──愛が重い。
──物理的にも愛が重い。
朝の教室。一番後ろの窓際の席に座る俺の背中には、背後霊がのしかかっていた。
その背後霊の正体は、幼馴染の一ノ瀬愛。
名前を聞くと、100%女の子に間違われるのだが、コイツの姿を見た人は、皆、顔を少し赤くして「男だったんだ」と言う。
180センチを超える身長。ゆるいウェーブがかったクセ毛は、襟足の辺りが少し長い。
この幼馴染は顔も良く、周りの女子からは「アイちゃん」「アイ王子」などと呼ばれていた。
片や、俺はというと、平凡が制服を着ている一般男子。
周りの女子が「もへじ顔」「モブ」と言ってるのを耳にしたときは、ちょっとだけ悲しくなった。
「……おい、アイ。いい加減離れろよ」
「ヤダ。ナオ君と離れるのヤダ」
「もうすぐ先生来るぞ」
「チャイムがなったら、教室に行く」
このやり取りは、毎朝、俺達の間で行われている、当たり前の光景だ。
高校に入学したばかりの頃は、クラスの皆も驚いていたのだが、もう慣れたものらしい。
今となっては気にする者など誰もいなくなった。
「どうして俺は、ナオ君と同じクラスじゃないんだ……」
アイと俺はクラスが別。アイは隣のクラスになる。
俺のことを日頃から『大好きだ』と恥ずかしげもなく触れ回っているコイツは、朝のホームルームの時間まで、いつもこうやってくっついていた。
──キーンコーンカーンコーン。
ホームルームの合図が鳴る。俺は背後霊のアイの手を叩いて、隣の教室へ行けと促す。
アイは、眉を下げてきゅうんきゅうんと鳴く子犬のような表情を見せながら、口を開いた。
「ナオ君またね。また後でね。すぐ来るからね」
「へーへー分かった。だから早く行けって」
毎朝毎朝、こんなやり取りをして、アイツは俺から離れる。
教室のドアが開いて、先生が現れた。やっと訪れるひとりの時間。
俺はホッと小さな息をはいた。
**
キーンコーンとチャイムが鳴る。
午前の授業が終わり、お昼休みの時間を告げる音だった。
教室からは購買に向かってダッシュする男子、食堂に向かう女子。お弁当持参組みは、机をくっつけ合ってグループになる。
(……あれ?)
いつも飛んでやってくるアイが来ない。
時計の針が一分、また一分と進んだが、教室の後ろのドアがガラッと勢いよく開くことはなかった。
(どうしたんだ……アイツ)
今朝は、なにか用事があるとか言っていたかな?
朝の会話を思い出してみるが、そんなことは一言も言ってなかった気がする。
スマホをポケットから取り出し、アイツからメッセージが届いているかを確認してみたが、それもなかった。
(……まぁ、いいか)
俺はカバンの中から、菓子パンと総菜パンを取り出す。ペットボトルのお茶を持って、学校の裏庭に出た。
木の陰に隠れたベンチに座って、パンを頬張る。ここはちょっとした穴場スポットになっていて、このベンチの存在に気づいている人は少ない。
ここはアイといつもお昼を食べている場所だ。
だから、ここにいればアイツもそのうち、やって来るだろう。
総菜パンを食べ終わり、ペットボトルのお茶を飲む。そして、菓子パンの袋を開けて、それにかぶりついた時、背後から声がした。
「──あれ? 今日は、君ひとり?」
「……へ?」
低く、そして、程よく通る声。
振り返ると、そこにはアイに負けないくらいの顔面の持ち主──生徒会長がそこにいた。
「こんにちは。隣……座ってもいいかな?」
「ど、どうぞ……」
生徒会長は「ありがとう」と言って、ベンチに座った。
なぜ、こんなところに生徒会長が? と混乱している俺をよそに、この人は話しかけてくる。
「今日は、いつも一緒のあの子はいないのかな?」
「あの子って、アイのことですか? 今日はアイツなんか用事があるみたいで、まだここに来てないんです」
やっぱり。俺のことは『アイといつも一緒にいるヤツ』として認識されているんだな。
もしかして、生徒会長が話をしたかったのは、俺じゃなくアイだったのかも。
そりゃそうだよな。だって、俺、生徒会長と面識ないし、話すのもこれが初めてだし。
「……そうなんだ。それはラッキーだったな」
「……ん?」
「ちょうど君とは、一度話をしてみたいと思っていたんだ」
「えっ……俺と、ですか?」
「そう。あのさ、君は生徒会に興味はある? 入ってみる気は、ないかい?」
生徒会長が、にっこりと笑ってそう告げた。
俺は、想定外のお誘いの話に、目を白黒させる。
初めて会話した相手を生徒会に誘うというのは……どういうことだろう?
少しだけ考えて、その答えにすぐたどり着いた。
「俺を誘うことで……アイを生徒会に入れたい……?」
「──ご名答。いいね。うん。やっぱり……君、いいね。思ってた通りだ」
「思ってた通り?」
「学園の王子様とやらが、あれだけ周りに牽制して、執着を見せる相手は、どんな人なんだろうって思ってたけど……なるほどね」
生徒会長はひとりで勝手に何かを納得している。
頭の良いイケメンは、何を考えているのか分からん。
そう思った俺は、菓子パンを食べることを再開した。
パンを全部食べ終わって、袋を手の中で丸める。
すると、隣に座っていた生徒会長がクスッと笑った。そして、俺の口元に手が伸びてくる。
「ついてるよ」
そう言って、俺の口端を親指で拭う。
菓子パンのクリームがどうやらついていたようだ。
白いクリームのついた親指を、生徒会長がペロリと舐めた。
俺はそれを見て、慌てて口を開く。
「い、言ってくれれば、自分で拭いたのに……!」
俺の反応を見た生徒会長は、にっこりと笑った。
そしてベンチから立ち上がると、ポケットからスマホを取り出し「どうやら時間切れのようだ」とつぶやく。
「成宮尚君。生徒会の件、考えておいてね。アイ君だけでなく、君も生徒会に必要な人材だと思うから。それじゃ、また会おうね」
生徒会長は、左手をズボンのポケットに入れ、右手をひらひらと振って去って行った。
俺はそれをポカンとした顔で見送る。
「……一体なんだったんだ」
突然、現れて、人を生徒会に誘って、口元を拭って、その指を舐めた生徒会長。
嵐のような人だった。
イケメンじゃなきゃ許されない行動も含まれていたけど、きっとあの行動は、分かってやっていたのだろう。
少しするとこっちに向かって走ってくる音が聞こえる。その音の方向に顔を向けると、それはアイだった。
「ごめん! ナオ君遅くなって……!」
「いや、別にいいけど」
「ちょっと邪魔が入ってさ……って、あぁっ! もしかして、もうお昼ご飯食べちゃった!?」
「うん。食べ終わった」
「ああ……そんな……」
アイがショックを受け、ガクリと頭を下げる。その勢いでドサッと隣に座った。
「昼休みなら、まだ時間あるんだし……お前、食べればいいじゃん」
「それはそうなんだけど……ご飯食べてるナオ君の姿を見損ねたなんて、噓でしょ……ショックが大きい」
「なんだそりゃ。いつも見てるだろうが」
「今日は、お昼は何を食べたの?」
「ソーセージの挟んであるパンと生クリームの入ったやつ」
「ああ……クリームを口につけたナオ君を見たかった……そのクリームを俺が拭ってあげたかった」
「──お前はどこの生徒会長だっ!」
思わずそうツッコミを入れる。すると、アイの動きがピタリと止まった。そして、目を見開いて、こちらを見ながら口を開く。
「……ナオ君、何でそこで生徒会長が出てくるの……?」
「ん? ああ、お前が来る前に、ここに生徒会長がいたんだよ」
「…………へぇ。そうなんだ。それで、その生徒会長様には一体何をされたの?」
「お前が今言っただろ? クリームを拭いたかったって」
「…………生徒会長が? まさか拭ったの? どこ? どこを触ったの?」
「どこって、この辺」
俺が口の端を指さすと、アイが厳しい顔つきになった。チッと舌打ちして、制服の袖でゴシゴシと俺の口を拭きだす。
「ちょっ! なんだよ! 痛ぇ!!」
「ごめんね。ごめんね。俺がすぐに来られなかったばっかりに……こんなこともう起きないようにするからね」
何度も何度も「ごめん」を口にするアイに、「もういいから早く食べろ」と促した。
**
──キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴って、本日の学業が全て終了したことを告げる。
すると、隣のクラスからアイが飛んできた。すぐにコイツは背後霊と化す。
「二時間ぶりのナオ君だぁ……!」
「へーへー。アイ、ちょっと邪魔」
俺は背後霊を引っぺがすと、カバンの中に宿題に使う教科書やペンケースを入れる。
そして、アイに「帰るぞ」と言うと、アイツも隣に並んで歩き始めた。
駅まで歩いて、そこから数駅ほどの所で下りる。そこから歩いて家まで10分といったところだ。
「今日は本当に遅くなってごめんね」
「またその話かよ。いいよ別に……。昼休みくらい離れてても、別に問題はないだろ?」
家に向かいながらそんな会話をする。
すると、アイは絶望したような顔を見せた。
「……ナオ君は、俺と離れたいの?」
「ん? いや、だから、昼休みくらい別に……お前だって、俺以外の誰かとご飯一緒に食べたいな~とかあったりするだろ?」
「あったりしない。俺はナオ君以外とご飯なんて食べたくない」
「俺とばっかりで飽きない?」
「飽きない。絶対、飽きない。俺はナオ君とずっと一緒にいたい。あと朝も言ったけど、本当ならクラスだって一緒がいいんだよ……」
そう言うと、コイツは俺の腕に自分の腕を絡めてくる。
ここは公道──俺たちの事情を知らない人とすれ違う場所でもある。こんなにピッタリとくっついていては、人によっては勘違いするだろう。
「おもっ! お前重いよ。いつも思ってたけど、そろそろ俺離れしないと、彼女とかできないぞ?」
「……なんでそんなこと言うの? 俺は彼女とかいらない。ナオ君は……欲しいの? 彼女」
欲しいか、欲しくないか、そのどっちかって言ったらそりゃ……。
「……欲しいかも?」
そう言うと、アイは横から抱きついてきた。
ぎゅうぎゅうと身体を締め付けて、視界も悪くなって、歩きづらい。
「おいっ! こんなところで抱きつくな!」
「こんなところじゃなければ、いいの?」
「ここは公道だっ! 家でも学校でもないんだぞ!?」
俺がそう言うと、アイが身体を少し離した。
「じゃあ、家だったら抱きついてもいい?」
「……聞かなくても、いつもくっついてるだろうが」
「そうだね。それじゃ、急いで帰ろう?」
「……言っておくけど、今それを邪魔してきたのは、お前だからな?」
そう言って俺はジト目を、アイツに送るのだった。
**
「ただいまー」
玄関を開けて、中に入る。ここはアイの家だ。
幼馴染のコイツの家は、俺の家の隣にある。
学校から帰ってきて、夕飯前くらいまで大体この家に入り浸っている。
うちは家族の仲はあまり良くないから、自然とここに居座ることが普通になってしまった。
アイも、アイのおじさんおばさんも、そんな俺を受け入れてくれている。ここは第二の家みたいな感覚になっていた。
靴を脱ぐ途中で背中に重いものが、のしかかってくる。
「お帰り。ナオ君」
「……まだ靴脱いでるんだけど?」
「家ならいいって、言ったじゃん。ねぇ……こっち向いて」
首を左に向けると、アイの顔が近づいてキスされる。
ちゅっちゅと音を立て、もう一度「お帰り。ナオ君」と言った。
ここは俺にとって第二の家みたいなものだけど、ひとつだけ困ったことがあった。それがコレだ。
アイのおじさんとおばさんは、ラブラブなので『いってきます』の時も『おかえりなさい』の時も、キスをする。
そんな環境で育ってきたコイツは、キスを挨拶だと思っているところがある。
高校生になった今でもこうやって、学校から帰ってきた時にはキスをしてくるし、朝も学校に行く前は、おはようとキスをする。
(もう慣れたけど、これもそろそろやめさせた方がいいんじゃないか……? 彼女ができたとき、絶対勘違いされる)
そんなことを考えながら、靴を脱ぎ終わると、勝手知ったるなんとやらのこの家のリビングへと向かった。
「おばさーん! 俺ちょっとお腹すいちゃった! なんか食べる物あ……あれ?」
「あ。ナオ君。今日は母さんも父さんもいないよ」
「いない? なんで?」
「今日はふたりの結婚記念日なんだ。だから、ちょっと旅行に行ってるんだよ」
「あー……そうなんだ」
そっか。それは一大イベントだよな。この家にとっては。
(ん? ……待てよ? ってことは)
「じゃあ今日はこの家にいるのはお前ひとり?」
「うん。そうだね。それでさ……ナオ君さえ良ければなんだけど、今日はうちに泊まらない? この前、ナオ君が気になってたゲームソフト、ちょうど買ったんだ」
「えっ!? マジ!?」
アイはそう言うと、自分の部屋に行って、すぐに戻ってきた。
その手には、俺が気になっていた『ドラディル・ファンタジー』のゲームソフトが握られている。
「ほら」と言って、アイは俺に渡してきた。それをひったくるように奪い取り、表パッケージを見た後、ひっくり返して裏側を見る。
「うわー! マジか! いいなぁ~!」
「今日なら遅くまで一緒にゲームできるよ?」
(ううう……超やりたい……!)
おばさんが、「私がいないときは、うちに泊まっちゃダメよ。まだ早いから」って言ってたけど……いいよな?
黙っていれば、バレないよな?
悪魔の囁きが、そう告げる。
おばさんの約束とゲームをやりたい欲望を天秤にかけたとき、それはゲームにガタンッと傾いた。
「アイ。俺、今日泊まるわ」
「本当!? 良かったぁ~! ナオ君がいるなら、夜も寂しくないね」
そう言ってアイツは、満面の笑顔をこちらに向ける。
ったく……高校生にもなって夜が寂しいとか、子どもか?
図体はでかくなったけど、アイはまだまだお子ちゃまなのかもしれない。
ふたりでまず宿題をして、アイが作った夕飯を食べる。お風呂を済ませて、ようやくお待ちかねのゲームタイムがやってきた。
俺たちはふたりで協力して、敵を倒す。三時間ほど遊んで、キリの良いところでゲームをやめた。
歯磨きをすると、アイの布団に一緒に入る。お客さん用の布団とか、予備はないのかと聞いたら、見当たらないとのことだ。
アイ曰く、「もしかしたら、母さんがクリーニングに出しているかも」とのことだった。
布団が少々狭いので、俺はアイに背を向ける形になり、アイは俺を抱きしめるようにくっついた。
俺の背中とアイの腹がピッタリとくっつく。
「やっぱ……狭いな……俺、家に帰ろうか?」
「もうちょっとくっつけば大丈夫じゃない?」
アイがぎゅうっと抱きしめる。そして、俺の首の辺りをスンスンと鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ始めた。
「おい、やめろ……息が、くっ、くすぐったい……!」
「ナオ君からいい匂いがする」
「お前のとこのシャンプーの匂いなんだから、お前も一緒だろ?」
「あぁ……そうだね。同じ匂いかぁ~……なんだか、それって同棲しているみたいで……いいね」
「同棲っつーか、まぁ、う~ん……今もほぼ半同棲みたいな感じじゃねぇ? ほとんどこの家に入り浸ってるし」
「うん。そうだね。もうこのままナオ君と一緒に暮らせたらいいのに……」
そう言いながら、アイはまだクンクンと匂いを嗅いでいる。
そして、その動きが突然ピタリと止まった。すると、背中から異様な空気を感じて、一瞬でぶわっと鳥肌が立つ。
アイが口を開く。
その喉から出てくる声は、地の底から湧き上がるような、ぞっとする声だった。
「今日のナオ君、悪い虫がつきそうだったよね。虫よけは、ちゃんとやっておかないと」
「虫? いっ──!?」
首にアイの唇を感じる。ちゅうぅううと強く吸われているのが分かった。
皮膚がチリチリと焼けつく。突然襲われた痛みのようなものに、思わず声が出た。
「──ってぇ! なにすんだよ!?」
「あ、うん。ごめんね。でも、これで大丈夫だから」
後ろを振り返ると、いつものニコニコ笑うアイだった。
さっきのゾワッと背中を走った鳥肌は一体なんだったんだろう?
なぜコイツが首に吸い付いてきたのか、虫よけと言ったその意味に、このときの俺は気づいていなかった。
アイの大きな手が、俺の頭を撫でる。
そして先ほどとは違う、いつもの優しいコイツの声に戻った。
「おやすみ。ナオ君」
「……ああ。おやすみ」
背中から伝わるアイの体温は温かい。
俺はすぐに眠くなって、そのまま闇に落ちてしまったのだった。
**
──翌朝。
アイに起こされて、慌てて着替え、学校へ向かい、ふたり一緒に家を出る。
学校に到着して、ホームルームが終わると、一限目は体育だ。制服から急ぎ、体操服に着替えた。
すると、着替えている途中で、隣の席のヤツが俺に向かってニヤニヤとしだした。
なんだかちょっと嫌な笑い方に「なんだよ」と声をかける。
「いやぁ~昨日はお楽しみでしたね?」
「はぁ……? 何言ってるんだ」
「お前、ココ。気づいてないの?」
そいつは左首の少し後ろの辺りを指さし、トントンと叩く。
気づいてない……? とは?
俺の顔に思いっきり「?」と書かれていたのだろう。
そいつはスマホを取り出すと、首元の写真を撮り、その画面を鏡替わりにして見せてくれた。
「──なっ!?」
そこに写っていたのは、キスマーク。
うっ血したそれは、明らかにキスマークだった。
クラスメイトに指摘されて、俺はそのことにようやく気づく。
慌てて、首元を押さえた。
そいつから差し出された絆創膏をありがたく受け取ると、俺はトイレへと走る。
鏡に映る真っ赤な自分の顔と対面しながら、首に絆創膏を貼りつけた。
(──あの野郎ぉおおおおおおお!! 許さん!!)
授業が終わり、休み時間になれば、アイはうちのクラスへやってくる。
そのアイに向かって、俺が怒髪天を衝くのは、もう少し後のことだった。
〈了〉
──物理的にも愛が重い。
朝の教室。一番後ろの窓際の席に座る俺の背中には、背後霊がのしかかっていた。
その背後霊の正体は、幼馴染の一ノ瀬愛。
名前を聞くと、100%女の子に間違われるのだが、コイツの姿を見た人は、皆、顔を少し赤くして「男だったんだ」と言う。
180センチを超える身長。ゆるいウェーブがかったクセ毛は、襟足の辺りが少し長い。
この幼馴染は顔も良く、周りの女子からは「アイちゃん」「アイ王子」などと呼ばれていた。
片や、俺はというと、平凡が制服を着ている一般男子。
周りの女子が「もへじ顔」「モブ」と言ってるのを耳にしたときは、ちょっとだけ悲しくなった。
「……おい、アイ。いい加減離れろよ」
「ヤダ。ナオ君と離れるのヤダ」
「もうすぐ先生来るぞ」
「チャイムがなったら、教室に行く」
このやり取りは、毎朝、俺達の間で行われている、当たり前の光景だ。
高校に入学したばかりの頃は、クラスの皆も驚いていたのだが、もう慣れたものらしい。
今となっては気にする者など誰もいなくなった。
「どうして俺は、ナオ君と同じクラスじゃないんだ……」
アイと俺はクラスが別。アイは隣のクラスになる。
俺のことを日頃から『大好きだ』と恥ずかしげもなく触れ回っているコイツは、朝のホームルームの時間まで、いつもこうやってくっついていた。
──キーンコーンカーンコーン。
ホームルームの合図が鳴る。俺は背後霊のアイの手を叩いて、隣の教室へ行けと促す。
アイは、眉を下げてきゅうんきゅうんと鳴く子犬のような表情を見せながら、口を開いた。
「ナオ君またね。また後でね。すぐ来るからね」
「へーへー分かった。だから早く行けって」
毎朝毎朝、こんなやり取りをして、アイツは俺から離れる。
教室のドアが開いて、先生が現れた。やっと訪れるひとりの時間。
俺はホッと小さな息をはいた。
**
キーンコーンとチャイムが鳴る。
午前の授業が終わり、お昼休みの時間を告げる音だった。
教室からは購買に向かってダッシュする男子、食堂に向かう女子。お弁当持参組みは、机をくっつけ合ってグループになる。
(……あれ?)
いつも飛んでやってくるアイが来ない。
時計の針が一分、また一分と進んだが、教室の後ろのドアがガラッと勢いよく開くことはなかった。
(どうしたんだ……アイツ)
今朝は、なにか用事があるとか言っていたかな?
朝の会話を思い出してみるが、そんなことは一言も言ってなかった気がする。
スマホをポケットから取り出し、アイツからメッセージが届いているかを確認してみたが、それもなかった。
(……まぁ、いいか)
俺はカバンの中から、菓子パンと総菜パンを取り出す。ペットボトルのお茶を持って、学校の裏庭に出た。
木の陰に隠れたベンチに座って、パンを頬張る。ここはちょっとした穴場スポットになっていて、このベンチの存在に気づいている人は少ない。
ここはアイといつもお昼を食べている場所だ。
だから、ここにいればアイツもそのうち、やって来るだろう。
総菜パンを食べ終わり、ペットボトルのお茶を飲む。そして、菓子パンの袋を開けて、それにかぶりついた時、背後から声がした。
「──あれ? 今日は、君ひとり?」
「……へ?」
低く、そして、程よく通る声。
振り返ると、そこにはアイに負けないくらいの顔面の持ち主──生徒会長がそこにいた。
「こんにちは。隣……座ってもいいかな?」
「ど、どうぞ……」
生徒会長は「ありがとう」と言って、ベンチに座った。
なぜ、こんなところに生徒会長が? と混乱している俺をよそに、この人は話しかけてくる。
「今日は、いつも一緒のあの子はいないのかな?」
「あの子って、アイのことですか? 今日はアイツなんか用事があるみたいで、まだここに来てないんです」
やっぱり。俺のことは『アイといつも一緒にいるヤツ』として認識されているんだな。
もしかして、生徒会長が話をしたかったのは、俺じゃなくアイだったのかも。
そりゃそうだよな。だって、俺、生徒会長と面識ないし、話すのもこれが初めてだし。
「……そうなんだ。それはラッキーだったな」
「……ん?」
「ちょうど君とは、一度話をしてみたいと思っていたんだ」
「えっ……俺と、ですか?」
「そう。あのさ、君は生徒会に興味はある? 入ってみる気は、ないかい?」
生徒会長が、にっこりと笑ってそう告げた。
俺は、想定外のお誘いの話に、目を白黒させる。
初めて会話した相手を生徒会に誘うというのは……どういうことだろう?
少しだけ考えて、その答えにすぐたどり着いた。
「俺を誘うことで……アイを生徒会に入れたい……?」
「──ご名答。いいね。うん。やっぱり……君、いいね。思ってた通りだ」
「思ってた通り?」
「学園の王子様とやらが、あれだけ周りに牽制して、執着を見せる相手は、どんな人なんだろうって思ってたけど……なるほどね」
生徒会長はひとりで勝手に何かを納得している。
頭の良いイケメンは、何を考えているのか分からん。
そう思った俺は、菓子パンを食べることを再開した。
パンを全部食べ終わって、袋を手の中で丸める。
すると、隣に座っていた生徒会長がクスッと笑った。そして、俺の口元に手が伸びてくる。
「ついてるよ」
そう言って、俺の口端を親指で拭う。
菓子パンのクリームがどうやらついていたようだ。
白いクリームのついた親指を、生徒会長がペロリと舐めた。
俺はそれを見て、慌てて口を開く。
「い、言ってくれれば、自分で拭いたのに……!」
俺の反応を見た生徒会長は、にっこりと笑った。
そしてベンチから立ち上がると、ポケットからスマホを取り出し「どうやら時間切れのようだ」とつぶやく。
「成宮尚君。生徒会の件、考えておいてね。アイ君だけでなく、君も生徒会に必要な人材だと思うから。それじゃ、また会おうね」
生徒会長は、左手をズボンのポケットに入れ、右手をひらひらと振って去って行った。
俺はそれをポカンとした顔で見送る。
「……一体なんだったんだ」
突然、現れて、人を生徒会に誘って、口元を拭って、その指を舐めた生徒会長。
嵐のような人だった。
イケメンじゃなきゃ許されない行動も含まれていたけど、きっとあの行動は、分かってやっていたのだろう。
少しするとこっちに向かって走ってくる音が聞こえる。その音の方向に顔を向けると、それはアイだった。
「ごめん! ナオ君遅くなって……!」
「いや、別にいいけど」
「ちょっと邪魔が入ってさ……って、あぁっ! もしかして、もうお昼ご飯食べちゃった!?」
「うん。食べ終わった」
「ああ……そんな……」
アイがショックを受け、ガクリと頭を下げる。その勢いでドサッと隣に座った。
「昼休みなら、まだ時間あるんだし……お前、食べればいいじゃん」
「それはそうなんだけど……ご飯食べてるナオ君の姿を見損ねたなんて、噓でしょ……ショックが大きい」
「なんだそりゃ。いつも見てるだろうが」
「今日は、お昼は何を食べたの?」
「ソーセージの挟んであるパンと生クリームの入ったやつ」
「ああ……クリームを口につけたナオ君を見たかった……そのクリームを俺が拭ってあげたかった」
「──お前はどこの生徒会長だっ!」
思わずそうツッコミを入れる。すると、アイの動きがピタリと止まった。そして、目を見開いて、こちらを見ながら口を開く。
「……ナオ君、何でそこで生徒会長が出てくるの……?」
「ん? ああ、お前が来る前に、ここに生徒会長がいたんだよ」
「…………へぇ。そうなんだ。それで、その生徒会長様には一体何をされたの?」
「お前が今言っただろ? クリームを拭いたかったって」
「…………生徒会長が? まさか拭ったの? どこ? どこを触ったの?」
「どこって、この辺」
俺が口の端を指さすと、アイが厳しい顔つきになった。チッと舌打ちして、制服の袖でゴシゴシと俺の口を拭きだす。
「ちょっ! なんだよ! 痛ぇ!!」
「ごめんね。ごめんね。俺がすぐに来られなかったばっかりに……こんなこともう起きないようにするからね」
何度も何度も「ごめん」を口にするアイに、「もういいから早く食べろ」と促した。
**
──キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴って、本日の学業が全て終了したことを告げる。
すると、隣のクラスからアイが飛んできた。すぐにコイツは背後霊と化す。
「二時間ぶりのナオ君だぁ……!」
「へーへー。アイ、ちょっと邪魔」
俺は背後霊を引っぺがすと、カバンの中に宿題に使う教科書やペンケースを入れる。
そして、アイに「帰るぞ」と言うと、アイツも隣に並んで歩き始めた。
駅まで歩いて、そこから数駅ほどの所で下りる。そこから歩いて家まで10分といったところだ。
「今日は本当に遅くなってごめんね」
「またその話かよ。いいよ別に……。昼休みくらい離れてても、別に問題はないだろ?」
家に向かいながらそんな会話をする。
すると、アイは絶望したような顔を見せた。
「……ナオ君は、俺と離れたいの?」
「ん? いや、だから、昼休みくらい別に……お前だって、俺以外の誰かとご飯一緒に食べたいな~とかあったりするだろ?」
「あったりしない。俺はナオ君以外とご飯なんて食べたくない」
「俺とばっかりで飽きない?」
「飽きない。絶対、飽きない。俺はナオ君とずっと一緒にいたい。あと朝も言ったけど、本当ならクラスだって一緒がいいんだよ……」
そう言うと、コイツは俺の腕に自分の腕を絡めてくる。
ここは公道──俺たちの事情を知らない人とすれ違う場所でもある。こんなにピッタリとくっついていては、人によっては勘違いするだろう。
「おもっ! お前重いよ。いつも思ってたけど、そろそろ俺離れしないと、彼女とかできないぞ?」
「……なんでそんなこと言うの? 俺は彼女とかいらない。ナオ君は……欲しいの? 彼女」
欲しいか、欲しくないか、そのどっちかって言ったらそりゃ……。
「……欲しいかも?」
そう言うと、アイは横から抱きついてきた。
ぎゅうぎゅうと身体を締め付けて、視界も悪くなって、歩きづらい。
「おいっ! こんなところで抱きつくな!」
「こんなところじゃなければ、いいの?」
「ここは公道だっ! 家でも学校でもないんだぞ!?」
俺がそう言うと、アイが身体を少し離した。
「じゃあ、家だったら抱きついてもいい?」
「……聞かなくても、いつもくっついてるだろうが」
「そうだね。それじゃ、急いで帰ろう?」
「……言っておくけど、今それを邪魔してきたのは、お前だからな?」
そう言って俺はジト目を、アイツに送るのだった。
**
「ただいまー」
玄関を開けて、中に入る。ここはアイの家だ。
幼馴染のコイツの家は、俺の家の隣にある。
学校から帰ってきて、夕飯前くらいまで大体この家に入り浸っている。
うちは家族の仲はあまり良くないから、自然とここに居座ることが普通になってしまった。
アイも、アイのおじさんおばさんも、そんな俺を受け入れてくれている。ここは第二の家みたいな感覚になっていた。
靴を脱ぐ途中で背中に重いものが、のしかかってくる。
「お帰り。ナオ君」
「……まだ靴脱いでるんだけど?」
「家ならいいって、言ったじゃん。ねぇ……こっち向いて」
首を左に向けると、アイの顔が近づいてキスされる。
ちゅっちゅと音を立て、もう一度「お帰り。ナオ君」と言った。
ここは俺にとって第二の家みたいなものだけど、ひとつだけ困ったことがあった。それがコレだ。
アイのおじさんとおばさんは、ラブラブなので『いってきます』の時も『おかえりなさい』の時も、キスをする。
そんな環境で育ってきたコイツは、キスを挨拶だと思っているところがある。
高校生になった今でもこうやって、学校から帰ってきた時にはキスをしてくるし、朝も学校に行く前は、おはようとキスをする。
(もう慣れたけど、これもそろそろやめさせた方がいいんじゃないか……? 彼女ができたとき、絶対勘違いされる)
そんなことを考えながら、靴を脱ぎ終わると、勝手知ったるなんとやらのこの家のリビングへと向かった。
「おばさーん! 俺ちょっとお腹すいちゃった! なんか食べる物あ……あれ?」
「あ。ナオ君。今日は母さんも父さんもいないよ」
「いない? なんで?」
「今日はふたりの結婚記念日なんだ。だから、ちょっと旅行に行ってるんだよ」
「あー……そうなんだ」
そっか。それは一大イベントだよな。この家にとっては。
(ん? ……待てよ? ってことは)
「じゃあ今日はこの家にいるのはお前ひとり?」
「うん。そうだね。それでさ……ナオ君さえ良ければなんだけど、今日はうちに泊まらない? この前、ナオ君が気になってたゲームソフト、ちょうど買ったんだ」
「えっ!? マジ!?」
アイはそう言うと、自分の部屋に行って、すぐに戻ってきた。
その手には、俺が気になっていた『ドラディル・ファンタジー』のゲームソフトが握られている。
「ほら」と言って、アイは俺に渡してきた。それをひったくるように奪い取り、表パッケージを見た後、ひっくり返して裏側を見る。
「うわー! マジか! いいなぁ~!」
「今日なら遅くまで一緒にゲームできるよ?」
(ううう……超やりたい……!)
おばさんが、「私がいないときは、うちに泊まっちゃダメよ。まだ早いから」って言ってたけど……いいよな?
黙っていれば、バレないよな?
悪魔の囁きが、そう告げる。
おばさんの約束とゲームをやりたい欲望を天秤にかけたとき、それはゲームにガタンッと傾いた。
「アイ。俺、今日泊まるわ」
「本当!? 良かったぁ~! ナオ君がいるなら、夜も寂しくないね」
そう言ってアイツは、満面の笑顔をこちらに向ける。
ったく……高校生にもなって夜が寂しいとか、子どもか?
図体はでかくなったけど、アイはまだまだお子ちゃまなのかもしれない。
ふたりでまず宿題をして、アイが作った夕飯を食べる。お風呂を済ませて、ようやくお待ちかねのゲームタイムがやってきた。
俺たちはふたりで協力して、敵を倒す。三時間ほど遊んで、キリの良いところでゲームをやめた。
歯磨きをすると、アイの布団に一緒に入る。お客さん用の布団とか、予備はないのかと聞いたら、見当たらないとのことだ。
アイ曰く、「もしかしたら、母さんがクリーニングに出しているかも」とのことだった。
布団が少々狭いので、俺はアイに背を向ける形になり、アイは俺を抱きしめるようにくっついた。
俺の背中とアイの腹がピッタリとくっつく。
「やっぱ……狭いな……俺、家に帰ろうか?」
「もうちょっとくっつけば大丈夫じゃない?」
アイがぎゅうっと抱きしめる。そして、俺の首の辺りをスンスンと鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ始めた。
「おい、やめろ……息が、くっ、くすぐったい……!」
「ナオ君からいい匂いがする」
「お前のとこのシャンプーの匂いなんだから、お前も一緒だろ?」
「あぁ……そうだね。同じ匂いかぁ~……なんだか、それって同棲しているみたいで……いいね」
「同棲っつーか、まぁ、う~ん……今もほぼ半同棲みたいな感じじゃねぇ? ほとんどこの家に入り浸ってるし」
「うん。そうだね。もうこのままナオ君と一緒に暮らせたらいいのに……」
そう言いながら、アイはまだクンクンと匂いを嗅いでいる。
そして、その動きが突然ピタリと止まった。すると、背中から異様な空気を感じて、一瞬でぶわっと鳥肌が立つ。
アイが口を開く。
その喉から出てくる声は、地の底から湧き上がるような、ぞっとする声だった。
「今日のナオ君、悪い虫がつきそうだったよね。虫よけは、ちゃんとやっておかないと」
「虫? いっ──!?」
首にアイの唇を感じる。ちゅうぅううと強く吸われているのが分かった。
皮膚がチリチリと焼けつく。突然襲われた痛みのようなものに、思わず声が出た。
「──ってぇ! なにすんだよ!?」
「あ、うん。ごめんね。でも、これで大丈夫だから」
後ろを振り返ると、いつものニコニコ笑うアイだった。
さっきのゾワッと背中を走った鳥肌は一体なんだったんだろう?
なぜコイツが首に吸い付いてきたのか、虫よけと言ったその意味に、このときの俺は気づいていなかった。
アイの大きな手が、俺の頭を撫でる。
そして先ほどとは違う、いつもの優しいコイツの声に戻った。
「おやすみ。ナオ君」
「……ああ。おやすみ」
背中から伝わるアイの体温は温かい。
俺はすぐに眠くなって、そのまま闇に落ちてしまったのだった。
**
──翌朝。
アイに起こされて、慌てて着替え、学校へ向かい、ふたり一緒に家を出る。
学校に到着して、ホームルームが終わると、一限目は体育だ。制服から急ぎ、体操服に着替えた。
すると、着替えている途中で、隣の席のヤツが俺に向かってニヤニヤとしだした。
なんだかちょっと嫌な笑い方に「なんだよ」と声をかける。
「いやぁ~昨日はお楽しみでしたね?」
「はぁ……? 何言ってるんだ」
「お前、ココ。気づいてないの?」
そいつは左首の少し後ろの辺りを指さし、トントンと叩く。
気づいてない……? とは?
俺の顔に思いっきり「?」と書かれていたのだろう。
そいつはスマホを取り出すと、首元の写真を撮り、その画面を鏡替わりにして見せてくれた。
「──なっ!?」
そこに写っていたのは、キスマーク。
うっ血したそれは、明らかにキスマークだった。
クラスメイトに指摘されて、俺はそのことにようやく気づく。
慌てて、首元を押さえた。
そいつから差し出された絆創膏をありがたく受け取ると、俺はトイレへと走る。
鏡に映る真っ赤な自分の顔と対面しながら、首に絆創膏を貼りつけた。
(──あの野郎ぉおおおおおおお!! 許さん!!)
授業が終わり、休み時間になれば、アイはうちのクラスへやってくる。
そのアイに向かって、俺が怒髪天を衝くのは、もう少し後のことだった。
〈了〉


