翌日、ついにその時は訪れた。
「よし、それじゃあ席替えするぞ」
そう、席替えだ。これで俺の命運が決まると言っても過言ではない。
さぁ、席を決める方法はなんだ。
「好きな人同士でーとか言っても余るやついるだろうし、くじ引きで決めるぞ」
語り始めた時、先生がこちらをチラッと見たような気がするが、気のせいだということにしておく。
「よし、じゃあ窓側から引きに来い」
窓側から、つまり俺は一番最後に引くことになる。残り物には福があるというし、気長に待つとしよう。
「えー、次の席どうなるかな」
「楽しみ!」
「でもちょっと怖いなー」
そんな普通の会話が耳に入り、ふと彼女はどうしているだろうかと思い、目線を彼女の方に向けた。
すると、ちょうどくじを引くために席から立ち上がっているところだった。
彼女が立ち上がるとき、横を向く瞬間があった。その瞬間、俺達は目が合った。
お互いに何の合図もなく目を逸らした。
昨日も食事の後ルナを家まで送ったが、会話はゼロだった。
理由は明白だ。昨日は少し、いやかなり距離が近かった。冷静になってから意識しないわけがなかった。
だが、気まずいわけではない。なんというか、少しドキドキしてしまっているだけで、関わろうと思えば関わることができる。それは恐らく彼女も同じだろう。
そんなことを考えながら机に突っ伏していると、先生から「おい、藤野。お前の番だ」と声がかかった。
俺は教室の前まで行って、教卓の上に置かれた最後の一枚を手に取る。
そこには、数字で五と書かれていた。
「よし、全員引き終わったな。それじゃあ今から黒板に席を書くぞ」
そう言って先生は事前に書いていた座席表に、数字を当てはめていく。
俺の数字はどこだと不安と期待を織り交ぜた感情が錯綜する。
「よし、これ見て席移動しろ。前の席に忘れもんするなよ」
先生はそう言って教室の隅へはけた。
そして、それによって数字で埋められた座席表があらわになった。
「よしっ」
俺は思わずそう声を上げてガッツポーズをした。
そこには、俺の引いた五が一番窓際かつ最後尾の席であるということが示されていた。
俺の望み通りの結果だ。やはり残り物には福があったし、これはきっと俺が授業を真面目に受けたことで手繰り寄せた運勢、いや運命だ。
「うわ、まじかよ」
「お、やったー」
など、各々感想を述べながら、次々に席を移動していく。その波に乗るように、俺は席を移動した。
これで隣が女子でなければなおのこと素晴らしいと思った矢先、隣には女子が座った。
そして彼女は嫌そうな表情を浮かべていた。俺が隣なことがそんなに嫌だったのだろうかと少し傷ついていると、彼女が口を開いた。
「先生、私目が悪いのでここだと授業受けれません」
本当にそうなのか、はたまた俺が嫌だったのかはわからないが、彼女はそう言った。
「うーん、そうか。誰か変わってくれるやついるか?いないならもう一回やるしかないな」
先生の言葉にみんなが「えー」、もしくは「よっしゃ」と声を上げる中、一人の生徒が手を挙げた。
「先生、私が変わりますよ」
もう聞き慣れた声だった。
俺は声のした方に目をやった。すると、彼女は黒板から一番近い席に座っていた。
「おお、蓮見ありがとう。佐藤もちゃんと感謝しろよ」
先生の言葉に佐藤は「ありがとー」と適当に言いながら笑顔で席を立った。
それからほとんど間もなく、ルナが俺の隣に座った。
「これからよろしく、光くん」
教室の数ヶ所から「羨ましい」なんて声が聞こえた気がしたが、気のせいだということにしよう。そうではないと俺が学校に行きづらくなってしまう。
「うん。よろしく、ルナ」
奇しくも、俺達二人の望みは叶った。
神様がくれた最後のプレゼントなんて言葉が浮かんできたが、そんなことは考えなかったことにした。
それから何事もなくホームルームが終わり、授業が始まった。そして、授業も何事もなく進んでいった。
テストも近いし、たまにはノートもしっかり取ろうなんて考えていた矢先、誤字をしてしまった。
俺は文字を修正しようと机の上にあるはずの消しゴムを掴もうとする。
「ん、あれ。ないな」
だが、消しゴムは机の上にはなかった。慌てて机の下や周りも見てみるが、どこにも落ちていない。どうやら失くしてしまったようだ。
「悪いルナ、消しゴム二つ持ってないか?」
「うん、持ってるよ」
俺達は先生に怒られないように小声でそう話した。そして、ルナから消しゴムを手渡してもらい、俺は無事に誤字を修正することができた。
「ふふっ」
隣から笑い声が聞こえてきた。一体何に笑ったのかと思って隣を見るも、すでに彼女は黒板を眺めていて、真相はわからなかった。
「ありがとう、助かったよ」
笑い声のことなんてすっかり頭から抜けた頃、全ての授業が終わり、全員がリュックを背負って次々に教室を出ていく。
そんな中で、俺は彼女に消しゴムを差し出した。
「うん。ふふっ」
彼女は消しゴムを受け取ると同時に、またもや笑った。そんな彼女の目線は、俺の机の右前脚にあった。
疑問に思った俺は、彼女の隣まで歩き、その地点から彼女の見つめていた場所を見てみる。
「あっ、俺の消しゴム」
するとそこには、俺の消しゴムが落ちていたのだ。
「何で教えてくれなかったんだよ」
「私も気付かなかったなー。ごめんね?でもこれで貸し一つね」
彼女はそう言って体の前に人差し指を立て、ふふっと微笑んだ。
「はぁ、わかったよ」
俺は彼女の笑顔に弱い。それはどうやらいつまで経っても改善されないようだった。
「玄関まで一緒に帰ろ」
「あぁ」
そして俺達は教室を出た。まだチラホラと人のいる廊下と階段を、俺達は二人で歩く。
「今週末も家来る?」
俺の言葉に、こちらを見て彼女は目を輝かせた。
「いいの?行きたい!」
「うん。わかった。聖と両親に伝えておく」
「やったー!」
彼女はそう言って階段の踊り場でくるりと舞ってみせた。
「踊り場を踊りの場所として使う人は初めて見たよ」
「うるさい」
彼女はそう言って背負っていたリュックをわざわざ下ろし、両手で振りかぶって俺に叩きつけた。
「ちょ、それ普通に痛いから」
「ごめんごめん」
「ごめんは一回なんだろ?」
「ごめーん」
二人揃ってふふっと笑みをこぼした。こんな瞬間が、俺はどうしようもなく幸せだ。
彼女にとってはどうだろうか。彼女は少しでも幸せを感じてくれているだろうか。もしかしたら死にたい彼女にとっては、中途半端な幸せなんて覚悟を鈍らせるだけの枷でしかないんじゃないかと、なんとなく思った。
そうこうしているうちに、俺達は玄関に辿り着いてしまった。そんな言い方になるのは、俺が彼女に質問をしたかったからだ。
「君は俺と関わっていて幸せなのか?」
と。
「じゃあ光くん、またね」
「あぁ、また」
結局俺は質問をすることなくルナと別れた。
翌日からも俺は変わらずルナと関わった。もちろん、学校では頭を撫でるなんて暴挙には走らない。そんなことをすれば殺し屋が一般人に殺されるという珍事が起きてしまう。
そして、何事もなく学校生活を送り、日曜日が訪れた。
「いやー、それ本当に面白いよな。特に途中急にたい焼き食べだすところとかさ」
「ね!わかる」
二人が楽しそうに感想を話しているのを横目に、俺は読書を続けている。
「そういえば光、最近勉強してんの?机の上に教科書広がってるけど」
聖の言葉に俺はハッとした。しまった、片付け忘れていた。
「いや、まぁ、うん」
俺の言葉にルナは「最近学校でも頑張ってるんだよ」と追い打ちをかけるように言った。
これはまずい、と俺は確信していた。
「ふーん」
案の定、含みのある笑みをこちらに向ける聖の面を拝むことができた。
「お前それ―」
「うるせえ!!」
俺はそう言って聖に飛びかかり、取っ組み合いの争いが始まった。
「このっ!」
「黙れ、口を塞げ」
聖の言いたいことは分かっている。俺がルナのことを好いていると言いたいのだろう。それ自体は否定しないが、ルナのいる前で話してほしくない。
ルナに恋愛感情があると知られてしまうのが怖いということももちろんあるが、俺は彼女と恋人同士とかそんな関係には万が一にもなりたくない。
俺が彼女と愛し合ってしまえば、俺は彼女に生きてくれと言ってしまう。それはダメなんだ。俺は彼女に生きて欲しい。でも、辛いなら殺すと確約したのだ。だから俺は彼女を愛するだけでいい。愛し合うなんて、そんなことはしなくていい。
「こら、喧嘩しないの」
ルナがそう言って両手で机を叩いた。
彼女のその行動に、俺達は大人しく正座した。
きっと今俺と聖の思っていることは一緒だ。目を合わせて分かった。
「女子怖い」と顔が言っていた。
「さて、じゃあ俺は今日も先帰るわ」
「了解、またな」
「またね、ひじくん」
「またなー」
そして聖は部屋を出ていった。
そして俺は脱力し、地面に倒れた。なんというか、疲れたのだ。もちろん、聖に対してではない。それも多少あるが、それよりも一週間真面目に過ごしたことが大きい。昨日に関してはほとんど一日中勉強していたような気がする。
「お疲れだね」
彼女はそう言って俺の隣に腰を下ろした。
「うん」
「最近頑張ってるもんね」
「うん」
俺は疲れのせいか、適当な返事をすることしかできなかった。
「今日も夕飯食べていくか?」
「うん!食べたい」
「了解。そうだと思って先に伝えてあるから」
俺たちの間に沈黙が流れた。何か話しかけたいが、特に話題が思い浮かばないまま、俺は目を閉じた。
すると、その瞬間、一度嗅いだことのあるシャンプーのいい匂いが俺の鼻を刺した。
「うお」
そして、そう声を上げると同時に俺の二の腕には彼女の頭が置かれていた。顔が同一方向を向いているのが唯一の救いだ。
「あ、あの、ルナさん?一体どうしたんでしょうか?」
「気分」
「そ、そうですか」
気分でこんなことをしてくれるなよと思いつつ、俺は深呼吸をして平静を取り戻そうと考え、鼻から深く息を吸った。その瞬間、俺の鼻はいい匂いで満たされ、息を大きく吐き出すことも忘れてしまった。
「ねえ、匂い嗅いだ?」
「ち、ちが、断じて違う」
俺はそう言って彼女の頭部からできる限りの距離を取った。
「ねえ」
「な、何?」
この会話は、もはや俺達の中では恒例というか、おなじみの会話になってきている。
おかげで、どうにか平静を取り戻すことができた。
「今日の夕飯何かなって」
「確かハンバーグって言ってた気がする」
俺の言葉に彼女は嬉しそうに声を弾ませながら言った。
「ほんと!?手作りのハンバーグ食べてみたかったんだ」
彼女のその言葉は、一見すると無邪気なものに見えるが、手作りのハンバーグを食べたことがないというのはとても悲しいことだと思った。
「俺の分も半分あげるよ」
「えー、そんなに食べれるかなぁ」
貰えないよ、とかではなく食べられるかどうかの心配をする辺り、本当にハンバーグが食べたいんだろう。
「ねえ」
「何?」
先ほどまで築いた明るい空気を切り裂くように、彼女は落ち着いた声色で言った。
「私、君と一緒にいると落ち着くよ」
そう言って彼女は両手で俺の手を掴んだ。
俺は彼女のその行動に、握り返すことはせずにただただ無抵抗のままでいた。
「そっか」
なんて言葉を返していいのかわからず、俺はただそう一言呟いた。
「君は私と一緒にいるの嫌?」
「俺も落ち着くから嫌じゃないよ」
俺はそう即答した。実際、彼女の前では急に横になってしまうくらい気を緩めてしまっているわけだし、落ち着くというのは事実だ。
「よかった」
そう言った瞬間、彼女の俺の手を握る力が少し強まった。
「ねえ」
「何?」
「どうしたらいいのかな、私」
震えた声で、彼女はこぼすように言った。
きっと彼女は自分の生死を天秤にかけているのだろう。どうすればいいのか、その答えは俺にもわからなかった。
「ゆっくり考えればいい。君の命の花はまだ咲いてもいないんだから」
「そうだよね」
俺は彼女の手を握り返した。特に他意はないが、今俺にできることなんてその程度しかないということに気づいたからだ。
「ちゃんと、私を消してくれるんだよね」
「あぁ、約束する」
俺の宣言に彼女は震えた声で「ありがとう」と漏らすように言った。
でももしその時が訪れたら、俺は本当に彼女を殺すことができるのだろうか。答えは分からなかった。だから、今俺にできることは、彼女が死を選んだとしても生きててよかったと思えるようにしてやることと、常に殺す覚悟を研ぎ澄ますことだけだった。
しばらくそのまま横たわっていると、リビングの方から「ご飯できたよー」と母の声が聞こえてきた。
俺たちは母の声を合図に立ち上がり、リビングに向かった。
「わあ」
食卓の上においてあったそれを見て、彼女はプレゼントを渡されたときの子供ような反応を見せた。
食卓の上には、三分割されたプレート皿が四皿置いてあり、その上にはそれぞれ米、ハンバーグ、ブロッコリーのサラダが盛り付けられていた。
「いただきます」
俺達は四人で声を揃えて言った。
そして、ハンバーグに箸を入れる。その瞬間、ハンバーグからは肉汁が溢れ出し、皿を汚した。
思い切ってそれを口に放り込むと、その熱さに思わず口の中でハンバーグを踊らせてしまった。
「ぷはっ」
俺は目の前においてあったコップの水を一気飲みし、難を逃れた。
今度はしっかり息を吹きかけてからもう一度口にそれを放り込むと、今度はしっかり味を感じることができた。
圧倒的な肉の旨味、ジューシーさ、そして噛む度に溢れ出す肉汁、さらにそれに加えてデミグラスソースの味わいが口の中だけでなく体全体を幸せにするようだ。
食べ慣れた俺ですら毎回幸せを感じるこの味を、彼女が食べたらどうなるだろうか。その答えはすぐ隣にあった。
幸せそうな笑みを浮かべながら、頬が膨らむくらいハンバーグや米を口に詰め込んでいる。
「おいひい」
「ふっ、ちゃんと喋れるようになってから言えよ」
「うふさい」
「なんて?」
「んー!!」
彼女は箸を置いてぽこぽこと俺の肩を叩く。まるで子供を相手にしているかのような気分になった。
「うふふ、二人は本当に仲良しね〜」
その言葉に、俺達二人は否定することはなく、食事を続けた。
「そういえばもうすぐ冬休みか」
「まだまだ先でしょ、気が早いよ」
「一ヶ月なんてあっという間だぞー?二人は冬休みどっか行かないのか?」
父の言葉に俺は「あー」と声を上げる。
「ルナは行きたいところある?」
俺の言葉に彼女は焦ることなくゆっくり咀嚼し、しっかり飲み込んでから口を開いた。
「イルミネーションとか見てみたい」
「イルミネーションか」
地元でも見ることができるが、綺麗ではあるものの、正直どこか物足りなさを感じるレベルのイルミネーションしかない。
「あー、それなら小樽とか行けばいいんじゃないか?」
父の言葉に俺は中一の頃の記憶を想起させた。
小樽で自主研修をすることになった俺達は、学校から支給されたパンフレットを見ていた。そこには、小樽運河の冬のイルミネーションは絶景であるということが書かれていた。
当時の俺達は、自主研修は夕方までで、確実に見ることができないのに書かれていたそれに行き場のない怒りを感じていた。
「なるほど、確かにいいかもしれないな。ルナ、行ってみるか?」
「うん、行きたい!いついく?」
「うーん、それは追々決めようか」
「了解、私はいつでも大丈夫だよ!」
そんな会話をしながら、俺達は箸を進めていった。
一家団欒の食事は、まさに幸せと言えるだろう。
「今日も送っていくよ」
食事も終えて、家を出ようとするルナに俺はそう声をかけた。
「いいよ、毎回毎回送ってもらうのは悪いから」
「でも」
「子供じゃないんだから、少しくらい信用して」
彼女が拗ねたように言ったので、俺はそれを了承することにした。
「分かったよ。気をつけてね」
「うん、また明日学校で!」
がチャッと音がして、扉が閉まった。俺はそれを合図に自室へ足を運んだ。
「小樽か」
ベッドに横たわりながら小樽について携帯で調べていく。
イルミネーションが見たいということだったから、日が暮れてから小樽運河に行くのは確定として、それ以外は何をしようか。
おすすめの観光スポットとか、観光プランとか、美味しい食べ物とか、穴場スポットとか。とにかく調べられることは調べて、俺はプランを決めていく。
数時間ほど納得が行くまで調べて、俺は眠りについた。
そして、翌日からも何も変わらない日々が続いた。テストが近いということもあり、平日は真面目に授業を受けて、たまにサボってそれをルナに注意されて。休日はみんなで読書したり雑談したりして、その後はルナと、たまに聖も混ぜて夕食を食べて解散。
着実にルナが聖や両親との距離を縮めていく。そんな日々が数週間続き、テストも終わり雪が積もり始めた頃、三者面談の時期が訪れた。
「光、最近頑張ってるんでしょ?」
「まぁ、うん」
「ならきっと先生からも褒めてもらえるわよね。楽しみだわ」
「頑張ってるって言ってもただ授業受けてるだけだし、そんな期待しないほうがいいんじゃない?」
そんなふうに、俺は廊下で母と雑談しながら待ち時間を潰していた。そんなとき、いよいよ前の家族が教室から出てきて、俺達が呼ばれた。
用意されていた席に座り、俺達は先生と向かい合った。
「お母さん、こんにちは」
「はい、こんにちは」
大人同士の礼儀正しく、そして笑顔を交えた挨拶が交わされた。
「早速本題に入っていきますね」
俺はその言葉に息を呑んだ。今の俺の心境を最も表す日本語を知っている。緊張だ。いくら真面目に授業を受けているとは言え、サボっている期間が長すぎたため、とても不安だ。
「藤野くんですが、えー、前までは授業に顔を出さないことが多かったのですが、最近ではしっかり授業に顔を出すようになりまして、えー、しっかり頑張っていると思います」
俺は先生のその言葉にホッとした。だが、それもつかの間、先生は再び口を開いた。
「それに、前までは教室で友達と話すことなんてほとんどなかったのに、最近では蓮見という生徒と仲良くやっているようで、個人的には安心しました」
その言葉を聞きながら、俺は母の方へ目線を向けた。何だか一瞬ニヤついた表情をこちらに向けた気がするが、見間違いということにしておこう。
「そうなんですね。よかったです。母親としても安心です」
「成績の方もですね、この間あった期末テストの結果もまぁまぁで、英語は七十点、数学が七十八点、社会が八十五点、理科が八十点、国語が九十点とかなりいい結果です。やはりお家でも勉強している様子でしたよね」
「そうですね、たまに椅子に座ったまま寝てるときもあったくらいで」
「はははっ、頑張ったね、藤野くん」
普段の担任らしくない発言に、社交辞令はやめろと思ったが、今回は一応素直に受け取っておこうと思い、俺は「ありがとうございます」と返事をした。
「えー私からはこんなところですね。藤野さんの方から聞いておきたいこととかはありますか?」
「特にありません」
「では、これで以上となります」
思っていたよりも平和かつスマートに俺の三者面談は終わりを迎えた。まぁそもそもが高校生の三者面談なのだから当たり前なのだろうか。
だが、俺は忘れていた。今、この瞬間だけはルナも母親と一緒にいるであろうということを。
扉を開け、ふと次に待っていた家族に目をやると、そこにはルナと、その隣にはかなり化粧の濃い金髪の女性が座っていた。
「あっ」
俺達は思わず声を漏らした。
「ん、何。知り合い?」
ルナの母親らしき人物がそうルナに問いかけるも、ルナは俯きながら「あ、えっと」と言葉を詰まらせていた。
「こんにちは。ルナのクラスメイトの藤野です」
俺は勇気を出して二人との距離を詰め、そう声を発した。
「あぁ、はい。どうも」
「じゃあ」と言って母親らしい人物は席を立ち、ルナの腕を引っ張った。それもかなり力強く。
物語の勇気ある主人公ならこの場面で母親の腕を掴みに行くところだろうが、さすがに俺には他人の家庭にそこまで首を突っ込むことはできなかった。
母ももどかしそうな表情で拳を握っていたが、これが現実だ。他人の家族のことは俺達にはどうしようもできない。だからこそ、俺達はそれ以外で幸せを与えるしかないのだ。彼女に、生きる希望を持ってもらえるように。
翌日からも普通の毎日が続くと思っていた。だが、そうはいかなかった。彼女が学校に来なかったのだ。
メッセージを送ろうかとも思ったが、それで変に彼女にプレッシャーを与えることになってはよくないとか、そんな言い訳ばかりが浮かび、結局連絡することもできなかった。
休日も彼女が家に来ることはなく、一週間が過ぎた。そして、遂に終業式当日、十二月二十五日が訪れた。
俺は彼女の家の前に立っている。雪の積もった古びたアパート、その前に。
俺は意を決して階段を登る。
錆びた金属製の階段は、俺が一段を登る度にガコンと音を鳴らしながら軋む。その様子は今にも崩れてしまいそうに思えた。
階段を登り切り、二階の角部屋へ歩を進める。
カコン、カコンという無機質な足音は、俺の緊張感を高めていく。
不安に思わないわけがない。もちろん、急に訪問したことを怒られないかという不安もあるが、もし彼女の身に何かあったのなら、今俺はその事実を知ることになる。それがたまらなく不安で仕方がなかった。
角部屋にたどり着き、インターホンを鳴らす。
中から足音が聞こえてきて、それから数秒後に鍵の開く音がした。そして、それとほぼ同時に扉が開いた。もし母親が出てきたらどうしようかと思っていたが、その心配は杞憂に終わった。
「はい」と怖がった様子の彼女がドアを一足分にも満たない程度に開いた。
「おはよう」
俺の声にルナはびっくりしたという様子で目を見開き、扉を開いた。
「何しに来たの」
そう言う彼女の声は、初めて会話をしたとき、そしてカラオケのときのように暗いものだった。
「会いに来たんだけど」
「学校は?」
「これから行くつもりだけど」
俺の言葉に彼女はどこか辛そうに、悲しそうに目を細めながら「じゃあ早く行って」と言って扉を閉めようとした。
俺はそんな彼女に反して、扉を開いて口を開いた。
「何があった。中に親いる?」
「いない」
「じゃあ話してくれないか?」
俺の言葉に、彼女は一拍の沈黙のあと、悲しそうな表情を浮かべながら口を開いた。
「先生から褒められた。蓮見さんはすごく頑張ってるって。でもお母さんは微塵も興味を持たなかった。それどころか終わってから『私の娘のくせに』って言った。私、お母さんに認められたくて頑張ってたのにね。もう頑張る意味ないなって」
まただ、彼女を悲しませるのはまた母親だった。
「私、もうなんで頑張ってるのかわかんないよ。なんで誰も認めてくれないの?なんで」
彼女は泣きながら言った。
彼女の気持ちは少しだけわかる。誰かに認めてほしいなんて多分、当たり前のことだ。そして、それが一切叶わない人はそうそういない。少し叶わないだけで泣く人もいるというのに、唯一認めてくれたのは先生だけ。しかも、それも表面的な頑張りに対する評価でしかない。これが一体どれだけ辛いか、俺には分からなかった。
「ルナは頑張ってるよ。それは俺が見てる。辛くても頑張って生きてきたんだよな。わかってる。だからもう無理しなくたっていい。無理に笑わなくたっていい。自由に生きたっていい。俺がそれを認める。聖も、父さんも母さんも認める。頑張ったときは、頑張ったことも認める」
俺の言葉に、ルナは泣きながら頷いた。
「だから、母親に捕らわれるな。ルナには俺達がいるだろ」
その言葉に彼女は泣き崩れた。
随分口が達者になったなと、自分で思った。以前の俺なら泣いている彼女を泣き止ませることはできても、苦しい彼女から涙を出させるなんて事はできなかった。
俺は泣き崩れた彼女に目線が合うようにしゃがんで、肩に手を置いた。
その光景は、いつかカラオケで見た光景を連想させるものだった。でも、あの頃とは俺もルナも違う。
「女の子を泣かせたなら、責任を取れ」、父の言葉だ。それに、いつか小説で読んだことのある一節でもある。
俺は何度自分の言ったことを曲げただろうか。
「ルナ」
「何?」
「愛してる。この世の誰よりも」
俺の言葉に彼女は目を見開いた。そしてそれと同時に俺に飛びついてきた。それによって俺の体勢が崩れ、あぐらの姿勢になる。
俺は頭と背中に手を回し、彼女を抱きとめた。
彼女に愛を伝えるつもりなんてなかった。もしかしたらどこかで伝えたいとは思っていたのかもしれない。でも、実際に伝えるつもりはなかった。
それでも俺は彼女を心の底から愛したくなった。それは俺が誰よりも近くで彼女を支えるために必要なことだったから。
俺はあの時、カラオケでルナに誓約した。生きてて良かったって思えるくらいの思い出を作るって。それを果たすためなら、俺は何を曲げたっていい。
しばらくの間抱きしめ合って、彼女が泣き止んだ頃、抱擁は終わりを告げた。
「それじゃあ私、学校行く準備してくる」
あくまでももう大丈夫だと言うように平静を気取った彼女の手を俺は掴んだ。
「いつでもいいって言ったよな」
「えっ?」
「小樽行くの、いつでもいいって言ったよな」
「うん、でもそれは冬休み入ってからって話で―」
「今日、行かないか?」
俺の言葉に彼女は困惑した表情を浮かべた。
「でも、学校行かないと」
「いいだろ、別に。俺と学校、どっちが大事?」
その質問に彼女は一瞬困惑したように目を見開いた。それはそうだろう。この質問をした俺ですらまた自分の中で何かが変化した感覚があったのだから。
でも、彼女は堂々と答えた。
「君!!!」
そう宣言した彼女は、とびっきりの笑みを浮かべていた。
俺は、それを引き出せたのならここに来て、ここで彼女に愛を伝えてよかったと思うことができた。
「じゃあ、行こう」
そう言って俺は立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。
「よし、それじゃあ席替えするぞ」
そう、席替えだ。これで俺の命運が決まると言っても過言ではない。
さぁ、席を決める方法はなんだ。
「好きな人同士でーとか言っても余るやついるだろうし、くじ引きで決めるぞ」
語り始めた時、先生がこちらをチラッと見たような気がするが、気のせいだということにしておく。
「よし、じゃあ窓側から引きに来い」
窓側から、つまり俺は一番最後に引くことになる。残り物には福があるというし、気長に待つとしよう。
「えー、次の席どうなるかな」
「楽しみ!」
「でもちょっと怖いなー」
そんな普通の会話が耳に入り、ふと彼女はどうしているだろうかと思い、目線を彼女の方に向けた。
すると、ちょうどくじを引くために席から立ち上がっているところだった。
彼女が立ち上がるとき、横を向く瞬間があった。その瞬間、俺達は目が合った。
お互いに何の合図もなく目を逸らした。
昨日も食事の後ルナを家まで送ったが、会話はゼロだった。
理由は明白だ。昨日は少し、いやかなり距離が近かった。冷静になってから意識しないわけがなかった。
だが、気まずいわけではない。なんというか、少しドキドキしてしまっているだけで、関わろうと思えば関わることができる。それは恐らく彼女も同じだろう。
そんなことを考えながら机に突っ伏していると、先生から「おい、藤野。お前の番だ」と声がかかった。
俺は教室の前まで行って、教卓の上に置かれた最後の一枚を手に取る。
そこには、数字で五と書かれていた。
「よし、全員引き終わったな。それじゃあ今から黒板に席を書くぞ」
そう言って先生は事前に書いていた座席表に、数字を当てはめていく。
俺の数字はどこだと不安と期待を織り交ぜた感情が錯綜する。
「よし、これ見て席移動しろ。前の席に忘れもんするなよ」
先生はそう言って教室の隅へはけた。
そして、それによって数字で埋められた座席表があらわになった。
「よしっ」
俺は思わずそう声を上げてガッツポーズをした。
そこには、俺の引いた五が一番窓際かつ最後尾の席であるということが示されていた。
俺の望み通りの結果だ。やはり残り物には福があったし、これはきっと俺が授業を真面目に受けたことで手繰り寄せた運勢、いや運命だ。
「うわ、まじかよ」
「お、やったー」
など、各々感想を述べながら、次々に席を移動していく。その波に乗るように、俺は席を移動した。
これで隣が女子でなければなおのこと素晴らしいと思った矢先、隣には女子が座った。
そして彼女は嫌そうな表情を浮かべていた。俺が隣なことがそんなに嫌だったのだろうかと少し傷ついていると、彼女が口を開いた。
「先生、私目が悪いのでここだと授業受けれません」
本当にそうなのか、はたまた俺が嫌だったのかはわからないが、彼女はそう言った。
「うーん、そうか。誰か変わってくれるやついるか?いないならもう一回やるしかないな」
先生の言葉にみんなが「えー」、もしくは「よっしゃ」と声を上げる中、一人の生徒が手を挙げた。
「先生、私が変わりますよ」
もう聞き慣れた声だった。
俺は声のした方に目をやった。すると、彼女は黒板から一番近い席に座っていた。
「おお、蓮見ありがとう。佐藤もちゃんと感謝しろよ」
先生の言葉に佐藤は「ありがとー」と適当に言いながら笑顔で席を立った。
それからほとんど間もなく、ルナが俺の隣に座った。
「これからよろしく、光くん」
教室の数ヶ所から「羨ましい」なんて声が聞こえた気がしたが、気のせいだということにしよう。そうではないと俺が学校に行きづらくなってしまう。
「うん。よろしく、ルナ」
奇しくも、俺達二人の望みは叶った。
神様がくれた最後のプレゼントなんて言葉が浮かんできたが、そんなことは考えなかったことにした。
それから何事もなくホームルームが終わり、授業が始まった。そして、授業も何事もなく進んでいった。
テストも近いし、たまにはノートもしっかり取ろうなんて考えていた矢先、誤字をしてしまった。
俺は文字を修正しようと机の上にあるはずの消しゴムを掴もうとする。
「ん、あれ。ないな」
だが、消しゴムは机の上にはなかった。慌てて机の下や周りも見てみるが、どこにも落ちていない。どうやら失くしてしまったようだ。
「悪いルナ、消しゴム二つ持ってないか?」
「うん、持ってるよ」
俺達は先生に怒られないように小声でそう話した。そして、ルナから消しゴムを手渡してもらい、俺は無事に誤字を修正することができた。
「ふふっ」
隣から笑い声が聞こえてきた。一体何に笑ったのかと思って隣を見るも、すでに彼女は黒板を眺めていて、真相はわからなかった。
「ありがとう、助かったよ」
笑い声のことなんてすっかり頭から抜けた頃、全ての授業が終わり、全員がリュックを背負って次々に教室を出ていく。
そんな中で、俺は彼女に消しゴムを差し出した。
「うん。ふふっ」
彼女は消しゴムを受け取ると同時に、またもや笑った。そんな彼女の目線は、俺の机の右前脚にあった。
疑問に思った俺は、彼女の隣まで歩き、その地点から彼女の見つめていた場所を見てみる。
「あっ、俺の消しゴム」
するとそこには、俺の消しゴムが落ちていたのだ。
「何で教えてくれなかったんだよ」
「私も気付かなかったなー。ごめんね?でもこれで貸し一つね」
彼女はそう言って体の前に人差し指を立て、ふふっと微笑んだ。
「はぁ、わかったよ」
俺は彼女の笑顔に弱い。それはどうやらいつまで経っても改善されないようだった。
「玄関まで一緒に帰ろ」
「あぁ」
そして俺達は教室を出た。まだチラホラと人のいる廊下と階段を、俺達は二人で歩く。
「今週末も家来る?」
俺の言葉に、こちらを見て彼女は目を輝かせた。
「いいの?行きたい!」
「うん。わかった。聖と両親に伝えておく」
「やったー!」
彼女はそう言って階段の踊り場でくるりと舞ってみせた。
「踊り場を踊りの場所として使う人は初めて見たよ」
「うるさい」
彼女はそう言って背負っていたリュックをわざわざ下ろし、両手で振りかぶって俺に叩きつけた。
「ちょ、それ普通に痛いから」
「ごめんごめん」
「ごめんは一回なんだろ?」
「ごめーん」
二人揃ってふふっと笑みをこぼした。こんな瞬間が、俺はどうしようもなく幸せだ。
彼女にとってはどうだろうか。彼女は少しでも幸せを感じてくれているだろうか。もしかしたら死にたい彼女にとっては、中途半端な幸せなんて覚悟を鈍らせるだけの枷でしかないんじゃないかと、なんとなく思った。
そうこうしているうちに、俺達は玄関に辿り着いてしまった。そんな言い方になるのは、俺が彼女に質問をしたかったからだ。
「君は俺と関わっていて幸せなのか?」
と。
「じゃあ光くん、またね」
「あぁ、また」
結局俺は質問をすることなくルナと別れた。
翌日からも俺は変わらずルナと関わった。もちろん、学校では頭を撫でるなんて暴挙には走らない。そんなことをすれば殺し屋が一般人に殺されるという珍事が起きてしまう。
そして、何事もなく学校生活を送り、日曜日が訪れた。
「いやー、それ本当に面白いよな。特に途中急にたい焼き食べだすところとかさ」
「ね!わかる」
二人が楽しそうに感想を話しているのを横目に、俺は読書を続けている。
「そういえば光、最近勉強してんの?机の上に教科書広がってるけど」
聖の言葉に俺はハッとした。しまった、片付け忘れていた。
「いや、まぁ、うん」
俺の言葉にルナは「最近学校でも頑張ってるんだよ」と追い打ちをかけるように言った。
これはまずい、と俺は確信していた。
「ふーん」
案の定、含みのある笑みをこちらに向ける聖の面を拝むことができた。
「お前それ―」
「うるせえ!!」
俺はそう言って聖に飛びかかり、取っ組み合いの争いが始まった。
「このっ!」
「黙れ、口を塞げ」
聖の言いたいことは分かっている。俺がルナのことを好いていると言いたいのだろう。それ自体は否定しないが、ルナのいる前で話してほしくない。
ルナに恋愛感情があると知られてしまうのが怖いということももちろんあるが、俺は彼女と恋人同士とかそんな関係には万が一にもなりたくない。
俺が彼女と愛し合ってしまえば、俺は彼女に生きてくれと言ってしまう。それはダメなんだ。俺は彼女に生きて欲しい。でも、辛いなら殺すと確約したのだ。だから俺は彼女を愛するだけでいい。愛し合うなんて、そんなことはしなくていい。
「こら、喧嘩しないの」
ルナがそう言って両手で机を叩いた。
彼女のその行動に、俺達は大人しく正座した。
きっと今俺と聖の思っていることは一緒だ。目を合わせて分かった。
「女子怖い」と顔が言っていた。
「さて、じゃあ俺は今日も先帰るわ」
「了解、またな」
「またね、ひじくん」
「またなー」
そして聖は部屋を出ていった。
そして俺は脱力し、地面に倒れた。なんというか、疲れたのだ。もちろん、聖に対してではない。それも多少あるが、それよりも一週間真面目に過ごしたことが大きい。昨日に関してはほとんど一日中勉強していたような気がする。
「お疲れだね」
彼女はそう言って俺の隣に腰を下ろした。
「うん」
「最近頑張ってるもんね」
「うん」
俺は疲れのせいか、適当な返事をすることしかできなかった。
「今日も夕飯食べていくか?」
「うん!食べたい」
「了解。そうだと思って先に伝えてあるから」
俺たちの間に沈黙が流れた。何か話しかけたいが、特に話題が思い浮かばないまま、俺は目を閉じた。
すると、その瞬間、一度嗅いだことのあるシャンプーのいい匂いが俺の鼻を刺した。
「うお」
そして、そう声を上げると同時に俺の二の腕には彼女の頭が置かれていた。顔が同一方向を向いているのが唯一の救いだ。
「あ、あの、ルナさん?一体どうしたんでしょうか?」
「気分」
「そ、そうですか」
気分でこんなことをしてくれるなよと思いつつ、俺は深呼吸をして平静を取り戻そうと考え、鼻から深く息を吸った。その瞬間、俺の鼻はいい匂いで満たされ、息を大きく吐き出すことも忘れてしまった。
「ねえ、匂い嗅いだ?」
「ち、ちが、断じて違う」
俺はそう言って彼女の頭部からできる限りの距離を取った。
「ねえ」
「な、何?」
この会話は、もはや俺達の中では恒例というか、おなじみの会話になってきている。
おかげで、どうにか平静を取り戻すことができた。
「今日の夕飯何かなって」
「確かハンバーグって言ってた気がする」
俺の言葉に彼女は嬉しそうに声を弾ませながら言った。
「ほんと!?手作りのハンバーグ食べてみたかったんだ」
彼女のその言葉は、一見すると無邪気なものに見えるが、手作りのハンバーグを食べたことがないというのはとても悲しいことだと思った。
「俺の分も半分あげるよ」
「えー、そんなに食べれるかなぁ」
貰えないよ、とかではなく食べられるかどうかの心配をする辺り、本当にハンバーグが食べたいんだろう。
「ねえ」
「何?」
先ほどまで築いた明るい空気を切り裂くように、彼女は落ち着いた声色で言った。
「私、君と一緒にいると落ち着くよ」
そう言って彼女は両手で俺の手を掴んだ。
俺は彼女のその行動に、握り返すことはせずにただただ無抵抗のままでいた。
「そっか」
なんて言葉を返していいのかわからず、俺はただそう一言呟いた。
「君は私と一緒にいるの嫌?」
「俺も落ち着くから嫌じゃないよ」
俺はそう即答した。実際、彼女の前では急に横になってしまうくらい気を緩めてしまっているわけだし、落ち着くというのは事実だ。
「よかった」
そう言った瞬間、彼女の俺の手を握る力が少し強まった。
「ねえ」
「何?」
「どうしたらいいのかな、私」
震えた声で、彼女はこぼすように言った。
きっと彼女は自分の生死を天秤にかけているのだろう。どうすればいいのか、その答えは俺にもわからなかった。
「ゆっくり考えればいい。君の命の花はまだ咲いてもいないんだから」
「そうだよね」
俺は彼女の手を握り返した。特に他意はないが、今俺にできることなんてその程度しかないということに気づいたからだ。
「ちゃんと、私を消してくれるんだよね」
「あぁ、約束する」
俺の宣言に彼女は震えた声で「ありがとう」と漏らすように言った。
でももしその時が訪れたら、俺は本当に彼女を殺すことができるのだろうか。答えは分からなかった。だから、今俺にできることは、彼女が死を選んだとしても生きててよかったと思えるようにしてやることと、常に殺す覚悟を研ぎ澄ますことだけだった。
しばらくそのまま横たわっていると、リビングの方から「ご飯できたよー」と母の声が聞こえてきた。
俺たちは母の声を合図に立ち上がり、リビングに向かった。
「わあ」
食卓の上においてあったそれを見て、彼女はプレゼントを渡されたときの子供ような反応を見せた。
食卓の上には、三分割されたプレート皿が四皿置いてあり、その上にはそれぞれ米、ハンバーグ、ブロッコリーのサラダが盛り付けられていた。
「いただきます」
俺達は四人で声を揃えて言った。
そして、ハンバーグに箸を入れる。その瞬間、ハンバーグからは肉汁が溢れ出し、皿を汚した。
思い切ってそれを口に放り込むと、その熱さに思わず口の中でハンバーグを踊らせてしまった。
「ぷはっ」
俺は目の前においてあったコップの水を一気飲みし、難を逃れた。
今度はしっかり息を吹きかけてからもう一度口にそれを放り込むと、今度はしっかり味を感じることができた。
圧倒的な肉の旨味、ジューシーさ、そして噛む度に溢れ出す肉汁、さらにそれに加えてデミグラスソースの味わいが口の中だけでなく体全体を幸せにするようだ。
食べ慣れた俺ですら毎回幸せを感じるこの味を、彼女が食べたらどうなるだろうか。その答えはすぐ隣にあった。
幸せそうな笑みを浮かべながら、頬が膨らむくらいハンバーグや米を口に詰め込んでいる。
「おいひい」
「ふっ、ちゃんと喋れるようになってから言えよ」
「うふさい」
「なんて?」
「んー!!」
彼女は箸を置いてぽこぽこと俺の肩を叩く。まるで子供を相手にしているかのような気分になった。
「うふふ、二人は本当に仲良しね〜」
その言葉に、俺達二人は否定することはなく、食事を続けた。
「そういえばもうすぐ冬休みか」
「まだまだ先でしょ、気が早いよ」
「一ヶ月なんてあっという間だぞー?二人は冬休みどっか行かないのか?」
父の言葉に俺は「あー」と声を上げる。
「ルナは行きたいところある?」
俺の言葉に彼女は焦ることなくゆっくり咀嚼し、しっかり飲み込んでから口を開いた。
「イルミネーションとか見てみたい」
「イルミネーションか」
地元でも見ることができるが、綺麗ではあるものの、正直どこか物足りなさを感じるレベルのイルミネーションしかない。
「あー、それなら小樽とか行けばいいんじゃないか?」
父の言葉に俺は中一の頃の記憶を想起させた。
小樽で自主研修をすることになった俺達は、学校から支給されたパンフレットを見ていた。そこには、小樽運河の冬のイルミネーションは絶景であるということが書かれていた。
当時の俺達は、自主研修は夕方までで、確実に見ることができないのに書かれていたそれに行き場のない怒りを感じていた。
「なるほど、確かにいいかもしれないな。ルナ、行ってみるか?」
「うん、行きたい!いついく?」
「うーん、それは追々決めようか」
「了解、私はいつでも大丈夫だよ!」
そんな会話をしながら、俺達は箸を進めていった。
一家団欒の食事は、まさに幸せと言えるだろう。
「今日も送っていくよ」
食事も終えて、家を出ようとするルナに俺はそう声をかけた。
「いいよ、毎回毎回送ってもらうのは悪いから」
「でも」
「子供じゃないんだから、少しくらい信用して」
彼女が拗ねたように言ったので、俺はそれを了承することにした。
「分かったよ。気をつけてね」
「うん、また明日学校で!」
がチャッと音がして、扉が閉まった。俺はそれを合図に自室へ足を運んだ。
「小樽か」
ベッドに横たわりながら小樽について携帯で調べていく。
イルミネーションが見たいということだったから、日が暮れてから小樽運河に行くのは確定として、それ以外は何をしようか。
おすすめの観光スポットとか、観光プランとか、美味しい食べ物とか、穴場スポットとか。とにかく調べられることは調べて、俺はプランを決めていく。
数時間ほど納得が行くまで調べて、俺は眠りについた。
そして、翌日からも何も変わらない日々が続いた。テストが近いということもあり、平日は真面目に授業を受けて、たまにサボってそれをルナに注意されて。休日はみんなで読書したり雑談したりして、その後はルナと、たまに聖も混ぜて夕食を食べて解散。
着実にルナが聖や両親との距離を縮めていく。そんな日々が数週間続き、テストも終わり雪が積もり始めた頃、三者面談の時期が訪れた。
「光、最近頑張ってるんでしょ?」
「まぁ、うん」
「ならきっと先生からも褒めてもらえるわよね。楽しみだわ」
「頑張ってるって言ってもただ授業受けてるだけだし、そんな期待しないほうがいいんじゃない?」
そんなふうに、俺は廊下で母と雑談しながら待ち時間を潰していた。そんなとき、いよいよ前の家族が教室から出てきて、俺達が呼ばれた。
用意されていた席に座り、俺達は先生と向かい合った。
「お母さん、こんにちは」
「はい、こんにちは」
大人同士の礼儀正しく、そして笑顔を交えた挨拶が交わされた。
「早速本題に入っていきますね」
俺はその言葉に息を呑んだ。今の俺の心境を最も表す日本語を知っている。緊張だ。いくら真面目に授業を受けているとは言え、サボっている期間が長すぎたため、とても不安だ。
「藤野くんですが、えー、前までは授業に顔を出さないことが多かったのですが、最近ではしっかり授業に顔を出すようになりまして、えー、しっかり頑張っていると思います」
俺は先生のその言葉にホッとした。だが、それもつかの間、先生は再び口を開いた。
「それに、前までは教室で友達と話すことなんてほとんどなかったのに、最近では蓮見という生徒と仲良くやっているようで、個人的には安心しました」
その言葉を聞きながら、俺は母の方へ目線を向けた。何だか一瞬ニヤついた表情をこちらに向けた気がするが、見間違いということにしておこう。
「そうなんですね。よかったです。母親としても安心です」
「成績の方もですね、この間あった期末テストの結果もまぁまぁで、英語は七十点、数学が七十八点、社会が八十五点、理科が八十点、国語が九十点とかなりいい結果です。やはりお家でも勉強している様子でしたよね」
「そうですね、たまに椅子に座ったまま寝てるときもあったくらいで」
「はははっ、頑張ったね、藤野くん」
普段の担任らしくない発言に、社交辞令はやめろと思ったが、今回は一応素直に受け取っておこうと思い、俺は「ありがとうございます」と返事をした。
「えー私からはこんなところですね。藤野さんの方から聞いておきたいこととかはありますか?」
「特にありません」
「では、これで以上となります」
思っていたよりも平和かつスマートに俺の三者面談は終わりを迎えた。まぁそもそもが高校生の三者面談なのだから当たり前なのだろうか。
だが、俺は忘れていた。今、この瞬間だけはルナも母親と一緒にいるであろうということを。
扉を開け、ふと次に待っていた家族に目をやると、そこにはルナと、その隣にはかなり化粧の濃い金髪の女性が座っていた。
「あっ」
俺達は思わず声を漏らした。
「ん、何。知り合い?」
ルナの母親らしき人物がそうルナに問いかけるも、ルナは俯きながら「あ、えっと」と言葉を詰まらせていた。
「こんにちは。ルナのクラスメイトの藤野です」
俺は勇気を出して二人との距離を詰め、そう声を発した。
「あぁ、はい。どうも」
「じゃあ」と言って母親らしい人物は席を立ち、ルナの腕を引っ張った。それもかなり力強く。
物語の勇気ある主人公ならこの場面で母親の腕を掴みに行くところだろうが、さすがに俺には他人の家庭にそこまで首を突っ込むことはできなかった。
母ももどかしそうな表情で拳を握っていたが、これが現実だ。他人の家族のことは俺達にはどうしようもできない。だからこそ、俺達はそれ以外で幸せを与えるしかないのだ。彼女に、生きる希望を持ってもらえるように。
翌日からも普通の毎日が続くと思っていた。だが、そうはいかなかった。彼女が学校に来なかったのだ。
メッセージを送ろうかとも思ったが、それで変に彼女にプレッシャーを与えることになってはよくないとか、そんな言い訳ばかりが浮かび、結局連絡することもできなかった。
休日も彼女が家に来ることはなく、一週間が過ぎた。そして、遂に終業式当日、十二月二十五日が訪れた。
俺は彼女の家の前に立っている。雪の積もった古びたアパート、その前に。
俺は意を決して階段を登る。
錆びた金属製の階段は、俺が一段を登る度にガコンと音を鳴らしながら軋む。その様子は今にも崩れてしまいそうに思えた。
階段を登り切り、二階の角部屋へ歩を進める。
カコン、カコンという無機質な足音は、俺の緊張感を高めていく。
不安に思わないわけがない。もちろん、急に訪問したことを怒られないかという不安もあるが、もし彼女の身に何かあったのなら、今俺はその事実を知ることになる。それがたまらなく不安で仕方がなかった。
角部屋にたどり着き、インターホンを鳴らす。
中から足音が聞こえてきて、それから数秒後に鍵の開く音がした。そして、それとほぼ同時に扉が開いた。もし母親が出てきたらどうしようかと思っていたが、その心配は杞憂に終わった。
「はい」と怖がった様子の彼女がドアを一足分にも満たない程度に開いた。
「おはよう」
俺の声にルナはびっくりしたという様子で目を見開き、扉を開いた。
「何しに来たの」
そう言う彼女の声は、初めて会話をしたとき、そしてカラオケのときのように暗いものだった。
「会いに来たんだけど」
「学校は?」
「これから行くつもりだけど」
俺の言葉に彼女はどこか辛そうに、悲しそうに目を細めながら「じゃあ早く行って」と言って扉を閉めようとした。
俺はそんな彼女に反して、扉を開いて口を開いた。
「何があった。中に親いる?」
「いない」
「じゃあ話してくれないか?」
俺の言葉に、彼女は一拍の沈黙のあと、悲しそうな表情を浮かべながら口を開いた。
「先生から褒められた。蓮見さんはすごく頑張ってるって。でもお母さんは微塵も興味を持たなかった。それどころか終わってから『私の娘のくせに』って言った。私、お母さんに認められたくて頑張ってたのにね。もう頑張る意味ないなって」
まただ、彼女を悲しませるのはまた母親だった。
「私、もうなんで頑張ってるのかわかんないよ。なんで誰も認めてくれないの?なんで」
彼女は泣きながら言った。
彼女の気持ちは少しだけわかる。誰かに認めてほしいなんて多分、当たり前のことだ。そして、それが一切叶わない人はそうそういない。少し叶わないだけで泣く人もいるというのに、唯一認めてくれたのは先生だけ。しかも、それも表面的な頑張りに対する評価でしかない。これが一体どれだけ辛いか、俺には分からなかった。
「ルナは頑張ってるよ。それは俺が見てる。辛くても頑張って生きてきたんだよな。わかってる。だからもう無理しなくたっていい。無理に笑わなくたっていい。自由に生きたっていい。俺がそれを認める。聖も、父さんも母さんも認める。頑張ったときは、頑張ったことも認める」
俺の言葉に、ルナは泣きながら頷いた。
「だから、母親に捕らわれるな。ルナには俺達がいるだろ」
その言葉に彼女は泣き崩れた。
随分口が達者になったなと、自分で思った。以前の俺なら泣いている彼女を泣き止ませることはできても、苦しい彼女から涙を出させるなんて事はできなかった。
俺は泣き崩れた彼女に目線が合うようにしゃがんで、肩に手を置いた。
その光景は、いつかカラオケで見た光景を連想させるものだった。でも、あの頃とは俺もルナも違う。
「女の子を泣かせたなら、責任を取れ」、父の言葉だ。それに、いつか小説で読んだことのある一節でもある。
俺は何度自分の言ったことを曲げただろうか。
「ルナ」
「何?」
「愛してる。この世の誰よりも」
俺の言葉に彼女は目を見開いた。そしてそれと同時に俺に飛びついてきた。それによって俺の体勢が崩れ、あぐらの姿勢になる。
俺は頭と背中に手を回し、彼女を抱きとめた。
彼女に愛を伝えるつもりなんてなかった。もしかしたらどこかで伝えたいとは思っていたのかもしれない。でも、実際に伝えるつもりはなかった。
それでも俺は彼女を心の底から愛したくなった。それは俺が誰よりも近くで彼女を支えるために必要なことだったから。
俺はあの時、カラオケでルナに誓約した。生きてて良かったって思えるくらいの思い出を作るって。それを果たすためなら、俺は何を曲げたっていい。
しばらくの間抱きしめ合って、彼女が泣き止んだ頃、抱擁は終わりを告げた。
「それじゃあ私、学校行く準備してくる」
あくまでももう大丈夫だと言うように平静を気取った彼女の手を俺は掴んだ。
「いつでもいいって言ったよな」
「えっ?」
「小樽行くの、いつでもいいって言ったよな」
「うん、でもそれは冬休み入ってからって話で―」
「今日、行かないか?」
俺の言葉に彼女は困惑した表情を浮かべた。
「でも、学校行かないと」
「いいだろ、別に。俺と学校、どっちが大事?」
その質問に彼女は一瞬困惑したように目を見開いた。それはそうだろう。この質問をした俺ですらまた自分の中で何かが変化した感覚があったのだから。
でも、彼女は堂々と答えた。
「君!!!」
そう宣言した彼女は、とびっきりの笑みを浮かべていた。
俺は、それを引き出せたのならここに来て、ここで彼女に愛を伝えてよかったと思うことができた。
「じゃあ、行こう」
そう言って俺は立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。
