいだろうか、ネックレスがいいだろうか。
彼女は顔立ちは整っているし、わざわざ顔を着飾る必要はないと考えた俺はネックレスを選ぶことにした。
そんな俺の目についたのは、二千円と少し値は張るものの、薄花桜色と紺青色が混じり合って輝くネックレスだった。
どうやら光に当たると綺麗に輝くダイクロガラスというものが使われているらしい。
俺は迷うことなくそのネックレスを手に取り、レジへ足を運んだ。
レジを見ると、彼女が先に並んでいる。どうやら会計が終わった直後のようで、彼女はこちらに向き直り目を見開いた。
「何買ったの?」という俺の問いに返ってきたのは、「内緒!」と言いながら人差し指を口の前に立てる彼女の笑顔だった。
無事にアクセサリーを買い終え、時刻を確認すると、午後四時となっていた。そろそろ日が暮れてきたころだと思い外に出ると、案の定空はオレンジ色に燃えていた。
ここから小樽運河に向かえばちょうど日が落ちる頃だろうか。
「そろそろ行こうか」
俺はそう言って彼女に手を差し出した。
「うん」
彼女は俺の言葉にそう返事をして俺の手の上に手を乗せた。俺は乗せられた手をぎゅっと握りしめ、歩き出した。
先刻まで真っ白だった世界は、まるで絵の具をこぼされたようにオレンジ色に染まっていた。
彼女の頬が赤く染まっているのも、その影響だろうか。
来た道を戻り、小樽運河を目指していると、来た当初に写真を撮った凍った川が見えた。
日没によって眠るはずのそれは、照り輝いていた。
数多くのキャンドルが光り、その光を氷が反射し、まだ微かに明るい空と光の強さを競い合っている。
「綺麗だね」
彼女は俺の手を強く握りながら言った。
この旅行も終わりが近づいてきたということを実感したのだろうか。
「そうだね」
俺はそう一言だけ言って、彼女の手を強く握り返した。それに呼応するように、彼女の手の力も強くなる。
「写真撮るか」
「うん」
彼女は微笑みを浮かべながら俺の隣でピースサインをしてみせた。だが、その表情はどこか寂しそうだ。
「なあ」
「何?」
「四引く二はー?」
「にー?」
彼女がそう口を開いた瞬間を狙って、俺はシャッターを切った。
「あ!ちょっと、今の消して、絶対変な顔してるから」
そう言って彼女は俺から携帯を奪おうとする。俺は携帯を奪われないために背伸びをしながら携帯を空へ伸ばす。
「嫌だ、いい写真だから」
「だめ!ちょっと―」
そう言って彼女が跳ねたとき、彼女は前のめりに転倒した。雪で滑ったのだろう。
俺は慌てて彼女を受け止める姿勢を取った。
「うわ」
「きゃっ」
俺は大の字になって彼女の下敷きになった。
「無事?」
「うん、光くんこそ」
そう語る俺達の距離は、今までに無いほど近かった。少しでも顔を動かせば唇と唇が当たってしまいそうな、そんな距離。
不思議と心拍数は上がらない。ただ目の前にある彼女の顔を見つめ、同様に彼女に見つめられる。
しばらく見つめ合った後、俺達は自然と距離を取り、立ち上がった。
人の下敷きになったのだから、多少身体は痛むものの、地面に雪が敷いてあったお陰か、すぐに立ち上がれるほどの痛みだった。
彼女も俺に続いて立ち上がり、小樽運河へと歩を進め直した。
小樽運河の橋の上に着くと、既に日はほとんど落ちていたが、まだイルミネーションのライトアップはされておらず、建物から漏れ出る光だけが辺りを照らしていた。その景色は、既にどこか幻想的だった。
俺達のあとに続くように続々と観光客が辺りに集まってきた。もう少し後にたどり着いていたら、いいポジションは確保できなかっただろう。
「早めに着いてよかったな」
「うん」
俺達は手を握りあったまま、周りの人々の声に耳を傾けるだけだった。
「ねえ」
「あっ」
俺達は同時にそう声を上げた。
「光くん、何?」
「いや、ルナこそ何?」
「あ、えっと。渡したいものがあるんだ」
彼女はそう言いながら横髪を指で弄っていた。
「奇遇だね。俺もだよ」
「え、ほんと?」
「うん、本当」
「じゃあ」と言って彼女がポケットに手を突っ込んだ時、辺りがピカッと光った。
その眩しさに思わず目をつぶり、次に目を開くとそこにあったものはまさに神秘的な光景だった。
青や紫を主体とした色合いの電球が運河の周りを形作っていて、水面にはそれらがまるで必死に背伸びをしているかのように映っている。
色を失いかけていた世界が、今この瞬間に色づいたのだ。
「綺麗、だね」
彼女はその光景にまるで言葉を失いかけたかのようにそう言った。
「メリークリスマス、ルナ」
俺はそう言って呆ける彼女の手を離し、一足分距離を取ってから手に持っていた小袋を差し出した。
彼女のほうが先にプレゼントに手をかけていたはずなのに、俺が先にプレゼントを渡すことができたのは、おそらく彼女が心の底からこの景色に魅入っていたからだろう。
「開けてもいい?」
「いいよ」
俺の回答にじゃあ早速という様子で彼女は小袋を開いた。
「わあ、ネックレス?」
「うん、気に入らなかったら捨ててもいいよ」
俺の言葉に彼女は俺を睨みながら言った。
「そんなことしない」
「ごめん」
「いいの。あ、でもせっかくだし許さない」
せっかくだし、という言葉に本日三度目の嫌な予感がしたが、果たして的中するのだろうか。
「何をご所望でしょうか」
「光くんに着けてほしい」
そんなことか、と俺は少し頬が緩んだ。どうやら嫌な予感は外れてくれたようだ。
「承知しました」
俺はそう言って差し出されたネックレスを両手で持ち、彼女の首に手を回す。
ネックレスなど着けたことがない俺は少し不手際な動きになってしまい、何度か首に触れてしまうが、彼女はそれを意にも介さなかった。
「着けたよ」
「うん、ありがとう」
彼女はそう言って胸元に両手を置いた。
俺のあげたネックレスはイルミネーションの光を吸収し、より深い青や紫となって輝いていた。そして、それは彼女もだった。
イルミネーションの光に照らされながら目をつぶり、微笑みを浮かべる彼女はまるで恋愛映画のヒロインのようだ。
「じゃあ次、私の番ね」
その姿に見惚れていると、彼女がそう言って何かをポケットから取り出した。
「はい、これ」
彼女はそう言って俺の手を掴み、取り出した何かを握らせた。
受け取った何かを見てみると、イルミネーションに照らされて少しだけ光を発している。全体に雪の装飾が施された小さなそれは、製作者のこだわりを感じる。
「ヘアピン?」
「うん、光くんの前髪、読書するのに邪魔そうだったから」
偶然にもそれは俺が失念していたことだった。いや、彼女のことだから俺をよく観察した上で生み出した必然なのかもしれない。
「ありがとう」
そう言って俺は早速もらったヘアピンを着けてみる。
すると、俺のヘアピンをつけた姿を見て彼女が吹き出した。
「あはは、何それ」
「変かな?」
「全然ダメ、しょうがないな、私がつけてあげる」
彼女はそう言って俺の前髪につけられたヘアピンを外し、左側に前髪を寄せながら、慣れた手際でヘアピンをつけ直す。
異性に顔を触られるというのは何というか、少しだけ緊張する。その緊張を誤魔化すため、俺は目を閉じた。
「はい、できたよ。髪上げると格好いいね」
彼女の言葉に目を開いた。そこには、普段の二倍以上の視界が広がっていた。彼女の笑顔も、イルミネーションも、周りの観光客の様子だって、いつもよりもずっと見やすかった。
「ありがとう、大切にする」
俺はそう言って体を橋の塀の方へ体を向き直した。それに呼応するように彼女も体の向きを変える。
俺達はお互いを見ることもなく、手を繋いだ。
それは、俺みたいな根暗な人間の人生でこれから先一回あるかどうかも怪しいほど、ロマンチックな手繋ぎだった。
今、この瞬間だけは周りの何もかもがぼやけて、世界のスポットもピントも全てが俺達に当たっているような、そんな感覚がした。
「ねえ」
「何?」
本当に、何度繰り返したかもわからない会話だ。でも、俺達にとってこの会話には特別な何かがあると、何となくそう思った。
「私、生きたいよ」
俺はその言葉に思わず目を見開いた。
彼女の方に目をやると、そこには俺のあげたネックレスを左手で掴みながら涙を浮かべる彼女の姿があった。
「そっか」
俺が今世界で一番喜ぶべき言葉のはずなのに、なんて言葉を発していいのか、俺には分からなかった。
「うん、だって幸せだから」
「それは、よかったよ」
俺がそう言うと彼女は目を閉じた。そして、青と紫の混じった雫をこぼした。彼女のこぼしたそれは、ネックレスと同じ綺麗な色だった。
彼女がなぜ泣いているのか、俺には全くわからなかった。生に希望を見出す事ができたのなら、それは喜ばしいことなのではないのだろうか。
もしかして、彼女は心のどこかではまだ死を願っているのだろうか。俺が与えた幸せが中途半端なものだったから、縛り付ける枷になっただけで、本心では死にたいと思っているのだろうか。
俺には何もわからなかった。だから俺には、彼女の手をぎゅっと握りしめること以外にできることはなかった。
「ねえ」
震える声で彼女は言った。
「何?」
「私も君のこと、世界で一番愛してるよ」
そう宣言した彼女は、とても綺麗な笑顔を浮かべていた。
光に照らされる目元と頬、胸元に当てられた手の真上で光り輝くネックレス。それに加え、今まで浮かべてきた満面の笑みと比べても最高の満面の笑み。
全てが相まって、この瞬間、彼女はきっと世界で一番綺麗な笑顔を浮かべていただろう。
