**前書き**
奏多の友人視点のお話です。
****
俺には、自分の人生において一つだけ後悔していることがある。
それは、あの時、あの場所で、
「……頼む、奏多の奥さん……!あいつを連れてかないでくれ……!」
なんて言葉を、願いを、祈りを、何も考えずに口にしてしまったことだ。
【02,二人が出会えて良かった】
俺と奏多の出会いは簡単なもので、小学生の頃、隣の席になったことがきっかけでよく話すようになった。
奏多は名家の三男で、何もかも手に入るように見えて、欲しいものが何一つ手に入らない子供だった。
家を継ぐ長男でもなく、そんな長男を支える次男でもない、『三男』という奏多の立場は非常に不安定なもので、幼いながらに何故友人がこんな目に合わなければならないのかと憤慨したことを覚えている。
奏多の母親は、彼の父親の2人目の妻であり、奏多の兄2人は前妻の子供だ。
そのためか、仲良くしたいと願う奏多の思いは叶うことなく、兄弟仲はどこかよそよそしい、溝を感じるものだった。
高校生の頃、初めて彼女が出来たのだと嬉しそうに話す奏多に、俺は酷く安堵した。
やっと彼は欲しいものが手に入れられるようになったのだと、大切にしたいと願う存在が近くにいてくれるようになったのだと、奏多の頭を乱雑に撫でながらもその場で祝福の言葉を並べた。
けれども、それもたった数ヶ月で終わりを迎えた。
奏多の初めての彼女は、元々奏多の家にしか興味がなく、早々に彼の兄に乗り換えたのだ。
「僕は三男だし、仕方ないよ。」
と、泣きそうな顔をしているくせに、無理やり笑う奏多に、俺の方が泣きそうになった。
そして、追い打ちをかけるように家族仲が急速に悪化して行った。
奏多の母親が、跡継ぎは自分の子供である奏多がなるべきだと騒ぎ出すようになったからだ。
元々長男はすでに事業を引き継ぎ始めていたし、奏多自身、跡を継ぐ気など全く無かった。
それにも関わらず騒ぎ立てる母親に、父親も、兄たちも、どこか奏多と母親に一線を置くようになり、奏多の願う愛し合う家族なんて物は、どう足掻いてもなれない所にまで来てしまっていた。
奏多はまた、「仕方ないよ。」と諦めたように笑う。
俺はその笑顔が嫌いだった。
その後社会人になり、忙しくもそこそこ充実した日々を送っていたある日、奏多から「お見合いをすることになった」というメールが届いた。
いつまで経っても未婚で子供がいないというのが、名家からすれば体裁の悪いらしく、「もう逃げられないと思う」という諦めたような文章が続いていた。
仕方ない、といつも諦めたように笑うだけの奏多の弱音とも言えないそのメッセージに、俺は奏多がもう限界なのだと察してしまった。
しかし、予想外にもお見合い相手との結婚は奏多にとっていい方向へと働いた。
奏多がニコニコと笑いながら、「僕の奥さんとね、今日はこんな話をしたんだ。」と自慢げに話すその様子はとても楽しそうで。
限界を迎えていた奏多の心を癒してくれた、奏多の奥さんに会ってみたくなった。
そんな時だった。
「……奏多?どうしたんだ?」
いつも俺の仕事中には電話を掛けてこないように気を使っていた奏多が、突然電話を掛けてきた。
電話に出ても、何も返ってこないスマートフォンの向こうにもう一度「どうしたんだ?」と声を投げれば、酷く震えた声で
『……菫さんの、意識が戻らないんだ……事故にあって、それで、運ばれて……!』
鼻を啜る音とともに、そんな言葉が返ってきた。
神様、これはあんまりじゃないか。
奏多が、ようやく幸せになれると思ったのに。
「はじめまして。俺はこいつの友人です。」
一月よりももう少し経った頃だっただろうか。
俺は、奏多に連れられ、奏多の奥さんの病室に訪れていた。
「それにしても、まさかお前の奥さんとの対面がこんな形になるとはな。」
「……そうだね。術後の経過もよくて、医者はいつ目を覚ましても可笑しくないって言うんだけれど。」
と、奏多は慣れた手つきで奥さんの頬を撫でた。
その光景に俺の口角がにやりと持ち上がったのがわかる。
「へぇー、ほぉー、お前がそんな顔をねぇー。」
「うるさいな。いいだろ別に。僕の奥さんなんだから。」
愛おしくてたまらない、とその目に詰め込んだようなその視線。
見ているこちらがうんざりしてしまいそうな程の甘い目だった。
ああ、奏多はこの人の事が本当に好きなんだな、と俺はどこか安堵した。
「でもお見合い結婚だろ?しかも2回目に会った時には結婚って。正直どーだった?」
だからこそ、思い切ってそう尋ねた。
奥さんがいる病室で聞くようなことでは無いかもしれないが、それでも、お見合いの前の奏多を知っているからこそ、奏多の本音を聞きたかったのかもしれない。
「……いや、あの、正直にいうとさ……」
「おう、正直に言うと?」
「ひ、一目惚れしてたから嬉しかったっていうか……」
「はっ!?初対面で惚れちゃったの!?」
確かに、デレデレになるまでが早かったと思ってはいたが、まさか一目惚れだったとは思っていなかった。
予想外のカミングアウトに、思わず大きな声を上げてしまう。
「料亭の座敷に通される前に1度、廊下で彼女が母親と話しているところを見かけたんだけれど、最初はニコニコしていたのに、どこかそれが嘘くさくて苦手なタイプかなって思ったんだ。」
「それでなんで惚れちゃったんだよ?」
「その母親がいなくなった瞬間にすんって真顔になってさ。『あ、この子は不本意でこのお見合いを進められたんだ』って思ったら、彼女がニコニコしていたのもそうやって自分の心を諦めてきたからなのかなって思って……」
「それで?」
「間近で見たらめっちゃ可愛いし、僕を見て少し肩の力抜いてくれたし、いい匂いするし、仕草とか綺麗だし、もういっそ彼女の人生において彼女の心を殺してきたやつらを抹殺して、世界から隔離して僕の部屋だけにいてくれればいいなって……」
「最後がやけに不穏だな!?」
思わず叫んだ俺の意見は最もだと思う。
それに、恐らく奥さんも、奏多と同じだったんだ。
きっと、欲しいものをずっと諦め続けてきた、心が悲鳴をあげてしまうような日々を過ごしてきた人。
だからこそ奏多は彼女の心に寄り添いたいと思ったのでは無いのだろうか。
同じ痛みを知っているからこそ。
「……はぁー、お前本当に奥さんにベタ惚れなんだな。なんか心配して損したわ。」
「なんだよ、心配って。」
「いや、親が勝手に進めた見合い婚なんて時代錯誤もいい所じゃねーか。不仲になってないかとか、色々面倒なことになってんじゃないかとか、友人としては心配だったんだよ。」
と、奏多を小突けば、少し赤い頬のまま奏多は「僕はちゃんと幸せだよ」と答えた。
(早く目覚めてくれよ、奏多の奥さん。)
きっとあなた達2人は、『2人で』幸せになれるはずなのだから。
「じゃあ、また来るよ。」
「俺もまた来ますね。 」
けれど、この世界は
「急患!急患です!」
「直ぐにオペの準備を!!」
いつだって残酷だ。
「奏多っ!奏多っ!しっかりしてくれ!!」
病院から出て、すぐの事だった。
信号が変わるのを待つ間、ちょっとした世間話をしていたその時、突然奏多が俺を突き飛ばした。
直後、決して小柄ではない奏多の体が簡単に宙を舞った。
ゴトンッと重々しい音を立てて奏多は頭をコンクリートに打ち付ける。
その光景が、やけに鮮明に、ゆっくり見えて、俺はふらつく足でなんとか駆け寄った。
「……おい、奏多……?……なぁ、やめてくれよ……!」
赤い。
奏多が、真っ赤で、顔が見えない。
あの穏やかな瞳が見えない。
固く閉じられていて、起きてくれない。
「おい、奏多……!ダメだダメだダメだ!お前がいなきゃ誰が奥さんを待っててやるんだよ!なぁ!?」
「君、落ち着いて!」
「おい、病院に運ぶぞ!」
「奏多ぁ!!」
周りの人間が動く中、俺は現実を上手く受け入れられず、そしてただ叫んでいた。
何故。
どうして。
こんな結末、あんまりじゃないか。
「奏多っ……!」
「ご友人の方はこちらでお待ちください!」
血まみれの奏多を乗せたストレッチャーが、緊急手術室に運び込まれて行った。
手術中の赤いランプが着灯し、薄暗い廊下に取り残された俺は崩れるように座り込んだ。
「……頼む、奏多の奥さん……!あいつを連れてかないでくれ……!」
と、額の前で両手の指を強く組み、握りしめ祈る。
奇跡を信じるしかない。
だって、素人の俺でもわかる。
きっと、奏多は助からない。
頭から落ちた奏多の心肺はすでに停止しかけていた。病院の目の前で起きた故に搬送距離などほんの僅かだったというのに、それなのに、たったその僅かな距離の間に、奏多の心臓は止まろうとしていた。
頭部は深く割れ、出血も止まらない。
絶望的な状況だと俺の脳みそのどこか冷静な部分は分かっていた。
分かっていても、それでも願わずには居られなかった。
これから、奏多は幸せになれるはずなのに。
こんな終わり方なんて、あんまりじゃないか。
ただ祈り続けて、どれほど経ったか。
「奏多はっ!?」
とバタバタとした騒がしい足音と共に奏多の母親が駆け寄ってきた。
慌てて来たのだろう、いつも綺麗にセットされている髪は崩れ、その顔色はとても青い。
「……まだ、手術中です。」
震えた声でそう返した俺の肩を掴んだまま、奏多の母親は今度は顔を真っ赤にして叫び始めた。
「あの女が!あの女が奏多を殺したんだわ!じゃなきゃあの女みたいに事故に巻き込まれるなんて……!あの女は私達を恨んで奏多を殺したんだわ!!」
「辞めてください!まだ奏多は死んでません!」
わぁっと今度は大声で泣き始めた奏多の母親に、俺は思わず声を荒らげた。
やめてくれ、まだ、まだ奏多は生きている!
もうすでに死んだように妄想も甚だしい恨み言を叫ぶ母親の手を荒く振りほどく。
きっと、奏多は戻ってくる。
あんな目をして奥さんを見つめていた奴が、奥さんを置いて逝くはずがない。
(頼む、奥さん……!奏多があっちに行きそうになってたら連れ戻してくれ……!)
どれほどの時間が、過ぎただろうか。
ようやく消えた手術室のランプに、嫌な不安が煽られる。
手術室から出てきたのは奏多の手術を担当したと思われる男性医師だった。
「先生、奏多は!?」
「一時は心肺が停止しましたが、手術は無事成功しました。奇跡としか良いようがありませんよ。」
と、柔らかく微笑んだ先生。
その言葉に強ばった体から一気に力が抜けた。
「ああ!奇跡よ!よかった!」
「奏多っ……!よかった!本当によかった……!」
完全に力が抜けてしまい、良かったと口にしながら、待合のベンチに座り込む。
足も手も情けないほどに震えてしまっていて、暫く立てそうに無かった。
奏多は個室の病室へと移され、奏多の母親は今夜は病室に泊まって付き添うと言っていた。
(……思えば、この病棟って奏多の奥さんが入院しているとこだよな……)
ふと、病室からの帰り道、その事を思い出した。
例え意識がなくても、声だけは届くことがあると何かで読んだことがある。
(……奏多の奥さんにも、奏多の無事報告してくるか。)
聞こえていないかもしれないけれど、それでもなんとなく、奏多の無事と、お礼を奥さんに伝えたくなった。
「……えっ。」
奏多の奥さんの病室には明かりがついていた。
中には何人かの看護婦と、担当医と思われる人がいて、そして奥さんの顔には
「……なんで……」
白い布、打ち覆いが掛けられていた。
まるでそれは、奏多の代わりに逝ってしまった様で。
『……頼む、奏多の奥さん……!あいつを連れてかないでくれ……!』
ふと、手術室の前で零した言葉を思い出した。
まるで、死者へとかけるような願い事だ。
まだ、まだ奏多の奥さんは死んでいなかったというのに。
「……俺のせいだ。」
俺がそう頼んだから、奥さんは奏多の代わりに逝ってしまったんだ。
俺が、奏多と奥さんの未来の幸せを奪った。
***
「……す……みれ……は……?」
奏多が目を覚まして最初に言った言葉は、奥さんの安否を尋ねる言葉だった。
そんな奏多の言葉に、俺は言葉を詰まらせる。
それが、答えになってしまった。
「……ぼく、は──……!」
菫がいれば、それで良かったのに。
声にならないその音で紡がれた言葉。
その言葉に、胸がキシリと締め付けられる。
奏多はわかってしまった。奥さんが、もうこの世界のどこにもいないことに。
「ごめん……」
謝ったところで、もう奥さんは戻ってこない。
「ごめん奏多……!」
そして許されたい訳じゃない。
それでも俺があの時、あんな言葉を口走らなければ、未来は違ったんじゃないかと、そう思わずには居られなかった。
「ごめん、奏多……!」
奏多から、『欲しいもの』を奪ったのは、他でもない、俺自身なんだ。
それから、奏多の様子は廃人と化していた。
話しかけても虚ろな返事しかせず、怪我が治ってもろくに動かず、飯もまともに摂らない、そんな日々が半年以上続いた。
「……奏多、函館山行こうぜ。」
「……」
「ほら、あそこ夜景がすげー綺麗なんだってさ。」
まともに返事も返さない奏多を無理やり連れ出して、北海道へと向かったのは、一種の賭けのようなものだった。
実際に観た函館山からの夜景は写真で見るよりも絶景で、奏多も、心做しかその光景を見つめているように思えた。
「なぁ、北海道からさ、順に沖縄まで観光名所回ろうぜ。そんでもって、お前が死んだ時奥さんにオススメ教えてやれよ。それでさ、」
俺はそこで一旦言葉を切った。
息を吸えば、北海道の冷たい澄んだ空気が肺に流れ込む。
「もしも『次の人生』ってやつで巡り会えたらさ、奥さんと一緒に行ってこいよ。」
あまりにも突拍子のない話だと、自分でも分かっていた。
それで、奏多の心がどう変わるかもわからない。
でも、このままただ死を待つだけに生きるのは、やめて欲しかった。ただの俺のわがままだ。
「……菫がいた。」
「えっ……?」
ふいに夜景を眺めたまま、奏多が言葉を発した。
菫とは奏多の奥さんの名前のはず。何故今その名前が出てきたのか分からず、ぽかんと奏多の顔を見やった。
「……事故にあった時、気づいたら、よく分からない門の前にいたんだ。」
奏多はどこかぼんやりと遠くを見ながらそう言った。
「……笑ってた。『どうか、生きて』なんて言って、笑ってたんだ。菫がいなきゃ、意味なんてないのに。」
つぅと一筋涙が流れる。
それは次第に奏多の目からどんどん溢れて、次から次へと流れ伝っていく。
「……『次の人生』で、また会えるかな……?」
突拍子のない話だ。
俺の話も、奏多の話も。
それでも、
「……ああ、きっと会えるよ。」
俺は、そう願わずには居られなかった。
****
「……お兄ちゃん、どうして泣いてるの?」
「……え?……あれ、なんでだろ……?」
目の前で、小さな男の子が首を傾げている。
そんな男の子の両親もどうしたのかと慌てているが、何故俺は泣いているのだろうか。
「なんでだろ、なんか溢れて……止まんないや。」
ゴシゴシと目元を荒く拭えば、「目を傷つけてしまうよ。」と、男の子の父親にやんわりと止められ、母親からは「良かったら使って。」とハンカチを差し出された。
それをどことなく恥ずかしく感じながら、それでも止まらない涙をなんとか止めようと受け取ったハンカチを目に押付けた。
「私は九条奏多。こちらは妻の菫と息子の緑だ。良かったら落ち着くまで一緒にいてもいいかな?」
「俺は、藤ヶ谷努。……なんでだろ、あんたら見てたら余計に止まんないや。」
「おや、それは困ったね。」
なんて穏やかに笑う目の前の男を見て、何故か良かったと安堵する俺がいる。
何故かはわからない。
分からないけど、何故か酷く安心したんだ。
よかった。
お前はもう、諦めたように笑わなくていいんだな。
【二人が出会えて良かった】
奏多の友人視点のお話です。
****
俺には、自分の人生において一つだけ後悔していることがある。
それは、あの時、あの場所で、
「……頼む、奏多の奥さん……!あいつを連れてかないでくれ……!」
なんて言葉を、願いを、祈りを、何も考えずに口にしてしまったことだ。
【02,二人が出会えて良かった】
俺と奏多の出会いは簡単なもので、小学生の頃、隣の席になったことがきっかけでよく話すようになった。
奏多は名家の三男で、何もかも手に入るように見えて、欲しいものが何一つ手に入らない子供だった。
家を継ぐ長男でもなく、そんな長男を支える次男でもない、『三男』という奏多の立場は非常に不安定なもので、幼いながらに何故友人がこんな目に合わなければならないのかと憤慨したことを覚えている。
奏多の母親は、彼の父親の2人目の妻であり、奏多の兄2人は前妻の子供だ。
そのためか、仲良くしたいと願う奏多の思いは叶うことなく、兄弟仲はどこかよそよそしい、溝を感じるものだった。
高校生の頃、初めて彼女が出来たのだと嬉しそうに話す奏多に、俺は酷く安堵した。
やっと彼は欲しいものが手に入れられるようになったのだと、大切にしたいと願う存在が近くにいてくれるようになったのだと、奏多の頭を乱雑に撫でながらもその場で祝福の言葉を並べた。
けれども、それもたった数ヶ月で終わりを迎えた。
奏多の初めての彼女は、元々奏多の家にしか興味がなく、早々に彼の兄に乗り換えたのだ。
「僕は三男だし、仕方ないよ。」
と、泣きそうな顔をしているくせに、無理やり笑う奏多に、俺の方が泣きそうになった。
そして、追い打ちをかけるように家族仲が急速に悪化して行った。
奏多の母親が、跡継ぎは自分の子供である奏多がなるべきだと騒ぎ出すようになったからだ。
元々長男はすでに事業を引き継ぎ始めていたし、奏多自身、跡を継ぐ気など全く無かった。
それにも関わらず騒ぎ立てる母親に、父親も、兄たちも、どこか奏多と母親に一線を置くようになり、奏多の願う愛し合う家族なんて物は、どう足掻いてもなれない所にまで来てしまっていた。
奏多はまた、「仕方ないよ。」と諦めたように笑う。
俺はその笑顔が嫌いだった。
その後社会人になり、忙しくもそこそこ充実した日々を送っていたある日、奏多から「お見合いをすることになった」というメールが届いた。
いつまで経っても未婚で子供がいないというのが、名家からすれば体裁の悪いらしく、「もう逃げられないと思う」という諦めたような文章が続いていた。
仕方ない、といつも諦めたように笑うだけの奏多の弱音とも言えないそのメッセージに、俺は奏多がもう限界なのだと察してしまった。
しかし、予想外にもお見合い相手との結婚は奏多にとっていい方向へと働いた。
奏多がニコニコと笑いながら、「僕の奥さんとね、今日はこんな話をしたんだ。」と自慢げに話すその様子はとても楽しそうで。
限界を迎えていた奏多の心を癒してくれた、奏多の奥さんに会ってみたくなった。
そんな時だった。
「……奏多?どうしたんだ?」
いつも俺の仕事中には電話を掛けてこないように気を使っていた奏多が、突然電話を掛けてきた。
電話に出ても、何も返ってこないスマートフォンの向こうにもう一度「どうしたんだ?」と声を投げれば、酷く震えた声で
『……菫さんの、意識が戻らないんだ……事故にあって、それで、運ばれて……!』
鼻を啜る音とともに、そんな言葉が返ってきた。
神様、これはあんまりじゃないか。
奏多が、ようやく幸せになれると思ったのに。
「はじめまして。俺はこいつの友人です。」
一月よりももう少し経った頃だっただろうか。
俺は、奏多に連れられ、奏多の奥さんの病室に訪れていた。
「それにしても、まさかお前の奥さんとの対面がこんな形になるとはな。」
「……そうだね。術後の経過もよくて、医者はいつ目を覚ましても可笑しくないって言うんだけれど。」
と、奏多は慣れた手つきで奥さんの頬を撫でた。
その光景に俺の口角がにやりと持ち上がったのがわかる。
「へぇー、ほぉー、お前がそんな顔をねぇー。」
「うるさいな。いいだろ別に。僕の奥さんなんだから。」
愛おしくてたまらない、とその目に詰め込んだようなその視線。
見ているこちらがうんざりしてしまいそうな程の甘い目だった。
ああ、奏多はこの人の事が本当に好きなんだな、と俺はどこか安堵した。
「でもお見合い結婚だろ?しかも2回目に会った時には結婚って。正直どーだった?」
だからこそ、思い切ってそう尋ねた。
奥さんがいる病室で聞くようなことでは無いかもしれないが、それでも、お見合いの前の奏多を知っているからこそ、奏多の本音を聞きたかったのかもしれない。
「……いや、あの、正直にいうとさ……」
「おう、正直に言うと?」
「ひ、一目惚れしてたから嬉しかったっていうか……」
「はっ!?初対面で惚れちゃったの!?」
確かに、デレデレになるまでが早かったと思ってはいたが、まさか一目惚れだったとは思っていなかった。
予想外のカミングアウトに、思わず大きな声を上げてしまう。
「料亭の座敷に通される前に1度、廊下で彼女が母親と話しているところを見かけたんだけれど、最初はニコニコしていたのに、どこかそれが嘘くさくて苦手なタイプかなって思ったんだ。」
「それでなんで惚れちゃったんだよ?」
「その母親がいなくなった瞬間にすんって真顔になってさ。『あ、この子は不本意でこのお見合いを進められたんだ』って思ったら、彼女がニコニコしていたのもそうやって自分の心を諦めてきたからなのかなって思って……」
「それで?」
「間近で見たらめっちゃ可愛いし、僕を見て少し肩の力抜いてくれたし、いい匂いするし、仕草とか綺麗だし、もういっそ彼女の人生において彼女の心を殺してきたやつらを抹殺して、世界から隔離して僕の部屋だけにいてくれればいいなって……」
「最後がやけに不穏だな!?」
思わず叫んだ俺の意見は最もだと思う。
それに、恐らく奥さんも、奏多と同じだったんだ。
きっと、欲しいものをずっと諦め続けてきた、心が悲鳴をあげてしまうような日々を過ごしてきた人。
だからこそ奏多は彼女の心に寄り添いたいと思ったのでは無いのだろうか。
同じ痛みを知っているからこそ。
「……はぁー、お前本当に奥さんにベタ惚れなんだな。なんか心配して損したわ。」
「なんだよ、心配って。」
「いや、親が勝手に進めた見合い婚なんて時代錯誤もいい所じゃねーか。不仲になってないかとか、色々面倒なことになってんじゃないかとか、友人としては心配だったんだよ。」
と、奏多を小突けば、少し赤い頬のまま奏多は「僕はちゃんと幸せだよ」と答えた。
(早く目覚めてくれよ、奏多の奥さん。)
きっとあなた達2人は、『2人で』幸せになれるはずなのだから。
「じゃあ、また来るよ。」
「俺もまた来ますね。 」
けれど、この世界は
「急患!急患です!」
「直ぐにオペの準備を!!」
いつだって残酷だ。
「奏多っ!奏多っ!しっかりしてくれ!!」
病院から出て、すぐの事だった。
信号が変わるのを待つ間、ちょっとした世間話をしていたその時、突然奏多が俺を突き飛ばした。
直後、決して小柄ではない奏多の体が簡単に宙を舞った。
ゴトンッと重々しい音を立てて奏多は頭をコンクリートに打ち付ける。
その光景が、やけに鮮明に、ゆっくり見えて、俺はふらつく足でなんとか駆け寄った。
「……おい、奏多……?……なぁ、やめてくれよ……!」
赤い。
奏多が、真っ赤で、顔が見えない。
あの穏やかな瞳が見えない。
固く閉じられていて、起きてくれない。
「おい、奏多……!ダメだダメだダメだ!お前がいなきゃ誰が奥さんを待っててやるんだよ!なぁ!?」
「君、落ち着いて!」
「おい、病院に運ぶぞ!」
「奏多ぁ!!」
周りの人間が動く中、俺は現実を上手く受け入れられず、そしてただ叫んでいた。
何故。
どうして。
こんな結末、あんまりじゃないか。
「奏多っ……!」
「ご友人の方はこちらでお待ちください!」
血まみれの奏多を乗せたストレッチャーが、緊急手術室に運び込まれて行った。
手術中の赤いランプが着灯し、薄暗い廊下に取り残された俺は崩れるように座り込んだ。
「……頼む、奏多の奥さん……!あいつを連れてかないでくれ……!」
と、額の前で両手の指を強く組み、握りしめ祈る。
奇跡を信じるしかない。
だって、素人の俺でもわかる。
きっと、奏多は助からない。
頭から落ちた奏多の心肺はすでに停止しかけていた。病院の目の前で起きた故に搬送距離などほんの僅かだったというのに、それなのに、たったその僅かな距離の間に、奏多の心臓は止まろうとしていた。
頭部は深く割れ、出血も止まらない。
絶望的な状況だと俺の脳みそのどこか冷静な部分は分かっていた。
分かっていても、それでも願わずには居られなかった。
これから、奏多は幸せになれるはずなのに。
こんな終わり方なんて、あんまりじゃないか。
ただ祈り続けて、どれほど経ったか。
「奏多はっ!?」
とバタバタとした騒がしい足音と共に奏多の母親が駆け寄ってきた。
慌てて来たのだろう、いつも綺麗にセットされている髪は崩れ、その顔色はとても青い。
「……まだ、手術中です。」
震えた声でそう返した俺の肩を掴んだまま、奏多の母親は今度は顔を真っ赤にして叫び始めた。
「あの女が!あの女が奏多を殺したんだわ!じゃなきゃあの女みたいに事故に巻き込まれるなんて……!あの女は私達を恨んで奏多を殺したんだわ!!」
「辞めてください!まだ奏多は死んでません!」
わぁっと今度は大声で泣き始めた奏多の母親に、俺は思わず声を荒らげた。
やめてくれ、まだ、まだ奏多は生きている!
もうすでに死んだように妄想も甚だしい恨み言を叫ぶ母親の手を荒く振りほどく。
きっと、奏多は戻ってくる。
あんな目をして奥さんを見つめていた奴が、奥さんを置いて逝くはずがない。
(頼む、奥さん……!奏多があっちに行きそうになってたら連れ戻してくれ……!)
どれほどの時間が、過ぎただろうか。
ようやく消えた手術室のランプに、嫌な不安が煽られる。
手術室から出てきたのは奏多の手術を担当したと思われる男性医師だった。
「先生、奏多は!?」
「一時は心肺が停止しましたが、手術は無事成功しました。奇跡としか良いようがありませんよ。」
と、柔らかく微笑んだ先生。
その言葉に強ばった体から一気に力が抜けた。
「ああ!奇跡よ!よかった!」
「奏多っ……!よかった!本当によかった……!」
完全に力が抜けてしまい、良かったと口にしながら、待合のベンチに座り込む。
足も手も情けないほどに震えてしまっていて、暫く立てそうに無かった。
奏多は個室の病室へと移され、奏多の母親は今夜は病室に泊まって付き添うと言っていた。
(……思えば、この病棟って奏多の奥さんが入院しているとこだよな……)
ふと、病室からの帰り道、その事を思い出した。
例え意識がなくても、声だけは届くことがあると何かで読んだことがある。
(……奏多の奥さんにも、奏多の無事報告してくるか。)
聞こえていないかもしれないけれど、それでもなんとなく、奏多の無事と、お礼を奥さんに伝えたくなった。
「……えっ。」
奏多の奥さんの病室には明かりがついていた。
中には何人かの看護婦と、担当医と思われる人がいて、そして奥さんの顔には
「……なんで……」
白い布、打ち覆いが掛けられていた。
まるでそれは、奏多の代わりに逝ってしまった様で。
『……頼む、奏多の奥さん……!あいつを連れてかないでくれ……!』
ふと、手術室の前で零した言葉を思い出した。
まるで、死者へとかけるような願い事だ。
まだ、まだ奏多の奥さんは死んでいなかったというのに。
「……俺のせいだ。」
俺がそう頼んだから、奥さんは奏多の代わりに逝ってしまったんだ。
俺が、奏多と奥さんの未来の幸せを奪った。
***
「……す……みれ……は……?」
奏多が目を覚まして最初に言った言葉は、奥さんの安否を尋ねる言葉だった。
そんな奏多の言葉に、俺は言葉を詰まらせる。
それが、答えになってしまった。
「……ぼく、は──……!」
菫がいれば、それで良かったのに。
声にならないその音で紡がれた言葉。
その言葉に、胸がキシリと締め付けられる。
奏多はわかってしまった。奥さんが、もうこの世界のどこにもいないことに。
「ごめん……」
謝ったところで、もう奥さんは戻ってこない。
「ごめん奏多……!」
そして許されたい訳じゃない。
それでも俺があの時、あんな言葉を口走らなければ、未来は違ったんじゃないかと、そう思わずには居られなかった。
「ごめん、奏多……!」
奏多から、『欲しいもの』を奪ったのは、他でもない、俺自身なんだ。
それから、奏多の様子は廃人と化していた。
話しかけても虚ろな返事しかせず、怪我が治ってもろくに動かず、飯もまともに摂らない、そんな日々が半年以上続いた。
「……奏多、函館山行こうぜ。」
「……」
「ほら、あそこ夜景がすげー綺麗なんだってさ。」
まともに返事も返さない奏多を無理やり連れ出して、北海道へと向かったのは、一種の賭けのようなものだった。
実際に観た函館山からの夜景は写真で見るよりも絶景で、奏多も、心做しかその光景を見つめているように思えた。
「なぁ、北海道からさ、順に沖縄まで観光名所回ろうぜ。そんでもって、お前が死んだ時奥さんにオススメ教えてやれよ。それでさ、」
俺はそこで一旦言葉を切った。
息を吸えば、北海道の冷たい澄んだ空気が肺に流れ込む。
「もしも『次の人生』ってやつで巡り会えたらさ、奥さんと一緒に行ってこいよ。」
あまりにも突拍子のない話だと、自分でも分かっていた。
それで、奏多の心がどう変わるかもわからない。
でも、このままただ死を待つだけに生きるのは、やめて欲しかった。ただの俺のわがままだ。
「……菫がいた。」
「えっ……?」
ふいに夜景を眺めたまま、奏多が言葉を発した。
菫とは奏多の奥さんの名前のはず。何故今その名前が出てきたのか分からず、ぽかんと奏多の顔を見やった。
「……事故にあった時、気づいたら、よく分からない門の前にいたんだ。」
奏多はどこかぼんやりと遠くを見ながらそう言った。
「……笑ってた。『どうか、生きて』なんて言って、笑ってたんだ。菫がいなきゃ、意味なんてないのに。」
つぅと一筋涙が流れる。
それは次第に奏多の目からどんどん溢れて、次から次へと流れ伝っていく。
「……『次の人生』で、また会えるかな……?」
突拍子のない話だ。
俺の話も、奏多の話も。
それでも、
「……ああ、きっと会えるよ。」
俺は、そう願わずには居られなかった。
****
「……お兄ちゃん、どうして泣いてるの?」
「……え?……あれ、なんでだろ……?」
目の前で、小さな男の子が首を傾げている。
そんな男の子の両親もどうしたのかと慌てているが、何故俺は泣いているのだろうか。
「なんでだろ、なんか溢れて……止まんないや。」
ゴシゴシと目元を荒く拭えば、「目を傷つけてしまうよ。」と、男の子の父親にやんわりと止められ、母親からは「良かったら使って。」とハンカチを差し出された。
それをどことなく恥ずかしく感じながら、それでも止まらない涙をなんとか止めようと受け取ったハンカチを目に押付けた。
「私は九条奏多。こちらは妻の菫と息子の緑だ。良かったら落ち着くまで一緒にいてもいいかな?」
「俺は、藤ヶ谷努。……なんでだろ、あんたら見てたら余計に止まんないや。」
「おや、それは困ったね。」
なんて穏やかに笑う目の前の男を見て、何故か良かったと安堵する俺がいる。
何故かはわからない。
分からないけど、何故か酷く安心したんだ。
よかった。
お前はもう、諦めたように笑わなくていいんだな。
【二人が出会えて良かった】

