というか、壁ドンからの顎クイッて――。
【・壁ドンからの顎クイされたい】
わたしの頭の中に、青春ノートに書き込んだ文字が思い浮かんだ。
「…それ!わたしが青春ノートに書いてたやつっ!」
はっとして、わたしはジミー先輩を押しのけた。
「“青春ノート”…?ああ、あの青色のメモ帳の表紙にそんなこと書いてあったっけ」
青色のメモ帳…。
まさしく、わたしが探していた青春ノートだ。
「拾ったんですか!?…しかも、中身見たんですか!?」
「だって名前書いてなかったし、中を見たらなにかしらわかるかな〜と思って」
…最悪だ。
わたしの頭の中の妄想で描いた、理想の青春シチュエーションをだれかに読まれただなんて。
わたしは絶望のあまり、床に突っ伏した。
「そ、そんなに悲しむこと…!?」
「…悲しいんじゃないです。消えたいくらい…恥ずかしいんです」
「まあまあ、そう落ち込まないで」
そう言って、ジミー先輩はわたしの顔の前へ青春ノートを出した。
「一生懸命に棚の下とかを見てなにしてるんだろうって思ってたけど、これを探しにきたんだ」
わたしはジミー先輩から青春ノートを奪い取ると、いじけた顔でジミー先輩を睨みつけた。
「全部読んだんですか…?」
「ん?読んでないよ」
「だってさっき…」
「あ〜、読んだというか見た。というか、見えた。最初だけね」
ジミー先輩はあやすようにわたしの頭をぽんぽんと撫でた。
「それにしても、青春ノートってなに?」
「…言わなきゃだめですか?」
「ここまで聞いたら気になるじゃん」
「え〜…」
「それにほらっ。俺が拾ってあげたわけだからさ」
ジミー先輩はニカッと笑った。
わたしはそんなジミー先輩のおどけた表情を横目で見ながら、「はあ…」とため息をついた。
「これは、…わたしの憧れです」
「憧れ?」
「高校生になったらこういうことがしたいなっていう、わたしの憧れの青春を密かに書き込んだメモ帳なんです」
わたしは、ぎっしりと書き込まれた青春ノートのページをパラパラとめくる。
「べつに書き込まなくたって、それを実際にしたらいいだけなんじゃないの?」
「そんなの…できませんよ!『お弁当のおかずを交換し合う』、『忘れた教科書の貸し借りをする』、『自転車を2人乗り』…。これ全部、1人でできると思いますか!?」
「…いや、だから。それは友達と――」
「友達がいないから憧れなんですよ!わたし…ぼっちなんです!」
決して自慢して言えることではないのに――。
ジミー先輩の言葉に思わずムキになってしまった。
わたしが突然大声を出すものだから、ジミー先輩はキョトンとしている。
きっと、わたしがそんな声が出るような人間だとは思わなかったのだろう。
「あんた…、あれだろ?この学校のやつらがマドンナ、マドンナって言ってる――」
「…2年2組の高嶺花です」
「そうそう、“高嶺の花”。俺でも聞いたことがあるよ」
ジミー先輩は自慢げに微笑む。
「そういうあなたは、3年の“ジミー先輩”ですよね?」
「な〜んだ、俺のこと知ってるんだ」
「もちろんですよ。この学校で知らない人はいないと思いますよ」
「すっげー。俺、超有名人じゃん」
「褒めてはないです」
“学校一の地味男子”といわれているから、てっきりもっと根暗で話しにくい人かと思っていた。
でも実際は、意外と話しやすかった。
「てか、なんで壁ドン?からの、顎クイ?今どき、そんなことされて喜ぶやつとかいるのかな」
「中学のときに読んだマンガで、主人公の女の子が高校の教室で好きな男の子に壁ドンされて顎クイされるシーンがあったんです…!それ見て、なんかいいなって」
「あ〜、なるほどね」
ジミー先輩は、ニヤニヤと微笑みながらわたしのことを見下ろした。
「“高嶺の花”と呼ばれるほどの学校のマドンナだから、てっきり友達や男に困ってないものと思ってたけど」
「偏見ですよ。友達も彼氏もゼロです」
わたしはふてくされたようにため息をつく。
「『恐れ多い』とか言われて、周りは遠くからわたしのことを見ているだけで話しかけてもらえないし、わたしもわたしで人見知りのコミュ障なので…」
「へ〜、意外。みんなからうらやましがられるあんたが、実はそんな悩みを抱えていたなんてな」
そう言いながら、わたしの顔を覗き込むジミー先輩の表情はニヤけている。
そういえばさっきからこの人、わたしをからかうみたいに笑っている。
「あの…。わたしのこと、ちょっとバカにしてますよね?」
「なんで?べつにしてないけど?」
「だって、さっきから笑って――」
「ああ、ごめんごめん。そういう意味で笑ってるんじゃなくて、なんかかわいいなって」
「かっ…。か、か、か、…かわいい……!?」
とっさに顔が真っ赤になるのがわかった。
「そう、かわいい。憧れの青春をノートに書きためるとか、ピュアで健気でめっちゃかわいいじゃん」
“かわいい”なんて、そんな言葉を恥ずかしげもなく直接言ってくるなんて…。
しかも2回も。
なんだか、ジミー先輩といたら調子が狂う…!
「わ…わたし、帰ります…!」
「え?もう帰んの?」
「はい、青春ノートは無事見つかったので…!」
わたしは慌てて床に置いていたカバンを肩にかける。
そして、備品室のドアを開けようとしたけど、そのドアをジミー先輩が片手で押さえつけた。
またしても…壁ドン。
「今度はなんですか…。わたし、早く帰りたいんですけど」
「じゃあ、いっしょに帰ろうか?」
「…はい?」
わたしはぽかんとして振り返る。
「『友達といっしょに帰る』、それもそこに書いてあったよね?」
そう言って、ジミー先輩が指さすのは青春ノートが入っているわたしのブレザーのポケット。
「…なっ、なんで知ってるんですか!やっぱり中見てますよね!?」
「違う違うって〜。ほんとに、初めにチラッと見えただけだから」
ごまかすようにおどけるジミー先輩に、わたしは目を細めて冷たい視線を注ぐ。
「とりあえず、わたしは帰ります」
「そう?1人で大丈夫?」
「大丈夫です。いつものことですからっ」
ジミー先輩、やっぱりわたしのことをからかっている。
プーと頬を膨らませながらジミー先輩を睨みつけると、わたしは備品室から出ていった。
無事に青春ノートが見つかってよかったけど、変な人に絡まれちゃった。
『ああ、ごめんごめん。そういう意味で笑ってるんじゃなくて、なんかかわいいなって』
『かっ…。か、か、か、…かわいい……!?』
絶対あの人、わたしの反応を見て楽しんでた。
わたしのほうが年下だからって。
――でも。
同じ学校のだれかと話したのって、…いつぶりだろうか。
いや、もしかしたら……初めて?
わたしも人見知りのコミュ障のはずなのに、いつの間にか自然とジミー先輩と話してた。
それに、あんなこと――。
『たしか、壁ドンからの顎クイがされたいんだっけ?こんな感じをご所望で?』
ジミー先輩に壁ドンと顎クイをされた場面を思い出すだけで、顔から火が出そうだった。
そういえば、前髪をかき上げたジミー先輩の素顔…。
どこかで見たことがあるような気がするんだけど…、どこだったかな。
次の日。
「な…、なぜマドンナが朝からこんなところに!?」
階段を上って、わたしが3階の3年生の階にきたことによって、周りにいた3年生たちがざわついていた。
「…やばい!朝日よりもまぶしすぎて直視できない…!」
「オレまだ寝ぼけてるっていうのに、朝からマドンナは刺激が強すぎる…!」
そう言いながら、廊下の隅にはける人たちのところへわたしはズンズンと歩み寄った。
「あ、あの…!ちょっといいですか」
わたしが話しかけると、3年生の2人は目を丸くして口をあんぐりと開けた。
「…えぇー!?マドンナに話しかけられた!?」
「落ち着け!オレたちなんかが口を利いていい相手じゃない!」
あまりの驚きように逃げ出そうとするその2人の腕をなんとかつかんだ。
コミュ障のわたしがせっかく勇気を振り絞って声をかけたというのに、ここで逃がすわけにはいかない。
「すみません、お願いがあるんです…!わたしの話を聞いてください」
「えっ…!?マドンナからの…お願い!?」
「マ、マドンナのご命令とあらば、なんなりと!」
2人はピシッと敬礼をする。
そんな2人にわたしは深々とお辞儀をした。
「ジミー先輩のクラスを教えてください…!」
そう言ってゆっくりとわたしが顔を上げると、なぜか2人はぽかんとして固まっていた。
「ジ…ジミーって、髪の毛ボサボサで陰オーラ漂う――」
「学校一の地味男子の…、影山一颯?」
「はい」
「…えっと、マドンナとは正反対のジャンルに属してると思うけど、そのジミー?」
「はい、そのジミー先輩です」
そのわたしの返事を聞いたときの2人の――いや、その場にいた3年生たちの顔といったら。
みんな顎が外れそうなほど口を開けて、目をむき出しにして、息が止まっていた。
「マドンナから呼び出し…!?ジミーのやつ、前世でどんな徳を積んだらそんなことが起きるんだ…!!」
「か、影山なら2組だけど、どうしてマドンナがあのジミーなんかに…!?」
「2組ですね。ありがとうございました」
わたしはペコッとお辞儀をすると、3年2組の教室へと向かった。
なぜわたしが学校に登校してすぐに、普段ならくることもないような3年生の階にきて、ジミー先輩を探しているかというと――。
それは昨日、ジミー先輩にわたしの青春ノートのことを口止めするのを忘れていたから、それを言いにきたのだった。
絶対にだれにも見られたくなかった青春ノート。
それをジミー先輩に見られ、悶絶するほどの羞恥を味わったというのに、もしあれをジミー先輩が他のだれかに話したら――。
そうなってしまったら、わたしの恥ずかしメーターが振り切って、きっともう学校にこれない。
ジミー先輩がもしだれかにバラしたらと思ったら、昨日なかなか寝つけなかった。
だから、今日朝一にジミー先輩にお願いにきたのだ。
3年生の階でアウェイ感が半端なく、わたしの人見知りがいつも以上に発動している。
だけど、あとまだ2組に行ってジミー先輩を呼び出すというミッションが残されている。
…恥ずかしい。
でも、青春ノートをバラされるよりはマシ…!
「すみません…!影山一颯先輩いらっしゃいますか!」
自分を奮い立たせ、わたしは3年2組の教室のドアのところから叫んだ。
すると、教室にいた人たちが一斉に振り返った。
一気に注目が集まり、緊張がピークに達する。
「…マ、マドンナ!?」
「どうりでいい匂いがすると思ったら…!」
「てか、そんなことよりも今の聞いたかよ!?」
「マドンナが…ジミーを呼び出し!?」
女の先輩はムンクの叫びのような顔をしていて、男の先輩はイスからずっこけている。
そこへ、よたよたと女の先輩が歩み寄ってくる。
「た…、高嶺さんだよね?」
「はい、そうです」
「えっと、だれを探してるんだっけ?」
「影山先輩です」
わたしがそう言うと、女の先輩の表情が固まる。
「マドンナが…、ジミーに用事?いや、ないない…。きっとなにかの間違いだ」
なぜか女の先輩はブツブツとひとり言をつぶやいている。
「ウチのクラスにイケメンの“カネヤマ”がいるけど、探してるのはそっちだよね?」
「カネヤマ…先輩?いえ、わたしが探しているのはカ“ゲ”ヤマ先輩です」
「ホントのホントに!?」
「ホントのホントです」
女の先輩はごくりとつばを飲み込む。
「…で、でも、どうしてマドンナが影山なんかに…」
「ちょっと…、大事な話があって…」
青春ノートをだれかにバラされるかもと思ったら、わたしは恥ずかしさで顔が赤くなった。
「だ…、だだだだ…大事な話…!マドンナが…影山に!?」
すると、顔を赤くしてうつむくわたしを見た女の先輩は、大口を開けて驚愕していた。
「…ウソだー!!マドンナと影山が…そんなことに!?」
「違う!これはなにかの間違いだ!!天変地異が起こったとしても、マドンナとジミーが関わるはずがない…!!」
なぜか2組の教室の中も騒がしくなって、わたしはよくわからずキョトンと首をかしげる。
「え…、えっと。せっかくきてもらったんだけど、残念ながらまだ影山はきてなくて――」
「俺がなんだって?」
すると、わたしのすぐ後ろから声がした。
振り返ると、髪がボッサボサのジミー先輩だった。
「…影山!あんた、くるのが遅いよ!」
「えっ…。なんで俺、朝から怒られてんの。いつもどおりっつーか、いつもより5分も早いのに」
「とにかく!2年の高嶺さんがあんたに話があるからってきてくれたんだよ!」
「…俺に話?」
ジミー先輩はわたしに視線を落とした。
「ああ。昨日はどーも」
そう言って、少しだけ口角を上げた。
「きっ…、聞いたか!?『“昨日”はどーも』…だって!」
「昨日、あの2人にいったいなにがあったんだぁー!?」
また教室内が騒がしくなった。
昨日のことなんて、絶対だれにも聞かれたくない。
「…ジミー先輩!こっちにきてください…!」
わたしはジミー先輩の袖を引っ張った。
「おい、影山!てめぇ、マドンナに対する返事によってはオレたちが許さねぇぞ!」
「そもそも、これはなんかの間違いなんだからな!ジミーが勘違いすんじゃねぇぞ!」
教室から罵倒が飛び交い、ジミー先輩は困り顔。
「…なんで俺、怒鳴られてんの?」
「知りませんよ。とにかく、わたしといっしょにきてください…!」
わたしはジミー先輩の手を引いた。
なぜだかわからないけど、廊下を歩くといつも以上に注目を浴びて騒がれる。
「マドンナ!…と、ジミー!?」
「なんで、あの2人がいっしょに!?」
「どう考えたって、月とスッポンの組み合わせだろ…!」
どうやらジミー先輩といっしょにいることで、それが相乗効果となっているようだ。
校舎の隅にいても、野次馬たちが覗きにくる。
だから仕方なく、だれもいない屋上へジミー先輩を連れ出した。
「ほんと、マドンナは大変だな」
屋上に出たジミー先輩はのんきに笑っている。
「で、俺に話ってなに?」
キョトンとするジミー先輩に、わたしはスタスタと歩み寄った。
「あ…、あの…」
「ん?どうかした?」
「そのぉ…」
…がんばれ、わたし!
これが、今日最後の勇気…!
「青春ノートのことは、周りには秘密にしてもらえますか…?」
言えたっ…!
あれは、わたしの頭の中の妄想を文字にしたもの。
わたしがこの学校でマドンナと呼ばれていようといなかろうと、だれかに知られるのだけは絶対にイヤ。
…もうジミー先輩に知られちゃったけど。
それでも、ジミー先輩さえ黙ってくれていれば――。
「いいよ」
そんな返事が聞こえて、わたしはすぐさまパッとした表情で顔を上げた。
「…いいんですか!?」
「いいも悪いも、だれかに言いふらすことでもないでしょ」
「あ…、ありがとうございます!」
ジミー先輩、地味で変な人だと思っていたけど、実際は案外普通なのかも。
「とりあえず、よかった〜…」
わたしは安心して足の力が抜けた。
「そんなことを言うためだけに、人見知りでコミュ障の高嶺の花が俺を探しに3年のクラスへ?」
クスッと笑うジミー先輩。
…また笑われた。
そう思っていると――。
「がんばったな」
すると、ジミー先輩がわたしの頭をわしゃわしゃと撫でた。
【・「がんばったな」と言われ、頭を撫でてもらいたい】
これも青春ノートに書いていたことだ…!
やっぱりジミー先輩、青春ノートを読んで――。
でも、最初のほうしか見ていないと言っていたし、これはただの偶然なのだろうか。
そのとき、わたしの頬を爽やかな風が撫でた。
「気持ちいい…」
ふと立ち上がり見上げると、空は雲ひとつない青空だった。
その青空の下に、街並みが広がっている。
「きれい…。ここって、こんなに見晴らしよかったんですね」
「そうだよ。知らなかったの?」
「はい。なんだかんだで、屋上くるの初めてかもです」
わたしはそよ風になびく髪を手で押さえながら、柵のそばにいるジミー先輩の隣に並ぶ。
「今日は天気もいいし、ここで昼寝したくなるよな」
「昼寝って、まだ朝ですよ。でもたしかに」
キーンコーンカーンコーン…
そんな話をしていると、朝礼前の予鈴が鳴った。
「…あっ、チャイム。そろそろ戻らないと」
わたしはそうつぶやき、校舎の中に戻ろうとした――そのとき。
「もう行くの?」
その声とともに、ジミー先輩がわたしの腕をつかんだ。
「なに言ってるんですか。さっきの予鈴ですよ?朝礼始まって、そのあと1限が――」
「べつにサボったらいいじゃん」
ジミー先輩の突拍子もない発言に、わたしは一瞬目を見開く。
「サボるって、そんなことできるわけないですよ」
「なんで?こんなに気持ちいいのに、日向ぼっこしないとかもったいないじゃん」
「…もったないって――」
「『授業をサボって屋上へ』っていうのも、青春ノートに書いてあったと思うけど?」
わたしの腕をつかむジミー先輩が意地悪く笑った。
それを聞いて、わたしの頬が徐々に赤くなる。
「やっ…やっぱり、じっくり中まで見てるじゃないですか…!」
「ほんとに誤解だって〜。そんなことが書いてあったような気がしたからさ〜」
「もうっ…、絶対見てますよね…!」
わたしはプイッと顔を背けた。
いじけるわたしを見て、ジミー先輩は笑い声を漏らす。
「じゃあさ、俺がサボるのに付き合ってくれない?」
ニッと笑ってみせるジミー先輩。
今日の天気がとても気持ちいいから。
心地よい日差しを浴びたらお昼寝したくなったから。
ジミー先輩がそう言うから。
そんな理由を並べてなんとか自分を正当化させ、わたしはジミー先輩と1限をサボった。
「てかさ、思ってたんだけど、こんなに名前をそのままかたちにしたような人がいるもんなんだね」
「わたしの名前ですか?」
「うん、“高嶺の花”。名前のとおりじゃん」
それは…実はわたし自身も思ってはいる。
よっぽど自分の娘に自信があるような親でない限り、さすがにこんな名前はつけないだろう。
――ただ。
「もともとは違う名字だったんです。だけど、中学に入る前に両親が離婚して。それで、母が旧姓に戻したんです」
「へ〜、お母さんのほうの名字が“高嶺”だったんだ」
「はい。それで、わたしも“高嶺花”に名前が変わって」
幸い、この名前のせいでいじめられたことはない。
それに、“花”という名前は気に入ってるから、わたしにとって“高嶺花”という名前は後付けでそうなっただけだと思っている。
そんな話をジミー先輩としていたけど、結局授業をサボるなんて自分の柄じゃなくて、1限開始10分ですでにわたしはムズムズそわそわしていた。
「あ、あの…。ジミー先輩、そろそろわたし…」
「なに、もう帰るの?」
驚くジミー先輩に、わたしはぎこちなくコクンとうなずく。
「さっきから…、落ち着かなくて…」
たしかに【・授業をサボって屋上へ】と青春ノートに書いていたけど、実際にやってみたらサボったことへの先生の反応とかがこわくて、青春を楽しむなんてできなかった。
「なんだよー。せっかく付き合ってくれてると思ったのに」
「…すみません」
「まあ、べつにいいんだけどさ。じゃあその代わり、今日の夜8時に学校前に集合」
「え…?」
突然のことでよくわからなくて、わたしは聞き返した。
「もしかして、門限とかあった?その時間、家から出られなかったりする?」
「…いえ、大丈夫だとは思いますけど…」
「だったら、8時に学校前なっ。じゃあ、授業行ってこい。俺はもう少しここにいるから」
屋上に残るジミー先輩に軽くお辞儀して、わたしは教室へと急いだ。
『じゃあその代わり、今日の夜8時に学校前に集合』
あれは、どういう意味だったんだろう。
なんで夜に学校へ?
真偽はわからなかったけど、その夜わたしは素直にも8時に学校へ着くように準備をしていた。
家の最寄り駅から学校の最寄り駅までは、電車で15分ほど。
いつもなら朝に制服で乗る電車に、わたしは着替えた私服姿で乗り込んだ。
電車から降りて、普段とは違う雰囲気漂う夜の装いとなった繁華街を入る。
学校帰りの時間は当然のように中高生たちが多いけど、今は飲み会終わりの大学生らしき人や、仕事帰りのサラリーマンが行き交っている。
いつもの知っている繁華街とは少し違って、わたしは足早に通り過ぎようとした。
そのとき――。
「めっちゃかわいいコ、見〜つけたっ♪」
突然、だれかに肩をつかまれた。
驚いて振り返ると、少し顔を赤く染めた大学生らしき男の人が3人いた。
「うわ〜!マジで美人!」
「モデルかなんか?1人でどこ行くの〜?」
若干呂律が回ってなくて、お酒の臭いがするから、この人たち…酔っ払ってる。
「俺たちこれから2軒目行くんだけど、いっしょにどう〜?」
「…離してくださいっ。それにわたし、まだ高校生なのでお酒なんて飲めません」
「え〜!ウソだ〜!」
「こんな大人っぽい高校生いたらビビるわ〜!」
酔っ払っていて、わたしの話なんてまったく聞こうとしてくれない。
面倒くさい人たちに絡まれてしまった。
どうしようかと困っていると――。
「なにしてるの、あんたら?」
そんな声が聞こえたかと思ったら、わたしの肩をつかむ大学生の腕をだれかがつかんでいた。
見上げると、キャップを被った男の人が。
「…あっ」
はっとして、思わず声が漏れた。
なぜなら、間に割って入ってくれたその人は、なんとこの前の札束パリピ男だった…!
今回はキャップを被っていて、この前の春ニット帽とは違うけど、雰囲気ですぐにわかった。
と同時に、なにかに気づいてしまった。
ま、待って…。
このきれいな顔立ち、どこかで見たことがある。
…いや、そんなはずない。
そう自分に言い聞かせてみるも――。
「も…もしかして…、ジミー先輩…!?」
わたしがそう発すると、札束パリピ男はニッと笑った。
「なんだよ、今ごろ気づいたのかよ」
やっぱり…ジミー先輩だ!!
ジミー先輩はわたしを背中に隠すようにして、男の人たちの前に立ちはだかる。
「で、あんたらだれ?俺の彼女になんか用?」
「へ?カノジョ?」
酔っ払いの男の人たちは、ぽかんとした顔を見せる。
だけど、それはわたしも同じだった。
い、今…ジミー先輩、わたしのことを…“彼女”って言った!?
「わ〜。なんかごめんなさい、彼氏いるとは知らなくて〜」
「そうそう、そんな怒らないでね〜。オレたち、ちょぉ〜っと声かけただけだから〜」
「早く次行こう〜ぜ〜」
わたしのときとは違って、ジミー先輩が登場するとすぐに男の人たちは引き下がっていった。
「あ、ありがとうございます。ジミー…?先輩」
わたしの前に立つパリピがジミー先輩だとは思えなくて、『ジミー先輩』と呼ぶことに違和感がする。
「気にしなくていいよ。こんな時間に呼び出したのは俺だから。むしろ、変なやつらに絡まれることになってごめん」
ジミー先輩は頭を下げた。
「…いえ、それはかまわないんですけど……」
やっぱり、目の前にいるこの人がジミー先輩だということが未だに信じられない。
「あの、その格好…」
「これ?べつに、普段の私服だけど?」
「…私服!?でも髪型とかちゃんとして、学校の雰囲気とはまったく…。それに、前に言ってた“パリピ”って――」
「あ〜、“パリピ”っていうのは俺が勝手にそう思ってるだけだけどな」
いや、この格好からでもよくわかります。
正真正銘の“パリピ”だと。
「まあ、だいたい毎日だれかと夜遊んでるかな」
…めっちゃパリピ。
「帰って寝るのが遅いから、毎朝寝坊してんだよ。それで、髪とかセットする時間がなくて」
どこにそんな毎晩毎晩遊ぶお金があるのだろうと思ったけど、聞く感じだと、どうやらジミー先輩の家はお金持ちのようだ。
しかも、ジミー先輩自身も高校生ながらにアプリのゲーム会社を立ち上げ、そこの社長をしているとかなんとか。
どうりで、300万円分の札束を所持しているわけだ。
…それにしても驚いた。
清凛高校では、“学校一の地味男子”としてバカにされているジミー先輩が、まさかそんな一面があったなんて。
「他にまだ聞きたいことある?」
正体を知って放心状態のわたしにジミー先輩が尋ねる。
その問いに、わたしははっとして顔を上げた。
「そ、そういえば…、さっきわたしのこと…」
「ん?なに?」
「いや…、その…」
わたしは手をもじもじさせる。
だって、自分で口にするのは気恥ずかしい。
「ああ、“彼女”って言ったこと?」
ジミー先輩の言葉に、わたしの頬が一瞬ぽっと熱くほてった。
「なんか勝手なこと言ってごめんな。ああ言っておいたら、引き下がってくれるかなって思って。とくに深い意味はないから気にしないで」
うつむくわたしをなだめるように、ジミー先輩は頭をぽんぽんと撫でた。
また頭を撫でられた…!
わたしの胸がドキッと音を鳴らした。
そのあと、ジミー先輩に連れられて夜の清凛高校へとやってきた。
もちろん校舎は真っ暗だが、先生がまだ残っているのか、職員室には明かりがついていた。
「忘れ物ですか?」
「違ぇよ。ほら、行くぞ」
ジミー先輩は、校門の外からぽかんと校舎を見上げていたわたしの手を引いた。
夜の校舎はしんと静まり返っていて、なるべく足音を立てないように歩いていても、やけにその音が響くような気がする。
「ジ…ジミー先輩、見つかったらどうするんですか」
「見つかったら、忘れ物を取りにきたって言えばいいじゃん」
窓から入る月明かりが、ニッと微笑むジミー先輩の顔を照らす。
そのとき、わたしたちとは違う足音が聞こえてきた。
そっと廊下の角から顔を覗かせると、懐中電灯を握って校舎を巡回する警備の人だった。
忘れ物を取りにきたと言い張ったとはいえ、見つかったら絶対に怒られる。
「帰りましょうよ、ジミー先輩…!」
「なんで?だってめちゃくちゃスリルあるじゃん」
不安丸出しのわたしとは違って、なぜかジミー先輩は楽しそうだ。
ジミー先輩に連れられて物陰に隠れて息を潜めていると、警備の人はわたしたちに気づくことなく通り過ぎていった。
「でも、どうして夜の学校なんかに」
「だって、書いてあったじゃん。青春ノートに」
「え?」
「『夜の学校に忍び込みたい』って」
初めはぽかんとしたけど、ジミー先輩にそう言われて、ずいぶんと前にそんなことを書いたようなことを徐々に思い出してきた。
「なっ…!!やっぱりジミー先輩、わたしの青春ノートを全部見て――」
「シー…!!声がでかいって…!」
「だれかいるのかっ!?」
それほど大きな声ではなかったけど、警備の人の足音しかしない静かな夜の校舎に、わたしの声がわずかに響いたようだ。
警備の人が引き返してきて、足音がどんどんこちらに近づいてくる。
わたしの心臓は、この音が外に漏れてしまうのではないだろうかと思うくらいずっとドキドキしていた。
だけどこれは、警備の人に見つかったらどうしようというドキドキではない。
――なぜなら。
わたしの口を片手で塞いだジミー先輩が、体を密着させるようにわたしを後ろから抱きかかえているからだ。
壁の陰に隠れて、少しでも死角に入るように2人で小さく丸くなって息を殺す。
「いい子だから、そのままな」
そんなジミー先輩の声が耳元で響いて、その耳がカッと熱くなった。
警備の人の足音がすぐそばで止まり、わたしたちの目の前の壁が懐中電灯で照らされた。
もうダメだと思ったけど、その懐中電灯の灯りはわたしたちの足元ギリギリをかわしていき、違う方向へと向いた。
「…変だな。気のせいか」
警備の人のつぶやき声が聞こえ、足音が遠ざかっていった。
「っぶねぇー…」
ジミー先輩は安心してその場で脱力した。
そのおかげで、わたしもジミー先輩から解放される。
い…、今の…。
ジミー先輩に後ろから抱きしめられてたよね…?
【・後ろから抱きしめられたい】
そういえば前に、ドラマの影響で青春ノートにそんなことを書き込んだことがあったけど――。
実際のバッグハグって、こんなにドキドキするものなんだ…!
今が暗い校舎の中でよかった。
じゃないと、真っ赤になった顔をジミー先輩に見られるところだった。
その後、ジミー先輩がわたしを連れてきたのは、今日の朝にもきた学校の屋上だった。
夜なんかにきてここになにが――と思ったら、わたしは思わず感嘆の声を漏らした。
「…すごい」
朝ここから見た街並みは、赤色や黄色や白色などのさまざまな色の光の粒を放った夜景となっていた。
「見晴らしがいいと思ってましたけど、夜になるとこんなにきれいだったなんて」
「すごいだろ?1回文化祭の準備で夜遅くまで残ったことがあって、そのときに知ったんだ」
自慢げに話すジミー先輩。
「わたし、夜景…初めてかもしれないです」
「え、マジ?」
「はい。この時間はいつも家にいるので」
「でもさ、友達とちょっと近くの夜景見に行こうぜっとかならな――」
と言いかけたジミー先輩だったけど、バツが悪そうに慌てて自分の口を両手で塞いだ。
「…わたし、友達いないので」
「そうだったな。なんかごめん」
ジミー先輩がペコッと頭を下げる。
そのまま2人とも黙り込んでしまった。
しばらく無言で夜景を眺めていると、肩をトントンと軽くたたかれた。
顔を向けると、ふにっと頬にジミー先輩の人差し指が突き刺さる。
「もうっ、なんですか――」
「じゃあさ、俺がなってやろうか?」
ジミー先輩の言葉にわたしはキョトンとする。
「だから、俺があんたの友達1号になってやろうかって言ってんだよ」
「ええ…!?ジミー先輩が!?」
「なんだよ、嫌なのかよ」
「いえ…、そういうわけではなくて…」
“友達”なんていう響き、わたしには新鮮すぎたから…つい。
「高校生になって友達とやりたいこと、あの青春ノートにいっぱい書いてあるんだろ?」
「そ…そうですけど…」
「じゃあその青春、俺が叶えてやるよ」
そう言って、ジミー先輩はやさしく微笑んだ。
【・壁ドンからの顎クイされたい】
わたしの頭の中に、青春ノートに書き込んだ文字が思い浮かんだ。
「…それ!わたしが青春ノートに書いてたやつっ!」
はっとして、わたしはジミー先輩を押しのけた。
「“青春ノート”…?ああ、あの青色のメモ帳の表紙にそんなこと書いてあったっけ」
青色のメモ帳…。
まさしく、わたしが探していた青春ノートだ。
「拾ったんですか!?…しかも、中身見たんですか!?」
「だって名前書いてなかったし、中を見たらなにかしらわかるかな〜と思って」
…最悪だ。
わたしの頭の中の妄想で描いた、理想の青春シチュエーションをだれかに読まれただなんて。
わたしは絶望のあまり、床に突っ伏した。
「そ、そんなに悲しむこと…!?」
「…悲しいんじゃないです。消えたいくらい…恥ずかしいんです」
「まあまあ、そう落ち込まないで」
そう言って、ジミー先輩はわたしの顔の前へ青春ノートを出した。
「一生懸命に棚の下とかを見てなにしてるんだろうって思ってたけど、これを探しにきたんだ」
わたしはジミー先輩から青春ノートを奪い取ると、いじけた顔でジミー先輩を睨みつけた。
「全部読んだんですか…?」
「ん?読んでないよ」
「だってさっき…」
「あ〜、読んだというか見た。というか、見えた。最初だけね」
ジミー先輩はあやすようにわたしの頭をぽんぽんと撫でた。
「それにしても、青春ノートってなに?」
「…言わなきゃだめですか?」
「ここまで聞いたら気になるじゃん」
「え〜…」
「それにほらっ。俺が拾ってあげたわけだからさ」
ジミー先輩はニカッと笑った。
わたしはそんなジミー先輩のおどけた表情を横目で見ながら、「はあ…」とため息をついた。
「これは、…わたしの憧れです」
「憧れ?」
「高校生になったらこういうことがしたいなっていう、わたしの憧れの青春を密かに書き込んだメモ帳なんです」
わたしは、ぎっしりと書き込まれた青春ノートのページをパラパラとめくる。
「べつに書き込まなくたって、それを実際にしたらいいだけなんじゃないの?」
「そんなの…できませんよ!『お弁当のおかずを交換し合う』、『忘れた教科書の貸し借りをする』、『自転車を2人乗り』…。これ全部、1人でできると思いますか!?」
「…いや、だから。それは友達と――」
「友達がいないから憧れなんですよ!わたし…ぼっちなんです!」
決して自慢して言えることではないのに――。
ジミー先輩の言葉に思わずムキになってしまった。
わたしが突然大声を出すものだから、ジミー先輩はキョトンとしている。
きっと、わたしがそんな声が出るような人間だとは思わなかったのだろう。
「あんた…、あれだろ?この学校のやつらがマドンナ、マドンナって言ってる――」
「…2年2組の高嶺花です」
「そうそう、“高嶺の花”。俺でも聞いたことがあるよ」
ジミー先輩は自慢げに微笑む。
「そういうあなたは、3年の“ジミー先輩”ですよね?」
「な〜んだ、俺のこと知ってるんだ」
「もちろんですよ。この学校で知らない人はいないと思いますよ」
「すっげー。俺、超有名人じゃん」
「褒めてはないです」
“学校一の地味男子”といわれているから、てっきりもっと根暗で話しにくい人かと思っていた。
でも実際は、意外と話しやすかった。
「てか、なんで壁ドン?からの、顎クイ?今どき、そんなことされて喜ぶやつとかいるのかな」
「中学のときに読んだマンガで、主人公の女の子が高校の教室で好きな男の子に壁ドンされて顎クイされるシーンがあったんです…!それ見て、なんかいいなって」
「あ〜、なるほどね」
ジミー先輩は、ニヤニヤと微笑みながらわたしのことを見下ろした。
「“高嶺の花”と呼ばれるほどの学校のマドンナだから、てっきり友達や男に困ってないものと思ってたけど」
「偏見ですよ。友達も彼氏もゼロです」
わたしはふてくされたようにため息をつく。
「『恐れ多い』とか言われて、周りは遠くからわたしのことを見ているだけで話しかけてもらえないし、わたしもわたしで人見知りのコミュ障なので…」
「へ〜、意外。みんなからうらやましがられるあんたが、実はそんな悩みを抱えていたなんてな」
そう言いながら、わたしの顔を覗き込むジミー先輩の表情はニヤけている。
そういえばさっきからこの人、わたしをからかうみたいに笑っている。
「あの…。わたしのこと、ちょっとバカにしてますよね?」
「なんで?べつにしてないけど?」
「だって、さっきから笑って――」
「ああ、ごめんごめん。そういう意味で笑ってるんじゃなくて、なんかかわいいなって」
「かっ…。か、か、か、…かわいい……!?」
とっさに顔が真っ赤になるのがわかった。
「そう、かわいい。憧れの青春をノートに書きためるとか、ピュアで健気でめっちゃかわいいじゃん」
“かわいい”なんて、そんな言葉を恥ずかしげもなく直接言ってくるなんて…。
しかも2回も。
なんだか、ジミー先輩といたら調子が狂う…!
「わ…わたし、帰ります…!」
「え?もう帰んの?」
「はい、青春ノートは無事見つかったので…!」
わたしは慌てて床に置いていたカバンを肩にかける。
そして、備品室のドアを開けようとしたけど、そのドアをジミー先輩が片手で押さえつけた。
またしても…壁ドン。
「今度はなんですか…。わたし、早く帰りたいんですけど」
「じゃあ、いっしょに帰ろうか?」
「…はい?」
わたしはぽかんとして振り返る。
「『友達といっしょに帰る』、それもそこに書いてあったよね?」
そう言って、ジミー先輩が指さすのは青春ノートが入っているわたしのブレザーのポケット。
「…なっ、なんで知ってるんですか!やっぱり中見てますよね!?」
「違う違うって〜。ほんとに、初めにチラッと見えただけだから」
ごまかすようにおどけるジミー先輩に、わたしは目を細めて冷たい視線を注ぐ。
「とりあえず、わたしは帰ります」
「そう?1人で大丈夫?」
「大丈夫です。いつものことですからっ」
ジミー先輩、やっぱりわたしのことをからかっている。
プーと頬を膨らませながらジミー先輩を睨みつけると、わたしは備品室から出ていった。
無事に青春ノートが見つかってよかったけど、変な人に絡まれちゃった。
『ああ、ごめんごめん。そういう意味で笑ってるんじゃなくて、なんかかわいいなって』
『かっ…。か、か、か、…かわいい……!?』
絶対あの人、わたしの反応を見て楽しんでた。
わたしのほうが年下だからって。
――でも。
同じ学校のだれかと話したのって、…いつぶりだろうか。
いや、もしかしたら……初めて?
わたしも人見知りのコミュ障のはずなのに、いつの間にか自然とジミー先輩と話してた。
それに、あんなこと――。
『たしか、壁ドンからの顎クイがされたいんだっけ?こんな感じをご所望で?』
ジミー先輩に壁ドンと顎クイをされた場面を思い出すだけで、顔から火が出そうだった。
そういえば、前髪をかき上げたジミー先輩の素顔…。
どこかで見たことがあるような気がするんだけど…、どこだったかな。
次の日。
「な…、なぜマドンナが朝からこんなところに!?」
階段を上って、わたしが3階の3年生の階にきたことによって、周りにいた3年生たちがざわついていた。
「…やばい!朝日よりもまぶしすぎて直視できない…!」
「オレまだ寝ぼけてるっていうのに、朝からマドンナは刺激が強すぎる…!」
そう言いながら、廊下の隅にはける人たちのところへわたしはズンズンと歩み寄った。
「あ、あの…!ちょっといいですか」
わたしが話しかけると、3年生の2人は目を丸くして口をあんぐりと開けた。
「…えぇー!?マドンナに話しかけられた!?」
「落ち着け!オレたちなんかが口を利いていい相手じゃない!」
あまりの驚きように逃げ出そうとするその2人の腕をなんとかつかんだ。
コミュ障のわたしがせっかく勇気を振り絞って声をかけたというのに、ここで逃がすわけにはいかない。
「すみません、お願いがあるんです…!わたしの話を聞いてください」
「えっ…!?マドンナからの…お願い!?」
「マ、マドンナのご命令とあらば、なんなりと!」
2人はピシッと敬礼をする。
そんな2人にわたしは深々とお辞儀をした。
「ジミー先輩のクラスを教えてください…!」
そう言ってゆっくりとわたしが顔を上げると、なぜか2人はぽかんとして固まっていた。
「ジ…ジミーって、髪の毛ボサボサで陰オーラ漂う――」
「学校一の地味男子の…、影山一颯?」
「はい」
「…えっと、マドンナとは正反対のジャンルに属してると思うけど、そのジミー?」
「はい、そのジミー先輩です」
そのわたしの返事を聞いたときの2人の――いや、その場にいた3年生たちの顔といったら。
みんな顎が外れそうなほど口を開けて、目をむき出しにして、息が止まっていた。
「マドンナから呼び出し…!?ジミーのやつ、前世でどんな徳を積んだらそんなことが起きるんだ…!!」
「か、影山なら2組だけど、どうしてマドンナがあのジミーなんかに…!?」
「2組ですね。ありがとうございました」
わたしはペコッとお辞儀をすると、3年2組の教室へと向かった。
なぜわたしが学校に登校してすぐに、普段ならくることもないような3年生の階にきて、ジミー先輩を探しているかというと――。
それは昨日、ジミー先輩にわたしの青春ノートのことを口止めするのを忘れていたから、それを言いにきたのだった。
絶対にだれにも見られたくなかった青春ノート。
それをジミー先輩に見られ、悶絶するほどの羞恥を味わったというのに、もしあれをジミー先輩が他のだれかに話したら――。
そうなってしまったら、わたしの恥ずかしメーターが振り切って、きっともう学校にこれない。
ジミー先輩がもしだれかにバラしたらと思ったら、昨日なかなか寝つけなかった。
だから、今日朝一にジミー先輩にお願いにきたのだ。
3年生の階でアウェイ感が半端なく、わたしの人見知りがいつも以上に発動している。
だけど、あとまだ2組に行ってジミー先輩を呼び出すというミッションが残されている。
…恥ずかしい。
でも、青春ノートをバラされるよりはマシ…!
「すみません…!影山一颯先輩いらっしゃいますか!」
自分を奮い立たせ、わたしは3年2組の教室のドアのところから叫んだ。
すると、教室にいた人たちが一斉に振り返った。
一気に注目が集まり、緊張がピークに達する。
「…マ、マドンナ!?」
「どうりでいい匂いがすると思ったら…!」
「てか、そんなことよりも今の聞いたかよ!?」
「マドンナが…ジミーを呼び出し!?」
女の先輩はムンクの叫びのような顔をしていて、男の先輩はイスからずっこけている。
そこへ、よたよたと女の先輩が歩み寄ってくる。
「た…、高嶺さんだよね?」
「はい、そうです」
「えっと、だれを探してるんだっけ?」
「影山先輩です」
わたしがそう言うと、女の先輩の表情が固まる。
「マドンナが…、ジミーに用事?いや、ないない…。きっとなにかの間違いだ」
なぜか女の先輩はブツブツとひとり言をつぶやいている。
「ウチのクラスにイケメンの“カネヤマ”がいるけど、探してるのはそっちだよね?」
「カネヤマ…先輩?いえ、わたしが探しているのはカ“ゲ”ヤマ先輩です」
「ホントのホントに!?」
「ホントのホントです」
女の先輩はごくりとつばを飲み込む。
「…で、でも、どうしてマドンナが影山なんかに…」
「ちょっと…、大事な話があって…」
青春ノートをだれかにバラされるかもと思ったら、わたしは恥ずかしさで顔が赤くなった。
「だ…、だだだだ…大事な話…!マドンナが…影山に!?」
すると、顔を赤くしてうつむくわたしを見た女の先輩は、大口を開けて驚愕していた。
「…ウソだー!!マドンナと影山が…そんなことに!?」
「違う!これはなにかの間違いだ!!天変地異が起こったとしても、マドンナとジミーが関わるはずがない…!!」
なぜか2組の教室の中も騒がしくなって、わたしはよくわからずキョトンと首をかしげる。
「え…、えっと。せっかくきてもらったんだけど、残念ながらまだ影山はきてなくて――」
「俺がなんだって?」
すると、わたしのすぐ後ろから声がした。
振り返ると、髪がボッサボサのジミー先輩だった。
「…影山!あんた、くるのが遅いよ!」
「えっ…。なんで俺、朝から怒られてんの。いつもどおりっつーか、いつもより5分も早いのに」
「とにかく!2年の高嶺さんがあんたに話があるからってきてくれたんだよ!」
「…俺に話?」
ジミー先輩はわたしに視線を落とした。
「ああ。昨日はどーも」
そう言って、少しだけ口角を上げた。
「きっ…、聞いたか!?『“昨日”はどーも』…だって!」
「昨日、あの2人にいったいなにがあったんだぁー!?」
また教室内が騒がしくなった。
昨日のことなんて、絶対だれにも聞かれたくない。
「…ジミー先輩!こっちにきてください…!」
わたしはジミー先輩の袖を引っ張った。
「おい、影山!てめぇ、マドンナに対する返事によってはオレたちが許さねぇぞ!」
「そもそも、これはなんかの間違いなんだからな!ジミーが勘違いすんじゃねぇぞ!」
教室から罵倒が飛び交い、ジミー先輩は困り顔。
「…なんで俺、怒鳴られてんの?」
「知りませんよ。とにかく、わたしといっしょにきてください…!」
わたしはジミー先輩の手を引いた。
なぜだかわからないけど、廊下を歩くといつも以上に注目を浴びて騒がれる。
「マドンナ!…と、ジミー!?」
「なんで、あの2人がいっしょに!?」
「どう考えたって、月とスッポンの組み合わせだろ…!」
どうやらジミー先輩といっしょにいることで、それが相乗効果となっているようだ。
校舎の隅にいても、野次馬たちが覗きにくる。
だから仕方なく、だれもいない屋上へジミー先輩を連れ出した。
「ほんと、マドンナは大変だな」
屋上に出たジミー先輩はのんきに笑っている。
「で、俺に話ってなに?」
キョトンとするジミー先輩に、わたしはスタスタと歩み寄った。
「あ…、あの…」
「ん?どうかした?」
「そのぉ…」
…がんばれ、わたし!
これが、今日最後の勇気…!
「青春ノートのことは、周りには秘密にしてもらえますか…?」
言えたっ…!
あれは、わたしの頭の中の妄想を文字にしたもの。
わたしがこの学校でマドンナと呼ばれていようといなかろうと、だれかに知られるのだけは絶対にイヤ。
…もうジミー先輩に知られちゃったけど。
それでも、ジミー先輩さえ黙ってくれていれば――。
「いいよ」
そんな返事が聞こえて、わたしはすぐさまパッとした表情で顔を上げた。
「…いいんですか!?」
「いいも悪いも、だれかに言いふらすことでもないでしょ」
「あ…、ありがとうございます!」
ジミー先輩、地味で変な人だと思っていたけど、実際は案外普通なのかも。
「とりあえず、よかった〜…」
わたしは安心して足の力が抜けた。
「そんなことを言うためだけに、人見知りでコミュ障の高嶺の花が俺を探しに3年のクラスへ?」
クスッと笑うジミー先輩。
…また笑われた。
そう思っていると――。
「がんばったな」
すると、ジミー先輩がわたしの頭をわしゃわしゃと撫でた。
【・「がんばったな」と言われ、頭を撫でてもらいたい】
これも青春ノートに書いていたことだ…!
やっぱりジミー先輩、青春ノートを読んで――。
でも、最初のほうしか見ていないと言っていたし、これはただの偶然なのだろうか。
そのとき、わたしの頬を爽やかな風が撫でた。
「気持ちいい…」
ふと立ち上がり見上げると、空は雲ひとつない青空だった。
その青空の下に、街並みが広がっている。
「きれい…。ここって、こんなに見晴らしよかったんですね」
「そうだよ。知らなかったの?」
「はい。なんだかんだで、屋上くるの初めてかもです」
わたしはそよ風になびく髪を手で押さえながら、柵のそばにいるジミー先輩の隣に並ぶ。
「今日は天気もいいし、ここで昼寝したくなるよな」
「昼寝って、まだ朝ですよ。でもたしかに」
キーンコーンカーンコーン…
そんな話をしていると、朝礼前の予鈴が鳴った。
「…あっ、チャイム。そろそろ戻らないと」
わたしはそうつぶやき、校舎の中に戻ろうとした――そのとき。
「もう行くの?」
その声とともに、ジミー先輩がわたしの腕をつかんだ。
「なに言ってるんですか。さっきの予鈴ですよ?朝礼始まって、そのあと1限が――」
「べつにサボったらいいじゃん」
ジミー先輩の突拍子もない発言に、わたしは一瞬目を見開く。
「サボるって、そんなことできるわけないですよ」
「なんで?こんなに気持ちいいのに、日向ぼっこしないとかもったいないじゃん」
「…もったないって――」
「『授業をサボって屋上へ』っていうのも、青春ノートに書いてあったと思うけど?」
わたしの腕をつかむジミー先輩が意地悪く笑った。
それを聞いて、わたしの頬が徐々に赤くなる。
「やっ…やっぱり、じっくり中まで見てるじゃないですか…!」
「ほんとに誤解だって〜。そんなことが書いてあったような気がしたからさ〜」
「もうっ…、絶対見てますよね…!」
わたしはプイッと顔を背けた。
いじけるわたしを見て、ジミー先輩は笑い声を漏らす。
「じゃあさ、俺がサボるのに付き合ってくれない?」
ニッと笑ってみせるジミー先輩。
今日の天気がとても気持ちいいから。
心地よい日差しを浴びたらお昼寝したくなったから。
ジミー先輩がそう言うから。
そんな理由を並べてなんとか自分を正当化させ、わたしはジミー先輩と1限をサボった。
「てかさ、思ってたんだけど、こんなに名前をそのままかたちにしたような人がいるもんなんだね」
「わたしの名前ですか?」
「うん、“高嶺の花”。名前のとおりじゃん」
それは…実はわたし自身も思ってはいる。
よっぽど自分の娘に自信があるような親でない限り、さすがにこんな名前はつけないだろう。
――ただ。
「もともとは違う名字だったんです。だけど、中学に入る前に両親が離婚して。それで、母が旧姓に戻したんです」
「へ〜、お母さんのほうの名字が“高嶺”だったんだ」
「はい。それで、わたしも“高嶺花”に名前が変わって」
幸い、この名前のせいでいじめられたことはない。
それに、“花”という名前は気に入ってるから、わたしにとって“高嶺花”という名前は後付けでそうなっただけだと思っている。
そんな話をジミー先輩としていたけど、結局授業をサボるなんて自分の柄じゃなくて、1限開始10分ですでにわたしはムズムズそわそわしていた。
「あ、あの…。ジミー先輩、そろそろわたし…」
「なに、もう帰るの?」
驚くジミー先輩に、わたしはぎこちなくコクンとうなずく。
「さっきから…、落ち着かなくて…」
たしかに【・授業をサボって屋上へ】と青春ノートに書いていたけど、実際にやってみたらサボったことへの先生の反応とかがこわくて、青春を楽しむなんてできなかった。
「なんだよー。せっかく付き合ってくれてると思ったのに」
「…すみません」
「まあ、べつにいいんだけどさ。じゃあその代わり、今日の夜8時に学校前に集合」
「え…?」
突然のことでよくわからなくて、わたしは聞き返した。
「もしかして、門限とかあった?その時間、家から出られなかったりする?」
「…いえ、大丈夫だとは思いますけど…」
「だったら、8時に学校前なっ。じゃあ、授業行ってこい。俺はもう少しここにいるから」
屋上に残るジミー先輩に軽くお辞儀して、わたしは教室へと急いだ。
『じゃあその代わり、今日の夜8時に学校前に集合』
あれは、どういう意味だったんだろう。
なんで夜に学校へ?
真偽はわからなかったけど、その夜わたしは素直にも8時に学校へ着くように準備をしていた。
家の最寄り駅から学校の最寄り駅までは、電車で15分ほど。
いつもなら朝に制服で乗る電車に、わたしは着替えた私服姿で乗り込んだ。
電車から降りて、普段とは違う雰囲気漂う夜の装いとなった繁華街を入る。
学校帰りの時間は当然のように中高生たちが多いけど、今は飲み会終わりの大学生らしき人や、仕事帰りのサラリーマンが行き交っている。
いつもの知っている繁華街とは少し違って、わたしは足早に通り過ぎようとした。
そのとき――。
「めっちゃかわいいコ、見〜つけたっ♪」
突然、だれかに肩をつかまれた。
驚いて振り返ると、少し顔を赤く染めた大学生らしき男の人が3人いた。
「うわ〜!マジで美人!」
「モデルかなんか?1人でどこ行くの〜?」
若干呂律が回ってなくて、お酒の臭いがするから、この人たち…酔っ払ってる。
「俺たちこれから2軒目行くんだけど、いっしょにどう〜?」
「…離してくださいっ。それにわたし、まだ高校生なのでお酒なんて飲めません」
「え〜!ウソだ〜!」
「こんな大人っぽい高校生いたらビビるわ〜!」
酔っ払っていて、わたしの話なんてまったく聞こうとしてくれない。
面倒くさい人たちに絡まれてしまった。
どうしようかと困っていると――。
「なにしてるの、あんたら?」
そんな声が聞こえたかと思ったら、わたしの肩をつかむ大学生の腕をだれかがつかんでいた。
見上げると、キャップを被った男の人が。
「…あっ」
はっとして、思わず声が漏れた。
なぜなら、間に割って入ってくれたその人は、なんとこの前の札束パリピ男だった…!
今回はキャップを被っていて、この前の春ニット帽とは違うけど、雰囲気ですぐにわかった。
と同時に、なにかに気づいてしまった。
ま、待って…。
このきれいな顔立ち、どこかで見たことがある。
…いや、そんなはずない。
そう自分に言い聞かせてみるも――。
「も…もしかして…、ジミー先輩…!?」
わたしがそう発すると、札束パリピ男はニッと笑った。
「なんだよ、今ごろ気づいたのかよ」
やっぱり…ジミー先輩だ!!
ジミー先輩はわたしを背中に隠すようにして、男の人たちの前に立ちはだかる。
「で、あんたらだれ?俺の彼女になんか用?」
「へ?カノジョ?」
酔っ払いの男の人たちは、ぽかんとした顔を見せる。
だけど、それはわたしも同じだった。
い、今…ジミー先輩、わたしのことを…“彼女”って言った!?
「わ〜。なんかごめんなさい、彼氏いるとは知らなくて〜」
「そうそう、そんな怒らないでね〜。オレたち、ちょぉ〜っと声かけただけだから〜」
「早く次行こう〜ぜ〜」
わたしのときとは違って、ジミー先輩が登場するとすぐに男の人たちは引き下がっていった。
「あ、ありがとうございます。ジミー…?先輩」
わたしの前に立つパリピがジミー先輩だとは思えなくて、『ジミー先輩』と呼ぶことに違和感がする。
「気にしなくていいよ。こんな時間に呼び出したのは俺だから。むしろ、変なやつらに絡まれることになってごめん」
ジミー先輩は頭を下げた。
「…いえ、それはかまわないんですけど……」
やっぱり、目の前にいるこの人がジミー先輩だということが未だに信じられない。
「あの、その格好…」
「これ?べつに、普段の私服だけど?」
「…私服!?でも髪型とかちゃんとして、学校の雰囲気とはまったく…。それに、前に言ってた“パリピ”って――」
「あ〜、“パリピ”っていうのは俺が勝手にそう思ってるだけだけどな」
いや、この格好からでもよくわかります。
正真正銘の“パリピ”だと。
「まあ、だいたい毎日だれかと夜遊んでるかな」
…めっちゃパリピ。
「帰って寝るのが遅いから、毎朝寝坊してんだよ。それで、髪とかセットする時間がなくて」
どこにそんな毎晩毎晩遊ぶお金があるのだろうと思ったけど、聞く感じだと、どうやらジミー先輩の家はお金持ちのようだ。
しかも、ジミー先輩自身も高校生ながらにアプリのゲーム会社を立ち上げ、そこの社長をしているとかなんとか。
どうりで、300万円分の札束を所持しているわけだ。
…それにしても驚いた。
清凛高校では、“学校一の地味男子”としてバカにされているジミー先輩が、まさかそんな一面があったなんて。
「他にまだ聞きたいことある?」
正体を知って放心状態のわたしにジミー先輩が尋ねる。
その問いに、わたしははっとして顔を上げた。
「そ、そういえば…、さっきわたしのこと…」
「ん?なに?」
「いや…、その…」
わたしは手をもじもじさせる。
だって、自分で口にするのは気恥ずかしい。
「ああ、“彼女”って言ったこと?」
ジミー先輩の言葉に、わたしの頬が一瞬ぽっと熱くほてった。
「なんか勝手なこと言ってごめんな。ああ言っておいたら、引き下がってくれるかなって思って。とくに深い意味はないから気にしないで」
うつむくわたしをなだめるように、ジミー先輩は頭をぽんぽんと撫でた。
また頭を撫でられた…!
わたしの胸がドキッと音を鳴らした。
そのあと、ジミー先輩に連れられて夜の清凛高校へとやってきた。
もちろん校舎は真っ暗だが、先生がまだ残っているのか、職員室には明かりがついていた。
「忘れ物ですか?」
「違ぇよ。ほら、行くぞ」
ジミー先輩は、校門の外からぽかんと校舎を見上げていたわたしの手を引いた。
夜の校舎はしんと静まり返っていて、なるべく足音を立てないように歩いていても、やけにその音が響くような気がする。
「ジ…ジミー先輩、見つかったらどうするんですか」
「見つかったら、忘れ物を取りにきたって言えばいいじゃん」
窓から入る月明かりが、ニッと微笑むジミー先輩の顔を照らす。
そのとき、わたしたちとは違う足音が聞こえてきた。
そっと廊下の角から顔を覗かせると、懐中電灯を握って校舎を巡回する警備の人だった。
忘れ物を取りにきたと言い張ったとはいえ、見つかったら絶対に怒られる。
「帰りましょうよ、ジミー先輩…!」
「なんで?だってめちゃくちゃスリルあるじゃん」
不安丸出しのわたしとは違って、なぜかジミー先輩は楽しそうだ。
ジミー先輩に連れられて物陰に隠れて息を潜めていると、警備の人はわたしたちに気づくことなく通り過ぎていった。
「でも、どうして夜の学校なんかに」
「だって、書いてあったじゃん。青春ノートに」
「え?」
「『夜の学校に忍び込みたい』って」
初めはぽかんとしたけど、ジミー先輩にそう言われて、ずいぶんと前にそんなことを書いたようなことを徐々に思い出してきた。
「なっ…!!やっぱりジミー先輩、わたしの青春ノートを全部見て――」
「シー…!!声がでかいって…!」
「だれかいるのかっ!?」
それほど大きな声ではなかったけど、警備の人の足音しかしない静かな夜の校舎に、わたしの声がわずかに響いたようだ。
警備の人が引き返してきて、足音がどんどんこちらに近づいてくる。
わたしの心臓は、この音が外に漏れてしまうのではないだろうかと思うくらいずっとドキドキしていた。
だけどこれは、警備の人に見つかったらどうしようというドキドキではない。
――なぜなら。
わたしの口を片手で塞いだジミー先輩が、体を密着させるようにわたしを後ろから抱きかかえているからだ。
壁の陰に隠れて、少しでも死角に入るように2人で小さく丸くなって息を殺す。
「いい子だから、そのままな」
そんなジミー先輩の声が耳元で響いて、その耳がカッと熱くなった。
警備の人の足音がすぐそばで止まり、わたしたちの目の前の壁が懐中電灯で照らされた。
もうダメだと思ったけど、その懐中電灯の灯りはわたしたちの足元ギリギリをかわしていき、違う方向へと向いた。
「…変だな。気のせいか」
警備の人のつぶやき声が聞こえ、足音が遠ざかっていった。
「っぶねぇー…」
ジミー先輩は安心してその場で脱力した。
そのおかげで、わたしもジミー先輩から解放される。
い…、今の…。
ジミー先輩に後ろから抱きしめられてたよね…?
【・後ろから抱きしめられたい】
そういえば前に、ドラマの影響で青春ノートにそんなことを書き込んだことがあったけど――。
実際のバッグハグって、こんなにドキドキするものなんだ…!
今が暗い校舎の中でよかった。
じゃないと、真っ赤になった顔をジミー先輩に見られるところだった。
その後、ジミー先輩がわたしを連れてきたのは、今日の朝にもきた学校の屋上だった。
夜なんかにきてここになにが――と思ったら、わたしは思わず感嘆の声を漏らした。
「…すごい」
朝ここから見た街並みは、赤色や黄色や白色などのさまざまな色の光の粒を放った夜景となっていた。
「見晴らしがいいと思ってましたけど、夜になるとこんなにきれいだったなんて」
「すごいだろ?1回文化祭の準備で夜遅くまで残ったことがあって、そのときに知ったんだ」
自慢げに話すジミー先輩。
「わたし、夜景…初めてかもしれないです」
「え、マジ?」
「はい。この時間はいつも家にいるので」
「でもさ、友達とちょっと近くの夜景見に行こうぜっとかならな――」
と言いかけたジミー先輩だったけど、バツが悪そうに慌てて自分の口を両手で塞いだ。
「…わたし、友達いないので」
「そうだったな。なんかごめん」
ジミー先輩がペコッと頭を下げる。
そのまま2人とも黙り込んでしまった。
しばらく無言で夜景を眺めていると、肩をトントンと軽くたたかれた。
顔を向けると、ふにっと頬にジミー先輩の人差し指が突き刺さる。
「もうっ、なんですか――」
「じゃあさ、俺がなってやろうか?」
ジミー先輩の言葉にわたしはキョトンとする。
「だから、俺があんたの友達1号になってやろうかって言ってんだよ」
「ええ…!?ジミー先輩が!?」
「なんだよ、嫌なのかよ」
「いえ…、そういうわけではなくて…」
“友達”なんていう響き、わたしには新鮮すぎたから…つい。
「高校生になって友達とやりたいこと、あの青春ノートにいっぱい書いてあるんだろ?」
「そ…そうですけど…」
「じゃあその青春、俺が叶えてやるよ」
そう言って、ジミー先輩はやさしく微笑んだ。



