帰りのホームルームが終わる直前、健ちゃんが僕と神崎に残るように言った。丸投げされるかと思ったが、そこはちゃんとやってくれるらしい。
「――持ち帰りは禁止な。進んでも進まなくても必ず毎日俺のところに持ってきて」
 さすがの神崎も教師には逆らえないらしい。健ちゃんから補習プリントを受け取り、小さく頷いている。不機嫌オーラは隠せてないけど。
「わからないところは小鳥遊に聞いて。じゃあ、あと頼むな」
 健ちゃんが教室を出ていき、僕と神崎のふたりだけが教卓前に残される。
「えーっと、今日から早速やる? 用事あるなら明日からでもいいけど」
 神崎が自分の席へと進んでいくので、あとを追いかける。頼まれたプリントはそこまで多くないし、明日からでも十分間に合う。健ちゃんが「進んでも進まなくても」と言ったのはそういう意味だろう。
「やる」
 とても小さな声だったが、返事をもらえたことにちょっと驚く。正直、健ちゃんがいなくなったら帰ってしまうかと思ったし、僕のことは無視するのだろうとも思っていた。
「じゃあ、僕も隣で課題やるから、わからないところあったら聞いて」
「――ヒマなの?」
 ノートを広げたところで、ふっとバカにしたような笑いを落とされた。こっちはお前のために付き合ってやってるんだろうが、とムカつきポイントが加算されたが、とりあえず笑顔を作る。いじめてくる相手に、望む反応をしてはいけない。
「部活も委員会も入ってない、という意味ではヒマかな」
「ふーん。それ、疲れない?」
「それって?」
 カチカチ、とシャープペンシルの頭をノックする。隣からはペンケースを取り出す気配もない。やるって言ったよな?
「ムカつくならムカつくって言えば?」
「べつにムカついてなんかいないよ」
「嫌いなやつの面倒押し付けられたのに?」
「べつに嫌いじゃないけど」
「嘘つけ」
「嫌うほど神崎くんのこと知らないし」
「……だからって引き受けるかよ」
 わずかに声が揺れた気がして、視線を向ける。けれど相変わらず表情は隠されたままだ。
「僕、学級委員だし」
「学級委員って便利屋かなんかなの?」
「便利屋かぁ。何か必要なこととか、困りごととか、そういうのを引き受けるって意味では便利屋に近いのかな」
 にっこり微笑んで返せば、神崎がきゅっと唇に皺を寄せた。こいつには何言っても無駄だな、と思ってもらったほうがいい。仲良くなりたいわけじゃないし。っていうか、こいつめっちゃしゃべってない?
「神崎くんは『他人と話すの嫌い』なんじゃなかったっけ?」
「……嫌いだけど」
「じゃあ、なんで僕にはこんなに話しかけてくれるの?」
「ムカつくから」
 いや、ムカついているのはこっちなんだけど。プリント拾ってくれなかったし、挨拶無視されたし、いまだって誰のために残っていると思っているのか。
「『課題のノート見せて』『アンケート集めるの手伝って』『掃除当番代わって』今日一日でどれだけ他人にこき使われてんの? しかも全部笑顔で引き受けて。気持ち悪すぎ」
 ざわっと一気に心地悪さが膨らみ、気づけば言葉が飛び出していた。
「それで、なにか神崎くんに迷惑かけた?」
 声が震えそうになるのを、シャープペンシルの先が受け止める。一文字も書いていないページに、折れた芯が転がった。
「なんでそんなこと言われなきゃいけないんだよ」
「ずーっと作り笑顔のやつが隣にいたらこわいだろ」
 ぎゅっと心臓が縮み、怒りとか、悔しさとか、言葉にできない感情が一気にせり上がる。泣きたくなんてないのに鼻の奥がツンとする。
「……神崎くんは、いいよね」
「は?」
「自分がやりたいようにやって、周りのことなんて考えてなくて。誰も神崎くんに何か頼もうなんて思わないよね」
 ガタン、と机の揺れる音が教室内に響き渡る。謝ろうなんて思わない。立ち上がった神崎をじっと見つめる。
「――帰る」
 乱暴にリュックを掴み、神崎が教室を出ていく。机にはひとつの答えも書かれていないプリントが残された。
「あー、もう」
 やってしまった、と思ったときには遅かった。
 ――今日一日でどれだけ他人にこき使われてんの? しかも全部笑顔で引き受けて。気持ち悪すぎ。
 一刻も早く忘れたいのに、神崎の言葉が耳の奥から離れてくれない。いい子で、優等生で、笑って何でも引き受けてくれる学級委員。いじめてくる相手に対する防御だったはずが、気づけばみんなに対して同じ顔を作っていた。
 都合のいい便利屋だってことくらい本当は気づいているし、気持ち悪さなんて自分が一番感じている。でも自分で思うのと他人から言われるのは違う。僕がやっていることをばかにしていいのは僕だけだ。
「……ムカつく」
 せり上がる痛みをやり過ごすための言葉は、チャイムの音に掻き消された。