高校二年生の冬。朝方は氷の粒が混じる大雨が降り、雲に隠された太陽が西へ傾き始めたであろう頃。生徒会副会長、七条灯希は、土砂降りの雨が大きな窓に打ちつけられる様をがらんとした生徒会室からぼんやりと眺めていた。
昼休憩に入り十分ほど。雨音と、遠くから聞こえてくる生徒たちの声が包むだだっ広い生徒会室にいるとどこか別世界にいるようで居心地が悪い。もうじき食べるのが早い生徒会メンバーたちは昼食を終えてここへやってくるだろうかと、卓上で名前入りのボールペンを弄びながら灯希は一人の時間に眉をひそめていた。
そういえば、無彩色な世界で初めて人を美しいと感じたのも、数年前の、こんな大雨の日だったと灯希は憂いを帯びたアンバーの瞳に瞼を下ろす。
恋慕とは違うはずだが、どれほど素晴らしい芸術品を見ても揺らがない、動くことを止めてしまった心が動いた日。
あまりの美しさに、額だったとはいえ、初めて誰かに口付けした日。
酒に酔った父と、部活で鬱憤を溜めた兄から逃げ出して辿り着いた公園にいた、彫刻か、人形のような伸びきった金糸の髪をしていた人物。
雨が降ると時折思い出す人物は、声も、顔も、体温も、月日が経つごとに次第にどれも記憶から消え去ってしまった。ぼろぼろになった記憶をこれ以上忘れてしまわぬように頭の奥底にかき集めて、押し込んで。
質の良い椅子に腰掛けたまま伸びをした。
ふと、五分ほど前に口に含んだ飴玉を噛み砕いたとき。コンコンコン、と重厚な扉から落ち着いたノックの音が三度響いた。
「はい、開いていますよ」
灯希は柔い低音で応えると、小さな欠片となった飴玉を飲み下し、唇をぺろりと舌先で撫でる。
腰掛けていた席から立つと、学校の規定通り第一ボタンまで閉められた白い制服の胸元から保湿用のリップクリームを慣れた仕草で取り出し、唇に当てた。握ったスティックを何度か左右に動かして、蓋をする前に唇と触れた部分をティッシュで素早く拭うと、リップは再び胸元へとしまう。
規則正しい足音を立てながら生徒会室と廊下を隔てる出入り口まで移動し、そっと扉を開けた。
「ああ、七条くん、ありがとう。ここにいたんだね」
「はい。どうなさいましたか? 今日は生徒会の集まりはなかったかと存じますが……」
てっきり、また部室争いをしている生徒か、先日話し合いがあった卒業式準備に必要な経費を相談に来た誰かかと思えば。扉の向こうに立っていたのはここ私立明日高等学校の校長で灯希は僅かに目を見張る。
首を傾げたと同時に、横分けにされた艶のある黒髪が揺れる。アンバーの切れ長な目は訝しげな色をまとう。けれどその色を隠すため、にこやかに細められた微笑みを明日校長へ向けた。
「それが……。七条くんに折りいってお願いしたいことがありまして」
「はい……? なんでしょうか。俺にできることならお手伝いさせていただきます」
言いづらそうに顔をしかめる小柄な校長に、灯希はいっとう柔らかく笑みを浮かべて言葉を促す。相手が発言しやすいように。相手が頼りやすいように。
そうして頼まれたことをこなすのが、灯希は好きで、自分の役目だと思っている。
「実は、以前お話ししていた転校生が来たのですが」
「転校生? 来週の予定ではなかったのですか?」
「ええ、その予定だったんですがね……」
詳しくは言えないが、家庭の都合で急遽転入が早まったのだとか。
先ほどから、扉の向こう、明日校長の後ろで見覚えがない長身の男子生徒が立っているから、彼がその転校生なのだろう。と灯希が目星をつけたときだった。
「遅せぇんだよ、校長」
痺れを切らした転校生が深緑の目を細めて、ドスの効いた声で明日校長を睨みつけた。
「うっ、ごめんね天城くん。でも、七条くんにも都合がありますからね」
「は? んなの知らねーよ。さっさとしろ」
またお人好しの明日校長は面倒ごとを持ってきたのかな——それが灯希の一連の会話から抱いた感想だった。
「し、七条くん。一年生の天城晶也くんなんですがね、君に彼のお世……ごほんっ、彼に……学校での過ごし方を教えてあげて欲しいと思っているんですよ——七条くんの言うことしか聞かないと言っていて、我々も手がつけられそうにないんです……」
いつもおっとりしている明日校長が若干涙目で、校長の後ろからガンを飛ばしてくる不良生徒から逃げるように耳打ちまでしてくるから灯希は困ったように眉を寄せた。
ここで引き受ければ明日校長の役に立てるかもしれない。何より、会長……中学時代に灯希を救ってくれた恩人にも褒めてもらえるかもしれない。
人を助け、導くことが七条灯希の使命。
明日校長の後ろで騒ぐ生徒は……。見た限りでも、やたらとさらさらしているオールバックの金髪。両耳に十以上、唇に一つ、ここまでくると服の下にもつけていそうなピアス。かかとの踏まれた上靴。だらしなく着崩すにもほどがある制服は、本来感じさせる格式高さなど見る影もない。そのうえ常に周囲を睨みつけるような深緑の三白眼と、口の悪さ。
見るからに不良。灯希とは対局の存在。
今回は、少しやんちゃな後輩を手助けするだけ。
灯希の父親や兄に比べれば……可愛いものだ。
手助けを求める人がいるのなら、それに応えることが灯希の生きがいとなる。それがたとえ、灯希をぞんざいに扱い、傷を刻んでいった家族、八方美人と罵り喧嘩をふっかけてきた馬鹿と同じ、不良という存在だとしても。
「構いませんよ。俺でよければ、お引き受けいたします」
「……! ありがとうございます、それでは、老いぼれはこれで失礼しますよ」
小走りで逃げるように去って行った明日校長がいなくなれば、残るのは目の前の不良と、灯希のみ。
「天城くん、だったかな。よろしくね。直々のご指名だったみたいだけれど、どうして俺を?」
こうして向かい合うと、かなりタッパがある。差は五センチくらいか。
灯希も日本男子の平均身長より少し高いくらいの上背はあるが、そんな灯希から見ても天城は街中を歩けば周囲より頭ひとつ分高く、顔も整っているのだろうし目立つに違いない。と、見当を立てて様子を窺う。
「……」
「……もしかして人違いだったとか? それなら——」
「とうき」
なかなか返答がないからと助け舟として別の質問をするも、今度は言葉を遮られて噛み合わない会話にどうしたものかと頭を抱えたくなる。
「はい……?」
「お前の名前、とうきって読むんだな」
「そうだけど、どうしたの?」
「……」
聞けば、ぷい、と背けられた顔。いや、小学生じゃないんだから。とツッコミを入れたくなるような幼い仕草に灯希は苦笑を漏らす。
先輩後輩がどうとか、強く言うたちではないけれども。初対面の相手に名前で呼び捨て、そのうえ質問を無視とはいかがなものか。
まあ、殴りかかってこないだけマシと考えるべきなのか。灯希は呆れつつ、笑みを崩さないように努めた。
天城は長い足を肩幅以上に開いて立ち、腰に当てた片手は着崩した制服にめり込んでいる、と表現するのが相応しいほどシワを作っている。
眉間にも深いシワを刻んだ物騒な表情をしているんだから明日校長があれだけ怯えて見せるのにも納得がいった。確かに、こんないつでも殴ってきそうな形相で、獰猛な肉食獣じみた深緑の三白眼に睨まれたならば竦み上がってしまうだろうと。
灯希は基本へらりと微笑みを浮かべ、一線を引いて接する。そのためこの手の人間とは相性が悪い。どうしたものかと細く息を吐き出す。それが決してため息にはならないよう、慎重に。
もし、天城の面倒を見ている途中で「自分には無理でした」と、八の字に眉を垂らせば教師も誰も文句は言わないだろう。それどころか、引き受けようとした心持ちに対して礼を述べてくるかもしれない。
罵倒されるなら、まだいい。
けれど、もしそんな風に気を遣われたら、もし恩人である会長に期待外れだったと冷たい目を向けられたら。想像しただけで血の気が引いていく。
舐められれば終わり。
それならば。相手も同じ人間だ。優しく、けれど甘さは見せず接すればいいかと今後の方針を組み上げていた灯希は気づかなかった。
会話するには不自然なほどとられていた距離が、緩く手を伸ばせば触れられるくらい詰められていたことに。
「天城く——」
「灯希、やっと見つけた」
にたり、と。凶悪な笑いが浮かべられたのを捉えた途端。
伸びてきた手に強い力で腕を引かれ、生徒会室の外へ引っ張り出される。よろけた体は背後で閉ざされた扉に押しつけられて、けれど後頭部に回された手に衝撃は吸収され頭痛めることはなかった。
衝撃に備えて思わず瞑った目を瞬かせて、開いた瞬間。長い片腕が抱きすくめるように首裏を通って反対の肩まで巻きつく。もう一方の手には後頭部をがしりと掴まれ、上を向かされた。
「ん……⁈」
拳一つも入らない至近距離で、交わる視線。鋭く光る猫のような深緑の目に少し上からじっと見つめられ、逸らすこともできないまま、唇に触れた、熱。温かい息が鼻にかかる。
ぞくりと背骨を這うように走った妙な感覚に呼吸が乱れた。上手く吸えなくなった冷たい空気が欲しくて、目の前の厚い胸板を指先で押し返す。
「はっ……けほっ」
ようやく間近にあった非日常的な熱が離れて息を吸い込めば、肺へ送り込み過ぎた空気に何度かむせる。
口元を押さえながらくらりと揺れそうになる足取りで距離を取ると、くつくつと押し殺すような笑いが雨の音に混ざって廊下に響いた。
「……初対面の相手に合意もなく触れるのはどうかと思うな」
へらりと笑って取り繕いながら、警戒を最大まで引き上げる。氷のように冷たい、なんて言われることもあるアンバーの目で天城を軽く睨め上げた。
「だって、初対面じゃねーし」
「え?」
「覚えてねーの?」
「知らないよ」
人違いなんじゃないかな、と言いかけて。捨てられた痛みに耐える子犬が脳裏を過ぎる、そんな表情を垣間見て灯希は思わず口を噤んだ。
「……っそ。じゃあ」
感情の読めない、無彩色な笑みを貼り付けて見つめてくる天城は獰猛な狩り人か、ただの飢えた哀れな獣か。一歩詰められた距離に後退れば、今度はその一歩分を詰められることはなかった。
暫し深緑の三白眼と牽制し合う。見定めるその目を逸らしてしまえば負け。たちまち急所を見せ獲物と化してしまうようで、灯希はこくりと小さく喉を鳴らして不安を飲み下した。
「——ちゃんと思い出せよ。灯希副かいちょー」
天城の顔に勝気な色が宿る。年相応な顔が小首を傾げていたずらっぽく笑うと、後ろへ流した猫っ毛の金髪がさらりと揺れた。
その姿に灯希は純粋に不思議だ、と僅かに目を見張る。
気崩した制服も、時折ドスが効いて荒い声も、校則違反のピアスと髪も。灯希が好ましく思えない部分ばかりで、逆に好ましいと思える箇所を探すほうが困難だというのに。それなのに、いかつい様相にほとんど隠されてしまっているものの、ちらりと覗く高校一年生という肩書きに相応しい幼さ。
それを見出してしまえば、隠すこともせずわざとらしいため息を吐き、天城を見上げた。
「善処はしてみるよ。でも、まずは君にこの学校について教えないとね。そのための俺なんだから」
にっこりと。灯希はこれまで生きてきて、すっかり染み付いてしまった薄い笑顔の膜をたたえた。
天城が声を発さぬまま向けてくる、すっと細めた胸中を探る眼に気づかない……隙ある男のフリをして。
○
睨み合いもほどほどに、そろそろ校舎内を案内しなくては。いざ案内をと手を打ち鳴らし、天城を呼ぼうとしてその恰好に灯希が硬直したのはもう十分も前のこと。
こんな、絵に描いた不良のごとき恰好で校内を歩き回られたら生徒たちを怖がらせてしまうだろう。それは困る。学校をより良く創っていくのが生徒会の役割だ。その副会長ともあろう者が不良を連れ立って歩いていたら。予想されるさまざまな未来に頭を振り、緩く持ち上がっていることの多い口角を下げる。
天城を生徒会室に招き入れ、あの手この手を尽くして説得した結果。体感一時間、実際には十分経ったかどうかというところでようやく天城からピアスを取り上げることに成功した。
「へえ、ピアス取るだけでもかなり印象変わるんだね。こっちもいいんじゃないのかな?」
「……」
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く天城は何か言いたげな、けれど満足そうにも見える妙な表情を浮かべている。
いかつい飾りをなくした耳は穴だらけで、灯希はその痛々しさに眉を寄せそうになるのをすんでのところで堪えた。
その代わりに強く握り締めた手。体の横に下ろした灯希の手の中、天城の両耳と唇を飾っていたピアスはじゃらりとぶつかり合う。音を立てるも、それは灯希の手のひらへ吸収されて聞こえることはなかった。
「あと二十分あるし、簡単に校内を案内するよ」
本当は気崩した制服も、鋭い眼光も直して欲しいところだけど……なんて湧き出る文句は暖房に暖められているものの、冷たさの残る空気とともに吸い込んだ。
生徒会室の重厚な扉へ手をかけ、力を入れる前に内開きの扉が迫ってきて小さく肩が跳ねた。
「わっ」
「灯希? すまない、ノックはしたんだが」
「碧葉(あおば)会長……! すみません、考えごとをしてて。気をつけるよ」
青みがかった短い黒髪に、垂れた碧眼。さほど変わらない高さで合った目に、灯希はふわりと頬を緩めた。
「あまり考え込むんじゃないぞ? 何かあれば俺たちに相談すること」
「ふふ、はぁい。分かってるよ。今回はそういうのじゃないから、大丈夫。ありがとうね」
灯希と同じく二年の一ノ瀬碧葉。中学時代から碧葉が生徒会長で、灯希が生徒会副会長。明日中学に引き続き、明日高校でも二年に上がると同時に碧葉と灯希は会長と副会長の座に就いた。
三年生が生徒会長を務めるべきだ、という声も中学時代にはあるにはあったが。内気な生徒の多い三年と意欲的に生徒会長へ立候補し、事実、過去に類を見ない画期的な行事やイベント活動を多くこなしていたら高校では学年に関するブーイングを聞いたことはない。
中学時代、傷跡を背負い、家に居場所がない灯希を「生徒会のお泊まり会」と称して家に招いてくれたり、家庭環境や進路について相談に乗ってくれたりした兄のような存在。
灯希にとって返しきれない恩があり、もっとも尊敬し慕っている人物だ。
話さない限り深入りはせず、けれどそっと温かい手を差し伸べてくれるヒーロー。幼い例えにむず痒さを覚えるも、その言葉が似合うのは碧葉くらいだと灯希は思い続けている。
「……灯希」
「ん、どうしたの?」
ふいに碧葉が灯希の背後を見てから耳元に口を寄せてきた。
「先ほど明日校長に聞いたが、あれが転校生の天城くんか?」
「そうだよ。明日校長に頼まれたから、これから校内を案内する予定」
「ああ、案内は頼む。……プライベートなことに口出しするつもりはないんだが、そのだな。人目には気をつけるべきだと思う。ここは学校だからな」
「……?」
「それだけだ」
ぽん、と肩を叩かれ生徒会室へ入って行った碧葉の背を見送ると、天城に思い切り睨みつけられた。
碧葉は天城に軽く自己紹介をしたらしい。けれどその間も睨みつけてくる視線が逸れることはなく、碧葉からの言葉に疑問を浮かべながら肩を竦めた。
「灯希、行くぞ」
また強い力で腕を掴まれ、ずんずんと大股で歩く天城に足をもつれさせながらついていく。碧葉に軽く一礼すると、碧葉からは困ったような表情を、天城からは鋭い睨みを向けられた。
「ちょっ、痛いよ。どうしたの」
案内しようと思っていた方向とは正反対に進んでいく天城を止める間もなく。ただ綺麗に磨かれた廊下を駆け足になって叩いていく。
不規則な足音を立てていれば、ようやく速度を緩めた天城に灯希は僅かに鋭く細めた目を向けた。
「ねえ、天城く——」
「晶也」
「……うん?」
「晶也って呼べ。あいつのことは名前で呼んでんだろ」
「あいつ……って、碧葉会長のこと?」
「……」
黙りこくって睨みつけてくる。
灯希は天城の性質を掴み始めた気がして、それまで抱いていた警戒心が少しばかり溶けるのを感じた。存外幼い心理と、行動と。なんだ、可愛らしい後輩じゃないか。
お気に入りのおもちゃを取られて拗ねる犬のような、さっきだって、言うことを聞いて褒められるのを待つ健気な子どものような。
「ふふっ……」
「あ? んだよ急に」
「ううん、なんでもないよ。ほら、案内してあげるから。一回で覚えろとは言わないけど、大事な教室は覚えるんだよ。晶也」
「……! おう」
「んっ、ふ……」
きっと、犬の尻尾がついていたらぶんぶんとご機嫌に左右へ振っているんだろう。いや、晶也の場合は狼のほうが近いだろうか。
掴まれていた手は解かれており、晶也の一歩前へ踏み出す。「行こうか」と僅かに輝いて見える晶也の顔を覗き込みながら、灯希は浮かびそうになる笑みを堪えた。
○
「灯希ふくかいちょー」
「はい……って、また来たの? 晶也」
「おう」
「ノックしてって、いつも言ってるよね」
「……」
昼休憩が始まり、灯希は足早に生徒会室へ向かった。誰もいない中、自分の席につき次の専門委員会で使う資料をまとめいるとすぐに響いた扉の開けられる音。
姿を現したのはやはり晶也で、軽く注意すればそっぽを向いて乱雑に頭をかいている。手の動きに合わせて細い金髪は揺れ動き、形の良い額にいくらか金糸の髪が垂れていた。
「チッ」
垂れた髪をうざったそうにかき上げてしまえば、すぐに見慣れた金髪オールバックの眼光が鋭い不良が戻ってくる。
いつつけ直したのか、朝に外させたピアスは半数耳に戻っており、出しっ放しのシャツに隠れようとするベルトは引き抜かれていたけれど。
じっと晶也の動きを観察していれば睨まれた。二週間過ごして灯希が心得たのは、晶也が睨んでくるのは甘えているのだということ。
要するに、構って欲しい、約束を守ったから褒めろ、とでも言いたげなときにあの目を向けてくる。単純に気に食わないときも睨まれるから、さすがに上手く判別はつけられないものの。
「はいはい、今日もちゃんと昼休憩空けておいたから。行こっか」
「はい……って、は⁈」
「え」
「ち、ちげーし! 今のはあれだ、あー……」
ぼっ、と赤く染まっていく顔。ぶっきらぼうな声か、意地の悪そうな声しか聞いたことがなかったから焦ってうわずった声は新鮮だった。言い淀み、言い訳が見つからなかったのだろう。舌打ちをして、赤い顔を隠すように手で覆い顔を背けられる。
「ぷっ、ふふ……」
こうして、晶也が時折見せる年相応な可愛らしい一面。それに灯希はめっぽう弱かった。くつくつと飲み込み切れない声が漏れて、笑ってしまうのを必死に堪えようとして腹筋がきゅうと収縮するのを感じる。
耳まで赤くした晶也が顔全体を覆っていた手を少しばかり下げ、ギロ、と睨みつけてきたのが極めつけだった。
「んふ、ふ、あははっ……!」
両腕を抱えて、ついに灯希は抑え切れなくなり声を上げて笑い出す。だって、ずるいだろう。大きな図体で、ガラの悪そうな装いで、目が合ったかと思えば睨んできて。それでいて、こうして気まぐれにいじらしい一面を見せてくる。
ひぃひぃと乱れた呼吸を繰り返していると、気づかない内に晶也が机をはさんで灯希の目の前へと来ていたらしい。頭上に影が落ちたことで、ようやく晶也の気配に気づいた。
分かっていても止められず、込み上げる笑いに肩を震わせ続ける。こんなに笑ったのは一体いつぶりだろう。少なくとも、中学生のときにはもう、こんな大声を上げて笑うことなんてなかった。
晶也も、あれほど赤くした顔を他の誰かにも見せたことがあるのだろうか。
そんなことを聞けば「んなわけねーだろ」と睨まれそうだ。けれど、それ以前に早く笑うのを辞めないと、「笑ってんじゃねー」なんて言葉がチョップかデコピンかとともに降ってきそう。
今日まで晶也と接してきて、ここで浮かぶのが殴る蹴るではなく、チョップかデコピンなこともまた面白くて、いい加減呼吸も上手くできずに苦しく、涙腺もバカになってしまった。
「……ふっ、灯希も、そんな風に笑うのな」
「ん、っふふ、えぇ?」
人差し指と中指を合わせて涙を拭い、晶也を見上げて。
「っ……」
そこにあったのは、甘く、柔らかすぎるほど穏やかな微笑み。
親が赤子に、教師が生徒に、恋人が愛しの人へ向けるような、慈愛だとか、恍惚とした、だとか。そんな表現が相応しいだろう笑い方。
目尻にきゅっと薄いシワを寄せて、ぞんざいな言葉の放たれる口が緩やかに弧を描く。深緑の瞳が、深く、重く、けれど澄んでいて。
そんな風に笑うのな、なんて。
そう言いたいのは灯希のほうだった。
ふと、灯希を見下ろしてきながら小首を傾げたせいで、はらりと額へ多めに髪の束が落ちたとき。髪が目に入ったのか、深緑の目を隠すように伏せたとき。
どくん、と強く心臓が脈打ち、灯希の記憶が存在を主張してきた。
「……?」
こくりと喉を上下させて、もう笑っていないのにじわりと溜まっていく熱。
無彩色な世界を生きていた中学時代。灯希の固まってしまった心を動かした少年がいる。傘もささずに公園のベンチへ腰掛けて、金糸のような髪にたっぷりと雨水を含ませていた少年が。
ぼろぼろの服を身に纏い、冷え切った美しい目で……。彼も、曇り空の下で大粒の雨水に濡れた木の葉のような、深く、重く、けれど芯のある目を持っていた。
「な、ん……」
『——ちゃんと思い出せよ。灯希副かいちょー』
にやりと悪党も真っ青な笑みを刻んだ不良の転校生と、灯希の目の前で砂糖菓子より甘く綿より柔い微笑みを向けてくる晶也と。
その顔全てが、記憶の中にいる無機質な美しさをまとった少年と、重なってしまったような気がして。
もう一度、どくん。と強く脈打った心臓とつんと熱くなった目頭に、崩れかけてしまっている笑顔の膜の下で灯希は気づかぬフリをした。
○
校舎の四階は、今は使われていない教室たちが並んでいる。そんな四階と食堂や特別教室のある三階普とを繋ぐ階段の踊り場は、この一ヶ月ですっかり灯希と晶也が話す場所として定着していた。
校内を軽く散歩、ではなく案内した後にここへやってきて予鈴が鳴るまで時間いっぱい談笑する日々——。
食堂の喧騒がぼんやりと耳に届く中、ゆったりと灯希が口を開いた。
「……ねえ、晶也」
「あ? んだよ灯希」
「そろそろ覚えたんじゃないのかな。俺、もう一ヶ月は君に付き合ってると思うんだけど……」
「……」
晶也と過ごして、物騒な見た目に反して睨んでくるだとか、顔を背けるのだとか、そういった仕草の裏に幼いいじらしさを見出していた。最近では不服なとき、構って欲しいとき、褒めて欲しいときの見分けもつくようになってきてしまっている。可愛い後輩ができたと、そう思ったけれど。
どうやら晶也も、灯希がその仕草に甘いことをこの一ヶ月で覚えたらしい。近頃、灯希が「そろそろ……」と切り出す度に黙りこくってそっぽを向くようになっていた。
出会って一週間の内は灯希が目を離すとどこに予備があるのか、あのゴテゴテしたピアスをつけ直していたけれど。最近は学校では外すか、透明なものをつけるようになって。
制服も第四ボタンまで開けられているとはいえ、以前よりだらしなさはなくなった。
上靴のかかともたまに踏んでいるけど、注意すれば直すようになって。
金髪については「地毛だけど」と生え際を見せられて灯希は思わずアンバーの目をこぼれ落ちそうになるくらい見開き、ふわふわと手触りの良い髪を撫でてしまったが……それさえももう、どこか懐かしい。
最初は怯えていた晶也のクラスメイトも、灯希が仲介すると不器用なだけで存外人柄の良い晶也を受け入れていた。体育では凶悪な笑みを浮かべる晶也と、騒ぎながらパスを回す友人らの姿だって見ることができたわけで。
さらには明日校長と化学教師を交え、炭酸飲料を使った話で盛り上がっている様子を見かけたこともある。
つまり、もう灯希の役目は果たされたのだ。
一日で終わるはずの学校案内が一ヶ月も続いており、生徒会室で過ごしていた昼休憩は晶也と会う時間に置き換わってしまっているだけで。
季節も移ろおうと準備を始めたらしく、太陽が空でくつろぐ時間も増えてきた。卒業式までも、もう一ヶ月を切っている。これから生徒会は卒業式や入学式の準備でより一層多忙になるし、こうして昼休憩に会うことは難しい。
「晶也」
踊り場の端っこで右肩は壁につけて、背はもたれないよう晶也と隣り合って座って。笑みの膜は貼り付けたまま、けれど困ったような表情を滲ませて晶也を見ようとしたときだった。
灯希の右頬のすぐ横でドン、と大きな音が鳴った。息を呑んだせいでみぞおちのあたりに浮遊感に似た妙な感覚も覚える。ふわりと空気も揺れて、黒い前髪が視界の端をかすめていく。
「まだだろ」
「え?」
「まだ、オレのこと思い出してねーだろ。灯希」
「っ……」
蘇るのは、二週間前の記憶。
晶也が昼休憩に、灯希以外誰もいない生徒会室を訪れることが日常となりつつあった頃。
勘違いしそうな温かい目を向けられて、花が咲くより、昇る朝日が空を何色にでも気ままに色付けていくより、灯希にとっては美しい微笑みを向けられて。
あの日から、灯希は晶也との掴めない距離感に頭を抱えたくなりながら今日まで耐えてきていた。
晶也が言いたいことも、きっと分かっている。灯希が思っていることと、きっと一緒のこと。けれど、それを口にしてしまえば全てが変わってしまう。
必要以上に距離を詰めてはいけない。手を伸ばせば届く距離にいたとしても、欲に負けて掴んでしまえばその手はいつか振り解かれる。
何か一つのきっかけで、全てが悪いほうへ豹変してしまう苦しみを知っている。
母親のいなくなった灯希の家族がそうだった。
もし、もう一度。事故とも言える唇に触れた体温を求めてしまえば。愛情の滲み出すような柔らかい笑みに縋ってしまえば。今までなくとも耐えられた人の温もりを求めてしまう。
「オレは変わってねーぞ。嫌な奴んとこに毎日通わねーし、転校もしねーっての」
思考を読まれたかのようなタイミングと言葉に息が詰まる。「俺が嫌がる可能性は考えてくれなかったの?」とふざけてしまおうと開いた口は、その言葉を声に乗せることもせず再び閉じてしまった。
「……キス、は。あのときの仕返し?」
「っ!」
欲に、負けてしまった。手を伸ばしてしまった。
合わせられず、指先で遊ばせていた名前入りのボールペンに向けていた目をそろりそろりと晶也の元まで向かわせ、いたずらに笑みの膜をたたえてみる。
あの雨の日、まだ不良のような姿をしていなかった……晶也と出会った日。気づくと灯希は頬に雨を伝わせながら、彼の冷えた額へ唇を寄せていた。
記憶の中の彼は、突然のことに目を見張っていたと思う。
「こっちは、あれからずっと……」
柔らかい笑みに苦労の色が滲むのを見届ければ、無骨な手が伸びてきた。頬の辺りでためらうように固まった手と、ぎゅっと眉間に寄せられたシワ。
一度伸ばしてしまったなら、何度縋ろうと変わらないものだろうと灯希は自分の手よりも逆剥けも多く、皮の厚い手をとって手の甲にそっと口を寄せてみた。
「おっ、ま……」
「ふふ。俺のこと調べて、ここまで追ってきてくれた割には奥手なんだね」
きっと、再び真っ赤に顔を染めた晶也に負けないほど、熱を頬に差して灯希は強がりを口にする。どくどくと脈打つ心音と、どうしても垂れてしまう眉は隠せそうになかったけれど。
「ハッ、あいにく惚れた奴が壊れやすいもんでね。加減がわかんねーんだわ」
真っ赤になった顔で見つめあって、暫くして二人して同時に吹き出した。
握っていた手が離れ、離れていった手に顎を掬われた。
どろりと濁って、瞳孔の開いた甘い深緑がやけに鮮やかに見える。
約束を守り、いかつい飾りをなくした穴だらけの耳は強く優しい晶也を現しているようだな、と考えて灯希は慣れない下手くそな微笑みを浮かべてみせた。
「灯希。もうオレ以外見んな」
「今までも、君を見るので精一杯だったんだよ?」
拳一つも入らない至近距離で、交わった視線。すぐに鋭く光る猫のような深緑の目は瞼の裏に隠されて、灯希もそっとアンバーの目を伏せた。とくりと期待に心音が跳ね、じわりと胸から抱え切れなくなった想いが溢れる。
そうして、甘やかな熱が触れ、目尻から熱い涙がこぼれたのと、息と体温を分け合ったのはほんの瞬きの後だった。
昼休憩に入り十分ほど。雨音と、遠くから聞こえてくる生徒たちの声が包むだだっ広い生徒会室にいるとどこか別世界にいるようで居心地が悪い。もうじき食べるのが早い生徒会メンバーたちは昼食を終えてここへやってくるだろうかと、卓上で名前入りのボールペンを弄びながら灯希は一人の時間に眉をひそめていた。
そういえば、無彩色な世界で初めて人を美しいと感じたのも、数年前の、こんな大雨の日だったと灯希は憂いを帯びたアンバーの瞳に瞼を下ろす。
恋慕とは違うはずだが、どれほど素晴らしい芸術品を見ても揺らがない、動くことを止めてしまった心が動いた日。
あまりの美しさに、額だったとはいえ、初めて誰かに口付けした日。
酒に酔った父と、部活で鬱憤を溜めた兄から逃げ出して辿り着いた公園にいた、彫刻か、人形のような伸びきった金糸の髪をしていた人物。
雨が降ると時折思い出す人物は、声も、顔も、体温も、月日が経つごとに次第にどれも記憶から消え去ってしまった。ぼろぼろになった記憶をこれ以上忘れてしまわぬように頭の奥底にかき集めて、押し込んで。
質の良い椅子に腰掛けたまま伸びをした。
ふと、五分ほど前に口に含んだ飴玉を噛み砕いたとき。コンコンコン、と重厚な扉から落ち着いたノックの音が三度響いた。
「はい、開いていますよ」
灯希は柔い低音で応えると、小さな欠片となった飴玉を飲み下し、唇をぺろりと舌先で撫でる。
腰掛けていた席から立つと、学校の規定通り第一ボタンまで閉められた白い制服の胸元から保湿用のリップクリームを慣れた仕草で取り出し、唇に当てた。握ったスティックを何度か左右に動かして、蓋をする前に唇と触れた部分をティッシュで素早く拭うと、リップは再び胸元へとしまう。
規則正しい足音を立てながら生徒会室と廊下を隔てる出入り口まで移動し、そっと扉を開けた。
「ああ、七条くん、ありがとう。ここにいたんだね」
「はい。どうなさいましたか? 今日は生徒会の集まりはなかったかと存じますが……」
てっきり、また部室争いをしている生徒か、先日話し合いがあった卒業式準備に必要な経費を相談に来た誰かかと思えば。扉の向こうに立っていたのはここ私立明日高等学校の校長で灯希は僅かに目を見張る。
首を傾げたと同時に、横分けにされた艶のある黒髪が揺れる。アンバーの切れ長な目は訝しげな色をまとう。けれどその色を隠すため、にこやかに細められた微笑みを明日校長へ向けた。
「それが……。七条くんに折りいってお願いしたいことがありまして」
「はい……? なんでしょうか。俺にできることならお手伝いさせていただきます」
言いづらそうに顔をしかめる小柄な校長に、灯希はいっとう柔らかく笑みを浮かべて言葉を促す。相手が発言しやすいように。相手が頼りやすいように。
そうして頼まれたことをこなすのが、灯希は好きで、自分の役目だと思っている。
「実は、以前お話ししていた転校生が来たのですが」
「転校生? 来週の予定ではなかったのですか?」
「ええ、その予定だったんですがね……」
詳しくは言えないが、家庭の都合で急遽転入が早まったのだとか。
先ほどから、扉の向こう、明日校長の後ろで見覚えがない長身の男子生徒が立っているから、彼がその転校生なのだろう。と灯希が目星をつけたときだった。
「遅せぇんだよ、校長」
痺れを切らした転校生が深緑の目を細めて、ドスの効いた声で明日校長を睨みつけた。
「うっ、ごめんね天城くん。でも、七条くんにも都合がありますからね」
「は? んなの知らねーよ。さっさとしろ」
またお人好しの明日校長は面倒ごとを持ってきたのかな——それが灯希の一連の会話から抱いた感想だった。
「し、七条くん。一年生の天城晶也くんなんですがね、君に彼のお世……ごほんっ、彼に……学校での過ごし方を教えてあげて欲しいと思っているんですよ——七条くんの言うことしか聞かないと言っていて、我々も手がつけられそうにないんです……」
いつもおっとりしている明日校長が若干涙目で、校長の後ろからガンを飛ばしてくる不良生徒から逃げるように耳打ちまでしてくるから灯希は困ったように眉を寄せた。
ここで引き受ければ明日校長の役に立てるかもしれない。何より、会長……中学時代に灯希を救ってくれた恩人にも褒めてもらえるかもしれない。
人を助け、導くことが七条灯希の使命。
明日校長の後ろで騒ぐ生徒は……。見た限りでも、やたらとさらさらしているオールバックの金髪。両耳に十以上、唇に一つ、ここまでくると服の下にもつけていそうなピアス。かかとの踏まれた上靴。だらしなく着崩すにもほどがある制服は、本来感じさせる格式高さなど見る影もない。そのうえ常に周囲を睨みつけるような深緑の三白眼と、口の悪さ。
見るからに不良。灯希とは対局の存在。
今回は、少しやんちゃな後輩を手助けするだけ。
灯希の父親や兄に比べれば……可愛いものだ。
手助けを求める人がいるのなら、それに応えることが灯希の生きがいとなる。それがたとえ、灯希をぞんざいに扱い、傷を刻んでいった家族、八方美人と罵り喧嘩をふっかけてきた馬鹿と同じ、不良という存在だとしても。
「構いませんよ。俺でよければ、お引き受けいたします」
「……! ありがとうございます、それでは、老いぼれはこれで失礼しますよ」
小走りで逃げるように去って行った明日校長がいなくなれば、残るのは目の前の不良と、灯希のみ。
「天城くん、だったかな。よろしくね。直々のご指名だったみたいだけれど、どうして俺を?」
こうして向かい合うと、かなりタッパがある。差は五センチくらいか。
灯希も日本男子の平均身長より少し高いくらいの上背はあるが、そんな灯希から見ても天城は街中を歩けば周囲より頭ひとつ分高く、顔も整っているのだろうし目立つに違いない。と、見当を立てて様子を窺う。
「……」
「……もしかして人違いだったとか? それなら——」
「とうき」
なかなか返答がないからと助け舟として別の質問をするも、今度は言葉を遮られて噛み合わない会話にどうしたものかと頭を抱えたくなる。
「はい……?」
「お前の名前、とうきって読むんだな」
「そうだけど、どうしたの?」
「……」
聞けば、ぷい、と背けられた顔。いや、小学生じゃないんだから。とツッコミを入れたくなるような幼い仕草に灯希は苦笑を漏らす。
先輩後輩がどうとか、強く言うたちではないけれども。初対面の相手に名前で呼び捨て、そのうえ質問を無視とはいかがなものか。
まあ、殴りかかってこないだけマシと考えるべきなのか。灯希は呆れつつ、笑みを崩さないように努めた。
天城は長い足を肩幅以上に開いて立ち、腰に当てた片手は着崩した制服にめり込んでいる、と表現するのが相応しいほどシワを作っている。
眉間にも深いシワを刻んだ物騒な表情をしているんだから明日校長があれだけ怯えて見せるのにも納得がいった。確かに、こんないつでも殴ってきそうな形相で、獰猛な肉食獣じみた深緑の三白眼に睨まれたならば竦み上がってしまうだろうと。
灯希は基本へらりと微笑みを浮かべ、一線を引いて接する。そのためこの手の人間とは相性が悪い。どうしたものかと細く息を吐き出す。それが決してため息にはならないよう、慎重に。
もし、天城の面倒を見ている途中で「自分には無理でした」と、八の字に眉を垂らせば教師も誰も文句は言わないだろう。それどころか、引き受けようとした心持ちに対して礼を述べてくるかもしれない。
罵倒されるなら、まだいい。
けれど、もしそんな風に気を遣われたら、もし恩人である会長に期待外れだったと冷たい目を向けられたら。想像しただけで血の気が引いていく。
舐められれば終わり。
それならば。相手も同じ人間だ。優しく、けれど甘さは見せず接すればいいかと今後の方針を組み上げていた灯希は気づかなかった。
会話するには不自然なほどとられていた距離が、緩く手を伸ばせば触れられるくらい詰められていたことに。
「天城く——」
「灯希、やっと見つけた」
にたり、と。凶悪な笑いが浮かべられたのを捉えた途端。
伸びてきた手に強い力で腕を引かれ、生徒会室の外へ引っ張り出される。よろけた体は背後で閉ざされた扉に押しつけられて、けれど後頭部に回された手に衝撃は吸収され頭痛めることはなかった。
衝撃に備えて思わず瞑った目を瞬かせて、開いた瞬間。長い片腕が抱きすくめるように首裏を通って反対の肩まで巻きつく。もう一方の手には後頭部をがしりと掴まれ、上を向かされた。
「ん……⁈」
拳一つも入らない至近距離で、交わる視線。鋭く光る猫のような深緑の目に少し上からじっと見つめられ、逸らすこともできないまま、唇に触れた、熱。温かい息が鼻にかかる。
ぞくりと背骨を這うように走った妙な感覚に呼吸が乱れた。上手く吸えなくなった冷たい空気が欲しくて、目の前の厚い胸板を指先で押し返す。
「はっ……けほっ」
ようやく間近にあった非日常的な熱が離れて息を吸い込めば、肺へ送り込み過ぎた空気に何度かむせる。
口元を押さえながらくらりと揺れそうになる足取りで距離を取ると、くつくつと押し殺すような笑いが雨の音に混ざって廊下に響いた。
「……初対面の相手に合意もなく触れるのはどうかと思うな」
へらりと笑って取り繕いながら、警戒を最大まで引き上げる。氷のように冷たい、なんて言われることもあるアンバーの目で天城を軽く睨め上げた。
「だって、初対面じゃねーし」
「え?」
「覚えてねーの?」
「知らないよ」
人違いなんじゃないかな、と言いかけて。捨てられた痛みに耐える子犬が脳裏を過ぎる、そんな表情を垣間見て灯希は思わず口を噤んだ。
「……っそ。じゃあ」
感情の読めない、無彩色な笑みを貼り付けて見つめてくる天城は獰猛な狩り人か、ただの飢えた哀れな獣か。一歩詰められた距離に後退れば、今度はその一歩分を詰められることはなかった。
暫し深緑の三白眼と牽制し合う。見定めるその目を逸らしてしまえば負け。たちまち急所を見せ獲物と化してしまうようで、灯希はこくりと小さく喉を鳴らして不安を飲み下した。
「——ちゃんと思い出せよ。灯希副かいちょー」
天城の顔に勝気な色が宿る。年相応な顔が小首を傾げていたずらっぽく笑うと、後ろへ流した猫っ毛の金髪がさらりと揺れた。
その姿に灯希は純粋に不思議だ、と僅かに目を見張る。
気崩した制服も、時折ドスが効いて荒い声も、校則違反のピアスと髪も。灯希が好ましく思えない部分ばかりで、逆に好ましいと思える箇所を探すほうが困難だというのに。それなのに、いかつい様相にほとんど隠されてしまっているものの、ちらりと覗く高校一年生という肩書きに相応しい幼さ。
それを見出してしまえば、隠すこともせずわざとらしいため息を吐き、天城を見上げた。
「善処はしてみるよ。でも、まずは君にこの学校について教えないとね。そのための俺なんだから」
にっこりと。灯希はこれまで生きてきて、すっかり染み付いてしまった薄い笑顔の膜をたたえた。
天城が声を発さぬまま向けてくる、すっと細めた胸中を探る眼に気づかない……隙ある男のフリをして。
○
睨み合いもほどほどに、そろそろ校舎内を案内しなくては。いざ案内をと手を打ち鳴らし、天城を呼ぼうとしてその恰好に灯希が硬直したのはもう十分も前のこと。
こんな、絵に描いた不良のごとき恰好で校内を歩き回られたら生徒たちを怖がらせてしまうだろう。それは困る。学校をより良く創っていくのが生徒会の役割だ。その副会長ともあろう者が不良を連れ立って歩いていたら。予想されるさまざまな未来に頭を振り、緩く持ち上がっていることの多い口角を下げる。
天城を生徒会室に招き入れ、あの手この手を尽くして説得した結果。体感一時間、実際には十分経ったかどうかというところでようやく天城からピアスを取り上げることに成功した。
「へえ、ピアス取るだけでもかなり印象変わるんだね。こっちもいいんじゃないのかな?」
「……」
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く天城は何か言いたげな、けれど満足そうにも見える妙な表情を浮かべている。
いかつい飾りをなくした耳は穴だらけで、灯希はその痛々しさに眉を寄せそうになるのをすんでのところで堪えた。
その代わりに強く握り締めた手。体の横に下ろした灯希の手の中、天城の両耳と唇を飾っていたピアスはじゃらりとぶつかり合う。音を立てるも、それは灯希の手のひらへ吸収されて聞こえることはなかった。
「あと二十分あるし、簡単に校内を案内するよ」
本当は気崩した制服も、鋭い眼光も直して欲しいところだけど……なんて湧き出る文句は暖房に暖められているものの、冷たさの残る空気とともに吸い込んだ。
生徒会室の重厚な扉へ手をかけ、力を入れる前に内開きの扉が迫ってきて小さく肩が跳ねた。
「わっ」
「灯希? すまない、ノックはしたんだが」
「碧葉(あおば)会長……! すみません、考えごとをしてて。気をつけるよ」
青みがかった短い黒髪に、垂れた碧眼。さほど変わらない高さで合った目に、灯希はふわりと頬を緩めた。
「あまり考え込むんじゃないぞ? 何かあれば俺たちに相談すること」
「ふふ、はぁい。分かってるよ。今回はそういうのじゃないから、大丈夫。ありがとうね」
灯希と同じく二年の一ノ瀬碧葉。中学時代から碧葉が生徒会長で、灯希が生徒会副会長。明日中学に引き続き、明日高校でも二年に上がると同時に碧葉と灯希は会長と副会長の座に就いた。
三年生が生徒会長を務めるべきだ、という声も中学時代にはあるにはあったが。内気な生徒の多い三年と意欲的に生徒会長へ立候補し、事実、過去に類を見ない画期的な行事やイベント活動を多くこなしていたら高校では学年に関するブーイングを聞いたことはない。
中学時代、傷跡を背負い、家に居場所がない灯希を「生徒会のお泊まり会」と称して家に招いてくれたり、家庭環境や進路について相談に乗ってくれたりした兄のような存在。
灯希にとって返しきれない恩があり、もっとも尊敬し慕っている人物だ。
話さない限り深入りはせず、けれどそっと温かい手を差し伸べてくれるヒーロー。幼い例えにむず痒さを覚えるも、その言葉が似合うのは碧葉くらいだと灯希は思い続けている。
「……灯希」
「ん、どうしたの?」
ふいに碧葉が灯希の背後を見てから耳元に口を寄せてきた。
「先ほど明日校長に聞いたが、あれが転校生の天城くんか?」
「そうだよ。明日校長に頼まれたから、これから校内を案内する予定」
「ああ、案内は頼む。……プライベートなことに口出しするつもりはないんだが、そのだな。人目には気をつけるべきだと思う。ここは学校だからな」
「……?」
「それだけだ」
ぽん、と肩を叩かれ生徒会室へ入って行った碧葉の背を見送ると、天城に思い切り睨みつけられた。
碧葉は天城に軽く自己紹介をしたらしい。けれどその間も睨みつけてくる視線が逸れることはなく、碧葉からの言葉に疑問を浮かべながら肩を竦めた。
「灯希、行くぞ」
また強い力で腕を掴まれ、ずんずんと大股で歩く天城に足をもつれさせながらついていく。碧葉に軽く一礼すると、碧葉からは困ったような表情を、天城からは鋭い睨みを向けられた。
「ちょっ、痛いよ。どうしたの」
案内しようと思っていた方向とは正反対に進んでいく天城を止める間もなく。ただ綺麗に磨かれた廊下を駆け足になって叩いていく。
不規則な足音を立てていれば、ようやく速度を緩めた天城に灯希は僅かに鋭く細めた目を向けた。
「ねえ、天城く——」
「晶也」
「……うん?」
「晶也って呼べ。あいつのことは名前で呼んでんだろ」
「あいつ……って、碧葉会長のこと?」
「……」
黙りこくって睨みつけてくる。
灯希は天城の性質を掴み始めた気がして、それまで抱いていた警戒心が少しばかり溶けるのを感じた。存外幼い心理と、行動と。なんだ、可愛らしい後輩じゃないか。
お気に入りのおもちゃを取られて拗ねる犬のような、さっきだって、言うことを聞いて褒められるのを待つ健気な子どものような。
「ふふっ……」
「あ? んだよ急に」
「ううん、なんでもないよ。ほら、案内してあげるから。一回で覚えろとは言わないけど、大事な教室は覚えるんだよ。晶也」
「……! おう」
「んっ、ふ……」
きっと、犬の尻尾がついていたらぶんぶんとご機嫌に左右へ振っているんだろう。いや、晶也の場合は狼のほうが近いだろうか。
掴まれていた手は解かれており、晶也の一歩前へ踏み出す。「行こうか」と僅かに輝いて見える晶也の顔を覗き込みながら、灯希は浮かびそうになる笑みを堪えた。
○
「灯希ふくかいちょー」
「はい……って、また来たの? 晶也」
「おう」
「ノックしてって、いつも言ってるよね」
「……」
昼休憩が始まり、灯希は足早に生徒会室へ向かった。誰もいない中、自分の席につき次の専門委員会で使う資料をまとめいるとすぐに響いた扉の開けられる音。
姿を現したのはやはり晶也で、軽く注意すればそっぽを向いて乱雑に頭をかいている。手の動きに合わせて細い金髪は揺れ動き、形の良い額にいくらか金糸の髪が垂れていた。
「チッ」
垂れた髪をうざったそうにかき上げてしまえば、すぐに見慣れた金髪オールバックの眼光が鋭い不良が戻ってくる。
いつつけ直したのか、朝に外させたピアスは半数耳に戻っており、出しっ放しのシャツに隠れようとするベルトは引き抜かれていたけれど。
じっと晶也の動きを観察していれば睨まれた。二週間過ごして灯希が心得たのは、晶也が睨んでくるのは甘えているのだということ。
要するに、構って欲しい、約束を守ったから褒めろ、とでも言いたげなときにあの目を向けてくる。単純に気に食わないときも睨まれるから、さすがに上手く判別はつけられないものの。
「はいはい、今日もちゃんと昼休憩空けておいたから。行こっか」
「はい……って、は⁈」
「え」
「ち、ちげーし! 今のはあれだ、あー……」
ぼっ、と赤く染まっていく顔。ぶっきらぼうな声か、意地の悪そうな声しか聞いたことがなかったから焦ってうわずった声は新鮮だった。言い淀み、言い訳が見つからなかったのだろう。舌打ちをして、赤い顔を隠すように手で覆い顔を背けられる。
「ぷっ、ふふ……」
こうして、晶也が時折見せる年相応な可愛らしい一面。それに灯希はめっぽう弱かった。くつくつと飲み込み切れない声が漏れて、笑ってしまうのを必死に堪えようとして腹筋がきゅうと収縮するのを感じる。
耳まで赤くした晶也が顔全体を覆っていた手を少しばかり下げ、ギロ、と睨みつけてきたのが極めつけだった。
「んふ、ふ、あははっ……!」
両腕を抱えて、ついに灯希は抑え切れなくなり声を上げて笑い出す。だって、ずるいだろう。大きな図体で、ガラの悪そうな装いで、目が合ったかと思えば睨んできて。それでいて、こうして気まぐれにいじらしい一面を見せてくる。
ひぃひぃと乱れた呼吸を繰り返していると、気づかない内に晶也が机をはさんで灯希の目の前へと来ていたらしい。頭上に影が落ちたことで、ようやく晶也の気配に気づいた。
分かっていても止められず、込み上げる笑いに肩を震わせ続ける。こんなに笑ったのは一体いつぶりだろう。少なくとも、中学生のときにはもう、こんな大声を上げて笑うことなんてなかった。
晶也も、あれほど赤くした顔を他の誰かにも見せたことがあるのだろうか。
そんなことを聞けば「んなわけねーだろ」と睨まれそうだ。けれど、それ以前に早く笑うのを辞めないと、「笑ってんじゃねー」なんて言葉がチョップかデコピンかとともに降ってきそう。
今日まで晶也と接してきて、ここで浮かぶのが殴る蹴るではなく、チョップかデコピンなこともまた面白くて、いい加減呼吸も上手くできずに苦しく、涙腺もバカになってしまった。
「……ふっ、灯希も、そんな風に笑うのな」
「ん、っふふ、えぇ?」
人差し指と中指を合わせて涙を拭い、晶也を見上げて。
「っ……」
そこにあったのは、甘く、柔らかすぎるほど穏やかな微笑み。
親が赤子に、教師が生徒に、恋人が愛しの人へ向けるような、慈愛だとか、恍惚とした、だとか。そんな表現が相応しいだろう笑い方。
目尻にきゅっと薄いシワを寄せて、ぞんざいな言葉の放たれる口が緩やかに弧を描く。深緑の瞳が、深く、重く、けれど澄んでいて。
そんな風に笑うのな、なんて。
そう言いたいのは灯希のほうだった。
ふと、灯希を見下ろしてきながら小首を傾げたせいで、はらりと額へ多めに髪の束が落ちたとき。髪が目に入ったのか、深緑の目を隠すように伏せたとき。
どくん、と強く心臓が脈打ち、灯希の記憶が存在を主張してきた。
「……?」
こくりと喉を上下させて、もう笑っていないのにじわりと溜まっていく熱。
無彩色な世界を生きていた中学時代。灯希の固まってしまった心を動かした少年がいる。傘もささずに公園のベンチへ腰掛けて、金糸のような髪にたっぷりと雨水を含ませていた少年が。
ぼろぼろの服を身に纏い、冷え切った美しい目で……。彼も、曇り空の下で大粒の雨水に濡れた木の葉のような、深く、重く、けれど芯のある目を持っていた。
「な、ん……」
『——ちゃんと思い出せよ。灯希副かいちょー』
にやりと悪党も真っ青な笑みを刻んだ不良の転校生と、灯希の目の前で砂糖菓子より甘く綿より柔い微笑みを向けてくる晶也と。
その顔全てが、記憶の中にいる無機質な美しさをまとった少年と、重なってしまったような気がして。
もう一度、どくん。と強く脈打った心臓とつんと熱くなった目頭に、崩れかけてしまっている笑顔の膜の下で灯希は気づかぬフリをした。
○
校舎の四階は、今は使われていない教室たちが並んでいる。そんな四階と食堂や特別教室のある三階普とを繋ぐ階段の踊り場は、この一ヶ月ですっかり灯希と晶也が話す場所として定着していた。
校内を軽く散歩、ではなく案内した後にここへやってきて予鈴が鳴るまで時間いっぱい談笑する日々——。
食堂の喧騒がぼんやりと耳に届く中、ゆったりと灯希が口を開いた。
「……ねえ、晶也」
「あ? んだよ灯希」
「そろそろ覚えたんじゃないのかな。俺、もう一ヶ月は君に付き合ってると思うんだけど……」
「……」
晶也と過ごして、物騒な見た目に反して睨んでくるだとか、顔を背けるのだとか、そういった仕草の裏に幼いいじらしさを見出していた。最近では不服なとき、構って欲しいとき、褒めて欲しいときの見分けもつくようになってきてしまっている。可愛い後輩ができたと、そう思ったけれど。
どうやら晶也も、灯希がその仕草に甘いことをこの一ヶ月で覚えたらしい。近頃、灯希が「そろそろ……」と切り出す度に黙りこくってそっぽを向くようになっていた。
出会って一週間の内は灯希が目を離すとどこに予備があるのか、あのゴテゴテしたピアスをつけ直していたけれど。最近は学校では外すか、透明なものをつけるようになって。
制服も第四ボタンまで開けられているとはいえ、以前よりだらしなさはなくなった。
上靴のかかともたまに踏んでいるけど、注意すれば直すようになって。
金髪については「地毛だけど」と生え際を見せられて灯希は思わずアンバーの目をこぼれ落ちそうになるくらい見開き、ふわふわと手触りの良い髪を撫でてしまったが……それさえももう、どこか懐かしい。
最初は怯えていた晶也のクラスメイトも、灯希が仲介すると不器用なだけで存外人柄の良い晶也を受け入れていた。体育では凶悪な笑みを浮かべる晶也と、騒ぎながらパスを回す友人らの姿だって見ることができたわけで。
さらには明日校長と化学教師を交え、炭酸飲料を使った話で盛り上がっている様子を見かけたこともある。
つまり、もう灯希の役目は果たされたのだ。
一日で終わるはずの学校案内が一ヶ月も続いており、生徒会室で過ごしていた昼休憩は晶也と会う時間に置き換わってしまっているだけで。
季節も移ろおうと準備を始めたらしく、太陽が空でくつろぐ時間も増えてきた。卒業式までも、もう一ヶ月を切っている。これから生徒会は卒業式や入学式の準備でより一層多忙になるし、こうして昼休憩に会うことは難しい。
「晶也」
踊り場の端っこで右肩は壁につけて、背はもたれないよう晶也と隣り合って座って。笑みの膜は貼り付けたまま、けれど困ったような表情を滲ませて晶也を見ようとしたときだった。
灯希の右頬のすぐ横でドン、と大きな音が鳴った。息を呑んだせいでみぞおちのあたりに浮遊感に似た妙な感覚も覚える。ふわりと空気も揺れて、黒い前髪が視界の端をかすめていく。
「まだだろ」
「え?」
「まだ、オレのこと思い出してねーだろ。灯希」
「っ……」
蘇るのは、二週間前の記憶。
晶也が昼休憩に、灯希以外誰もいない生徒会室を訪れることが日常となりつつあった頃。
勘違いしそうな温かい目を向けられて、花が咲くより、昇る朝日が空を何色にでも気ままに色付けていくより、灯希にとっては美しい微笑みを向けられて。
あの日から、灯希は晶也との掴めない距離感に頭を抱えたくなりながら今日まで耐えてきていた。
晶也が言いたいことも、きっと分かっている。灯希が思っていることと、きっと一緒のこと。けれど、それを口にしてしまえば全てが変わってしまう。
必要以上に距離を詰めてはいけない。手を伸ばせば届く距離にいたとしても、欲に負けて掴んでしまえばその手はいつか振り解かれる。
何か一つのきっかけで、全てが悪いほうへ豹変してしまう苦しみを知っている。
母親のいなくなった灯希の家族がそうだった。
もし、もう一度。事故とも言える唇に触れた体温を求めてしまえば。愛情の滲み出すような柔らかい笑みに縋ってしまえば。今までなくとも耐えられた人の温もりを求めてしまう。
「オレは変わってねーぞ。嫌な奴んとこに毎日通わねーし、転校もしねーっての」
思考を読まれたかのようなタイミングと言葉に息が詰まる。「俺が嫌がる可能性は考えてくれなかったの?」とふざけてしまおうと開いた口は、その言葉を声に乗せることもせず再び閉じてしまった。
「……キス、は。あのときの仕返し?」
「っ!」
欲に、負けてしまった。手を伸ばしてしまった。
合わせられず、指先で遊ばせていた名前入りのボールペンに向けていた目をそろりそろりと晶也の元まで向かわせ、いたずらに笑みの膜をたたえてみる。
あの雨の日、まだ不良のような姿をしていなかった……晶也と出会った日。気づくと灯希は頬に雨を伝わせながら、彼の冷えた額へ唇を寄せていた。
記憶の中の彼は、突然のことに目を見張っていたと思う。
「こっちは、あれからずっと……」
柔らかい笑みに苦労の色が滲むのを見届ければ、無骨な手が伸びてきた。頬の辺りでためらうように固まった手と、ぎゅっと眉間に寄せられたシワ。
一度伸ばしてしまったなら、何度縋ろうと変わらないものだろうと灯希は自分の手よりも逆剥けも多く、皮の厚い手をとって手の甲にそっと口を寄せてみた。
「おっ、ま……」
「ふふ。俺のこと調べて、ここまで追ってきてくれた割には奥手なんだね」
きっと、再び真っ赤に顔を染めた晶也に負けないほど、熱を頬に差して灯希は強がりを口にする。どくどくと脈打つ心音と、どうしても垂れてしまう眉は隠せそうになかったけれど。
「ハッ、あいにく惚れた奴が壊れやすいもんでね。加減がわかんねーんだわ」
真っ赤になった顔で見つめあって、暫くして二人して同時に吹き出した。
握っていた手が離れ、離れていった手に顎を掬われた。
どろりと濁って、瞳孔の開いた甘い深緑がやけに鮮やかに見える。
約束を守り、いかつい飾りをなくした穴だらけの耳は強く優しい晶也を現しているようだな、と考えて灯希は慣れない下手くそな微笑みを浮かべてみせた。
「灯希。もうオレ以外見んな」
「今までも、君を見るので精一杯だったんだよ?」
拳一つも入らない至近距離で、交わった視線。すぐに鋭く光る猫のような深緑の目は瞼の裏に隠されて、灯希もそっとアンバーの目を伏せた。とくりと期待に心音が跳ね、じわりと胸から抱え切れなくなった想いが溢れる。
そうして、甘やかな熱が触れ、目尻から熱い涙がこぼれたのと、息と体温を分け合ったのはほんの瞬きの後だった。
