放課後の教室には僕と神崎のふたりしかいない……はずだった。
「お前、ひとのこと言えないじゃん」
 僕の隣、神崎の席の前には中川が立っている。忘れ物をしたらしく、ひとりで教室に入ってくると、僕と神崎を見つけ――いまに至る。
「自分も小鳥遊に勉強見てもらってるくせに」
「は?」
 神崎の低い声が落ち、中川を睨み上げる。
「放課後の時間使ってもらって? 小鳥遊に迷惑かけて? それでひとのことよく言えるよな」
「あの、僕はべつに」
 はあ、と神崎が大きく息を吐き出す。
 僕の声はふたりに届かない。教室でケンカして健ちゃんに迷惑かけるようなことになりませんように、と念を送ることしかできない。
「俺はべつに自分で頼んでないけど? 河野先生が決めたことだから。お前みたいに自分がラクしたくて迷惑かけるのとは違うから」
「は? それこそ迷惑だなんて思っていても言えないだろ」
 そもそも健ちゃんからの頼まれごとを迷惑だなんて思ったことはないし、嫌だと言えないのは健ちゃんによく思われたいからなんだけど。
「しかも神崎だし? 断ったら何されるかわかんないよな」
 な、と同意を求める視線をもろに受けてしまう。僕にとっては神崎より、クラスで力を持っている中川のほうがこわい。だからこそここで頷く以外の選択肢はない。でも……。
 ちら、と視線を向ければ、神崎が小さく唇を噛んでいた。眉を寄せているのは変わらないけど、ぐっと何かに耐えるような、痛みを堪えるような表情に見える。なんでお前がそんな顔するんだよ――あれ? 唐突に既視感を覚える。同じようなことがずっと前にもあった気がする。でも、いつ? どこで?
「なに? それとも小鳥遊は神崎より俺のほうがこわいとか? 俺のほうが迷惑なわけ?」
 笑っているが、中川の声にはイライラとした鋭さが含まれていた。感情の矛先が神崎から自分へと変わりかけている。ダメだ。そんなことないって言わないと。早く。
「よー、お疲れ」
 ガラリ、とドアの開く音とともに健ちゃんの明るい声が響く。
「あれ? 中川も残ってたのか」
「俺はもう帰ります」
 張りつめていた空気が、廊下からの風によって緩む。中川が「じゃあ」と教室を出ていこうとしたのを健ちゃんが「待って」と呼び止めた。
「中川も手伝ってくれたんだろ」
 ほい、とジャージのポケットから何かを取り出し、中川に渡している。
「ご褒美ってことで。ほかの先生に見つかるなよ」
 神崎に文句を言いに来ただけです。なんて、調子のいい中川が言うはずもなく。「ありがとうございます」と健ちゃんに笑顔を返して出ていった。
 ほっと、ようやく息を吐き出す。中川に答えずにすんでよかったという安堵と、覚えのない既視感に心臓がまだ揺れている。
「これでとりあえず大丈夫だろ」
 健ちゃんが僕と神崎に「ほい」と手を差し出す。大きなてのひらには飴がふたつ乗っていた。
「神崎の勉強を手伝うくらいの仲だ、ってことになれば中川も変に突っかかったりできないだろ」
 賄賂も渡したし? と健ちゃんが下手なウィンクをする。物を使うのは教師としてはアウトだし、飴玉ひとつで賄賂になるかどうかは怪しい。
「中川くんがいるってわかってたの?」
「ああ、戸村が呼びに来たからな」
「戸村くん?」
「あいつサッカー部だろ? 下から見えたらしいよ」
 窓へと顔を向ければ、確かにサッカー部がグラウンドで練習している。校舎の近くを通れば、窓際に座る神崎とそれを見下ろす中川の姿が見えるかもしれないけど。わざわざ健ちゃんに報せに行ってくれたんだ。やっぱり戸村とはちゃんと友達になりたいな。
「で、勉強は進んでる?」
 健ちゃんが、ひょいっと神崎の机を覗き込む。中川が来るまではやっていたけど、とくに質問もされていないし、進んでいるはずがない。と思ったのだけど。
「おお、結構出来てるじゃん」
「えっ」
 うそ、と言いそうになって慌てて口を閉じる。
「もともと成績も悪くないしな」
 そうなの? と突っ込みたいのをどうにか堪える。
「授業の進みに差があったから心配だったけど、この調子なら大丈夫そうだな」
 うんうん、とひとり頷く健ちゃんが、ぱっと僕を振り返る。
「ありがとな」
 向けられた笑顔にぐっと胸が痛くなる。お礼を言われるようなこと、僕はまだ何も出来ていない。神崎には「質問があれば言って」としか言っていないし、その質問すらまだない。これは全部神崎がひとりでやったことだ。
 ――そいつ、何もしてないけど。
 そう言われると思った。今日一日を振り返れば、神崎がズルや曲がったことが嫌いだとわかる。何もしていない僕にだって、神崎は怒るに違いない。そう、思っていたのに。
「じゃあ、その調子でよろしくな」
 健ちゃんが教室を出ていくまで、神崎は何も言わなかった。