「点Pの動きを求めることに、私は何の人生の意味も見いだしません」
 数学教師に対して、卑弥呼さんが食って掛かる。
 教室の中の空気が凍る。産休代替でやってきた若い数学の講師は、どうしていいかわからずうろたえている。すかさず学級委員の小松が、講師に助け舟を出す。
 当の卑弥呼さんは何食わぬ顔だ。
 小松のフォローで止まっていた時間が再び動き出す。代替講師には申し訳ないが、クラス
の仲間にとってこんなことはもう慣れっこなことだ。
 卑弥呼さんの予期せぬ発言は今回に始まったことではない。
 今回のように指名されなければ、理系教科で積極的に卑弥呼さんが発言することは稀だ。だが、文系教科、特に歴史や古典などになると、途端に水得た魚のようになり、異説についての質問を繰り返したり、自分の考えをいつまでも話し続けることがしょっちゅうある。
 正直、多くの教師もどう扱ってよいかわからず、卑弥呼さんの質問をもてあましていることが多い。
 卑弥呼さん自体は、まわりの空気を感じる能力が低いのか、それとも、ただただゴーイングマイウェイな性格なのか、どこ吹く風といった感じで授業を受けている。
 山田姫子。通称、卑弥呼さん。もちろん、クラスの仲間が彼女のことを呼ぶときには、「山田さん」と本名の方で呼ぶ。彼女とは二年から同じクラスだが、特に親しい友人はクラスの中にいなく、休み時間もいつも本を読んでいて、誰かに呼びとめられるところもほとんど見たことがない。
 中学校のころなら「山田」と女子のことも呼び捨てにしていたかもしれないが、高二になった今では、さすがにそのあたりはわきまえている。ただ、そのいつまでも敬語で話しかける行動そのものが、クラスメイトと卑弥呼さんの距離感を表していた。
その山田姫子のことを指して、卑弥呼さんというのはクラスの中の暗黙の了解だった。
 腰のあたりまで長く伸ばした髪に、今時見かけない丸眼鏡、普段はほとんど話さないくせに、たまに口を開くと上から目線の物言い……卑弥呼さんが卑弥呼さんたらしめている要素は数え上げればきりがないが、卑弥呼さんの呼び方を決定的なものにしたのは、高一の時の「呪い」事件だ。
 その「呪い」事件は、高一の時には卑弥呼さんと別のクラスだった僕の耳にも、すぐに入ってきたセンセーショナルなニュースだった。一年生の時から、すでに卑弥呼さんは授業で教師を質問攻めにし、悪い意味で目立っていた。自分の納得がいかないと、とことん教師と議論をするし、その高飛車な態度は、入学早々、周囲の反感を買った。
 この学校は県下ではわりと有名な進学校だ。高校入試でもそれなりに、みんな苦労してここに来たし、授業への意欲も高い方だ。それを四月の初めから、授業をつぶされたのではたまったものではない。そういった卑弥呼さんの行動に、純粋に迷惑をしているものが言うのなら、仕方がない。ただ周囲の反感を笠に着て、注意をするふりをして、卑弥呼さんをからかう馬鹿な男子が現れた。
 初めのうちは卑弥呼さんも無視を決めていたが、次第に卑弥呼さんに対するからかいはエスカレートしていった。本来であれば、それは周りが止めるべき性質のものであるが、もともと卑弥呼さんのことをよく思っていなかった、周りのものたちは、それを止めるタイミングを逸してしまった。
 それを周囲の承認と勘違いして、さらに調子にのる大馬鹿野郎に対して、卑弥呼さんが言ったのは「呪ってやるから」の一言だった。
「毎晩、毎晩、呪いをかけて、あんたに不幸が降り積もるようにしてやる。あんた、たぶんろくな死に方しないから……」
 この西暦も二千年を越えた現代に、「呪ってやる」なんてナンセンスもいいところだが、その時の卑弥呼さんのあまりの剣幕に、その男子生徒も何も言い返せなくなった。
 一瞬、騒然となった教室だったが、すぐに元の静けさを取り戻した。だが、教室が違う意味で、騒然となったのは次の日の事だった。
 前日の騒ぎもすでに忘れていた教室に、松葉づえにギブスの男子生徒がやってきたのは3時間目のことだ。聞くと、今朝、自宅のベランダから、母が洗濯物を干す途中に、誤って落とされた植木鉢が右足の上に落ちてきて、骨折したらしい。
 さっそく呪われてるんじゃね? などと茶化す者もいたが、卑弥呼さんは素知らぬ顔で、いつも通り静かに本を読んでいる。
 それだけで終われば、皆の記憶からも消え去っていたかもしれないが、彼の不幸はそれで終わりではなかった。その後も、野球部のボールが当たるわ、財布を落とすわ、スマホが割れるわの不幸続きで、さすがに「呪い」という言葉を意識せずにはいられなかった。
 最終的には、卑弥呼さんをからかっていた男子生徒が、卑弥呼さんに謝罪するという事態にまで発展した。
果たして彼の不幸が、卑弥呼さんの「呪い」のせいだったかどうかは、定かではないが、姫子さんが卑弥呼さんとしての地位を確立したのはまさしくこの時だった。
 相変わらず、卑弥呼さんに反感を持つものもいたが、そんなことは、彼女はお構いなしだ。むしろそれより、一部の人にとって卑弥呼さんはカルト的な人気になった。
 友人の俊介もその一人だ。僕にとっては全く理解できないが、「卑弥呼さん、いいわー」などと萌えている。また別の層、特に恋する女子などは、卑弥呼さんを凄腕の占い師とでも思っているのか、卑弥呼さんに密かに恋の悩みを打ち明けているらしい。ずけずけと極論を言うところが、かえってうけているそうだ。
「ヤマタケ!」
 授業が終わり、帰ろうとするところを不意に呼び止められる。
 僕は気づかないふりをして、そのまま立ち去ろうかと考えたが、かえって面倒なことになるのは間違いないので、素直に立ち止まる。
 僕のことを「ヤマタケ」と呼ぶのは卑弥呼さんしかいない。ヤマトタケルの略らしい。名字の草薙から「スサノオ」か、名前の(タケル)から「ヤマタケ」かの二択を卑弥呼さんに迫られたとき、せめて普通のあだ名っぽい「ヤマタケ」を泣く泣く選んだ。
「どうしたの?」
 振り返りながら、要件を尋ねる。
「数学がさっぱりわからん! 私に教えろ」
 手には数学の教科書を持っている。あれだけ数学教師に意味がないと啖呵をきっておいて、わからないままにしておくことは悔しいらしく、こうして放課後に聞きにくる。
 向上心があるのか、ないのか……たぶん、負けず嫌いなだけだろう。
 最初の頃は、まわりの反応が気になったが、もともと学年でトップ10に入るぐらい勉強の得意な僕だったので、まわりは卑弥呼さんにつかまったぐらいに思ってくれている。
 便利屋のように思われても困るので、一応、一度断ってみる。
「……ええっと、今日、バイトがあるんだけど」
「何時から?」
「……六時」
 どうせ、ばれるので嘘はつかない。
卑弥呼さんの眼鏡の奥が光ったような気がした。
「じゃあ、五時までは大丈夫だな! メディアセンターに行くぞ」
 メディアセンターというのは、いわゆる図書館だ。うちの学校は五年前につくられた新設校だ。地域と密着するコミュニティースクールというのが、コンセプトにあり、敷地内に大きな図書館を構える。それを地域の一般の人にも開放していて、週末はなかなか繁盛している。
 普通の高校にある図書室ではなくて、完全に図書館だ。本だけでなく、無料で使えるインターネット環境や映像室、自習のためのオープンスペースまである。何でも横文字にするのは、どうかと思うが、それは「図書館」というより、「メディアセンター」と言われても納得できる設備だった。
 これまでの経験から、卑弥呼さんの言葉に逆らっても、かえって面倒なことになることはわかっている。きっと、この人は何でも自分の思う通りになる、地球は自分を中心に回っていると考えている種類の人間だ。それに対して僕は、長い物には巻かれろ精神の塊だ。どう争っても勝ち目はない。
 メディアセンター二階、一番奥の窓側の席。南側のグラウンドに面した座席が、僕の定位置だ。一階にも自習スペースがあるが、人の出入りの多い一階にくらべて、比較的静かな二階の奥が僕のお気に入りだ。
 二年生になって、クラスが一緒になった卑弥呼さんにはじめて絡まれたのもこの場所だ。今から三カ月前、新しいクラスになってまだ三週間と経たない頃だった。歴史の授業で出された世界の神話について調べてくるというマニアックな課題を解決するべく、メディアセンターに向かった僕は、歴史や神話についての本が並んでいる棚を眺める。ケルト神話や古代エジプトの神々も捨てがたかったが、数ある神話の中から、「古事記」を選ぶ。
「イザナギ」と「イザナギ」に「アマテラス」、「スサノオ」に「ヤマタノオロチ」……ゲームやアニメなどでも、モチーフにされることのある「古事記」も立派な神話だ。神話について調べるというと「ギリシア神話」などに流れる人が多い中、日本の神話について調べるのもなかなかインパクトがあって、いいかもしれない。口語訳された「古事記」を手に取り、奥の自習スペースを陣取る。「古事記」をはじめて読んだのは小学生の時だ。某有名格闘ゲームの影響で、初めはヤマタノオロチについて調べ、その流れで「古事記」すべてを読むことになった。
 正直、途中から登場人物も多くなりすぎたし、現代の感覚とはズレた登場人物の行動などに違和感を感じることが多かったが、歴史好きだった担任の教師に、神話が暗喩している様々な説について教えてもらい、そのおもしろさにはまった。
 こうして高二になって、改めて読む「古事記」はまた違った視点から楽しめた。いつも間にか僕は、次々とページをめくり、その物語に夢中になってしまう。レポートを作成しなければならないことすら、忘れて本に没頭していた僕は、いつの間にかそばに立っていた人影にさえ気づいていなかった。
「お前は記紀なら古事記派か?」
 その言葉は最初、自分の頭の中をすり抜けていった。まさかそれが自分に対して放たれた言葉だとは思わなかったからだ。
「聞いておるのか? 古事記派? それとも日本書紀派のどちらだ?」
 もう一度問われて、その言葉が自分に向けられていることに気づく。慌てて顔をあげて、二度驚く。目の前に「あの」卑弥呼さんがいる。
「どうやらお前は古事記派のようだな。今も古事記読んでいるし」
突然の出来事に固まる僕のことなど気にもせず、机の上に持っていた三冊の本を置き、斜め向かいに座る。
「……ええっと、山田さん?」
「いつもそんなふうに読んでいないくせに……」
 持ってきた本を一冊広げ、本に目を落としたままつぶやく。
「別に姫子でも、卑弥呼さんでもよい。私も勝手に好きなように呼ぶから」
「好きなように呼ぶ?」
「お前のことに決まってる! そうだな……」
 卑弥呼さんが視線をいろいろな場所に移す。僕の開いている古事記の挿絵に視線が移った時、卑弥呼さんの眼鏡の奥が光った気がした。
 ちょうどスサノオがヤマタノオロチに酒を飲ませて、やっつけるシーンの挿絵だ。
「スサノオなんてどうだ?」
 目の奥は笑っていないが、見方によっては卑弥呼さんが喜んでいるようにも思える。
「スサノオ?」
「お前の呼び方だ。ほら、ヤマタノオロチを倒したら、尻尾から草薙剣が出てくるだろ。草薙だし、ちょうどいい?」
 何をもってちょうどなのか、全く理解できない。人前でスサノオと呼ばれるところを想像してみたが、これはなしだ! とりあえず、全力で否定してみる。
「いやいや、スサノオはきついって! 別に普通に『草薙くん』じゃあ、駄目なの?」
「お前だって『卑弥呼さん』って呼んでいるだろ? お前だけとうのはずるいと思わんか?」
 だから、さっき山田さんって言ったじゃないかと思ったが、逆らっても話がかみ合わないままだろう。誰かに助けてほしいいけど、こんな時にかぎってまわりに誰もいない。
「とにかくスサノオはやめようよ。人前で呼ぶのも、呼ばれるのも恥ずかしすぎるって」
「……私は渋谷の真ん中でも、大声で呼べるがな!」
 なぜか勝ち誇った顔をしている。
 何か急に嵐に巻き込まれた感じだ。聞いていた以上にこの子、話がかみ合わないし、めんどうだぞ。
「と、とにかくスサノオはやめようよ」
「そう? 三貴神の一人だぞ……まったく、わがままなやつだな。それじゃあ、そうだな……『ヤマトタケル』はどう?」
「ヤマトタケル?」
 思わず聞き返してしまう。これ、きっと名前の(タケル)ら来てるぞ。
「お前の名前、確か(タケル)だっただろ?」
 ほら、やっぱり。安易なネーミングセンスだが、勝ち誇った顔をしている卑弥呼さんを見たら、それ以上ツッコめない。
「さすがに毎回、ヤマトタケルは言いにくいから、『ヤマタケ』にしような。よし! 決めたお前は今日から『ヤマタケ』だ」
「……いや、草薙猛の原型ないし」
「じゃあ、スサノオにするか?」
「……ヤマタケでいい」
 これ以上、押し問答するのは時間の無駄な気がするので、渋々、「ヤマタケ」を受け入れる。それに納得したのか、卑弥呼さんはそのまま、読書を再開する。
 いや、待て待て。何で普通に、卑弥呼さんが同じテーブルに座っているんだ。
「……あの、山田さん?」
「別に卑弥呼さんでいいぞ」
「……あの、卑弥呼さん?」
「何だ? ヤマタケ」
 何だこの会話。
「えっと、僕に何か用なの?」
「ううん、別に特に用なんかない」
「じゃあ、何でここに座っているの?」
 そうだ、僕はレポート作成をしなきゃいけないんだ。思いっきり迷惑そうな顔をしてみるけど、卑弥呼さんには伝わらない。
 逆にメガネをくいっと、人差し指で上げて、悪そうな顔をする。
「用がないと、ここに座ってはいけないのか?」
「……そんなことないけど。あの、他にも席はいっぱい空いているよ」
「私がここに座りたいから座っている。それとも、何か不都合あるのか? ここって確か学校のものだな? お前のものじゃないし、私はただここで本を読んでいるだけ。公共の福祉に反していない限り、私の自由は尊重されると思うけど?」
 ああ、めんどくさい。下手に相手をしようとした僕が馬鹿だった。卑弥呼さんは自然現象と考えよう。地震や台風に対して、僕らはただ、それを受けいるしかない。
 僕は目の前の暴風雨のような卑弥呼さんのことは、見えないふりをして、レポートを続ける。僕がその席に座ることを受け入れたからか、卑弥呼さんは納得したように、黙って本を読んでいる。
 しばらくすると、レポートに対する集中力がきれてしまい、何となく目の前の卑弥呼さん見る。黙っていたら、黙っていたで何となく恐ろしい。
 卑弥呼さんの観察を続ける。
 腰まで伸びている割には、髪の毛はそんなに傷んでいない。どちらかといえばつやのある髪だ。目が実際よりかなり小さくなっているので、かなり度のきつい眼鏡なのだろう。いったい何の本を読んで……「風姿花伝」⁉ 世阿弥!
 歴史の授業以外で初めて見た! しかも、文語版。ちなみに、卑弥呼さんの前に置いてある、残り二冊は「東方見聞録」「誰でもできる風船ダイエット」
 いやいやいや、今時、風船ダイエットって! それに「東方見聞録」はイタリア語だし。駄目だ、きっとツッコんだら負ける。これが卑弥呼さんの壮大なキャラ設定であることを信じよう。きっと家では普通の女の子なんだと信じよう。
「ねえ、ヤマタケ。古事記の中にたくさんの暗喩が込められているって知ってるか?」
 突然、本をパタンと閉じて、卑弥呼さんが聞いてきた。
「えっ? ヤマタノオロチが川の氾濫だとかいうやつ? たたら製鉄だという説もあるよね」
 中学の歴史教師からこの話を聞いたときは感動したものだ。僕がさらっと話すので、卑弥呼さんは少しむすっとした顔する。しまった! 知らないふりをすればよかった?
「なかなかやるな、ヤマタケ! それでこそ我がライバル」
 おいおい、あんたそんなキャラじゃないだろ。覚えておこう、下手に卑弥呼さんに対抗すると、かえって油に火を注ぐことになる。
「それじゃあ、卑弥呼と天照大神が同一人物だという説は?」
 おっ、なんだそれ。
「いや、知らない」
 僕の反応を見て、急に得意げになる卑弥呼さん。
「卑弥呼と天照大神には共通点がたくさんあるでしょ。卑弥呼は別の表し方をすると日の巫女、天照大神も太陽神。二人とも弟がいるし、畿内説を取ると、邪馬台国がのちのヤマト王権につながる。古事記の天照大神が女性というのもうなずける」
 卑弥呼さんが自分のターンとばかりに、まくしたてる。確かにおもしろい、興味深い説だが、じっくりと考えさせてもらえる隙も無い。しばらく、卑弥呼さんの古事記に関するうんちくを聞き続ける。本当に好きなんだな、古事記。一通り、話し終えたと見える卑弥呼さんが最後に付け加える。
「……というわけで、これからも神話や歴史に関する類は、私が教えてあげる。そのかわり、数学や物理は私の範囲外、ヤマタケが私に教えること、いいな? 私自身はあまり必要性を感じないが、高校を卒業するには数学や物理も必要なのでな」
 それ以来、事あるごとに卑弥呼さんに捕まって、メディアセンターで数学やら物理やらを教えることがあった。かと言って、普段の教室で卑弥呼さんとしゃべることはない。
 何の縛りかは知らないが、教室で卑弥呼さんと話した記憶がない。たいてい、今日のように廊下で声をかけてきて、後はメディアセンターでということがほとんどだ。
 卑弥呼さんに数学を教えていて、分かったことがある。卑弥呼さんは決して理解力が低いわけではない。そもそもうちの学校に入る時点で、学力的にはそれなりのもののはずだ。
 ただ卑弥呼さんはいちいち問題に書いてあることを、深読みしてしまったり、そこに哲学的な問いを見出してしまう。
 例えば冒頭の点Pが動く問題だと、なぜそもそも点Pは動くのか、そこにどんな目的があるのか、点という極小の単位が人間に認識できるのかなどが、気になってしまうのだ。だから、卑弥呼さんにものを教えるときはそのあたりの部分から解きほぐさなければならない。
 今日もずいぶんと時間をかけて、そのあたりを理解してもらえた。ここまでくると、あとは占めたものだ。
「うーん、できた! もはや数学というのは私を苦しめるためにあるんじゃないかと思うぞ」
「まあ、それについては文系の人はほとんどそう思っているかもね。僕は文系クラスだけど、数学が得意だから例外かもしれないけど」
「そうだ、ヤマタケが例外なんだ。だいたい、何でヤマタケが文系クラスにいるんだ?」
「好きとできるは違うからね」
「まあ、そういうところもあるかもしれないな。人という種は自分のないものに惹かれるものだしな。生物学上、生存していくためには、自分と違うものを取り入れるのが、正解だと言える」
 すぐに卑弥呼さんは話を難しそうにする。
「それなら、卑弥呼さんはたいがい人と違うから、誰を受け入れても大丈夫だね」
 軽口をたたき、場を柔らかくしようと試みる。ケタケタと卑弥呼さんが笑う。
「私が人と違うのではなくて、周りが私と違うのだ」
「それって一緒じゃない?」
「ずいぶんと違う。自分は結局、自分にしかなれないのに、下手にまわりと合わせようとするから、みんなおかしくなる」
「……でも、協調性って大事じゃない?」
「自分を大切にしないやつが、周りを大切にできるとは思わん! だから、私はまず自分にとって快か不快かで判断している」
 うん、言っていることはただのエゴイストな気もするけど、ときおり納得させられそうにもなる。そして、卑弥呼さんの言葉を引用するなら、こうしてたまにある卑弥呼さんとの時間が不快から快になりつつある自分が少し怖い。
「数学は?」
「不快」
「物理は?」
「不快」
「日本史」
「快」
「このメディアセンターでの補習?」
「……ううん、そうだな……」
 今まで即答だった卑弥呼さんが初めて悩む。
「……まあ、最近は悪くはない」
 何だよそれ! とツッコミながら、少しほっとしている自分もいる。これで不快だったらたぶん立ち直れないぞ、自分。
 卑弥呼さんはそのまま、さらに考えこむ。あまりに真剣に考え込むので、何か気に障ることでも言ったかと心配になる。静寂を取り度したメディアセンターに響く、時計の針の音が聞こえる。
 卑弥呼さんは何かに納得したように、うんとうなずく。
「なるほど、私にとって人間づきあいの多くは、不快とまではいかなくとも、面倒で億劫なものだったが、案外、ヤマタケとの時間は楽しみにしているのかもしれない」
「えっ?」
 急に珍しく卑弥呼さんが持ち上げるから、焦ってしまう。別に卑弥呼さんに対して、特別な感情は何一つないが、楽しみにしていると言われるとやっぱりうれしい。卑弥呼さんに対する、僕の好感度が初めてあがったような気がする。
 そんなよくわからない反応をしている僕に、卑弥呼さんはさらに突拍子もない提案をしてくる。
「よし、ヤマタケ。日曜はひまか?」
「えっ? 日曜?」
「うん、私と遊ぼう!」
「遊ぶ? 卑弥呼さんと? ……ええっ‼」
 卑弥呼さんの提案があまりに突然だったので、初めはいまいち脳みそに入ってこない。
 遊ぶって何? 卑弥呼さんと休日に、しかも外で会う? いや、待て待て、日曜はバイトもないから、録画した番組を見ながらごろごろ計画が絶賛、発動する予定だったはずだ!
「何だその動揺は? 休日に女の子と会うことが、そんなに珍しいことか?」
 いや、そこじゃないけど……と思いながらも、卑弥呼さんに問い返す。
「それじゃあ、卑弥呼さんはよく男の人と出かけたりするの?」
「ああ、しょっちゅう」
 卑弥呼さんがにやりと笑う。
 嘘だ! あの卑弥呼さんが⁉ たぶん、動揺しすぎて、今、変な顔していると思う。いったい、どこから聞いていいのかわからなくて、戸惑ってしまう。
「ヤマタケ、何焦ってる? 私が男と二人で、街を歩いたり、手をつないだりしないとでも思ったか?」
「えっ⁉ 卑弥呼さんが手をつないで、歩いたりもするの!」
「うん、先週も手をつないで、パフェ食べた」
 ドヤ顔の卑弥呼さんを他所に、ショックすぎて、灰になった矢吹丈みたいになってしまう。
「まあ、相手は小一の弟だけどな……ククク、ヤマタケ、勘違いをしていたようだな」
 弟……くそ! 謀られた。完全にピュアな男子高校生の心をもて遊びやがって。ラブコメのヒロインなんかがやると、かわいらしく見える冗談でも、卑弥呼さんにされると腹が立つ。
 そういう訳で二日しかない休日のうちの一日を卑弥呼さんと過ごすこととなった。
まだ街も目覚めきっていない朝の八時に指定された駅前で卑弥呼さんを待つ。どこへいくのか、何をするのか知らされていないことが恐ろしい。
 待ち合わせスポットとしてよく使われる大きな液晶ビジョンの前で、行き交う人々を眺める。同じように待ち合わせらしき人もいれば、休日出勤らしきサラリーマンもいる。
 今さらながらこの待ち合わせの状況に少し緊張してきた。よくよく考えると女の子と待ち合わせなんて経験ほとんどない。
 ……いや、待て! 相手は卑弥呼さんだぞ! 何を緊張しているんだ。
 そもそも、今日だってどんなかっこでやってくるかわからない。誰が見てもドン引きする服装で、周囲の好奇の目を浴びることだって十分に考えられる。ありとあらゆる不測の事態のシュミレーションをしておいても損はない。着ぐるみから十二単まであらゆる服装と無茶苦茶な行動を思い浮かべてみるが、そうなったらただただ空気として、時が過ぎゆくのを待つのみであろう。
「さっきから何をしている、ヤマタケ」
 ふいにかけられた声にびくっとなる。
「しまりのない顔をして、またくだらない想像でもしていたのだろう」
 いや、普段のあんたのせいだから……と心で思いかけて、卑弥呼さんの方に目が行く。思わず口から「……普通だ」と言葉に出てしまった。落ち着いた水色のシャツワンピに女の子らしいワンポイントの入ったサンダル、腰までの長い髪も普段とは違って束ねてあり、いつもよりは気にならない。
 あらゆる悪い方向を想定していた僕は完全に肩透かしを食らった状況だが、良い方に裏切られたので良しとしよう。
「普通とは何だ! 女の子の私服を見たときは褒めたたえるものであろう? それとも何か、私が十二単か何かで来るとでも思ったか?」
 うん、思った……笑みを浮かべる卑弥呼さんの隣で、僕は心の声でそう語る。
「まあ、十二単は重いし、外出向きではないな」
 そういう問題? ……というか持ってるの? 疑問を浮かべる僕のことなど卑弥呼さんは無視だ。
「さあ、それではヤマタケ行くぞ!」
「ええっと、卑弥呼さん、どこへ?」
「まあ、ついてきたらわかる」
 そう言って僕のシャツの袖を引っ張って歩き出す。人混みをかき分けるようにして進み、卑弥呼さんに連れられてきたのは、この街のランドマークになっている建物だ。地上150メートルのこの建物は、低層階には商業施設、高層階には展望フロアにレストラン街、イベントスペースなどが入っている。
 ……ここでショッピングとか食事とかするのか? いよいよ本当にデートみたいになってきたぞ。
 卑弥呼さんのことだから、もっとオカルトめいた怪しい場所に連れて行かれると思っていたら、以外にも若者たちの集まるデートスポットだったことに驚きを隠せない。
 鼻歌まじりにぐんぐんと中に進む卑弥呼さんを他所に、僕は別の意味で警戒心を強める。『こーれはデートなーのか♪』某アイドルの曲が頭の中を流れている。とりあえずは卑弥呼さんの真意を確かめなくては! 卑弥呼さんのことだ僕のこういう反応を楽しむために、あえてこういう場所に連れてきた可能性もある。
 ファンシーな雑貨などが並べられる専門店などに目もくれず、卑弥呼さんは高層階行きのエレベーターに乗り込む。まさか展望フロアで一緒に景色を眺めようなんてことはないはずだ。
 僕は横の卑弥呼さんを注意深く眺めてみるが、全く何を考えているかわからない。ただ、いつもよりそわそわしているような様子が見られる。
「さあ、ヤマタケ着いたぞ! 今日の目的地だ」
 エレベーターの扉が開き、イベントスペースの前までやってくると、卑弥呼さんがカバンから取り出したチケットを僕に見せる。
「ちょうどこのチケットを新聞屋にもらったのだ。この週末までの期限なので使い切らないともったいないと思ってな」
 卑弥呼さんが誇らしげに見せるチケットとイベントスペースの入り口の看板を交互に眺める。アニメ化もされた某有名少年漫画の三十周年の記念原画展が開かれているらしい。卑弥呼さんの目的がまさかこれだったとは……。
 それにしてもチョイスが渋い。少なくともこれが連載していたのは僕らが生まれるよりは前のはずだ。それにどちらかというと男子が熱くなるタイプの漫画で、女子受けはしないはずだ。
「卑弥呼さん、こういうのが好きなの?」
「何だヤマタケは嫌いか? まさか少女漫画ばかり読んで育ったのではあるまい?」
「まあ、僕も嫌いではないけど……」
 卑弥呼さんの前ではそういったものの、本当は嫌いではないどころかかなりの好物だった。昔、父親が集めていた漫画に小学校の低学年のころにドはまりした。遠足の弁当のキャラ弁で、他の者が今どきのかわいいキャラクターを作ってもらう中、僕はかなり渋いチョイスをして、先生たちにのみ喜ばれたものだ。
「ヤマタケのことだからそうだと思った。しかし、私に勝てるかな?」
 誇らしげに腕組みしているが、そもそも勝負じゃないし。まあ、これなら僕も楽しめるしいいか。無駄に挑発をしてくる卑弥呼さんをかわして、とりあえず中に入る。
 しかし、入ってみるとこれが面白い! 漫画の名場面の原画から、そのシーンを再現したジオラマ、細部にわたる設定の紹介などオタク心をくすぐるもので、いつの間にか、僕も卑弥呼さんも虜になっていた。
 卑弥呼さんはさすがこの原画展をチョイスしただけあってなかなか詳しい。しかし、僕も負けてはいない。卑弥呼さんと同等か少し勝るぐらいこの作品への愛はあるつもりだ。様々な原画を見ながらお互いの好きなシーンを語ると「それ、わかるわー‼」と共感できる。
 しまいには館内のお姉さんにのせられて、記念パネルの前で二人でスマホで記念写真まで撮ってしまった。卑弥呼さんのスマホで撮った写真の出来を二人でのぞき込む。
「後でヤマタケにも送ってやろう」
 卑弥呼さんは特に気にしていないようだったが、その距離の近さに内心ドキドキしてしまった。……いや、これは卑弥呼さんだからと自分に言い聞かす。このあたりは女子への免疫が薄い僕はどうしていいかわからなくなる。
 原画展を後にした僕らはファーストフード店で腹ごしらえをすることになった。実はこれも少し意外だった。卑弥呼さんのことだからもっと変わったものを要求するかと思ったが、意外と普通だ。
 ポテトにありえないぐらいのケチャップを要求したり、いちいちポテトを爪楊枝で刺して食べるぐらいは許容範囲だ。僕に観察されていることなど気にもせず、卑弥呼さん先ほどの原画展について思ったことをしゃべり続ける。
 やれ「友情パワーこそ最高だ」とか「世界の国は超人の出身国で覚えた」だとかを上機嫌で話す。メディアセンター時も一方的に話を続けることもあるが、こんなに楽しそうな表情をしている卑弥呼さんは初めてだ。
 僕も少し調子に乗って「卑弥呼さん、楽しい?」などと聞いてみようかとも思ったが、やっぱりそれは野暮だし、否定の言葉が返ってきたら立ち直れないなと思い、やめておいた。
 そうやって興奮して話を続ける卑弥呼さんの言葉を適当に相槌を打ちながら聞いている時に小さな事件が起こった。
 空いている座席を探して二階席に上ってきたカップルの女の子の方が、僕と目が合って思わず「あっ!」と言葉を漏らす。
僕も心の中で「あっ!」と思う。あれは同じクラスの相沢だ。完全に目が合ってお互いに気づいたよな?
「何やってんだよ、ボーっと立ってないで早く歩けよ」
 後の彼氏にせっつかれた相沢は、何も見なかったというように、背を向けて僕らとは真逆の方の席に移動していく。彼氏の方は僕の存在に気づいていないようだったが、相沢が話すかもしれないな。
 彼氏の方は確かサッカー部の人間だ。確か小山とか言ったっけ? 学年のうるさがたとも仲が良いので、めんどくさいことにならなきゃいいけど……いや、そもそも何もやましいことはないはずなんだけど、この状況だけみたら、あらぬ噂を流されても無理はない。
「どうしたヤマタケ? 間の抜けた顔をして」
 ぼんやりと考え込んでいた僕に卑弥呼さんの強烈な一言。「間の抜けた」は余計だ。まあ、考えても仕方ないことだし、卑弥呼さんとそういう関係でもないんだし、堂々としていようと開き直る。
「別にちょっとぼんやりしていただけだよ。それより卑弥呼さん、この後はどうするの?」
「とりあえず私の予定していたことは、すべて終わった。せっかくここまで来たので、大きな本屋にでも寄って帰ろうと思うのだが、ヤマタケはどうする?」
 まだまだ連れまわされるものと覚悟していたが、もう解放されそうだ。駅へと続くアーケードにある大きな書店は確かに魅力的だが、これ以上、卑弥呼さんとのツーショットを見られるリスクを負う必要はない。
 爪楊枝に刺したポテトを指先でクルクル回しながら聞いてくる卑弥呼さんに、丁寧に断りを入れようとした。
「……残念だけど、僕はここらで」
「そうかそうか、そんなに一緒に行きたいなら連れて行ってやろう!」
「えっ……いや、あの……卑弥呼さん?」
 卑弥呼さんは底意地の悪い笑みを浮かべている。しまった! やられた! 初めから卑弥呼さんは僕を解放するつもりなどなかったんだ。純真な高校生の心を弄びやがって!
 なんだかんだ言いながら卑弥呼さんには逆らえず、本屋まで同行することになった。席を立つとき、相沢の方を見てみたけど彼氏との話に夢中で、こちらのことなどまるで気にかけていない。どうやら僕の思い込みすぎのようだ。
 ……そうだよな。別に僕と卑弥呼さんを見かけたところで、カップルの話題になるほど僕らの校内注目度ランキングは高くないよな。ちょっと自意識過剰だった。
 懸念していたことがクリアになり、少し足取りも軽くなる。本屋に入ると話題書のコーナーから順に気になった本を手に取りながら回っていく。こういった時は本好き同士は楽だ。
 別に会話などなくても、本屋の中で呼吸をするように自然体でいられる。もちろん手に取った本について言葉を交わすこともあるが、お互いが本の中に入り込んでいる時には、その世界を邪魔しないし、同じ本を読むときはその世界を共有する。
 卑弥呼さんの手に取る本のセンスは相変わらずぶっ飛んでいたが、そのぶっ飛び方が卑弥呼さんらしくもあるなと思い始めていた。途中から卑弥呼さんの少し先を歩き、卑弥呼さんの手に取りそうな本を予想するという訳の分からない遊びを始める。
 基本パステルカラーの可愛い装飾や白っぽい表紙より、黒や深い緑などの装飾、わかりやすいタイトルよりも、一見すると「ん?」とはてなが浮かぶようなタイトル中心に予想を立てる。
 誰が読むんだ? というマニアックな本を手に取るかと思えば、意外にも青春ど真ん中! みたいな本をパラパラとめくることもある。
 卑弥呼さんの選択に、心の中で一喜一憂する。顔には出さないようにしていたつもりだが、「ヤマタケ、私で遊んでないか?」などとツッコまれる。
 僕の意図に気づいた卑弥呼さんは、僕の予想を外すためにあえて裏をかいてくる。僕はまたその裏の裏を読んで……って、これじゃあきりがない。
 ただ、なんかさっきからこのやりとりをちょっと楽しんでないか? いやいや、僕は卑弥呼さんに振り回されているだけだ。なんか楽しくなってきたなんて思ったら、完全に卑弥呼さんの思う壺だ。
 気を取り直して、自分の買いたい本をいくつか選ぶ。結局、文庫本を二冊買って本屋を後にした。
帰りは電車も二人で乗った。普段の通学時のラッシュほどではないが、休日の電車もそれなりに混み合っている。僕と卑弥呼さんもつり革を持って並んで立っていた。さっきの写真の時ほどではないが、卑弥呼さんとは言え、こうして女子と接近しているのは少し緊張する。
 できるだけ自分は耐えていたが、カーブの遠心力で卑弥呼さんがこっちに接触してくると、全神経が集中しているような気がする。
混み合った車内ではほとんど会話を交わすことはなかった。どう考えても体育会系ではない卑弥呼さんには少しきつかったかもしれない。途中、席が空けば、卑弥呼さんだけでも座ってもらおうと思っていたが、そううまくもいかない。
 僕と卑弥呼さんは同じ線だが、卑弥呼さんの方が快速で二駅手前で降りる。卑弥呼さんの降りる駅に着くと「それじゃあ、またな」と言葉を残し、さっそうと去っていった。そのあまりものあっさりとした別れに、少々肩を透かされる。
 僕的には正直思っていたより楽しい一日を過ごせたと思う。でも、卑弥呼さんにとってはどうだったのだろう? あっさりとした去り際に、そんなこと思う必要もないのに不安になってしまう。
 寝る前にベッドで激動の一日について思い返してみる。たとえ相手が卑弥呼さんとは言え、女子と二人で出かけるなんて、僕にとってはなかなかハードルの高いことだった。
 今考えると舞い上がって、よくわからない会話をしていたかもしれない。つまらないやつだと思われたかなと再び不安が蘇る。そのタイミングでスマホの通知のランプが光る。卑弥呼さん? 何となく予感がして、急いでメールを開く。
『今日は楽しかった! また明日!』
 一言の文と共に添付されていたのは、原画展のお姉さんにとってもらった卑弥呼さんとのツーショット写真だった。思わず少し拡大なんかしてみたりしながら眺める。
 そんな自分に気づいて、慌てて「これは卑弥呼さんだぞ!」と言い聞かすが、なかなか寝付けない。
 そんな感じに寝不足気味で、いつもの教室に向かう。教室に入ると周りからの視線を感じたが気にせず自分の席に着く。窓際の斜め二つ前の席にはすでに卑弥呼さんが座っている。卑弥呼さんとの写真のインパクトが強すぎて、この時まですっかりあの出来事を忘れていた。
 何かいつもより注目を浴びている気がする。少し離れたところでチラチラと女子の二人組がこちらを見ながら会話している。
 僕はいつもぼっちという訳ではない。かといって教室の中で注目を浴びるほど目立つ方ではない。良くも悪くも「普通」と言われるグループに属する僕が、何だか今日は気味が悪い。
 なるべく平静を装いながら周囲の様子をうかがう。いったい僕の何が? と思っているところに、サッカー部の仲川が僕に話しかけてきた。
 お調子者でクラスの中で目立つタイプの仲川は普段なら積極的に関わってくるようなことはない。
「なあ、お前、卑弥呼さんとつきあってんの?」
「は?」
 仲川の言葉に驚きながらも、「あのことか……」と納得する。脳裏にはファーストフード店で会った相沢と小山の顔が浮かんだ。
「昨日、二人でデートしてるのを目撃した奴がいるんだぜ」
 仲川は芸能人のゴシップを楽しむような表情を浮かべている。明らかに周囲のクラスメイトも聞き耳を立てている様子だった。
 はいはい、周囲からしたらおもしろい話題でしょうよ……仲川に限らず、高校生という生き物はこういう噂話に目がない。あらぬ噂を立てられたら面倒だなと思い、できるだけ何でもないことのように言葉を返す。
こちらが平然と返していれば、周りもいつもの卑弥呼さんに巻き込まれているだけだとわかってくれるだろう。
「はいはい、別にそういうのじゃないよ」
 僕の冷たい返しにもめげず、さらに仲川は言葉を被せる。
「嘘つけ! 二人でめっちゃ楽しそうにしてたって聞いたぞ! ほんとはつきあってるんだろ?」
おいおい、空気読めよ! めんどくさいんだよ、これ以上。
「だ・か・ら、そういうのじゃないって言ってんだろ! 別に楽しそうにもしてないよ!」
 仲川のからみ方がうざかったので、さっきよりつい大きな声で、きつい言い方になってしまった。それでも仲川がさらに追及しようと話しかけた瞬間、教室にバン! と大きな音が響く。みんなが音の方に目をやると、卑弥呼さんが机に教科書を叩きつけたようだった。卑弥呼さんがギロっと仲川を睨みつける。
 そのまま卑弥呼さんは立ち上がると、一言も発せず教室を出ていってしまった。
 一瞬にして教室の空気が重たくなる。さすがに仲川も「ごめん」とつぶやいて自分の席に戻ってしまった。しばらく静寂が続いたが、再び周囲の時が動き出した後も、僕は一人取り残されたままのような気がした。その後は何事もなかったように、一日が過ぎていく。卑弥呼さんはいない。担任にそれとなく聞くと、体調不良だとか言って早退してしまったらしい。
 主のいなくなった座席を時々眺めては後悔する。卑弥呼さんのことを傷つけてしまったのかもしれない。別にムキになって否定するようなことじゃなかった。仲川もちょっとからかっただけだ。僕が普通に流してさえいれば、それ以上の騒ぎにはならなかったはずだ。またいつものように、草薙が卑弥呼さんにからまれたんだとみんなも納得していただろう。
 何より一番いけなかったのは嘘をついたことだ。本当はすごく楽しかったんだ。卑弥呼さんといることが、いつの間にか楽しくなっていて、それをたぶん卑弥呼さんも喜んでいてくれて、だからこそ……だめだ、やっぱり卑弥呼さんに謝らないと。
『さっきはごめん! 仲川にからかわれて気持ちと違うことを言ってしまった。本当は昨日とても楽しかった。卑弥呼さんを嫌な気持ちにさせて本当にごめん!』
 昼休みに送ったラインにすぐに既読はついたが、いつまで経っても返事が返ってこない。夕方になってぽつりぽつりと雨が降り出した。そういや、今日の夕方からしばらくは天気がぐずつくとか言ってたっけ?
 家に帰ってからも心配になって、ラインと電話の着信を入れておいたが、どちらにも返信がない。昨夜とはまた違った意味で眠れない夜を過ごした。
 次の日もその次の日も卑弥呼さんは学校に来なかった。三日前から降り続く雨は、まるで僕の心を表しているかのようだった。あれから何度かラインを送ったが、やはり返事は返ってこない。
 担任に聞いても体調不良だとしか聞いていないらしい。あまりに不安になった僕はついに強硬手段に出る。担任にプリントを届けることを志願して、卑弥呼さんの家の住所を入手した。
 この間、卑弥呼さんを見送った駅に降り立つと、頬を両手でバシッと叩き、気合を込めた。担任からもらった住所をスマホの地図に入力する。
 大丈夫……駅からはそんなに遠くない。とにかくやれることはやってみよう。卑弥呼さんになんて言ったらいいかわからないけど、少なくとも自分の気持ちは伝えよう。
 そんなことを考えていると、街の景色もまったく目に入らなかった。相変わらず雨は降り続けている。携帯の地図によるとこのあたりのはずだと思いながら、一つ一つの家の表札を見ていく。
 番地も間違ってなさそうだし、「山田」の表札がかかっている。大きく深呼吸をすると、勇気を出して、インターフォンのボタンを押す。しばらく様子をうかがうが、人が出てくる気配がない。
 あきらめずにもう一度ボタンを押して、しばらく待つ。やはり誰も出てこないので、手紙だけポストに入れて帰ろうかとした時、玄関のドアがゆっくり開く。
「だーれー?」と言いながら、小学校の低学年ぐらいの男の子が手に携帯ゲーム機を持ったまま出てくる。前に卑弥呼さんが弟の話をしていたので、もしやと思い話しかける。
「あの……ここ、山田姫子さんのお家であってるかな?」
 警戒されないようできる限りの笑顔を浮かべて尋ねる。
「ねえねのお友達?」
「うん、ヤマタケが来たってねえねに伝えてくれるかな?」
「いいよー」と卑弥呼さんの弟はドアの向こうに引っ込んだ。バタバタと階段を上る音が聞こえる。
 しばらく卑弥呼さんの家の玄関先で雨宿りをさせてもらう。弟くんがうまくつたえてくれるといいけど……。バタバタとまた階段をかけ降りる音が聞こえた。ドアが開き、弟くんが半分だけ顔を出した。
「ねえね、会いたくないって」
 予想はしていたが会ってもくれないことに気持ちが沈む。それだけ卑弥呼さんを傷つけてしまったということか。
「ねえねの様子はどうなの? 元気ない?」
 弟くんは少し上をみて考えてから答える。
「あんまり元気ない……おーちゃんと遊んでくれないもん」
「そっか、おーちゃんっていうんだね?」
「うん、『おおが』でおーちゃん」
 退屈していたところに話し相手を見つけてうれしいのか、元気いっぱいに答える。
「じゃあ、おーちゃん、これだけねえねに渡しておいてくれる?」
 学校でもらってきたプリント類をおーちゃんに預ける。
「うん、わかった!」
「ありがとう。それじゃあ、よろしく頼むよ」
 そう言っておーちゃんに手を振って山田家を後にする。おーちゃんはしばらく「ヤマタケー、また来てね!」と言って、手を振っている。
 家に帰ってからも、一応ラインでおーちゃんにプリント類を渡した旨を伝えておいた。ここからは一人反省会&作戦会議だ。
 卑弥呼さんのことだから一筋縄ではいかないとは思っていたが、まさかあそこまであからさまに「会いたくない」と拒否されるとは思わなかった。こちらのメンタルもすでにズタボロだが、卑弥呼さんはもっと傷ついているのかもしれない。あるいは、意地を張って僕のことを避けている可能性もある。
 卑弥呼さんとそこまで仲良かったわけでもないし、どちらかというといつも暴風雨のような卑弥呼さんに巻き込まれている方だったが、今のままでよいわけはない。何とか誤解を解いて直接卑弥呼さんに謝らなければ。
 そのためにはどうするか? 明日もやっぱり放課後に卑弥呼さんの家に行ってみよう。三顧の礼ではないが、諸葛孔明でも三回訪問されたら軍師になったんだ。卑弥呼さんはそれより手ごわそうな気もしたが、何度だって言ってやる。
 ……まてよ。
 そこまで思考が流れていったとき、脳裏にある考えが浮かんだ。
 ……もしかしたらうまくいくかもしれない。
 卑弥呼さんと昔、メディアセンターでした会話を思い出す。あの日、古事記派か日本書紀派かという意味の分からない質問をしてきた卑弥呼さんならこちらの意図も伝わるはずだ。
 忘れないよう通学用のカバンに携帯ゲーム機を入れてから眠りにつく。
 次の日も朝から雨が降っていた。今日でもう四日目だ。この間の件があってから雨がやまないので、クラスの中ではひそひそと卑弥呼さんの呪いじゃね? なんて声も聞こえてくるが、さすがの卑弥呼さんでも天気を操ることまではできないだろう。
 放課後のことが気になって授業にもあまり集中できないまま一日を過ごした。天気もあってか気持ちはずっとどんよりしたままだがやるしかない。
 作戦を決行すべく、終礼後すぐに卑弥呼さんの家に向かった。
 さすがに昨日の今日なので、すらすらと道順を覚えている。卑弥呼さんの家の前に着くと、大きく息を吸ってから、昨日と同じように呼び鈴を押す。
 一度目のベルでは反応がなかったが、あきらめずに二度、三度とボタンを押す。
 今日に限って留守か? あきらめかけていたところに「はーい」と甲高い声が聞こえる。玄関のドアが開くと予想通りおーちゃんだ。おーちゃんは来客が僕であることを確認すると「たまたけー」と嬉しそうにしている。
「おーちゃん、『たまたけ』じゃなくて『ヤマタケ』だよ」
「そうそう、ヤマタケ! ねえね呼んでこようか?」
 そのまま二階に駆け上がりそうなおーちゃんを声で制止する。
「待って! 今日はおーちゃんに用があるんだ」
「おーちゃんに?」
 おーちゃんは不思議そうな顔をして自分を指さす。
「そう、おーちゃんに! 昨日来た時、パケモンのゲーム持っていただろ? 僕とパケモン交換しない?」
 パケモンとはゲーム、アニメなどで若者から子どもまで人気のパケットモンスターのことだ。つい最近も新作のゲームが発売されて、僕もかなりやり込んだ。
 このゲームの特徴はクリアしてからも、パケモン図鑑を完成させたり、友達と交換や大戦などのやり込み要素がたくさんあるところだ。しばらく目をパチクリさせていたおーちゃんだが、嬉しそうにうなずき「すぐゲーム取ってくるね!」と階段を駆け上がっていった。
 ここまでは作戦成功だ。
 戻ってきたおーちゃんに玄関に上げてもらい、そこでおーちゃんとパケモン交換をする。おーちゃんのテンションをあげるのが目的なので、ここは惜しまず大切に育てた幻のパケモンのムウツーをおーちゃんに渡す。
 初めて見る幻のパケモンにおーちゃんは歓声をあげる。おーちゃんが「対戦もしよ!」と言うのでそれにもつきあった。
 とにかく力押しをしてこようとするおーちゃんにパケモンの属性や相性をレクチャーしながら対戦をこなす。伊達に長い事パケモンをやっていない。僕のテクニックや知識におーちゃんはただただ驚嘆する。
「ヤマタケ、すげぇー! パケモン博士だ。ねえねとどっちが強いの?」
「今までのパケモンシリーズは全部やってきてるからね。ねえねもパケモン強いの?」
「うん! いつもおーちゃんがわからないところ教えてくれるのー。でも、ねえね、負けず嫌いだから、おーちゃん、ねえねに勝ったことない」
「よし! それじゃあ、ねえねに負けないように特訓してやろう!」
 そう言ってしばらくおーちゃんパケモンバトルを続ける。途中で本来の目的を忘れそうになっていたが、おーちゃんの楽しそうな声が、家中に響いているので計画は順調に進んでいる。後は卑弥呼さんが出てくるのを待つだけだ。
 おーちゃんとパケモンで遊びながら、吹き抜けになっている玄関から二階の様子をうかがう。階段を上りきったあたりに目をやった時、サッと物陰に身を隠した黒い物体が見えた。
「おーちゃんもだいぶ属性のことがわかってきたね。そうやってうまく相手の弱点を考えながらチーム編成をするんだよ。後でねえねに成長したところを見てもらおう! ねえ、卑弥呼さん!」
 おーちゃん越しに、階段のところに隠れている卑弥呼さんに向かって声をかける。僕の言葉におーちゃんも振り返って階段の方を見上げる。少しの静寂の後、観念したように卑弥呼さんが出てきた。どこでそんなものが売っているのか漆黒のパジャマ姿だ。
「……ズルいぞ、ヤマタケ」
 階段を降りてくる卑弥呼さんを見て、おーちゃんは「ねえねが出てきた」と嬉しそうにしている。
「押しても駄目なら、引いてみろってね。おーちゃんと楽しそうに遊んでいたら出てくるかなって……」
「天岩戸か……ヤマタケ考えたな」
 天岩戸とは古事記の中の逸話だ。
 弟、スサノヲの乱暴を見かねて、太陽をつかさどる神の天照大神が天岩戸に引きこもり、あたりが闇に包まれてしまった。どんなに声を出てこない天照大神を外に出すため、八百万の神々は天岩戸の外で楽しそうにふるまうと、それが気になった天照大神が外に出てきて、再び世に光が戻ったという話だ。
 いつか卑弥呼さんと話した卑弥呼は日の巫女、天照大神と同一人物という話を思い出して、この作戦を思いついた。卑弥呼さんならきっとこちらの意図を汲んでもらえると信じて。作戦は大成功、あの日以来、久々に卑弥呼さんのことを正面からみた。今度こそちゃんと謝らなくては。
「卑弥呼さん、こないだはごめん!」
 卑弥呼さんに向かって思い切り頭を下げる。
「からかわれたせいで、あんなこと言っちゃったけど、本当は卑弥呼さんと出かけたあの日はすごく楽しかった。もう二度とあんなことは言わないので許してほしい」
「もうよい、ヤマタケ……頭をあげろ」
 卑弥呼さんが頭を下げたままの僕を制する。
「別にお前のせいではない。少しの間、からかった奴らを懲らしめる呪術について調べていただけだが、お前に免じて奴らのことも許してやろう……まったく奴らも命拾いしたな」
 いやいや、いったい何をするつもりだったんだ。真顔で言う卑弥呼さんが怖い。
「さすがに家にこもるのも飽きてきた。明日からはまた学校に行ってやろう。ヤマタケも寂しがっているようだしな」
 卑弥呼さんはニッと笑う。
 つっこみと訂正を入れようかと思ったが、卑弥呼さんの表情を見てやめておいた。
「うん、学校で待ってるよ」
 僕が素直にそう言ったことが意外だったのか、卑弥呼さんは少し驚いたような、そして、照れたような表情を見せる。
「……もう用事が済んだのなら立ち去るがよい。よくよく考えたらパジャマ姿を見られるのは恥ずかしいものだ」
 もう少し照れた卑弥呼さんを見ていた気もしたが、そこは素直に引き下がることにした。また明日も会えるのだから。
「卑弥呼さん、それじゃあまた明日! おーちゃんもまたね」
 山田家の玄関のドアを開けると、さっきまでの雨がやんで空から光りが差し込んでいる。
「ヤマタケ、見て! 虹だ!」
 おーちゃんが裸足のまま慌てて玄関から飛び出した。指さす方向を見ると確かに雨上がりの街に虹がかかっている。
 卑弥呼さんも出てきて三人で虹を眺める。
 もしかしたら卑弥呼さんは本当に天照大神なんじゃないか? なんてことを思いながら七色に輝く空を見つめた。
少し変わった、でも、どこか気になる不思議な同級生の呼吸を隣に感じながら……。