いつからだろうか。
欲しいものは手に入らなくて。
必要ないものばかりが自分の中に積もり積もって。
そうして生きていくうちに、いつの間にか、『私』という存在自体がどうでもよいものに思えてしまったのだ。
『……それは、ひどく悲しいじゃないか。』
だから私は、あの時、あの人が、そう悲しそうに笑った理由が分からなかった。
【00,欲しいものが手に入らない話】
私は『愛』が欲しかった。
それは、家族愛でもあり、友愛でもあり、恋愛でもある、『愛』が。
私はそれらが欲しかった。
けれど、それらが手に入らないと気がついたのは私が高校生のころ。
家族の望む、第1志望の高校受験に落ち、滑り止めで受けていた学校に進学したころだ。
期待はずれ。
出来損ない。
ただの穀潰し。
私の両親が、私につけた最終評価はそれだった。
もう期待されることすら、無くなった。
それでも、あきらめの悪い私はまだ親に愛してもらえるのではないか、という幻想に囚われたままで。
勉強も、部活も、生徒会も、人一倍努力し優秀な成績を収めようと、それこそ寝る間も惜しんで努力を重ねた。
「お母さん!私、期末テスト学年で2位だったよ!」
そう、成績表を机に広げ、母に意気揚々と報告したあの頃の私は、理解していなかったのだ。
「……1番じゃないじゃない。もういいわよ、どうせあなたは出来損ないなんだから。」
ちらりと成績表に目をやったかと思えば、ボソリとそう言葉をこぼした母。
そこで私はようやく理解したのだ。
高校受験に失敗した時点で、出来損ないとして下された評価は覆らない。
何事も1番でなければ意味が無い。
そして私はもう、1番にはなれない。
1番の学校に、入れなかったのだから。
(……ああ、私はもう愛してもらえないんだ。)
ならば、せめて友愛がほしい。
そうして私は愛想を振りまき、周りに話を合わせ、常に笑顔の明るい自分を作り上げた。
けれど、それも長くは続かなかった。
「……あの噂聞いた?」
「聞いた聞いた!なんかいつも外面だけはいいなーって私も思ってたんだよね!」
所謂妬みから生まれた噂はすぐさま広がった。
事実の一切含まれない、嘘と憶測で塗り固められた噂。
そこから、些細ないじめに発展したのだ。
物を壊されたり、隠されたりということはなかったものの、これ見よがしに聞かされる陰口と、あからさまな無視という態度に、私の心は削れていった。
友人だと思っていた人は誰一人、私を信じてはくれなかった。
いや、そもそも向こうは友人だなんて思っていなかったのかもしれない。
そして私は友愛を諦めた。
「好きなんです。付き合って貰えませんか?」
そう言われた時、「あぁ、私を愛してくれる人がいるんだ。」と安堵したことを覚えている。
しかも、彼は私が1年の時から密かに想いを寄せていた人間だった。
私はその場で告白を了承した。
人生で1番嬉しかったかもしれない。
けれど、一週間後にはそれも嘘だということに気づいた。
いや、気付かされた。
私の内側から溢れて止まらない血。
消えない彼の手の感触。
それは、ただ心の中で恐怖が渦巻いていただけの時間だった。
そして一通り自分が満足したあと、彼はこう言ったのだ。
「全部嘘だったんだよね。」
と。
「俺さ、あいつらと賭けしてて負けちまってさ。その罰ゲームだったんだよね。お前にいい夢見させてやったんだし感謝してくれよ?」
そう下卑た笑いを浮かべて、私を置いて出ていった彼。
ああ、そうか。
私は恋愛も手に入れられないんだ。
そう気がついたとき、私は全てを諦めることにした。
親に愛されたいなんて幻想も。
沢山の友達に囲まれたいなんていう幼稚な夢も。
ただ1人に深く愛されたいなんて思う願望も。
(……ああ、そうか。早く諦めてしまえば良かったんだ。)
そうすれば、きっと私はもっと早くに楽になれたというのに。
諦めてしまえば、もうあとは流れに身を任せるだけの人生だった。
笑顔を貼り付けて、ただ酸素を吸って、吐き出すだけの繰り返し。
考えるなんてことは、もう辞めてしまっていた。
「……お見合い?」
「ええそうよ。相手は三男といえど名家の方だし、あなたには勿体ないくらいの相手だわ。」
「いつまでも娘が独り身だなんて世間体も悪いからな。」
私が26歳になったときのことだった。
突然両親がお見合い相手を用意してきたのだ。
相手は私よりも2歳上の28歳の優しい笑顔の男性だった。
写真の中で微笑む彼は和服が良く似合う人で、何よりその全てを包み込むような微笑みが印象的だった。
初めて会った日。
それは少し肌寒くなり出した秋の中頃で、空がやけに澄んでいたことを覚えている。
「今日は来て頂いてありがとうございます。写真で見るよりもお美しい方ですね。」
と、彼はあの微笑みで私にそう話しかけた。
それはこちらのセリフだと思った。
彼はとても綺麗な人だった。
この世の中の穢れを一切知らないような、その微笑みは写真で見るよりも断然美しかった。
「ありがとうございます。お世辞でも貴方のような綺麗な方に言って頂けると嬉しいです。」
そう私が答えると、彼は「お世辞じゃないんですけどね。」と少し眉尻を下げて見せた。
ああ、私という人間は彼には不釣り合いだ。
彼には私のような人間とは結婚してはいけない。
もっと美しくて、心根の優しい人が似合うだろう。
両親には悪いけれど、きっとこのお見合いは成功しないだろう。
当時の私はそう思っていた。
大丈夫。私には仕事がある。
両親の期待に添えられないのは今に始まったことじゃない。
そんなことすら考えていた。
けれど、
「ごめんなさい、母さん。今なんて?」
「だから、再来月には結婚式を上げるんだから、会社辞めなさいよって言ってるのよ。」
何度も言わせないでちょうだい、と愚痴た母の言葉がどこか遠く聞こえた気がした。
昨日初めて会ったというのに、2回目に会う時には結婚式。
一体いつの時代だ、と思った。
それに、仕事も順調に出世して、今ではチーフにまでなっていたというのに、急に辞めろだなんて。
「今の時代、結婚しても辞めない人は多いし、せめてちゃんとした後任が見つかるまで……」
と、私は珍しく母に意見という言葉を返そうとした。
「ふざけたこと言わないでちょうだい!!」
しかし、私の言葉は最後まで吐き出されなかった。
母の怒号と、乾いた音がリビングに響く。
ああ、殴られたんだ、と理解するのにそう時間はかからなかった。
「ただでさえ、あなたみたいな出来損ないを名家に嫁がせるのに何かやらかしはしないかって不安なのに!あちらの家に泥を塗る気なの!?これ以上私たちに恥をかかせないでちょうだい!」
ああ、そうだ。
私の人生において、私自身に選択権なんてないんだ。
所詮、私が望むものは手に入らないのだから。
「とても、綺麗です。」
そう、はにかんで笑う彼の笑顔はどこか救いだった。
けれど愛してはいなかった。
何せまだ2回しか顔を合わせたことがないのだから。
それに、高校生の時の経験が私を縛り付けていた。
私はこの人に触れられるのを耐えられるだろうか。
怯えを少しでも表に出してしまい、粗相を起こしてしまえば最悪離縁になってしまうかもしれない。
そうなればもうこの街に私の居場所はなくなってしまう。
「……流石に会って2回目で、と言うのはきついでしょう?貴女がいいと言うまでは私は貴女に触れませんよ。」
彼がそう言って、またあの優しい微笑みで私を見ていた時、私はどう答えたらいいのかわからなかった。
バレてしまったのだろうか。
この歳になってまで男の人に触られるのが怖いだなんて思っていることが。
しかし、こちらが何かを言う前に彼は「じゃあ、まずはお互いのことを知りましょうか。」と、座敷に敷かれた布団ではなく、正方形の座布団を取り出して、胡座をかいた。
「好きな食べ物は苺だけれど、兄はそれを女々しいっていうんだ。だって美味しいんだからさ、それは美味しい苺がいけないと思うんだよね。」
とか。
「僕は結構猫が好きなんだけれど、猫って温かくてさ、膝に乗っけるとついついうたた寝をしちゃうんだ。最近は家政婦さんにも容赦なく起こされるようになっちゃったよ。」
とか。
彼はひとつの話題に対して、様々なエピソードを交えて話してくれるので、誰かと長々話すことが苦手な私でも朝を迎えるまで会話を続けることができた。
それから、半年。
彼は本当に私に触れてこなかった。
彼自身も望まない結婚だったのかもしれない。
だからこそ、というのもあるのかもしれないが。
それでも、私はその距離感にどこか安堵を感じていた。
仮面夫婦もいい所だが、彼と話をするのはどこか心地よかった。
「おい危ないぞっ!!」
「……えっ?」
けれど、そんな日々も私には贅沢なものだったようだ。
久々の外出で少し浮かれていたのかもしれない。
呆気なく飲酒運転の車に跳ねられ、私は意識不明の重体となった。
手術は成功したものの、所謂植物人間という状態だ。
なぜ、私がその現状を把握しているかというと、現在進行形で横たわっている自分を眺めているからだ。
霊体、魂、幽霊、意識体。
どの名称が正しいのかはよくわからないが、そんなあやふやな存在として、私は確かに横たわる自分を見ていた。
この心臓は動いている。
確かに私は生きている。
けれど、『私』はその肉体の中に存在していなかった。
(……これはきっと時間の問題なのでしょうね。)
魂とやらが外に出てしまっているのならば、きっともう私は死ぬのだろう。
戻り方もわからないし。
と、その時私はすんなりと自身の死を受け入れていた。
それからもう1ヶ月が過ぎた。
不思議なことに私の空の肉体は未だに心臓を動かし、呼吸で胸を上下させていた。
両親は見舞いにこなかった。
わかっていたことだったので、私はこのまま肉体が一人静かに息絶えるのを待つのだろう。
けれど、彼は、彼だけは私の病室に来ることを辞めなかった。
「おはよう」と言って病室に入ってくれば「今日もよく晴れたね。」と一方的に話を始めるのだ。
そうしてペラペラと一人で延々と話していたかと思うと、空の肉体である私の頬をすっと撫でて「また来るよ。」と告げて帰っていくのだ。
初めは世間体を気にして来ているのかと思った。
けれど彼は1日たりとも日を開けることなく毎日やってくるのだ。
流石にそれはお義母様やお義父様の指示とは思えなかった。
世間体を気にするのなら1、2週間に1度顔を出すだけで十分のはずなのだから。
「変な人ね。あなたは。」
聞こえもしないのに思わずそう呟いてしまう。
そんなある日のことだった。
彼は初めて病室に誰かを連れてやってきたのだ。
彼より身長の高いその男は空の肉体である私に「はじめまして。俺はこいつの友人です。」とにこやかに笑って自己紹介を口にした。
こいつも変な人だと思った。
「それにしても、まさかお前の奥さんとの対面がこんな形になるとはな。」
「……そうだね。術後の経過もよくて、医者はいつ目を覚ましても可笑しくないって言うんだけれど。」
と、彼は帰る訳でもないのに私の頬を撫でた。
それを見た彼の友人は途端にニヤニヤと口角を歪ませる。
「へぇー、ほぉー、お前がそんな顔をねぇー。」
「うるさいな。いいだろ別に。僕の奥さんなんだから。」
と、まるで子供のように拗ねた顔でそう言葉を返した彼。
それはいつも穏やかに笑う彼とは少しかけ離れた印象をもたらせ、どこか新鮮だった。
「でもお見合い結婚だろ?しかも2回目に会った時には結婚って。正直どーだった?」
そんな彼の友人の言葉に私はわずかに息を詰めた。
彼はどう答えるのだろうか。
思えば私は彼と一切触れ合ったことすらない。
こんな形だけの奥さんを、本当はどう思っていたのだろうか。
「……いや、あの、正直にいうとさ……」
「おう、正直に言うと?」
「ひ、一目惚れしてたから嬉しかったっていうか……」
「はっ!?初対面で惚れちゃったの!?」
「……貴方絶対趣味悪いわ。」
彼の思わぬ告白に思わず私も突っ込んでしまう。
もちろんそんな言葉は彼らには届かないので、彼は少し頬を赤らめたまま、言葉を続けた。
「料亭の座敷に通される前に1度、廊下で彼女が母親と話しているところを見かけたんだけれど、最初はニコニコしていたのに、どこかそれが嘘くさくて苦手なタイプかなって思ったんだ。」
「それでなんで惚れちゃったんだよ?」
「その母親がいなくなった瞬間にすんって真顔になってさ。『あ、この子は不本意でこのお見合いを進められたんだ』って思ったら、彼女がニコニコしていたのもそうやって自分の心を諦めてきたからなのかなって思って……」
「それで?」
「間近で見たらめっちゃ可愛いし、僕を見て少し肩の力抜いてくれたし、いい匂いするし、仕草とか綺麗だし、もういっそ彼女の人生において彼女の心を殺してきたやつらを抹殺して、世界から隔離して僕の部屋だけにいてくれればいいなって……」
「最後がやけに不穏だな!?」
彼の友人の叫びは最もだと思う。
彼はこんなことを思っていたというのか。
私と会ったあの日から、ずっと。
「……ありえない。」
そう思わず口に出すも、その言葉は誰に聞かれることも無く溶けていく。
「……はぁー、お前本当に奥さんにベタ惚れなんだな。なんか心配して損したわ。」
「なんだよ、心配って。」
「いや、親が勝手に進めた見合い婚なんて時代錯誤もいい所じゃねーか。不仲になってないかとか、色々面倒なことになってんじゃないかとか、友人としては心配だったんだよ。」
と、彼を小突いて笑う友人に、少し赤い頬のまま「僕はちゃんと幸せだよ」と答える彼。
私は初めて、目を覚ましたいと思った。
このまま、離れてしまうのは嫌だと。
話せないままは嫌だと、確かにそう思った。
「じゃあ、また来るよ。」
「俺もまた来ますね。 」
そう言っていつもの様に小さく手を振って病室から出ていく彼へと、私は初めて手を振り返した。
見えていないと分かっていても、どうしようもなく振り返したいと思った。
けれど、この世界は
「急患!急患です!」
「直ぐにオペの準備を!!」
いつだって残酷なのだ。
「奏多っ!奏多っ!しっかりしてくれ!!」
「──えっ?」
必死に叫ぶ声は、つい先程耳にした声によく似ていた。
そんな彼が叫ぶ名前は、
「……奏多さん……?」
私の夫の名前だった。
病室から飛び出し、彼の友人の声がする方へと走り出す。
違うと言って欲しい。
彼じゃないと、同じ名前の誰か別人だと。
また明日になれば、「おはよう」とあの優しい声で私のところに──……!
「な、んで……?」
血塗れの彼を乗せたストレッチャーが、私の透けた体を通り過ぎる。
その身体に、彼の魂はもう無かった。
「奏多っ……!」
「ご友人の方はこちらでお待ちください!」
すぐさま手術室へと運ばれた彼の姿を呆然と見送る。
手術中の赤いランプが着灯し、薄暗い廊下に取り残された彼の友人が崩れるように座り込んだ。
「……頼む、奏多の奥さん……!あいつを連れてかないでくれ……!」
と、額の前で両手の指を強く組み、握りしめ祈る彼。
連れていくも何も、私に一体何が出来ると言うのか。
ただ呆然とそう祈り続ける彼を見ていれば、「奏多はっ!?」とバタバタとした騒がしい足音と共にお義母様が駆け寄ってきた。
慌てて来たのだろう、いつも綺麗にセットされている髪は崩れ、その顔色はとても青い。
「……まだ、手術中です。」
と、震えた声でそう返した彼の肩を掴んだまま、お義母様は今度は顔を真っ赤にして叫び始めた。
「あの女が!あの女が奏多を殺したんだわ!じゃなきゃあの女みたいに事故に巻き込まれるなんて……!あの女は私達を恨んで奏多を殺したんだわ!!」
「辞めてください!まだ奏多は死んでません!」
わぁっと今度は大声で泣き始めたお義母さん。
彼は、私と同じように事故に合ったらしい。
けれど、私と彼とでは違うことが1つある。
私が事故にあった日、駆けつけたのは彼だけだった。
けれど、彼には家族や友人が本気で心配して、駆けつけている。きっとこの後、お義父様や、義兄様達、その他の友人も駆けつけることだろう。
死なせてはいけない。
こんなにも人に生きることを望まれている彼を、死なせてはいけない。
「……探さなきゃ。」
すでに器に魂はなかった。
この近くにもすでに居ないだろう。
「奏多さん、奏多さん……どこにいるの?お願い……!」
とにかく走ることしかできない私は適当に、がむしゃらに、辺りを走り回った。
「奏多さん、奏多さん、奏多さん……!」
幽霊なのに、胸が苦しい。
それが肺なのか、心なのか、私にはよく分からなかった。
「……あれ?」
ただひたすらに走り続けていれば、いつの間にか病院ではない、どこかの空間へと景色が変わっていた。
「……どこ、ここ……?」
薄暗い空間の先にやけに大きな門がある。
そしてそこには、
「奏多さん!」
少しだけ開いている門の隙間を潜ろうとする、私の夫がいた。
私は急いで彼の腕を掴んだ。
「ああ、菫さん。ここに居たんですね。」
私が腕を掴んだことにより、振り返った彼はふにゃりとその表情を崩した。
急いで彼の前へと立ちはだかり、それ以上進めないように、手を広げて阻止をする。
ああ、彼は今、死にかけている。
この門を潜らせてはいけない。
けれど、何故か彼は歩いていないのに徐々に門に近づいていくのだ。
まるで吸い寄せられているように。
門が魂を求めているかのように。
「……あのね、奏多さん。」
「うん?どうしたんだい?」
「……皆が、あなたを待っていますよ。」
その言葉に奏多さんが目を見開いたのがわかる。
恐らく、自身が何故ここにいるのかよく分かっていないのだろう。
「あなたは事故にあいました。ここはあの世へと向かう道です。」
「……事故……あの世……」
どこか虚ろに言葉を繰り返した奏多さんに、私は微笑んだ。
ああ、私は彼に死んで欲しくないんだ。
私は彼を──……
「……奏多さん、私、欲しいものがいつも手に入らないんです。」
「欲しいもの?」
「ええ。ですから……」
私は思いっきり、彼の肩を突き飛ばした。
門とは逆の、現世の方へと。
「……今更ひとつが手に入らなくても、私は平気なんです。」
「なっ……!?待って!」
ぐらりと傾いた彼の魂が、暗闇の中、落ちていく。
私の魂は、もう門のすぐ目の前まで来ていた。
彼は必死にこちらへと手を伸ばしているけれど、わたしがその手を取ることはなかった。
「どうか、生きて。」
ここでの出来事を彼が覚えているのかは分からないけれど、せめて最期は私の笑っている顔を覚えていて欲しかった。
嘘で固められた作り笑いではなく、彼を愛している1人の女の笑顔を。
「先生!九条奏多さんの心拍戻りました!」
「担当の先生を呼んで!九条菫さんの容態急変!心肺停止状態です!」
「九条奏多さんの手術は無事成功しました!」
「21時3分、九条菫さんの死亡を確認しました。」
「ああ!奇跡よ!よかった!」
「奏多っ……!よかった!本当によかった……!」
「……九条菫さんのご家族、誰もお見えにならないわね。」
「親御さんには連絡したんだけど……」
***
欲しいものはいつだって、手に入らない。
「奏多!よかった……!すぐ担当医が来るからな?あぁ、本当に良かった……!」
「……ぇは……」
「え?」
「……す……みれ……は……?」
奏多の言葉に、友人は言葉を詰まらせる。
それが、答えだった。
「……ぼく、は──……!」
菫がいれば、それで良かったのに。
【欲しいものが手に入らないお話】
欲しいものは手に入らなくて。
必要ないものばかりが自分の中に積もり積もって。
そうして生きていくうちに、いつの間にか、『私』という存在自体がどうでもよいものに思えてしまったのだ。
『……それは、ひどく悲しいじゃないか。』
だから私は、あの時、あの人が、そう悲しそうに笑った理由が分からなかった。
【00,欲しいものが手に入らない話】
私は『愛』が欲しかった。
それは、家族愛でもあり、友愛でもあり、恋愛でもある、『愛』が。
私はそれらが欲しかった。
けれど、それらが手に入らないと気がついたのは私が高校生のころ。
家族の望む、第1志望の高校受験に落ち、滑り止めで受けていた学校に進学したころだ。
期待はずれ。
出来損ない。
ただの穀潰し。
私の両親が、私につけた最終評価はそれだった。
もう期待されることすら、無くなった。
それでも、あきらめの悪い私はまだ親に愛してもらえるのではないか、という幻想に囚われたままで。
勉強も、部活も、生徒会も、人一倍努力し優秀な成績を収めようと、それこそ寝る間も惜しんで努力を重ねた。
「お母さん!私、期末テスト学年で2位だったよ!」
そう、成績表を机に広げ、母に意気揚々と報告したあの頃の私は、理解していなかったのだ。
「……1番じゃないじゃない。もういいわよ、どうせあなたは出来損ないなんだから。」
ちらりと成績表に目をやったかと思えば、ボソリとそう言葉をこぼした母。
そこで私はようやく理解したのだ。
高校受験に失敗した時点で、出来損ないとして下された評価は覆らない。
何事も1番でなければ意味が無い。
そして私はもう、1番にはなれない。
1番の学校に、入れなかったのだから。
(……ああ、私はもう愛してもらえないんだ。)
ならば、せめて友愛がほしい。
そうして私は愛想を振りまき、周りに話を合わせ、常に笑顔の明るい自分を作り上げた。
けれど、それも長くは続かなかった。
「……あの噂聞いた?」
「聞いた聞いた!なんかいつも外面だけはいいなーって私も思ってたんだよね!」
所謂妬みから生まれた噂はすぐさま広がった。
事実の一切含まれない、嘘と憶測で塗り固められた噂。
そこから、些細ないじめに発展したのだ。
物を壊されたり、隠されたりということはなかったものの、これ見よがしに聞かされる陰口と、あからさまな無視という態度に、私の心は削れていった。
友人だと思っていた人は誰一人、私を信じてはくれなかった。
いや、そもそも向こうは友人だなんて思っていなかったのかもしれない。
そして私は友愛を諦めた。
「好きなんです。付き合って貰えませんか?」
そう言われた時、「あぁ、私を愛してくれる人がいるんだ。」と安堵したことを覚えている。
しかも、彼は私が1年の時から密かに想いを寄せていた人間だった。
私はその場で告白を了承した。
人生で1番嬉しかったかもしれない。
けれど、一週間後にはそれも嘘だということに気づいた。
いや、気付かされた。
私の内側から溢れて止まらない血。
消えない彼の手の感触。
それは、ただ心の中で恐怖が渦巻いていただけの時間だった。
そして一通り自分が満足したあと、彼はこう言ったのだ。
「全部嘘だったんだよね。」
と。
「俺さ、あいつらと賭けしてて負けちまってさ。その罰ゲームだったんだよね。お前にいい夢見させてやったんだし感謝してくれよ?」
そう下卑た笑いを浮かべて、私を置いて出ていった彼。
ああ、そうか。
私は恋愛も手に入れられないんだ。
そう気がついたとき、私は全てを諦めることにした。
親に愛されたいなんて幻想も。
沢山の友達に囲まれたいなんていう幼稚な夢も。
ただ1人に深く愛されたいなんて思う願望も。
(……ああ、そうか。早く諦めてしまえば良かったんだ。)
そうすれば、きっと私はもっと早くに楽になれたというのに。
諦めてしまえば、もうあとは流れに身を任せるだけの人生だった。
笑顔を貼り付けて、ただ酸素を吸って、吐き出すだけの繰り返し。
考えるなんてことは、もう辞めてしまっていた。
「……お見合い?」
「ええそうよ。相手は三男といえど名家の方だし、あなたには勿体ないくらいの相手だわ。」
「いつまでも娘が独り身だなんて世間体も悪いからな。」
私が26歳になったときのことだった。
突然両親がお見合い相手を用意してきたのだ。
相手は私よりも2歳上の28歳の優しい笑顔の男性だった。
写真の中で微笑む彼は和服が良く似合う人で、何よりその全てを包み込むような微笑みが印象的だった。
初めて会った日。
それは少し肌寒くなり出した秋の中頃で、空がやけに澄んでいたことを覚えている。
「今日は来て頂いてありがとうございます。写真で見るよりもお美しい方ですね。」
と、彼はあの微笑みで私にそう話しかけた。
それはこちらのセリフだと思った。
彼はとても綺麗な人だった。
この世の中の穢れを一切知らないような、その微笑みは写真で見るよりも断然美しかった。
「ありがとうございます。お世辞でも貴方のような綺麗な方に言って頂けると嬉しいです。」
そう私が答えると、彼は「お世辞じゃないんですけどね。」と少し眉尻を下げて見せた。
ああ、私という人間は彼には不釣り合いだ。
彼には私のような人間とは結婚してはいけない。
もっと美しくて、心根の優しい人が似合うだろう。
両親には悪いけれど、きっとこのお見合いは成功しないだろう。
当時の私はそう思っていた。
大丈夫。私には仕事がある。
両親の期待に添えられないのは今に始まったことじゃない。
そんなことすら考えていた。
けれど、
「ごめんなさい、母さん。今なんて?」
「だから、再来月には結婚式を上げるんだから、会社辞めなさいよって言ってるのよ。」
何度も言わせないでちょうだい、と愚痴た母の言葉がどこか遠く聞こえた気がした。
昨日初めて会ったというのに、2回目に会う時には結婚式。
一体いつの時代だ、と思った。
それに、仕事も順調に出世して、今ではチーフにまでなっていたというのに、急に辞めろだなんて。
「今の時代、結婚しても辞めない人は多いし、せめてちゃんとした後任が見つかるまで……」
と、私は珍しく母に意見という言葉を返そうとした。
「ふざけたこと言わないでちょうだい!!」
しかし、私の言葉は最後まで吐き出されなかった。
母の怒号と、乾いた音がリビングに響く。
ああ、殴られたんだ、と理解するのにそう時間はかからなかった。
「ただでさえ、あなたみたいな出来損ないを名家に嫁がせるのに何かやらかしはしないかって不安なのに!あちらの家に泥を塗る気なの!?これ以上私たちに恥をかかせないでちょうだい!」
ああ、そうだ。
私の人生において、私自身に選択権なんてないんだ。
所詮、私が望むものは手に入らないのだから。
「とても、綺麗です。」
そう、はにかんで笑う彼の笑顔はどこか救いだった。
けれど愛してはいなかった。
何せまだ2回しか顔を合わせたことがないのだから。
それに、高校生の時の経験が私を縛り付けていた。
私はこの人に触れられるのを耐えられるだろうか。
怯えを少しでも表に出してしまい、粗相を起こしてしまえば最悪離縁になってしまうかもしれない。
そうなればもうこの街に私の居場所はなくなってしまう。
「……流石に会って2回目で、と言うのはきついでしょう?貴女がいいと言うまでは私は貴女に触れませんよ。」
彼がそう言って、またあの優しい微笑みで私を見ていた時、私はどう答えたらいいのかわからなかった。
バレてしまったのだろうか。
この歳になってまで男の人に触られるのが怖いだなんて思っていることが。
しかし、こちらが何かを言う前に彼は「じゃあ、まずはお互いのことを知りましょうか。」と、座敷に敷かれた布団ではなく、正方形の座布団を取り出して、胡座をかいた。
「好きな食べ物は苺だけれど、兄はそれを女々しいっていうんだ。だって美味しいんだからさ、それは美味しい苺がいけないと思うんだよね。」
とか。
「僕は結構猫が好きなんだけれど、猫って温かくてさ、膝に乗っけるとついついうたた寝をしちゃうんだ。最近は家政婦さんにも容赦なく起こされるようになっちゃったよ。」
とか。
彼はひとつの話題に対して、様々なエピソードを交えて話してくれるので、誰かと長々話すことが苦手な私でも朝を迎えるまで会話を続けることができた。
それから、半年。
彼は本当に私に触れてこなかった。
彼自身も望まない結婚だったのかもしれない。
だからこそ、というのもあるのかもしれないが。
それでも、私はその距離感にどこか安堵を感じていた。
仮面夫婦もいい所だが、彼と話をするのはどこか心地よかった。
「おい危ないぞっ!!」
「……えっ?」
けれど、そんな日々も私には贅沢なものだったようだ。
久々の外出で少し浮かれていたのかもしれない。
呆気なく飲酒運転の車に跳ねられ、私は意識不明の重体となった。
手術は成功したものの、所謂植物人間という状態だ。
なぜ、私がその現状を把握しているかというと、現在進行形で横たわっている自分を眺めているからだ。
霊体、魂、幽霊、意識体。
どの名称が正しいのかはよくわからないが、そんなあやふやな存在として、私は確かに横たわる自分を見ていた。
この心臓は動いている。
確かに私は生きている。
けれど、『私』はその肉体の中に存在していなかった。
(……これはきっと時間の問題なのでしょうね。)
魂とやらが外に出てしまっているのならば、きっともう私は死ぬのだろう。
戻り方もわからないし。
と、その時私はすんなりと自身の死を受け入れていた。
それからもう1ヶ月が過ぎた。
不思議なことに私の空の肉体は未だに心臓を動かし、呼吸で胸を上下させていた。
両親は見舞いにこなかった。
わかっていたことだったので、私はこのまま肉体が一人静かに息絶えるのを待つのだろう。
けれど、彼は、彼だけは私の病室に来ることを辞めなかった。
「おはよう」と言って病室に入ってくれば「今日もよく晴れたね。」と一方的に話を始めるのだ。
そうしてペラペラと一人で延々と話していたかと思うと、空の肉体である私の頬をすっと撫でて「また来るよ。」と告げて帰っていくのだ。
初めは世間体を気にして来ているのかと思った。
けれど彼は1日たりとも日を開けることなく毎日やってくるのだ。
流石にそれはお義母様やお義父様の指示とは思えなかった。
世間体を気にするのなら1、2週間に1度顔を出すだけで十分のはずなのだから。
「変な人ね。あなたは。」
聞こえもしないのに思わずそう呟いてしまう。
そんなある日のことだった。
彼は初めて病室に誰かを連れてやってきたのだ。
彼より身長の高いその男は空の肉体である私に「はじめまして。俺はこいつの友人です。」とにこやかに笑って自己紹介を口にした。
こいつも変な人だと思った。
「それにしても、まさかお前の奥さんとの対面がこんな形になるとはな。」
「……そうだね。術後の経過もよくて、医者はいつ目を覚ましても可笑しくないって言うんだけれど。」
と、彼は帰る訳でもないのに私の頬を撫でた。
それを見た彼の友人は途端にニヤニヤと口角を歪ませる。
「へぇー、ほぉー、お前がそんな顔をねぇー。」
「うるさいな。いいだろ別に。僕の奥さんなんだから。」
と、まるで子供のように拗ねた顔でそう言葉を返した彼。
それはいつも穏やかに笑う彼とは少しかけ離れた印象をもたらせ、どこか新鮮だった。
「でもお見合い結婚だろ?しかも2回目に会った時には結婚って。正直どーだった?」
そんな彼の友人の言葉に私はわずかに息を詰めた。
彼はどう答えるのだろうか。
思えば私は彼と一切触れ合ったことすらない。
こんな形だけの奥さんを、本当はどう思っていたのだろうか。
「……いや、あの、正直にいうとさ……」
「おう、正直に言うと?」
「ひ、一目惚れしてたから嬉しかったっていうか……」
「はっ!?初対面で惚れちゃったの!?」
「……貴方絶対趣味悪いわ。」
彼の思わぬ告白に思わず私も突っ込んでしまう。
もちろんそんな言葉は彼らには届かないので、彼は少し頬を赤らめたまま、言葉を続けた。
「料亭の座敷に通される前に1度、廊下で彼女が母親と話しているところを見かけたんだけれど、最初はニコニコしていたのに、どこかそれが嘘くさくて苦手なタイプかなって思ったんだ。」
「それでなんで惚れちゃったんだよ?」
「その母親がいなくなった瞬間にすんって真顔になってさ。『あ、この子は不本意でこのお見合いを進められたんだ』って思ったら、彼女がニコニコしていたのもそうやって自分の心を諦めてきたからなのかなって思って……」
「それで?」
「間近で見たらめっちゃ可愛いし、僕を見て少し肩の力抜いてくれたし、いい匂いするし、仕草とか綺麗だし、もういっそ彼女の人生において彼女の心を殺してきたやつらを抹殺して、世界から隔離して僕の部屋だけにいてくれればいいなって……」
「最後がやけに不穏だな!?」
彼の友人の叫びは最もだと思う。
彼はこんなことを思っていたというのか。
私と会ったあの日から、ずっと。
「……ありえない。」
そう思わず口に出すも、その言葉は誰に聞かれることも無く溶けていく。
「……はぁー、お前本当に奥さんにベタ惚れなんだな。なんか心配して損したわ。」
「なんだよ、心配って。」
「いや、親が勝手に進めた見合い婚なんて時代錯誤もいい所じゃねーか。不仲になってないかとか、色々面倒なことになってんじゃないかとか、友人としては心配だったんだよ。」
と、彼を小突いて笑う友人に、少し赤い頬のまま「僕はちゃんと幸せだよ」と答える彼。
私は初めて、目を覚ましたいと思った。
このまま、離れてしまうのは嫌だと。
話せないままは嫌だと、確かにそう思った。
「じゃあ、また来るよ。」
「俺もまた来ますね。 」
そう言っていつもの様に小さく手を振って病室から出ていく彼へと、私は初めて手を振り返した。
見えていないと分かっていても、どうしようもなく振り返したいと思った。
けれど、この世界は
「急患!急患です!」
「直ぐにオペの準備を!!」
いつだって残酷なのだ。
「奏多っ!奏多っ!しっかりしてくれ!!」
「──えっ?」
必死に叫ぶ声は、つい先程耳にした声によく似ていた。
そんな彼が叫ぶ名前は、
「……奏多さん……?」
私の夫の名前だった。
病室から飛び出し、彼の友人の声がする方へと走り出す。
違うと言って欲しい。
彼じゃないと、同じ名前の誰か別人だと。
また明日になれば、「おはよう」とあの優しい声で私のところに──……!
「な、んで……?」
血塗れの彼を乗せたストレッチャーが、私の透けた体を通り過ぎる。
その身体に、彼の魂はもう無かった。
「奏多っ……!」
「ご友人の方はこちらでお待ちください!」
すぐさま手術室へと運ばれた彼の姿を呆然と見送る。
手術中の赤いランプが着灯し、薄暗い廊下に取り残された彼の友人が崩れるように座り込んだ。
「……頼む、奏多の奥さん……!あいつを連れてかないでくれ……!」
と、額の前で両手の指を強く組み、握りしめ祈る彼。
連れていくも何も、私に一体何が出来ると言うのか。
ただ呆然とそう祈り続ける彼を見ていれば、「奏多はっ!?」とバタバタとした騒がしい足音と共にお義母様が駆け寄ってきた。
慌てて来たのだろう、いつも綺麗にセットされている髪は崩れ、その顔色はとても青い。
「……まだ、手術中です。」
と、震えた声でそう返した彼の肩を掴んだまま、お義母様は今度は顔を真っ赤にして叫び始めた。
「あの女が!あの女が奏多を殺したんだわ!じゃなきゃあの女みたいに事故に巻き込まれるなんて……!あの女は私達を恨んで奏多を殺したんだわ!!」
「辞めてください!まだ奏多は死んでません!」
わぁっと今度は大声で泣き始めたお義母さん。
彼は、私と同じように事故に合ったらしい。
けれど、私と彼とでは違うことが1つある。
私が事故にあった日、駆けつけたのは彼だけだった。
けれど、彼には家族や友人が本気で心配して、駆けつけている。きっとこの後、お義父様や、義兄様達、その他の友人も駆けつけることだろう。
死なせてはいけない。
こんなにも人に生きることを望まれている彼を、死なせてはいけない。
「……探さなきゃ。」
すでに器に魂はなかった。
この近くにもすでに居ないだろう。
「奏多さん、奏多さん……どこにいるの?お願い……!」
とにかく走ることしかできない私は適当に、がむしゃらに、辺りを走り回った。
「奏多さん、奏多さん、奏多さん……!」
幽霊なのに、胸が苦しい。
それが肺なのか、心なのか、私にはよく分からなかった。
「……あれ?」
ただひたすらに走り続けていれば、いつの間にか病院ではない、どこかの空間へと景色が変わっていた。
「……どこ、ここ……?」
薄暗い空間の先にやけに大きな門がある。
そしてそこには、
「奏多さん!」
少しだけ開いている門の隙間を潜ろうとする、私の夫がいた。
私は急いで彼の腕を掴んだ。
「ああ、菫さん。ここに居たんですね。」
私が腕を掴んだことにより、振り返った彼はふにゃりとその表情を崩した。
急いで彼の前へと立ちはだかり、それ以上進めないように、手を広げて阻止をする。
ああ、彼は今、死にかけている。
この門を潜らせてはいけない。
けれど、何故か彼は歩いていないのに徐々に門に近づいていくのだ。
まるで吸い寄せられているように。
門が魂を求めているかのように。
「……あのね、奏多さん。」
「うん?どうしたんだい?」
「……皆が、あなたを待っていますよ。」
その言葉に奏多さんが目を見開いたのがわかる。
恐らく、自身が何故ここにいるのかよく分かっていないのだろう。
「あなたは事故にあいました。ここはあの世へと向かう道です。」
「……事故……あの世……」
どこか虚ろに言葉を繰り返した奏多さんに、私は微笑んだ。
ああ、私は彼に死んで欲しくないんだ。
私は彼を──……
「……奏多さん、私、欲しいものがいつも手に入らないんです。」
「欲しいもの?」
「ええ。ですから……」
私は思いっきり、彼の肩を突き飛ばした。
門とは逆の、現世の方へと。
「……今更ひとつが手に入らなくても、私は平気なんです。」
「なっ……!?待って!」
ぐらりと傾いた彼の魂が、暗闇の中、落ちていく。
私の魂は、もう門のすぐ目の前まで来ていた。
彼は必死にこちらへと手を伸ばしているけれど、わたしがその手を取ることはなかった。
「どうか、生きて。」
ここでの出来事を彼が覚えているのかは分からないけれど、せめて最期は私の笑っている顔を覚えていて欲しかった。
嘘で固められた作り笑いではなく、彼を愛している1人の女の笑顔を。
「先生!九条奏多さんの心拍戻りました!」
「担当の先生を呼んで!九条菫さんの容態急変!心肺停止状態です!」
「九条奏多さんの手術は無事成功しました!」
「21時3分、九条菫さんの死亡を確認しました。」
「ああ!奇跡よ!よかった!」
「奏多っ……!よかった!本当によかった……!」
「……九条菫さんのご家族、誰もお見えにならないわね。」
「親御さんには連絡したんだけど……」
***
欲しいものはいつだって、手に入らない。
「奏多!よかった……!すぐ担当医が来るからな?あぁ、本当に良かった……!」
「……ぇは……」
「え?」
「……す……みれ……は……?」
奏多の言葉に、友人は言葉を詰まらせる。
それが、答えだった。
「……ぼく、は──……!」
菫がいれば、それで良かったのに。
【欲しいものが手に入らないお話】

