健ちゃんの勤める高校に入学が決まってから、学校に行くのが楽しみで仕方なかった。二年生で健ちゃんが担任になってからは、いままで一度も「行きたくない」なんて思ったことはない。それなのに。
「おはよー」
「おはよう」
すれ違う同級生に笑顔で挨拶を返しながらも、僕の足は重かった。神崎に会いたくない。けど、健ちゃんとの約束は守りたい。気まずいけど、何事もなかったように過ごすのが一番だろう。昨日のことは夢か幻ってことにしてほしい。僕がキレた(のか?)なんて誰も信じないと思うけど。そもそも神崎がそんなこと話す相手もいないか。
深呼吸を繰り返し、いざ、とドアへ手を伸ばしたところで、自動ドアよりも勢いよくスライドした。
「わっ」
出てきた相手とはギリギリぶつからずにすんだが、驚きに揺れた心臓はすぐには戻らない。
「びっくりし……えーっと」
誰? と言いそうになって飲み込んだものの、別の言葉が見つからない。教室から出てきたのだからクラスメイトだと思ったのだが。白く透き通った素肌にすっと滑らかな鼻筋。二重瞼の奥にあるアーモンド形の瞳は黒目が大きい。見上げる位置にある顔は、男の僕でも見惚れてしまうほどイケメンだった。短い前髪からムッと不機嫌そうに眉が寄せられても、消すことのできない美しさがある。
「なに?」
「いや、ごめん」
じっと見つめてしまっていたことに気づき、急いで視線を外す。と、びっしりと耳に並ぶピアスが目に入った。髪型も雰囲気もまったく違うけど、これには見覚えがある。まさか……。
「もしかして、神崎くん?」
言ってしまってから昨日のことを思い出す。こんなふうに普通に話しかけていい雰囲気ではなかったのだと。
「は?」
眉間の皺が深くなり、視線が鋭くなる。やっぱり怒っているのか。いや、怒るなら僕のほうだと思うけど。
「――っ、邪魔」
一瞬何かを言いかけたように見えたが、神崎は僕を押し退けるようにして出ていった。なんだったのだろう、と見送っていると
「小鳥遊、おはよー」
一番前の席の戸村に声をかけられる。
「おはよう」
ようやく教室へと入れば「いまさ」と戸村が声を潜める。
「ちょっと空気やばかったんだよね」
ちら、と教室の真ん中、クラスでも目立つ存在のグループへと戸村が視線を向ける。「マジなんなの」「ムカつくわ」「てか、なにあれ? 高校デビューかよ」「遅すぎだろ」神崎に対するものだろう言葉が聞こえる。中でもリーダー格の中川の声が一番大きい。
「もしかして、ケンカ?」
健ちゃんに報告すべきだろうかと声を小さくすれば、「まではいってない」と戸村が首を振る。ケンカにはなっていないが、なりそうだった、ということか。
「中川がさ、今日提出の課題忘れたって言ってさ」
中川が課題を忘れることなんて珍しくないので、全く驚きはない。いつも僕のところにノートを借りに来る。
「それで『まあ、小鳥遊に借りればいいんだけど』っていつものノリで言ってて」
戸村が気まずそうに視線を揺らす。二回ほどではあるが、僕は戸村にも課題を写させてあげたことがある。
「そしたら急に神崎が『だっさ』って中川に聞こえるように言ってさ」
――は? いまの俺たちに言った?
――だって、お前、こんな課題もひとりでできないんだろ。
――誰もできないなんて言ってないだろ。
――じゃあ、やれよ。他人のノートあてにしないでさ。
「ってかんじで、教室がふたりのやり取りに凍りついちゃって」
「それは」
想像だけでも胸がピリピリする。とくに中川に文句を言うやつなんてこのクラスにはいない。自己中心的なところはあるけれど、中川が声をかければまとまる。中川に嫌われなければ安泰。それがこのクラスの共通認識だ。
「中川が言い返せなくなって、神崎が教室を出てって、いまってかんじ?」
「……なるほど」
「俺もノート借りたことあるから結構ドキッとしたというか」
戸村が顔をわずかに俯ける。
「あのさ、俺もなんか困ったら小鳥遊に言えばいいやって思ってたんだ。だから、ごめん」
小さく唇を噛みしめる戸村の表情に、きゅっと温かさが込み上げる。僕へ何か頼むことを申し訳なく思ってくれるひともいるんだ。みんな、僕に何か頼むことを「当たり前」だと思っているのかと思っていたけど、僕自身が勝手にフィルターをかけてしまっていたのかもしれない。
「戸村くんはさ、僕が日直のときに手伝ってくれたことあるじゃん。だからお互いさまだよ」
「小鳥遊……ありがと」
ほっと表情を緩めた戸村に、僕も自然と頬が緩む。作り物ではない笑顔がいまはできている気がした。
「おはよー」
「おはよう」
すれ違う同級生に笑顔で挨拶を返しながらも、僕の足は重かった。神崎に会いたくない。けど、健ちゃんとの約束は守りたい。気まずいけど、何事もなかったように過ごすのが一番だろう。昨日のことは夢か幻ってことにしてほしい。僕がキレた(のか?)なんて誰も信じないと思うけど。そもそも神崎がそんなこと話す相手もいないか。
深呼吸を繰り返し、いざ、とドアへ手を伸ばしたところで、自動ドアよりも勢いよくスライドした。
「わっ」
出てきた相手とはギリギリぶつからずにすんだが、驚きに揺れた心臓はすぐには戻らない。
「びっくりし……えーっと」
誰? と言いそうになって飲み込んだものの、別の言葉が見つからない。教室から出てきたのだからクラスメイトだと思ったのだが。白く透き通った素肌にすっと滑らかな鼻筋。二重瞼の奥にあるアーモンド形の瞳は黒目が大きい。見上げる位置にある顔は、男の僕でも見惚れてしまうほどイケメンだった。短い前髪からムッと不機嫌そうに眉が寄せられても、消すことのできない美しさがある。
「なに?」
「いや、ごめん」
じっと見つめてしまっていたことに気づき、急いで視線を外す。と、びっしりと耳に並ぶピアスが目に入った。髪型も雰囲気もまったく違うけど、これには見覚えがある。まさか……。
「もしかして、神崎くん?」
言ってしまってから昨日のことを思い出す。こんなふうに普通に話しかけていい雰囲気ではなかったのだと。
「は?」
眉間の皺が深くなり、視線が鋭くなる。やっぱり怒っているのか。いや、怒るなら僕のほうだと思うけど。
「――っ、邪魔」
一瞬何かを言いかけたように見えたが、神崎は僕を押し退けるようにして出ていった。なんだったのだろう、と見送っていると
「小鳥遊、おはよー」
一番前の席の戸村に声をかけられる。
「おはよう」
ようやく教室へと入れば「いまさ」と戸村が声を潜める。
「ちょっと空気やばかったんだよね」
ちら、と教室の真ん中、クラスでも目立つ存在のグループへと戸村が視線を向ける。「マジなんなの」「ムカつくわ」「てか、なにあれ? 高校デビューかよ」「遅すぎだろ」神崎に対するものだろう言葉が聞こえる。中でもリーダー格の中川の声が一番大きい。
「もしかして、ケンカ?」
健ちゃんに報告すべきだろうかと声を小さくすれば、「まではいってない」と戸村が首を振る。ケンカにはなっていないが、なりそうだった、ということか。
「中川がさ、今日提出の課題忘れたって言ってさ」
中川が課題を忘れることなんて珍しくないので、全く驚きはない。いつも僕のところにノートを借りに来る。
「それで『まあ、小鳥遊に借りればいいんだけど』っていつものノリで言ってて」
戸村が気まずそうに視線を揺らす。二回ほどではあるが、僕は戸村にも課題を写させてあげたことがある。
「そしたら急に神崎が『だっさ』って中川に聞こえるように言ってさ」
――は? いまの俺たちに言った?
――だって、お前、こんな課題もひとりでできないんだろ。
――誰もできないなんて言ってないだろ。
――じゃあ、やれよ。他人のノートあてにしないでさ。
「ってかんじで、教室がふたりのやり取りに凍りついちゃって」
「それは」
想像だけでも胸がピリピリする。とくに中川に文句を言うやつなんてこのクラスにはいない。自己中心的なところはあるけれど、中川が声をかければまとまる。中川に嫌われなければ安泰。それがこのクラスの共通認識だ。
「中川が言い返せなくなって、神崎が教室を出てって、いまってかんじ?」
「……なるほど」
「俺もノート借りたことあるから結構ドキッとしたというか」
戸村が顔をわずかに俯ける。
「あのさ、俺もなんか困ったら小鳥遊に言えばいいやって思ってたんだ。だから、ごめん」
小さく唇を噛みしめる戸村の表情に、きゅっと温かさが込み上げる。僕へ何か頼むことを申し訳なく思ってくれるひともいるんだ。みんな、僕に何か頼むことを「当たり前」だと思っているのかと思っていたけど、僕自身が勝手にフィルターをかけてしまっていたのかもしれない。
「戸村くんはさ、僕が日直のときに手伝ってくれたことあるじゃん。だからお互いさまだよ」
「小鳥遊……ありがと」
ほっと表情を緩めた戸村に、僕も自然と頬が緩む。作り物ではない笑顔がいまはできている気がした。



