「あら、おかえりなさい、陽和ちゃん。夕飯は肉じゃがだからね。もう少しだけ、ゆっくり待ってて」

 家に帰った私を、涼子さんが出迎える。今は亡き、母の祖父母もお世話になっていたらしい家政婦さんだ。
 今日は非番の筈だけれど、『楽しいから』と手伝いに来ている。が、内容は仕事の日と何ら変わりはない。家事全般、涼子さんの独壇場だ。
 私がナルコレプシーを患っていると知った辺りから、そんな日々が始まった。数年程前からは、もう毎日だ。
 私のことを気遣って、というのが本心かも知れないけれど、涼子さんはそれを感じさせるような振舞いはしない。何度かそれについて尋ねたことがあったけれど、決まって「楽しいからよ」の一言だけだ。
 そんな涼子さんが先に夕餉の準備をしていられるのは、預けてあるスペアキーで好きに出入りして貰っているから。
 涼子さんの言葉を受けた私は、いつもなら返事をしてから一旦自室へと入るけれど、今日はそのままリビングの方へと足を運んだ。ソファに荷物を置いて、テレビの電源だけ点けて、足早に涼子さんの横へと並んだ。

「何かやることある?」

 短く、それだけ尋ねる。
 それだけで何か察したらしい涼子さんは、今まさに煮込み始めた肉じゃがの火の番を任せてくれた。
 私がコンロの前に立つのを見ると、涼子さんは脇に置いていた幾つかの野菜を手に、別の作業を開始する。
 トン、トン、トン。
 規則正しい包丁の音が響く。
 わざわざ点けておいたテレビの音は聞こえない。
 私が自室へと戻らない時には決まって、私から何かしらの相談事がある。
 それを涼子さんは、

「陽和ちゃんが私の横に立つ時は、何かお話ししたいことがある時くらいものよ」

 ちゃんと分かってくれている。
 ピアノが弾けないと分かった時。進路に迷っていた時。大きな決断に迫られるような時に私は、必ずこうして涼子さんの手伝いを買って出る。
 普段はやらないそんな珍しい行動は、却って合図のようになってしまっているのだろう。
 普通は母に相談するものだとは私だって思っている。けれど、母に相談すると、どうにも流れが重たくなってしまうのだ。
 他人、と言ってしまってはものすごく聞こえが悪いけれど、身内でない涼子さんは相談しやすい。
 二人とも、仕事をしていて忙しいというのは一緒なのに。職種の差なのか、涼子さんには何だか甘えられてしまうのだ。
 涼子さんの言葉に、しかし私は未だ口を開かない。それでも、涼子さんの方から詮索するような野暮もしない。
 一度尋ねた後は、ただ、私が話し始めるのを待ってくれるだけ。それが、こういう時の涼子さんのコミュニケーションだ。
 トントン。カラカラ。
 幾つかの音を聞き流した頃、私はようやく口を開いた。

「トリニティカレッジ図書館、って聞いて、涼子さんは何か思い当たることってある?」

「えっと……トリニティ、何だったかしら? ごめんね、横文字はどうにも苦手で。でも、多分何もないわ」

 涼子さんははっきりと首を横に振った。

「ううん、大丈夫。その様子だと、ほんとになさそうだね。ごめん、忘れて」

「もう、なあに? 確かに私は聞き覚えがないけれど、それがどうかしたの?」

 知っているのなら、教えて欲しかった。
 けれど、そうとも言えない私は、

「えっと、今朝変な夢を見たんだ」

 昨夜から今朝にかけての夢を思い起こす。

「夢?」

「うん、夢。寝てる時に見る方の、夢」

 特別な驚きは見せない涼子さんに、私は昼間佳乃に話したように、そのまま詳細を語って聞かせた。
 夢の中で不思議な場所にいたこと。明晰夢らしい現象もあったこと。そこがどうやらトリニティカレッジ図書館という場所らしいこと。
 そして、知らない声に名前を呼ばれたこと。
 夢に出て来る舞台というのもは往々にして、現実世界で見知ったもの、音、匂いや色が反映されると言われている。
 よくよく知っている場所なら詳細に、ただ一度見た程度、あるいは意識的に見たことがない場所なら大雑把に、舞台が表現されるものなのだそうだ。
 しかし私の見た夢に出て来たあの空間は、とても詳細に、とても素晴らしい出来栄えだった。それはつまり、私がよくよく知っている場所だということになる。
 何かで見たのか、どこかで知ったのか、実物は見たことがないはずだと思うけれど、ネット上で見たそれらにとてもよく酷似しており、細かく、現実味があって、何より心に響くものに感じられた。
 その説を信じるのなら、たまたまテレビや雑誌で見かけた、程度の話でないのではないかと、そう思えて仕方がないのだ。

「夢、ねぇ。陽和ちゃんは、その夢を見てどう感じた?」

「え、どうって?」

「感動した。素敵だった。綺麗だった。好きになった。逆に、気持ちが悪くなった。不快だった。嫌いになった」

「うーん」

 少し考えてみるけれど、答えは一つしか浮かばなかった。

「私……とても、心地が良かったんだ」

「具体的には?」

「ずっとこの場所にいたい、みたいな。うーん、どう言ったら良いんだろ。ここにいるような安心感って言うか」

「ここって、自宅のこと?」

「うん。身を委ねても、何も悪いことは起こらないだろうって、そう思える感じ。あ、お母さんとか涼子さんと一緒にいる時みたいな感覚だ」

「へぇ、安心感ねぇ」

 応えながら、涼子さんは切り終えた野菜をお皿に添えていく。後からドレッシングをかけるだけの、簡単なサラダだ。

「そろそろ火、止めてもいいかも。あと、悪いけどお茶碗とかも出してくれるかしら?」

「うん。今日は涼子さんも食べていくんだよね?」

「ええ、有難いことにね」

 親戚同然に、いやそれ以上にフランクな相手である涼子さんは、その場で食事を摂ってから帰ることが大半だ。
 随分と昔に旦那さんとは死別しており、子どももいないから、どこでどんな時間を過ごそうとも誰に迷惑をかけるわけではない――と、いつだったか話していたことを覚えている。

「夢、また視たいって思った?」

「そりゃあ、視られるならね。でも、ネットとかでよく聞く『視たい夢が視られる方法』って、あれ全部嘘だから。そう簡単にはいかないかも」

「あら、試したことがあるの?」

「随分と前だけどね。お母さんにお菓子の家をプレゼントして貰ったんだけど、食べるどころか、その家の中に入ることも出来ない内に目が覚めちゃったんだよ。酷くない?」

「あらあら、それはぜひとも視てみたい夢ね」

「でしょ! まぁ、だから叶わなかったんだけどね。あーあ、どうせならそれも一緒にもう一回視たいなぁ」

「贅沢ばかり言ってると、幸せが逃げちゃうわよ?」

「口にすることで呼び込むタイプってことで」

 私は笑って言った。
 願望野望は口にしてなんぼ。みたいなことを言っていた偉人がいたような気がする。
 そんなことを話している内、二人分の料理がテーブルに並び揃った。
 さぁいざいただきます――という手前で、私は涼子さんに言っておかなければならないことを思い出し、制止した。

「どうしたの?」

「いつもはお母さんが対処してくれてたけど、今はいないからさ。きっと、沢山迷惑かけると思う」

「迷惑って――あぁ、ナルコレプシーのこと?」

 私は頷いた。

「大きな発作はそうそう起こらないと思うけど、ゼロとは言い切れない上に、いつ出るかも分からないからさ。学校の行き帰りは佳乃の助けもあるから大丈夫だけど、家ではそうもいかないでしょ? でも安心して。何か起こっても、別にどうなるって訳でもないから、何か適当な毛布でもかけて、そのままほったらかしておいてくれたら良いから。救急車とか呼んだって意味がないし。毛布だけで良いから、お願い」

 佳乃には、万一発作が起こって急に寝落ちるようなことがあれば、迷わず救急車を呼ぶよう伝えてある。路上では誰かしらの迷惑になるからだ。
 けれど、家には涼子さん一人。それも、ナルコレプシーだと知っている人だ。
 家なら基本的に危険はない。タンスや机、椅子など、家具は丸みのあるデザインに統一し、どうにもならない角の殆どには、柔らかい緩衝材を取り付けてある。階段で最悪の事態になってはいけないからと、私の自室も一階にある。
 これから先、まだどのくらいに渡って涼子さんの世話になるか分からないけれど、これまでだけでも散々世話になって来た。迷惑だって沢山かけて来たことだろう。
 これから迷惑をかけると前置いたのは、これ以上無駄に迷惑をかけない為だ。ほったらかしにしておいてもらうくらいで、丁度いい。

「出血してるとか骨が折れてるとか、そんな風に何か目立った事がない限り、特に何もしなくて良いからね」

「もう、そんなこと出来ると思ってるの? 陽和ちゃん一人くらい、いざとなれば抱えて――」

「うん、出来ると思う。涼子さん力持ちだし。でも、それで腰とかやっちゃったら大変でしょ? それに、私どこで寝たって風邪とかひかない体質だから」

「本気で言っているの?」

「冗談言ってるようには見えないでしょ?」

「それはそうだけれど……」

 納得いかない、といった面持ちではある。

「家事全般以上のことで、涼子さんにはお世話になりっぱなしだから。これ以上、迷惑かけたくないの」

 そう言うと涼子さんは「分かったわ」と答えながら、「間違ってることもある」と続け、私に向き直る。

「陽和ちゃんの祖父母さんたちからの恩もある。それは確か。でも、だからって私は『仕事だから』という理由だけで来ている訳ではないのよ。美那子さんも陽和ちゃんも、私はとても大切に思っているわ。だからこうして、毎日来ているの。仕事だからじゃない。大好きだからよ。お給金を頂かなくたっていいくらいよ? 毎日笑って、楽しく過ごすことが出来て、私はとても幸せだわ」

「いや、それは流石に――」

「本当よ? でも、だからこそ放っておくことなんて出来ない。家族がいないからこそ、家族同然に大切なんだもの。任されているからとか、仕事だからとか、そんなんじゃないのよ」

「……涼子さん、お人好しって言われない?」

「貴女のおばあちゃんによく言われたわ。でもそれがなあに? 私はそれでいいと思って生きてるもの」

 屈託なく言うものだから、私はもう何も言い返す気にはなれなかった。
 私が折れるしかなかったのだ。

「分かった。ごめんなさい。うーん……じゃあ、壁に背中を立てかけておくくらいで。やっぱり、踏み放題の絨毯にはなりたくないな」

「うんうん、それで良いの。ドンとお任せなさいな」

 横たえて放置しているよりかは、まだマシだ。涼子さんも、それで了解してくれた。
 それからはまた、夕餉をともにしつつ何でもない会話をして、有名なバラエティー番組を観て楽しんで、お風呂に入って、自室に戻る辺りまでは覚えていて――
『――――な……ひな』

 また、名前を呼ぶ声が聞こえる。
 この間と同じ声。優しく包み込むような、温かな声だ。
 誰? そんなに優しい声で私を呼ぶのは。

『んー、うぅん……』

 ゆっくり、ゆっくりと目を開いてゆく。
 そこにある色味を理解した瞬間、私は弾かれたように飛び起きた。

「ここ、昨日の…!」

 ぐるりと見回す。
 ガラス張りの壁、棚に、真っ赤なカーペット。間違いない。先日来た、また来たいと願った、あの場所だ。
 まさか、こんなに早く再会出来ようとは。
 希望なんてないようなものだったから、喜びよりも驚きの方が勝っている。

「身体――うん、動かせる。明晰夢だ」

 ぐっと拳を握ったり、頬をつねってみたりと、思ったことを試す。意のまま思うままに、それは実行出来た。
 あまりの現実味の無さは、魔女か悪魔にでも魅入られたみたいだ。

「とりあえず――」

 飛び起きた勢いそのままに、私は足をついて立ち上がった。
 前回起きた時は、踏み出した辺りで目が覚めてしまった。諸々と確かめる間もなく。
 だからこそ今回は、来られるとは思っていなかったからこそ、早々に目的を果たそうと思う。
 思い立ったが吉日。一歩、大きく踏み出した。
 真紅のカーペットは、それはそれは心地の良い足触りだった。綿か雲にでも足を突っ込んでいるようだ。
 左右に目を配れば、花瓶や本棚、更にはそこに収められている一冊一冊の本にまで、どこからか降り注ぐ光が乱反射して、一見すれば透き通った水色の中に、複雑な色のグラデーションが見て取れる。
 不思議と、眩しくはない。温かさすら感じる程だ。

『ひな――』

 また、あの声が名前を呼んだ。

「ねぇ、あなたどこにいるの?」

『この世界なら、どこにでも。君のすぐ傍にいるよ』

「すぐ傍? 会えないの? どこに行けば会える?」

『聞きたいことがあるって様子だけど――ごめんね、今はまだ、ダメなんだ』

「ダメって、どうして?」

『君がまだ、ここにいられる状態じゃないから』

「状態って、それどうすればなれるの?」

『納得をするために答えを急ぐのは、昔から変わらないんだね。君はここにいたいのかい?』

「何だか安心する雰囲気だから、いつでも来られるなら来たいなって思って――って、待って、昔の私を知ってるの?」

『ああ、知っているとも。産まれた時から、いやそれ以前から、かな。ずっと、君のことは知っている』

「何それ、神様みたい」

『ははっ、確かにね』

 声は快活に笑った。

『今はただ、何も考えずに、そのカーペットを進んでごらん。そうすれば、君ならきっと分かる筈だ』

「君なら、って……あなたが教えてくれるんじゃないんだ?」

『答えは自分で見つけた方がいい。君はそういう性分でしょ?』

「知った風に言うね。まぁ、実際そうなんだけどさ」

 納得はいかないけれど。

「うん、分かった。このまま進めばいいんだね?」

『ああ。それでいい。ただただ真っ直ぐ、奥へと進むんだ』

 一等優しくそう言うと、声はそのまま聞こえなくなった。
 進め、と促されているようだ。

「……とりあえず、進めばいいんだよね」

 これは夢だ。夢の中だ。
 ここで起こったこと、見聞きしたことが、現実に影響する筈などないけれど。
 不思議と、気持ちは前を向いていた。
 奥へ奥へと進んだ先。
 まるで舞台のように開けた場所に、『それ』はあった。
 お世辞にも、感動の再会とは言えない。
 この空間にある他のものと同様、澄んだ水色に光が反射している幻想的な色をしているというのに。私の目には『それ』が、綺麗なものには映らなかった。
 ただただ心地が悪く、今すぐにでもここから消えてしまいたい。

「どうして、こんなところに――」

 思わず声が漏れる。
 どうして声は、

「なんで、グランドピアノなんか……」

 こんなところへと(いざな)ったのだろう。
 つい数分前まで、胸は高鳴り、心は踊り跳ねていたというのに。
 声の言葉を信じるのなら、私のことなら何でも知っている筈なのに。
 どうしてわざわざ、こんなところへ。
 吐きそうだ。引き返そう。
 素直に、そう思った。

『陽和』

 来た道を引き返そうと歩み出した足が止まる。声はすぐ近くから――グランドピアノの方からだ。
 思わず振り返る。けれど、そこに誰かの姿はない。

「ねぇ、悪趣味じゃない? 私のこと知ってるんでしょ? どうしてこんなところに連れて来たの?」

『嫌いかい?』

 間髪入れないそんな質問に、私は思わず言葉を呑んだ。
 嫌いかどうか。そんなのに、決まっている。

「大っ嫌い!」

 そう、強く言った少し後で。

「…………じゃ、ない……はず。多分」

 歯切れ悪くも、紛れもない私の気持ちだった。
 今までずっと、ピアノなんて大嫌いだった。大嫌いに、なろうとしていた。
 けれど、心の底から好きだと思っていたものは、そう簡単には嫌いになれなかったらしい。
 私は、ピアノが好きだ。それが、本当の気持ちだ。

『そうだろうね。君が嫌う筈がない。だから君は、僕の言葉に怒っているんじゃなくて、悲しんでいるんだ』

「また随分と見透かしたように言うね」

『違うかい?』

「ううん、その通り。まったくもって大正解だよ」

『そりゃあそうだ。母さんに褒めて貰えて、君自身も更に深めていきたいと願ったものがピアノだ。それがまさか、あんな理由から離れることになって――悲しかったんだ』

「君、お母さんのことも知ってるの?」

『言ったろう、君のことなら産まれる前から知ってるって』

 声は爽やかに言う。
 答えにはなっていないけれど、別段それが気になった訳でもなかったから、私はそれ以上追随することはなかった。

「それで? そろそろ答えてもらってもいいかな? どうしてここに連れて来たの?」

 大きく踏み込んで、尋ねてみた。
 本当は、少しだけ怖かった。これについて何か話を聞くことが。
 声は答えない。数秒。数十秒。幾らか静寂が続いた後でようやく、声は口を開いた。

『僕が君の眼になる。耳になる。分からないことは、ここで全部分かるようになるから』

 何を言っているのか分からなかった。
 だから私は何も返せず、黙ってしまった。
 それは、敢えて尋ねなかった質問への答えのようなものだったから。

――私はピアノを弾けないのに、どうしてこんなところへ連れて来たのか――

 胸が痛くて飲み込んだ言葉への、答えのようだった。

「どういうこと……?」

『弾くんだよ。ピアノを。それを、触るんだ。ここでなら弾ける。弾くことが出来るんだ』

「む、無理だって、何言ってるの…!」

 私は強く否定した。
 望んでいたことがすぐ目の前に並べられていて――けれどもそれは、苦しくて一度、はっきりと手放したものだったから。
 怒鳴ったのは、手に入れられるのかもしれない、そんな期待を少しでも見させてくる声に、苛立ちを覚えたからだ。
 ここは夢の中。夢の中だからこそ、現実で味わえないことで苦しみは増す。
 いくら望んだって、それが出来ないことに変わりがないことは、もう何度も試して分かっている。
 楽譜を読む度に気持ちが悪くなって、何度か吐いてしまうこともあった。その度姿勢を保とうとピアノに手をつくけれど、悲しくて仕方がなくなって、足元が覚束なくなる。
 向こうでは弾けない。弾くことが出来ないんだ。

「知ってるんでしょ、私のこと…! おかしいじゃん…! 分からないの、弾けないの…! なのに、どうしてこんなこと――」

『弾けるよ』

 声は、これ以上ないくらいに落ち着いた声で言った。
 予想していなかった声音に、私は黙ってしまう。

『弾けるよ。ここでなら、好きな曲を、好きなだけ。陽和なら大丈夫さ』

「私ならって……ここで弾けたって、意味なんか……」

 もうほとんど言いかけたようなものだったけれど、少しでもはっきりと言わなかったのは、私自身がそれを全て認めてしまいたくなかったからだと思う。
 私の考えすら読めてしまっているようなこの声が、答えを出してこそくれなかったけれど、否定もしなかったということに、どこか希望を見出そうとしてしまったのかもしれない。

「い、今更、夢の中だからって、どうやって弾けばいいって言うの……? ここに楽譜なんてあるの?」

『いいや。読むんだ。陽和自身が』

「私自身って、まさか向こうで読んで来いとか言わないよね? 夢なんでしょ? それくらい何とかしてよ」

『分からなくても、気持ちが悪くなっても、まずは楽譜を読むんだ。一つ一つ、音符も記号も全て、何も残さずしっかりと。じっくりとね』

「何で向こうで読まなきゃいけないのよ。気持ち悪くなるんだってば」

『そうなってしまったとしても、だ。酷いことを言っているのは承知してる。もし嫌なら、別に構わない。けれど、君が少しでもそれを望むのなら、何でもいいから読んでみるんだ』

「そ、そんなことしたって、私……」

『大丈夫。何たって、ここは夢の中なんだよ? 全てが心のまま、思うままに出来るんだ。必要なのはどうありたいか、そしてどうなりたいか。心の在り方さ』

「心の、在り方……」

 その言葉が、胸にささった。嫌に食い込んで離れない。
 どこかで、自分から諦めていた。
 楽譜が読めないからと、もう無理なんだって諦めて、勝手に線を引いて、それを超える程の努力は自分でもやったことがなかった。
 しかしもし――もし、願ってもいいのなら。
 もう触らないと誓ったピアノに、一度でも触れて良いのなら。
 夢でも良い。この世界だけれ感じられる、泡沫の心地でも構わない。

「弾きたい……私、弾きたい」

 はっきりと告げたつもりの言葉は、絞り出したように儚い。
 それでも、声の主にはちゃんと届いたようで、『よく言った』とはっきり答えてくれた。大きく頷いている様子も見て取れるようだ。

『もう一度だけ言うよ。目を覚ましたら、楽譜を読むんだ。しっかり、じっくりとね。そうすれば、またこっちに来た時、好きなように練習が出来るから』

「はぁ、分かった。でもここにはどうやったら来られるの?」

『僕が君を迎えに行く。強く、この風景をイメージするんだ。そうすればまた、僕の方から君のことを呼んであげるから』

「うん。ありがと。って、何者かも分からない相手に言ってもなぁ」

『まぁ、そうなんだけどね』

 声は少し、抑揚なく言う。

『そろそろ夜明けだ。まずは、思いつく好きな曲を視てきてごらん――』
「――――で結局、変な時間に起こされてさ。何が『夜明けだ』よ。かっこつけたくせに、起きたの二時半だよ?」

 翌日の登校中、いつもの通学路にて、挨拶の言葉も早々に愚痴を零す相手は、もちろん佳乃だ。
 佳乃は呆れたように笑う。それもそのはずだ。自分でも口にしたように、あの後で目を覚ましたのは深夜の二時半。あれだけ充実した夢を視ていたというのに、熟眠感もまるでない。

「あははっ、それは災難だ。まぁでも良かった、寝落ちしたのが変なところじゃなくて」

 頷きながら佳乃が言う。
 昨夜はナルコレプシーによる突発的な眠気のままの睡眠だった。今思い返してみても、自室に辿り着いたところまでしか記憶にない。それから何かをしたような形跡もなかった。

「で、その話には乗るの? トラウマなんでしょ? 気持ち悪くなるって、前に話してたよね」

「うん、まぁそうなんだけど……」

 煮え切らない返事をしてしまう。
 実際、私自身とても悩んでいることでもあったからだ。
 夢だとしても、本当に弾けるようになるのなら、それほど喜ばしいことはない。一度は諦めこそしたものの、それは大好きな母との一番大きなコミュニケーションツールになる筈のものだったのだから。
 しかし同時に、夢の中でだけ読めて弾けたところで、それがなんだというのか。そんな思いもあった。
 夢の中で弾けたって、それが母との接点になるというものでもないだろう。話のつまみ程度にはなるかも知れないけれど、それだけだ。教えて貰ったり、一緒に弾いたりと、そんなことが出来るようになるわけではない。
 こっちでは相変わらず気持ちが悪くなって、吐き出して、悲しくなってしまうのが関の山だ。それでは目標だって掲げられない。
 それなのに、夢の中でピアノを弾くなんて――益々惨めになってしまうことだろう。

「とりあえず――保留、かな」

 それでも、私はまだ決断が出来ない。根は臆病なままだ。

「保留? へぇ、珍しい。悩み事とか決めなきゃいけないことには、いつもなら『白黒はっきりしてなきゃ気持ち悪いから』って言って、ちゃんと結論出すのに」

 迷うこともあれば、涼子さんに相談することだってあるけれど、今まではそのどれもに、しっかりと結論を出して来た。
 そんな私の性分を知っているからこそ、佳乃は『保留』などという形で放っておくことが珍しく思えたのだろう。
 私自身、覚えている限り、こんなことは初めてだ。
 学習障害だということが分かった時分でさえ、ピアノから離れる決断を自分から下していたのだから。

「それだけ、大切にしたいことなんだね」

 私の胸中を悟ったかのように佳乃が言う。

「うーん……気になるから、かな。ただの夢なら、それはそれでいいんだけどさ。何か大事なことだったら嫌じゃない?」

「その可能性があるんだ?」

「分かんないけど、何となく。ほんと、かなりぼんやりだけどさ」

 話しながら脳裏に浮かぶのは、やはりあの声。そして、その声が導いた先に、ピアノがあったという事実。
 夢だ。あれはただの夢。それは違いない。
 でも、それならどうして、同じ夢の続きで、まったく同じ声で、あんな場所に立っていたのか――何か理由でもあるんじゃないかと、気になってしまうのは当然だ。

「まぁ、私がとやかく言えるような話でもなさそうだしね。沢山悩んで、そのうち一番いい結論が出せたら、それでいいんじゃない?」

 そんなことを言いながら靴を履き替えた佳乃が手を振る。
 一限目は選択科目。私は美術で、佳乃は書道を専攻しているから、教室が別なのだ。

「うん。また後でね」

 軽く手を振り返すと、佳乃は満足そうに頷いて多目的教室の方へと歩いて行った。





 その内、一番いい結論が出せたら――
 佳乃はああ言っていたし、私自身かなりネガティブな思考だったから『保留』という形に落ち着いていたというのに。
 授業中、そして昼食中、帰路――色々と考えている内、気持ちは意外にも前を向き始めていた。

『大事なのは、心の在り方さ』

 夢の中で言われた言葉を思い出す。
 思い立ったが吉日、というやつだ。
 家に帰った私は、涼子さんに「ただいま」とだけ告げると、荷物を置いて、ピアノのある部屋へと足を運んだ。
 懐かしい匂いがする。幼い頃に感じたものと、まったく同じだ。変わらない。
 幾つもある本棚には、隙間なく楽譜や資料が詰め込まれている。
 ショパン。リスト。シューベルト。ラフマニノフ。母がよく弾いていたものから、聞いたこともないマイナーな名前まで、数百、ともすれば千冊はあろう。
 その中で一つ、ある楽譜が目に付いた。それは私が幼少の頃、一番好きだった一曲だった。

「まさか、今になってこれを読むことになるなんて……」

 数ある中から、その一冊を手に取る。表紙には『練習曲作品十ー三』と書かれている。ショパン作曲、日本では『別れの曲』の名で知られる名曲だ。
 まだうんと小さい頃、母が名誉ある舞台で弾いていた曲だ。
 私はそこで母の雄姿を見、いつかこの曲が弾けるようになれたら――そう願っていた。

「難しそうだけど、まぁどうせ夢だし……」

 夢の中では、全て心の思うまま。声の言っていたことを思い返すと、いくらか気持ちは楽になった。
 一つ。大きな深呼吸をしてから、私はその表紙を捲った。
 一時間と少し。
 内容と呼べるような内容は、もちろん私の中にはない。
 私に於いて楽譜とは、自分で思ったものが原曲のそれとは程遠く、頭の中には、記憶の中で美しい母の演奏とは全く異なる旋律が浮かんでいるのだから。
 その差異こそが、気持ち悪さの理由だ。
 知っている曲であるからこそ、その曲だと分かって読んだ楽譜でまったく違う旋律を得ると、気持ちが悪くなってしまう。
 それでも今回ばかりは、何とか吐き出しそうになるのを我慢して、二回、三回と読み返した。
 読む度、それは一度目、二度目とは違う旋律に聞こえて、尚気持ちが悪い。
 それでも、

「よ、読めた……うぇ、やっぱり気持ち悪いな……」

 音符、記号、小節数に至るまで、全て細かくじっくりと、目や脳に焼き付けるように、何一つ洩らすことなく読んだ。
 心身への負担は、以前までの比ではなかった。

「ちゃんと、読んだ……」

 ただ、目を通すことは出来た。相変わらず内容は分からないけれど、読むことが出来た。
 これがあの夢の中で、どう影響してくるのかは分からない。どう変わって来るのか、予想も出来ない。
 いつ落ちるとも知れない夢の世界に、思いを馳せる。そんな折、部屋の外から涼子さんの声が響いた。夕食の支度が出来た、と呼んでいるようだ。
 自室にいると思っているのか、声は遠い。

「はーい、今行――」

 楽譜を閉じ、立ち上がった矢先の出来事だった。

(あ、これ――)

 瞬間、世界は真っ白になる。
 また、あの景色が広がっていた。
 夢を視ている、視られているということは、頭を強く打ったり、最悪の事態にはなっていないのだろうと思う。
 それならば。

「ごめんね、涼子さん」

 独り言ちて、私は歩き出した。
 せっかく、夕飯の支度をして、呼びにさえ来てくれたというのに。
 その誘いに参加出来ないどころか、倒れてしまっている私の身体の介抱まで任せてしまう形だ。二人で決めたこととは言え、酷く心が痛む。
 とは言え、不幸中の幸いと言ってしまってはなお涼子さんに悪いけれど、奇しくも、願っていた展開だ。
 目覚めた場所は、またあのソファの上。

「ピアノまで結構距離あるのに。もうちょっと親切なところで起こしてくれないものかなぁ」

 夢であるこの世界へと文句を言ったところで、詮無き事だけれど。
 いつ覚めるとも分からない以上、楽を出来るに越したことはないから、溜息だって零れてしまうというものだ。心の在り方次第で何でも出来ると言うのなら、まずそこをなんとかして欲しい。
 フラフラと歩き進めて行くと、またあのピアノが見えて来た。
 よくよく見るとそれは、とても幻想的な佇まいをしていた。こんな世界にあって尚、そう思える程に。
 私の身長の半分程盛り上がった壇上に置かれたピアノは、舞台のように上方から降り注ぐ光も手伝って、まるでそこに座るものを讃えるかのように眩しい。案内人代わりのあの声が出てこないことに聊かの不安を抱きながらも、私は壇上へと上がり、トムソン椅子に腰を落ち着けた。
 座ったはいいがどうしよう――そう思いながら、何となく蓋に手を掛けた。その、視線の先に。

「――――えっ、これって」

 楽譜立てに、一冊の薄い本を見つけた。表紙には『練習曲十ー三』と書かれている。

「なんで……どうして?」

 思わず口に出てしまう。答えは、すぐに示された。

『どう? 驚いた?』

 あの声が響いた。すぐ横の方から聞こえる。

「当たり前でしょ! ……でも、これ、どうして?」

『言った筈だよ、夢は心の在り方次第だって。その本は、陽和が望んだ結果生まれたものさ。曖昧でも何となくでもなく、本当にそうありたいと願ったから、ね』

「便利過ぎない、その言葉?」

『夢なんだから、何だってありさ』

 そう声は言うけれど。
 確かに、夢の中でも良いからとそれを望んだのは、他でもない私自身だ。

『さあ、指を置いてごらん。見ているだけなんて、つまらないだろう?』

「弾ける弾けるって言うけど、私、向こうで全然理解出来なかったんだけど?」

『大丈夫。鍵盤もペダルも、ここにあるものなら全て、陽和の味方だから』

「また曖昧な言い方。それ、どうにかなんないかな」

 悪態をつきながらも、私は促されるまま、蓋を開けて指を置いた。
 手元は迷うことなく、この曲の第一音目のポジションへと動いた。

『良いかい、陽和。この曲を奏でる上で大切なのは、他の練習曲とは違った意味合いを持つという点だ。技巧だけれなく、フレーズ毎の表現力、ペダルに頼らないレガートの雰囲気づくりがいかに出来るか。全ての曲に通ずる話ではあるけれど、この曲は殊更、魅せ方が重要になってくる。ただの練習曲ではない、ということだ』

「ちょっ、待って、急に難しいこと言わないでよ…! 第一、魅せ方って何、あのよく聞く『歌いかた』ってやつ?」

『そう、それだ』

「いや合ってるのね…!」

 思わず勢いで突っ込んでしまったではないか。

『要はただ弾くのではなく、感情的に、聴き手の心に訴えかける演奏が出来るか否か、だ』

「弾いたことない人間にするアドバイスなのかな、それ」

『大丈夫。君は元々、そういった方面に強かったじゃないか』

「そういったって?」

『即興演奏だよ』

 声はきっぱりと言い放つ。

『決まったフレーズを弾かないのは寧ろ、感情から生まれ出て来るものだ。心のまま、思ったままに、自由な表現が出来ているという事実に他ならない』

「え、でも、そう言ったって楽譜の指示はある訳でしょ?」

『楽譜なんて、ただの敷かれたレールさ。教本、と言ったって良い。翻訳者、おこした人物によって、差異が生まれることだってある。演奏者によって表現が異なるのがいい例さ』

「無視はしないように、でも自分の弾き方もしろって? 無茶苦茶言ってる自覚ある?」

 それにこの曲は、ショパン本人が『一生の内、二度とこんなに美しい旋律を見つけることは出来ないだろう』とまで口にしていた程の大作。
 そんな言葉を思い出すと同時に、あの日見た母の雄姿までもが脳裏に浮かんで、足が竦んでしまうというのに。

(でも……弾きたいって思ったんだ。私が。そんな言葉を知っていながら、この楽譜を手に取って、読んだのは私……)

 そうありたい、そうなりたいと願ったから、私はこの楽譜を手にする為に、あの部屋を訪れた。
 十年間、拒み続けていた筈の、あの部屋を。

『陽和ならきっと大丈夫。出来るさ。思うまま、心のままに、素直な音を出してごらん』

 声に促されて改めて、私は離しかけていた指を、再び鍵盤の上に添えた。
 そっと確かめるように、音のしないギリギリの深さまで、一旦指を押し込んでみる。
 くっ、と木の鳴る音がする。見た目はガラスなのに、触感まで本物のグランドピアノのようだ。
 長らく離れていた、久しく味わっていなかった感覚。忘れかけていた熱。
 もう、とっくの昔に、この手から零れ落ちたものだと思っていた。

(そんなわけ、ないのにね)

 小さく笑うと、私は最初の一音を、長く、長く響かせた。
 本来ならここは、そうのっぺりと弾くところではない。この後に待っている同じフレーズを際立たせる為に、弱く小さくではあるけれど、しっかりとリズムに乗っていかなければいけないのに。

(楽譜、完全に無視してる――でも、何で? どうして、無視してるって分かるんだろ……)

 不思議と次の音が分かる。
 まるで自分の指でないみたいに、滑らかに、軽やかに、鍵盤の上を滑ってゆく。
 けれどこれは紛れもなく自分の指で、感覚だってしっかりとある。
 夢であることを、忘れてしまいそうだ。
 ……本当のことを言うと、私はとても怖かった。
 夢だからと希望は持ちつつも、一度は離れて、長く時間も経っていて、完全に嫌いになろうとさえ思っていた。そんな自分に、例え夢であっても奏でられるのか、奏でても良いのかと、心の中で何度も自問した。

(なんだ……たった、これだけのことだったんだ)

 全ては、気持ち一つ。夢の中の話ではない。
 弾きたい――ただ心で強く願えば、それだけで世界は変わるんだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」

 その一曲を弾き終えただけで、私は肩で息をするくらいの疲れを感じていた。
 余分に入る肩の力、無駄な動き、音のムラ。ブランクは、しっかりと身体へと跳ね返って来ていた。

「ひ、弾けた……弾けた!」

 けれどもそんなこと以上に、大事なこともあった。

「弾けた! ねぇ聴いてた? 見てた? 弾けたよ、私弾けたんだよ!」

 未だ誰とも知らない声に尋ねる。
 演奏中、ずっと気配のようなものは感じていた。すぐ傍で、私ががむしゃらに弾いているのを、ただ見守ってくれているような、そんな心地がしていた。
 だから私も、こうして尋ねているのだろう。

『うん、聴いていたよ。まだまだ改善の余地はありそうだけど――今はそんなこと、どうでもいいよね。とても素直で、素敵な音だった』

「あ、はは、弾けた……なんだ、簡単じゃん…!」

 恐れていたのが馬鹿みたいに。
 私は、この上ない達成感を感じていた。
 同時に――言い知れない後悔も、同じくらい感じていた。
 もしもあの時、何としてもピアノから離れないでいたならば――気持ちが悪くとも、例え読めなくとも、なにくそと噛り付いて、どうにかして弾く為の道を模索していたならば。
 たらればなんて考えたって意味はないし、過去に戻ることだって出来ないことは分かっている。
 でも、今頃ああなっていただろうな、こんなことも出来ていただろうな、と、どうしてもそんなことを考えてしまう。

『大丈夫。今からでも遅くはない』

 声が、また私の心を読んだみたいに言う。

『この曲は、もう君のものだ。君が弾きたいタイミングで、いつでも力を貸してくれる』

「弾けるのが夢の中だけだからって、向こうでもメンタルの支えになってくれるってこと?」

『あははっ! まぁ、意味は同じかな。そんなところだ』

 声は笑って言う。

『さあ、そろそろ目を覚ます時間かな』

 そんな一言に、私は頷きを返す。
 満足過ぎる時間だったために忘れていたけれど、今現実の方では、涼子さんにうんと迷惑をかけている頃合いだ。

「ねぇ、また遊びに来たいって思ってもいいの?」

『勿論さ。陽和がそれを望むなら、僕はいつだって歓迎するよ』

 声の調子は明るく、優しい。歓迎してくれているんだ。

『心配しないで、陽和。君の音は、まだ死んじゃいない』
 ゆっくりと目を開く。
 薄く開いた瞳が、部屋を後にしようとしている涼子さんの姿を捉える。

「涼子さん……」

 声をかけると立ち止まって、はっとしたようにこちらへ振り向いた。

「あら、ごめんなさい。起こしちゃったかしら」

 涼子さんはすぐ目の前まで戻って来ると、しゃがんで私の顔を覗き込んだ。

「具合はどう?」

「うん、大丈夫……あと、謝るのは私の方かも。ごめんね、夕飯だよって声は聞こえてたのに……」

「仕方ないわよ。いつ来るとも知れないものなんだから。それより、無理はしなくていいから、ゆっくり降りて来てね」

「……うん」

 涼子さんの柔和な声に頷く。
 そこでようやく、今私はピアノの置いてある部屋にいて、その端の方にあるソファに背中を預けられ、ふわりと良い香りのするブランケットがかけられているのだと理解した。
 私の状態を目にした涼子さんが介抱してくれた跡だ。

「今、何時……?」

 寝ぼけ眼を擦りながら、私は尋ねた。
 寝起きの目はぼやけて、部屋も薄暗くされていた為、うまく時計が見えなかった。

「八時半よ。だから、倒れてからは二時間くらいかしら。六時を回った辺りで陽和ちゃんに声をかけた筈だから。今は、ちょっと様子を見に来たの」

「そっか」

 時間にしてみれば、それほど長く落ちていた訳ではなかったらしい。けれどもやっぱり、せっかく出来立ての夕飯を食べられていない申し訳なさはあった。

「それにしても驚いたわ。お部屋に行っても姿がないから、もしかしたらと思って見に来てみたら、こんなところにいるんだもの。それに、この楽譜も」

 私のすぐ傍らに落ちていた楽譜を拾い上げると、少しだけ何か考えてから、

「――何か、あったのね?」

 と尋ねて来た。
 短く、けれども適格な問いかけに、私は素直に頷いた。
 ブランケットを口元まで巻いて、足を三角に折って、そこに顎を乗せると、私はついさっきまで視ていた夢の中での出来事を思い返した。

「夢、見てたんだ」

「あら、また夢のお話ね」

「この間の続き、なのかな。凄く素敵な夢だった。幻想的な風景が広がっててね、とっても広いその空間の中に、ぽつりと一台のグランドピアノが置いてあって」

 私は首だけで、部屋の中心に堂々と構えるグランドピアノの方を見る。

「それでね、その曲を弾いてたの」

「その曲って、これ?」

「うん、別れの曲――あのコンサートの舞台で、お母さんが弾いてた曲だよ」

 組んだ腕で、ぎゅっと膝を抱き寄せる。

「小さい頃、楽譜だけが読めない学習障害だって診断されて、私は絶望した。今となっては他に趣味も出来たから、結果良かったは良かったんだけど、あの時、ピアノは初めてお母さんに褒めてもらえたものだったから。プロのお母さんにだよ」

「ええ。そうだったわね」

 小さく言って、涼子さんは頷いた。

「でもさ……夢の中で、不思議な声に『ピアノが嫌い?』って尋ねられた時、私は頷かなかった。ううん、頷けなかったの。いくら嫌いになろうとしても、嫌いになりきれなかったみたい。今でも、楽譜を見ると気持ち悪くなるし、毎回違った旋律に聞こえて鳥肌が立つ。見なくていいならなるべく見たくはないって思う。でも……でもね」

 私の声は、少し震え始めていた。
 嗚咽のようなものも混ざって、上手く声が出せない。
 それでも何とか、言葉を絞り出す。涼子さんには、伝えないといけないからだ。

「私……ピアノが大好き」

 本当は、忘れてなんていなかった気持ち。
 嫌いだ、なんて、ただピアノから離れる為の口実のようなものだった。
 本当はずっと、好きで好きで仕方がなかった。ただ、自分で心の奥底に閉じ込めて鍵をかけて、眠らせていただけだ。

「夢の中で、たった一度だけでも、私はピアノに触れた。一番大好きな曲が弾けて、とっても幸せだった……凄く、嬉しかったの……」

「うん」

 頷く涼子さんの声は、聖母のように優しく、温かい。

「弾きたい…弾きたいよ……こんなに好きなのに……お母さんともっと、もっともっとピアノのこと話したいのに……一緒に練習したり、一緒の舞台に立ったり、出来ること、沢山あるはずなのに……なんで…」

 どうしても、それだけは叶わない。夢の中に入る前、そして入ってから、痛烈に思い知らされた。
 読めば気持ちが悪くなるし、その内容だってぐちゃぐちゃだ。悔しくて、悲しくて、憤りすらも感じた。

「弾きたい…………会いたいよ……お母さん…」

 母の帰国までは、まだ二週間以上ある。ひと月にも満たない出張。ただの、出張なのに。
 こんなにも会いたくなってしまうのはきっと、夢の中でピアノ触れてしまったからだ。

「陽和ちゃん…」

 どうしようもなく苦しむ私の身体を、涼子さんは優しく抱き寄せてくれた。
 家政婦さんなのに、昔から涼子さんには、たしかに母のような温もりと安心感を覚える。
 十六にもなって、大きな声まで出して、泣いてしまうほどに。
 母がいない時、母の代わりになってくれているからかな。




 どれくらいか時間が経った。

「みっともないところ見せちゃった……ごめん、涼子さん」

 眠気はもうすっかりなくなったけれど、空腹感はない。
 そんな私の様子を察してか、涼子さんは、

「後で、お腹が空いた時にでも食べればいいわ」

 と言い残して、部屋を出ていった。
 すっかり腫れあがってしまった目元を拭ってから、先にお風呂に入ってしまおうかと思い立ち、準備をするべく立ち上がった。
 辺りは静寂に包まれていた。いつもなら聞こえる鳥や犬の鳴き声、車のエンジン音、木々の擦れる音さえ聞こえない。
 なんだか、とても寂しい夜だ。
 そんなことを思いながら、私は部屋を後にした。
 翌日。
 私はまた、昨夜の出来事を、今日は涼子さん手製のお弁当をつつきながら、佳乃に話して聞かせた。
 私が喋っている間、佳乃は退屈そうな態度はとらない。いや、そうじゃないかな。
 過去のことを知っているからこそ、こんな話をする私に、興味があると言えばいいのか。夢は夢だから、どんな反応が返ってくるのか少しばかり怖くはあったけれど、佳乃は意外にも楽しそうに、まるで自分のことのように喜んでいた。

「へえ。じゃあ、弾けたんだ。良かったじゃん」

「夢だけどね。こっちじゃ相変わらず楽譜を見ると気持ち悪くなっちゃう」

「夢でも何でも良いじゃん。理想の自分、なりたい自分ってやつに、一度でもなれたってことでしょ? 最高じゃん?」

「まぁ、それはそうなんだけど」

 当然のように言うものだから、却ってこっちの方が少し恥ずかしい。

「でもまあ、安心したよ」

「安心? 何に?」

「いやほら、ピアノの話ってさ、陽和の前じゃタブーだって思ってたから。それだけ嬉しそうに話すってことは、そういうことなんだなって思ってさ」

「あー……あはは、まぁ、うん。ごめん、迷惑かけてたよね」

「何回心臓が飛び出ることかと」

「うわっ、うそほんとごめん」

「うそうそ、大丈夫。、そう怯えなさんな。でも、ちょびっとだけ心配してたのは本当。ほら、中学の頃にさ、陽和のお母さんがピアニストだって知った子が、合唱コンの伴奏を無茶ぶりしたことあったでしょ? でもあの頃って、今よりうんと臆病って言うか、自分からもの言えなかったじゃん。で、断り切れなくて、読めもしないのに無理やり読もうとして――」

「吐いて保健室送りになりましたとさ、ってね。ほんとごめん。あの時は――」

「違う違う、そうじゃなくてさ。そんなこともあったって知ってるからこそ、陽和が今こうしてピアノの話をして笑ってるってことが、私はめっちゃ嬉しいって話!」

 佳乃は明るく笑いながら言う。

「たとえこっちでは弾けなくてもさ。大好きなお母さんがやってるピアノの話が出来るのって、やっぱりそれだけで幸せなことだと思うから。ほんと、良かったじゃん。例え弾いたのが夢の中でも、こっちの陽和も変わったよ」

「――うん、そうかも。確かに、ちょっと変わって来たかな。ほんとありがとね、佳乃」

「さーて何のことだか? 別に私はお礼を言われるようなことはしてないんだけどなー」

 わざとらしい言い方に、私も乗っかって茶化してみる。
 ふと視線が交錯するとおかしくなって、予鈴が響く教室で、私たちは笑い合った