放課後の教室は嫌いじゃない。廊下からは吹奏楽部の練習音。窓の向こうからは運動部の掛け声。ひとりでいても、ひとりではないような心地よさがある。寂しさと安心感が混ざったような、そんな。
「これで最後っと」
プリントの端を整え、ホチキスで留める。パチン、と乾いた音が教室内に響く。あとは社会科準備室に運ぶだけだ。
――ごめん、いつも頼んで。
眉を下げ、手を合わせる健ちゃんの姿を思い出す。社会科教師なのに着ているのはいつもジャージで、背の高さや肩幅の広さから体育教師と間違えられることが多い。「スーツにしたら?」と言ったら「肩が凝る」と言われ、「私服は?」と提案すれば「毎日考えるのが面倒」と却下された。およそ先生っぽくない回答だったけど、そんなことを言えるのは僕の前だけだと思うと嬉しい。
――お礼に好きなもの奢ってやるから。
こんな取引が許されるのも、僕と健ちゃんが幼馴染だから。十歳の年の差はあるけれど、物心ついたときから、健ちゃんは僕のそばにいる。兄で、幼馴染で、そして……。
「何奢ってもらおうかな」
机にかけていたリュックを背負い、プリントの束を抱える。暗くなった教室を見まわし、ドアを閉める。ひとりで居残ることにすっかり慣れてしまった。
廊下の窓から夕陽が差し込み、廊下に影を作る。思ったより時間がかかってしまったらしい。本来なら学級委員ふたりでやる仕事だったのだから仕方ない。健ちゃんが頼むのを忘れていて、もうひとりの学級委員は帰ったあとだった。
――空が頑張ってること、俺はわかってるから。
十年前、健ちゃんがくれた言葉が、いまも胸を温めてくれる。
小学校に入学したばかりの頃、ユウイチくんという隣の席の男子にいじめられたことがある。最初はとっても仲がよかったのに、ある日突然言われたのだ。
『空くんなんか大嫌い』と。
ユウイチくんは僕を無視し、周りの友達にも僕と話さないように言い始めた。そのうち物を隠されたり壊されたりまで始まり、僕は学校に行くのがこわくなった。
両親は産まれたばかりの妹にかかりきりで、「お兄ちゃん」である自分が泣きつくことはできない。誰にも言えず、公園でひとり泣いていたとき、同じマンションに住む健ちゃんが通りかかった。
『空が頑張ってること、俺はわかってるから』
健ちゃんは当時流行っていたキャラクターの消しゴムを「お守り」と言って渡してくれた。それさえも翌日にはユウイチくんにとられてしまったのだけど。
「せっかくならお寿司? 焼肉も捨てがたいな……」
次の角を曲がれば準備室、というところで、ぶわりと強い風が吹きつけた。廊下の窓が閉まっていなかったらしい。咄嗟に力を入れたものの、数枚のプリントが床に落ちる。
「あー、もう」
束を抱えたまま拾っていく。思ったよりも多い。ひとを呼ぶほどではないけど、地味に面倒だ。タイミングよく誰か――健ちゃんが通ればいいのに。そんなことを思いながら手を伸ばしたとき。視界の端に青色の上履きが映った。青は自分と同じ二年生の学年カラーだ。誰だろう、と顔を上げる。
見慣れない白の学ランを着た、背の高い男子が立っていた。ぼさっとした髪が目元を隠していて、顔はよく見えない。転校生だろうか。
廊下に広がった紙の束に、立ち止まってくれたらしい。
「そ……」
「ごめん。悪いけど」
拾ってくれる? と言葉が続くより先、「そんなとこでしゃがんでると邪魔なんだけど」と低い声が落ちてきた。え、と戸惑う間もなく、くるりと背を向け、去っていく。邪魔って。そこまで言わなくてもよくない? 落としたのは僕だけど。わざとじゃないし。
「なんだよ、あれ」
ムカつく。決して表には出せない感情が胸の中で膨らんだ。
「これで最後っと」
プリントの端を整え、ホチキスで留める。パチン、と乾いた音が教室内に響く。あとは社会科準備室に運ぶだけだ。
――ごめん、いつも頼んで。
眉を下げ、手を合わせる健ちゃんの姿を思い出す。社会科教師なのに着ているのはいつもジャージで、背の高さや肩幅の広さから体育教師と間違えられることが多い。「スーツにしたら?」と言ったら「肩が凝る」と言われ、「私服は?」と提案すれば「毎日考えるのが面倒」と却下された。およそ先生っぽくない回答だったけど、そんなことを言えるのは僕の前だけだと思うと嬉しい。
――お礼に好きなもの奢ってやるから。
こんな取引が許されるのも、僕と健ちゃんが幼馴染だから。十歳の年の差はあるけれど、物心ついたときから、健ちゃんは僕のそばにいる。兄で、幼馴染で、そして……。
「何奢ってもらおうかな」
机にかけていたリュックを背負い、プリントの束を抱える。暗くなった教室を見まわし、ドアを閉める。ひとりで居残ることにすっかり慣れてしまった。
廊下の窓から夕陽が差し込み、廊下に影を作る。思ったより時間がかかってしまったらしい。本来なら学級委員ふたりでやる仕事だったのだから仕方ない。健ちゃんが頼むのを忘れていて、もうひとりの学級委員は帰ったあとだった。
――空が頑張ってること、俺はわかってるから。
十年前、健ちゃんがくれた言葉が、いまも胸を温めてくれる。
小学校に入学したばかりの頃、ユウイチくんという隣の席の男子にいじめられたことがある。最初はとっても仲がよかったのに、ある日突然言われたのだ。
『空くんなんか大嫌い』と。
ユウイチくんは僕を無視し、周りの友達にも僕と話さないように言い始めた。そのうち物を隠されたり壊されたりまで始まり、僕は学校に行くのがこわくなった。
両親は産まれたばかりの妹にかかりきりで、「お兄ちゃん」である自分が泣きつくことはできない。誰にも言えず、公園でひとり泣いていたとき、同じマンションに住む健ちゃんが通りかかった。
『空が頑張ってること、俺はわかってるから』
健ちゃんは当時流行っていたキャラクターの消しゴムを「お守り」と言って渡してくれた。それさえも翌日にはユウイチくんにとられてしまったのだけど。
「せっかくならお寿司? 焼肉も捨てがたいな……」
次の角を曲がれば準備室、というところで、ぶわりと強い風が吹きつけた。廊下の窓が閉まっていなかったらしい。咄嗟に力を入れたものの、数枚のプリントが床に落ちる。
「あー、もう」
束を抱えたまま拾っていく。思ったよりも多い。ひとを呼ぶほどではないけど、地味に面倒だ。タイミングよく誰か――健ちゃんが通ればいいのに。そんなことを思いながら手を伸ばしたとき。視界の端に青色の上履きが映った。青は自分と同じ二年生の学年カラーだ。誰だろう、と顔を上げる。
見慣れない白の学ランを着た、背の高い男子が立っていた。ぼさっとした髪が目元を隠していて、顔はよく見えない。転校生だろうか。
廊下に広がった紙の束に、立ち止まってくれたらしい。
「そ……」
「ごめん。悪いけど」
拾ってくれる? と言葉が続くより先、「そんなとこでしゃがんでると邪魔なんだけど」と低い声が落ちてきた。え、と戸惑う間もなく、くるりと背を向け、去っていく。邪魔って。そこまで言わなくてもよくない? 落としたのは僕だけど。わざとじゃないし。
「なんだよ、あれ」
ムカつく。決して表には出せない感情が胸の中で膨らんだ。



