しばらく両親に弄ばれた後、自室に戻ってベッドに飛び込んだ。
うつぶせの姿勢のまま思考を巡らせていると、普段よりも若干息がしづらく、苦しさを感じた。
「君は自分が愛されてるって自覚したことある?」
そんな彼女の言葉が、まるで本当にもう一度耳に入ったかのように再生される。
「なかったよ」
そう、俺は自分が愛されているなんて考えたこともなかった。恋愛とかそんなものとは無縁だと思っていた。でも、俺には家族愛も、友愛もあった。
あの質問をした彼女は、きっと自分は愛されていないと思っているのだろう。
だからこそ、このまま死なせるわけには行かない。
人は、愛を知らないまま死んではいけない。これが俺の持論になった。
「よく見たらダッセェな」
俺はベッドの真隣に設置された机の上に置いてあるけんぱちに目を向けた。
ふかふかの白と茶色の毛並みに、丸みを帯びた犬のような見た目に、凛々しい猫の尻尾。そこに不格好につけられたストラップ。女子高生がこれを渡されて喜ぶかと言われると、些か疑問を抱く。
でも、これで人からの愛を少しでも理解してもらえればと、そう思った。
「本当はもっと性格も良くて顔もいいやつに気づかせてもらえれば幸せなんだろうけどな」
喜んでもらえなかった時の言い訳をするように俺は言った。
それからしばらくスマホをいじって、夜も更けてきたところで俺はすんなりと眠りについた。
翌日、学校に登校した俺は何事もなく自分の席に座った。
「藤野くん、おはよ」
少しずつ聞き慣れてきた声に、俺の名前が呼ばれた。予想していなかった声かけに俺は少し驚いたが、そんな素振りは見せずに淡々と返事をする。
「あぁ、おはよう」
「あ、そういえばなんだけど」
彼女は掌で握り拳をポンと叩きながら言った。
「うん?」
「土曜日、現地集合って、場所どこだと思ってる?」
彼女はいつも喋るよりも少し小さい声量で言った。目立ちたくない俺に気を遣ってくれたのだろう。
「激安の殿堂のとこにあるやつだろ」
俺がそう言うとルナはふふっと笑って「そうだね」と言った。
「分かってるなら良かった、じゃあまたね」
彼女はそう言って自分の席に戻り、周囲の友人と喋りだした。それも満面の笑みで。
正直、助かったと思った。彼女はクラスでの知名度がとても高いから、俺みたいな陰キャと話していると俺まで注目を浴びてしまう。現に、先程ルナが俺に挨拶をしただけで教室内の空気が少し変わったのがわかった。
やれやれ、本当に面倒な依頼主、もしくはターゲットだなと思った。
そんなことを考えていると、チャイムの音が鳴り響いた。そして、ワンテンポ遅れて担任が「はい、ホームルームやるぞー」と言って教室に入ってきた。
それを合図にするかのように、みんなが一斉に立ち上がり、日直の号令が飛ぶ。
「気をつけ」
「おはようございます」
「おはようございます」
そう言って一礼した後、椅子を引いて席に座った。
何事もなくいつも通りにホームルームが終了すると思っていた矢先、先生が言った。
「よーし、来週の月曜席替えするぞ」
唐突な死の宣告に俺は驚愕した。
もし席が前になってしまえば、いないことが後ろよりも目立つし、目の届かない位置に人も増える。それだけはどうにか勘弁願いたいものだ。
「はい、じゃあホームルーム終わりなー」
それ以外には特にこれと言って変わったことはなく、朝の会は終了した。
「はあ、一番後ろの席になることを願っておこう」
そう言って立ち上がろうと机に手を置いたとき、「ねえ」と俺を呼び止める声がした。
「何?」
「今日もサボり?」
そう、蓮見ルナの声だ。
「うん。そうだけど」
俺が平然とそう言うと彼女はため息をついて言った。
「はあ、そんなんじゃ席替え運悪くなるよ?」
これからの人生でそのうち必要がなくなるであろう運は、今の俺には必須なものだった。
「それは困るな。なんだ、授業受けたら上がるのか?」
「うん、私が願っておくから」
彼女は胸に手を当てながら自信ありげに言った。
「頼りない」
「なんか言った?」
「何でもないです」
謎の圧力を感じた。女子って意外と怖いよなと、俺はこのとき思った。
「じゃあ今日は受けてみようかな」
俺の言葉に彼女は意外そうに「え、ほんと?」と声を上げた。
「うん、たまにはいいかなって。席替え運は上げたいし」
あははと笑いながら「なにそれ」と彼女は言った。自分で言ったことなのに、なぜ笑うのか、俺には分からなかった。
「じゃあきっと、席替えの結果は君の望むままだね!」
「そうなるといいね」
そこで俺達の会話は自然と終わり、俺は席に座った。
そして、時間割を確認するためにサイド黒板に目をやった。そこには今日の一時間目は数学だと書かれていた。
初手から俺の苦手教科で、やる気が削がれるなと思いつつ、授業道具を取り出した。まともに授業を受けるつもりで道具を取り出すのは、一体いつぶりだろうか。
「…はい、で、ヘモグロビンが―」
先生が語ろうとしたその時、四限の終わりを告げるチャイムが鳴った。
久々にまともに授業を受けたからか、本当に時間が長く感じる。
「あら、チャイムなっちゃったか。じゃあ今日はここまで、お前らちゃんと飯食えよー」
先生はそう言ってチョークを置き、開いていた教科書を閉じて教室を出ていった。
やっと昼休みだ。俺はそう思って唸り声を上げたい気持ちを抑えながら体を伸ばした。
そして、手を洗うために教室を出て廊下を歩く。普段ならサボっている俺は真っ先に手を洗うことができるため、誰かと肩を並べて歩くなんてことはなく、むしろすれ違うことが多かったが、今はみんなと肩を並べて歩いている。
そんな当たり前のことが、俺にはとても大きいものに感じた。
「やっほー」なんて声が聞こえてくるかと思ったが、それはどうやら見当違いだったようで、何事もなく水飲み場にたどり着くことができた。
帰り道、クラスメイトと笑顔で話す蓮見ルナを見かけた。彼女が張り付けた笑みは、いつもよりもどこか辛そうというか苦しそうというか、そんな表情に見えたが、周りは誰も気にしていなかった。
「いただきます」
各々弁当を取り出し、挨拶をして食事を始めた。
「でさ、本当にあいつがさ…」
「うんうん、そうだね、はははっ」
そんな会話が、黙食に慣れ親しんだ俺の耳に飛び込んでくる。声の主はクラスメイトの女子と蓮見ルナだ。
ふと彼女の方に目線をやる。窓辺の最前列で後ろの席の友人と話す彼女の目は、笑っていないように見えた。口も声も笑っている。でも、目だけが笑っていない。そして、それを誰も気にしない。いや、気づいていないのかもしれない。もしかしたら、俺も気づかなかっただけで、彼女は朝からあんな表情を浮かべていたのかもしれない。
彼女はどうして笑顔を作るのか。その答えは以前聞いた。
「不幸な人には不幸でいろっていう人?」
と。
つまりは、不幸だから笑えないんじゃなくて、不幸でも笑っていたいんだということなんだろう。
でも、無理をしてまで笑う理由にはなっていない。だって、人の前で無理をしてまで笑顔を作るなんて、そんなの余計に不幸だろう。
彼女はなぜ、笑うのだろう。そんな疑問を抱えたまま俺は食事を終えた。どんな味がしたのかはもう覚えていない。
「一六〇〇年、関ヶ原の戦いが起きて―」
現在俺は六限の授業を受けている。だが、内容はほとんど頭に入ってきていない。
先生が語り始めた瞬間だけ意識が現実に戻ってきて、語り続けている最中に考え事に夢中になってしまう。
彼女はなぜ、笑うのか。
そんなことを考えているとき、キーンコーンカーンコーンと音が鳴った。やっと全ての授業が終わったのだ。この音がこんなにも嬉しいのは小学生以来じゃないだろうか。
小学生の頃は、適当に授業を受けて、チャイムを合図に家に帰り、次の瞬間には家を飛び出して公園に向かっていた。あの頃はただのチャイムが本当に嬉しかった。
「じゃあなー」
「ういーおつかれー」
そんな何でもない会話の中を、リュックを背負った俺は一人で歩く。特に何も思うことはない。
雑踏を抜けて、自分の下駄箱に辿り着いた。
上靴をしまい、外靴を取り出して放り投げるように地面に置いた。
ほどけていた靴紐を結び直し、立ち上がって校舎の外に出る。
室内よりも冷たい空気が、俺の肌を凍らせる。
「ひか、藤野くん」
帰路につこうと歩き出した俺をルナが呼び止めた。
「何?」
俺はそう言いながら振り返って彼女の顔を見た。彼女は何か言いたそうだったが、言い出せないという様子だった。
「あの、いや、やっぱり大丈夫。また明日ね」
「あぁ、また明日」
俺にはただそう挨拶を返すことしかできなかった。着実に迫ってきているであろう雑踏と、俺の性格が「待って」なんて言葉を言うことを躊躇った。
「なにもないといいけど」
そんな訳はないのに、俺はそう独り言を呟いた。現実逃避というやつだろう。
夕日に染まる前の街並みは、いつも通りの光景なのに、なんだか色が違うように見えた。季節によって若干色が違うと感じるのは俺だけだろうか。
「よう、ちょっと久しぶりじゃん」
家の近くまで歩くと、後ろからそう声がかかり、それから間もなく肩に聖の手が置かれた。
「そうだな」
「あ、あのラノベの新刊買った?めっちゃ面白いぞ」
「あー、まだ買ってない。今度一緒に本屋行こう」
「いいね、俺のオススメのラノベも紹介するわ!」
他愛もない会話をしながら、俺は思考を巡らせていた。
彼女はなぜ、笑うのか。
「あ、今週末お前んち行っていい?久々にゆっくり話したくてさ」
「あー、日曜ならいいよ」
俺の言葉に聖は疑いの眼差しをしながら言った。
「お前が土曜日空いてない?まさか彼女―」
「違うから」
「えー、でもいい感じの子なんでしょ?」
俺とルナの関係性は一体何なのか。俺ですらまだ答えが出ていない問いだった。
「うーん、強いて言うなら彼女は依頼主とターゲットかな」
俺の言葉に聖は当たり前だが「何言ってんの、お前」と返してきた。それはそうだろう。
「とにかく、お前が思ってるような関係じゃないよ」
「でも女子なんだよな?」
「うん」
「ならワンチャン―」
「ないから」
本当、こいつのこういうところは厄介というかなんというか。
「あ、そういえばこの間本屋で吾郎さん見かけたな」
俺はその言葉に目を見開いた。吾郎、藤野吾郎。俺の実の父親だ。
「俺も見かけたよ」
「ラノベコーナーで」
俺達は声を揃えて言った。
そういえばなぜ父はライトノベル小説を見ていたのだろうか。父はそういった類のものには興味を持っていないはずだし、わざわざ足を運ぶ理由が分からない。
「なんでいるんですか?って聞いたら『光が好きなんだろ?なんか買ってやりたいんだよ』って言ってた」
あの父はまたそうやって家族のことばかり考えているんだなと尊敬と同時に呆れを覚えた。
「なるほどな、そういうことだったのか」
「うん、だからひか、藤野も吾郎さんを大事にしろよ」
「光でいい」
「え?」
「だから、光でいいよ」
自分で放った言葉なのに、まるでそんな気がしないのは、俺が変わったからだろう。
人が変わる瞬間というのは、こんなにも唐突に訪れるのだなと思った。でも不思議と、悪い気はしていない。
「お前、中二の頃から頑なに呼ばせなかったのに急にどうしたんだよ」
「別に。ただ自分の名前を大事にしようと思ったんだよ」
俺の言葉に、聖は嬉しそうに笑いながら俺の側頭部をグリグリ押し込みながら口を開いた。
「これからもよろしくな、光」
「よろしく、聖」
何だか改まると照れくさいなと思いつつもそう返事をした。
「じゃあ、またな」
家の前に辿り着いた俺はそう言って掌を聖に差し出した。
俺のその様子に、聖は一瞬驚いたように目を見開いてから俺の掌に向かって自分の掌を思いきり振りかぶった。
「おう、またなっと」
俺の掌と聖の掌が当たるその瞬間、パチンッと良い音が鳴った。
なんというか、友情はいいものなんだなと改めて思った。
「はあ、疲れたな」
寝る支度をすべて終えた俺は、まだ水曜日だということに若干の絶望を感じながら、そう机の上でこぼした。
「テストも近いし、多少は勉強しないとだめだな」
現在時刻は午後十一時。良い子は寝る時間だが、この世に良い子は何人存在するのだろうか。
「流石にサボりすぎたな」
ワークを開いた俺は、暗記しなければいけない単語の量に辟易しながら筆箱からペンを取り出し、それを握った。
十五分経って、携帯に連絡が来ていないか確認をして。
また十五分経って、また携帯を確認して。
もう何度かそれを繰り返した後、姿勢を横にすることもなく、気が付けば俺は眠りに落ちていた。
「光、起きて」
体を揺さぶる母の声で目が覚めた。
母に起こしてもらうなんていつぶりだろうか。そんなに遅くまで寝てしまったのだろうか。そう思った俺は机に突っ伏したしたまま携帯を開き、時刻を確認した。
そこには、七時三十分と表示されていた。まぁまぁの寝坊だが、まだ電車にも間に合う範疇だ。
「ごめん、今行くから」
俺がそう言うと、母は少し呆れたように「まったく」と言ってリビングに戻っていった。
ふと起き上がろうとすると、後ろから掛け布団を一枚かけられていたことに気付いた。
「ありがとう」
俺はこれをしてくれたであろう母か父もいないのに、一人でそう呟いた。俺なりの精一杯の感謝だ。
そして俺は学校に登校し、サボることなく授業を受けた。積極的な発言もなく、ノートも最低限しか取っていないから、参加したとは言えないが、受けるだけ受けてみた。それは、今までの俺と比べればかなりの進歩だ。
授業中、彼女の方に目をやると常に辛そうにしながら笑みを貼り付ける彼女がいたが、声をかけることはできなかった。
そして、疲れを労うはずの土曜日が訪れた。
俺は、疲れを労うこともなく集合場所へ向かった。俺の足は、緊張のせいか少し重たかった。
「ごめん、待たせたか」
集合場所に到着した俺は、入り口で待ちぼうけていたルナを見て、あわてて駆け寄った。
近くで見てみると、普段の制服姿の彼女にはない魅力があった。
無地の白いトレーナーに、少しゆとりのあるサイズの黒いズボン。シンプルだが、着ている人の素材がいいからか違和感はない。というよりも、よく似合っている。
「ううん」
そう言った彼女の声色は少し暗かった。やはり待たせてしまっていたのだろうかと思い、彼女の顔を見ると、笑っていない。いつも貼り付けてあるはずの笑みが、そこにはなかった。
目から光を失っている、という表現が似合うように目に力が入っておらず、どこか遠いところを眺めるようにしながら少しだけ口角を吊り上げていた。
「行こっか」
その表情を見ているうちに、彼女はそう言って自動ドアを反応させた。
それに連れられるようにして、俺も室内へ入った。
入ると、入ってすぐ向かって右側にある野菜市から植物の匂いがした。
今回俺達が向かうカラオケ店は、大型のディスカウントストアの二階に隣接されている。そのため、入ってすぐの通路にも人がちらほら歩いている。
正面に見えていたエスカレーターに乗り、二階へ上がる。その間、俺達の会話はゼロだ。
もちろん、話しかけようとはしたが、普段とは服装も表情も別人の彼女には、何だか声がかけづらかった。
エスカレーターを登り切り、向かって左に十数歩歩いたところでカラオケ店の看板が見えた。
ルナがドアに手をかざすと、ドアが自動で開いた。
「いらっしゃいませ~」
受付から店員の歓迎の言葉が聞こえる。
前には何組か人が並んでいたため、その最後尾に俺たちも並んだ。
「次の方どうぞ〜」
その声を何度か聞き、やっと俺達の番が回ってきた。沈黙のせいか、たった数分が十分以上に感じた。
受付の前まで進み、俺はルナよりも半歩後ろに立った。
「高校生様二名でお間違い無いですか?」
「はい」
「ご予約などはされていますか?」
「してないです」
「ただいま満室となっておりまして…」
淡々と会話が進んでいく。普段なら店員にも愛想よく振る舞いそうな彼女が、ただひたすら真顔で捌くように店員と会話をしている。その様子にはやはり違和感を覚えた。
「店内でお待ちになられますか?」
「店内で」
「かしこまりました。お名前は?」
「蓮見です」
「かしこまりました。それではあちらに掛けてお待ち下さい」
店員はそう言ってソファのある方に手をかざした。俺たちはその誘導に従ってソファに二人で腰を下ろした。
席に余裕はあるというのにも関わらず、一人分の空白もなく、彼女は俺の隣に座っている。果たして不快じゃないのだろうか。
「なあ」
「何」
彼女が放った「何」にはどことなく聞き覚えがあった。初めて俺達が面識を持ったあの日、涙を流していたあの時聞いたものにそれとなく似ていたのだ。
「近くない?」
俺がそう言うと、彼女は「ごめん」と言って一瞬で俺から距離を取った。
「あぁいや」と、離れてほしかったわけじゃないことを伝えようとしたが、なぜか言葉が出てこなかった。なんとなく、今の彼女が怖かったのかもしれない。
「二名でお待ちの蓮見様」
しばらくの間、店内に流れる音楽を聴いて沈黙を誤魔化したあと、ルナの名前が呼ばれた。
俺たちはそれを合図にソファから立ち上がり、受付へ向かった。
「お待たせいたしました。料金コースは」
恐らく店員はいかがなさいますか?と聞こうとしたのだろうが、彼女はそれを遮って言った。
「ルームで」
ルームってなんだと思った俺は料金表を確認してみる。どうやらドリンクバーなどもついていない一番安い料金コースのようだ。
「かしこまりました。部屋番号はこちらとなっております。お水はセルフサービスとなっております」
店員はそう言ってルナに伝票を渡した。
俺は水を汲んでから部屋に行こうと思い、ドリンクバーの方に向かったのだが、ふとルナの方を見るとすでに部屋に向かっていた。
「お、おい、水」
俺のそんな呼びかけは店内の音楽に負けていなかったはずなのに、虚しく響くだけだった。
仕方なく俺はルナについて行き、右に曲がって、左に曲がって、そんな行程を何度か繰り返して部屋にたどり着いた。
彼女が扉を開けて部屋に入る。俺が入ろうとしたときにはすでに閉まろうとしていた扉を肩で開き直し、俺も部屋に入った。
いつけんぱちを渡そうか、なんて考えながら俺が電気をつけようとした瞬間、俺はルナによって体を前に引っ張られた。
「えっ」
思わず声を上げる。転倒した俺の下には、彼女がいた。俺はソファの手すりに片腕を乗せ、彼女を押し潰さないように耐える。
そのとき、空いていた俺の左手を彼女が掴んだ。そして、それを自分の首元へ持っていく。
「おい」
テレビの光だけに照らされる薄暗い室内で彼女の顔を見ると、辛そうな目をしているはずなのに無表情を貫こうとするような様子だった。その様子は、明らかにいつもの彼女ではない。
首元まで持っていかれた俺の左手は、ルナの両手に握られて彼女の首を絞める。
彼女の細い首は、俺の片手でも絞めることが容易だった。
唸り声もあげずに、顔が赤くなっていく彼女を見て、俺はやっと冷静になって彼女の手を振りほどき、立ち上がった。
「急に何してんだよ」
俺の言葉に彼女は何も言わずに立ち上がった。
そして、一拍の沈黙を置いたあとに真顔のまま口を開いた。
「ねえ」
「何?」
「殺して」
そう言って彼女はその場に崩れて、泣き声をあげた。
一体どうしたというのだろうか。
俺は何をしていいか分からず、ただ呆然と立ち尽くしたあと、しゃがみ込んで彼女の肩に手を置いた。
「どうしたんだ。一体何があった」
俺の問いかけに彼女はヒクヒクと声を上げながら喋り出した。
「お母さんが、四日ぶりに帰ってきて、私のこと、いらないって、いらない子だって」
その言葉に俺は愕然とした。
やっぱり彼女は愛されていなかったんだと思った。でも、まさかここまでとは思っていなかった。
「お父さんは?」
「わた、しが生まれた頃には、もういなくて」
彼女はもう喋るのも辛そうなくらいに泣いていた。
「わかった、わかったよ」
俺はこういう時何をされたら楽になるのかがわからない。だから、俺が愛を知ったきっかけになったことをそのままやることにした。
「ルナはルナだよ」
そう言いながら彼女の頭を右手で撫でた。
すると彼女は擦っていた目を見開きながら、より大きな声で泣いた。
「うわぁぁぁん!!!ごめんなさい!!ごめんなさい!!」
「大丈夫、大丈夫だから」
何が大丈夫なのかはわからないけれど、俺にかけられる言葉なんてこれくらいしか無かった。
本当、俺は使えないやつだ。
彼女は俺の言葉に俺の胸元をぎゅっと握りしめながらまた叫んだ、また泣いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
それから何度も叫んで、泣いて。何十分か経ってから、俺の腕の中で泣き止んだ。
「光くん、ごめんね」
「いいよ。依頼主の話を聞くのは殺し屋の務めだ」
そして、ターゲットを殺すことも。だからこうは言ったが、俺は殺し屋になるつもりはない。
「うん」
「だから、もう少し話してくれないか?」
「いいの?」
「いいよ」
まだ少し涙のにじむ瞼を擦りながら彼女は口を開いた。
「私のお母さんの仕事、ちょっと特殊なんだ」
「うん」
「それで生まれたのが私」
「…うん」
「だから、お父さんは生まれた頃にはいなくなってたし、お母さんはほとんど家にいないの。産んじゃったから、仕方なく金銭的に育てられてる」
壮絶、その話を聞いた俺には、この言葉しか頭に浮かんでこなかった。
「それで、四日前の朝お母さんは私に言ったの」
「あんたなんて、産まなきゃ良かったって」
ドラマではよく聞く言葉だ。俺の耳にも馴染みがある。だが、それを現実で言われれば人が辛いなんてことは至極当然のことだ。
「早く大人になってどっか行けって。今日の朝も寝てる私に同じようなことを言った」
彼女はそう言いながら横腹を痛そうに抑えた。寝ていたのに声が聞こえたということから、よほど大きな声で叫ばれたのだろうということ、それに加えて彼女がされたことも、おおよそ推測ができる。
「お母さんの顔なんて、先生の顔より見てない」
その言葉に俺はなんて返事をしていいかもわからず、ただ沈黙を返した。
「相談できる相手はいないのか。友達とかさ、いつも仲良くしてる子とかいるだろ?」
「あの子達ね、あの子達の前では私はこんなに自分をさらけ出せない。それに、あの子達は私のいない教室で私の悪口を言ってた。うざい、気持ち悪いって」
あまりにもありふれた悪口だ。でも、その言葉が彼女にとってどれだけ重いものなのか、俺には想像もつかなかった。
両親には愛されていなくて、唯一頼れるはずの友人には陰口を言われて。高校一年生にとってはあまりにも重すぎる現実だ。
「そっか」
もう、何を返していいのか俺にはわからなかった。
「だから私、もう諦めたの。ずっと諦めてるの」
「…うん」
「なのに、自分じゃ死ねないの。死にたくないの」
何が言いたいのかは何となく分かった。やっぱり、死にたいんじゃなくて、笑って生きたいだけなんだと。
「そうだよな」
それなら生きようなんて言葉は出てこなかった。そんな言葉をかけるのは簡単だ。でも、それができないからこうなっている。できないから彼女は辛そうにしているんだ。
「だから私は、君に殺してもらうことにした」
「そっか」
「あのとき、本を貸してもらったあの日、本当は結局屋上まで行ってたの。でも、落ちることができなかった。だから、君に殺してもらうことにした」
本、読んでなくてごめんと彼女は言った。
もう、痛いほどよく分かった。彼女がどれだけ辛いのか。いや、俺にはいつまで経っても分からないのかもしれないけど。それでも、とにかく辛いんだってことだけは理解した。
「ルナ、正直に言うよ」
俺は彼女の両肩に手を置き、真剣に彼女を見つめながら口を開いた。
「僕は君を殺すつもりはなかった。救おうと思ってた」
「だろうね。君は優しいんだもん」
「でも、覚悟を決めたよ」
「もし、どうしても君が死にたいというのなら、僕が君を殺す。必ず」
スピーカーから流れる音声だけが、薄暗い部屋の中に木霊する。
「だから、春までの間でいい。一緒に、生きてみないか?」
「辛いときはこうやってそばにいる。いつだって駆けつけてやる。だから、春まで生きてみよう。もし春になっても死にたかったら必ず殺す。でも、それまでに生きてて良かったって思えるくらい楽しい思い出をいっぱい作ってやる。だから」
俺の言葉に、彼女は目を見開いた。
「うん。分かった」
彼女は笑みを浮かべた。彼女から今まで見たこともないくらい、純粋な満面の笑み。
それは、涙でぐちゃぐちゃになった顔でも、綺麗だと思わせるものだった。
これが、彼女の心からの笑みなのだと分かった。
なら俺は、この笑顔をこれから先何回だって引き出してやるしかない。
でも、それでもなお、桜が散っても彼女が死に救済を願うのなら、俺が必ず彼女を、蓮見ルナを殺す。
この瞬間に俺は、蓮見ルナだけの殺し屋になる覚悟をした。
うつぶせの姿勢のまま思考を巡らせていると、普段よりも若干息がしづらく、苦しさを感じた。
「君は自分が愛されてるって自覚したことある?」
そんな彼女の言葉が、まるで本当にもう一度耳に入ったかのように再生される。
「なかったよ」
そう、俺は自分が愛されているなんて考えたこともなかった。恋愛とかそんなものとは無縁だと思っていた。でも、俺には家族愛も、友愛もあった。
あの質問をした彼女は、きっと自分は愛されていないと思っているのだろう。
だからこそ、このまま死なせるわけには行かない。
人は、愛を知らないまま死んではいけない。これが俺の持論になった。
「よく見たらダッセェな」
俺はベッドの真隣に設置された机の上に置いてあるけんぱちに目を向けた。
ふかふかの白と茶色の毛並みに、丸みを帯びた犬のような見た目に、凛々しい猫の尻尾。そこに不格好につけられたストラップ。女子高生がこれを渡されて喜ぶかと言われると、些か疑問を抱く。
でも、これで人からの愛を少しでも理解してもらえればと、そう思った。
「本当はもっと性格も良くて顔もいいやつに気づかせてもらえれば幸せなんだろうけどな」
喜んでもらえなかった時の言い訳をするように俺は言った。
それからしばらくスマホをいじって、夜も更けてきたところで俺はすんなりと眠りについた。
翌日、学校に登校した俺は何事もなく自分の席に座った。
「藤野くん、おはよ」
少しずつ聞き慣れてきた声に、俺の名前が呼ばれた。予想していなかった声かけに俺は少し驚いたが、そんな素振りは見せずに淡々と返事をする。
「あぁ、おはよう」
「あ、そういえばなんだけど」
彼女は掌で握り拳をポンと叩きながら言った。
「うん?」
「土曜日、現地集合って、場所どこだと思ってる?」
彼女はいつも喋るよりも少し小さい声量で言った。目立ちたくない俺に気を遣ってくれたのだろう。
「激安の殿堂のとこにあるやつだろ」
俺がそう言うとルナはふふっと笑って「そうだね」と言った。
「分かってるなら良かった、じゃあまたね」
彼女はそう言って自分の席に戻り、周囲の友人と喋りだした。それも満面の笑みで。
正直、助かったと思った。彼女はクラスでの知名度がとても高いから、俺みたいな陰キャと話していると俺まで注目を浴びてしまう。現に、先程ルナが俺に挨拶をしただけで教室内の空気が少し変わったのがわかった。
やれやれ、本当に面倒な依頼主、もしくはターゲットだなと思った。
そんなことを考えていると、チャイムの音が鳴り響いた。そして、ワンテンポ遅れて担任が「はい、ホームルームやるぞー」と言って教室に入ってきた。
それを合図にするかのように、みんなが一斉に立ち上がり、日直の号令が飛ぶ。
「気をつけ」
「おはようございます」
「おはようございます」
そう言って一礼した後、椅子を引いて席に座った。
何事もなくいつも通りにホームルームが終了すると思っていた矢先、先生が言った。
「よーし、来週の月曜席替えするぞ」
唐突な死の宣告に俺は驚愕した。
もし席が前になってしまえば、いないことが後ろよりも目立つし、目の届かない位置に人も増える。それだけはどうにか勘弁願いたいものだ。
「はい、じゃあホームルーム終わりなー」
それ以外には特にこれと言って変わったことはなく、朝の会は終了した。
「はあ、一番後ろの席になることを願っておこう」
そう言って立ち上がろうと机に手を置いたとき、「ねえ」と俺を呼び止める声がした。
「何?」
「今日もサボり?」
そう、蓮見ルナの声だ。
「うん。そうだけど」
俺が平然とそう言うと彼女はため息をついて言った。
「はあ、そんなんじゃ席替え運悪くなるよ?」
これからの人生でそのうち必要がなくなるであろう運は、今の俺には必須なものだった。
「それは困るな。なんだ、授業受けたら上がるのか?」
「うん、私が願っておくから」
彼女は胸に手を当てながら自信ありげに言った。
「頼りない」
「なんか言った?」
「何でもないです」
謎の圧力を感じた。女子って意外と怖いよなと、俺はこのとき思った。
「じゃあ今日は受けてみようかな」
俺の言葉に彼女は意外そうに「え、ほんと?」と声を上げた。
「うん、たまにはいいかなって。席替え運は上げたいし」
あははと笑いながら「なにそれ」と彼女は言った。自分で言ったことなのに、なぜ笑うのか、俺には分からなかった。
「じゃあきっと、席替えの結果は君の望むままだね!」
「そうなるといいね」
そこで俺達の会話は自然と終わり、俺は席に座った。
そして、時間割を確認するためにサイド黒板に目をやった。そこには今日の一時間目は数学だと書かれていた。
初手から俺の苦手教科で、やる気が削がれるなと思いつつ、授業道具を取り出した。まともに授業を受けるつもりで道具を取り出すのは、一体いつぶりだろうか。
「…はい、で、ヘモグロビンが―」
先生が語ろうとしたその時、四限の終わりを告げるチャイムが鳴った。
久々にまともに授業を受けたからか、本当に時間が長く感じる。
「あら、チャイムなっちゃったか。じゃあ今日はここまで、お前らちゃんと飯食えよー」
先生はそう言ってチョークを置き、開いていた教科書を閉じて教室を出ていった。
やっと昼休みだ。俺はそう思って唸り声を上げたい気持ちを抑えながら体を伸ばした。
そして、手を洗うために教室を出て廊下を歩く。普段ならサボっている俺は真っ先に手を洗うことができるため、誰かと肩を並べて歩くなんてことはなく、むしろすれ違うことが多かったが、今はみんなと肩を並べて歩いている。
そんな当たり前のことが、俺にはとても大きいものに感じた。
「やっほー」なんて声が聞こえてくるかと思ったが、それはどうやら見当違いだったようで、何事もなく水飲み場にたどり着くことができた。
帰り道、クラスメイトと笑顔で話す蓮見ルナを見かけた。彼女が張り付けた笑みは、いつもよりもどこか辛そうというか苦しそうというか、そんな表情に見えたが、周りは誰も気にしていなかった。
「いただきます」
各々弁当を取り出し、挨拶をして食事を始めた。
「でさ、本当にあいつがさ…」
「うんうん、そうだね、はははっ」
そんな会話が、黙食に慣れ親しんだ俺の耳に飛び込んでくる。声の主はクラスメイトの女子と蓮見ルナだ。
ふと彼女の方に目線をやる。窓辺の最前列で後ろの席の友人と話す彼女の目は、笑っていないように見えた。口も声も笑っている。でも、目だけが笑っていない。そして、それを誰も気にしない。いや、気づいていないのかもしれない。もしかしたら、俺も気づかなかっただけで、彼女は朝からあんな表情を浮かべていたのかもしれない。
彼女はどうして笑顔を作るのか。その答えは以前聞いた。
「不幸な人には不幸でいろっていう人?」
と。
つまりは、不幸だから笑えないんじゃなくて、不幸でも笑っていたいんだということなんだろう。
でも、無理をしてまで笑う理由にはなっていない。だって、人の前で無理をしてまで笑顔を作るなんて、そんなの余計に不幸だろう。
彼女はなぜ、笑うのだろう。そんな疑問を抱えたまま俺は食事を終えた。どんな味がしたのかはもう覚えていない。
「一六〇〇年、関ヶ原の戦いが起きて―」
現在俺は六限の授業を受けている。だが、内容はほとんど頭に入ってきていない。
先生が語り始めた瞬間だけ意識が現実に戻ってきて、語り続けている最中に考え事に夢中になってしまう。
彼女はなぜ、笑うのか。
そんなことを考えているとき、キーンコーンカーンコーンと音が鳴った。やっと全ての授業が終わったのだ。この音がこんなにも嬉しいのは小学生以来じゃないだろうか。
小学生の頃は、適当に授業を受けて、チャイムを合図に家に帰り、次の瞬間には家を飛び出して公園に向かっていた。あの頃はただのチャイムが本当に嬉しかった。
「じゃあなー」
「ういーおつかれー」
そんな何でもない会話の中を、リュックを背負った俺は一人で歩く。特に何も思うことはない。
雑踏を抜けて、自分の下駄箱に辿り着いた。
上靴をしまい、外靴を取り出して放り投げるように地面に置いた。
ほどけていた靴紐を結び直し、立ち上がって校舎の外に出る。
室内よりも冷たい空気が、俺の肌を凍らせる。
「ひか、藤野くん」
帰路につこうと歩き出した俺をルナが呼び止めた。
「何?」
俺はそう言いながら振り返って彼女の顔を見た。彼女は何か言いたそうだったが、言い出せないという様子だった。
「あの、いや、やっぱり大丈夫。また明日ね」
「あぁ、また明日」
俺にはただそう挨拶を返すことしかできなかった。着実に迫ってきているであろう雑踏と、俺の性格が「待って」なんて言葉を言うことを躊躇った。
「なにもないといいけど」
そんな訳はないのに、俺はそう独り言を呟いた。現実逃避というやつだろう。
夕日に染まる前の街並みは、いつも通りの光景なのに、なんだか色が違うように見えた。季節によって若干色が違うと感じるのは俺だけだろうか。
「よう、ちょっと久しぶりじゃん」
家の近くまで歩くと、後ろからそう声がかかり、それから間もなく肩に聖の手が置かれた。
「そうだな」
「あ、あのラノベの新刊買った?めっちゃ面白いぞ」
「あー、まだ買ってない。今度一緒に本屋行こう」
「いいね、俺のオススメのラノベも紹介するわ!」
他愛もない会話をしながら、俺は思考を巡らせていた。
彼女はなぜ、笑うのか。
「あ、今週末お前んち行っていい?久々にゆっくり話したくてさ」
「あー、日曜ならいいよ」
俺の言葉に聖は疑いの眼差しをしながら言った。
「お前が土曜日空いてない?まさか彼女―」
「違うから」
「えー、でもいい感じの子なんでしょ?」
俺とルナの関係性は一体何なのか。俺ですらまだ答えが出ていない問いだった。
「うーん、強いて言うなら彼女は依頼主とターゲットかな」
俺の言葉に聖は当たり前だが「何言ってんの、お前」と返してきた。それはそうだろう。
「とにかく、お前が思ってるような関係じゃないよ」
「でも女子なんだよな?」
「うん」
「ならワンチャン―」
「ないから」
本当、こいつのこういうところは厄介というかなんというか。
「あ、そういえばこの間本屋で吾郎さん見かけたな」
俺はその言葉に目を見開いた。吾郎、藤野吾郎。俺の実の父親だ。
「俺も見かけたよ」
「ラノベコーナーで」
俺達は声を揃えて言った。
そういえばなぜ父はライトノベル小説を見ていたのだろうか。父はそういった類のものには興味を持っていないはずだし、わざわざ足を運ぶ理由が分からない。
「なんでいるんですか?って聞いたら『光が好きなんだろ?なんか買ってやりたいんだよ』って言ってた」
あの父はまたそうやって家族のことばかり考えているんだなと尊敬と同時に呆れを覚えた。
「なるほどな、そういうことだったのか」
「うん、だからひか、藤野も吾郎さんを大事にしろよ」
「光でいい」
「え?」
「だから、光でいいよ」
自分で放った言葉なのに、まるでそんな気がしないのは、俺が変わったからだろう。
人が変わる瞬間というのは、こんなにも唐突に訪れるのだなと思った。でも不思議と、悪い気はしていない。
「お前、中二の頃から頑なに呼ばせなかったのに急にどうしたんだよ」
「別に。ただ自分の名前を大事にしようと思ったんだよ」
俺の言葉に、聖は嬉しそうに笑いながら俺の側頭部をグリグリ押し込みながら口を開いた。
「これからもよろしくな、光」
「よろしく、聖」
何だか改まると照れくさいなと思いつつもそう返事をした。
「じゃあ、またな」
家の前に辿り着いた俺はそう言って掌を聖に差し出した。
俺のその様子に、聖は一瞬驚いたように目を見開いてから俺の掌に向かって自分の掌を思いきり振りかぶった。
「おう、またなっと」
俺の掌と聖の掌が当たるその瞬間、パチンッと良い音が鳴った。
なんというか、友情はいいものなんだなと改めて思った。
「はあ、疲れたな」
寝る支度をすべて終えた俺は、まだ水曜日だということに若干の絶望を感じながら、そう机の上でこぼした。
「テストも近いし、多少は勉強しないとだめだな」
現在時刻は午後十一時。良い子は寝る時間だが、この世に良い子は何人存在するのだろうか。
「流石にサボりすぎたな」
ワークを開いた俺は、暗記しなければいけない単語の量に辟易しながら筆箱からペンを取り出し、それを握った。
十五分経って、携帯に連絡が来ていないか確認をして。
また十五分経って、また携帯を確認して。
もう何度かそれを繰り返した後、姿勢を横にすることもなく、気が付けば俺は眠りに落ちていた。
「光、起きて」
体を揺さぶる母の声で目が覚めた。
母に起こしてもらうなんていつぶりだろうか。そんなに遅くまで寝てしまったのだろうか。そう思った俺は机に突っ伏したしたまま携帯を開き、時刻を確認した。
そこには、七時三十分と表示されていた。まぁまぁの寝坊だが、まだ電車にも間に合う範疇だ。
「ごめん、今行くから」
俺がそう言うと、母は少し呆れたように「まったく」と言ってリビングに戻っていった。
ふと起き上がろうとすると、後ろから掛け布団を一枚かけられていたことに気付いた。
「ありがとう」
俺はこれをしてくれたであろう母か父もいないのに、一人でそう呟いた。俺なりの精一杯の感謝だ。
そして俺は学校に登校し、サボることなく授業を受けた。積極的な発言もなく、ノートも最低限しか取っていないから、参加したとは言えないが、受けるだけ受けてみた。それは、今までの俺と比べればかなりの進歩だ。
授業中、彼女の方に目をやると常に辛そうにしながら笑みを貼り付ける彼女がいたが、声をかけることはできなかった。
そして、疲れを労うはずの土曜日が訪れた。
俺は、疲れを労うこともなく集合場所へ向かった。俺の足は、緊張のせいか少し重たかった。
「ごめん、待たせたか」
集合場所に到着した俺は、入り口で待ちぼうけていたルナを見て、あわてて駆け寄った。
近くで見てみると、普段の制服姿の彼女にはない魅力があった。
無地の白いトレーナーに、少しゆとりのあるサイズの黒いズボン。シンプルだが、着ている人の素材がいいからか違和感はない。というよりも、よく似合っている。
「ううん」
そう言った彼女の声色は少し暗かった。やはり待たせてしまっていたのだろうかと思い、彼女の顔を見ると、笑っていない。いつも貼り付けてあるはずの笑みが、そこにはなかった。
目から光を失っている、という表現が似合うように目に力が入っておらず、どこか遠いところを眺めるようにしながら少しだけ口角を吊り上げていた。
「行こっか」
その表情を見ているうちに、彼女はそう言って自動ドアを反応させた。
それに連れられるようにして、俺も室内へ入った。
入ると、入ってすぐ向かって右側にある野菜市から植物の匂いがした。
今回俺達が向かうカラオケ店は、大型のディスカウントストアの二階に隣接されている。そのため、入ってすぐの通路にも人がちらほら歩いている。
正面に見えていたエスカレーターに乗り、二階へ上がる。その間、俺達の会話はゼロだ。
もちろん、話しかけようとはしたが、普段とは服装も表情も別人の彼女には、何だか声がかけづらかった。
エスカレーターを登り切り、向かって左に十数歩歩いたところでカラオケ店の看板が見えた。
ルナがドアに手をかざすと、ドアが自動で開いた。
「いらっしゃいませ~」
受付から店員の歓迎の言葉が聞こえる。
前には何組か人が並んでいたため、その最後尾に俺たちも並んだ。
「次の方どうぞ〜」
その声を何度か聞き、やっと俺達の番が回ってきた。沈黙のせいか、たった数分が十分以上に感じた。
受付の前まで進み、俺はルナよりも半歩後ろに立った。
「高校生様二名でお間違い無いですか?」
「はい」
「ご予約などはされていますか?」
「してないです」
「ただいま満室となっておりまして…」
淡々と会話が進んでいく。普段なら店員にも愛想よく振る舞いそうな彼女が、ただひたすら真顔で捌くように店員と会話をしている。その様子にはやはり違和感を覚えた。
「店内でお待ちになられますか?」
「店内で」
「かしこまりました。お名前は?」
「蓮見です」
「かしこまりました。それではあちらに掛けてお待ち下さい」
店員はそう言ってソファのある方に手をかざした。俺たちはその誘導に従ってソファに二人で腰を下ろした。
席に余裕はあるというのにも関わらず、一人分の空白もなく、彼女は俺の隣に座っている。果たして不快じゃないのだろうか。
「なあ」
「何」
彼女が放った「何」にはどことなく聞き覚えがあった。初めて俺達が面識を持ったあの日、涙を流していたあの時聞いたものにそれとなく似ていたのだ。
「近くない?」
俺がそう言うと、彼女は「ごめん」と言って一瞬で俺から距離を取った。
「あぁいや」と、離れてほしかったわけじゃないことを伝えようとしたが、なぜか言葉が出てこなかった。なんとなく、今の彼女が怖かったのかもしれない。
「二名でお待ちの蓮見様」
しばらくの間、店内に流れる音楽を聴いて沈黙を誤魔化したあと、ルナの名前が呼ばれた。
俺たちはそれを合図にソファから立ち上がり、受付へ向かった。
「お待たせいたしました。料金コースは」
恐らく店員はいかがなさいますか?と聞こうとしたのだろうが、彼女はそれを遮って言った。
「ルームで」
ルームってなんだと思った俺は料金表を確認してみる。どうやらドリンクバーなどもついていない一番安い料金コースのようだ。
「かしこまりました。部屋番号はこちらとなっております。お水はセルフサービスとなっております」
店員はそう言ってルナに伝票を渡した。
俺は水を汲んでから部屋に行こうと思い、ドリンクバーの方に向かったのだが、ふとルナの方を見るとすでに部屋に向かっていた。
「お、おい、水」
俺のそんな呼びかけは店内の音楽に負けていなかったはずなのに、虚しく響くだけだった。
仕方なく俺はルナについて行き、右に曲がって、左に曲がって、そんな行程を何度か繰り返して部屋にたどり着いた。
彼女が扉を開けて部屋に入る。俺が入ろうとしたときにはすでに閉まろうとしていた扉を肩で開き直し、俺も部屋に入った。
いつけんぱちを渡そうか、なんて考えながら俺が電気をつけようとした瞬間、俺はルナによって体を前に引っ張られた。
「えっ」
思わず声を上げる。転倒した俺の下には、彼女がいた。俺はソファの手すりに片腕を乗せ、彼女を押し潰さないように耐える。
そのとき、空いていた俺の左手を彼女が掴んだ。そして、それを自分の首元へ持っていく。
「おい」
テレビの光だけに照らされる薄暗い室内で彼女の顔を見ると、辛そうな目をしているはずなのに無表情を貫こうとするような様子だった。その様子は、明らかにいつもの彼女ではない。
首元まで持っていかれた俺の左手は、ルナの両手に握られて彼女の首を絞める。
彼女の細い首は、俺の片手でも絞めることが容易だった。
唸り声もあげずに、顔が赤くなっていく彼女を見て、俺はやっと冷静になって彼女の手を振りほどき、立ち上がった。
「急に何してんだよ」
俺の言葉に彼女は何も言わずに立ち上がった。
そして、一拍の沈黙を置いたあとに真顔のまま口を開いた。
「ねえ」
「何?」
「殺して」
そう言って彼女はその場に崩れて、泣き声をあげた。
一体どうしたというのだろうか。
俺は何をしていいか分からず、ただ呆然と立ち尽くしたあと、しゃがみ込んで彼女の肩に手を置いた。
「どうしたんだ。一体何があった」
俺の問いかけに彼女はヒクヒクと声を上げながら喋り出した。
「お母さんが、四日ぶりに帰ってきて、私のこと、いらないって、いらない子だって」
その言葉に俺は愕然とした。
やっぱり彼女は愛されていなかったんだと思った。でも、まさかここまでとは思っていなかった。
「お父さんは?」
「わた、しが生まれた頃には、もういなくて」
彼女はもう喋るのも辛そうなくらいに泣いていた。
「わかった、わかったよ」
俺はこういう時何をされたら楽になるのかがわからない。だから、俺が愛を知ったきっかけになったことをそのままやることにした。
「ルナはルナだよ」
そう言いながら彼女の頭を右手で撫でた。
すると彼女は擦っていた目を見開きながら、より大きな声で泣いた。
「うわぁぁぁん!!!ごめんなさい!!ごめんなさい!!」
「大丈夫、大丈夫だから」
何が大丈夫なのかはわからないけれど、俺にかけられる言葉なんてこれくらいしか無かった。
本当、俺は使えないやつだ。
彼女は俺の言葉に俺の胸元をぎゅっと握りしめながらまた叫んだ、また泣いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
それから何度も叫んで、泣いて。何十分か経ってから、俺の腕の中で泣き止んだ。
「光くん、ごめんね」
「いいよ。依頼主の話を聞くのは殺し屋の務めだ」
そして、ターゲットを殺すことも。だからこうは言ったが、俺は殺し屋になるつもりはない。
「うん」
「だから、もう少し話してくれないか?」
「いいの?」
「いいよ」
まだ少し涙のにじむ瞼を擦りながら彼女は口を開いた。
「私のお母さんの仕事、ちょっと特殊なんだ」
「うん」
「それで生まれたのが私」
「…うん」
「だから、お父さんは生まれた頃にはいなくなってたし、お母さんはほとんど家にいないの。産んじゃったから、仕方なく金銭的に育てられてる」
壮絶、その話を聞いた俺には、この言葉しか頭に浮かんでこなかった。
「それで、四日前の朝お母さんは私に言ったの」
「あんたなんて、産まなきゃ良かったって」
ドラマではよく聞く言葉だ。俺の耳にも馴染みがある。だが、それを現実で言われれば人が辛いなんてことは至極当然のことだ。
「早く大人になってどっか行けって。今日の朝も寝てる私に同じようなことを言った」
彼女はそう言いながら横腹を痛そうに抑えた。寝ていたのに声が聞こえたということから、よほど大きな声で叫ばれたのだろうということ、それに加えて彼女がされたことも、おおよそ推測ができる。
「お母さんの顔なんて、先生の顔より見てない」
その言葉に俺はなんて返事をしていいかもわからず、ただ沈黙を返した。
「相談できる相手はいないのか。友達とかさ、いつも仲良くしてる子とかいるだろ?」
「あの子達ね、あの子達の前では私はこんなに自分をさらけ出せない。それに、あの子達は私のいない教室で私の悪口を言ってた。うざい、気持ち悪いって」
あまりにもありふれた悪口だ。でも、その言葉が彼女にとってどれだけ重いものなのか、俺には想像もつかなかった。
両親には愛されていなくて、唯一頼れるはずの友人には陰口を言われて。高校一年生にとってはあまりにも重すぎる現実だ。
「そっか」
もう、何を返していいのか俺にはわからなかった。
「だから私、もう諦めたの。ずっと諦めてるの」
「…うん」
「なのに、自分じゃ死ねないの。死にたくないの」
何が言いたいのかは何となく分かった。やっぱり、死にたいんじゃなくて、笑って生きたいだけなんだと。
「そうだよな」
それなら生きようなんて言葉は出てこなかった。そんな言葉をかけるのは簡単だ。でも、それができないからこうなっている。できないから彼女は辛そうにしているんだ。
「だから私は、君に殺してもらうことにした」
「そっか」
「あのとき、本を貸してもらったあの日、本当は結局屋上まで行ってたの。でも、落ちることができなかった。だから、君に殺してもらうことにした」
本、読んでなくてごめんと彼女は言った。
もう、痛いほどよく分かった。彼女がどれだけ辛いのか。いや、俺にはいつまで経っても分からないのかもしれないけど。それでも、とにかく辛いんだってことだけは理解した。
「ルナ、正直に言うよ」
俺は彼女の両肩に手を置き、真剣に彼女を見つめながら口を開いた。
「僕は君を殺すつもりはなかった。救おうと思ってた」
「だろうね。君は優しいんだもん」
「でも、覚悟を決めたよ」
「もし、どうしても君が死にたいというのなら、僕が君を殺す。必ず」
スピーカーから流れる音声だけが、薄暗い部屋の中に木霊する。
「だから、春までの間でいい。一緒に、生きてみないか?」
「辛いときはこうやってそばにいる。いつだって駆けつけてやる。だから、春まで生きてみよう。もし春になっても死にたかったら必ず殺す。でも、それまでに生きてて良かったって思えるくらい楽しい思い出をいっぱい作ってやる。だから」
俺の言葉に、彼女は目を見開いた。
「うん。分かった」
彼女は笑みを浮かべた。彼女から今まで見たこともないくらい、純粋な満面の笑み。
それは、涙でぐちゃぐちゃになった顔でも、綺麗だと思わせるものだった。
これが、彼女の心からの笑みなのだと分かった。
なら俺は、この笑顔をこれから先何回だって引き出してやるしかない。
でも、それでもなお、桜が散っても彼女が死に救済を願うのなら、俺が必ず彼女を、蓮見ルナを殺す。
この瞬間に俺は、蓮見ルナだけの殺し屋になる覚悟をした。
