「――――で結局、変な時間に起こされてさ。何が『夜明けだ』よ。かっこつけたくせに、起きたの二時半だよ?」
翌日の登校中、いつもの通学路にて、挨拶の言葉も早々に愚痴を零す相手は、もちろん佳乃だ。
佳乃は呆れたように笑う。それもそのはずだ。自分でも口にしたように、あの後で目を覚ましたのは深夜の二時半。あれだけ充実した夢を視ていたというのに、熟眠感もまるでない。
「あははっ、それは災難だ。まぁでも良かった、寝落ちしたのが変なところじゃなくて」
頷きながら佳乃が言う。
昨夜はナルコレプシーによる突発的な眠気のままの睡眠だった。今思い返してみても、自室に辿り着いたところまでしか記憶にない。それから何かをしたような形跡もなかった。
「で、その話には乗るの? トラウマなんでしょ? 気持ち悪くなるって、前に話してたよね」
「うん、まぁそうなんだけど……」
煮え切らない返事をしてしまう。
実際、私自身とても悩んでいることでもあったからだ。
夢だとしても、本当に弾けるようになるのなら、それほど喜ばしいことはない。一度は諦めこそしたものの、それは大好きな母との一番大きなコミュニケーションツールになる筈のものだったのだから。
しかし同時に、夢の中でだけ読めて弾けたところで、それがなんだというのか。そんな思いもあった。
夢の中で弾けたって、それが母との接点になるというものでもないだろう。話のつまみ程度にはなるかも知れないけれど、それだけだ。教えて貰ったり、一緒に弾いたりと、そんなことが出来るようになるわけではない。
こっちでは相変わらず気持ちが悪くなって、吐き出して、悲しくなってしまうのが関の山だ。それでは目標だって掲げられない。
それなのに、夢の中でピアノを弾くなんて――益々惨めになってしまうことだろう。
「とりあえず――保留、かな」
それでも、私はまだ決断が出来ない。根は臆病なままだ。
「保留? へぇ、珍しい。悩み事とか決めなきゃいけないことには、いつもなら『白黒はっきりしてなきゃ気持ち悪いから』って言って、ちゃんと結論出すのに」
迷うこともあれば、涼子さんに相談することだってあるけれど、今まではそのどれもに、しっかりと結論を出して来た。
そんな私の性分を知っているからこそ、佳乃は『保留』などという形で放っておくことが珍しく思えたのだろう。
私自身、覚えている限り、こんなことは初めてだ。
学習障害だということが分かった時分でさえ、ピアノから離れる決断を自分から下していたのだから。
「それだけ、大切にしたいことなんだね」
私の胸中を悟ったかのように佳乃が言う。
「うーん……気になるから、かな。ただの夢なら、それはそれでいいんだけどさ。何か大事なことだったら嫌じゃない?」
「その可能性があるんだ?」
「分かんないけど、何となく。ほんと、かなりぼんやりだけどさ」
話しながら脳裏に浮かぶのは、やはりあの声。そして、その声が導いた先に、ピアノがあったという事実。
夢だ。あれはただの夢。それは違いない。
でも、それならどうして、同じ夢の続きで、まったく同じ声で、あんな場所に立っていたのか――何か理由でもあるんじゃないかと、気になってしまうのは当然だ。
「まぁ、私がとやかく言えるような話でもなさそうだしね。沢山悩んで、そのうち一番いい結論が出せたら、それでいいんじゃない?」
そんなことを言いながら靴を履き替えた佳乃が手を振る。
一限目は選択科目。私は美術で、佳乃は書道を専攻しているから、教室が別なのだ。
「うん。また後でね」
軽く手を振り返すと、佳乃は満足そうに頷いて多目的教室の方へと歩いて行った。
その内、一番いい結論が出せたら――
佳乃はああ言っていたし、私自身かなりネガティブな思考だったから『保留』という形に落ち着いていたというのに。
授業中、そして昼食中、帰路――色々と考えている内、気持ちは意外にも前を向き始めていた。
『大事なのは、心の在り方さ』
夢の中で言われた言葉を思い出す。
思い立ったが吉日、というやつだ。
家に帰った私は、涼子さんに「ただいま」とだけ告げると、荷物を置いて、ピアノのある部屋へと足を運んだ。
懐かしい匂いがする。幼い頃に感じたものと、まったく同じだ。変わらない。
幾つもある本棚には、隙間なく楽譜や資料が詰め込まれている。
ショパン。リスト。シューベルト。ラフマニノフ。母がよく弾いていたものから、聞いたこともないマイナーな名前まで、数百、ともすれば千冊はあろう。
その中で一つ、ある楽譜が目に付いた。それは私が幼少の頃、一番好きだった一曲だった。
「まさか、今になってこれを読むことになるなんて……」
数ある中から、その一冊を手に取る。表紙には『練習曲作品十ー三』と書かれている。ショパン作曲、日本では『別れの曲』の名で知られる名曲だ。
まだうんと小さい頃、母が名誉ある舞台で弾いていた曲だ。
私はそこで母の雄姿を見、いつかこの曲が弾けるようになれたら――そう願っていた。
「難しそうだけど、まぁどうせ夢だし……」
夢の中では、全て心の思うまま。声の言っていたことを思い返すと、いくらか気持ちは楽になった。
一つ。大きな深呼吸をしてから、私はその表紙を捲った。
翌日の登校中、いつもの通学路にて、挨拶の言葉も早々に愚痴を零す相手は、もちろん佳乃だ。
佳乃は呆れたように笑う。それもそのはずだ。自分でも口にしたように、あの後で目を覚ましたのは深夜の二時半。あれだけ充実した夢を視ていたというのに、熟眠感もまるでない。
「あははっ、それは災難だ。まぁでも良かった、寝落ちしたのが変なところじゃなくて」
頷きながら佳乃が言う。
昨夜はナルコレプシーによる突発的な眠気のままの睡眠だった。今思い返してみても、自室に辿り着いたところまでしか記憶にない。それから何かをしたような形跡もなかった。
「で、その話には乗るの? トラウマなんでしょ? 気持ち悪くなるって、前に話してたよね」
「うん、まぁそうなんだけど……」
煮え切らない返事をしてしまう。
実際、私自身とても悩んでいることでもあったからだ。
夢だとしても、本当に弾けるようになるのなら、それほど喜ばしいことはない。一度は諦めこそしたものの、それは大好きな母との一番大きなコミュニケーションツールになる筈のものだったのだから。
しかし同時に、夢の中でだけ読めて弾けたところで、それがなんだというのか。そんな思いもあった。
夢の中で弾けたって、それが母との接点になるというものでもないだろう。話のつまみ程度にはなるかも知れないけれど、それだけだ。教えて貰ったり、一緒に弾いたりと、そんなことが出来るようになるわけではない。
こっちでは相変わらず気持ちが悪くなって、吐き出して、悲しくなってしまうのが関の山だ。それでは目標だって掲げられない。
それなのに、夢の中でピアノを弾くなんて――益々惨めになってしまうことだろう。
「とりあえず――保留、かな」
それでも、私はまだ決断が出来ない。根は臆病なままだ。
「保留? へぇ、珍しい。悩み事とか決めなきゃいけないことには、いつもなら『白黒はっきりしてなきゃ気持ち悪いから』って言って、ちゃんと結論出すのに」
迷うこともあれば、涼子さんに相談することだってあるけれど、今まではそのどれもに、しっかりと結論を出して来た。
そんな私の性分を知っているからこそ、佳乃は『保留』などという形で放っておくことが珍しく思えたのだろう。
私自身、覚えている限り、こんなことは初めてだ。
学習障害だということが分かった時分でさえ、ピアノから離れる決断を自分から下していたのだから。
「それだけ、大切にしたいことなんだね」
私の胸中を悟ったかのように佳乃が言う。
「うーん……気になるから、かな。ただの夢なら、それはそれでいいんだけどさ。何か大事なことだったら嫌じゃない?」
「その可能性があるんだ?」
「分かんないけど、何となく。ほんと、かなりぼんやりだけどさ」
話しながら脳裏に浮かぶのは、やはりあの声。そして、その声が導いた先に、ピアノがあったという事実。
夢だ。あれはただの夢。それは違いない。
でも、それならどうして、同じ夢の続きで、まったく同じ声で、あんな場所に立っていたのか――何か理由でもあるんじゃないかと、気になってしまうのは当然だ。
「まぁ、私がとやかく言えるような話でもなさそうだしね。沢山悩んで、そのうち一番いい結論が出せたら、それでいいんじゃない?」
そんなことを言いながら靴を履き替えた佳乃が手を振る。
一限目は選択科目。私は美術で、佳乃は書道を専攻しているから、教室が別なのだ。
「うん。また後でね」
軽く手を振り返すと、佳乃は満足そうに頷いて多目的教室の方へと歩いて行った。
その内、一番いい結論が出せたら――
佳乃はああ言っていたし、私自身かなりネガティブな思考だったから『保留』という形に落ち着いていたというのに。
授業中、そして昼食中、帰路――色々と考えている内、気持ちは意外にも前を向き始めていた。
『大事なのは、心の在り方さ』
夢の中で言われた言葉を思い出す。
思い立ったが吉日、というやつだ。
家に帰った私は、涼子さんに「ただいま」とだけ告げると、荷物を置いて、ピアノのある部屋へと足を運んだ。
懐かしい匂いがする。幼い頃に感じたものと、まったく同じだ。変わらない。
幾つもある本棚には、隙間なく楽譜や資料が詰め込まれている。
ショパン。リスト。シューベルト。ラフマニノフ。母がよく弾いていたものから、聞いたこともないマイナーな名前まで、数百、ともすれば千冊はあろう。
その中で一つ、ある楽譜が目に付いた。それは私が幼少の頃、一番好きだった一曲だった。
「まさか、今になってこれを読むことになるなんて……」
数ある中から、その一冊を手に取る。表紙には『練習曲作品十ー三』と書かれている。ショパン作曲、日本では『別れの曲』の名で知られる名曲だ。
まだうんと小さい頃、母が名誉ある舞台で弾いていた曲だ。
私はそこで母の雄姿を見、いつかこの曲が弾けるようになれたら――そう願っていた。
「難しそうだけど、まぁどうせ夢だし……」
夢の中では、全て心の思うまま。声の言っていたことを思い返すと、いくらか気持ちは楽になった。
一つ。大きな深呼吸をしてから、私はその表紙を捲った。



