「質問はもう終わり?」
 彼女は黙ったままの俺に言った。
「あぁ、今のところは」
 今のところはという文言に自分で自分に違和感を覚えた。
 俺はこれからどうするつもりなのだろうか。彼女に関わっていくつもりになっているのだろうかと。
「そっか。ねえ、連絡先交換しない?」
 彼女はそう言って携帯を取り出した。
 俺がそれに合わせて携帯を取り出すと、彼女は俺の携帯を奪うように取って慣れた手つきで二台の携帯を操作した。
「はい、これでオッケー」
 そう言って返却された携帯の画面には、蓮見と書かれた連絡先が表示されていた。
「じゃあこれからよろしくね」
 彼女の言葉に、ふと質問が浮かんだ。
「もう一つだけ質問いいか?」
「いいよ」
「俺達の関係って何?」
 俺の言葉に彼女は少し押し黙ってから口を開いた。
「うーん。あっ、殺し屋と依頼主?」
 彼女は閃いたと言うように人差し指を立て、得意げにしながら言った。
「なんだよ、それ。だとしたら依頼主もターゲットも同一人物になるだろ」
「確かにね。でも報酬も約束してるし、そんなものじゃない?」
 彼女の言葉に俺は俯きながら「そうかもな」と返した。
 せめて友人だとでも言って欲しかった。
「あ、もしかして友達のほうがよかった?」
 彼女は口元を手で隠し、煽るような笑顔を浮かべながら言った。
「ちげえよ、殺すぞ」
 俺はそんな彼女に対し、語気を強めてついそう言ってしまった。聖と話す時のように、軽々しく。
「殺してよ」
 彼女は高校生らしくない、含蓄のある笑みを浮かべながら言った。
 俺はそれに対して、黙り込んで目線を逸らすことしかできなかった。
「あ、この後夕ご飯買いに行くんだけど、一緒に来る?」
「いや、俺は家に帰ったら夕飯あるから」
「そっか、じゃあ今日はここで解散しよっか」
 俺は彼女の言葉を合図に、彼女に背を向けて歩道橋の階段へ向かった。
「ねえ」
 そんな俺を呼び止めたのは、先ほどまでとは毛色の違う彼女の声だった。
「何?」
 俺は振り返らずに小さく呟いた。彼女に届いているかどうかも怪しいほどに。
「君は自分が愛されてるって自覚したことある?」
 声が届いていなかったのか何なのか、若干の沈黙の後に彼女は言った。
「俺に彼女がいたことあるように見えるか?」
 何の皮肉だと思った俺はそう冷たく返した。
 そして、そう言葉を放ったあとに彼女の言った言葉の意味を改めて考え直した。だが、それはもう遅かった。
「あはは、確かに。見えないね。じゃあ、またね」
 彼女はそう言って俺とは反対側の階段へ駆けて行った。
 俺は彼女のその様子に、改めて言葉の意味を考え直す。
「愛されてるかどうかか」
 俺は家に歩を進めている最中もそのことで頭がいっぱいだった。
 あのとき彼女はどんな表情で、どんな思いであの言葉を紡いだのか。
 そんなことを考えている間に、俺は家にたどり着いてしまった。
「愛か」
 俺は何を決意したのか、いつもよりも真剣な面持ちでドアノブを捻る。
「ただいま」
 俺はキッチンにいるであろう母に聞こえるくらいの声量で言った。
 靴を脱いでいる最中、母が駆けてくる足音が近づいてくるのが分かった。そして、俺が靴を脱ぎ終えたと同時にリビングに続く扉が開いた。
「光、おかえり。何かあった?」
 ただ帰宅の挨拶をしただけなのに、母は心配するように、でもどこか嬉しそうに言った。
 これが愛されているということなんだろうと何となく理解できた。そして、それと同時に彼女の気持ちが少し分かった気がした。
 彼女はきっと、人に愛される気持ちがわからないんじゃないかと。
「別に。ただちょっと街を歩いてきた」
「そうなのね、疲れたでしょ。手を洗って夕飯まで寝ててもいいよ。起こしてあげるから」
「うん、そうさせてもらおうかな」
 俺はそう言って通路を開けた母を横目に、洗面所へ向かった。
 手を洗いながら、ふと鏡を見る。そこには、前髪も横髪も後ろ髪も伸び、ボサボサヘアのいかにも根暗な人間の姿が映っていた。
「そういえば前髪、邪魔だな」
 手を洗い終え、水分も十分に拭き取った俺は自室へ足を運んだ。
 道中、母親が人差し指で目をこすっているのを見かけたが、それを気のせいだとは思わないことにした。
「愛か」
 ベッドに横たわり、天井を見上げながら俺はこの先どうしたらいいのかを考える。
「わかんねえ」
 俺は横向きに丸まりながら唸るように声を上げた。
 悩んで悩んで、俺は結局何がしたいのか、結論は出なかった。
 ピロリンという携帯の通知音で薄っすらと視界が開いた。どうやら気づかぬうちに眠ってしまっていたようだ。
 太陽からの支援がなくなった部屋はほとんど真っ暗で、街灯の光が薄っすらと部屋を照らしている。
「うっ、眩し」
 そんな中で電気もつけずに携帯を開いてしまったものだから、俺は思わずそう声を上げた。
 携帯の画面には、現在時刻が午後六時と書かれていて、さらにその下には蓮見からの連絡が来ていると書いてあった。
 意を決して、俺はメッセージを開いた。
【光くん、今日はありがとう】
 そんなルナからのメッセージに対して、俺は返信を打ち込む。
【その光くんっての、やめてくれない?】
【えー、じゃあ藤野くん?】
【そう、それでいいよ】
 俺が呼び方を改善されたことに安堵していると、【藤野くん】と改めてメッセージが届いた。
【何?】
【今週末、空いてる?】
 何というか、どことなくデジャブを感じる会話だなと思いながら、【空いてる】と返信をした。
【言っておくけど、もう目的地もなく歩かないよ】という一文を添えて。
【ごめんって!じゃあカラオケ行こうよ】
 彼女の言葉に俺は頭を抱えた。
 カラオケ、それは俗に言う陽キャの聖地だと俺は思っている。そして、そんな地に俺みたいな陰キャが女子、それもあの蓮見ルナと二人で足を運ぶのは少し憚られる。
【他の選択肢は?】
【うーん、ごめん!ない!】
【そんな清々しく言い切るなよ。分かった、いいよ】
 自分でもらしくない返信をしたなと思った。でも、この誘いを断ることは俺にはできなかった。
 目の前で苦しんでいる人間がいるというのに何もしないほど腐ってはいないからだ。
【ほんと!じゃあ土曜日の午後二時に現地集合で】
 彼女のメッセージに【了解】とだけ返信をして、俺は携帯を置いた。
 そして、姿勢を仰向けに戻して、深く息を吐いた。
 その時、部屋の扉がノックされた。恐らく母だろう。
 本当に一息しかつく暇がなかったなと思いながら俺は口を開いた。
「起きてるよ」
 俺の言葉に母はバーンという擬音が似つかわしいほど勢いよく扉を開けた。
「ご飯、できたよ」
 母はお玉を右手に持ちながら、左手の親指を立てて声高らかに言った。
「うん。今行く」
 俺がそう言うと、母は意気揚々とリビングに戻っていった。
「はぁ、年齢を弁えてくれよ」
 俺はそう独り言を呟きながら立ち上がり、母に続いてリビングに向かった。
 リビングにたどり着き、食卓に目をやると、いつも通り二人分の皿が置かれていた。
「いただきます」
 食卓に座り、俺は母と二人で声を揃えて言った。
 俺は白米を一口放り込んだあと、味噌汁を啜る。
「うん、今日も美味しい」
 俺は母とは目を合わせないようにしながら呟くように言った。
「ほんと?それはよかった」
 俺の言葉に母は嬉しそうに言った。
「最近学校はどう?」
「その質問もう聞き飽きたよ」
「光がいつもまともに答えてくれないからでしょ。まったく」
 母は味噌汁を啜りながら拗ねたように言った。
「まぁ、強いて言うなら可もなく不可もなくかな」
「何よそれ。授業はちゃんと受けてるの?」
「どうだろうね」
 俺は口を聞けませんというアピールをするために、味噌汁を啜った。
「はぁ、お父さんになんて言おうかしら」
 母の言葉に、一瞬身体がビクッとした。
 僕は父が怖い。
「先生から何言われるかは分かんないけど、適当に取り繕っておいてよ」
「はいはい。でも光、単位はどうするつもり?今はそれでいいかもしれないけど、そろそろそうもいかなくなるわよ」
「ちゃんと勉強しないと」とまだ話を続けようとする母の言葉を遮って、俺は言った。
「分かってるよ。そのうちちゃんと考えるから」
 母の言葉はもっともだった。でも、俺は真面目に授業を受けたくない。
 その理由は、中学一年生の頃に起因する。
 とは言っても、大層な理由があるわけではない。ただ単純に、真面目に何かをするのが馬鹿らしいと感じてしまっただけの話だ。
 当時、俺には友人と呼べるか際どい程度に話をする人間がいた。そいつは言った。
「テストまじダルいわ。まぁ最低限勉強して最低限点とるわ」
と。俺はその言葉に反発するように、しっかり勉強をした。テスト当日までの一ヶ月間、ワークを何周もした。
 その結果、八十五点を取ることができた。評定で言えば最高評価を取れるであろう点数だ。俺は自分のその点数に誇りを持っていた。
 だが、あいつは平気でその上を行った。
「九十五点、まぁこんなもんか」
 あいつは嬉しそうな素振りも悔しそうな素振りもなく言った。その様子からは、本当に最低限度の勉強で挑んだということが推察できた。
 たかが十点の差だと思うかもしれない。だが、やることをやれるだけやった俺と、最低限の勉強しかしていないあいつに、十点も差があるのだ。 俺はそんな現実が嫌になった。俺も最低限の勉強だけして、適当に六十点でも取ればいいと思った。それで十分だと思った。
 真面目にやったって、生まれ持った才能には勝てない。もっと真面目にやれば違うのかもしれないが、もういいと俺は思った。
 それが俺が授業をサボっている理由だ。本当に大したことはない。でも、俺は嫌なんだ。
 それでも、真面目にやらなきゃいけない状況ができたら真面目にやろうと思っている。
 だから、今は何も頑張りたくないんだ。
「ごちそうさま」
 俺はそう言って食器を下げ、自室に戻った。
 自室に戻り、学業について冷静に考えようとしてみるも、頭の中で彼女のことを考えるのをやめることができない。
「本当に面倒くさいことをしてくれたな」
 俺はため息をつきながらベッドに座り込み、リモコンを操作して部屋の電気をつけた。
 俺は何となく何をすればいいのかを考えながらベッドに横たわり、適当に携帯を操作する。
 その時ふと思いついたのが、物を渡すことだった。何となくだけど、もっと関係を深めていろいろ知るためにはそれがいいんじゃないかと思った。
「でも女子に何あげればいいのかわからないな」
 自分にはわからないことだらけだなと、改めて自分の不甲斐なさを思い知った。
 そして、もっと彼女のことが知りたいと思った。もちろん、別に他意はない。
「まぁダメ元で何か買ってみるか」
 次の日の放課後、俺は地下鉄を使い商店街まで行って、プレゼントが買えそうな店を探した。
 宛もなく商店街を歩く俺の目に飛び込んできたのは、「向谷アクセサリー店」という看板だった。
 これは、と思った俺はその方向に目をやる。するとそこには古民家の入り口の上に向谷アクセサリー店と書かれた建物があった。
「昭和?」
 俺はその外観に思わずそう言葉を漏らした。
 カラオケや衣服屋、ゲームセンターなどの現代的な建物が立ち並ぶ中に唐突に姿を現したそれには、時代の違いを感じずにはいられなかったのだ。
 でも、商店街に残っている店であればいいアクセサリーが置いてあるかもしれないと考え、俺は外観を気にせずに店に入ることにした。
 店内は老舗の駄菓子屋のような内装になっていて、駄菓子が立ち並んでいそうな棚の上に籠が置かれていて、その籠の中には犬や猫などの色々なキーホルダーが入っていた。
 だが、そのどれもが手作り感満載というか、ぬいぐるみの上にストラップがつけられたものばかりだった。
「いいじゃん、これ」
 俺はそのデザイン性が気に入った。
 なにかいいものはないかと、店内をくまなく歩いていると、オススメと書かれた籠の中に入ったキーホルダーが目についた。
「なんだこれ、犬?猫?」
 そこには、犬っぽい見た目に猫のような尻尾の生えた謎の生き物がいた。
 籠をよく見てみると、「けんぱちだヨ」と書かれていた。名前はけんぱちというらしい。
「これいいんじゃね」
 俺はけんぱちを購入することに決め、レジまでけんぱちを一匹持っていった。
 レジに人は並んでおらず、すんなりと会計に進むことができた。
「けんぱちが一匹だね。六百円だよ」
「千円で」
 俺がそう言って千円札を手渡すと経営者であろう年配の女性は、かすかに震える手でお釣りを渡してくれた。
「ありがとうねぇ、またきてね」
 受け取ったお釣りからふと目線を上にやると、そこにはシワシワになった顔をさらにシワシワにして笑顔を浮かべる女性がいた。
 その様子から、この人がどんな思いでものを作っているのか、それが何となく想像ができた。
 そして、それと同時に人の想いが籠もったものはいいものだなと思った。
「ついでに何か本でも買っていくか」
 店から出た俺はそう言いながらポケットにけんぱちと両手の親指を突っ込み、歩き始めた。
 久しぶりに思考が整理されていて、特に何も考えずに歩いた。
 冬の冷たい風がマフラーの隙間から入り、少しだけ体を冷やす。それは、決して不快なものではなく、心地の良いものだった。
「はぁ」
 ふとため息をつくと、口から微かに白煙が放出された。まだ辛うじて秋だというのにも関わらずだ。
「今年はまた冷えそうだな」
 俺は手が冷えることを防ぐため、ポケットにさらに手を突っ込んだ。
 それから少し歩いて、お目当ての書店に辿り着いた。駅近辺の中でもかなり大きく、品揃えが豊富なそこには、かなりの量の本があり、人も多かった。
 そんな中、俺はライトノベルと書かれた看板を探しながら、店の奥へと歩いていった。
 少し奥まで行くと、目的地にたどり着くことができた。だが、俺の足はそこで止まった。
「父さん?」
 たくさんの本が立ち並ぶ本棚と本棚の間に、制服を身にまとった高校生が何人か立っていて、それらとは毛色の違うスーツを身にまとった一人の男性が立っていた。
 俺の声にそのスーツ姿の男は「光か!よう」と驚きながらも意気揚々と返事をした。
「うん、じゃあね」
 俺は急いでその場を去ろうとしたが、それを彼は良しとしなかった。
「ちょっと待てよ、せっかくの機会だから少し話していかないか?」
 そう言って彼は俺の肩に手を置きながら、入り口の方めがけて親指を二回ほど振った。
 十分ほど歩き、赤色がベースになっていて、時刻表の役割も果たしている巨大な塔の下に広がる公園にきた。地元ではかなり有名なとても広い公園だ。
「何飲みたい?」
 赤色の自販機の前で、父はそう言って財布から小銭を取り出し、投入口に何枚か放り込んだ。
「コーヒー」
「ブラックか?いや、お前くらいの年ならまだカフェオレか」
 父はそう言って、カフェオレの下の光るボタンを押そうとした。俺はそれが何となく屈辱的で、「ブラックでいい」と言った。
「ふーん、飲めるのか」
 父は俺がブラックがあまり好きではないことを知ってか知らずか、少し訝しんだように言った。
 だが、それでもブラックコーヒーを買ってくれた。
「ほい」
 父の言葉を合図に投げられた缶コーヒーを両手で何とかキャッチするも、その缶コーヒーはホットコーヒーだった。
「あっち、あちち」
 俺は情けなくそう声を上げ、缶コーヒーをお手玉のように踊らせた。
「あっはっは、ごめんごめん」
 父はそう言いながら、自分の分の飲み物も買って、自販機から落ちてきたそれを屈んで取り出した。
「さて、座ろうか」
 父に連れられて、近くのベンチへ足を運んだ。
 虫や汚れがついていないか軽く確かめたあと、俺はそれに腰を下ろす。
「もうすぐ雪だなー、あーやだやだ」
「な?」と父はこちらに笑顔を向けて言った。
 俺にはその笑顔が怖くて、目を逸らしながら「うん」という一言を発し、買ってもらったコーヒーを一口飲むことが精々だった。
 ブラックコーヒーはまだ俺には早かったのか、あまりの苦さに顔をしかめる。
 ブラックコーヒーはコクがあるというが、コクなんて一体どこにあるというのか、俺には分からなかった。
 その俺の様子に、父親は「ははは」と少し元気のない笑い声を上げた。
「今日は仕事早く終わったんだね」
「おう、たまたまな。まさかお前に出会うとは思わなかったけど」
 口を開くたび、一文字一文字を喋る度に鼓動が早くなっていくのがわかる。
 僕は、父が怖い。いや、父が怖いんじゃない。父に失望されることが怖い。昔から父は俺に期待をしてくれていた。いつかお前は光り輝く人間になると、だから名前を光にしたんだと。
「最近学校はどうだ?」
 今俺が最も恐れていた質問が投げかけられてしまった。
 先ほどまでよりも鼓動が早くなったのがわかった。それに加えて、呼吸も荒くなっている。
「まぁまぁかな」
 そう語る俺の視界には、真っ黒な靴が二足映っていた。
「そっか」
 父はなんだかぎこちなく、呟くように言った。
「なぁ、光」
「何」
 一拍の沈黙の後、父は言った。
「光は光でいいんだよ」
「え、どういう意味?」
「そのまんまの意味さ。藤野光は藤野光なんだ。光がどんな人生を送ろうと、お前は俺のたった一人だけの息子だ」
 僕はその言葉にやっと父の顔を見た。
 そこには、俺が恐れていた父親なんて存在しなかった。
 髪は短めに刈り上げられていて、少し寂しそうな笑顔を浮かべたまま、両手でココアを抱える、この世でたった一人の俺の父親がいた。
「やっとこっち見てくれたな」
 父は嬉しそうに笑って言った。
「俺はさ、光に光らしくいてほしいんだ」
 それが俺の望みなんだと父は言った。
 僕はきっと、何かを勘違いしていたのだろう。
「それで、最近学校はどうだ?」
 父の改まった問いに、僕は勇気を出して答えた。
「正直面倒くさいよ。でも行くだけ行ってる」
「そっか、偉いな。行ってからは何してるんだ?」
「階段の踊り場で本読んでる」
 頬を掻きながら俺が言うと、父は笑いながら「それでもいいさ」と言った。
「お前が後悔しない人生を送れるのなら、それでいいよ。光が何をしても、光は俺の自慢の息子だ」
「あっそ」と悪態をつく俺の声は震えていた。
 愛されているっていうのはきっとこういうことなんだろうとこの瞬間、心底理解した。
 そして、それと同時に思った。愛を知らない人間は、知らないまま死んではいけないって。
 だからもし俺の予想通り、蓮見ルナが愛を知らないのなら、絶対に今のまま死なせてはいけないと思った。
 俺は重くなってしまった思考を止めるため、コーヒーを一口含んだ。やっぱり苦くて、俺は再び顔をしかめた。
「ははは、やっぱ光にはまだ早かったな」
「ほら」と言って俺から缶コーヒーを奪うと同時に、先程と同じように俺にココアを投げた。
 父の手でずっと握られていたからか、ココアは程よく温かい程度の熱になっていて、ココアが手の上で踊ることはなかった。
「そうだと思って、まだ開けてないから。飲んでいいよ」
 そう言って父は平然とブラックコーヒーを飲んでみせた。大人と子供には、こんなにも差があるんだと何となく分からされた気がした。
 俺は人差し指でイージーオープンエンドを引っ張った。カシュッという音が鳴ると同時に、少量の液が蓋に飛び出てきた。
 俺は父の行動を真似するように、ココアをグビッと飲んだ。
 何でかはわからないけれど、そのココアはいつもよりも少し甘く感じた。
 それから俺達は飲み物が冷めてなくなるまでの少しの間だけ、談笑を嗜んだ。
「さて、母さんも待ってるだろうし、そろそろ帰るか」
「うん」
 そして俺達は地下鉄へ向かった。
 父と一緒に歩き、階段を下り、また歩いて。
 電車を待つときは隣に並んで、乗り込んだ後は隣に座って。日常の一コマと呼んでもいいほどありふれたシチュエーションだが、父と関係を深めることができたことを証明するようで、俺は何となく嬉しかった。
「ただいまー」
 リビングに続く扉を開き、真っ先に父が言った。
「あらあなた、それに光もおかえり」
「うん、ただいま。いやぁ街でばったり光と出くわしてな」
 先程までのことを嬉しそうに語る父の様子に俺はなんだかバツが悪く、急ぎ足で洗面所に向かった。
 手を洗いながら、俺はふと考える。
 俺にとっての当たり前が愛だというのなら、これを知らない、もしくは今感じることができていないというのはどれほど辛いのだろうと。
「俺には想像もつかないな」
 手を洗い終えた俺は、リビングに戻った。すると、食卓に三人分の皿が置かれているのが見えた。
「父さん、手洗ってきて」
「キッチンでもう洗ったよ。さっさと食べよう。腹減ったよ」
 父さんのその言葉を合図にするかのように、俺達は全員で食卓に座った。
「いただきます」
「うん、やっぱみんなで食べるご飯は美味しいなぁ」
「そうだね」
 そんな平和な会話を楽しみながら、俺達は箸を進めていった。
「はー、食べた食べた」
 満足気にする父と、食器を片付けようとする母を見て俺は意を決して声をあげる。
「ねえ」
 俺の言葉に二人の動きが止まった。
「なんだ?どうした?」
 父は微笑みを浮かべながら俺に言った。
 その微笑みは、俺が次に発しようとしていた言葉を発しづらくさせる。それでも、俺は勇を鼓して口を開いた。
「僕が人を殺すって言ったら、どうする?」
 二人は僕の言葉に押し黙った。恐らく、理解が追いついていないのだろう。
「光が何でその人を殺そうとしたかによるな」
「救いたいから」
 俺の言葉に父は「そっか」とだけ言って頬杖をついた。
「うん、それならきっと光はその人を救える」
「それはどういう意味で?」
「もちろん、それは光次第だよ。でも、光はその人を救うことができる」
 父は真剣な表情で、でも俺を脅さないようにするためか、どこか微笑みの混ざったような顔で言った。
「光はどうしたい?」
「俺は」
 母の問いに俺は即答することができなかった。
 俺はルナをどうしたいのか。その結論はすでに出ていたはずだ。
「彼女を救いたい」
 俺は二人を見つめながら、真顔で言った。
「ならきっと、大丈夫」
「うん、光なら大丈夫だ」
 二人はそう言って立ち上がり、同時に俺の頭を撫でた。
「ちょっと、やめてよ」
「コラコラ、反抗期かぁ?」
 父はそう言ってワシャワシャと俺の頭をかき混ぜるように撫でた。
 母はその様子を楽しそうに見ていた。
「ちょ、母さん、止めてよ」
「えー、お母さんに優しくない子はお母さん知らなーい」
 母のその発言は、父の行動に油を注ぐことになった。
「コラ、お母さんには優しくしなきゃダメなんだぞー」
 そう言って父は先程までよりも強くワシャワシャと頭を撫でた。
 そのとき、愛情をもらった俺は自分勝手な決意をした。俺は必ず彼女を、蓮見ルナを救ってみせると。