背、高いよなあ。僕が自称165センチ、実測163・7センチの身長だから、身長差からみて、絶対185センチ以上あるよね。なんでこんなに差があるんだろう。
いやいや、まだ高校一年生。自称の165センチは今年中にクリアする予定だし、伸びしろはあると信じている。でもすぐ横にある、長身でしっかりした肩幅と厚みのある体の持ち主と自分を比べてしまうと、一反木綿みたいな薄い自分の体が情けなくなってくる。
喧嘩が強いと噂されてるけど、本当なんだろうなと納得してしまう。しっかし訳わかんないよなあ。
仲矢真生(なかやまなぶ)が複雑な思いを胸にして、隣に立っているクラスメイトの恐田竜樹(おそれだたつき)を眺めていると、その視線に気づいたのか、ちょっと居心地縦線悪そうにして「奇遇だな。二学期も隣だとは。よろしく。仲矢」と鋭い目つきのまま、挨拶してきた。
「あ、ああ。そうだね。こちらこそよろしく」
戸惑いを隠せないまま笑顔を浮かべ、真生も挨拶をする。
これだから意味がわかんないんだよ。どうして奇遇だな、なんだよ。
二学期最初のHRは、真生が待ちに待った席替えだった。くじ引きの結果、教卓の真ん前というハズレ席だったが、かまわなかった。右隣は小学校から仲のいい乙背蒼介(おつせそうすけ)だし、左隣はあまり口を聞いたことはないけど、将棋部に所属している温厚そうな眼鏡男子の作倉だ。今の真生にとって場所は問題じゃない。近くに座る人物が誰かってことが大切だ。
一学期はあまり口をきく機会がなかった作倉に「隣だね。これからよろしく」と声をかけようとした瞬間、大きな足音と共に視界が遮られた。恐田が立ちはだかっていたのだ。
「俺、目が悪くて一番後ろの席じゃ黒板が見えないんだ。替わってもらえるか?」
そう言いながら作倉に向かって、廊下側の一番後ろの席を指さす。
「え?あっはい。わっかりましたあ!喜んで交換させていただきます!」
どこかの居酒屋の店員のようなテンションで、作倉は自分の荷物をまとめて移動しようとする。もう一度、低くよく通る声が響く。
「確認させてくれ。お前眼鏡かけてるけど、一番後ろでも黒板見えるか?あとあの席の隣の上嶋は、お前と同じ将棋部で仲いいよな?」
「え?恐田君が僕の所属しているクラブ覚えているの?」
よほど意外だったようで、敬語だったのがタメ語になっている。
いや、同級生だからタメ語の方が当たり前なんだけど。でも敬語使いたくなっちゃう気持ちは分かるよ。真生は作倉に同情の目を向ける。
「悪いか?」眉間にしわを寄せ、不機嫌そうな表情を浮かべる恐田に「いえ、とんでもございません!おっしゃる通りです!ありがとうございます」とよりおかしなテンションになった作倉は脱兎のごとく去っていった。
そこで「偶然だな」で始まる真生への挨拶だ。真生の立場としては、素直に笑顔が出てこない理由としては十分すぎると考えている。
次の時間、音楽室への教室移動の時に「懐かれてるよなあ」と蒼介が話しかけてきた。
「やめてよ。その懐かれてるって言い方」
「だってそうとしか言いようがないじゃん。一学期と同じように真生の隣の席になるために、交換してまで一番前列なんて普通避けたがる席に来るなんて」
真生も思わずうなづく。一学期は、恐田のするどい眼光におびえ、長身が大きな足音と振動をうむたびに、何事かと昼食後の居眠りからも目覚ますという不自由な生活をしていたのに。まあ途中から少しは慣れてきたけど、ずっと隣というのは精神衛生上よろしくない。
「目が悪いっていってたじゃん。でもだったら僕が後ろの席に替わってやったのに」
不満をもらすと「えー、そしたら一番前の席でしかも隣が恐田ってことになっちゃうじゃん。俺が耐えらんないよ。隣が真生だからまだ我慢できるってのに」と蒼介が唇を軽くとがらせる。
「そうだな。僕も隣が蒼介だから安心できるよ。よろしくね」
「俺たちの仲でそんなこと言わなくったって大丈夫」
蒼介は、歯並びのいい口元が映える、爽やかな笑顔を見せた。
ワイルドの権化といえる恐田と爽やかな甘いマスクの蒼介は、両極端ではあるが二人とも女子からの人気は高かった。
目つきが鋭く、長身で圧の強い恐田は、皆から怖がられているようで、実は違う。男子は本当に怖がっている方が多いけど、女子は憧れている子も多い。近寄りがたいので、話しかけたりはできないが、男らしい体格と切れ長でやや三白眼の美丈夫といいたくなる姿を隠し撮りするファンも多い。
蒼介は分かりやすいモテキャラだ。誰にでも友好的で優しい。笑顔がステキでサッカー部のキャプテン。ベタな少女漫画のヒーローが現実に抜け出てきたかのようだ。
そんな二人に挟まれていると、僕って何?とやや哲学的な思いにとらわれそうになる。存在感のない、いてもいなくても変わらない存在……。暗い思いにとらわれそうになったので、真生はそれ以上考えるのをやめる。
そもそも何で懐かれたんだろう。
真生が不思議に思っていると、蒼介が「真生、本当に思い当たらないの?」と呆れたような顔をしている。
「だって僕、そんなに恐田君と親しく話したこともないし。強いて言えば前回も席が隣だったってだけだし」
「その隣になってすぐ、あいつ教科書忘れたことあったじゃん。覚えてる?」
それなら覚えている。真生が珍しく遅刻ギリギリに登校した日だ。
「焦ったよ。まさか腕時計も家の時計も壊れていて止まっているなんて思わなかったもん。一番後ろの席だったから出席とる前にすべりこめたけどさ。今回の席じゃ無理だね」
「スマホ見ろ。時報がわりにテレビもつけとけ。あの時は回りみんなびびってんのが、本人にも伝わっちゃったみたいで、あいつ教科書無しで授業受けようとしてたんだよ」
「え?そうだったの?」
知らなかった。音がしないよう教室の戸を開き、身をかがめてこそこそ進んで自分の席にたどりついた時にはホッとした。一限目の現国の教科書を出したら、隣の机にノートとペンケースしかないことに気づいた。
「教科書は?もし忘れたのなら見る?」と声をかけたのは、真生が恐田にびびってなかったのではなく、うつむいてずっと進んできたので顔を上げて確認していなかっただけ、隣が誰かということを忘れていたのだ。
「……ありがとよ」という低い声を聞いて、昨日、暫定で座っていた50音順から席替えをして、隣になったのは恐田だったというのを、真生はやっと思い出した。
「じゃ、じゃあ見えやすい位置に動くね」
自分から声がけしておいて、怯えているのがバレたりしたらキレられるかもしれない。
そんな恐れを抱きながら、机をしっかりくっつけて、一冊の教科書を二人で見るのは緊張した。なんか粗相があったら怒られそう。「手が邪魔で見えない」とか「めくるスピードが速すぎる」なんて言われたらどうしようかと細心の注意をはらって接していた。
しかし何も文句を言われることもなく、最後は「……助かったよ。サンキュー」と言われて「なんだ。思ったより怖くないじゃん」と安心したんだけど。
「あいつのこと怖がらないやつ少ないからな。それで気に入られたんだろう。その次もある」
いや、怖がってます。思ったより怖くなかったって印象変えただけ。
例えていえば、毒持ちのハブかと思っていたら、大きいから驚くけど毒はないアオダイショウだったから少し安心。でも蛇は結局苦手だし、目にしたらビビるよなあ、みたいな。
あれ?その次って、僕何かしたっけ。
「体育の授業の後、沢島が「財布がない!」って騒ぎ出した時あっただろう。ちょうど恐田が理由は知らないけど、一人で先に教室に戻るって言って、体育館から出ていったんだよな。だから「あいつが盗ったんじゃないか」って疑われて。はっきり言えば、あいつだって自分じゃないって言えただろうに、陰でこそこそ言うから反論もできなかったんだよな。そしたら真生があいつらに言っただろう」
「ああ、言ったよ?恐田君なら教室に戻らなかったから、きっと違うよって。だって僕見たもん。恐田君がずぶ濡れの子犬を抱えて校門から出て行くとこ。あれ、校舎の裏にある池に落ちちゃった子犬を助けたんだよねえ。きっと」
あの池、上にかぶせた網がずれていたから危ないとは思っていたんだけど、子犬が迷いこんでくるとは思わなかったよ、と続ける真生に「いや。そこいいから」と蒼介からストップがかかった。
「あいつが校門から出てったなんて分かんなかった。よく真生は気づいたよな」
「ほら、僕、視力がすっごくいいから。健康診断でずっと2.0だから。それ以上測れないないのが悔しいくらいだよ。あれ?教室の方行かないなーと思ってたら、校舎を出て行く姿が見えたんだよ」
「そうだったな。ああ、だからその後、落っこちてゴミ箱の陰に隠れていた財布に気づいたんだってことか」
僕が「なんかあそこに隠れてるの、あれもしかして沢島君の財布?」と聞いたら、大当たりだったようだ。なんでこんなところに、だの恐田じゃないってことじゃんとか、こそこそ話している声が聞こえた。噂していた数人が「お前が言い出したんだろう」と責任を押しつけあっているのが真生の耳にも届いた。
そこへ恐田が帰ってきたので「あ、沢島君の財布見つかったんだって。良かったねえ」と真生はほぼ何も考えずに、事実だけを伝える気分で声をかけた。
恐田の目が沢島の方に動いた。
「ひっ」という小さい悲鳴が沢島の口から漏れた。しかしみんなの緊張の中、恐田は一言口にしただけだった。
「見つかって良かったな」
みんなの緊張がほどける中「そういえば恐田君、子犬どうしたの?どこの子だった?」と聞くと、顔色を変えた恐田は、すごい勢いで真生の手を引っ張って教室から連れ出した。
やばい。なんか怒らせたのかも。前より怖さのハードルが下がったし、犬のことが気になったから、ついつい馴れ馴れしく話しかけちゃったから怒った?
「お前みたいな雑魚キャラが、俺様に気安く口をきくな」みたいな?抵抗しようにも体格差がありすぎて、真生は恐田に引きずられるままだった。
「え?仲居が拉致された?」とクラス中が騒ぐ中、渡り廊下まで真生を連れてきた恐田は、顔を赤くして「あんまりそういうこと言わないでくれ。子犬と俺なんて、似合わない組み合わせだろう」と恥ずかしそうだ。
「別に僕はそう思わないけど。だってなんだか恐田君は犬っぽい感じする」
「俺が?」
あれ、またなんかやばいこと言ったのかな。でも恐田の表情は別に気を悪くしているようには見えない。真生が恐る恐る頷くと、犬かあとつぶやいている。
なんか大丈夫っぽいな。安心した真生は気になっていたことを口にした。
「そういえばあの子犬、どうなったの?どこの子か分かったの?」
「ああ、学校の裏の家に住んでいる家で、新しく飼い始めた子犬だったよ。ドアを開けた拍子に飛び出して、行方不明になっていたみたいだ。探しにきていた家の人とちょうど出会えたから、そのまま渡してきた」
「そうだったんだ!良かったね。子犬がちゃんと家に戻れて」
「お前、犬が好きなのか?」
「え?」
「いや、なんかすごく嬉しそうだから、犬がよっぽど好きなのかなと思って」
「そうだね。犬好きだよ。今も家で飼ってる。おっきくてモフモフしてるのが、好きみたいなんだ」
「そっそうか。犬好き……おっきくてモフモフ好きなのか」
「どうしたの?顔赤いよ?あ、もしかしてぬれたから、風邪引いちゃったんじゃない?保健室一緒に行こうか」
「いや、大丈夫。一時的なもんだから、落ち着けば大丈夫」
そう言いながらも、恐田の顔の赤みはなかなか引かない。真生は「やっぱり保険室行った方がいいよ」と何度も勧める状態となった。
うーん。指摘されて、思い出してみたけど、特に懐かれる要素はないんじゃないかなあ。教科書見せるのも、間違った噂って分かっているなら訂正するのも、クラスメイトとして普通のことじゃないか?
「だから、みんな恐田のことを普通のクラスメイトと扱うやつがいなかったんだって。真生だけだったんだよ。あいつのこと腫れ物扱いしないやつ」
「そうなの?でも蒼介こそそういうタイプじゃない?じゃない?誰に対しても態度を変えないだろう?」
蒼介が特定の人を怖がったり、避けたりすることは想像しにくい。今までだって、クラスの中で浮いた存在になりやすい子や、仲間に入れない子も蒼介とだけは仲良くしたがった。特別優しくする訳でも、面倒を見る訳でもない。他の友人と同じように話しかけて、困っているように見える時だけ「何か手伝う?」と絶妙のタイミングと軽さで助けてくれる。恩着せがましさや妙な使命感を感じない。
「そりゃ俺の場合、その他大勢には興味がないから優しくできるし、いい人の顔も見せられる。でも恐田は違うけどな」
「なんで?」
「真生に懐いてくるから。俺たちの長いつき合いに割り込むやつは、気に食わない。あの時だって急に教室から連れ出したりするから、俺はすごく心配したんだ」
「何だよ。それ。変なヤキモチ焼かないでよ。それに探しに来てくれた時に、拉致されたわけじゃないから大丈夫って説明したでしょ」
「俺にとってその他大勢じゃない友達は真生だけだし。ヤキモチくらい焼いたってあったりまえじゃん」
涼しい顔をしている。聞きようによっちゃ、かなり恥ずかしいセリフだよねえ。
でも自分は蒼介のことをよく知っている。意味を間違えるようなミスは犯さない。
「僕も蒼介以上に親しい友達は、そんな出会えないと思っているけどなあ。だからヤキモチ必要ないよ」
「少し安心した。でもヤキモチは焼くぞ」
なんだそれ。と思わず笑ってしまった。
真生と蒼介は家も近く、学校もずっと一緒で幼馴染みという間柄だ。
仲良しの友達という認識はあったが、他の友達とは違う、一番の友達という認識が真生に生まれたのは、小学校3年生のアンケートがきっかけだった。
担任の教師が紙を回して「真ん中にある線の上に同じ班になりたい人の名前、下に同じ班になりたくない人の名前を書いてね。先生だけが見るから、本当のことを書いて大丈夫よ」と言ってきた。今から考えると、担任教師が教室内の人間関係を把握する為の調査だったんだなと分かるが、当時はそんなことは知るよしもない。
もうすぐ班替えがあるから、その準備なのかな。希望をきいてくれるのかな。
真生は同じ班になりたい人の一番はじめに蒼介の名前を書いた。他にはいつも一緒に遊んでいる5~6人の名前を挙げた。なりたくない人のところには、誰の名前も書かなかった。特に嫌いな子はクラスにいなかったから書く必要はなかったのだ。
その3日後に班替えが行われたけど、蒼介とは一緒になれなかった。他の子たちとも違う班だったから、あれって何だったんだろうなあと思いながらも半分忘れかけていた。
班は違ってもいつも一緒に帰っていた蒼介が「悪い。トイレに行ってくるからちょっと待ってて」というので、教室で真生一人になった時だった。
気が強くて、蒼介のことが好きらしいと噂されている女子が、真生の近くにきていかにも内緒話といった風に「ねえ、知ってる?」と耳打ちしてきた。
他に誰もいない教室の中で、なんで耳打ちなんかしてくるんだろう。少し後ずさると「この間のアンケート、仲矢君と一緒の班になりたいって人は乙背君だけだったんだって。まあ一緒の班になりたくないって人の方にも名前はなかったからさ。とにかくすごく印象薄いよね。空気みたい。いるかいないか分かんないくらいの存在だよね。乙背君も幼馴染みの義理で書いてくれたんじゃない?優しいもんね」
楽しそうに、笑っている。そうすることで、こちらの反応を見ている。
そうか。いつも一緒に遊んでいる子たちのことを、自分は仲間だとおもっていたけど、向こうからはそう思われていなかったのか。真生は少し寂しい気持ちになった。でもそれならそれではしょうがない。蒼介が上の段に僕の名前を書いてくれたならそれでいいや。
どうせ自分は存在感ないし、誰からも期待されないし。
「何ぼんやりしてんの」
苛立った声が響いて、真生の体がビクッと反応した。
「腹立てたらどうなの。でなきゃ悲しいって顔したらどう」
「あ、同じ班になりたくない女子ナンバーワンの水瀬さんだ」
いつの間に教室に戻ったのか、蒼介がいつもの爽やかな笑顔のまま言い放つ。
「なっ何をいうの」
「僕も見ちゃった。アンケート用紙。先生自分の机の上に、いろんな書類重ねておくから駄目だよね。見る気なかったのに、日直の日誌提出に行った時、書類が崩れてきちゃってさあ。片付けるしかないから目に入っちゃったよ。すごいよね。水瀬さん。ほとんどの女子から一緒の班になりたくない人に名前を書かれてるんだもん。存在感半端ないよね」
ずっと笑顔で話し続ける蒼介を、真生は口を開けて眺めていた。いつも礼儀正しく、間違っても女子にこんな失礼なことをいう蒼介は見たことがなかったからだ。
顔を真っ赤にした女子は「何よ!私もう帰る!」と足早に教室を去って行った。
「バイバーイ。お気をつけてー」
蒼介は笑顔で手をふると「さて」と真生の方を向いた。
「僕が一緒の班になりたい人は、もちろん真生の名前書いたよ」
「あ、うん。聞いたよ。水瀬さんが言ってた」
「僕が一緒の班になりたい人は一人だけで、太字で花丸つけて出したってことは聞いた?」
顔をのぞきこむようにして聞かれる。
「そうなの?そんなことまで聞いてないよ」
「なーんだ。水瀬さんにバラされちゃったかと思ったんだけど。自分でバラしちゃった。へへ。恥ずかしー」
蒼介はいたずらっ子のような笑顔を浮かべると「帰ろうか」とランドセルをしょった。
この時点で、水瀬さんが言っていたことなんてどうでもよくなってしまった。
「うん。帰ろう」
「今日の晩ご飯なんだろうなあ」
「うちカレー。今朝お母さんが用意してた」
「いいなあ。うちもカレーがいい!」
友達は蒼介がいればいいや。真生はそう思った。
その日の朝、真生は一番のりで朝の教室に足を踏み入れた。
蒼介のサッカー部の朝練の開始時間に合わせて登校しているけど、さすがに始業一時間前は早い。その分、早寝しているから、予習復習にあてる時間ができてちょうどいいけど。みんなと同じ時間に登校すると、電車が思い切り混んでいる。
満員電車は嫌だな。乗りたくない。
真生は中学生の時、満員電車で痴漢にあったことがある。蒼介が一緒だったので、涙目で訴えかけたところ、迷わず「降りまーす。。通してくださーい」と声を張り上げてくれたので、身動きがとれずと悩んでいたところから解放されて、次の駅で降りることができた。
真生は自分が童顔で背も小さいから、女子に間違えられたんだと信じていた。でも蒼介に「男って分かってて、というか男だから痴漢するってやつもいるから、ほんと気をつけて」と真顔で忠告された。「やられたら大声あげろ」とも。
でも男が痴漢されてるのって声をあげにくい。いや、女子だって怖いだろうし、声なんかあげられない状態になっちゃうと思うけど「男のくせに」「間違いじゃない?」って自分が非難されそうで怖かった。それに男なのに痴漢に狙われる。すなわち抵抗できない弱い存在と見なされていることを公表するのは、真生にとっては耐えがたいものがある。
それからは自衛の意味もこめて、混んだ電車、特に一人で乗る状況はできるだけ避けている。
ではまず数学の予習から。真生が教科書を開くと、教室の前側の扉が大きな音を立てて開いた。入ってきた人物を見て、思わずビクッとしたが、アオダイショウなら大丈夫。毒はないんだからと自分に言い聞かせる。それに最近はなんだか大型犬っぽくも感じているし。
「恐田君、早いね。おはよう」
「はよ……」
恐田はうつむきがちのまま隣の席につく。
「朝練でも日直でもないよね。なんでこんな早いの?」
「あー……ちょっとな。忘れ物したから早く来ようか思って。仲矢こそ早いな」
顔を合わせようとしない、不自然な姿勢のまま恐田は鞄を開こうとした。
その途端、手がすべったようで、鞄の中身が全て流れ出してくる。
「わあ!」
予想外の出来事に、顔を上げている。その顔を真生はしっかり見てしまった。
大きな傷がある。やはりこれは喧嘩でついた傷なんだろうか。でも痛そうだよなあ。
そう思ったらスッと手が出てしまった。
恐田の長めの前髪をかきわけ「痛そうだな」と顔をしかめてしまう。
恐田は真っ赤な顔で肩をふるわせている。
「えっ?熱もあるの?大丈夫?」
おでこに手をあてようとすると、イナバウアーのようにのけぞり、座ったままなのに器用にも椅子ごと後ずさった。
「だっ大丈夫だから!熱はないから!」
「そうか?それならいいけど。恐田君は体柔らかいんだね。身体能力が高いのかな?だから喧嘩も強いの?」
「体が柔らかいのは、昔バレエをやっていたからだし、喧嘩なんか姉ちゃんとの口喧嘩くらいしか、ここ数年したことないから」
「バレー……えっバレエ?踊る方?」
悪戯をした犬が怒られているような、しおらしさと哀れさがいりまじった表情で「そう。姉ちゃんがバレエやってたんだけど、その教室は男子がいなくて。発表会で王子役がいないからやりなさいって、小学校5年生から中学生まで、無理矢理一緒に通わされていた。俺、昔から身長高かったから、ちょうどいいって勝手に決められて」と説明してくれた。
いいなー。ちっちゃい頃から大きかったんだなー。うらやましいや。
「やだって抵抗したんだけど、姉ちゃんに腕相撲で負けてやらされるはめになった。学校では内緒にしてたんだけど、発表会を見に来た家族の中に同級生の男子がいたんだ。人をすぐイジるタイプのお銚子ものが。そいつにバレてタイツ姿の写真をクラス中に回された」
それはきつかったろうなあ。バレエの王子役が、本当は力強さと跳躍力で男らしさの塊だなんてことは大人にならないと分からない。小学生男子にとっては単なるからかいの対象となる「もっこりタイツ男」だ。
まあバレエの王子役の魅力は、今年30歳になる従姉妹のさえねえの受け売りで、僕はまだそこまで良さは分かってないんだけど。
でも今の恐田君の引き締まった長身、足長のプロポーションなら、体にぴったりしたタイツ姿でも、笑いの対象ではなく憧れのまとになるだろうなあ。
「今でもやってるの?」
「いや、やってない。姉ちゃんが高校受験を機にバレエを辞めたから、俺も中二までで終了させてもらえた」
「そうか。残念だなあ。恐田君の王子姿見たかったのに」
「え?」
怪訝そうな表情をしている。
「あ、もしかして勘違いしてる?タイツ姿を笑おうなんてつもりじゃないよ。単純にかっこいいだろうなあって思っただけ」
「ええ?」
さっきより顔が赤くなっている。いつも鋭い目差しなのに、なんだか潤んでいる。
「やっぱり熱あるよ!そんな赤い顔してるじゃない」
「違う!大丈夫だから!」
おでこに手をあてて、僕の手が触れるのを阻止しようとする。しょうがないなあ。
「ん?」
恐田君の鼻の上まで思い切りマフラーを巻きつけると、不思議そうな顔をされた。
「熱があるなら暖かくしないと駄目だよ。僕のマフラー貸すから、使うといいよ」
「あ、ありがと……」
マフラーのせいで、いつもよりくぐもった声を聞くと、思わず微笑んでしまった。
「でもなんでマフラー持ってるんだ?今、9月でそんな季節じゃないよな」
「僕、小さい頃喘息持ちで体が弱かったから。母さんが心配症で、マフラーも腹巻きもいつも持たされてるんだよ。良かったら腹巻きも使う?」
「いや、遠慮しとく」
マフラーをぐるぐ巻きつけた恐田は、目だけ目立つ格好だ。その目が伏し目がちになると、まつげが影を落とすほど長いことに真生は気づいた。
知れば知るほど、恐田君って不良とか喧嘩っ早いっていうイメージが消えて、手のかかるおっきな毛並みのいい犬にだんだん近づいていくよなあ。
真生はそんな感想を抱きながら恐田をじっと見ていた。
「……何?」恐田は苦しくなったのか、マフラーを少し引き下げた。鼻から頬にかけて走る数カ所の赤い線がよく目立つ。
この傷跡、なんだか見覚えがある。この傷ってひっかき傷だよなあ。この間おばあちゃんの家に行った時に、日向ぼっこしていたミケを無理矢理抱こうとしてつけられた傷によく似てる。ってことは。
「もしかしてその鼻から頬にかけての傷、猫に引っかかれた傷?」
「あ?そうだ。よく分かったな。ここ一週間で何カ所も引っかかれたけど、今日のが一番派手だった」
そういえば最近恐田はよく顔や手に傷跡をつけて登校してきていた。学校のみんなからは、綺麗な年上のお姉様との痴話喧嘩でつけられた傷だの、殴ろうとした相手がとっさに反撃したときのひっかき傷だの噂されていた。
まさか、定番の不良が雨の中、子猫を拾うシュチュエーションで、引っかかれたとかいうんじゃないよね?
「拾った猫に引っかかれたの?」
「いや、拾ってきたのは姉ちゃん。俺は世話を押しつけられただけ。爪切りをすごく嫌がって抵抗するんだ。その時つけられた傷」
餌もブラッシングもトイレ掃除も全部俺がやっているんだけどなあ。ちっとも懐かないとぼやく姿を見ていたら、笑いそうになってしまった。犬だからなあ。猫とは相性悪いのかもね。
「ちゅーるあげたら懐くんじゃない?あれ猫は大好きだよ」
「じゃあ試してみようかな」
穏やかに微笑む姿は、やはり気のいい大型犬といった雰囲気だ。思わず撫でたくなってしまう。
「え?」
恐田のびっくりした顔を見て、真生は思っただけではなくて、実際に手を伸ばして長めの黒髪を撫でてしまっていることに、自分で驚いた。
「あ、ごめん。つい、いい毛並みだなあと思っちゃって」
僕、何言ってるんだろう。意味不明だ。
「……最近姉ちゃんが家のシャンプーとコンディショナーを今までより高級品にかえたから、そのせいかな」
二人して顔を赤くして、かみ合っているんだかいないんだかよく分からない会話をかわす。そしてこの手をいつ離したらいいんだかタイミングがつかめなやと悩みながら、真生は高級シャンプーとコンディショナーの効果の手触りを楽しんでいた。
帰宅すると、いつものように母さんが玄関でいつもの言葉で出迎えてくれる。
「真生。大丈夫?学校で苦しくなるようなことはなかった?」
「大丈夫だよ。母さん。子どもの頃と違って、僕ももうだいぶ丈夫になったんだからさ。そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「そうね。分かってはいるんだけど、どうしても心配で。無理はしちゃ駄目よ。苦しくなったらすぐ先生にいうのよ。体育だって見学してね。母さん学校にお医者さんの診断書はちゃんと提出してあるんだから、ずるだなんて言われないわよ」
「うん。分かってる。無理はしないよ」
階段を昇り、2階の自分の部屋に入る。
南向きの広い方の部屋。本当はこっちが兄さんの部屋になるはずだったんだけど、喘息持ちで学校も休みがちだった僕に「せめて部屋くらい日当たりのいい快適なものにしてあげたい」って両親の希望で入れ替わってしまった。
兄さんは「俺は外にいる方が多いし、ベッドがあれば問題なしだからかまわないよ」と快く応じてくれたけど。
いつもそうだった。
兄の繋(つなぐ)が漢字テストで一番を取ると「わあすごい。次は算数と理科ね」と言われ、短距離で一位をとると「マラソンでアンカーにもなれるかしら」と望まれる。常に上を見ろ、次の課題があるぞ、といわれ続けている。つまりそれは兄さんは期待されているからだ。次の高みに届くことができると信じてもらっているからだ。そして期待通り成果をあげる。
真生はと言えば、一学期の間、なんとか休まず学校に行けただけで「よく頑張ったわね。えらいわ」と抱きしめられて褒められた。運動会は全員参加のラジオ体操に参加しただけで「運動会での活躍、ビデオに撮ったからね」と微笑まれた。
目立たなくていい。活躍しなくていい。とにかく無事でいるだけでいい。生きて存在してくれたらそれでいい。父と母の真生に対する思いが伝わってくる。
何も期待されない。何も望まれない。存在感の薄い、小学生の時に水瀬に指摘されたような存在。彼女の言葉にそんなにショックを受けなかったのは、今まで自分の中で似たようなことを考えていたせいだったからだ。驚くことでも何でもない。自分という存在はそういうものだと真生は納得していた。
だから子どもの頃のような発作がなくなり、医者からも「様子を見ながらなら運動も大丈夫だよ」と言われても、クラブにも入らず、体育もちょっとでもハードな項目は全て見学してきた。
本当は学校のマラソン大会で完走してみたかった。体力のついてきた今ならかなえることができるんじゃないかと思えた。それで自信がつけば、他のことにも挑戦できそうな気がする。水泳だってスノボだって、試してみることができるんじゃないかと思える。
でもそのマラソンをクリアすることが踏み出せない。学校行事を眺めて、あらかじめ真生に負担が大きそうと母が判断した項目は、保護者からの見学願いを提出して過ごしてきた。真生が真面目なのは回りも承知しているので、サボりと誤解されることはなかったが、弱々しいイメージを持たれてしまうのは避けられない。自分が弱いことで他人が気を使ってくれることが、最近の真生にはひどく重圧を感じさせる。
散歩コースにしている公園近くの夜道は、人通りが少なく怖がる人もいるけれど、真生は特に怖くは感じない。愛犬のジョイが一緒だからだ。ゴールデンレトリバーのジョイは、体が大きく頼もしい相棒だ。本当は人なつっこくて、見知らぬ人にでも愛想を振りまく、番犬としてはどうなのかと危ぶまれる性格だが、見た目だけでも十分効果はある。
体が弱く学校を休みがちだった真生は、同級生と外遊びもできず、蒼介や遊び仲間たちが小学校四年生で地元のサッカーチームに参加すると、一人でいることが増えた。蒼介は「父親に無理矢理入れられた。俺は真生と遊んでいる方が楽しいのに」と文句を言っていたが、もともとの運動神経がよくコミュニケーション能力も高いので、すぐ活躍していた。
一人で本を読んだりゲームをしている真生を見て、両親が不憫に思ったのだろう。
クリスマスのプレゼントは、ゴールデンレトリバーの子犬だった。
「うわあ、可愛い」
「前から犬を飼いたいっていっていたもんな。ちゃんと面倒みることはできるよな?」
「うん!毎日散歩するし、ご飯もブラッシングも僕やるよ」
嬉しくて嬉しくてたまらない。真生は、兄の繋にも相談して喜びを意味する「ジョイ」とつけた。
元気いっぱいのジョイだったが、真生が散歩中無理しすぎないよう、調教で学んだことを活かし、歩調を合わせてくれた。その元気さを持て余さないように、父や兄も手が空いている時に、よくジョイを散歩に連れ出してくれたのだけど。
最近では散歩中、早足と軽い駆け足を組み合わせるようにしている。最初のうちはいつもと違う歩調に不思議そうだったジョイだが、4歳だからまだまだ若い。今までより体を動かせる散歩コースにすぐ満足しているようだ。
こうやって慣らしていけば、マラソンに参加できそうだな。真生は少しだけ息を荒くしながら、ジョイとの散歩を続ける。
すると急に木々の間から人影が現れた。
「わっ」
そのままぶつかり倒れそうになる。すると安定を失った体が、力強い腕にホールドされる。しかしその力強さに自由を奪われた真生は、恐怖しか感じなかった。
「離せ!」
その言葉でご主人様の危機と感じたのだろうか。誰にでも友好的なジョイが珍しくウーと唸ると、その怪しい人物の上着の裾に噛みついて真生から引き離そうとする。
「ちょっと待った。仲矢、俺だから」
見上げると恐田だった。なんでこんなところにいるんだ。
「大きなモフモフした犬ってこの子?」
恐田は自分のパーカーの裾に噛みついているジョイに目を向ける。
「あ、ああ。そう。よく覚えてるね」
「仲矢との会話なら忘れないよ?」
「あ、ああ。えーと、ありがとう。支えてくれて……そろそろ腕を離してもらっていいかな」
「あっごめん!」
恐田はすぐ腕を広げて真生を自由にした。
なんだよ。僕との会話なら忘れないってのは。なんて答えたらいいのか、分からないじゃないか。
不審人物に遭遇したと思ったせいの鼓動の早さか、別の理由によるものなのか自分でも把握できないまま、真生は顔が熱くなり、そうだ、何かしゃべらなきゃと焦ってしまう。
「恐田君、眼鏡かけてるんだね」
学校では見たことのない、恐田の黒縁眼鏡姿だった。
「ああ。俺目が悪いんだよ。だから席も前にしてもらったし。ただ姉ちゃんが俺の眼鏡姿、というかこの黒縁眼鏡をダサいっていって学校にかけて行くのを許してくんないんだ。そのせいでみんなから目つきが悪くて怖いとか言われてるし。かといってコンタクトレンズは怖いし。目になんか入れるなんて無理」
みんなから怖がられている恐田が、コンタクトレンズをおびえた表情で怖いといったことが真生にはなんだか可愛く思えてしまった。
変なの。僕よりうんと大きな同級生に、可愛いなんて感情抱くのはなんでだろう。
クスクス笑ってしまう真生を見て、恐田は愚痴をこぼす。
「笑いごとじゃないんだって。目つきのせいで怖がられだけじゃなくて、喧嘩が強いだの尾ひれがついてるんだから。名前もよくないよなあ。恐田なんて」
「あれ?喧嘩が強いってのも間違いなの?」
「前に言ったじゃん。喧嘩なんて姉ちゃんと口喧嘩くらいしかしてないって。目つきと体つきと名前のせいか、妙な噂が出回ったんだよ。だいたいうちの学校、そこそこ進学校だし。喧嘩三昧のやつなんて来ないよ」
「なるほど。たしかにそうだね」
知れば知るほど、真生には恐田が喧嘩するような人物とは思えない。
「早くみんなに恐田君のことを知ってもらえば、そんな噂消し飛んじゃうよ」
「俺さ。バレエのことみんなにバラされた時とか、ああ、他人なんて面白おかしくネタにすることしか考えてないんだなって、人間不信に陥ったんだ。高校での扱いも、それと同じだろうってあきらめてた。でも、仲矢なら分かってくれそうかも、って思って。その後、俺のこと知って欲しいって思うようになった」
「そうなんだ」
さっきよりも、なんて返事をしていいか困るような内容だと真生は落ち着かなくなった。だってこれではまるで、あなたにだけは分かって欲しいみたいな、まるで、その、愛の告白……みたいじゃないか。そんなわけないだろうけど。僕の考えすぎなんだろうけど。
「大丈夫だよ。前よりみんな恐田君におびえなくなってきてるし」
恐田は本当は優しい。席を替わってもらう時だって相手に気を遣っていたし、自分が泥棒と疑われても相手を非難するようなことはしなかった。みんなもそれはだんだん分かってきているようだ。恐田に声をかけるクラスメートが日に日に増えている。そのことに気づいた時、良かったと思うと同時に、今さらなんだというイラッとした気持ちがわいていることに気づいた。
僕の方がよく知っている。僕の方が親しいんだ。恐田を独り占めするようなことを言い出しそうな自分に驚いた。
そんな真生の様子には気づかないらしい恐田は「最寄り駅一緒なんだよな」と言った。
「そうだよね。こんなところで会うんだもん。でも中学違ったよね。僕のうちは、駅の向こう側になるから、学区が分かれているんだね」
「俺、中三の時越してきたから、こっちの中学は一年しか通っていないんだけど、あっち側に越せば良かった」
「え?」
「だってそうすれば同じ中学通えただろう」
「そっそうだね」
それってどういう意味?聞きたい。いや、僕ってば何考えているんだ。中学から友達になれたら良かったのに、ってそういう意味に決まっているだろう。
「そうすれば仲矢の幼馴染みの乙背に、つき合いの長さが少しは追いつけたのに」
だからどうして蒼介に張り合わなきゃいけないんだよ。どっちも仲良し、でいいのでは。
そう思いながらも、恐田がみんなと仲良し、自分はその中の一人と想像した時のモヤモヤした気持ちを思い出すと口にはできなかった。
「俺、コンビニ行くとこだったんだ。今日は眼鏡してたおかげで仲矢を見つけることができて良かった。ここらへん、この時間だとめったに人通らないぞ。人気のない公園は危ないから」
そこで恐田の言葉が止まった。
危ないから?心配して?でもそれって女子にならともかく、男の僕にいう言葉じゃないんじゃないかな。恐田君もそう思ったから、言葉に詰まっちゃったのかな。
ジョイは警戒すべき相手ではないと判断したようで、恐田の服の裾に噛みつくのをやめている。それでも二人に放っておかれた状態になっているので「遊んでよ」と言わんばかりに、恐田と真生の両方に尻尾を振っている。
「大丈夫だよ。ジョイがいるから」
「このワンコ、あんまり頼りにならないような気がするんだけどなあ」
恐田君に喜んで尻尾を振って、撫でて撫でてのしぐさを繰り返している姿を見ると、そう思われても無理はない。でもさっきはご主人様を守る態度も見せてくれたんだからね。
「いざって時、身を守る程度の護身術は身につけといた方がいんじゃないか。さっきの様子じゃ、いきなり捕まれたりしたら逃げることも難しそうだし。逃げる時間さえ稼いでくれれば、なんかあった時、俺が駆けつけることもできる」
「いや、そんな。駆けつけるなんて、お互い連絡先さえ知らないし」
助けに駆けつけるという発想に驚いたのだが、つい現実的な理由をあげてしまった。
「そうだよな。まず連絡先を交換しよう。そうしたらいつでも助けに行くから」
いや、何者なんですが。君は。なんかのヒーローキャラですか。おかしいでしょう。
流れに疑問を感じつつも、恐田の当然というような態度にストップをかけることができず、そのまま連絡先を交換する。
「ついでに護身術もやってみる?簡単なやつ」
そう言われると、弱い自分に悩んでいた真生は、覚えたいと思ってしまう。
大きくうなづくと「そっか。じゃあまずさっきみたいに、両手で覆いかぶされた場合と片手を強く捕まれた場合」
恐田のいう通り、体を動かすと、そんなすごい技を施した訳ではないのに、相手の体から抜け出て自由になることができる。
「すごい!こんなちょっとしたコツで逃げることができるんだね」
「ああ、でも過信しちゃいけないから。逃げる時間を稼ぐくらいしかできないから、すぐ俺を呼べ」
最後のはなんなんだよ。思わず真生が笑ってしまうと、何が嬉しかったのか、笑顔になった恐田が「こういうのって、とっさに出てくるまで練習しないと駄目なんだよ。ここが散歩コースなら、俺不審者役で練習手伝うよ」と申し出た。
「いや、そんな悪いよ」と真生が断ると、恐田は両手で思い切り抱きしめてきた。
「恐田君?」
びっくりして動けずにいると「な?とっさの時に動けるようになるのって、経験重ねないと駄目なんだよ。中途半端に教えて、仲矢が危ない目にあったら、俺が嫌だから手伝わせて?」
抱きしめられたまま、そんなことを言われると「分かった。分かったから早く離れて!」と顔が熱いまま叫ぶしかなかった。
最近、恐田君の顔の引っ掻き傷が増えているような気がするんだけど。
授業中、意外にも真面目にノートをとり集中している恐田の横顔を盗み見しつつ、真生は猫とまだ仲良くなれてないのかなと考えていた。
その夜の散歩の時、待ち合わせていた恐田に会った時その疑問をぶつけてみた。
「なんかなあ。この散歩から帰ってきた後に、俺の匂いをクンクン嗅いで、険しい顔して「ミャッ」ってひと声鳴くと、俺の顔を引っ掻いていくんだよ。なんでそんなに懐いてくれないのか不思議だよ。ちゅーるは喜んで食べるんだけどなあ」
「それはヤキモチじゃないの?恐田君からジョイの匂いがするから嫌なんだよ。きっと。」
「えっそうかな。ヤキモチ……。そうなのかな。へへ、あいつけっこう可愛いとこあるじゃん」
デレた顔をしながらも、ジョイを両手でわしわし撫でている。帰ったらきっと今日も引っかかれるんだろうな。
「かなり上達したよな。護身術」
「うん。毎晩相手してくれるから、そのおかげだよ。ありがとう」
「仲矢は自分で思っているより、運動神経も反射神経も悪くないと思うよ。苦手だって思い込んでバイアスかかってるだけなんじゃないかな」
そうかな。みんなが無理するなってずっというから自分はできないって思い続けていたんだけど、恐田が真顔で気負うことなく真生に向ける言葉は、本当にそうじゃないかなと受け止めることができる。そしてそれは真生がそうありたいと思っている方へ近づく姿なので、少し先を明るい光で照らしてもらったような気分になる。
「だから来月のマラソン大会、参加して大丈夫だよ。俺もサポートするし」
真生はひどく取り乱してしまった。自分はそんなことを口にしていただろうか。体育もまだ見学することが多い身で、初のマラソン行事に参加しようという目標をどこで見抜かれてしまったのだろうか。
「だって散歩で体力つけているみたいだったし、学校でも昼休みにマラソンに関する本よく読んでたから、そう思ったんだけど」
分からないようにちゃんとカバーかけてたのに。蒼介に見つかると「マラソンなんて無理だ」と心配して止められる。だから蒼介がいない時に読んでいたんだけど、恐田君に気づかれていたとは思わなかったな。
「今までずっと体が弱いから、回りに心配かけるからっていろんなことあきらめていたんだけど、小さい頃と違ってもうずいぶん健康になってるって自分では思ってるんだ。マラソン完走できれば、その証明になって、親にも心配かけることなく新しいことに挑戦できるようになるんじゃないかって考えているんだ」
「できるよ」
恐田君が優しいまなざしと声で答えてくれる。なんでこんな表情をする彼を、僕は怖いなんて思ったりしたんだろう。昔の自分が信じられない。いつの間にこんなに恐田君を近くに感じるようになったんだろう。そう思ったら、すごく恥ずかしくなってしまい、ごまかす為に恐田君の右手首を強くつかんだ。
「えっ?」
「駄目だよ。恐田君。急な不審者の行動に対応できなきゃ、僕の師匠として恥ずかしいでしょ」
「じゃあ、こっちも」
左手首を差し出してくる。なんだろう。両方掴んでも護身術使えますのアピールでもするのかな。
真生は言われるまま、恐田の両手首を掴んだ。しかし恐田はまったく抵抗せず、真生に両手首を握らせたままだ。
「ちょっとなんだよ。これ。意味ないじゃん」
「あ、ごめん。ちょっと油断してしまって。手首じゃなくて、両腕を俺の体に回してホールドしてくれる?そっちの方がデモンストレ―ション見せやすいから」
「こう?」
両腕を恐田のグレーのパーカーの上から回す。
「それじゃ弱いな。もっと力こめてくれないと、やる気が起きない」
何言ってんだよ。思い切りぎゅうっと抱きしめると、体温も心臓の鼓動も伝わってきて、真生を動揺させた。いつもより鼓動が早い。でもあまりに密着しているから、この早い鼓動が自分のものなのか、恐田のものなのか、もはや分からない。
「……あったかい」
恐田が幸せそうに一言つぶやく。
「ちょっと!僕カイロじゃないんだから。真面目にやってよ」
怒りながらも、真生は回した両腕をほどく気にはならなかった。
「……好きだ。仲矢のことがすごく好きだ」
そのまま耳元で囁かれる。少し苦しそうな、でも耳に心地よい恐田の低めの声。急に真面目にこんなこと言ってくるなんて。真生は全身が心臓になったように感じる。
どういう意味の好きかなんて、確認しなくてもダイレクトに伝わってくる。
足下の枯れ木が折れる音がした。ガサッと音がして人影が現れ強い力で真生の左手首を掴み、恐田から引き離して自分の法へ引き寄せた。
今度こそ本物の変質者か?
恐田に教わって何度も練習した護身術を実践すると、相手の手が外れた。自由になった体で恐田にしがみつく。
さっきまで真生の手首を掴んでいた不審者は、バランスを崩して道にへたりこんでいる。
「すごい!練習の成果だ」
恐田は真生を抱きしめたまま「顔をあげろよ」と道路に手をついた人物に怒りをこめた声を向ける。
その不審者の姿をよく見て、真生は驚いた。
「え?ちょっと待って。まさか蒼介?蒼介なの?」
「え?乙背なの?これ」
「これとは何だ!」
恐田に向かって怒鳴る姿は確かに蒼介だ。
なぜこんなところに。
「ずっと慎重に見守ってきたのに」
蒼介がすごい形相で恐田を睨んでいる。こんな迫力のある蒼介の顔を、真生は始めて見た。
「親友の位置を誰にも奪われないように、一番真生に近くて守れる存在であるように頑張ってきたのに」
「僕は平凡を絵に描いたような人間だよ?みんなから憧れられるような蒼介と仲良くなれたのは、なんてラッキーなんだと思ってるくらいだ。蒼介が頑張ることはないじゃない?」
「あるよ!」
蒼介が怒鳴った。怒鳴られたのも初めてだ。
「小学校3年生の班替えのアンケート覚えているだろう?俺一人が真生の名前をあげたなんて嘘だ。真生が書いた仲良くしているやつらはもちろん、クラスの男子ほとんどと女子過半数以上が真生の名前を書いていたんだ」
あれ?じゃあなんで水瀬さんはあんなこと言ったんだ?単に僕に嫌がらせをしたかったのかな?
「……水瀬さんが見たのは、俺が書き換えをした後のアンケートだ。俺のことを好きだったあの子は、いつも俺と一緒にいる真生のことを目障りだと思っていたんだ。俺が誰と一緒の班になりたいと考えているか知りたがっていたから、あの子の性格なら絶対アンケートを盗み見すると思ったんだ。だからその前に細工した。そうすればきっとあの子は真生が俺以外から一緒の班になりたいといってもらえなかったって伝えるだろうし、そうすれば俺の存在が真生にとって大事なものになるチャンスだと思ったんだ」
「お前、ひどいな」恐田君が口を開いた。
「そんなことして仲矢がかわいそうじゃないか。嫌な思いをさせて親友も何もあるか」
蒼介が再び恐田君を睨んだ。こうやって見ると、知り合ったばかりの頃の恐田君の眼力の鋭さに匹敵するぐらいの迫力だ。
「そんな傷、俺がフォローする。それぐらいの自信はあったからやったんだ。それに俺はずっと親友でいたかったわけじゃない。俺は、俺は……ずっと前から本気で真生のことが好きなんだ」
聞いてるこちらまで切なくなってくるような声を絞り出してくる蒼介に「そんなの。今さらずるいだろう!俺が出てきたからあわてて告白してきたなんて」と恐田がクレームをつけた。
「お前が出てきたからじゃない!」
二人が白熱する中、思わず聞いてしまった。
「え?じゃあ中三の時の好きだって行ってきたのは、そういう意味だったの?」
「……そうだよ」
ふてくされたような顔で蒼介がそっぽを向く。
「え?だってだって、好きだっていうからびっくりして男同士なのに?って聞いたら、軽く笑って友達としてに決まってるじゃんっていったじゃん。その上一週間後には、告ってきた後輩とつきあうことにしたって報告してきたじゃん。だから僕、あれはやっぱり冗談だったんだって信じていたのに……」
「そう言わなきゃお前逃げちゃいそうだったじゃんか!」
男に痴漢されて嫌な思いしたことがある真生に、怖がられたくなかったんだよ。友達でさえなくなったらと思うと、冗談でごまかすしかないと日和っちゃったんだよ。うつむいてつぶやく。
「たしかに。仲矢は素直でいいやつだけど、そっち方面は嫌になるほどニブいもんなあ」
恐田君が共感する。
「ちょっと待ってよ!なんで二人して僕が鈍くてとんでもないやつだみたいな結論に達しているの?反発しあってたくせに、どうしてそこだけ気が合うの?」
僕が叫ぶと、二人は顔を見合わせてからため息をついた」
「あのさあ。真生。今俺たち二人が何で反発しあってるのか分かる?」
「え?気が合わないから……?」
もう一度二人は大きくため息をつく。
「乙背の中途半端な告白はおいといて、俺は仲矢に好きだってはっきり伝えてるよな?今の俺たちの関係分かる?いわゆる三角関係になってるんだよ」
「俺の告白を勝手にどっかにやるな!三角関係じゃないだろう!俺と真生が築き上げてきた関係にお前が無理矢理乗り込んできただけだろう」
先ほどの共感力はどこかにいってしまい、また二人はもめだした。
三角関係?そんなのドラマでしか聞いたことがない。しかも僕が間にはさまる立場だなんて。生きてるだけで存在感のない僕に、そんな大役はつとまらないから勘弁して、と真生は叫びたくなってしまった。
三角関係らしきものは解決しないまま、マラソン大会を迎えることになった。
マラソン大会当日に真生の参加を知った蒼介は、予想通り大反対した。
「どういうつもり?いつもこういった行事は休んでるじゃん。おばさんからも今年も休むから手紙を書いて渡すよう伝えたって聞いてるよ?」
今からでも間に合うから、体調不良により不参加にするって、担任と実行委員に伝えてくるべきと叫ぶ蒼介の口を手で押さえる。
「大丈夫。病院の先生にも相談した。無理はしないと約束してる。苦しくなったら途中で棄権するから」
真生がこれだけきっぱり蒼介の言葉を否定することは今までなかった。ショックを受けたらしい蒼介は、黙ったままだ。
「大丈夫だよ。俺が伴走するし。ちゃんと見守ってるから」
恐田が、また火に油を注ぐようなことを口にする。ため息をつくしかない真生の思いをよそに、酸素スプレーやタオル、ペットボトルの水、スマホ、バナナまで抱えて任せろといわんばかりの表情だ。それ全部もってマラソンに参加するつもりなんだろうか。
「何言ってるんだ。真生が参加するなら伴走するのは俺だ」
「それは断る」真生が口をはさむ。
「ほら、やっぱりもともと俺が伴走するって決めてたんだし。準備も万端だし」
「二人ともやめて欲しい。伴走は断る。自分のペースで走って欲しい。だいたい二人とも上位狙えるだろ?真面目に走ってよ」
だって心配だからとなおも食い下がる二人に「約束守らなかったら絶交する」と宣言する。
「絶交って……」
「小学生じゃないんだし」
反論する二人に「本気だから」とだけいうと、真生の本気度が伝わったようだ。
恐田は用意した品々を実行委員に「悪い。ゴールに持っていってもらえるか」と渡し、蒼介は黙って自分のゼッケンをつけはじめた。
「一位も真生も俺のもんだから」
恐田の宣言に、蒼介がこめかみに筋を走らせている。
「バカ野郎。どっちも俺のもんだ。俺が一位をとったら、潔く真生をあきらめるんだな」
「やだ。マラソンで負けても仲矢が好きなことは負けないから」
「ハア?だったら勝負挑んでくんな!」
二人の声が聞こえない位置にいる女子たちは
「二人で優勝争いするのかな」
「どっちも応援したーい」
と、うっとりと二人を見つめてざわめいていた。
真生は息を深呼吸を繰り返す。二人には大きな口をたたいたけれど、本当は誰より自分が一番不安だ。できるだろうか、と弱気な気持ちがつい出てきそうになる。途中でぶざまに倒れて、みんなに迷惑をかけるんじゃないかと想像すると怖くなる。でも今日挑戦しなかったら。きっといつまでも自分は変わらないままだろう。早く走ろうなんて思わなくていい。歩いてもいい。とにかく完走することを第一目標にしよう。
そう考えたら、真生の心は少し軽くなってきた。
落ち着いた気持ちで回りを見ると、恐田と目が合った。口が動いている。
「できるよ」
真生はうなづいた。
そうだよ。その言葉が欲しかったんだよ。
「大丈夫だ!そのまま続けろ。走れなくなったら歩け。俺が隣についている。いざとなったらおぶってソレダ総合病院の特別室にかつぎこんでやる!何も心配しなくていい」
横にぴったり恐田が伴走している。
「あれ?うんと前を走ってたんじゃ……」
無理にしゃべったせいか、思わず咳こんでしまう。
「しゃべるな。走ることだけに専念しろ。お前が聞きたそうなことは、こっちが勝手にしゃべる!」
そういってくれるなら、とこくこくうなづいて無理にしゃべらないことにする。
「俺はもうゴールした。約束通り一位だ。といっても乙背と同着一位だからすっきりはしないんだけどな」
その後また笑顔になる。
「でもあいつはそこで体力使い切ったみたいだ。俺は戻って伴走することまで予定に入れていたから、体力使いきるような真似はしなかったけどな。つまり本気出してたら俺がダントツ一位だったってことだよ!」
得意げな笑顔を浮かべていたが、口をきかないまま上目使いで恐田君を見ると気づいたようだ。
「いや、真剣に勝負しなかったって訳じゃなくて。俺の中じゃ自分が勝つのも仲矢が走りきるのも同じくらい重要なことなんだよ。どっちか片方なんてやだからな」
すごいな。恐田君は。もう完走して戻ってきたから、僕の倍は走っているはずなのに、息が切れる様子もない。足も軽やかに動いている。
「いざとなればソレダ総合病院の特別室ってのも嘘じゃないぞ。俺の親父の病院だ。便宜をはかってもらうのは可能なんだ」
びっくりして目を見開いた真生の表情を見て、恐田は続けた。
「驚いた?恐田じゃなんか病院名としては怖いだろう?だからオを抜いてソレダにしたんだって。子どもの時教えてもらったよ」
子どもの頃バレエを習っていたというし、食事の時の箸使いやちょっとしたしぐさから、いいとこの坊っちゃんなんじゃないかと思っていたが、このあたりで一番大きな病院の息子か。なんか納得したよ。
「今まで何になりたいかなんて、よく分からなかったんだけど、俺決めたよ。医者になる。仲矢が不安に思うことは俺が全部取り除いてやる。いつでも俺が仲矢を守れるようにそばにいる」
恥ずかしかったのか、早口で言い切る。
そしてこちらに顔を向けて、優しげな顔で微笑む。何だよ。これ。僕が聞きたそうなことは勝手にしゃべるっていったけど、こんなことまで言えなんていってないよ!そう思うのに、真生の鼓動は早くなり、脳内では「そばにいる」という恐田の声がリフレインされている。顔が熱くなってくるのが自分でもはっきりと分かってしまう。
「えっ?大丈夫か?顔真っ赤だぞ。苦しいのか」
誰のせいだと思ってんだよ。まったく。
真生は首を横にふり、もくもくと走ることに専念した。
心配そうに眺めていた恐田だったが、真生の呼吸も歩調も乱れていないことを確認すると安心したようで「このペースだとあと10分ぐらいでゴールだぞ。頑張ろうな」と声をかけてきた。
真生は前に足を出すことだけに専念する。
発作が起こったらどうしようとか、息ができなくなったらどうしようなんて、考えない……って訳にはいかないから「そうなったら恐田君が何とかしてくれるから大丈夫」と思うことにする。
恐田はずっと真生のテンポに合わせてくれている。
身長差がすごいあるから、きっとやりにくいよなあ。時々調整の為なのか、軽く僕の回りを走り回ってから、また横に並んだりするし。これ、通学路で時々会うサモエドが、やる動作によく似てるよ。左手でリードを持ってるご主人様は、右手に彼の息子の手をつないでいるから、それに合わせてかなりゆっくりしたテンポで歩く。そうすると散歩で足取りが軽くなっちゃっているサモエドはどうしてもテンポが速過ぎて前に行くことになっちゃうから、数メートルごとにご主人の回りを回って同じ歩調になるよう調整しているんだ。こんなとこまで犬っぽいなんて。思わず声を出して笑いそうになるが、そうすると息が苦しくなりそうなので我慢する。
「やった!ゴールだ!」
白線を乗り越えると体から急に力が抜けた。「おい。大丈夫か?」叫ぶ恐田君の腕に抱きかかえられたようだけど、息が苦しい。意識が遠のいていく。
気づくと学校の保険室のベッドの上だった。
緊急入院するほどではなかったようでほっとする。どうやら酸素スプレーを使われたようだ。近くの机に使用済のものが2つ置いてある。恐田君がゴールの場所に用意移動してもらってたのががこれだったんだな。
そう思って真生が寝返りをうつと、恐田が寝ている。
「恐田君!」
思わずベッドから降りて彼の近くに行こうとすると「大丈夫だよ。寝てるだけ」とベッドの反対側から蒼介の声がする。
「こいつ、お前に酸素スプレー使った後、自分も呼吸困難に陥ってんの。しょうがないから俺が世話してやったけどさ。俺だって恐田じゃなくて真生の世話がしたかったつーのに」
こいつがたくさん酸素スプレー持ってきて良かったけどさと続ける。
「ほんと失敗した。恐田には負けたくないと思って全力で走ったら、真生の位置に戻る体力がなくなっちゃうなんて。こいつにいいとこ全部奪われた」
寝ている恐田を蒼介は憎々しげに眺める。
「そんなことないよ。蒼介が恐田君を助けてくれたんでしょう?ありがとう」
蒼介は今までよりもっとふくれっ面になった。
「だーかーらどうして真生がお礼いうの?関係ないじゃん。真生は恐田の親でも何でもないんだし」
「そりゃそうだけどさ。でも恐田君を介抱してくれる人がいなくて、彼が苦しい思いをしたらって思うと僕もつらいし」
あれ。どうしてつらいのかな。そりゃ恐田君は僕の伴奏をしてくれて、最後まで励まして一緒に走ってくれて、だから僕は念願だったマラソン完走を果たすことができて。
恐田君が僕のやりたいこと分かってくれたから。できるって信じてくれたから。うっとうしいほどまとわりついて、僕のことを守ってくれたから。
だから身内とかじゃなくても僕にとって恐田君はとっても大切な人で、だから無事ですごくほっとしたんだ。
「……なんか長い沈黙なんだけど、もしかして気持ちに整理がついた?」
腕組みをしたまま蒼介が聞いてきた。
「……好きなんだ。恐田君のことを」
蒼介の表情を失った顔を見ると、続きを言えなくなりそうだ。でも言わなきゃ。
蒼介の為にも。僕たちのこれからの為にも。
「最初は怖いなって思ってたけど。でもなんだか僕の近くにいるときは犬みたいで。ずっと僕のこと思ってかまってくる様子を見ると、こっちもよしよしって頭撫でて可愛がりたくなってきちゃうんだ。今まで恋愛とか縁がなかったからよく分かんなかったんだけど、これが僕の好きって気持ちだと思う」
自分でもずいぶん恥ずかしいことを言ってるなという自覚はあるので、ベッドの上で体育座りをして顔を隠したまましゃべる。きっと今僕は真っ赤だ。こんな顔とても見せられない。
「え?それって……本当?」
僕は驚いて隣のベッドを見る。
「恐田君?え?いつ目が覚めたの?」
「いや、いい気分で寝ていたら、頭をスコーンと殴られて。目を開けたら仲矢の声が聞こえてきた」
恐田君のベッドの枕の横には、「乙背」の名前が入った上履きが片方落ちている。蒼介がこれで恐田君を起こしたに違いない。
保健室の出口に手をかけていた蒼介は「他人への告白なんか聞いてられないよ。恐田の寝顔にも飽きたから起こしてやった」というと外に出てドアを閉めていった。
「お願い。最初から聞かせて」
「最初からって、やだよ。恥ずかしすぎる。だいたいどこから聞いていたの」
「えーと、犬みたいで、ってとこから」
「そこから聞こえていれば十分だよ。意味分かってるだろう」
「やだ。俺への告白なら、最初から全部聞きたい。ああ、悔しい。大切な仲矢からの告白を恋敵である乙背が先に全部聞いていたなんて」
「こっ告白告白って連発しないでよ!こっちの気持ちも考えてよ!」
「うん。照れても恥ずかしがってもかまわないから、お願い。最初から一言一句もらさず、もう一度復唱して?」
「あーもう!ハウス!」
しかしいうことを聞かないバカ犬は「お願いだから言ってよー」と何度もおねだりを繰り返すばかりだった。
帰りは何故か三人で帰る羽目になった。
保健室から戻ると、教室は閑散としていた。それはそうだろう。体育際が終わってからもう二時間以上過ぎている。片付けも済んでいるし、みんな打ち上げでどっかの店に集合しているはずだ。
だから誰もいないだろうと思って、恐田君と二人教室に戻ったんだけど、蒼介がいて「あ、もう大丈夫か?」とこちらを振り向いた。
「う、うん。大丈夫。心配かけてごめん」
「そんなの全然かまわないよ」
どうしてもさっきのことを思い出して気まずくなってしまう僕に比べて、蒼介は通常運転の態度だ。ほっとしていたら「乙背、ずるいぞ!俺への仲矢からの愛の告白をお前が聞いてしまうから、もう一度最初から言わせるのにすっごく苦労したじゃないか!」と言い出した。
なんてこと言い出すんだ!せっかく忘れたふりをできそうな雰囲気だったのに、なぜ蒸し返す!
「恐田君!ちょっと何言い出すんだよ」
顔が熱くて噴火しそうだ。自分よりうんと高い位置にある彼の口を塞ごうとするがとても届かない。
「ふーん。苦労したってことは、結局もう一度始めから真生に告白させたってことなのか」
「うん!すごく恥ずかしがったけど大切なことだから、ちゃんと言ってもらった」
揺れる尻尾が見えそうなくらい、全身から嬉しいを発散させている恐田君が満面の笑顔で眉間にしわをよせまくっている蒼介に答える。
「ずるいっていうけどな。俺だって聞きたくなんかなかったよ。あんな言葉」
あ、と恐田君が表情を変えた。
「……ごめん。俺、無神経だった。乙背だってずっと仲矢が好きだったんだよな。それが俺のことを好きだなんて告白、聞きたくなかったよな。そんな失恋確定の言葉なんて引導を渡されるようなもんだもんな。小学校からの長い片思いが粉々に砕けちるんだもんな。そりゃつらい……」
「お前、わざとやってんのか?傷口に塩をすりこむようなことばっかり口にしてんだろうが!」
「うん。無理して普通にしないでいいよ。泣いたっていいじゃん。その方が立ち直り早いよ」
恐田君は綺麗にアイロンがかけてあるハンカチを蒼介に向けた。
「ふっふざけるな。俺は無理なんかしてない!これからも真生の親友は俺で、ずっと一緒なんだから……恋人が俺じゃなくても……」
そこまで言い終えると、蒼介の目から大きな透明な粒がポロポロこぼれ落ちてきた。
「ック」
握りしめた手で涙を払うように拭く。
「蒼介。これ使って」
僕が出したハンカチを「ん」と短い返事で受け取ると、今度は嗚咽を漏らしながら涙をこぼした。
「一枚じゃ足りないだろう?こっちも使うといい」
差し出したまま受け取られていなかった恐田のハンカチを、今度は素直に蒼介は受け取った。受け取ると思い切りよく、音をたてて鼻をかんだ。
「あー!なんだよ。なんで俺のハンカチは鼻紙扱いになっちゃうんだよ。仲矢とはえらい差をつけてくれるよな?」
「当たり前だろ。お前と真生が俺にとって同じ扱いの訳ないだろう。真生に対して仏の顔ならお前に対しては鬼の顔で対応してやる!」
「お前なあ」
恐田君は文句をいいかけて「あ、大事なこと忘れてた」とあわてた。
「ありがとう。酸素スプレー、乙背が俺にあててくれたんだってな。仲矢のことしか考えてなかったから、自分のこと後回しにしてたよ。助かったよ」
そう言い終えると、綺麗な角度で蒼介に向かって頭を下げた。
「……そんなの人として当たり前だし。お前だってクラスメートなんだし」
鼻をかみすぎて赤くしたまま、仏頂面で答える蒼介。
一瞬え?という顔をした後、また笑顔になって「ありがとう」という恐田君を見て分かった。クラスメートだし、って言われたのが嬉しかったんだろうなあ。
なんだかこのまま二人も仲良くなれそうだよなあ。期待して見つめていると、蒼介がきまり悪そうにいう。
「……ハンカチは洗って返す」
「いや、返さなくていい。洗ってもなんだか嫌だから」
速攻で断る恐田に対して「お前のそういうところが俺は合わないんだよ!」と切れまくる蒼介を見て、予想が大外れしたことを真生は残念に思うしかなかった。
地元の駅に着いてからは、蒼介の家が駅からは一番近いので、後の道のりは倒れたばかりだから送るといいはる恐田と真生の二人だけとなった。
「恐田君は医者になって僕のこと守ってくれるっていったじゃない?」
「うん!父さんにも話した。その為に医学部受験用の予備校にも申し込んだ!大丈夫だよ。俺、意外と頭いいんだよ?眼鏡かけて黒板さえちゃんと見えれば。仲矢の為だったら、日本で最高峰の医学部でも受かってみせるよ」
「いや、恐田君が勉強本当は得意なのは、普段の宿題やテストの結果を知っているから、そこは疑ってないんだけど。でも医学部って6年かかるよね?忙しいし、優秀な医者になるほど、僕一人にかかわっていれなくなるんじゃない?」
「え?そんな!仲矢のために医者になるのにそれじゃ本末転倒じゃないか。よし、医者の知識は身につけつつ、いつでも一緒にいられるようフリーターの道を選べば」
暴走し始める恐田君にストップをかける。
「ちょっとやめてよ。僕、ちゃんと働きもしないフリーターの彼氏なんて絶対嫌だよ」
ふと気づくと、キラキラした目で恐田君はこちらを見ている。
「な、もう一回言って?」
「何を?」
「今、彼氏って言ったじゃん!俺、仲矢の彼氏なんだよな。ね、そういうことなんだよね」
はしゃぎまくっている。
「だーかーら、僕が言いたいのはそういうことじゃないから。恐田君はなりたいものになればいい。それが医者でも別のものでも、本人が望むものだったらかまわない。でも僕は守ってもらうだけじゃ嫌だ。恐田君が努力するなら、僕だって努力したい。二人が一緒にいる未来は、二人で築き上げていくもんだろう?」
恐田君は目を輝かせて感動している。どうやら分かってもらえたようだ。
「……夢みたいだ。真生からプロポーズしてもらえるなんて」
「プロポーズ?」
ちょっと待ってよ。いつ僕がそんなもんしたって言うんだよ。
「え?だって二人の将来を考えてくれているんでしょう?一緒に未来を築き上げていくんでしょう?これってプロポーズ以外の何ものでもないじゃない?喜んでお受けします!」
え、そういう意味じゃなかったんだけど。でも社会人になってもそれから先も、一緒に生きていくってことは思ってたけど……あれ、これってプロポーズになるのかな。
はしゃぎまくっている恐田君を見ていると、それでもいいかと思えてしまう。
「あ、ねえ。今、仲矢じゃなくて真生って名前呼びしなかった?」
「うん。だって将来を誓いあった二人が名字で呼び合うなんて、よそよそしすぎるじゃない。そんなの寂しいよ。だから真生も恐田くんは禁止。竜樹って下の名前で呼んでよね」
早く早く、と僕の顔を見つめてくる。
「た、たつ……」
駄目だ。恥ずかしくて舌も頭も回らない。
「……ポチ。お手」
両手を上向きにして差し出すと、そのまま上に手を重ねてきた。
「ってなんでだよ!なんでポチ?条件反射で動いちゃった自分が信じられないー」
叫ぶ恐田君……竜樹を見て、僕は声をたてて笑ってしまった。
「だいたい何で朝っぱらから恐田の顔なんて見なきゃならないんだ」
「それは乙背が俺と真生の中に割り込んでくるからだろ」
「あ!名前呼び。いつからそんなこと許した」
「愛する二人が納得しあっているなら、乙背のお許しなんて不要に決まってるだろ」
「あー、もういい加減にして!電車の中だから静かにして!」
真生は二人のやりとりに呆れて、ため息をつく。
竜樹が自分も一緒に登校する!と駅の反対側の改札口まできて、真生たちが来るのを待つようになった。
この調子で教室でもしゃべられたらたまらない。よく聞けば内容はバレてしまう気がするのだけど、そこは二人の見た目の良さのせいか、顔ばかりに注目され、同じ車両の女子も「イケメン二人の微笑ましいじゃれ合い」としてとらえているようだ。
「とにかく健全な交際をするように!学生は学生らしく、学業に励むように。真生をたぶらかそうなんでこの蒼介さんが許しません」
「保護者かよ!」
まあまあ、と真生が口を挟む。
「学生のうちは学業が本分、節度ある交際をってのは僕も賛成だよ」
「ちょっと待って?学生のうちはって、俺は医者目指すから学生生活、普通の大学生より長いよ?その間ずっと清く美しく?」
「そうだ。当たり前だ」
勝ち誇ったように蒼介がいい放つ。
その時、ちょうど開いたドアから同じ学校の生徒が乗ってきた。
どうやら同じサッカー部のようだ。蒼介に声をかけている。
真生はそっと竜樹にだけ聞こえる声で伝えた。
「さすがにもう少し早く、その、きちんとした恋人同士にはなれると思うよ。僕の心の準備も整うと思うし」
「え?いいのか。真生は」
「……うん。だって、こういうのは、その、愛し……当事者の二人が納得していれば十分だから」
恥ずかしくて竜樹みたいに愛しあう二人なんて表現まではできなかった。でも竜樹と同じ「好き」であることを、自分史上最大限頑張って表現したつもりだ。
効果はすぐあがり、竜樹の表情が輝くばかりに喜びで満ちあふれている。
「うん。うん。分かった」
まずいなあ。竜樹のこの顔を蒼介に見られたら、なんかすぐバレちゃいそう。
そう思いながら、自分の顔も熱い。顔が赤くなっていることは自覚しているので、バレるとしたら竜樹のせいだけじゃないよね、といっそう顔が火照るのを真生は止められなかった。
いやいや、まだ高校一年生。自称の165センチは今年中にクリアする予定だし、伸びしろはあると信じている。でもすぐ横にある、長身でしっかりした肩幅と厚みのある体の持ち主と自分を比べてしまうと、一反木綿みたいな薄い自分の体が情けなくなってくる。
喧嘩が強いと噂されてるけど、本当なんだろうなと納得してしまう。しっかし訳わかんないよなあ。
仲矢真生(なかやまなぶ)が複雑な思いを胸にして、隣に立っているクラスメイトの恐田竜樹(おそれだたつき)を眺めていると、その視線に気づいたのか、ちょっと居心地縦線悪そうにして「奇遇だな。二学期も隣だとは。よろしく。仲矢」と鋭い目つきのまま、挨拶してきた。
「あ、ああ。そうだね。こちらこそよろしく」
戸惑いを隠せないまま笑顔を浮かべ、真生も挨拶をする。
これだから意味がわかんないんだよ。どうして奇遇だな、なんだよ。
二学期最初のHRは、真生が待ちに待った席替えだった。くじ引きの結果、教卓の真ん前というハズレ席だったが、かまわなかった。右隣は小学校から仲のいい乙背蒼介(おつせそうすけ)だし、左隣はあまり口を聞いたことはないけど、将棋部に所属している温厚そうな眼鏡男子の作倉だ。今の真生にとって場所は問題じゃない。近くに座る人物が誰かってことが大切だ。
一学期はあまり口をきく機会がなかった作倉に「隣だね。これからよろしく」と声をかけようとした瞬間、大きな足音と共に視界が遮られた。恐田が立ちはだかっていたのだ。
「俺、目が悪くて一番後ろの席じゃ黒板が見えないんだ。替わってもらえるか?」
そう言いながら作倉に向かって、廊下側の一番後ろの席を指さす。
「え?あっはい。わっかりましたあ!喜んで交換させていただきます!」
どこかの居酒屋の店員のようなテンションで、作倉は自分の荷物をまとめて移動しようとする。もう一度、低くよく通る声が響く。
「確認させてくれ。お前眼鏡かけてるけど、一番後ろでも黒板見えるか?あとあの席の隣の上嶋は、お前と同じ将棋部で仲いいよな?」
「え?恐田君が僕の所属しているクラブ覚えているの?」
よほど意外だったようで、敬語だったのがタメ語になっている。
いや、同級生だからタメ語の方が当たり前なんだけど。でも敬語使いたくなっちゃう気持ちは分かるよ。真生は作倉に同情の目を向ける。
「悪いか?」眉間にしわを寄せ、不機嫌そうな表情を浮かべる恐田に「いえ、とんでもございません!おっしゃる通りです!ありがとうございます」とよりおかしなテンションになった作倉は脱兎のごとく去っていった。
そこで「偶然だな」で始まる真生への挨拶だ。真生の立場としては、素直に笑顔が出てこない理由としては十分すぎると考えている。
次の時間、音楽室への教室移動の時に「懐かれてるよなあ」と蒼介が話しかけてきた。
「やめてよ。その懐かれてるって言い方」
「だってそうとしか言いようがないじゃん。一学期と同じように真生の隣の席になるために、交換してまで一番前列なんて普通避けたがる席に来るなんて」
真生も思わずうなづく。一学期は、恐田のするどい眼光におびえ、長身が大きな足音と振動をうむたびに、何事かと昼食後の居眠りからも目覚ますという不自由な生活をしていたのに。まあ途中から少しは慣れてきたけど、ずっと隣というのは精神衛生上よろしくない。
「目が悪いっていってたじゃん。でもだったら僕が後ろの席に替わってやったのに」
不満をもらすと「えー、そしたら一番前の席でしかも隣が恐田ってことになっちゃうじゃん。俺が耐えらんないよ。隣が真生だからまだ我慢できるってのに」と蒼介が唇を軽くとがらせる。
「そうだな。僕も隣が蒼介だから安心できるよ。よろしくね」
「俺たちの仲でそんなこと言わなくったって大丈夫」
蒼介は、歯並びのいい口元が映える、爽やかな笑顔を見せた。
ワイルドの権化といえる恐田と爽やかな甘いマスクの蒼介は、両極端ではあるが二人とも女子からの人気は高かった。
目つきが鋭く、長身で圧の強い恐田は、皆から怖がられているようで、実は違う。男子は本当に怖がっている方が多いけど、女子は憧れている子も多い。近寄りがたいので、話しかけたりはできないが、男らしい体格と切れ長でやや三白眼の美丈夫といいたくなる姿を隠し撮りするファンも多い。
蒼介は分かりやすいモテキャラだ。誰にでも友好的で優しい。笑顔がステキでサッカー部のキャプテン。ベタな少女漫画のヒーローが現実に抜け出てきたかのようだ。
そんな二人に挟まれていると、僕って何?とやや哲学的な思いにとらわれそうになる。存在感のない、いてもいなくても変わらない存在……。暗い思いにとらわれそうになったので、真生はそれ以上考えるのをやめる。
そもそも何で懐かれたんだろう。
真生が不思議に思っていると、蒼介が「真生、本当に思い当たらないの?」と呆れたような顔をしている。
「だって僕、そんなに恐田君と親しく話したこともないし。強いて言えば前回も席が隣だったってだけだし」
「その隣になってすぐ、あいつ教科書忘れたことあったじゃん。覚えてる?」
それなら覚えている。真生が珍しく遅刻ギリギリに登校した日だ。
「焦ったよ。まさか腕時計も家の時計も壊れていて止まっているなんて思わなかったもん。一番後ろの席だったから出席とる前にすべりこめたけどさ。今回の席じゃ無理だね」
「スマホ見ろ。時報がわりにテレビもつけとけ。あの時は回りみんなびびってんのが、本人にも伝わっちゃったみたいで、あいつ教科書無しで授業受けようとしてたんだよ」
「え?そうだったの?」
知らなかった。音がしないよう教室の戸を開き、身をかがめてこそこそ進んで自分の席にたどりついた時にはホッとした。一限目の現国の教科書を出したら、隣の机にノートとペンケースしかないことに気づいた。
「教科書は?もし忘れたのなら見る?」と声をかけたのは、真生が恐田にびびってなかったのではなく、うつむいてずっと進んできたので顔を上げて確認していなかっただけ、隣が誰かということを忘れていたのだ。
「……ありがとよ」という低い声を聞いて、昨日、暫定で座っていた50音順から席替えをして、隣になったのは恐田だったというのを、真生はやっと思い出した。
「じゃ、じゃあ見えやすい位置に動くね」
自分から声がけしておいて、怯えているのがバレたりしたらキレられるかもしれない。
そんな恐れを抱きながら、机をしっかりくっつけて、一冊の教科書を二人で見るのは緊張した。なんか粗相があったら怒られそう。「手が邪魔で見えない」とか「めくるスピードが速すぎる」なんて言われたらどうしようかと細心の注意をはらって接していた。
しかし何も文句を言われることもなく、最後は「……助かったよ。サンキュー」と言われて「なんだ。思ったより怖くないじゃん」と安心したんだけど。
「あいつのこと怖がらないやつ少ないからな。それで気に入られたんだろう。その次もある」
いや、怖がってます。思ったより怖くなかったって印象変えただけ。
例えていえば、毒持ちのハブかと思っていたら、大きいから驚くけど毒はないアオダイショウだったから少し安心。でも蛇は結局苦手だし、目にしたらビビるよなあ、みたいな。
あれ?その次って、僕何かしたっけ。
「体育の授業の後、沢島が「財布がない!」って騒ぎ出した時あっただろう。ちょうど恐田が理由は知らないけど、一人で先に教室に戻るって言って、体育館から出ていったんだよな。だから「あいつが盗ったんじゃないか」って疑われて。はっきり言えば、あいつだって自分じゃないって言えただろうに、陰でこそこそ言うから反論もできなかったんだよな。そしたら真生があいつらに言っただろう」
「ああ、言ったよ?恐田君なら教室に戻らなかったから、きっと違うよって。だって僕見たもん。恐田君がずぶ濡れの子犬を抱えて校門から出て行くとこ。あれ、校舎の裏にある池に落ちちゃった子犬を助けたんだよねえ。きっと」
あの池、上にかぶせた網がずれていたから危ないとは思っていたんだけど、子犬が迷いこんでくるとは思わなかったよ、と続ける真生に「いや。そこいいから」と蒼介からストップがかかった。
「あいつが校門から出てったなんて分かんなかった。よく真生は気づいたよな」
「ほら、僕、視力がすっごくいいから。健康診断でずっと2.0だから。それ以上測れないないのが悔しいくらいだよ。あれ?教室の方行かないなーと思ってたら、校舎を出て行く姿が見えたんだよ」
「そうだったな。ああ、だからその後、落っこちてゴミ箱の陰に隠れていた財布に気づいたんだってことか」
僕が「なんかあそこに隠れてるの、あれもしかして沢島君の財布?」と聞いたら、大当たりだったようだ。なんでこんなところに、だの恐田じゃないってことじゃんとか、こそこそ話している声が聞こえた。噂していた数人が「お前が言い出したんだろう」と責任を押しつけあっているのが真生の耳にも届いた。
そこへ恐田が帰ってきたので「あ、沢島君の財布見つかったんだって。良かったねえ」と真生はほぼ何も考えずに、事実だけを伝える気分で声をかけた。
恐田の目が沢島の方に動いた。
「ひっ」という小さい悲鳴が沢島の口から漏れた。しかしみんなの緊張の中、恐田は一言口にしただけだった。
「見つかって良かったな」
みんなの緊張がほどける中「そういえば恐田君、子犬どうしたの?どこの子だった?」と聞くと、顔色を変えた恐田は、すごい勢いで真生の手を引っ張って教室から連れ出した。
やばい。なんか怒らせたのかも。前より怖さのハードルが下がったし、犬のことが気になったから、ついつい馴れ馴れしく話しかけちゃったから怒った?
「お前みたいな雑魚キャラが、俺様に気安く口をきくな」みたいな?抵抗しようにも体格差がありすぎて、真生は恐田に引きずられるままだった。
「え?仲居が拉致された?」とクラス中が騒ぐ中、渡り廊下まで真生を連れてきた恐田は、顔を赤くして「あんまりそういうこと言わないでくれ。子犬と俺なんて、似合わない組み合わせだろう」と恥ずかしそうだ。
「別に僕はそう思わないけど。だってなんだか恐田君は犬っぽい感じする」
「俺が?」
あれ、またなんかやばいこと言ったのかな。でも恐田の表情は別に気を悪くしているようには見えない。真生が恐る恐る頷くと、犬かあとつぶやいている。
なんか大丈夫っぽいな。安心した真生は気になっていたことを口にした。
「そういえばあの子犬、どうなったの?どこの子か分かったの?」
「ああ、学校の裏の家に住んでいる家で、新しく飼い始めた子犬だったよ。ドアを開けた拍子に飛び出して、行方不明になっていたみたいだ。探しにきていた家の人とちょうど出会えたから、そのまま渡してきた」
「そうだったんだ!良かったね。子犬がちゃんと家に戻れて」
「お前、犬が好きなのか?」
「え?」
「いや、なんかすごく嬉しそうだから、犬がよっぽど好きなのかなと思って」
「そうだね。犬好きだよ。今も家で飼ってる。おっきくてモフモフしてるのが、好きみたいなんだ」
「そっそうか。犬好き……おっきくてモフモフ好きなのか」
「どうしたの?顔赤いよ?あ、もしかしてぬれたから、風邪引いちゃったんじゃない?保健室一緒に行こうか」
「いや、大丈夫。一時的なもんだから、落ち着けば大丈夫」
そう言いながらも、恐田の顔の赤みはなかなか引かない。真生は「やっぱり保険室行った方がいいよ」と何度も勧める状態となった。
うーん。指摘されて、思い出してみたけど、特に懐かれる要素はないんじゃないかなあ。教科書見せるのも、間違った噂って分かっているなら訂正するのも、クラスメイトとして普通のことじゃないか?
「だから、みんな恐田のことを普通のクラスメイトと扱うやつがいなかったんだって。真生だけだったんだよ。あいつのこと腫れ物扱いしないやつ」
「そうなの?でも蒼介こそそういうタイプじゃない?じゃない?誰に対しても態度を変えないだろう?」
蒼介が特定の人を怖がったり、避けたりすることは想像しにくい。今までだって、クラスの中で浮いた存在になりやすい子や、仲間に入れない子も蒼介とだけは仲良くしたがった。特別優しくする訳でも、面倒を見る訳でもない。他の友人と同じように話しかけて、困っているように見える時だけ「何か手伝う?」と絶妙のタイミングと軽さで助けてくれる。恩着せがましさや妙な使命感を感じない。
「そりゃ俺の場合、その他大勢には興味がないから優しくできるし、いい人の顔も見せられる。でも恐田は違うけどな」
「なんで?」
「真生に懐いてくるから。俺たちの長いつき合いに割り込むやつは、気に食わない。あの時だって急に教室から連れ出したりするから、俺はすごく心配したんだ」
「何だよ。それ。変なヤキモチ焼かないでよ。それに探しに来てくれた時に、拉致されたわけじゃないから大丈夫って説明したでしょ」
「俺にとってその他大勢じゃない友達は真生だけだし。ヤキモチくらい焼いたってあったりまえじゃん」
涼しい顔をしている。聞きようによっちゃ、かなり恥ずかしいセリフだよねえ。
でも自分は蒼介のことをよく知っている。意味を間違えるようなミスは犯さない。
「僕も蒼介以上に親しい友達は、そんな出会えないと思っているけどなあ。だからヤキモチ必要ないよ」
「少し安心した。でもヤキモチは焼くぞ」
なんだそれ。と思わず笑ってしまった。
真生と蒼介は家も近く、学校もずっと一緒で幼馴染みという間柄だ。
仲良しの友達という認識はあったが、他の友達とは違う、一番の友達という認識が真生に生まれたのは、小学校3年生のアンケートがきっかけだった。
担任の教師が紙を回して「真ん中にある線の上に同じ班になりたい人の名前、下に同じ班になりたくない人の名前を書いてね。先生だけが見るから、本当のことを書いて大丈夫よ」と言ってきた。今から考えると、担任教師が教室内の人間関係を把握する為の調査だったんだなと分かるが、当時はそんなことは知るよしもない。
もうすぐ班替えがあるから、その準備なのかな。希望をきいてくれるのかな。
真生は同じ班になりたい人の一番はじめに蒼介の名前を書いた。他にはいつも一緒に遊んでいる5~6人の名前を挙げた。なりたくない人のところには、誰の名前も書かなかった。特に嫌いな子はクラスにいなかったから書く必要はなかったのだ。
その3日後に班替えが行われたけど、蒼介とは一緒になれなかった。他の子たちとも違う班だったから、あれって何だったんだろうなあと思いながらも半分忘れかけていた。
班は違ってもいつも一緒に帰っていた蒼介が「悪い。トイレに行ってくるからちょっと待ってて」というので、教室で真生一人になった時だった。
気が強くて、蒼介のことが好きらしいと噂されている女子が、真生の近くにきていかにも内緒話といった風に「ねえ、知ってる?」と耳打ちしてきた。
他に誰もいない教室の中で、なんで耳打ちなんかしてくるんだろう。少し後ずさると「この間のアンケート、仲矢君と一緒の班になりたいって人は乙背君だけだったんだって。まあ一緒の班になりたくないって人の方にも名前はなかったからさ。とにかくすごく印象薄いよね。空気みたい。いるかいないか分かんないくらいの存在だよね。乙背君も幼馴染みの義理で書いてくれたんじゃない?優しいもんね」
楽しそうに、笑っている。そうすることで、こちらの反応を見ている。
そうか。いつも一緒に遊んでいる子たちのことを、自分は仲間だとおもっていたけど、向こうからはそう思われていなかったのか。真生は少し寂しい気持ちになった。でもそれならそれではしょうがない。蒼介が上の段に僕の名前を書いてくれたならそれでいいや。
どうせ自分は存在感ないし、誰からも期待されないし。
「何ぼんやりしてんの」
苛立った声が響いて、真生の体がビクッと反応した。
「腹立てたらどうなの。でなきゃ悲しいって顔したらどう」
「あ、同じ班になりたくない女子ナンバーワンの水瀬さんだ」
いつの間に教室に戻ったのか、蒼介がいつもの爽やかな笑顔のまま言い放つ。
「なっ何をいうの」
「僕も見ちゃった。アンケート用紙。先生自分の机の上に、いろんな書類重ねておくから駄目だよね。見る気なかったのに、日直の日誌提出に行った時、書類が崩れてきちゃってさあ。片付けるしかないから目に入っちゃったよ。すごいよね。水瀬さん。ほとんどの女子から一緒の班になりたくない人に名前を書かれてるんだもん。存在感半端ないよね」
ずっと笑顔で話し続ける蒼介を、真生は口を開けて眺めていた。いつも礼儀正しく、間違っても女子にこんな失礼なことをいう蒼介は見たことがなかったからだ。
顔を真っ赤にした女子は「何よ!私もう帰る!」と足早に教室を去って行った。
「バイバーイ。お気をつけてー」
蒼介は笑顔で手をふると「さて」と真生の方を向いた。
「僕が一緒の班になりたい人は、もちろん真生の名前書いたよ」
「あ、うん。聞いたよ。水瀬さんが言ってた」
「僕が一緒の班になりたい人は一人だけで、太字で花丸つけて出したってことは聞いた?」
顔をのぞきこむようにして聞かれる。
「そうなの?そんなことまで聞いてないよ」
「なーんだ。水瀬さんにバラされちゃったかと思ったんだけど。自分でバラしちゃった。へへ。恥ずかしー」
蒼介はいたずらっ子のような笑顔を浮かべると「帰ろうか」とランドセルをしょった。
この時点で、水瀬さんが言っていたことなんてどうでもよくなってしまった。
「うん。帰ろう」
「今日の晩ご飯なんだろうなあ」
「うちカレー。今朝お母さんが用意してた」
「いいなあ。うちもカレーがいい!」
友達は蒼介がいればいいや。真生はそう思った。
その日の朝、真生は一番のりで朝の教室に足を踏み入れた。
蒼介のサッカー部の朝練の開始時間に合わせて登校しているけど、さすがに始業一時間前は早い。その分、早寝しているから、予習復習にあてる時間ができてちょうどいいけど。みんなと同じ時間に登校すると、電車が思い切り混んでいる。
満員電車は嫌だな。乗りたくない。
真生は中学生の時、満員電車で痴漢にあったことがある。蒼介が一緒だったので、涙目で訴えかけたところ、迷わず「降りまーす。。通してくださーい」と声を張り上げてくれたので、身動きがとれずと悩んでいたところから解放されて、次の駅で降りることができた。
真生は自分が童顔で背も小さいから、女子に間違えられたんだと信じていた。でも蒼介に「男って分かってて、というか男だから痴漢するってやつもいるから、ほんと気をつけて」と真顔で忠告された。「やられたら大声あげろ」とも。
でも男が痴漢されてるのって声をあげにくい。いや、女子だって怖いだろうし、声なんかあげられない状態になっちゃうと思うけど「男のくせに」「間違いじゃない?」って自分が非難されそうで怖かった。それに男なのに痴漢に狙われる。すなわち抵抗できない弱い存在と見なされていることを公表するのは、真生にとっては耐えがたいものがある。
それからは自衛の意味もこめて、混んだ電車、特に一人で乗る状況はできるだけ避けている。
ではまず数学の予習から。真生が教科書を開くと、教室の前側の扉が大きな音を立てて開いた。入ってきた人物を見て、思わずビクッとしたが、アオダイショウなら大丈夫。毒はないんだからと自分に言い聞かせる。それに最近はなんだか大型犬っぽくも感じているし。
「恐田君、早いね。おはよう」
「はよ……」
恐田はうつむきがちのまま隣の席につく。
「朝練でも日直でもないよね。なんでこんな早いの?」
「あー……ちょっとな。忘れ物したから早く来ようか思って。仲矢こそ早いな」
顔を合わせようとしない、不自然な姿勢のまま恐田は鞄を開こうとした。
その途端、手がすべったようで、鞄の中身が全て流れ出してくる。
「わあ!」
予想外の出来事に、顔を上げている。その顔を真生はしっかり見てしまった。
大きな傷がある。やはりこれは喧嘩でついた傷なんだろうか。でも痛そうだよなあ。
そう思ったらスッと手が出てしまった。
恐田の長めの前髪をかきわけ「痛そうだな」と顔をしかめてしまう。
恐田は真っ赤な顔で肩をふるわせている。
「えっ?熱もあるの?大丈夫?」
おでこに手をあてようとすると、イナバウアーのようにのけぞり、座ったままなのに器用にも椅子ごと後ずさった。
「だっ大丈夫だから!熱はないから!」
「そうか?それならいいけど。恐田君は体柔らかいんだね。身体能力が高いのかな?だから喧嘩も強いの?」
「体が柔らかいのは、昔バレエをやっていたからだし、喧嘩なんか姉ちゃんとの口喧嘩くらいしか、ここ数年したことないから」
「バレー……えっバレエ?踊る方?」
悪戯をした犬が怒られているような、しおらしさと哀れさがいりまじった表情で「そう。姉ちゃんがバレエやってたんだけど、その教室は男子がいなくて。発表会で王子役がいないからやりなさいって、小学校5年生から中学生まで、無理矢理一緒に通わされていた。俺、昔から身長高かったから、ちょうどいいって勝手に決められて」と説明してくれた。
いいなー。ちっちゃい頃から大きかったんだなー。うらやましいや。
「やだって抵抗したんだけど、姉ちゃんに腕相撲で負けてやらされるはめになった。学校では内緒にしてたんだけど、発表会を見に来た家族の中に同級生の男子がいたんだ。人をすぐイジるタイプのお銚子ものが。そいつにバレてタイツ姿の写真をクラス中に回された」
それはきつかったろうなあ。バレエの王子役が、本当は力強さと跳躍力で男らしさの塊だなんてことは大人にならないと分からない。小学生男子にとっては単なるからかいの対象となる「もっこりタイツ男」だ。
まあバレエの王子役の魅力は、今年30歳になる従姉妹のさえねえの受け売りで、僕はまだそこまで良さは分かってないんだけど。
でも今の恐田君の引き締まった長身、足長のプロポーションなら、体にぴったりしたタイツ姿でも、笑いの対象ではなく憧れのまとになるだろうなあ。
「今でもやってるの?」
「いや、やってない。姉ちゃんが高校受験を機にバレエを辞めたから、俺も中二までで終了させてもらえた」
「そうか。残念だなあ。恐田君の王子姿見たかったのに」
「え?」
怪訝そうな表情をしている。
「あ、もしかして勘違いしてる?タイツ姿を笑おうなんてつもりじゃないよ。単純にかっこいいだろうなあって思っただけ」
「ええ?」
さっきより顔が赤くなっている。いつも鋭い目差しなのに、なんだか潤んでいる。
「やっぱり熱あるよ!そんな赤い顔してるじゃない」
「違う!大丈夫だから!」
おでこに手をあてて、僕の手が触れるのを阻止しようとする。しょうがないなあ。
「ん?」
恐田君の鼻の上まで思い切りマフラーを巻きつけると、不思議そうな顔をされた。
「熱があるなら暖かくしないと駄目だよ。僕のマフラー貸すから、使うといいよ」
「あ、ありがと……」
マフラーのせいで、いつもよりくぐもった声を聞くと、思わず微笑んでしまった。
「でもなんでマフラー持ってるんだ?今、9月でそんな季節じゃないよな」
「僕、小さい頃喘息持ちで体が弱かったから。母さんが心配症で、マフラーも腹巻きもいつも持たされてるんだよ。良かったら腹巻きも使う?」
「いや、遠慮しとく」
マフラーをぐるぐ巻きつけた恐田は、目だけ目立つ格好だ。その目が伏し目がちになると、まつげが影を落とすほど長いことに真生は気づいた。
知れば知るほど、恐田君って不良とか喧嘩っ早いっていうイメージが消えて、手のかかるおっきな毛並みのいい犬にだんだん近づいていくよなあ。
真生はそんな感想を抱きながら恐田をじっと見ていた。
「……何?」恐田は苦しくなったのか、マフラーを少し引き下げた。鼻から頬にかけて走る数カ所の赤い線がよく目立つ。
この傷跡、なんだか見覚えがある。この傷ってひっかき傷だよなあ。この間おばあちゃんの家に行った時に、日向ぼっこしていたミケを無理矢理抱こうとしてつけられた傷によく似てる。ってことは。
「もしかしてその鼻から頬にかけての傷、猫に引っかかれた傷?」
「あ?そうだ。よく分かったな。ここ一週間で何カ所も引っかかれたけど、今日のが一番派手だった」
そういえば最近恐田はよく顔や手に傷跡をつけて登校してきていた。学校のみんなからは、綺麗な年上のお姉様との痴話喧嘩でつけられた傷だの、殴ろうとした相手がとっさに反撃したときのひっかき傷だの噂されていた。
まさか、定番の不良が雨の中、子猫を拾うシュチュエーションで、引っかかれたとかいうんじゃないよね?
「拾った猫に引っかかれたの?」
「いや、拾ってきたのは姉ちゃん。俺は世話を押しつけられただけ。爪切りをすごく嫌がって抵抗するんだ。その時つけられた傷」
餌もブラッシングもトイレ掃除も全部俺がやっているんだけどなあ。ちっとも懐かないとぼやく姿を見ていたら、笑いそうになってしまった。犬だからなあ。猫とは相性悪いのかもね。
「ちゅーるあげたら懐くんじゃない?あれ猫は大好きだよ」
「じゃあ試してみようかな」
穏やかに微笑む姿は、やはり気のいい大型犬といった雰囲気だ。思わず撫でたくなってしまう。
「え?」
恐田のびっくりした顔を見て、真生は思っただけではなくて、実際に手を伸ばして長めの黒髪を撫でてしまっていることに、自分で驚いた。
「あ、ごめん。つい、いい毛並みだなあと思っちゃって」
僕、何言ってるんだろう。意味不明だ。
「……最近姉ちゃんが家のシャンプーとコンディショナーを今までより高級品にかえたから、そのせいかな」
二人して顔を赤くして、かみ合っているんだかいないんだかよく分からない会話をかわす。そしてこの手をいつ離したらいいんだかタイミングがつかめなやと悩みながら、真生は高級シャンプーとコンディショナーの効果の手触りを楽しんでいた。
帰宅すると、いつものように母さんが玄関でいつもの言葉で出迎えてくれる。
「真生。大丈夫?学校で苦しくなるようなことはなかった?」
「大丈夫だよ。母さん。子どもの頃と違って、僕ももうだいぶ丈夫になったんだからさ。そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「そうね。分かってはいるんだけど、どうしても心配で。無理はしちゃ駄目よ。苦しくなったらすぐ先生にいうのよ。体育だって見学してね。母さん学校にお医者さんの診断書はちゃんと提出してあるんだから、ずるだなんて言われないわよ」
「うん。分かってる。無理はしないよ」
階段を昇り、2階の自分の部屋に入る。
南向きの広い方の部屋。本当はこっちが兄さんの部屋になるはずだったんだけど、喘息持ちで学校も休みがちだった僕に「せめて部屋くらい日当たりのいい快適なものにしてあげたい」って両親の希望で入れ替わってしまった。
兄さんは「俺は外にいる方が多いし、ベッドがあれば問題なしだからかまわないよ」と快く応じてくれたけど。
いつもそうだった。
兄の繋(つなぐ)が漢字テストで一番を取ると「わあすごい。次は算数と理科ね」と言われ、短距離で一位をとると「マラソンでアンカーにもなれるかしら」と望まれる。常に上を見ろ、次の課題があるぞ、といわれ続けている。つまりそれは兄さんは期待されているからだ。次の高みに届くことができると信じてもらっているからだ。そして期待通り成果をあげる。
真生はと言えば、一学期の間、なんとか休まず学校に行けただけで「よく頑張ったわね。えらいわ」と抱きしめられて褒められた。運動会は全員参加のラジオ体操に参加しただけで「運動会での活躍、ビデオに撮ったからね」と微笑まれた。
目立たなくていい。活躍しなくていい。とにかく無事でいるだけでいい。生きて存在してくれたらそれでいい。父と母の真生に対する思いが伝わってくる。
何も期待されない。何も望まれない。存在感の薄い、小学生の時に水瀬に指摘されたような存在。彼女の言葉にそんなにショックを受けなかったのは、今まで自分の中で似たようなことを考えていたせいだったからだ。驚くことでも何でもない。自分という存在はそういうものだと真生は納得していた。
だから子どもの頃のような発作がなくなり、医者からも「様子を見ながらなら運動も大丈夫だよ」と言われても、クラブにも入らず、体育もちょっとでもハードな項目は全て見学してきた。
本当は学校のマラソン大会で完走してみたかった。体力のついてきた今ならかなえることができるんじゃないかと思えた。それで自信がつけば、他のことにも挑戦できそうな気がする。水泳だってスノボだって、試してみることができるんじゃないかと思える。
でもそのマラソンをクリアすることが踏み出せない。学校行事を眺めて、あらかじめ真生に負担が大きそうと母が判断した項目は、保護者からの見学願いを提出して過ごしてきた。真生が真面目なのは回りも承知しているので、サボりと誤解されることはなかったが、弱々しいイメージを持たれてしまうのは避けられない。自分が弱いことで他人が気を使ってくれることが、最近の真生にはひどく重圧を感じさせる。
散歩コースにしている公園近くの夜道は、人通りが少なく怖がる人もいるけれど、真生は特に怖くは感じない。愛犬のジョイが一緒だからだ。ゴールデンレトリバーのジョイは、体が大きく頼もしい相棒だ。本当は人なつっこくて、見知らぬ人にでも愛想を振りまく、番犬としてはどうなのかと危ぶまれる性格だが、見た目だけでも十分効果はある。
体が弱く学校を休みがちだった真生は、同級生と外遊びもできず、蒼介や遊び仲間たちが小学校四年生で地元のサッカーチームに参加すると、一人でいることが増えた。蒼介は「父親に無理矢理入れられた。俺は真生と遊んでいる方が楽しいのに」と文句を言っていたが、もともとの運動神経がよくコミュニケーション能力も高いので、すぐ活躍していた。
一人で本を読んだりゲームをしている真生を見て、両親が不憫に思ったのだろう。
クリスマスのプレゼントは、ゴールデンレトリバーの子犬だった。
「うわあ、可愛い」
「前から犬を飼いたいっていっていたもんな。ちゃんと面倒みることはできるよな?」
「うん!毎日散歩するし、ご飯もブラッシングも僕やるよ」
嬉しくて嬉しくてたまらない。真生は、兄の繋にも相談して喜びを意味する「ジョイ」とつけた。
元気いっぱいのジョイだったが、真生が散歩中無理しすぎないよう、調教で学んだことを活かし、歩調を合わせてくれた。その元気さを持て余さないように、父や兄も手が空いている時に、よくジョイを散歩に連れ出してくれたのだけど。
最近では散歩中、早足と軽い駆け足を組み合わせるようにしている。最初のうちはいつもと違う歩調に不思議そうだったジョイだが、4歳だからまだまだ若い。今までより体を動かせる散歩コースにすぐ満足しているようだ。
こうやって慣らしていけば、マラソンに参加できそうだな。真生は少しだけ息を荒くしながら、ジョイとの散歩を続ける。
すると急に木々の間から人影が現れた。
「わっ」
そのままぶつかり倒れそうになる。すると安定を失った体が、力強い腕にホールドされる。しかしその力強さに自由を奪われた真生は、恐怖しか感じなかった。
「離せ!」
その言葉でご主人様の危機と感じたのだろうか。誰にでも友好的なジョイが珍しくウーと唸ると、その怪しい人物の上着の裾に噛みついて真生から引き離そうとする。
「ちょっと待った。仲矢、俺だから」
見上げると恐田だった。なんでこんなところにいるんだ。
「大きなモフモフした犬ってこの子?」
恐田は自分のパーカーの裾に噛みついているジョイに目を向ける。
「あ、ああ。そう。よく覚えてるね」
「仲矢との会話なら忘れないよ?」
「あ、ああ。えーと、ありがとう。支えてくれて……そろそろ腕を離してもらっていいかな」
「あっごめん!」
恐田はすぐ腕を広げて真生を自由にした。
なんだよ。僕との会話なら忘れないってのは。なんて答えたらいいのか、分からないじゃないか。
不審人物に遭遇したと思ったせいの鼓動の早さか、別の理由によるものなのか自分でも把握できないまま、真生は顔が熱くなり、そうだ、何かしゃべらなきゃと焦ってしまう。
「恐田君、眼鏡かけてるんだね」
学校では見たことのない、恐田の黒縁眼鏡姿だった。
「ああ。俺目が悪いんだよ。だから席も前にしてもらったし。ただ姉ちゃんが俺の眼鏡姿、というかこの黒縁眼鏡をダサいっていって学校にかけて行くのを許してくんないんだ。そのせいでみんなから目つきが悪くて怖いとか言われてるし。かといってコンタクトレンズは怖いし。目になんか入れるなんて無理」
みんなから怖がられている恐田が、コンタクトレンズをおびえた表情で怖いといったことが真生にはなんだか可愛く思えてしまった。
変なの。僕よりうんと大きな同級生に、可愛いなんて感情抱くのはなんでだろう。
クスクス笑ってしまう真生を見て、恐田は愚痴をこぼす。
「笑いごとじゃないんだって。目つきのせいで怖がられだけじゃなくて、喧嘩が強いだの尾ひれがついてるんだから。名前もよくないよなあ。恐田なんて」
「あれ?喧嘩が強いってのも間違いなの?」
「前に言ったじゃん。喧嘩なんて姉ちゃんと口喧嘩くらいしかしてないって。目つきと体つきと名前のせいか、妙な噂が出回ったんだよ。だいたいうちの学校、そこそこ進学校だし。喧嘩三昧のやつなんて来ないよ」
「なるほど。たしかにそうだね」
知れば知るほど、真生には恐田が喧嘩するような人物とは思えない。
「早くみんなに恐田君のことを知ってもらえば、そんな噂消し飛んじゃうよ」
「俺さ。バレエのことみんなにバラされた時とか、ああ、他人なんて面白おかしくネタにすることしか考えてないんだなって、人間不信に陥ったんだ。高校での扱いも、それと同じだろうってあきらめてた。でも、仲矢なら分かってくれそうかも、って思って。その後、俺のこと知って欲しいって思うようになった」
「そうなんだ」
さっきよりも、なんて返事をしていいか困るような内容だと真生は落ち着かなくなった。だってこれではまるで、あなたにだけは分かって欲しいみたいな、まるで、その、愛の告白……みたいじゃないか。そんなわけないだろうけど。僕の考えすぎなんだろうけど。
「大丈夫だよ。前よりみんな恐田君におびえなくなってきてるし」
恐田は本当は優しい。席を替わってもらう時だって相手に気を遣っていたし、自分が泥棒と疑われても相手を非難するようなことはしなかった。みんなもそれはだんだん分かってきているようだ。恐田に声をかけるクラスメートが日に日に増えている。そのことに気づいた時、良かったと思うと同時に、今さらなんだというイラッとした気持ちがわいていることに気づいた。
僕の方がよく知っている。僕の方が親しいんだ。恐田を独り占めするようなことを言い出しそうな自分に驚いた。
そんな真生の様子には気づかないらしい恐田は「最寄り駅一緒なんだよな」と言った。
「そうだよね。こんなところで会うんだもん。でも中学違ったよね。僕のうちは、駅の向こう側になるから、学区が分かれているんだね」
「俺、中三の時越してきたから、こっちの中学は一年しか通っていないんだけど、あっち側に越せば良かった」
「え?」
「だってそうすれば同じ中学通えただろう」
「そっそうだね」
それってどういう意味?聞きたい。いや、僕ってば何考えているんだ。中学から友達になれたら良かったのに、ってそういう意味に決まっているだろう。
「そうすれば仲矢の幼馴染みの乙背に、つき合いの長さが少しは追いつけたのに」
だからどうして蒼介に張り合わなきゃいけないんだよ。どっちも仲良し、でいいのでは。
そう思いながらも、恐田がみんなと仲良し、自分はその中の一人と想像した時のモヤモヤした気持ちを思い出すと口にはできなかった。
「俺、コンビニ行くとこだったんだ。今日は眼鏡してたおかげで仲矢を見つけることができて良かった。ここらへん、この時間だとめったに人通らないぞ。人気のない公園は危ないから」
そこで恐田の言葉が止まった。
危ないから?心配して?でもそれって女子にならともかく、男の僕にいう言葉じゃないんじゃないかな。恐田君もそう思ったから、言葉に詰まっちゃったのかな。
ジョイは警戒すべき相手ではないと判断したようで、恐田の服の裾に噛みつくのをやめている。それでも二人に放っておかれた状態になっているので「遊んでよ」と言わんばかりに、恐田と真生の両方に尻尾を振っている。
「大丈夫だよ。ジョイがいるから」
「このワンコ、あんまり頼りにならないような気がするんだけどなあ」
恐田君に喜んで尻尾を振って、撫でて撫でてのしぐさを繰り返している姿を見ると、そう思われても無理はない。でもさっきはご主人様を守る態度も見せてくれたんだからね。
「いざって時、身を守る程度の護身術は身につけといた方がいんじゃないか。さっきの様子じゃ、いきなり捕まれたりしたら逃げることも難しそうだし。逃げる時間さえ稼いでくれれば、なんかあった時、俺が駆けつけることもできる」
「いや、そんな。駆けつけるなんて、お互い連絡先さえ知らないし」
助けに駆けつけるという発想に驚いたのだが、つい現実的な理由をあげてしまった。
「そうだよな。まず連絡先を交換しよう。そうしたらいつでも助けに行くから」
いや、何者なんですが。君は。なんかのヒーローキャラですか。おかしいでしょう。
流れに疑問を感じつつも、恐田の当然というような態度にストップをかけることができず、そのまま連絡先を交換する。
「ついでに護身術もやってみる?簡単なやつ」
そう言われると、弱い自分に悩んでいた真生は、覚えたいと思ってしまう。
大きくうなづくと「そっか。じゃあまずさっきみたいに、両手で覆いかぶされた場合と片手を強く捕まれた場合」
恐田のいう通り、体を動かすと、そんなすごい技を施した訳ではないのに、相手の体から抜け出て自由になることができる。
「すごい!こんなちょっとしたコツで逃げることができるんだね」
「ああ、でも過信しちゃいけないから。逃げる時間を稼ぐくらいしかできないから、すぐ俺を呼べ」
最後のはなんなんだよ。思わず真生が笑ってしまうと、何が嬉しかったのか、笑顔になった恐田が「こういうのって、とっさに出てくるまで練習しないと駄目なんだよ。ここが散歩コースなら、俺不審者役で練習手伝うよ」と申し出た。
「いや、そんな悪いよ」と真生が断ると、恐田は両手で思い切り抱きしめてきた。
「恐田君?」
びっくりして動けずにいると「な?とっさの時に動けるようになるのって、経験重ねないと駄目なんだよ。中途半端に教えて、仲矢が危ない目にあったら、俺が嫌だから手伝わせて?」
抱きしめられたまま、そんなことを言われると「分かった。分かったから早く離れて!」と顔が熱いまま叫ぶしかなかった。
最近、恐田君の顔の引っ掻き傷が増えているような気がするんだけど。
授業中、意外にも真面目にノートをとり集中している恐田の横顔を盗み見しつつ、真生は猫とまだ仲良くなれてないのかなと考えていた。
その夜の散歩の時、待ち合わせていた恐田に会った時その疑問をぶつけてみた。
「なんかなあ。この散歩から帰ってきた後に、俺の匂いをクンクン嗅いで、険しい顔して「ミャッ」ってひと声鳴くと、俺の顔を引っ掻いていくんだよ。なんでそんなに懐いてくれないのか不思議だよ。ちゅーるは喜んで食べるんだけどなあ」
「それはヤキモチじゃないの?恐田君からジョイの匂いがするから嫌なんだよ。きっと。」
「えっそうかな。ヤキモチ……。そうなのかな。へへ、あいつけっこう可愛いとこあるじゃん」
デレた顔をしながらも、ジョイを両手でわしわし撫でている。帰ったらきっと今日も引っかかれるんだろうな。
「かなり上達したよな。護身術」
「うん。毎晩相手してくれるから、そのおかげだよ。ありがとう」
「仲矢は自分で思っているより、運動神経も反射神経も悪くないと思うよ。苦手だって思い込んでバイアスかかってるだけなんじゃないかな」
そうかな。みんなが無理するなってずっというから自分はできないって思い続けていたんだけど、恐田が真顔で気負うことなく真生に向ける言葉は、本当にそうじゃないかなと受け止めることができる。そしてそれは真生がそうありたいと思っている方へ近づく姿なので、少し先を明るい光で照らしてもらったような気分になる。
「だから来月のマラソン大会、参加して大丈夫だよ。俺もサポートするし」
真生はひどく取り乱してしまった。自分はそんなことを口にしていただろうか。体育もまだ見学することが多い身で、初のマラソン行事に参加しようという目標をどこで見抜かれてしまったのだろうか。
「だって散歩で体力つけているみたいだったし、学校でも昼休みにマラソンに関する本よく読んでたから、そう思ったんだけど」
分からないようにちゃんとカバーかけてたのに。蒼介に見つかると「マラソンなんて無理だ」と心配して止められる。だから蒼介がいない時に読んでいたんだけど、恐田君に気づかれていたとは思わなかったな。
「今までずっと体が弱いから、回りに心配かけるからっていろんなことあきらめていたんだけど、小さい頃と違ってもうずいぶん健康になってるって自分では思ってるんだ。マラソン完走できれば、その証明になって、親にも心配かけることなく新しいことに挑戦できるようになるんじゃないかって考えているんだ」
「できるよ」
恐田君が優しいまなざしと声で答えてくれる。なんでこんな表情をする彼を、僕は怖いなんて思ったりしたんだろう。昔の自分が信じられない。いつの間にこんなに恐田君を近くに感じるようになったんだろう。そう思ったら、すごく恥ずかしくなってしまい、ごまかす為に恐田君の右手首を強くつかんだ。
「えっ?」
「駄目だよ。恐田君。急な不審者の行動に対応できなきゃ、僕の師匠として恥ずかしいでしょ」
「じゃあ、こっちも」
左手首を差し出してくる。なんだろう。両方掴んでも護身術使えますのアピールでもするのかな。
真生は言われるまま、恐田の両手首を掴んだ。しかし恐田はまったく抵抗せず、真生に両手首を握らせたままだ。
「ちょっとなんだよ。これ。意味ないじゃん」
「あ、ごめん。ちょっと油断してしまって。手首じゃなくて、両腕を俺の体に回してホールドしてくれる?そっちの方がデモンストレ―ション見せやすいから」
「こう?」
両腕を恐田のグレーのパーカーの上から回す。
「それじゃ弱いな。もっと力こめてくれないと、やる気が起きない」
何言ってんだよ。思い切りぎゅうっと抱きしめると、体温も心臓の鼓動も伝わってきて、真生を動揺させた。いつもより鼓動が早い。でもあまりに密着しているから、この早い鼓動が自分のものなのか、恐田のものなのか、もはや分からない。
「……あったかい」
恐田が幸せそうに一言つぶやく。
「ちょっと!僕カイロじゃないんだから。真面目にやってよ」
怒りながらも、真生は回した両腕をほどく気にはならなかった。
「……好きだ。仲矢のことがすごく好きだ」
そのまま耳元で囁かれる。少し苦しそうな、でも耳に心地よい恐田の低めの声。急に真面目にこんなこと言ってくるなんて。真生は全身が心臓になったように感じる。
どういう意味の好きかなんて、確認しなくてもダイレクトに伝わってくる。
足下の枯れ木が折れる音がした。ガサッと音がして人影が現れ強い力で真生の左手首を掴み、恐田から引き離して自分の法へ引き寄せた。
今度こそ本物の変質者か?
恐田に教わって何度も練習した護身術を実践すると、相手の手が外れた。自由になった体で恐田にしがみつく。
さっきまで真生の手首を掴んでいた不審者は、バランスを崩して道にへたりこんでいる。
「すごい!練習の成果だ」
恐田は真生を抱きしめたまま「顔をあげろよ」と道路に手をついた人物に怒りをこめた声を向ける。
その不審者の姿をよく見て、真生は驚いた。
「え?ちょっと待って。まさか蒼介?蒼介なの?」
「え?乙背なの?これ」
「これとは何だ!」
恐田に向かって怒鳴る姿は確かに蒼介だ。
なぜこんなところに。
「ずっと慎重に見守ってきたのに」
蒼介がすごい形相で恐田を睨んでいる。こんな迫力のある蒼介の顔を、真生は始めて見た。
「親友の位置を誰にも奪われないように、一番真生に近くて守れる存在であるように頑張ってきたのに」
「僕は平凡を絵に描いたような人間だよ?みんなから憧れられるような蒼介と仲良くなれたのは、なんてラッキーなんだと思ってるくらいだ。蒼介が頑張ることはないじゃない?」
「あるよ!」
蒼介が怒鳴った。怒鳴られたのも初めてだ。
「小学校3年生の班替えのアンケート覚えているだろう?俺一人が真生の名前をあげたなんて嘘だ。真生が書いた仲良くしているやつらはもちろん、クラスの男子ほとんどと女子過半数以上が真生の名前を書いていたんだ」
あれ?じゃあなんで水瀬さんはあんなこと言ったんだ?単に僕に嫌がらせをしたかったのかな?
「……水瀬さんが見たのは、俺が書き換えをした後のアンケートだ。俺のことを好きだったあの子は、いつも俺と一緒にいる真生のことを目障りだと思っていたんだ。俺が誰と一緒の班になりたいと考えているか知りたがっていたから、あの子の性格なら絶対アンケートを盗み見すると思ったんだ。だからその前に細工した。そうすればきっとあの子は真生が俺以外から一緒の班になりたいといってもらえなかったって伝えるだろうし、そうすれば俺の存在が真生にとって大事なものになるチャンスだと思ったんだ」
「お前、ひどいな」恐田君が口を開いた。
「そんなことして仲矢がかわいそうじゃないか。嫌な思いをさせて親友も何もあるか」
蒼介が再び恐田君を睨んだ。こうやって見ると、知り合ったばかりの頃の恐田君の眼力の鋭さに匹敵するぐらいの迫力だ。
「そんな傷、俺がフォローする。それぐらいの自信はあったからやったんだ。それに俺はずっと親友でいたかったわけじゃない。俺は、俺は……ずっと前から本気で真生のことが好きなんだ」
聞いてるこちらまで切なくなってくるような声を絞り出してくる蒼介に「そんなの。今さらずるいだろう!俺が出てきたからあわてて告白してきたなんて」と恐田がクレームをつけた。
「お前が出てきたからじゃない!」
二人が白熱する中、思わず聞いてしまった。
「え?じゃあ中三の時の好きだって行ってきたのは、そういう意味だったの?」
「……そうだよ」
ふてくされたような顔で蒼介がそっぽを向く。
「え?だってだって、好きだっていうからびっくりして男同士なのに?って聞いたら、軽く笑って友達としてに決まってるじゃんっていったじゃん。その上一週間後には、告ってきた後輩とつきあうことにしたって報告してきたじゃん。だから僕、あれはやっぱり冗談だったんだって信じていたのに……」
「そう言わなきゃお前逃げちゃいそうだったじゃんか!」
男に痴漢されて嫌な思いしたことがある真生に、怖がられたくなかったんだよ。友達でさえなくなったらと思うと、冗談でごまかすしかないと日和っちゃったんだよ。うつむいてつぶやく。
「たしかに。仲矢は素直でいいやつだけど、そっち方面は嫌になるほどニブいもんなあ」
恐田君が共感する。
「ちょっと待ってよ!なんで二人して僕が鈍くてとんでもないやつだみたいな結論に達しているの?反発しあってたくせに、どうしてそこだけ気が合うの?」
僕が叫ぶと、二人は顔を見合わせてからため息をついた」
「あのさあ。真生。今俺たち二人が何で反発しあってるのか分かる?」
「え?気が合わないから……?」
もう一度二人は大きくため息をつく。
「乙背の中途半端な告白はおいといて、俺は仲矢に好きだってはっきり伝えてるよな?今の俺たちの関係分かる?いわゆる三角関係になってるんだよ」
「俺の告白を勝手にどっかにやるな!三角関係じゃないだろう!俺と真生が築き上げてきた関係にお前が無理矢理乗り込んできただけだろう」
先ほどの共感力はどこかにいってしまい、また二人はもめだした。
三角関係?そんなのドラマでしか聞いたことがない。しかも僕が間にはさまる立場だなんて。生きてるだけで存在感のない僕に、そんな大役はつとまらないから勘弁して、と真生は叫びたくなってしまった。
三角関係らしきものは解決しないまま、マラソン大会を迎えることになった。
マラソン大会当日に真生の参加を知った蒼介は、予想通り大反対した。
「どういうつもり?いつもこういった行事は休んでるじゃん。おばさんからも今年も休むから手紙を書いて渡すよう伝えたって聞いてるよ?」
今からでも間に合うから、体調不良により不参加にするって、担任と実行委員に伝えてくるべきと叫ぶ蒼介の口を手で押さえる。
「大丈夫。病院の先生にも相談した。無理はしないと約束してる。苦しくなったら途中で棄権するから」
真生がこれだけきっぱり蒼介の言葉を否定することは今までなかった。ショックを受けたらしい蒼介は、黙ったままだ。
「大丈夫だよ。俺が伴走するし。ちゃんと見守ってるから」
恐田が、また火に油を注ぐようなことを口にする。ため息をつくしかない真生の思いをよそに、酸素スプレーやタオル、ペットボトルの水、スマホ、バナナまで抱えて任せろといわんばかりの表情だ。それ全部もってマラソンに参加するつもりなんだろうか。
「何言ってるんだ。真生が参加するなら伴走するのは俺だ」
「それは断る」真生が口をはさむ。
「ほら、やっぱりもともと俺が伴走するって決めてたんだし。準備も万端だし」
「二人ともやめて欲しい。伴走は断る。自分のペースで走って欲しい。だいたい二人とも上位狙えるだろ?真面目に走ってよ」
だって心配だからとなおも食い下がる二人に「約束守らなかったら絶交する」と宣言する。
「絶交って……」
「小学生じゃないんだし」
反論する二人に「本気だから」とだけいうと、真生の本気度が伝わったようだ。
恐田は用意した品々を実行委員に「悪い。ゴールに持っていってもらえるか」と渡し、蒼介は黙って自分のゼッケンをつけはじめた。
「一位も真生も俺のもんだから」
恐田の宣言に、蒼介がこめかみに筋を走らせている。
「バカ野郎。どっちも俺のもんだ。俺が一位をとったら、潔く真生をあきらめるんだな」
「やだ。マラソンで負けても仲矢が好きなことは負けないから」
「ハア?だったら勝負挑んでくんな!」
二人の声が聞こえない位置にいる女子たちは
「二人で優勝争いするのかな」
「どっちも応援したーい」
と、うっとりと二人を見つめてざわめいていた。
真生は息を深呼吸を繰り返す。二人には大きな口をたたいたけれど、本当は誰より自分が一番不安だ。できるだろうか、と弱気な気持ちがつい出てきそうになる。途中でぶざまに倒れて、みんなに迷惑をかけるんじゃないかと想像すると怖くなる。でも今日挑戦しなかったら。きっといつまでも自分は変わらないままだろう。早く走ろうなんて思わなくていい。歩いてもいい。とにかく完走することを第一目標にしよう。
そう考えたら、真生の心は少し軽くなってきた。
落ち着いた気持ちで回りを見ると、恐田と目が合った。口が動いている。
「できるよ」
真生はうなづいた。
そうだよ。その言葉が欲しかったんだよ。
「大丈夫だ!そのまま続けろ。走れなくなったら歩け。俺が隣についている。いざとなったらおぶってソレダ総合病院の特別室にかつぎこんでやる!何も心配しなくていい」
横にぴったり恐田が伴走している。
「あれ?うんと前を走ってたんじゃ……」
無理にしゃべったせいか、思わず咳こんでしまう。
「しゃべるな。走ることだけに専念しろ。お前が聞きたそうなことは、こっちが勝手にしゃべる!」
そういってくれるなら、とこくこくうなづいて無理にしゃべらないことにする。
「俺はもうゴールした。約束通り一位だ。といっても乙背と同着一位だからすっきりはしないんだけどな」
その後また笑顔になる。
「でもあいつはそこで体力使い切ったみたいだ。俺は戻って伴走することまで予定に入れていたから、体力使いきるような真似はしなかったけどな。つまり本気出してたら俺がダントツ一位だったってことだよ!」
得意げな笑顔を浮かべていたが、口をきかないまま上目使いで恐田君を見ると気づいたようだ。
「いや、真剣に勝負しなかったって訳じゃなくて。俺の中じゃ自分が勝つのも仲矢が走りきるのも同じくらい重要なことなんだよ。どっちか片方なんてやだからな」
すごいな。恐田君は。もう完走して戻ってきたから、僕の倍は走っているはずなのに、息が切れる様子もない。足も軽やかに動いている。
「いざとなればソレダ総合病院の特別室ってのも嘘じゃないぞ。俺の親父の病院だ。便宜をはかってもらうのは可能なんだ」
びっくりして目を見開いた真生の表情を見て、恐田は続けた。
「驚いた?恐田じゃなんか病院名としては怖いだろう?だからオを抜いてソレダにしたんだって。子どもの時教えてもらったよ」
子どもの頃バレエを習っていたというし、食事の時の箸使いやちょっとしたしぐさから、いいとこの坊っちゃんなんじゃないかと思っていたが、このあたりで一番大きな病院の息子か。なんか納得したよ。
「今まで何になりたいかなんて、よく分からなかったんだけど、俺決めたよ。医者になる。仲矢が不安に思うことは俺が全部取り除いてやる。いつでも俺が仲矢を守れるようにそばにいる」
恥ずかしかったのか、早口で言い切る。
そしてこちらに顔を向けて、優しげな顔で微笑む。何だよ。これ。僕が聞きたそうなことは勝手にしゃべるっていったけど、こんなことまで言えなんていってないよ!そう思うのに、真生の鼓動は早くなり、脳内では「そばにいる」という恐田の声がリフレインされている。顔が熱くなってくるのが自分でもはっきりと分かってしまう。
「えっ?大丈夫か?顔真っ赤だぞ。苦しいのか」
誰のせいだと思ってんだよ。まったく。
真生は首を横にふり、もくもくと走ることに専念した。
心配そうに眺めていた恐田だったが、真生の呼吸も歩調も乱れていないことを確認すると安心したようで「このペースだとあと10分ぐらいでゴールだぞ。頑張ろうな」と声をかけてきた。
真生は前に足を出すことだけに専念する。
発作が起こったらどうしようとか、息ができなくなったらどうしようなんて、考えない……って訳にはいかないから「そうなったら恐田君が何とかしてくれるから大丈夫」と思うことにする。
恐田はずっと真生のテンポに合わせてくれている。
身長差がすごいあるから、きっとやりにくいよなあ。時々調整の為なのか、軽く僕の回りを走り回ってから、また横に並んだりするし。これ、通学路で時々会うサモエドが、やる動作によく似てるよ。左手でリードを持ってるご主人様は、右手に彼の息子の手をつないでいるから、それに合わせてかなりゆっくりしたテンポで歩く。そうすると散歩で足取りが軽くなっちゃっているサモエドはどうしてもテンポが速過ぎて前に行くことになっちゃうから、数メートルごとにご主人の回りを回って同じ歩調になるよう調整しているんだ。こんなとこまで犬っぽいなんて。思わず声を出して笑いそうになるが、そうすると息が苦しくなりそうなので我慢する。
「やった!ゴールだ!」
白線を乗り越えると体から急に力が抜けた。「おい。大丈夫か?」叫ぶ恐田君の腕に抱きかかえられたようだけど、息が苦しい。意識が遠のいていく。
気づくと学校の保険室のベッドの上だった。
緊急入院するほどではなかったようでほっとする。どうやら酸素スプレーを使われたようだ。近くの机に使用済のものが2つ置いてある。恐田君がゴールの場所に用意移動してもらってたのががこれだったんだな。
そう思って真生が寝返りをうつと、恐田が寝ている。
「恐田君!」
思わずベッドから降りて彼の近くに行こうとすると「大丈夫だよ。寝てるだけ」とベッドの反対側から蒼介の声がする。
「こいつ、お前に酸素スプレー使った後、自分も呼吸困難に陥ってんの。しょうがないから俺が世話してやったけどさ。俺だって恐田じゃなくて真生の世話がしたかったつーのに」
こいつがたくさん酸素スプレー持ってきて良かったけどさと続ける。
「ほんと失敗した。恐田には負けたくないと思って全力で走ったら、真生の位置に戻る体力がなくなっちゃうなんて。こいつにいいとこ全部奪われた」
寝ている恐田を蒼介は憎々しげに眺める。
「そんなことないよ。蒼介が恐田君を助けてくれたんでしょう?ありがとう」
蒼介は今までよりもっとふくれっ面になった。
「だーかーらどうして真生がお礼いうの?関係ないじゃん。真生は恐田の親でも何でもないんだし」
「そりゃそうだけどさ。でも恐田君を介抱してくれる人がいなくて、彼が苦しい思いをしたらって思うと僕もつらいし」
あれ。どうしてつらいのかな。そりゃ恐田君は僕の伴奏をしてくれて、最後まで励まして一緒に走ってくれて、だから僕は念願だったマラソン完走を果たすことができて。
恐田君が僕のやりたいこと分かってくれたから。できるって信じてくれたから。うっとうしいほどまとわりついて、僕のことを守ってくれたから。
だから身内とかじゃなくても僕にとって恐田君はとっても大切な人で、だから無事ですごくほっとしたんだ。
「……なんか長い沈黙なんだけど、もしかして気持ちに整理がついた?」
腕組みをしたまま蒼介が聞いてきた。
「……好きなんだ。恐田君のことを」
蒼介の表情を失った顔を見ると、続きを言えなくなりそうだ。でも言わなきゃ。
蒼介の為にも。僕たちのこれからの為にも。
「最初は怖いなって思ってたけど。でもなんだか僕の近くにいるときは犬みたいで。ずっと僕のこと思ってかまってくる様子を見ると、こっちもよしよしって頭撫でて可愛がりたくなってきちゃうんだ。今まで恋愛とか縁がなかったからよく分かんなかったんだけど、これが僕の好きって気持ちだと思う」
自分でもずいぶん恥ずかしいことを言ってるなという自覚はあるので、ベッドの上で体育座りをして顔を隠したまましゃべる。きっと今僕は真っ赤だ。こんな顔とても見せられない。
「え?それって……本当?」
僕は驚いて隣のベッドを見る。
「恐田君?え?いつ目が覚めたの?」
「いや、いい気分で寝ていたら、頭をスコーンと殴られて。目を開けたら仲矢の声が聞こえてきた」
恐田君のベッドの枕の横には、「乙背」の名前が入った上履きが片方落ちている。蒼介がこれで恐田君を起こしたに違いない。
保健室の出口に手をかけていた蒼介は「他人への告白なんか聞いてられないよ。恐田の寝顔にも飽きたから起こしてやった」というと外に出てドアを閉めていった。
「お願い。最初から聞かせて」
「最初からって、やだよ。恥ずかしすぎる。だいたいどこから聞いていたの」
「えーと、犬みたいで、ってとこから」
「そこから聞こえていれば十分だよ。意味分かってるだろう」
「やだ。俺への告白なら、最初から全部聞きたい。ああ、悔しい。大切な仲矢からの告白を恋敵である乙背が先に全部聞いていたなんて」
「こっ告白告白って連発しないでよ!こっちの気持ちも考えてよ!」
「うん。照れても恥ずかしがってもかまわないから、お願い。最初から一言一句もらさず、もう一度復唱して?」
「あーもう!ハウス!」
しかしいうことを聞かないバカ犬は「お願いだから言ってよー」と何度もおねだりを繰り返すばかりだった。
帰りは何故か三人で帰る羽目になった。
保健室から戻ると、教室は閑散としていた。それはそうだろう。体育際が終わってからもう二時間以上過ぎている。片付けも済んでいるし、みんな打ち上げでどっかの店に集合しているはずだ。
だから誰もいないだろうと思って、恐田君と二人教室に戻ったんだけど、蒼介がいて「あ、もう大丈夫か?」とこちらを振り向いた。
「う、うん。大丈夫。心配かけてごめん」
「そんなの全然かまわないよ」
どうしてもさっきのことを思い出して気まずくなってしまう僕に比べて、蒼介は通常運転の態度だ。ほっとしていたら「乙背、ずるいぞ!俺への仲矢からの愛の告白をお前が聞いてしまうから、もう一度最初から言わせるのにすっごく苦労したじゃないか!」と言い出した。
なんてこと言い出すんだ!せっかく忘れたふりをできそうな雰囲気だったのに、なぜ蒸し返す!
「恐田君!ちょっと何言い出すんだよ」
顔が熱くて噴火しそうだ。自分よりうんと高い位置にある彼の口を塞ごうとするがとても届かない。
「ふーん。苦労したってことは、結局もう一度始めから真生に告白させたってことなのか」
「うん!すごく恥ずかしがったけど大切なことだから、ちゃんと言ってもらった」
揺れる尻尾が見えそうなくらい、全身から嬉しいを発散させている恐田君が満面の笑顔で眉間にしわをよせまくっている蒼介に答える。
「ずるいっていうけどな。俺だって聞きたくなんかなかったよ。あんな言葉」
あ、と恐田君が表情を変えた。
「……ごめん。俺、無神経だった。乙背だってずっと仲矢が好きだったんだよな。それが俺のことを好きだなんて告白、聞きたくなかったよな。そんな失恋確定の言葉なんて引導を渡されるようなもんだもんな。小学校からの長い片思いが粉々に砕けちるんだもんな。そりゃつらい……」
「お前、わざとやってんのか?傷口に塩をすりこむようなことばっかり口にしてんだろうが!」
「うん。無理して普通にしないでいいよ。泣いたっていいじゃん。その方が立ち直り早いよ」
恐田君は綺麗にアイロンがかけてあるハンカチを蒼介に向けた。
「ふっふざけるな。俺は無理なんかしてない!これからも真生の親友は俺で、ずっと一緒なんだから……恋人が俺じゃなくても……」
そこまで言い終えると、蒼介の目から大きな透明な粒がポロポロこぼれ落ちてきた。
「ック」
握りしめた手で涙を払うように拭く。
「蒼介。これ使って」
僕が出したハンカチを「ん」と短い返事で受け取ると、今度は嗚咽を漏らしながら涙をこぼした。
「一枚じゃ足りないだろう?こっちも使うといい」
差し出したまま受け取られていなかった恐田のハンカチを、今度は素直に蒼介は受け取った。受け取ると思い切りよく、音をたてて鼻をかんだ。
「あー!なんだよ。なんで俺のハンカチは鼻紙扱いになっちゃうんだよ。仲矢とはえらい差をつけてくれるよな?」
「当たり前だろ。お前と真生が俺にとって同じ扱いの訳ないだろう。真生に対して仏の顔ならお前に対しては鬼の顔で対応してやる!」
「お前なあ」
恐田君は文句をいいかけて「あ、大事なこと忘れてた」とあわてた。
「ありがとう。酸素スプレー、乙背が俺にあててくれたんだってな。仲矢のことしか考えてなかったから、自分のこと後回しにしてたよ。助かったよ」
そう言い終えると、綺麗な角度で蒼介に向かって頭を下げた。
「……そんなの人として当たり前だし。お前だってクラスメートなんだし」
鼻をかみすぎて赤くしたまま、仏頂面で答える蒼介。
一瞬え?という顔をした後、また笑顔になって「ありがとう」という恐田君を見て分かった。クラスメートだし、って言われたのが嬉しかったんだろうなあ。
なんだかこのまま二人も仲良くなれそうだよなあ。期待して見つめていると、蒼介がきまり悪そうにいう。
「……ハンカチは洗って返す」
「いや、返さなくていい。洗ってもなんだか嫌だから」
速攻で断る恐田に対して「お前のそういうところが俺は合わないんだよ!」と切れまくる蒼介を見て、予想が大外れしたことを真生は残念に思うしかなかった。
地元の駅に着いてからは、蒼介の家が駅からは一番近いので、後の道のりは倒れたばかりだから送るといいはる恐田と真生の二人だけとなった。
「恐田君は医者になって僕のこと守ってくれるっていったじゃない?」
「うん!父さんにも話した。その為に医学部受験用の予備校にも申し込んだ!大丈夫だよ。俺、意外と頭いいんだよ?眼鏡かけて黒板さえちゃんと見えれば。仲矢の為だったら、日本で最高峰の医学部でも受かってみせるよ」
「いや、恐田君が勉強本当は得意なのは、普段の宿題やテストの結果を知っているから、そこは疑ってないんだけど。でも医学部って6年かかるよね?忙しいし、優秀な医者になるほど、僕一人にかかわっていれなくなるんじゃない?」
「え?そんな!仲矢のために医者になるのにそれじゃ本末転倒じゃないか。よし、医者の知識は身につけつつ、いつでも一緒にいられるようフリーターの道を選べば」
暴走し始める恐田君にストップをかける。
「ちょっとやめてよ。僕、ちゃんと働きもしないフリーターの彼氏なんて絶対嫌だよ」
ふと気づくと、キラキラした目で恐田君はこちらを見ている。
「な、もう一回言って?」
「何を?」
「今、彼氏って言ったじゃん!俺、仲矢の彼氏なんだよな。ね、そういうことなんだよね」
はしゃぎまくっている。
「だーかーら、僕が言いたいのはそういうことじゃないから。恐田君はなりたいものになればいい。それが医者でも別のものでも、本人が望むものだったらかまわない。でも僕は守ってもらうだけじゃ嫌だ。恐田君が努力するなら、僕だって努力したい。二人が一緒にいる未来は、二人で築き上げていくもんだろう?」
恐田君は目を輝かせて感動している。どうやら分かってもらえたようだ。
「……夢みたいだ。真生からプロポーズしてもらえるなんて」
「プロポーズ?」
ちょっと待ってよ。いつ僕がそんなもんしたって言うんだよ。
「え?だって二人の将来を考えてくれているんでしょう?一緒に未来を築き上げていくんでしょう?これってプロポーズ以外の何ものでもないじゃない?喜んでお受けします!」
え、そういう意味じゃなかったんだけど。でも社会人になってもそれから先も、一緒に生きていくってことは思ってたけど……あれ、これってプロポーズになるのかな。
はしゃぎまくっている恐田君を見ていると、それでもいいかと思えてしまう。
「あ、ねえ。今、仲矢じゃなくて真生って名前呼びしなかった?」
「うん。だって将来を誓いあった二人が名字で呼び合うなんて、よそよそしすぎるじゃない。そんなの寂しいよ。だから真生も恐田くんは禁止。竜樹って下の名前で呼んでよね」
早く早く、と僕の顔を見つめてくる。
「た、たつ……」
駄目だ。恥ずかしくて舌も頭も回らない。
「……ポチ。お手」
両手を上向きにして差し出すと、そのまま上に手を重ねてきた。
「ってなんでだよ!なんでポチ?条件反射で動いちゃった自分が信じられないー」
叫ぶ恐田君……竜樹を見て、僕は声をたてて笑ってしまった。
「だいたい何で朝っぱらから恐田の顔なんて見なきゃならないんだ」
「それは乙背が俺と真生の中に割り込んでくるからだろ」
「あ!名前呼び。いつからそんなこと許した」
「愛する二人が納得しあっているなら、乙背のお許しなんて不要に決まってるだろ」
「あー、もういい加減にして!電車の中だから静かにして!」
真生は二人のやりとりに呆れて、ため息をつく。
竜樹が自分も一緒に登校する!と駅の反対側の改札口まできて、真生たちが来るのを待つようになった。
この調子で教室でもしゃべられたらたまらない。よく聞けば内容はバレてしまう気がするのだけど、そこは二人の見た目の良さのせいか、顔ばかりに注目され、同じ車両の女子も「イケメン二人の微笑ましいじゃれ合い」としてとらえているようだ。
「とにかく健全な交際をするように!学生は学生らしく、学業に励むように。真生をたぶらかそうなんでこの蒼介さんが許しません」
「保護者かよ!」
まあまあ、と真生が口を挟む。
「学生のうちは学業が本分、節度ある交際をってのは僕も賛成だよ」
「ちょっと待って?学生のうちはって、俺は医者目指すから学生生活、普通の大学生より長いよ?その間ずっと清く美しく?」
「そうだ。当たり前だ」
勝ち誇ったように蒼介がいい放つ。
その時、ちょうど開いたドアから同じ学校の生徒が乗ってきた。
どうやら同じサッカー部のようだ。蒼介に声をかけている。
真生はそっと竜樹にだけ聞こえる声で伝えた。
「さすがにもう少し早く、その、きちんとした恋人同士にはなれると思うよ。僕の心の準備も整うと思うし」
「え?いいのか。真生は」
「……うん。だって、こういうのは、その、愛し……当事者の二人が納得していれば十分だから」
恥ずかしくて竜樹みたいに愛しあう二人なんて表現まではできなかった。でも竜樹と同じ「好き」であることを、自分史上最大限頑張って表現したつもりだ。
効果はすぐあがり、竜樹の表情が輝くばかりに喜びで満ちあふれている。
「うん。うん。分かった」
まずいなあ。竜樹のこの顔を蒼介に見られたら、なんかすぐバレちゃいそう。
そう思いながら、自分の顔も熱い。顔が赤くなっていることは自覚しているので、バレるとしたら竜樹のせいだけじゃないよね、といっそう顔が火照るのを真生は止められなかった。


