とても歌なんて歌える空気ではなかった。でも、それでも俺は彼女の傍に座っていた。
 ただ隣にいるだけだ。俺にはそれしかできない。そんな自分が、心底嫌になった。
「ねえ」
 スピーカーから繰り返される音声に負けないように、いつもより少しだけ声を張ってルナが言った。
「何?」
「もうそろそろ帰らなきゃだね」
 その言葉に、俺は携帯の画面から現在時刻を確認する。そこには午後五時四十分と書かれていた。
「もうこんな時間か」
 彼女の言いたいことはなんとなくわかる。家に帰りたくないのだろう。でも、俺にはどうすることもできない。
「明日、空いてる?」
 せめて未来くらいには希望を持たせたいと思った俺はそう切り出した。
「うん」
「家、くる?幼なじみと俺の家で遊ぶ予定だから、ルナも一緒にどう?」
「いいの?」
 俺の誘いにルナは少しだけ目を輝かせた。そうだ、こうやって少しずつ生きる楽しさを与えていけばいいんだと思った。
 でも、それでももし彼女が死を選ぶなら、この期間は最期の瞬間を迎える俺達二人にとって、辛いものになるのではないか。そんな考えが頭をよぎったが、気のせいだと思うことにした。
「うん、いいよ」
「行く、行きたい」
 家に行きたいという言葉が頭の中で勝手に生きたいに変換された。
 きっと俺は、自分の行動が彼女を助けていると思いたいんだろう。
「わかった。なら今日はもう帰ろうか」
「うん」
 儚げな表情を浮かべるルナに俺は今何ができるかを考えてみた。そして、一つだけ彼女に喜んでもらえるかもしれないものを思い出した。
「そういえば」
 俺はバッグを漁り、一触りすれば一瞬でそれだとわかる物を取り出して言った。
「よかったらこれ」
「なに、これ」
 俺から手渡されたそれを見て、彼女はぽかんとした様子で声を上げた。そのリアクションが自然だろう。俺だってきっと、急に「けんぱち」を手渡されたらそんな反応になると思う。それくらい冷静に見てみれば不格好な物を選んでしまった。
「あー、えっと、街を歩いてたら偶然見つけて。いらなかったら返してくれていいんだけど」
 俺の言葉に彼女は首を横に振って微笑みを浮かべ、胸で俺の渡したそれをぎゅっと抱き締めて言った。
「ううん。大切にするね。ありがとう」
 彼女の言葉に俺はほっと胸を撫で下ろし、部屋から出た。
 まだ少し暗い表情をする彼女に僕がかけることができたのは、「また来よう」の一言だけだった。
「ありがとうございました」
 受付に辿り着くと、店員の愛想のいいお礼の挨拶が俺達を歓迎してくれた。その挨拶に軽くお辞儀を返したあと、自動精算機に伝票を投入した。
「俺が払うから」
 そう言って俺は千円札を精算機に入れ、確定ボタンを押した。「申し訳ないよ」というルナを差し置いてだ。俺なりの気遣いなのだが、果たしてよかったのだろうか。
「よし、行こう」
 精算機から出てきた小銭を財布にしまい、俺はそう言って店の出口へ向かった。
 エスカレーターを降りると、外が見えた。すでに外は真っ暗だった。
「危ないし、送っていくよ」
「いいよ、申し訳ないから」
 そう言って両手を振る彼女が俺は気に食わなかったので、殺し屋の立場を利用することにした。
「ターゲットの家を知っていれば殺しに役立つかもしれないだろ?」
「でも屋上でって決まって―」
「うるさい」
 ふふっと向かい合ってお互いに笑みをこぼした。
 はたから見ればかなり歪な関係だろうが、今はこれでいい。
「じゃあ、送ってもらおうかな」
「うん」
 そう言って俺達は外に出た。
 まだ雪は降っていないとはいえ、さすがに冷え込んでいる。彼女は寒そうに身を縮めた。
「これ、使うか?」
 俺はそう言って着ていたコートを脱いだ。彼女も一枚上着を羽織っているとはいえ、目の前で女子が寒そうにしているのに何もしないほど男は廃れていない。
「いやいいよ。それ私に貸したら光くんが寒いでしょ」
 俺は薄手のジャンパーを一枚着ているが、それだけで乗り切れるほど北海道の十一月は甘くはない。
「いや、全然平気。ほら」
 父の真似をするように、俺はそのコートを彼女に投げた。俺の取る行動は、基本全てが父か母の受け売りだ。
「ありがと」
 彼女はそう言って俺のコートを羽織った。俺の身長に合わせたそれは、彼女には何回りも大きく、足はかなりの面積が隠れ、手元は萌え袖のようになっていた。
「ふっ」
 俺はその光景が何だか面白くて、つい鼻で笑ってしまった。
「ねえ、今鼻で笑ったでしょ」
「いや、口です」
「どっちにしても笑ってるじゃん」
 彼女はそう言って頬を膨らませた。いつも通りの彼女の様子に俺は少し安心した。だが、一つだけいつもと違う点があった。それは、彼女の表情がとても自然になったということだ。
 前までの笑みが不自然だったかと言われればそうではないのだが、なんというか、表情を作らなくなったというのだろうか。自分の素の表情を出しているように見える。もしかすると彼女にとってはまだ素には程遠いのかもしれないが、少しでも彼女が楽になっていればいいなと思った。
「もう、光くんが貸したんだからね」
「わかってるよ」
 俺達は信号の前で立ち止まった。特に話すこともなく、俺達の間には沈黙が流れ、車の通る音だけが周囲を賑わせた。
「あ、そういえば」
「うん?」
「光って呼んでもいいんだね」
「あー、うん。まぁ色々あってな。俺は俺でいいと思ったんだ」
 俺の言葉に彼女は俯きながらどこか悲しそうに「そっか」と言った。
「ルナもルナでいいんだ」なんて言葉をもう一度伝えたかったが、どうやらあの時の俺は今の俺とは別人のようで、そんな言葉は口を開いても出てこなかった。
 そんなことを考えているうちに、信号が青になり俺達は歩を進めた。
「来週、席替えだね」
 歩いていると、彼女が唐突に話題を振ってきた。どうやら彼女は沈黙が好きではないようだ。いや、誰でもあまり親しくない人間との沈黙は気まずいものかもしれない。
「そうだな。ちゃんと授業受けたからいい席になるといいけど」
「光くんはどんな席がご所望なの?」
「うーん、一番後ろでできるだけ窓側か廊下側。今までが廊下側だったから今度は窓際が良いな」
「そっか、私は光くんの隣が良いな」
 予想していなかった言葉に、俺は一瞬浮かせた足を地面につけ直すのが遅れた。
「そっか、そうなるといいね」
「うん、光くんは友達とかと隣になりたいって思わないの、って友達いないのか」
「うるさいよ」
「図星じゃん」
「うるさいって」
 それから少しの沈黙が流れた。
「急に黙られると気まずいな」
「君がうるさいって言ったんじゃないの?」
「ごめんごめん」
「ごめんは一回!」
「ごめーん」
 ふざけて言ってみせると、彼女はふふっと笑みをこぼした。取り繕われていない、純粋な笑みだった。俺はこれが引き出せたことが何より嬉しかった。
「あ、歩道橋!寄っていこうよ」
 彼女はそう言って足元の見えづらい暗闇を走った。
 小学校の前を走っているということと、華奢な体格と子供らしい行動がまるで彼女を小学生のように思わせた。
 転ばないかと心配していたが、それは杞憂に終わった。
 階段も駆け上がり、彼女は歩道橋の中心に立った。俺はそんな彼女とは数歩分離れて辺りの景色を眺める。
「この前来たばっかりなのに、久しぶりに感じるな」
「そうだね、この前は明るいうちに来たのもあるかもね」
 街灯が歩道橋を微かに照らし、ヘッドライトが次々に通り過ぎていく。建物はすでに眠っているように暗く、窓から少し部屋の光が溢れている。それはどこか神秘的な光景だった。
「それで、君は私に何が聞きたいの?」
 デジャブを感じる言葉を彼女は呟くように言った。今の俺に聞きたいことがあることを見抜いたのか、はたまたふざけただけなのか。真偽は不明だ。
「それじゃあ質問を一つ」
 俺は一呼吸置いてから言った。
「どうぞ」
 彼女は辺りの景色を眺めるのをやめ、こちらを向いて言った。
「君は、何で笑ってるんだ?」
 きっと彼女はデジャブを感じただろう。俺なりの意趣返しだ。
「この間も言ったでしょ」
 そう言って彼女は続きを語ろうとしたが、俺はそれを遮って口を開いた。
「そうだな。笑っていたい理由は分かった。でも、無理に笑う理由にはなってない。そうだろ?無理に笑ったってただ辛いだけだ。それは不幸じゃないと言えることにはならないだろ」
 俺が言い終えると、彼女は俺の顔を見つめた。
「うん、そうかもしれないね。でも私は笑っていたいの」
「なんで?」
「本当に幼い頃の記憶だからもうあんまり覚えてないけど、笑顔がかわいいって誰かから言われたことがあるの。お母さんだったかもしれないし、スーパーの店員さんだったかもしれない。もしかしたらただの通りすがりの人かもしれない。でも、私はその言葉が嬉しかった。だから笑ってる」
「でも―」
 今度はルナが俺の言葉を遮って言った。
「そのほうがみんな好きでいてくれるでしょ」
と。
 その言葉は重かった。彼女は、誰かに心から好きでいてもらうために、愛されるために、自分の心を傷つけているのだ。
「俺は今のルナのほうが好きだよ」
 俺はまた自分の変化を感じ取った。聖に名前呼びを許した時と似た感覚だ。頭の中で何かがふっと抜けたような感覚。それに呼応して体も高揚するような、不思議な感覚。
「君がそう言ってくれるのなら、光くんの前では無理に作らなくてもいいのかもね」
 彼女は悲しそうに、でも嬉しそうに目を閉じて笑った。
 そんな彼女の瞳から一粒の涙が溢れたことを、俺は見逃さなかった。
 俺は、彼女との距離をつめた。
「え、どうしたの」
 俺のいきなりの行動に彼女がそう声を上げ、足を半歩後ろに下げた瞬間、俺は彼女の背中に両手を回した。
 着慣れたコートの少しザラッとした感触が、掌全体を覆った。
「大丈夫、俺以外にも三人はルナを認めてくれる人がいる」
 彼女は困惑した様子で「誰?」と声を上げた。
 俺の胸に埋もれた彼女の声はいつもよりも少しだけこもっていた。
「俺の幼馴染と俺の両親」
 奇しくもそれは彼女が感じたことがないであろう友愛、もしくは親愛と家族愛だった。人がほとんど触れたことがあるであろう愛は、他に恋愛が思い浮かんだ。
 俺が、桜が散るまでに彼女に恋愛を教える。
 誰に誓うでもなく、心のなかでそう決めた。俺は彼女のことが好きになったのかもしれない。彼女の可愛いところを見て好きになったとかそんな綺麗事を言うつもりはない。きっと同情かもしれない。でも、大事なのは好きになる理由より何をもって好きでい続けるかだと思う。
「そっか」
 彼女は震えた声で言いながら俺の胸元を掴んだ。
「明日、楽しみだな」
「うん」
 彼女の手が俺の背中に回された。
 冷え切った薄手のジャンパーを通して、彼女の手の温かさが伝わってくる。
 それからどのくらいの時間が経っただろうか。歩道橋の階段を登る足音を聞いて、俺たちの抱擁は自然と終わりを告げた。
「ここで大丈夫」
 彼女がそう告げて俺のコートを手渡したのは、大きい通りを跨いでしばらく歩いた後だった。
 そこにあったのは、白い建物を茶色や緑に染める錆やコケがそこら中にある二階建ての古いアパートだった。
「帰ったらちゃんとご飯食べてゆっくり休めよ」
「うん、ありがとう」
 彼女はそう返事をすると、すぐに階段を登っていった。
 彼女が部屋に入るまでしっかり見届けようと思っていた俺に、二階部分から声がかかった。
「光くん、ありがとう。また明日ね」
「あぁ、また明日」
 俺は微笑みながら手を振る彼女を見上げつつ、いつもよりも少し声を張って返事をした。
 そして彼女はそのまま二階を進み、一番端の部屋に入って行った。
 俺はそれを見届けて、自分の家を目指した。ここからは推定四十分ほど歩くが、彼女と一緒にいられる時間が増えたのなら、それでもいいと思うことができた。
「ただいま」
 俺はそう言いながらリビングに続く扉を開いた。
「おかえり、今日は楽しかった?」
 俺は先ほどの歩道橋での出来事を思い出し、バツが悪くなって「まぁ」とだけ返して洗面所へ向かった。
 手を洗い終え、手を拭きながら鏡を見る。
「やっぱり前髪邪魔かな」
 前髪を右に寄せてみるが、大していい面は拝めなかった。
「変わらないか」
 手を拭き終えた俺はリビングに戻った。すると食卓にいつも通り食事が用意されていた。相変わらずの用意の早さだ。
「いただきます」
 食卓に座った俺達は揃って声を上げた。
「ねえ光」
 母は改まるように箸を置いて口を開いた。
「何?」
「今日、なんかあったんでしょ」
 母の言葉に俺も箸を置いて答える。
「そうかもしれないね」
 事実何かあったことは認めるが、何があったかなんて話す気はなかった。泣いている女の子の頭を撫でたとか、抱きしめたとか、到底親に話せる内容ではないからだ。
「そっか。これだけは言っておくわね」
 母はいつにも増して真剣な表情と声色で言った。
「光が頑張った結果がどうなっても、光は悪くないから」
 母の言葉は今の俺に対する的確な助言と言うことができた。なぜなら今の俺の思考の大半は彼女を救いたい、でも救えなかったら俺が殺す。その結果はすべて俺が悪いというものだったからだ。
「ありがとう、頭の片隅には入れておく」
 俺はそう言いながら味噌汁を啜った。
「ごちそうさま」
 ゆっくり箸を進める母に対し、俺は早めに食事を終えて自室に戻った。もちろん食器は下げた。
 俺はいつも通りリュックを適当に放り投げ、机の上に勉強道具を広げた。
 今日はけんぱちを渡すことができてよかったと思っている。彼女が本心から喜んでくれたかは分からないけれど、人の思いは人を救えると何となく感じているからだ。
 そんなことを考えながら、俺はペンを持った。

 翌日、ピンポーンと音が鳴った。
 集合時間は午後二時と伝えていたのにも関わらず、時計の針は午後一時五十五分を指している。
「はい」
「えっと、蓮見ルナです。光くんのクラスメイトです」
 なんとなく予想はついていたが、インターホンの前にいたのはルナだった。
「あぁ、俺光だよ。鍵空いてるから入ってきて」
「あ、はい!」
 返事を聞いた後、俺は通話を終了して玄関へ向かった。玄関に続く扉を開けると、靴を脱ぎ終えたルナがいた。
 彼女は、黒ベースの縦に白のラインの入ったジャージに、鼠色の羽毛のような素材が使われた暖かそうな服を身にまとっていた。
 昨日とはまた印象の異なる姿に俺はつい魅入りそうになってしまった。
「入っていいよ。そこで手洗って」
「はい」
 彼女は知人の家に来訪することに緊張を感じているのか、何やら敬語が外れない様子だった。
「手洗いました」
 リビングで母にコップを手渡していると、入り口の方からそう声がかかった。
「あら、ルナちゃんこんにちは!」
 母は年齢に似合わない活力に満ち溢れた声でルナにそう声をかけた。
「はい、こんにちは」
 母のそんな声に圧倒されてか、彼女は体の前で両手を結びながらそう言った。
「母さん、威嚇しないで」
「威嚇とは失礼ね。ぺしっ」
 母はそう言って俺の頭に軽くチョップをかました。
「虐待だね。法廷で会いましょう」
「何を、このこのー」
 今度はそう言いながら俺の背中を握り拳で何回も殴ってきた。
「ふふっ」
 その様子にルナは笑みをこぼした。
 俺達はそれを見て小競り合いをやめ、コップにお茶をいれた。
「先に俺の部屋行ってて。そこだから」
 そう言って俺は玄関から向かって後ろ側にある部屋を指差した。
「わかった」
 俺達の様子に和んだのか、彼女から敬語は自然と外れていた。
 お茶の入ったコップを両手に一つずつ抱えて俺は自室に向かった。
「好きな飲み物とか聞かなくてごめん。お茶飲める?」
 俺の言葉に彼女は「うん」と頷きながら答えた。
 俺はその言葉に安堵し、彼女の前にあるテーブルにお茶を置いた。
「よいしょ」とおじさんのように言いながら座ってしまう癖がついたのは、きっと父の影響だろう。
「幼馴染さんはこないの?」
「あー、あいつは遅刻癖あるから多分もう少ししたら来るよ。悪いな。俺なんかと二人きりで」
 俺の言葉にお茶を飲んでいたルナはむっとした表情を向けながらコップを机に置いた。
「なんかって言い方よくないと思う」
「ごめん」
「分かればいいのです」
 ふふっと笑いながら目を閉じる彼女は、いつもよりも可愛く感じた。
「すまんすまん、遅れたわー」
 そのとき、そんな声がリビングの方から聞こえてきた。
「ちょっとごめん、行ってくる」
 俺は「よっこらしょ」と言って立ち上がり、リビングに続く扉を開いた。
「お、光。やっほー」
「うん、オレンジジュースは自分で汲めよ」
 それくらいやってあげてもいいじゃないと母がリビングのソファに腰掛けながら言った。
 それを言うなら母がやればいいのではないかと思った。
「いいんですよ。今に始まったことじゃないし」
 そう言って聖は慣れた手つきでキッチンに侵入し、食器棚からコップを、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して汲み始めた。
「よし、今行くわ」
 そう言って溢れんばかりのオレンジジュースを入れたコップを持ちながら早足でこちらに駆けてきた。
「溢れる溢れる、溢れるから」
「おぉ、悪い悪い」
 無事に俺の部屋まで辿り着いた聖と共に中へ入った。
 聖が俺の左隣に座り、男二人とルナが向き合う形になった。
「どうも、南川聖って言います。よろしくね」
「はい、蓮見ルナです。よろしくお願いします」
「敬語はなしで行こう。俺たち同い年だしな」
「あ、うん。わかった」
 陽キャ同士の会話はこんなにもスムーズに進んでいくのだなと感心していると、聖が俺の肩に手を回してきた。
「こいつ、無愛想だと思うけど悪いやつじゃないから仲良くしてやってくれよ」
 余計なお世話というやつだ。本当にこの幼馴染は厄介なことばかりしてくる。
「確かに少し無愛想だけど、意外にノリいいし、いい人だって分かってるよ」
 彼女の言葉に俺は目線を右下にそらしながらお茶を啜った。
 そんな様子に「ふーん」と聖が言った。顔こそ見ていないものの、いやらしい笑みを浮かべていることは想像に容易い。
「さて、俺は光と読書の話をしようかと思ってたんだけど、ルナちゃんは読書とかする?」
 コップいっぱいに汲まれたオレンジジュースを飲みながら聖が言った。
「あんまりかな。でも気にしないで話していいよ」
「いやいや、そうは行かないって。なあ?」
 そう言って聖は再び俺の肩に手を回してきた。とても不愉快だったので、俺はすぐにその手を振り払った。
「まぁ、せっかく三人で集まったしな」
「あー、じゃあ読書会でもするか。ほら、ルナちゃんもそこから何か本取っていいよ」
 まるで自分の部屋かのように聖はそう言った。聖のその言葉にじゃあ遠慮なくという様子でルナは自身の後ろに置いてあった本棚から適当に本を選ぼうとしていた。
「ルナ、俺にも一冊何か取って」
「うん、はいどうぞ」
 俺は彼女から手渡された本の表紙を見た。
 それは、俺が所持している小説の中でもかなりお気に入りの本だった。内容は病気の女の子と二ヶ月間を過ごすというもの。ラストは特に感動的で、読む度に泣いてしまう。
「うぅ」
 一時間半ほどの読書だった。やはり泣いた。
「うわ、それ読んだのか。そりゃ泣くわ」
 俺が机の上に置いた本を見て聖はそう納得しながら俺の肩に手を置いた。もちろん不愉快だったので即振り払ったが。
「そんなに感動的なの?」
 ルナも本を読み切ったようで、机の上に本を置きながら言った。
「そりゃもう最高だよ」
 俺達は声を揃えて言った。
 分かってるじゃんと俺達は拳を合わせ、その様子を見てルナが笑う。
「じゃあ感想会するか」
 俺の言葉に聖が「まだ読み終わってないんだけど」と言った。
「早くして」
 今度は俺とルナが声を揃えて言った。
「ふふっ、はははっ」
 俺達は聖を差し置いて二人で笑い合った。
 お互いに、心の底からの笑いだった。こんな何でもない会話で笑うことができるのは、きっと俺と彼女、そして聖との間に友愛があるからだろう。
 その事実が、何より嬉しかった。
 感想会も終わり、時刻は午後四時過ぎとなっていた。
「あー疲れた疲れた。ってか満足したから俺帰るわ」
「マジ?もっと話したかったわ」
 俺の言葉に聖は「また来てやるから」と言って俺の肩に手を回した。もちろん、振り払った。
「ははーっ、冷てえ」
 聖は目を腕で擦り、泣き真似をしながら言った。
「ひじくん、どんまい」
「ルナちゃん、ありがとう」
 感想会の間に二人の距離はグンと縮まっていった。とても喜ばしいことだ。
「じゃあ二人ともまたな」
「おう」
「またねー」
 俺達はそう言って手を振り、聖を見送った。
 リビングから「お邪魔しました」「はーい」なんて会話が聞こえたあと、俺達の間には静寂が訪れた。
「さて、何しようか」
 とりあえずそう言ってみるものの、女子と部屋で二人きりなんて経験が無いため、どうしていいかわからなかった。
「うーん」
 どうやらそれはルナも同じなようで、顎に手を添えながら唸っていた。
「ねえ」
「何?」
「隣、行っていい?」
 彼女はよく俺の想定を上回る事を平気で言ってくる。正直に言って、ドキドキしてしまうから勘弁して欲しい。
「うん。いいよ」
 そんな素振りを見せてしまってはいけないと思い、必死に平静を取り繕いながらそう返事をした。
「じゃあ」と言って彼女は俺の隣に座った。彼女が隣に座ると、女子特有のシャンプーの香りが鼻に伝わってくる。
「ねえ」
「はい」
「何で敬語?」
「何でもないです」
「ふーん」
 会話がどこかぎこちないものになってしまった。このままではまずいと思った俺は、話を切り出すことにした。
「そういえば、夕飯作ってくれるらしいけど食べていくか?」
 俺の言葉にルナは「え、いいの?」と嬉しそうに声を上げた。
「うん。両親も一緒だけど、それでいいなら」
「ぜひお願いします!」
「了解」
 一時的に場を凌ぐことはできたし、今後の予定を立てることにも成功したから結果オーライではあるのだが、再び沈黙が訪れた。
 聖との沈黙は一切気にならないというのに、ルナとの沈黙はなぜか気にしてしまう。
「ねえ」
 沈黙を切り裂くように、ルナが声を発した。
「何?」
 切り裂いた沈黙を、もとに戻すようにルナは黙った。そして、少し時間が流れてから言った。
「君は、私のことをどう思ってるの?」
 この問いは、安易に「友達だよ」なんて答えていいものには感じられなかった。
 俺は必死に頭を回した。何て答えるのが正解なのかと。
「…ターゲットだよ」
 俺は全てを誤魔化すようにそう言った。
「そっか」
 彼女はそう言うと俺の両頬に手を添え、俺を無理やり彼女の方に向かせた。
「どうした、いきなり」
 俺は目のやり場に困りながら慌ててそう返事をした。
「昨日の仕返し」
「…っ!」
 彼女は耳元まで顔を近づけてそう囁くように言った。そして、続けてこう言った。
「ちゃんと殺してよ」
と。
 俺はどこかで勘違いしていたのかもしれない。彼女は生きる選択をしてくれると。そんなの、これからどうなるかなんてわからないのに。
「君が桜が散るまで死にたいと思っていたらね」
 俺は緊張も何もかも忘れて、彼女の顔を見つめながらそう返事をした。
 彼女の顔は、俺の顔のすぐそばにあった。俺が拳二つ分くらい頭を前に進めてしまえば額と額が衝突するくらい、すぐそばに。
「ねえ」
 彼女は顔を離すことなく言った。
「何?」
 この会話を、俺達は何度繰り返したのだろうか。そして、これから何度繰り返していくのだろうか。
「君は私のヒーロー?殺し屋?それとも…」
 それから先が語られることはなかった。だから俺は二択で考えることにした。
 俺が彼女を殺すことはあっても、救うことはないだろう。確かに、俺は彼女を救いたいと願っているが、結局生きるか死ぬかは彼女次第で、彼女が生きることを選んだのならそれは彼女の強さだ。それはきっと、俺が救ったなんて言っていいものではない。
「殺し屋だ」
 悩んだ末に、そう返事をした。彼女は納得したように笑みを浮かべ、「じゃあ、よろしくね」と言って顔を離した。
「なあ」
「何?」
 言ったそばからこの会話だ。もっとも、今回は立場が逆だが。
「心臓に悪いことはしないでくれ」
「何のこと?」
 彼女はわざとらしい笑みを浮かべながら言った。
「分かってるだろ」
「知らなーい」
「お前なぁ」
 俺の言葉にふふっと彼女が笑った。
 俺は彼女が笑うと何も言い返せなくなる。彼女が楽しんでいてくれているのならそれでいいかと、そう思ってしまうのだ。
 それから、他愛ない会話を繰り広げながら夕食を待った。
 途中、キッチンから香ってくるカレーのいい匂いに「飯テロだー!」と嘆くルナの姿を見たが、気のせいということにしておこう。
「ご飯できたよー」
 母の言葉に、俺達は「はーい」と返し、リビングへ出た。すると、すでに食卓には四人分の皿が用意されていて、その上にはカレーライスが乗っていた。それも具材たっぷりの。
 二階から父も降りてきて、一家全員が揃った。
「いただきます」
 いつもより少し賑やかな挨拶がリビングに響き、食事が始まった。
「うーん!美味しいです!」
「そう?良かった」
「ははっ、ルナちゃんは本当にいい子だなぁ」
「父さん?ルナちゃんはって何?」
「はははっ、父さんちょっとよくわからないなぁ」
「母さん、チョップよろしく」
「エイヤッ」
「あひんっ」
 そんな俺にとっての日常が、ルナにとっては非日常だったのだろう。
 彼女は笑いながら泣いていた。
「ごめ、ごめんなさい。ご飯中に」
「ルナちゃん、気にしなくていい」
「うん、ここは我が家だと思っていいのよ」
 両親のそんな声に、俺の涙腺まで揺らいだのだから、当の本人は涙腺が崩壊するに決まっているだろう。
「うぅ、ありがとうございます」
 ルナはスプーンを置いて泣きじゃくっていた。 俺は、その様子がいたたまれなかったので、意を決して彼女のスプーンを手に取った。
 そして、彼女のカレーライスを多すぎない程度にすくった。
「ルナ、あーん」
 そう言って俺はルナの前にスプーンを置き、その下に手を添えた。
「あーん」
 泣いているからか、何の躊躇もなくルナは俺に差し出されたカレーをパクリと頬張った。
「美味しい?」
「美味しいよぉ」
「ははっ」
 そう言いながら俺はつい彼女の頭を撫でてしまった。俺はそこでハッとした。
 そう、両親がいることに気付いた。きっと煽られると思った。だが、俺のそんな予想とは真逆に、両親は見て見ぬふりをしながらカレーを食していた。
「ゆっくり食べよう」
 そう言って俺はスプーンを皿に置き直し、彼女の頭を撫で続けた。
「うん、ありがとう。もう大丈夫」
 それから少し経って、彼女はそう言葉を発してスプーンを手に取り、大きな口を開けてカレーを頬張り始めた。
「お、ルナちゃんいい食べっぷり。父さんも負けてられないなぁ」
 そう言って父さんは部屋着の袖を捲ってみせた。
「母さん、よろしく」
「エイヤッ」
「あひんっ」
 今度はその様子にルナも目を擦りながらも笑ってみせた。
「あははっ」
 そして、こちらを見てこう言った。
「ありがとう。光くん」
 何の疑念もない、純粋な笑みを見た。
 二度目のそれは、また涙に染まってはいたけれど、やはりとても綺麗だった。