「義母上……いや、エレン。今日からお前は俺の母親ではなくなる。ようやくお前を母と呼ばなくて済むと思うとせいせいする!!」

 そう言ってエレンを指さしたのは、亡くなった夫であるアドレット伯爵の息子アンドリューだ。
 まばゆい金髪にエメラルドグリーンの瞳。来年の春には二十歳になる彼は、今ではすっかりと大人の男性らしい風格をたたえていた。

(大きくなったわねぇ)

 アンドリューに睨み付けられながら、エレンは時の流れをしみじみと噛みしめていた。


 エレンは辺境にほどちかい領地を持つ、ある小さな男爵家の次女として生を受けた。
 跡継ぎの兄と姉一人。貧乏な実家では、兄を立派な次期当主に育て未来の嫁を迎える準備と、姉をよい家に嫁がせるための教育と持参金を用意するのに手一杯で、エレンにかけられるお金も人手もなかった。
 と、いうのは立て前でエレンは上二人と比べて思い切り冷遇されて育った。
 理由は単純だ。
 エレンは両親には殆ど似ておらず、嫁いで来た母を散々に虐めた姑……つまりエレンの祖母にそっくりな見た目だったのだ。
 ブルネットにグレーの瞳。少しつり上がった目元のせいで、きつい印象を人に与えがちな顔立ち。
 父もまた教育熱心で苛烈だったという祖母に思うところがあったらしく、エレンの顔を見ると思い切り顔をしかめたものだった。
 祖母はエレンが生まれる前には死んでいたので、どれほど似ているのかはさっぱりだったが、祖母の代から仕えていた使用人たち曰く、生き写しらしい。

 自分にはどうしようもないことで両親から疎まれてしまったエレンは、兄や姉のように愛されることも大切にされることもなかった。
 目に見えた虐待などはなかったが、華やかな場所に連れ出してもらえることはなく、家族として同じ食卓を囲むことも許されなかった。
 外出するのもいい顔をされなかったので、家の中で本を読むか自主的に勉強ばかりをしていた。
 兄と姉も両親とおなじようにエレンを無視していたし、時にはひどく虐められたこともあった。
 そのうち父に「お前は頭でっかちのようだから我が家の書類整理でもしていろ」と言われたので領主の仕事も手伝うようになった。
 少しでも両親の役に立てるならとエレンは仕事を頑張った。
 領民たちの生活が潤うように、使用人たちが健やかに働けるように、家族が不自由なく暮らせるように財産を増やした。
 だというのに、誰もエレンの努力を知ろうともしなかったし、褒めてくれることもなかった。
 一日中家に引きこもって机に向かっている陰気な娘。
 それが周囲から与えられたエレンへの評価だ。

「お前の嫁ぎ先が決まった」

 エレンが十六歳になった秋のことだ。突然父親にそう告げられた。

「アドレット伯爵が後添えを探している。彼は病気で、自分の仕事を手伝える妻が欲しいということだ。持参金は不要。むしろあちらが支度金まで出してくれるという破格の扱いだ」

 投げ渡された釣書にはアドレット伯爵についての簡単な紹介が書かれていた。
 アドレット伯爵は五十歳。四年前に妻を亡くしており、その前妻との間に幼い息子が一人。
 病気でほぼ寝たきりなので、妻となる女性には身の回りの世話及び領主としての仕事の補佐、そして息子の母親としての役目ができる女性を希望してるのがわかった。

(なるほど)

 どうやら伯爵は妻が欲しいのではなく、便利な世話役の女が欲しいようだ。
 ずいぶんと身勝手な話だが、エレンは逆にすっきりとした気持ちだった。
 これだけ意図が明確ならいらぬ期待をしなくていいし、自分の役割もはっきりしている。

(結婚相手が貴族だっただけでもよかったのかも。病人で年上なら無体なことはできないだろうし)

 この頃にはすっかりエレンは人生を諦めていた。
 家族に愛してもらおうというような期待もなくなっていた。
 アドレット伯爵には跡継ぎはすでにいるわけだから子作りをする必要もないだろうし、やることはこの家でやっていることと殆ど変わらないだろう。
 変態趣味の成金商人などに渡されるよりはずっといい。

「かしこまりました」

 一も二もなく返事をしたエレンに父は一瞬だけ虚を衝かれたような顔をしたが、それ以上何も言わなかった。
 兄も、姉も、エレンが親ほどに年が離れた子持ちと結婚すると聞いても「ふうん」と言っただけで、止める様子もなかった。
 母だけは何故か唇を噛みしめてエレンを睨み付けていたが、結局家を出る日まで声一つかけてもらえなかった。

 小さなカバン一つで世話役のメイドも連れずアドレット伯爵の家を訪れた日、出迎えてくれたのは伯爵の息子であるアンドリューだった。
 十歳の少年だったアンドリューはエレンを憎々しげに睨み付け「出て行け!」と声を荒らげた。
 それだけではなく使用人たちがエレンを案内した女主人の部屋の前に立ちはだかって入室を禁じた。

「お母様の部屋を使うな!」

 縁あって親子になるのだから仲良くしたいとエレンは思っていたが、アンドリューはエレンを全力で拒絶した。
 アンドリューの母親は彼が六歳の時に病気でその命を落としたという。
 伯爵家の女主人の部屋はアンドリューの部屋の横にあり、彼にとっては母親の思い出がたくさん詰まったものだったに違いない。
 たった六歳しか離れていない女が父親と結婚するだけでも幼い彼は傷ついたのだろう。
 そのうえ、母親の思い出を塗りつぶそうとしていると知れば怒って当然だ。
 エレンはそんなアンドリューの意志を汲み、アドレット伯爵の部屋の隣にあった客間を自分の部屋にした。
 いつか女主人の部屋を使わせてもらえると信じて。

(結局、そんな日はこなかったけれど)

 夫となったアドレット伯爵は気難しい人で、少しでもエレンのやり方が悪いと声を荒げる人だった。
 病床でなければ、手を上げられていただろう。実際、弱々しくも物を投げつけられるのは日常茶飯事だった。
 最初は病気のせいでそうなったのかと思ったが、使用人たち曰く、生まれつきそういう性格で、両親からも見放されて育ったらしい。
 若い時に一度結婚したが、その相手は伯爵のふるまいに耐えられず使用人と駆け落ち。
 そのせいで中々再婚ができなかったが、どうしても跡継ぎが欲しかった伯爵は、困窮していた子爵家の令嬢を金に物を言わせて娶った。それがアンドリューの母親だ。
 彼女は伯爵との折り合いは悪かったが、我が子であるアンドリューのことは大変可愛がっており、アンドリューもまた母を慕っていた。
 そんな彼女は病が元で四年前に亡くなり、その直後に伯爵もまた病に倒れたのだ。

(人生って思うように行かないものね)

 病床の伯爵の代わりに当主代理としての役目を与えられたエレンは頑張った。
 伯爵は性格同様に財産管理も大雑把な人物で、使用人たちからも嫌われていたため、病気になってからは使用人たちがずいぶん勝手をしていたことが判明した。
 家の財産に手をつけていたり、横暴なふるまいをしていたりした使用人たちは解雇し、ずさんだったお金の動きを整え、少しでも財産が増えるように処理し、新しい使用人たちにも気を配った。
 また使用人たちは癇癪持ちのアンドリューを甘やかすばかりで勉強させていなかったことがわかり、エレンはきちんとした家庭教師を雇い、アンドリューが立派な大人になれるようにせっせと環境を整えた。
 根気強く伯爵にも付き合ったし、反抗期を迎えたアンドリューの我儘も受け入れた。
 夫に代わり、王都に出向き伯爵家の当主代行としてさまざまな事業も手がけた。王族相手に交渉もして、国王陛下や王子殿下とも議論をする機会にも恵まれた。

 そして、嫁いで来て十年。
 十六歳の少女だったエレンは二十六歳になり、すっかりと大人の女性になっていた。
 きつめの印象が先立っていた顔立ちは年齢を重ねたおかげか少しだけ柔らかくなり、落ち着きのある雰囲気を感じさせるものになっていた。
 伯爵は最初に出会った時が嘘のように静かな老人となり、もう声を荒げることもない。

「すまなかった」

 今際の時にそう呟いた伯爵の表情は穏やかだった。その謝罪がエレンに向けてのものなのか、他の誰に向けてのものなのかはわからないままだったが、エレンはその一言で十分だと思えた。
 夫婦としての生活はなかったし、どちらかといえば上官と部下のような関係ではあったが、十年も一緒に暮らしていれば情も湧く。
 エレンは伯爵の死を悼み、未亡人らしく喪に服しながら淡々と遺産整理を行っていた。
 そこに帰ってきたのがアンドリューだ。

 アンドリューは十六歳の時に王都にある全寮制の貴族学園に入っていたため、訃報を知り舞い戻ってきたのだ。
 結局アンドリューとは打ち解けることはできないままだった。学園に入る前など、エレンと顔を合わせる度に八つ当たりめいた乱暴な口をきかれ困り果てていたものだ。
 学園生活で少しは丸くなったかと期待していたが、帰宅早々開口一番「お前はもう母ではない」と言い切られてしまった。

「母ではない……というのはどういうことでしょうか」
「父とお前は白い結婚だった。そうだな」
「ええ、まあ」

 伯爵は病人だったので初夜どころか結婚式も済ませていない。
 結婚は書面上だけだった。

「白い結婚であり、俺の実母ではないお前はこの伯爵家の人間ではないと言うことだ」
「……ああ」

 なるほど、とエレンは頷く。
 どうやらアンドリューはエレンにこの伯爵家の財産を渡したくないらしい。

「では、出て行けと?」
「……お前に相応しい処遇を用意してあるから部屋で待っていろ」

 アンドリューはそう言うとエレンを部屋に閉じ込めてどこかに行ってしまった。
 使用人たちも何故かアンドリューの指示に従っており、エレンの声は届かない。
 部屋に一人になったエレンは、虚しさで胸がいっぱいだった。

「あーあ」

 貴族らしからぬ声が思わずこぼれた。
 自分は報われることはないのだろうか。なんのために生まれてきたのだろうか。
 振り返れば、花ざかりの筈の年月はずっと灰色だった。好きなこともせず、努力ばかりを重ねていた。
 それは全部無駄なことだったのだろうか。

「別に、財産なんていらないのに」

 伯爵の喪が明けたら、アンドリューに伯爵家を任せ、市井で静かに暮らせればと思っていたのだ。
 言われなくても出て行くのに、どうしてこんな扱いをされなければならないのか。

 涙がにじみそうになった時、廊下で使用人たちが話している声が聞こえた。
 せめてアンドリューが自分をどうするつもりなのか知っているなら教えてほしいと考えたエレンは、扉に近づき彼らに呼びかけようとした。

「……じゃあ、すぐにでも結婚式を?」
「みたいよ。じゃあ、前の奥様のお部屋を片付けなくっちゃね」
「楽しみだわ」

 頭を何かで殴られたような衝撃だった。
 声をかけるどころではない。よろよろと扉から離れ、エレンは床にへたり込んだ。

(アンドリューには妻に迎えたい人がいるのね)

 エレンを早々に追い出そうとしているのも納得だ。
 姉でもおかしくない年の継母など、アンドリューの妻となる女性には邪魔者以外の何者でもない。
 使用人たちの声も浮かれていた。
 彼らも新しい女主人を待ち望んでいるのだろう。

「……出て行こう」

 アンドリューに準備されるまでもない。
 邪魔者はさっさと退散するに限る。
 十年も共に暮らした使用人たちにも背を向けられた。
 ここに留まる理由はない。

「こんなに早く使う日が来るなんて」

 エレンは机から金貨の詰まった袋を取り出した。
 それは伯爵夫人としてエレンに与えられたお金を元に稼いだものだ。領地の女性たちが作った工芸品を王都で売るように整備をしたり、新しい農作物や特産品を根付かせたりなどのエレンが独自に進めた事業で得たお金だ。
 今では全て領民たちに権利を渡しているので、エレンの手元にあるのは最初の頃に出た利益だけだが、女一人で生きていくには十分過ぎるだろう。
 いずれここを出て行く時の資金にしようと思って取っていたのだ。

「さてと」

 善は急げとエレンはドレスから用意していたシンプルなワンピースに着替える。
 きっちりと結い上げていた髪を解くと緩い三つ編みにして横に流す。
 当主代行として周囲に侮られないようにと身につけていた宝石を全て外し、化粧も落とした。
 これで誰もエレンを伯爵夫人だとは思わないだろう。

 仕事の資料や、引き継ぎの書類を机の上に並べる。
 いつでもアンドリューに渡せるようにと準備していたのが功を奏した。

 エレンの部屋となっていた客間には、伯爵の世話をしやすいように、伯爵の寝室に繋がった秘密の扉が作り付けられていた。
 鍵はエレンの部屋側にだけしかない。
 この扉のことを知るのはほんの少しの使用人だけだ。
 鍵を開けて主人を失った無人の部屋に向かえば、すっかり掃除されており、もう伯爵の痕跡はどこにも残っていなかった。
 窓際に飾られた花だけが伯爵の死を悼んでいるように見えて、エレンはほんの少しだけ感傷に浸る。

 真新しいシーツに取り替えられた大きなベッドにエレンは置き手紙を残した。

 ――邪魔な自分は去るので、気兼ねなく新しい女主人を迎えてもらってかまわない。どうかこれからも領民たちを大切にしてください。生家には死んだと連絡しておいてほしい。

 本当はもっと伝えたいことが色々あったような気がするが、思い浮かばなかった。
 恨んだり怒ったりすればよかったのだろうかと考えてみるが、どうにもそんな気持ちにはならなかった。

「長く頑張りすぎたのね、きっと」

 何もかも捨てて、ただのエレンとして生きていけばきっといいこともある筈だ。
 そう自分に言い聞かせる。

 夕暮れ時。やけに屋敷の中が慌ただしかった。
 アンドリューが何やらアレコレと使用人たちに指示しているのが聞こえた。
 エレンはその騒動に紛れるように伯爵の部屋から廊下に出て屋敷の外に抜け出す。

 屋敷の外に一人で出たのはいつ以来だろう。
 ある時から、外出するのには必ず誰かが付き添うようになった。
 男性相手の仕事の時は大げさにも護衛騎士を同行させるという決まりすら作られたのだ。
 それはエレンが誰かと不貞を働くのを恐れていたからだろうと感じていた。
 尽くしても尽くしても報われなかった人生を振り返り、エレンは少しだけ涙を流すと伯爵家を後にしたのだった。




 それから一年後――

 エレンは隣国の城下町で小さな店を開いていた。
 伯爵家の領地で領民たちから作り方を教わった工芸品や加工品を売る店だ。
 大きな儲けはないが、エレンの誠実な商売のおかげで客が途切れることはなく、生活していくのには十分過ぎるほどの利益を得ていた。
 周りの人々はエレンの努力を評価し、褒めてくれて、一緒に笑ってくれる。
 エレンは幸せの意味をようやく噛みしめていた。


 今日は、仲良くなった近所の世話焼きのおばさんが遊びに来ている。

「エレンちゃん。結婚相手にうちの息子なんてどうだい? まだ若いけどよく働く子だよ」
「うーん……私って、結婚には向かないと思うんですよ」

 きっとエレンはそばにいてくれる人に尽くしてしまうのだ。
 誰も隣にいなければ自分のことだけ愛してあげられる。
 これまでの人生でそう学んでいた。

「残念だねぇ……あの子はアンタに夢中なのに」
「うふふ。お世辞はいいんですよ!」
「お世辞なんかじゃないってのに……そうだ、隣国の伯爵様の話を聞いたかい?」

 エレンは隣国の伯爵という言葉にどきりとする。
 まさかアンドリューのことではないだろうか、と。

「その伯爵様はとっても立派な紳士って噂さ。なんでも自分を支えてくれた恩人の女性を探しているんだって。その女性は姿も心も天使のように美しくて、周囲の人間みんなから慕われてたそうだよ。隣国の王子様もその女性の才能に惚れて懸想してて、伯爵様はずいぶんと厳重に警護していたんだけど、彼女はある日姿を消してしまったんだと」
「まあ」

 どうやら自分のことでもアンドリューのことでもないとわかり、エレンは胸を撫で下ろした。
 好きな人を失うとはきっと悲しいことだろうと、エレンはその伯爵に同情する。
 しかし、王子にまで好かれたというその女性とは一体誰のことだろうと社交界で知り合った面々を思い浮かべてみたが、よくわからなかった。
 きっとエレンが知らない誰かだろう。

「伯爵様はずいぶんと気落ちして、今でも必死でその女性を探しているらしい」
「かわいそうですね……その方は殿下の元に?」
「いや、王子様もその女性を探してるって噂だから違うんじゃないかねぇ。誰か他の男にさらわれたか、逃げ出したか……なんにせよ、美人は罪だね」
「本当ですね。私、普通でよかったです」
「普通ってあんた……あ、隣国と言えば、どっかの男爵家が財政難で没落したって話も聞いたよ。領民たちに無理な課税をして暴動を起こされたんだってさ。少し前までは評判の良い家だったけど、急にやり方を変えたんだって。当主夫妻と跡取りは死んで、嫁に行った娘も婚家を追い出されて修道院に駆け込んだって話さ。ほんと、お貴族様ってのは大変だね」

 噂好きのおばさんは他にもあれやこれやと貴族たちにまつわる話をエレンに話を聞かせてくれた。
 相づちを打ちながら、エレンは自分がかつては貴族の一員だったことが遠い昔のように感じていた。
 ようやく手に入れたこの安寧の日々を大切にしようと、晴れ渡った空へと視線を向けたのだった。