さ~て。
これから俺はどうなっちゃうわけ。衛は、遠くを見る。授業で当てられたけど、全然答えられなかった。動揺のせいもあるけど、普通にわからん。
「遅刻してきたうえに、予習もせんとは、この時間泥棒がっ!」
立たされてがんがん怒鳴られる。怒鳴り声も日常って感じで心地よかった。
先生、そうやって怒るんだけど、俺は唇をあっけなく奪われて、なんかめちゃくちゃキレられたんです。俺、いったいどうすればいいんすかねえ。ベクトルよりそっちっすよ。
途方に暮れ、先生に心の中で語りかけ始めてしまう。
こんなこと灯也にも言えない。言えるわけがない。
なんで灯也がずっと好きだった子と付き合って「キスは流石にまだはやいかな!?でも、手をつないでるだけでも幸せだし~」みたいな、そんな最高なことを考えてる時期に、俺は野郎にキスされてんの?まじできついんだけど。
ぼけーっと半目になっていると、教師が心配になったらしい。「具合悪いなら、保健室行ってこい」と言ってくれた。何、普段、鬼のくせに優しいじゃん。沁みる。
ひとり、ふらふら歩いてると、ふいに後ろから足音がした。超・嫌な予感に、衛はがぜん速足になった。けれども、向こうのが足が長い。あっという間に追いつかれ、手を取られた。
「衛くん」
も~~~今はお前のことを考えたくないのに、なんでくんの?
衛は、泣きたい気持ちで無視して歩いた。とられた手を。ぎゅっと固く握られる。
――何?何なの!?意地悪を我慢しないってこういうこと?俺を追い詰めたいってことなの?
また涙がにじんできて、掴まれてない方の手で、目じりをぬぐった。本気で、メンタルと涙腺が馬鹿になってしまったらしい。頬をぬぐっていると、「怒ってるの?」と聞いてきた。何言ってんのコイツ?
「傷ついてんだよ。ほっといてくれ」
「でも、僕のせいなんでしょ」
あほ~!傷をえぐるってわからんのか~~!そっと!しといて!くれよ!頼むから!
衛は、心の中で大絶叫した、しかし、口からは「うう」しか出ない。だって絶対情けない嗚咽漏れちゃうからね!
保健室、早く来い。いや、俺が行く。
そう思ってひたすら歩いてると、ぐいっと怜生に引っ張られた。「え」と思う間もなく、階段の下に引き込まれる。気づいたら壁が背で、また怜生に立ちふさがられていた。頭の中がざっと冷える。
最悪だ、やばいやばい。しかもさっきよりやばい。暗いし、怜生がでかいから、俺隠れて外から見えないじゃんか。
「どけよ……!」
「衛くんって、えらそうなわりに臆病なんだね。声ふるえてるよ」
う、うるせ~~!誰だって怖くもなるわ!
とは思うが、小心なのは自覚があるので、衛は恥ずかしさに歯を食いしばる。なめられてたまるか。そう気合いをいれ、にらんで胸を押し返す。
「うるせえな。どけっていってんだろ」
「やだ」
「は!?ふざけんな!この――」
また、唇を奪われた。怜生の唇が、自分のそれを押さえつけている。
こ、この野郎……!俺の尊厳は、今日一日だけでいったい何回奪われるわけ!?「うう」とうめくと、ぎゅっと更に壁に押さえつけられる。息まで奪われて、苦しい。自由になる足で、何とか怜生の足を蹴りまくった。すると、怜生の膝がぐっと足の間に割って入ってくる。それには生理的に恐怖を覚え、衛は石のように身を固くする。怖い怖い!こいつ、急所とか普通に蹴りそうだもん!もう抵抗のすべもない。けっきょくされるがままになるしかなかった。たっぷり十秒くらいして、怜生が口を離した。
「うっ、げほっ」
「あんまりひどいことしないで。でないと僕だって止めてあげられないよ」
意味わかんねえこと言うな!と言いたかったが、ようやく許された酸素に、衛はありつくので精いっぱいだった。怜生に、唇の端に、キスされる。思わず、びくっと震えると、怜生は「ふ」と息をつく。その顔はどこか満足げだった。
「こうしてると、衛くんもかわいいね」
「……は?」
「いつもそうしててよ。そしたら僕だって、優しくできると思う」
近重衛、本日二度目の絶句。頬を撫でてくるが、その感触さえ遠い。
こ、こいつ、本当におかしいんじゃねえの……?恐怖政治じゃねえかよ。俺のことを何だと思ってんだ。
ぼろっと涙がこぼれた。呆然としていたので、止めるすべもなかった。信じられない。曲がりなりにも、半年一応、一緒にいた奴に、ここまで馬鹿にされるとは。されていたとは。
へなへなと、衛はへたりこんだ。悔しいのに、恐怖で腰が抜けてしまってた。怜生がしゃがみこんで、背中を撫でてくる。その手をどけたかった。けれど、衛には、もう反抗する気力もなかった。だって反抗したら、またひどい目にあわされる。そのこともさすがにわかったからだ。
なんでこんな目に……。父さん母さん、灯也~……。
恥も外聞もなく泣いていると、怜生が、「あの」と言ってきた。反射的に体が跳ねる。両手で耳をふさいだ。もう聞きたくない、コイツの声。しかし、嫌なものほど鋭敏に届いてくる。
「そんなに嫌?」
不可解な言葉に、思わず衛は、怜生を横目で窺う。怜生は、何故だか傷ついたみたいな顔をしていた。
「僕とキスするの、そんなに嫌なの?」
衛の思考停止。余りのことに、しゃっくりも停止。
あ、あ、あ。
あほかこいつは。
ぶっつーんと思考が切れた。衛は飛び上がるように立ち上がって、しゃがみこんでる怜生の腕を横から蹴っ飛ばした。不意を突かれ、さすがにちょっとよろめいた隙に、廊下に逃げ出す。
「嫌に決まってんだろ!馬鹿か!どうしてくれんだ!」
「ま、衛くん」
初めてだったのに、とかは喉まで出かかった。けど、なんか気持ち悪いのでやめた。唇をごしごしこすって、とにかく否定の意を表す。
「お前、最悪だよ!そんなに俺をコケにして楽しいかよ!」
「……!コケになんて――」
「気に入らないからって、言うこと聞かせたいからってするのがこれかよ!馬鹿にしやがって!」
思い切り怒鳴りつけて、衛はダッシュで逃げ去った。
ふざけんなふざけんなふざけんな。その一念だった。保健室に逃げ込みたかったが、顔は、涙でぐちゃぐちゃだ。男子高校生として、この顔をさらすのは無理だった。だから、衛はひとまずグラウンド近くの手洗い場まで向かった。
蛇口の水をひねって、後頭部に水をかける。セットとかしらね。もうどうにでもなれ。
水の勢いにごまかして、衛はひたすら泣いた。最悪の気持ちだった。
涙が引いて、水を止めて、それから我に返る。
「あ~あ……」
思い切りかぶったから、胸のところまでびしょ濡れになっていた。うん、まあそうなるだろうな。あほか、俺は。すべてにおいて、脱力してしまう。
能動的に対処する気になれず、衛は壁にもたれて座り込んだ。今日は風も吹いてるし、まああったかいし。ほっとけば乾くだろ。疲れていたから、他力本願しかなかった。
できることならもう家に帰りたかったけれど、あいにくカバンも何も、持っていない。はあ、と息をついて膝に顔を埋めた。髪の水が、ズボンに染みる。どうにでもなれ、もう一度繰り返した。
俺がいったい、何をしたと言うんだ。こんな目にあうくらい、恨みを買っていたってことか?
『僕の方が先に好きだったのに』
怜生の言葉が、ふわりとよみがえった。けれど、衛は頭を振った。
知らん。知らんよ。そもそも好きだったら、こんなことするわけないんだ。
風が吹く。衛は、ぶるっと震えた。冷えてきたかもしれない。季節は十月、自然乾燥には無理があったか。でも、動きたくない。
そのとき、頭に、ふわりと何かやわらかいものがかかる。あったけ。いい香りだし。
目をあけると、視界がぼんやり暗い。思わず手を伸ばしてそれを取ってみると、大きなカーディガンだった。顔を上げると、気まずそうな顔の怜生が膝をついて、こっちを見ていた。シャツ一枚でちょっと肌寒そうな姿で。
ぴしっと固まって、衛はそれをぎゅっと握りしめた。こ、こいつのかこれ。少しでも喜んだ自分に腹が立つ。一気に気持ちが覚めて、突っ返そうとしたら、怜生に押し返される。
「いいから。風邪ひくでしょ」
「いらな――」
「お願いだから言うこと聞いて」
そのままカーディガンで、髪や顔を拭かれる。なんでもそつなくこなす怜生らしくない、ぎこちない手つきだった。
一生懸命、自分を拭いてる怜生に、衛はちょっと虚をつかれる。怜生の顔は、叱られた後の子どもが、泣きながら片付けしてるみたいだった。それがあんまりあどけないので、少し毒気が抜かれてしまったのだ。
だから、衛はされるがままになった。疲れていたのが大きい。しかし、そもそもこいつに疲れさせられたのに、何をしてるのか、と思わなくもない。けど、本当に、疲れていた。抵抗するのも、怜生の表情の意味とか考えるのも、いろいろ放っておきたかった。
あらかた拭き終わって、怜生は濡れたカーディガンを引き取って丸めた。ぎゅっとそれを握りしめて、眉をひそめ、ばつが悪そうに、目を伏せている。
「ごめんなさい」
ぽつりと、怜生が言った。
「コケにしたとかじゃなくて。あんまり、衛くんがつれないから」
衛は黙って次の言葉を待った。言いたいことはたくさんあるのだが、とりあえず、ここまで来たら、最後までコイツの話を聞こう。そんな気持ちだった。
「ただ、悲しかっただけで。僕は、言うこと聞かせたいんじゃなくて、ただ」
目線が合わない。怜生はこっちを見るのを恐れてるみたいな、そんなうろついた目をしてる。
「衛くんに僕を見てほしいだけなんだ」
そう言って、うなだれた。衛は、目を伏せる。長いため息をついて、頭をがしがしかいた。仕方ねえなあ。
あぐらをかいて、腕を組む。
「こっち見ろ」
怜生が「え」と小さく声をあげる。つかの間重なった視線を、怜生は伏せてそらした。衛は、「そらすなよ」と重ねた。
「見てほしいなら、俺を見ろ。でないと目なんて合わねえよ」
怜生は、目を見開く。それから、視線をゆっくりさまよわせた。しばしの逡巡。そしてようやく、怜生の目が、衛の目をとらえた。怜生のゆらゆら揺れる深い湖みたいな目を、じっと見つめ返す。
仕方ないな。衛はもう一度、ひとりごちる。うん、仕方ない。あんまりずっと腹立てるのも、しんどいもんな。
「今回は許してやるよ」
「衛くん」
「むっちゃ嫌だったけどな。二度とすんなよ」
そう言うと、怜生はまたうつむいて、黙り込んでしまった。見れば、明らかに傷ついた顔をしている。衛はまた、息をついた。ここまで説明する義理あるのかと思わなくもないが、仕方ない。腕を組みなおして、口を開く。
「あのな。俺の意思を無視したのが嫌って言ってんの。お前が嫌ってんじゃねえよ」
まあ嫌なんだけど。
今してるのはフォローなので、その言葉は、飲み込んでおいた。まあ、これで安心しただろ。そう思って怜生を見ると、ものすごく不快そうな顔をしていた。あれ、と衛は首をかしげる。
「衛くんって、そういうとこあるよね」
「は?」
「自分がすっきりしたいからって、気を持たせるようなこと言って。そういうのどうかと思うよ」
「はあ!?」
何じゃコイツ!いろんな気持ちを飲み込んで励ましてやったというのに。唖然としていると、怜生は自分が怒っているという顔で、憮然としている。
何だこれ。
一気に馬鹿らしくなって、衛は立ち上がった。
「あーそうかよ!知らんわもう!」
「そうやって逆切れするし。本当に、勝手だよね」
「はあ!?じゃあもうほっといてくれ!」
怒鳴りつけると、後ろから腕が伸びてきた。思い切り抱き寄せられ、体が後ろに傾く。怜生の唇が、つむじに当たった。
「僕が離れられないのわかってて言うしさ。本当に意地悪だよ」
「――意味わかんないこと言うなよ!もう、離せってば!」
やっぱこいつこええ!意味わかんないもの!
ぐいぐいと肘で押しやるけど、怜生はびくともしない。前から思ってたけど柔和に見えてガタイつええコイツ。怜生はぎゅっと衛を覆うように抱きしめて、低い声で言った。
「そうやって僕の好意にあぐらかいてたら、本気で後悔するからね」
だあああああもう!こいつ、なんもわかってなくね!?許した俺が馬鹿だった!でも怖い怖い!まじで怖い!
半泣きになって「離せ」と言いつのると、ぎゅっと手をつながれる。じっと後ろから目を覗き込まれる。その目があんまり強く鋭いので、ぐいっと圧される。
「これからは、僕に優しくしてくれる?」
「わかった!わかったってば!優しくします!させていただきます!」
お前の中の「優しい」って何のことだかちっともわからないけど!
とりあえずこの包囲から抜けるため、衛は必死に頷いた。だって、人が来るかもしんなかったし!嫌だよ、コイツとべったり抱き合ってるところ、見られるの俺は!
怜生はとりあえず満足してくれたらしい。やっと体を離してくれた。
「じゃ、保健室行こっか」
「今更おせえと思います」
衛は肩を落とした。もう、本当に家に帰りたい。とぼとぼ歩いていると、怜生が衛の手をぎゅっと握ってきた。顔を見ると、すっと目が笑みに細められた。
「約束だからね」
灯也~~~~!お願い、助けて~~~~~!
衛は、友の名前を叫んだ。そして、冷えにくしゃみをひとつしたのだった。



