僕にとって学校は勉強するところではない。
僕にとっては、学校=漫画研究同好会の活動をするところだ。
部活動ではなく同好会にしかなれないほど所属会員数の少ない漫研だけど、僕にとっては癒やしであり、自分の居場所とも言える場所だった。
会員は僕と同じ二年生の女子が一人と、一年生の男子が一人。合わせて三人しかいない。
でもみんな漫画が大好きだ。
しかも紅一点である女子会員、平塚綾梨は、会員の中で唯一の描き手でもある。
全ては彼女の描いた漫画から始まった。
彼女の描いた一冊の――BL同人誌から始まったのである。
*
会員数の少ない漫研は、掛け持ち顧問の担当教科が化学のため、使われていない第二化学準備室を部室として使っている。
その準備室に、毎日と言っていいほどやってくるのが会員でもなんでもない早瀬冬李という男だ。
明るく染めた髪をツーブロックなんてオシャレな髪型にして、高校の入学と同時に開けたらしいピアスの穴には黒のリング型のピアスをはめていて、いつも制服は着崩している、なんともチャラい奴である。
今だって耳をそばだてれば、こちらに向かってきているのだろう冬李のチャラい声が聞こえた。
「だ~か~ら~、俺別にその子と付き合ってないって。遊ぼ~って言われただけで好きなんて言われてないし」
「え~。でも史乃、冬李と付き合ってるって言いふらしてたよ? だから私とも付き合おうよ~」
「恋人は無理だから。ついてくんな」
あーあー、今日も非常におモテになっているようで。
まあ、冬李がモテるのは昔からだけど。
なぜ僕が会員でもない彼について詳しいのか。答えは簡単、冬李が僕の幼なじみだからだ。
冬李が僕のいた小学校に転入してきてからの付き合いだから、かれこれ七年の仲だろうか。
冬李はその頃から完成された顔で、両親はお父さんもお母さんも医療関係者という家系。だからか、周囲がこぞって転入してきたばかりの冬李に近づいた。まあ当時から漫画にしか興味のなかった僕は、大変そうだなぁと気にしつつも特に助けに入ることはしなかったけれど。
冬李も特に誰か特定の友だちをつくっている様子はなかったものの、みんなと適度に仲良くしていたように思う。
それなら大丈夫かと勝手に安心し、僕は心置きなく漫画に集中した。
冬李が転入してきた最初の年は、結局ほとんど話すことなく過ぎた。
それに変化が訪れたのは、翌年――小学五年生になってからだ。周囲が色恋に浮き足立ち始めた頃のことである。
冬李とはまた同じクラスになったけれど、やはり互いに話すことはなかった。冬李はいわゆるカースト上位のグループに所属していて、僕はいつも誰ともつるまず教科書で擬態した漫画を読むぼっちだったから、交わるほうがおかしいというのもある。
けれど、顔のいい冬李がそれこそクラスのほぼ全女子から「好きなのは冬李くん」なんて言われてしまったせいで、冬李の安寧は崩れた。
女子の嫉妬による戦争に巻き込まれ、男子のやっかみによる視線に晒され、冬李は平静を装いつつも確実に心は疲弊していたらしかった。
さすがにかわいそうだなと思い、バレンタインに闘志を燃やす女子たちから逃げていた彼を匿ったのが、僕らのほぼ初めてのコンタクトと言ってもいい。
それから彼は、放課後は僕の家に避難しに来るようになった。そう、避難。
といっても、僕はやはり漫画ばかり読んでいて、特に彼の話し相手をすることもなかったけど。
なのに不思議なことに、冬李にとっては逆にそれがよかったのか、妙に気に入られてしまったのだ。
『おまえ、もしかして学校で読んでるのも漫画だったりする?』
『……まあ』
『マジかよ。休み時間にも教科書読んでる真面目クンかと思ってたのに……ははっ、ヤバ。やるなおまえ』
ヤバイのは君の笑顔だよと教えてあげたかった。女子ならその破壊力に即死してたなと思いながら、僕はやっぱり漫画へ視線を移した。
そうして中学に上がっても変わらず冬李はウチに来て、僕が「早瀬くん」と呼んでいたのが「冬李」に変わるのも案外早かった。
冬李も冬李で、最初から僕のことは名字の「松江」ではなく、「瑞希」と呼び捨てて呼んでいた。まったく、これだからカースト上位は恐ろしい。
それでも、まだ中学までの冬李なら、僕にも付き合いやすい男だったのだ。
高校まで同じところに行くことになり、またよろしくなんて言って別れた卒業式だったけれど、高校の入学式で僕は唖然とした。冬李の頭が光っていたからだ。
いや、これだと語弊があるか。とにかく黒かった髪がどこぞの漫画のヤンキーのように明るく染められ、形の綺麗だった耳にはどこぞの漫画のチャラ男のようにピアスの穴が開いていた。
どうしたのそれ。そう訊ねた僕を、彼は無視した。
ああそうか、これがいわゆるあれかと、僕は察した。そう――高校デビューというやつである。
その高校デビューに、僕のような陰キャは邪魔だったのだろう。
案の定、彼は高校生になってから女子との噂が絶えなくなった。
僕だって人間だ。今までずっと一緒に過ごしてきた友だちがいなくなるのには寂しさを覚えたけれど、それが冬李の望みで、冬李が青春を満喫しているのなら潔く身を引こうと思ったのだ。
だって冬李は、僕の幼なじみだから。内心では悲しんでいても、幼なじみの幸せくらい願ってあげないと。
けど、そんな僕の健気な決意は、結局半年くらいで終わりを告げたと思う。
一年のときはクラスが離れた僕らは、順調に距離を広げていたはずだった。
なのにそれを壊したのは、またしても冬李からのアクションである。
この漫研の部室に、冬李が駆け込んできたのがきっかけだ。本人曰く、女子から逃げてきたらしい。
以来、彼は僕以外のどの会員よりも多く、この部屋に通っている。
今日も今日とて我が物顔で部室にやって来た冬李は、すっかり定位置となっている本棚前のパイプ椅子に座った。
部室は窓とドアを除く壁を本棚で覆われ、部屋の中心に長テーブルとパイプ椅子があるだけの簡素な部屋だ。昔は化学準備室らしく標本やら実験器具やらが置いてあったらしいけれど、今ではその影もない。
僕はいつも窓を背にした椅子に座るので、視界の斜め左に冬李の姿が映る。
「今日は他に誰もいねぇの?」
冬李がテーブルに頬杖をつきながら質問してきた。
僕は漫画のページをめくりながら答える。
「うん。平塚さんも高野くんもバイト」
「そ。じゃあゆっくりできるな」
「ゆっくり?」
たとえ二人がいたって、冬李はいつも勝手にくつろいでいると思っていたので首を傾げた。
「だってさ、平塚の視線、なんか苦手なんだよな。こっちを観察してるみたいでうるさいんだよ」
僕は苦笑する。実はその理由の一部を知っている身としては、どちらかの味方はできない。
「なあ瑞希、俺も漫画読んでいい?」
「いいよ」
冬李はずっと僕と一緒にいたことからわかるように、僕の趣味を一度だって笑ったことはない。
それは、僕の読むものが少女漫画だと知ったときもそうだった。
男にこの趣味がバレると、だいたい馬鹿にされる。だから僕は一人で漫画を読んでいた。
それなら学校で読まなきゃいいと思うだろうけど、僕は別に少女漫画を読む自分を恥ずかしいとは思っていないのだ。ただただちょっかいをかけられるのが煩わしいだけで、それだって僕が何を言われても動じないと気づくや誰も何も言ってこなくなったので、僕は自分の趣味を学校でも大いに楽しんでいる。
ちなみに僕がこんな性格なのは、確実に姉の影響だろう。姉も少女漫画が大好きで、ついには漫画家を夢見るまでになったほど。
そんな姉に「少女漫画は少女だけのものじゃない! 胸のトキメキに男も女も関係ない! 恥じるな!」と散々言い聞かされてきた僕は、漫画に関してだけは謎に心の強い人間になった。
「あのさ、瑞希」
「ん?」
「この薄いのも漫画なのか?」
「薄い? ――ふぁぁあああそれはっ!!」
僕は冬李の手の中にあるものを認めて椅子を倒す勢いで立ち上がった。猫もびっくりの速度で冬李へ駆け寄る。
「それはだめ!」
「なんで?」
ここぞとばかりに身長のアドバンテージを生かし、冬李が件の本を僕から遠ざける。
あまりにも僕が必死になるからか、冬李は興味津々に表紙を見直した。が、表紙には特にタイトルも絵もなく、真っ白な本だ。
問題はその中身である。そしてこれを見られてダメージを受けるのは僕ではない。平塚さんだ。
「冬李、それ平塚さんのだから! 勝手に見ちゃだめ!」
「はあ? なんで平塚のを瑞希が必死に守ってんの?」
どこに怒りのスイッチがあったのか、冬李は舌打ちしながら表紙をめくってしまう。
僕は慌てて自分の目を両手で覆った。実は僕もその中身の詳細は知らない。
僕も見ることは許可されていなくて、でも冬李をモデルにした恋愛ものを描いていることだけは教えてもらっていたのだ。
咄嗟に「見てはいけない」という心理のほうが働き冬李から手を放してしまったけれど、中身を見てしまったはずの冬李からなんの反応も返ってこなくて、僕は恐る恐る目を開けた。
冬李は切れ長の目をこれでもかと開けて、薄い本――平塚さんの同人誌を凝視している。
「……冬李? どうしたの? なんかあった?」
本当の本当は、僕も平塚さんの描いた漫画の内容が気にはなっていたのだ。
女子との噂が絶えない冬李をモデルにした恋愛ものだと言うから、いったいどんなハーレムが築かれているのだろうと盗み見たくなったことは何度かある。
けど、そんなことをして己の所業がバレたとき、平塚さんが漫研を辞めないとも限らない。漫研の廃止は断固阻止したい。
「瑞希はさ、この漫画の内容、知ってたの?」
「え、まあ、少しだけ」
「これ、瑞希も読んでんの?」
「いや、僕も読みたいけどだめって言われてるから」
「読みたいんだ。――じゃあ、抵抗ないってことか?」
「え? なんか言った?」
最後のひと言だけボソボソと呟くようだったから、僕の耳には届かない。
聞き直したら、冬李が急に僕へ視線を下ろしてきた。
「瑞希は少女漫画が好きだよな」
「そうだね」
「だから少女漫画しか読まないと思ってた」
「そうでもないよ。漫研に入ってからは色々読むよ」
「マジかよ……。え? じゃあ俺たちすれ違ってたの?」
「何が?」
さっきから僕には冬李の言うことの一ミリも理解できていない。
平塚さんの漫画の内容を前提に話を進められても、読んでいない僕には前提からしてわからないのだから説明がほしい。
「ねえ冬李、とにかくその本、元の位置に戻して。見たのバレたらまずいから」
「あー、だから俺、平塚の視線苦手だったんだ……お見通しってわけね」
「なんの話?」
「なんのって、これに決まってんじゃん。ほら」
見たのバレたらまずいと言っているのに、冬李は漫画を僕に見せてくる。
そして僕も好奇心には勝てずに、ついつい薄目で見てしまった。
――見なければよかったと、すぐに後悔した。
「な、な、なにこれ!?」
「なにって、内容知ってたんだろ?」
「全部は知らないよ!」
「でもこういうの、読むんだろ?」
「そ、それは……っ」
そこで視線を横に逃がした正直な自分が恨めしい。
漫画は、確かに恋愛ものだった。冬李をモデルにした登場人物もいた。というか名前がそのままだった。
そしてもう一人、名前そのままに出演している男がいた。松江瑞希――僕だ。
しかも漫画に登場する瑞希は、僕によく似た黒髪地味男で、うっすい顔まで似ている。
僕を知る人が見れば、十人中九人はこの登場人物を僕に似ていると言うだろう。
その瑞希と、同じく現実の冬李によく似た顔形の漫画の冬李が、仲良く睦み合っているのである。
「ぼっ、ぼぼぼ僕ら未成年!」
「顔真っ赤」
「こっ、こういうの、違うっ、読まない!」
「でも目逸らしたじゃん」
「僕が読むのは健全なBLだよ!」
思わず叫んでしまったら、冬李がふはっと吹き出した。
「ほら、読むんじゃん」
しまったと思っても後の祭り。いや、でも別にBLを読むことも少女漫画と同じだ。僕は別に恥じだとは思っていない。
ただ、少女漫画と違って、僕には動揺する別の理由があるのだ。
「てことはさ、もしかして瑞希、男同士の抵抗ない系?」
抵抗ない系どころか、ウェルカム系だ。なんて簡単に言えるはずもなく。
「べ、別にBL読む男子が、みんなそうとは限らないから。僕は腐男子なだけだから!」
「ふだんし?」
「BL読む男をそう言うの!」
そんなことも知らない冬李は、間違いなくこの界隈に詳しくないはずだ。そんな冬李に「そうだよ、僕は男の人が好きなんだ」なんてカミングアウトをできようはずもない。
「なんでもいいけど、それで、本当はどっち? 抵抗ない?」
「なっ……い、けど」
「ないの!?」
ああ、嘘が吐けない自分の性格が心底恨めしい。でもなんで冬李は嬉しそうなんだ。
「そっか、ないのか」
このときの冬李の呟きの意味を僕が知るのは、だいぶ経ってからのことである。
それからも、相変わらず冬李は漫研にやってきては暇を潰していく。
しかし少しだけこれまでと変わったのは、冬李の定位置が僕の定位置にもなったことだ。
つまり、僕はなぜか冬李の膝の上に座らされている。
「ねえ冬李、やっぱ読みづらいんだけど」
週に二回来れば多いほうの平塚さんと高野くんは、今日もバイトでいない。
そもそも二人はバイトで稼ぐためにこの活動の少ない漫研に入ってくれたので、参加を無理強いすることはできない。
冬李と二人きりなんてこれまでだって何度もあったというのに、さすがに膝の上に座らされるような状況になれば僕だってドキドキはする。
「瑞希ってさ、この漫画みたいに強気で攻められるの好き?」
「ちょっ、また勝手に平塚さんの持ち出して……! バレても知らないよ」
「大丈夫。本人から許可取った」
「取ったの!?」
驚いた。僕にも高野くんにもあれだけ見せようとしなかった平塚さんが、まさか冬李には許したなんて。
なんだかちょっとだけモヤッとする。
「なんで僕じゃなくて、冬李にはOK出したんだろ」
「は? なにそれ。どっちに嫉妬してんの」
「嫉妬じゃないけど……なんか面白くない」
でも確かに、何が面白くないんだろう。いや、そんなの、あれだけお願いしたのに会員でない冬李に呆気なく見せたことが面白くないに決まっている。
「瑞希って相変わらず拗ねると唇尖らせるよな」
そう言って、冬李が僕の頬を挟むように掴んできた。
「は~、ほっぺやわらか」
「どうせ冬李と違ってシュッとしてないよ」
「なんで。してなくていいよ。このやわ感がいいんじゃん。ここの肉は死守しろよ」
「う、うん?」
あまりに真剣な顔で褒められたものだから、僕は若干引き気味に相槌を打つ。
「で、どうなの瑞希」
「なにが?」
「強引に攻められるの好き? この漫画の瑞希、俺に攻められてめっちゃ喜んでんじゃん」
「それ漫画の話! 僕は別に……っ」
「別に?」
頬を掴んでいた冬李の手が、するりと顎へ移る。
そのままくいっと上を向かされて、後ろから僕を見下ろす冬李の瞳と目が合った。
冬李の瞳の中の僕は、わかりやすく狼狽えていた。
「『これだけ近いと、おまえの綺麗な瞳がよく見える』」
「え、あ」
「『何度この瞳に俺だけが映ればいいのにって思ったか、おまえは知らないだろ?』」
「とぅ、りっ。なんか、近っ……」
だんだん近づく男前な顔を前にして、僕の心臓は少女漫画でよく見るような高鳴り方をした。
ああそうだ。白状しよう。僕が少女漫画が好きな理由。それは自分をヒロインに置き換えて、かっこいいヒーローとの恋に憧れたからだ。
冬李は顔は少女漫画のヒーローにも引けを取らないどころか越えていく顔面レベルを持っている。
それだけじゃなくて、冬李が人の趣味を笑わない、実は結構いい奴だってことも知っている。
ぼっちの僕にも分け隔てなく接してくれるような、噂されているほど酷い奴じゃないことだって知っているんだ。
だから、そんな冬李に近づかれたら意識しないほうが無理なわけで。
「冬李、待って……!」
冬李の顔を両手で押しのけるようにしたら、冬李がすっと離れてくれた。
そして――。
「なんだよ。この漫画の瑞希はドキドキしてくれてんのに、おまえは違うの?」
「はい? 漫画って……も、もしかして今の、漫画に描いてあった、とか?」
「そう」
「セリフ真似たの?」
「真似た。だって――」
「もー! それならそうと言ってよ! 無駄にドキドキしたじゃん!」
「へぇ……ドキドキしたんだ」
僕は慌てて自分の口を塞いだ。余計なことを言ってしまったかもしれない。
すると、冬李が口元を綻ばせて、
「もう遅いって。しっかり聞いたから」
なんて嬉しそうに僕を見てくるから、顔に熱が集まった。
*
俺にとって松江瑞希という男は、初対面の印象なんて覚えてないくらい、最初は存在感の薄い奴だった。
親の仕事の都合で転勤した先の小学校で知り合い、しばらくは特に交流もしなかった。
そんな瑞希をはっきりと認識したのは、高学年になってからだ。やたらと女子から騒がれ、男子から敵意を向けられるようになり、俺にとって学校がただの煩わしい場所になりつつあったとき、ふと、いつも自分の席で熱心に教科書を読んでいる男がいることに気がついた。
そういえば去年も同じクラスだったなと思い出し、瑞希からは一度だってやっかみも好意も向けられたことがないなとも思い返す。
そうして一度意識してしまえば、今までのように無関心ではいられなくて。まず思ったのが、なんでそんなに熱心に教科書を読んでいるんだろうということだった。
俺は頭の固い真面目クンは苦手だ。これは完全に八つ当たりだが、俺の父さんがまさにそれで、融通の利かなさには辟易するときがある。成績がよければ塾なんて通う必要もないだろうに、塾に通うことをステータスとして見ているのか、嫌がる俺を無理やり入塾させた。
あの頃は、瑞希も父さんと同じ人種なのかなと、少し苦手に思っていた。
その印象が覆ったのが、バレンタインの日である。
学校にお菓子の持ち込みは禁止されているはずなのに、勇敢にも持ち込む女子たち。
俺は呆れた。それを渡そうとしてくる女子たちに。だってそれを受け取ったら俺、共犯にされるじゃん。俺をやっかむ男子に教師へ告げ口なんてされたらたまったもんじゃない。
しかもそれが親にも伝わろうものなら、俺はバレンタインという日を一生恨むだろう。
だからなんとか女子から逃げきり、やっと帰宅できたと思ったのに、女子の行動力は恐ろしいことに家の前で待ち伏せされていた。
もう学校じゃないし受け取ればいいだろって? 馬鹿か。受け取れるわけがない。学校で散々逃げたのだ。ここでその女子からもらってしまったら、明日には確実に俺の好きな女子が名前も知らない彼女になっている。
どうしたものかと見つからないよう踵を返そうとした俺に、救いの手が差し伸べられた。それが瑞希だった。
瑞希の家は割と近く、俺の家の三つ隣がそうだった。
これまでほとんど話したこともない俺を助けるなんて意外とお人好しなのか? と考えながらついていくと、瑞希は俺にお茶を出して「自由にしてくれていいよ」と言ったあと、自分は漫画に夢中になっていた。これにはさすがにびっくりしたのを覚えている。ここまで放置されたのは初めてだったから。
でもその気楽な感じが妙に安心できて、俺はこの日から、瑞希の家を避難場所として認定したのだ。
そのとき知ったのが、瑞希が教室で読んでいたのが実は漫画だったということと、瑞希は見た目詐欺で全く真面目じゃないってことと、あまり表立って行動しないからわかりにくいけど本当は優しいってこと。
瑞希の家に避難――という名の遊びに行くようになって気づいたのは、瑞希は意外と周りを見ていて、さりげなく誰かを助けているということだ。
たとえば誰かが消しゴムを忘れて困っているとき、一番に気づくのは瑞希だ。そして恩着せがましくなく自分のを貸している。
体調の悪そうなクラスメイトを見つければ、自分が体調を悪いことにしてそいつを保健室への付き添い人に指名する。結局教室に戻ってきたのは瑞希だけで、でも誰もそんなことをいちいち気に留めたりはしない。
まるで影のヒーローのようで、俺は瑞希をすぐに気に入った。
瑞希とはずっと友だちでいたいと思うようになった。
だから、
『冬李って、かっこいい名前だよね。僕も冬李って呼んでいい?』
瑞希のほうからそう言ってくれたとき、俺はかつてないほど興奮した。
『呼んで! 俺たち親友だし!』
『わっ、テンションたか。僕たちって親友なの?』
『え、違うの?』
『いや、幼なじみかなって思ってた』
『それもいいな。じゃあ幼なじみ兼、親友で』
『冬李が親友かぁ』
『なんだよ、不満?』
『そうじゃなくて。僕釣り合ってなくない?』
『は? 釣り合うとか合わないとか知らないから。俺は瑞希がいい』
『そう? じゃあ、これからもよろしくね、親友』
『おう、よろしく』
――な~んて、今思えばクソ恥ずかしいやり取りだけど、当時の俺はめちゃくちゃ浮かれたのだ。だって親友って、特別だろ? 俺が瑞希の特別って最高すぎる響きだと思わないか。
でも、俺がそう浮かれていられたのは、中学までだった。
中学の卒業式で、俺ももちろん何人かから告白されたけど、まさかの瑞希が告白されている場面に出くわしてしまい、俺の頭は真っ白になった。
いや、瑞希が告白されるのはわかる。俺よりはるかにいい奴だから。瑞希に告った女子はマジで見る目あると思う。
でも、なぜかそれを喜べない俺。
気づいてしまったのだ。たとえ俺が瑞希の親友という立場をもらったとしても、瑞希の〝恋人〟という最強の存在には負けてしまうということに。
そして、瑞希と同じ男である俺が、その座につけることはないということに――。
気づいてしまえばもう、俺はあっというまに転落した。
自分の性的指向も確認したくて、告ってきた女子と片っ端から付き合ってみた。
結論、どうやら俺は女子とも付き合えるらしいことがわかった。でも本当の意味で心が動いたのは瑞希だけだった。
半年かけてそれを思い知らされ、結局瑞希不足で瑞希を求めて漫研に入り浸る日々。瑞希は卒業式に告ってきた女子とは付き合わなかったみたいだけど、俺がそれを知っているのは探りを入れた女子からもらった情報のおかげである。
つまり、瑞希は自分が告白されたことすら俺に言ってくれなかったのだ。
それが思った以上にショックで、もうどうすればいいのかわからない悶々とした毎日を過ごした。
俺は瑞希の恋人になれないのだと思うたびムカついて悔しくてイライラして、その鬱憤を遊んで晴らす。
女子はずるい。なぜなら女子というだけで、瑞希の恋人になれる可能性を秘めているから。
そんな俺の行き場のない想いを、どうやら漫研の女子会員である平塚が気づいてしまったようだった。
たまたま手に取った漫画は平塚が描いたものだという。
そこには俺と瑞希が、俺がずっと渇望してやまない関係性で、ずっと夢見ている濃厚な日々を過ごしていた。
だから漫画を読んだ俺が最初に思ったのは――「クッソ羨ましい」である。
俺はずっと我慢しているというのに、漫画の中の俺は瑞希のかわいらしい唇を好き勝手に貪っていて、羨ましいやらムカつくやらで情緒がおかしなことになった。
でもその漫画のおかげで、瑞希が男同士の恋愛に抵抗がないことを知れたのは僥倖どころか天にも昇る気持ちだった。
そしてその日、俺は決意した。
――だったらもう、あとは落とすだけじゃね?
可能性があるとわかった俺は強い。
彼女はいなかったけれど誘われれば遊んでいた女子たちにもう遊べない連絡を入れて連絡先を削除。
平塚の許へ行き勝手に漫画を見たことの謝罪と協力を土下座して頼み込む。
『勝手に見たのは悪かった。ごめん。ごめんついでに、まだ読ませてほしい』
『わー、イケメンの土下座貴重。まあ私も勝手にモデルにしたし、そこはおあいこで。それより、まだ読みたいのはなんで?』
女子というのは、こういう恋愛事に関する勘がよすぎて怖い。
平塚もこのとき必死な俺から何かの勘が働いたらしく、嘘や誤魔化しは許さないと言わんばかりに攻めてきた。
俺はため息をついてから、
『参考に、したいから』
仕方なく白状した。
『参考? まあ松江っちが攻められると弱いのは間違いないだろうけど』
『やっぱあれ、本人参考にしてるんだな!?』
『食いつきよすぎて草』
『瑞希が振り向いてくれるなら俺のプライドなんかどうでもいい』
『あの女泣かせの早瀬がすごいね。そんなに惚れ込んでるの?』
『当たり前だろ。瑞希はもう存在が癒やしなんだよ。マイナスイオン出てる。マジかわいい。あの純朴さもいい。絶対恋愛経験少ないだろうから俺が全部教えてやりたいし俺色に染めたい』
『わかる。純朴な子がどんどん開花していって大胆になっていくのは控えめに言っておいしい』
『そうなんだよ! 俺の前でだけ大胆な瑞希――ってやめろ! 俺の瑞希で想像すんな!』
『想像した結集があなたが読みたいと言ってるやつなんですがね』
平塚はなかなかいい性格をした女子だった。
けど話のわかる女子でもあった。
『わかった。いいよ、参考にしても』
『マジで!?』
『その代わり、うまくいったあかつきには詳細を報告すること。あと、そのときは続き描きたい。もっと二人のイチャラブを描きたい』
俺はすっと右手を差し出した。
『任せろ。そのときは今後も参考にできそうなすごいのをよろしく頼む』
平塚も悪い顔で右手を出し、俺たちは二人で頷き合ったのだった。
裏でそんな取り引きがなされたことに微塵も気づかない瑞希は、今日も俺の膝の上に座らされて、平塚の描いた漫画みたいに赤い顔で俺を見上げてくる。
「『りんごみたいでかわいいね。俺が触れたから赤いの?』」
「ね、冬李。いつまで続けるの、それ」
「それって?」
「その、漫画ごっこ? 的な?」
「ドキドキしない?」
「すっ……る」
きっと否定したいのに、瑞希は素直だからできないのだろう。そんな純粋さが尊くて仕方ない。
「じゃあいいじゃん。嫌じゃないなら」
「嫌ではないけど、意味がわからないっていうか……!」
そりゃあ瑞希からすればそうだ。俺が何をしたいか理解できないのは、俺にまだ気持ちを伝える勇気がないせいだ。
瑞希が男同士の恋愛に抵抗がないと最近知ったばかりなのに、焦って気持ち悪がられるのはまずい。だからまずは感触を確かめているのだが、瑞希はなんでも受け入れてくれるから逆にいいのかだめなのかわからなくなってきているのが現状である。
(もうキスするか? これはさすがに嫌なら拒絶するよな?)
でも、瑞希に拒絶されるところを想像してしまった瞬間、息がぐっと詰まった。
まずい。想像だけで窒息しそうなのは色々と終わってると思う。
キスは手っ取り早く瑞希の心を覗けそうだけど、あまりにも俺に対して諸刃の剣すぎる。もしこれで拒絶されて、親友にも幼なじみにも、ましてや友だちにさえ戻れなくなったら、俺は確実に呼吸困難になる自信がある。
「だめだ。やっぱ無理。おまえが俺から離れてくなんて耐えられない」
瑞希の首元に顔を埋めた。
「ちょっ、それも漫画にあるセリフ? どういうセリフのチョイスなのさ……!」
今のは漫画じゃなくて本心からの言葉だったが、どうやら瑞希は勘違いしたらしい。助かったのか、残念なのか。
でも呆れながらも頬をほんのりと染めている瑞希に俺のほうがドキドキさせられている。瑞希よ、なんでここで頬を染めるんだ。期待するじゃないか。
(もうこれは脈ありと見ていいのか? どっか漫画にないかな、キス以外で判定できる方法)
しかしどれだけページをめくってみても描かれていない。というかこの漫画、最初から思ってたけどイチャイチャしすぎじゃない? 本当に俺と瑞希をモデルにしてるんだよな? ちゃんと現実の俺たち見て描いてる? 雲泥の差じゃない?
「俺だって瑞希とキスしたいのに……」
「え!?」
「……え?」
おい待て。俺今なに言った? 何を口から滑らせた?
「……あ! い、今のもあれだよね、漫画のセリフなんだよね! 名前一緒だとややこしいよねあはは……!」
瑞希の顔が茹だったカニよりも赤くなっているのは卑怯だろ。だって俺、今キスしたいって言ったよな? 俺にキスしたいって言われてそんな顔になってんの?
「瑞希」
「な、なに」
「キス、したい、です」
はい調子に乗った。今の俺は誰がどう見ても調子に乗ってる。
でもこの流れで言えなかったらもう俺一生言えないよ、こんな言葉。
俺の膝の上にいる瑞希が、テーブルに両肘をついて自分の顔を覆った。これはどっちだ。拒絶か。それとも照れているのか。
気持ち悪いと言われなくても瑞希の口から「冗談やめてよ」みたいなことを言われる前に、「これも実は漫画のセリフでした~」と誤魔化すべきか。
ひよった俺が漫画のせいにしようとしたとき。
「あの、さ」
瑞希のほうが先に口を開いた。
「もう隠せそうにないから言うんだけど、今の、漫画には、ないよね?」
「……え?」
「その、ごめん! 実は僕も漫画、読ませてもらったんだ」
「……は?」
「だ、だって、僕ばっかりドキドキさせられて悔しいから、僕もなんか反撃できないかなって……! だからその、漫画に今の冬李のセリフがないの、僕、本当は知ってる……」
「――!」
俺の顔から血の気が引いていく。まさか逃げ道を塞がれるなんて思ってもみなかった。
(平塚、あいつ……!)
俺の荒ぶる内心なんてお構いなしに、瑞希が赤い顔のまま振り向いてきた。
「だから、いい、よ」
「………………ん?」
だから、いいよ?
その意味を咀嚼するのに数分を要した。そしてようやく理解できた俺は、膝に瑞希が乗っているにもかかわらず危うく立ち上がりかける。
「えっ。え!? いい!? 何が!?」
信じられない。今のは聞き間違いか? と自分の耳を疑おうとしたけど聞き間違いのせいにしていっそキスするのもありなのではという思考回路になって、ごくりと唾を飲み込む。
「瑞希、本当に?」
「……いいよ。言っとくけど、僕、そんなに鈍くないから。最近やたらと漫画ごっこしてくるの、そういうこと、なんだよね? だって二人きりのときにしかしてこないし。やたらと目が優しいし」
瑞希の明察ぶりに俺の心臓が色んな意味で暴れ出す。
「でも! こ、これが遊びだったら、許さないからね」
途端に泣きそうな顔で声を震わせた瑞希に、俺は反射的に叫んでしまった。
「んなわけあるか! 俺がどれだけ瑞希と付き合いたいと思ってたかわかる!? 意識してもらうために漫画の真似だってしてんだよこっちは! じゃなきゃあんなクソ恥ずかしいこと誰がするかよ!」
瑞希が口を開けてぽかんとしている。そんな間抜けな表情すらかわいいとか反則すぎる。
「いや、瑞希が疑うのも俺のせいだってわかるけど。でも、遊びで親友に手ぇ出さないよ、俺。あんな必死に漫画のキャラだって演じないし」
勢い余って告白もどきをしてしまい、遅れて羞恥心が頭に上ってきた。
それを隠そうとして瑞希の肩に頭を預けたら、瑞希から小さく吹き出す声が聞こえてくる。
「確かに、それはそう」
「だ、だろ?」
「じゃあさ、僕ら、恋人にも、なれる?」
「な、なれる! なりたい!」
「僕、冬李のこと、恋愛の意味で好きだと思うんだけど」
「俺も好き!」
そう言って、「ちょっと待って」と俺は膝の上の瑞希を自分の方へ身体ごと反転させた。
「目を見て言わせて。あ、あとスマホ、見て」
「?」
俺はLINEの画面を呼び出すと、トーク一覧を開いて瑞希の方へ画面を向ける。
「俺には瑞希しかいないっての、見て。マジで好き。俺を瑞希の恋人にしてください」
恥ずかしさを押して告白すると、俺のスマホを見て驚いた瑞希が画面に触れる。
スクロールする必要もないトーク一覧に、瑞希が困惑していた。
「ね、さすがに少なくない? 『ババア』と『クソジジイ』と僕とのトークしかないよ」
「瑞希が男いけるって聞いて、絶対落とすって決めたから」
「……決めたから?」
「瑞希以外は要らないなって、消した。まあさすがに親のは残したけど」
「親は消しちゃだめだよ!?」
「な、これで俺の本気、伝わった?」
「そ、そうだね。予想以上にね」
若干瑞希の頬が引きつっているように見えたのは、たぶん気のせいだろう。
手に入らないと思っていた瑞希の恋人の座につけたことが嬉しすぎて、俺は瑞希を力いっぱい抱きしめた。
恋愛には疎いだろうと思っていた瑞希の意外と勘の鋭いところに、俺は助けられたらしい。
そんな瑞希がやっぱり最高で、俺にとって代わりなんていない、たった一人の幼なじみで親友で――今日からは恋人だ。
僕にとっては、学校=漫画研究同好会の活動をするところだ。
部活動ではなく同好会にしかなれないほど所属会員数の少ない漫研だけど、僕にとっては癒やしであり、自分の居場所とも言える場所だった。
会員は僕と同じ二年生の女子が一人と、一年生の男子が一人。合わせて三人しかいない。
でもみんな漫画が大好きだ。
しかも紅一点である女子会員、平塚綾梨は、会員の中で唯一の描き手でもある。
全ては彼女の描いた漫画から始まった。
彼女の描いた一冊の――BL同人誌から始まったのである。
*
会員数の少ない漫研は、掛け持ち顧問の担当教科が化学のため、使われていない第二化学準備室を部室として使っている。
その準備室に、毎日と言っていいほどやってくるのが会員でもなんでもない早瀬冬李という男だ。
明るく染めた髪をツーブロックなんてオシャレな髪型にして、高校の入学と同時に開けたらしいピアスの穴には黒のリング型のピアスをはめていて、いつも制服は着崩している、なんともチャラい奴である。
今だって耳をそばだてれば、こちらに向かってきているのだろう冬李のチャラい声が聞こえた。
「だ~か~ら~、俺別にその子と付き合ってないって。遊ぼ~って言われただけで好きなんて言われてないし」
「え~。でも史乃、冬李と付き合ってるって言いふらしてたよ? だから私とも付き合おうよ~」
「恋人は無理だから。ついてくんな」
あーあー、今日も非常におモテになっているようで。
まあ、冬李がモテるのは昔からだけど。
なぜ僕が会員でもない彼について詳しいのか。答えは簡単、冬李が僕の幼なじみだからだ。
冬李が僕のいた小学校に転入してきてからの付き合いだから、かれこれ七年の仲だろうか。
冬李はその頃から完成された顔で、両親はお父さんもお母さんも医療関係者という家系。だからか、周囲がこぞって転入してきたばかりの冬李に近づいた。まあ当時から漫画にしか興味のなかった僕は、大変そうだなぁと気にしつつも特に助けに入ることはしなかったけれど。
冬李も特に誰か特定の友だちをつくっている様子はなかったものの、みんなと適度に仲良くしていたように思う。
それなら大丈夫かと勝手に安心し、僕は心置きなく漫画に集中した。
冬李が転入してきた最初の年は、結局ほとんど話すことなく過ぎた。
それに変化が訪れたのは、翌年――小学五年生になってからだ。周囲が色恋に浮き足立ち始めた頃のことである。
冬李とはまた同じクラスになったけれど、やはり互いに話すことはなかった。冬李はいわゆるカースト上位のグループに所属していて、僕はいつも誰ともつるまず教科書で擬態した漫画を読むぼっちだったから、交わるほうがおかしいというのもある。
けれど、顔のいい冬李がそれこそクラスのほぼ全女子から「好きなのは冬李くん」なんて言われてしまったせいで、冬李の安寧は崩れた。
女子の嫉妬による戦争に巻き込まれ、男子のやっかみによる視線に晒され、冬李は平静を装いつつも確実に心は疲弊していたらしかった。
さすがにかわいそうだなと思い、バレンタインに闘志を燃やす女子たちから逃げていた彼を匿ったのが、僕らのほぼ初めてのコンタクトと言ってもいい。
それから彼は、放課後は僕の家に避難しに来るようになった。そう、避難。
といっても、僕はやはり漫画ばかり読んでいて、特に彼の話し相手をすることもなかったけど。
なのに不思議なことに、冬李にとっては逆にそれがよかったのか、妙に気に入られてしまったのだ。
『おまえ、もしかして学校で読んでるのも漫画だったりする?』
『……まあ』
『マジかよ。休み時間にも教科書読んでる真面目クンかと思ってたのに……ははっ、ヤバ。やるなおまえ』
ヤバイのは君の笑顔だよと教えてあげたかった。女子ならその破壊力に即死してたなと思いながら、僕はやっぱり漫画へ視線を移した。
そうして中学に上がっても変わらず冬李はウチに来て、僕が「早瀬くん」と呼んでいたのが「冬李」に変わるのも案外早かった。
冬李も冬李で、最初から僕のことは名字の「松江」ではなく、「瑞希」と呼び捨てて呼んでいた。まったく、これだからカースト上位は恐ろしい。
それでも、まだ中学までの冬李なら、僕にも付き合いやすい男だったのだ。
高校まで同じところに行くことになり、またよろしくなんて言って別れた卒業式だったけれど、高校の入学式で僕は唖然とした。冬李の頭が光っていたからだ。
いや、これだと語弊があるか。とにかく黒かった髪がどこぞの漫画のヤンキーのように明るく染められ、形の綺麗だった耳にはどこぞの漫画のチャラ男のようにピアスの穴が開いていた。
どうしたのそれ。そう訊ねた僕を、彼は無視した。
ああそうか、これがいわゆるあれかと、僕は察した。そう――高校デビューというやつである。
その高校デビューに、僕のような陰キャは邪魔だったのだろう。
案の定、彼は高校生になってから女子との噂が絶えなくなった。
僕だって人間だ。今までずっと一緒に過ごしてきた友だちがいなくなるのには寂しさを覚えたけれど、それが冬李の望みで、冬李が青春を満喫しているのなら潔く身を引こうと思ったのだ。
だって冬李は、僕の幼なじみだから。内心では悲しんでいても、幼なじみの幸せくらい願ってあげないと。
けど、そんな僕の健気な決意は、結局半年くらいで終わりを告げたと思う。
一年のときはクラスが離れた僕らは、順調に距離を広げていたはずだった。
なのにそれを壊したのは、またしても冬李からのアクションである。
この漫研の部室に、冬李が駆け込んできたのがきっかけだ。本人曰く、女子から逃げてきたらしい。
以来、彼は僕以外のどの会員よりも多く、この部屋に通っている。
今日も今日とて我が物顔で部室にやって来た冬李は、すっかり定位置となっている本棚前のパイプ椅子に座った。
部室は窓とドアを除く壁を本棚で覆われ、部屋の中心に長テーブルとパイプ椅子があるだけの簡素な部屋だ。昔は化学準備室らしく標本やら実験器具やらが置いてあったらしいけれど、今ではその影もない。
僕はいつも窓を背にした椅子に座るので、視界の斜め左に冬李の姿が映る。
「今日は他に誰もいねぇの?」
冬李がテーブルに頬杖をつきながら質問してきた。
僕は漫画のページをめくりながら答える。
「うん。平塚さんも高野くんもバイト」
「そ。じゃあゆっくりできるな」
「ゆっくり?」
たとえ二人がいたって、冬李はいつも勝手にくつろいでいると思っていたので首を傾げた。
「だってさ、平塚の視線、なんか苦手なんだよな。こっちを観察してるみたいでうるさいんだよ」
僕は苦笑する。実はその理由の一部を知っている身としては、どちらかの味方はできない。
「なあ瑞希、俺も漫画読んでいい?」
「いいよ」
冬李はずっと僕と一緒にいたことからわかるように、僕の趣味を一度だって笑ったことはない。
それは、僕の読むものが少女漫画だと知ったときもそうだった。
男にこの趣味がバレると、だいたい馬鹿にされる。だから僕は一人で漫画を読んでいた。
それなら学校で読まなきゃいいと思うだろうけど、僕は別に少女漫画を読む自分を恥ずかしいとは思っていないのだ。ただただちょっかいをかけられるのが煩わしいだけで、それだって僕が何を言われても動じないと気づくや誰も何も言ってこなくなったので、僕は自分の趣味を学校でも大いに楽しんでいる。
ちなみに僕がこんな性格なのは、確実に姉の影響だろう。姉も少女漫画が大好きで、ついには漫画家を夢見るまでになったほど。
そんな姉に「少女漫画は少女だけのものじゃない! 胸のトキメキに男も女も関係ない! 恥じるな!」と散々言い聞かされてきた僕は、漫画に関してだけは謎に心の強い人間になった。
「あのさ、瑞希」
「ん?」
「この薄いのも漫画なのか?」
「薄い? ――ふぁぁあああそれはっ!!」
僕は冬李の手の中にあるものを認めて椅子を倒す勢いで立ち上がった。猫もびっくりの速度で冬李へ駆け寄る。
「それはだめ!」
「なんで?」
ここぞとばかりに身長のアドバンテージを生かし、冬李が件の本を僕から遠ざける。
あまりにも僕が必死になるからか、冬李は興味津々に表紙を見直した。が、表紙には特にタイトルも絵もなく、真っ白な本だ。
問題はその中身である。そしてこれを見られてダメージを受けるのは僕ではない。平塚さんだ。
「冬李、それ平塚さんのだから! 勝手に見ちゃだめ!」
「はあ? なんで平塚のを瑞希が必死に守ってんの?」
どこに怒りのスイッチがあったのか、冬李は舌打ちしながら表紙をめくってしまう。
僕は慌てて自分の目を両手で覆った。実は僕もその中身の詳細は知らない。
僕も見ることは許可されていなくて、でも冬李をモデルにした恋愛ものを描いていることだけは教えてもらっていたのだ。
咄嗟に「見てはいけない」という心理のほうが働き冬李から手を放してしまったけれど、中身を見てしまったはずの冬李からなんの反応も返ってこなくて、僕は恐る恐る目を開けた。
冬李は切れ長の目をこれでもかと開けて、薄い本――平塚さんの同人誌を凝視している。
「……冬李? どうしたの? なんかあった?」
本当の本当は、僕も平塚さんの描いた漫画の内容が気にはなっていたのだ。
女子との噂が絶えない冬李をモデルにした恋愛ものだと言うから、いったいどんなハーレムが築かれているのだろうと盗み見たくなったことは何度かある。
けど、そんなことをして己の所業がバレたとき、平塚さんが漫研を辞めないとも限らない。漫研の廃止は断固阻止したい。
「瑞希はさ、この漫画の内容、知ってたの?」
「え、まあ、少しだけ」
「これ、瑞希も読んでんの?」
「いや、僕も読みたいけどだめって言われてるから」
「読みたいんだ。――じゃあ、抵抗ないってことか?」
「え? なんか言った?」
最後のひと言だけボソボソと呟くようだったから、僕の耳には届かない。
聞き直したら、冬李が急に僕へ視線を下ろしてきた。
「瑞希は少女漫画が好きだよな」
「そうだね」
「だから少女漫画しか読まないと思ってた」
「そうでもないよ。漫研に入ってからは色々読むよ」
「マジかよ……。え? じゃあ俺たちすれ違ってたの?」
「何が?」
さっきから僕には冬李の言うことの一ミリも理解できていない。
平塚さんの漫画の内容を前提に話を進められても、読んでいない僕には前提からしてわからないのだから説明がほしい。
「ねえ冬李、とにかくその本、元の位置に戻して。見たのバレたらまずいから」
「あー、だから俺、平塚の視線苦手だったんだ……お見通しってわけね」
「なんの話?」
「なんのって、これに決まってんじゃん。ほら」
見たのバレたらまずいと言っているのに、冬李は漫画を僕に見せてくる。
そして僕も好奇心には勝てずに、ついつい薄目で見てしまった。
――見なければよかったと、すぐに後悔した。
「な、な、なにこれ!?」
「なにって、内容知ってたんだろ?」
「全部は知らないよ!」
「でもこういうの、読むんだろ?」
「そ、それは……っ」
そこで視線を横に逃がした正直な自分が恨めしい。
漫画は、確かに恋愛ものだった。冬李をモデルにした登場人物もいた。というか名前がそのままだった。
そしてもう一人、名前そのままに出演している男がいた。松江瑞希――僕だ。
しかも漫画に登場する瑞希は、僕によく似た黒髪地味男で、うっすい顔まで似ている。
僕を知る人が見れば、十人中九人はこの登場人物を僕に似ていると言うだろう。
その瑞希と、同じく現実の冬李によく似た顔形の漫画の冬李が、仲良く睦み合っているのである。
「ぼっ、ぼぼぼ僕ら未成年!」
「顔真っ赤」
「こっ、こういうの、違うっ、読まない!」
「でも目逸らしたじゃん」
「僕が読むのは健全なBLだよ!」
思わず叫んでしまったら、冬李がふはっと吹き出した。
「ほら、読むんじゃん」
しまったと思っても後の祭り。いや、でも別にBLを読むことも少女漫画と同じだ。僕は別に恥じだとは思っていない。
ただ、少女漫画と違って、僕には動揺する別の理由があるのだ。
「てことはさ、もしかして瑞希、男同士の抵抗ない系?」
抵抗ない系どころか、ウェルカム系だ。なんて簡単に言えるはずもなく。
「べ、別にBL読む男子が、みんなそうとは限らないから。僕は腐男子なだけだから!」
「ふだんし?」
「BL読む男をそう言うの!」
そんなことも知らない冬李は、間違いなくこの界隈に詳しくないはずだ。そんな冬李に「そうだよ、僕は男の人が好きなんだ」なんてカミングアウトをできようはずもない。
「なんでもいいけど、それで、本当はどっち? 抵抗ない?」
「なっ……い、けど」
「ないの!?」
ああ、嘘が吐けない自分の性格が心底恨めしい。でもなんで冬李は嬉しそうなんだ。
「そっか、ないのか」
このときの冬李の呟きの意味を僕が知るのは、だいぶ経ってからのことである。
それからも、相変わらず冬李は漫研にやってきては暇を潰していく。
しかし少しだけこれまでと変わったのは、冬李の定位置が僕の定位置にもなったことだ。
つまり、僕はなぜか冬李の膝の上に座らされている。
「ねえ冬李、やっぱ読みづらいんだけど」
週に二回来れば多いほうの平塚さんと高野くんは、今日もバイトでいない。
そもそも二人はバイトで稼ぐためにこの活動の少ない漫研に入ってくれたので、参加を無理強いすることはできない。
冬李と二人きりなんてこれまでだって何度もあったというのに、さすがに膝の上に座らされるような状況になれば僕だってドキドキはする。
「瑞希ってさ、この漫画みたいに強気で攻められるの好き?」
「ちょっ、また勝手に平塚さんの持ち出して……! バレても知らないよ」
「大丈夫。本人から許可取った」
「取ったの!?」
驚いた。僕にも高野くんにもあれだけ見せようとしなかった平塚さんが、まさか冬李には許したなんて。
なんだかちょっとだけモヤッとする。
「なんで僕じゃなくて、冬李にはOK出したんだろ」
「は? なにそれ。どっちに嫉妬してんの」
「嫉妬じゃないけど……なんか面白くない」
でも確かに、何が面白くないんだろう。いや、そんなの、あれだけお願いしたのに会員でない冬李に呆気なく見せたことが面白くないに決まっている。
「瑞希って相変わらず拗ねると唇尖らせるよな」
そう言って、冬李が僕の頬を挟むように掴んできた。
「は~、ほっぺやわらか」
「どうせ冬李と違ってシュッとしてないよ」
「なんで。してなくていいよ。このやわ感がいいんじゃん。ここの肉は死守しろよ」
「う、うん?」
あまりに真剣な顔で褒められたものだから、僕は若干引き気味に相槌を打つ。
「で、どうなの瑞希」
「なにが?」
「強引に攻められるの好き? この漫画の瑞希、俺に攻められてめっちゃ喜んでんじゃん」
「それ漫画の話! 僕は別に……っ」
「別に?」
頬を掴んでいた冬李の手が、するりと顎へ移る。
そのままくいっと上を向かされて、後ろから僕を見下ろす冬李の瞳と目が合った。
冬李の瞳の中の僕は、わかりやすく狼狽えていた。
「『これだけ近いと、おまえの綺麗な瞳がよく見える』」
「え、あ」
「『何度この瞳に俺だけが映ればいいのにって思ったか、おまえは知らないだろ?』」
「とぅ、りっ。なんか、近っ……」
だんだん近づく男前な顔を前にして、僕の心臓は少女漫画でよく見るような高鳴り方をした。
ああそうだ。白状しよう。僕が少女漫画が好きな理由。それは自分をヒロインに置き換えて、かっこいいヒーローとの恋に憧れたからだ。
冬李は顔は少女漫画のヒーローにも引けを取らないどころか越えていく顔面レベルを持っている。
それだけじゃなくて、冬李が人の趣味を笑わない、実は結構いい奴だってことも知っている。
ぼっちの僕にも分け隔てなく接してくれるような、噂されているほど酷い奴じゃないことだって知っているんだ。
だから、そんな冬李に近づかれたら意識しないほうが無理なわけで。
「冬李、待って……!」
冬李の顔を両手で押しのけるようにしたら、冬李がすっと離れてくれた。
そして――。
「なんだよ。この漫画の瑞希はドキドキしてくれてんのに、おまえは違うの?」
「はい? 漫画って……も、もしかして今の、漫画に描いてあった、とか?」
「そう」
「セリフ真似たの?」
「真似た。だって――」
「もー! それならそうと言ってよ! 無駄にドキドキしたじゃん!」
「へぇ……ドキドキしたんだ」
僕は慌てて自分の口を塞いだ。余計なことを言ってしまったかもしれない。
すると、冬李が口元を綻ばせて、
「もう遅いって。しっかり聞いたから」
なんて嬉しそうに僕を見てくるから、顔に熱が集まった。
*
俺にとって松江瑞希という男は、初対面の印象なんて覚えてないくらい、最初は存在感の薄い奴だった。
親の仕事の都合で転勤した先の小学校で知り合い、しばらくは特に交流もしなかった。
そんな瑞希をはっきりと認識したのは、高学年になってからだ。やたらと女子から騒がれ、男子から敵意を向けられるようになり、俺にとって学校がただの煩わしい場所になりつつあったとき、ふと、いつも自分の席で熱心に教科書を読んでいる男がいることに気がついた。
そういえば去年も同じクラスだったなと思い出し、瑞希からは一度だってやっかみも好意も向けられたことがないなとも思い返す。
そうして一度意識してしまえば、今までのように無関心ではいられなくて。まず思ったのが、なんでそんなに熱心に教科書を読んでいるんだろうということだった。
俺は頭の固い真面目クンは苦手だ。これは完全に八つ当たりだが、俺の父さんがまさにそれで、融通の利かなさには辟易するときがある。成績がよければ塾なんて通う必要もないだろうに、塾に通うことをステータスとして見ているのか、嫌がる俺を無理やり入塾させた。
あの頃は、瑞希も父さんと同じ人種なのかなと、少し苦手に思っていた。
その印象が覆ったのが、バレンタインの日である。
学校にお菓子の持ち込みは禁止されているはずなのに、勇敢にも持ち込む女子たち。
俺は呆れた。それを渡そうとしてくる女子たちに。だってそれを受け取ったら俺、共犯にされるじゃん。俺をやっかむ男子に教師へ告げ口なんてされたらたまったもんじゃない。
しかもそれが親にも伝わろうものなら、俺はバレンタインという日を一生恨むだろう。
だからなんとか女子から逃げきり、やっと帰宅できたと思ったのに、女子の行動力は恐ろしいことに家の前で待ち伏せされていた。
もう学校じゃないし受け取ればいいだろって? 馬鹿か。受け取れるわけがない。学校で散々逃げたのだ。ここでその女子からもらってしまったら、明日には確実に俺の好きな女子が名前も知らない彼女になっている。
どうしたものかと見つからないよう踵を返そうとした俺に、救いの手が差し伸べられた。それが瑞希だった。
瑞希の家は割と近く、俺の家の三つ隣がそうだった。
これまでほとんど話したこともない俺を助けるなんて意外とお人好しなのか? と考えながらついていくと、瑞希は俺にお茶を出して「自由にしてくれていいよ」と言ったあと、自分は漫画に夢中になっていた。これにはさすがにびっくりしたのを覚えている。ここまで放置されたのは初めてだったから。
でもその気楽な感じが妙に安心できて、俺はこの日から、瑞希の家を避難場所として認定したのだ。
そのとき知ったのが、瑞希が教室で読んでいたのが実は漫画だったということと、瑞希は見た目詐欺で全く真面目じゃないってことと、あまり表立って行動しないからわかりにくいけど本当は優しいってこと。
瑞希の家に避難――という名の遊びに行くようになって気づいたのは、瑞希は意外と周りを見ていて、さりげなく誰かを助けているということだ。
たとえば誰かが消しゴムを忘れて困っているとき、一番に気づくのは瑞希だ。そして恩着せがましくなく自分のを貸している。
体調の悪そうなクラスメイトを見つければ、自分が体調を悪いことにしてそいつを保健室への付き添い人に指名する。結局教室に戻ってきたのは瑞希だけで、でも誰もそんなことをいちいち気に留めたりはしない。
まるで影のヒーローのようで、俺は瑞希をすぐに気に入った。
瑞希とはずっと友だちでいたいと思うようになった。
だから、
『冬李って、かっこいい名前だよね。僕も冬李って呼んでいい?』
瑞希のほうからそう言ってくれたとき、俺はかつてないほど興奮した。
『呼んで! 俺たち親友だし!』
『わっ、テンションたか。僕たちって親友なの?』
『え、違うの?』
『いや、幼なじみかなって思ってた』
『それもいいな。じゃあ幼なじみ兼、親友で』
『冬李が親友かぁ』
『なんだよ、不満?』
『そうじゃなくて。僕釣り合ってなくない?』
『は? 釣り合うとか合わないとか知らないから。俺は瑞希がいい』
『そう? じゃあ、これからもよろしくね、親友』
『おう、よろしく』
――な~んて、今思えばクソ恥ずかしいやり取りだけど、当時の俺はめちゃくちゃ浮かれたのだ。だって親友って、特別だろ? 俺が瑞希の特別って最高すぎる響きだと思わないか。
でも、俺がそう浮かれていられたのは、中学までだった。
中学の卒業式で、俺ももちろん何人かから告白されたけど、まさかの瑞希が告白されている場面に出くわしてしまい、俺の頭は真っ白になった。
いや、瑞希が告白されるのはわかる。俺よりはるかにいい奴だから。瑞希に告った女子はマジで見る目あると思う。
でも、なぜかそれを喜べない俺。
気づいてしまったのだ。たとえ俺が瑞希の親友という立場をもらったとしても、瑞希の〝恋人〟という最強の存在には負けてしまうということに。
そして、瑞希と同じ男である俺が、その座につけることはないということに――。
気づいてしまえばもう、俺はあっというまに転落した。
自分の性的指向も確認したくて、告ってきた女子と片っ端から付き合ってみた。
結論、どうやら俺は女子とも付き合えるらしいことがわかった。でも本当の意味で心が動いたのは瑞希だけだった。
半年かけてそれを思い知らされ、結局瑞希不足で瑞希を求めて漫研に入り浸る日々。瑞希は卒業式に告ってきた女子とは付き合わなかったみたいだけど、俺がそれを知っているのは探りを入れた女子からもらった情報のおかげである。
つまり、瑞希は自分が告白されたことすら俺に言ってくれなかったのだ。
それが思った以上にショックで、もうどうすればいいのかわからない悶々とした毎日を過ごした。
俺は瑞希の恋人になれないのだと思うたびムカついて悔しくてイライラして、その鬱憤を遊んで晴らす。
女子はずるい。なぜなら女子というだけで、瑞希の恋人になれる可能性を秘めているから。
そんな俺の行き場のない想いを、どうやら漫研の女子会員である平塚が気づいてしまったようだった。
たまたま手に取った漫画は平塚が描いたものだという。
そこには俺と瑞希が、俺がずっと渇望してやまない関係性で、ずっと夢見ている濃厚な日々を過ごしていた。
だから漫画を読んだ俺が最初に思ったのは――「クッソ羨ましい」である。
俺はずっと我慢しているというのに、漫画の中の俺は瑞希のかわいらしい唇を好き勝手に貪っていて、羨ましいやらムカつくやらで情緒がおかしなことになった。
でもその漫画のおかげで、瑞希が男同士の恋愛に抵抗がないことを知れたのは僥倖どころか天にも昇る気持ちだった。
そしてその日、俺は決意した。
――だったらもう、あとは落とすだけじゃね?
可能性があるとわかった俺は強い。
彼女はいなかったけれど誘われれば遊んでいた女子たちにもう遊べない連絡を入れて連絡先を削除。
平塚の許へ行き勝手に漫画を見たことの謝罪と協力を土下座して頼み込む。
『勝手に見たのは悪かった。ごめん。ごめんついでに、まだ読ませてほしい』
『わー、イケメンの土下座貴重。まあ私も勝手にモデルにしたし、そこはおあいこで。それより、まだ読みたいのはなんで?』
女子というのは、こういう恋愛事に関する勘がよすぎて怖い。
平塚もこのとき必死な俺から何かの勘が働いたらしく、嘘や誤魔化しは許さないと言わんばかりに攻めてきた。
俺はため息をついてから、
『参考に、したいから』
仕方なく白状した。
『参考? まあ松江っちが攻められると弱いのは間違いないだろうけど』
『やっぱあれ、本人参考にしてるんだな!?』
『食いつきよすぎて草』
『瑞希が振り向いてくれるなら俺のプライドなんかどうでもいい』
『あの女泣かせの早瀬がすごいね。そんなに惚れ込んでるの?』
『当たり前だろ。瑞希はもう存在が癒やしなんだよ。マイナスイオン出てる。マジかわいい。あの純朴さもいい。絶対恋愛経験少ないだろうから俺が全部教えてやりたいし俺色に染めたい』
『わかる。純朴な子がどんどん開花していって大胆になっていくのは控えめに言っておいしい』
『そうなんだよ! 俺の前でだけ大胆な瑞希――ってやめろ! 俺の瑞希で想像すんな!』
『想像した結集があなたが読みたいと言ってるやつなんですがね』
平塚はなかなかいい性格をした女子だった。
けど話のわかる女子でもあった。
『わかった。いいよ、参考にしても』
『マジで!?』
『その代わり、うまくいったあかつきには詳細を報告すること。あと、そのときは続き描きたい。もっと二人のイチャラブを描きたい』
俺はすっと右手を差し出した。
『任せろ。そのときは今後も参考にできそうなすごいのをよろしく頼む』
平塚も悪い顔で右手を出し、俺たちは二人で頷き合ったのだった。
裏でそんな取り引きがなされたことに微塵も気づかない瑞希は、今日も俺の膝の上に座らされて、平塚の描いた漫画みたいに赤い顔で俺を見上げてくる。
「『りんごみたいでかわいいね。俺が触れたから赤いの?』」
「ね、冬李。いつまで続けるの、それ」
「それって?」
「その、漫画ごっこ? 的な?」
「ドキドキしない?」
「すっ……る」
きっと否定したいのに、瑞希は素直だからできないのだろう。そんな純粋さが尊くて仕方ない。
「じゃあいいじゃん。嫌じゃないなら」
「嫌ではないけど、意味がわからないっていうか……!」
そりゃあ瑞希からすればそうだ。俺が何をしたいか理解できないのは、俺にまだ気持ちを伝える勇気がないせいだ。
瑞希が男同士の恋愛に抵抗がないと最近知ったばかりなのに、焦って気持ち悪がられるのはまずい。だからまずは感触を確かめているのだが、瑞希はなんでも受け入れてくれるから逆にいいのかだめなのかわからなくなってきているのが現状である。
(もうキスするか? これはさすがに嫌なら拒絶するよな?)
でも、瑞希に拒絶されるところを想像してしまった瞬間、息がぐっと詰まった。
まずい。想像だけで窒息しそうなのは色々と終わってると思う。
キスは手っ取り早く瑞希の心を覗けそうだけど、あまりにも俺に対して諸刃の剣すぎる。もしこれで拒絶されて、親友にも幼なじみにも、ましてや友だちにさえ戻れなくなったら、俺は確実に呼吸困難になる自信がある。
「だめだ。やっぱ無理。おまえが俺から離れてくなんて耐えられない」
瑞希の首元に顔を埋めた。
「ちょっ、それも漫画にあるセリフ? どういうセリフのチョイスなのさ……!」
今のは漫画じゃなくて本心からの言葉だったが、どうやら瑞希は勘違いしたらしい。助かったのか、残念なのか。
でも呆れながらも頬をほんのりと染めている瑞希に俺のほうがドキドキさせられている。瑞希よ、なんでここで頬を染めるんだ。期待するじゃないか。
(もうこれは脈ありと見ていいのか? どっか漫画にないかな、キス以外で判定できる方法)
しかしどれだけページをめくってみても描かれていない。というかこの漫画、最初から思ってたけどイチャイチャしすぎじゃない? 本当に俺と瑞希をモデルにしてるんだよな? ちゃんと現実の俺たち見て描いてる? 雲泥の差じゃない?
「俺だって瑞希とキスしたいのに……」
「え!?」
「……え?」
おい待て。俺今なに言った? 何を口から滑らせた?
「……あ! い、今のもあれだよね、漫画のセリフなんだよね! 名前一緒だとややこしいよねあはは……!」
瑞希の顔が茹だったカニよりも赤くなっているのは卑怯だろ。だって俺、今キスしたいって言ったよな? 俺にキスしたいって言われてそんな顔になってんの?
「瑞希」
「な、なに」
「キス、したい、です」
はい調子に乗った。今の俺は誰がどう見ても調子に乗ってる。
でもこの流れで言えなかったらもう俺一生言えないよ、こんな言葉。
俺の膝の上にいる瑞希が、テーブルに両肘をついて自分の顔を覆った。これはどっちだ。拒絶か。それとも照れているのか。
気持ち悪いと言われなくても瑞希の口から「冗談やめてよ」みたいなことを言われる前に、「これも実は漫画のセリフでした~」と誤魔化すべきか。
ひよった俺が漫画のせいにしようとしたとき。
「あの、さ」
瑞希のほうが先に口を開いた。
「もう隠せそうにないから言うんだけど、今の、漫画には、ないよね?」
「……え?」
「その、ごめん! 実は僕も漫画、読ませてもらったんだ」
「……は?」
「だ、だって、僕ばっかりドキドキさせられて悔しいから、僕もなんか反撃できないかなって……! だからその、漫画に今の冬李のセリフがないの、僕、本当は知ってる……」
「――!」
俺の顔から血の気が引いていく。まさか逃げ道を塞がれるなんて思ってもみなかった。
(平塚、あいつ……!)
俺の荒ぶる内心なんてお構いなしに、瑞希が赤い顔のまま振り向いてきた。
「だから、いい、よ」
「………………ん?」
だから、いいよ?
その意味を咀嚼するのに数分を要した。そしてようやく理解できた俺は、膝に瑞希が乗っているにもかかわらず危うく立ち上がりかける。
「えっ。え!? いい!? 何が!?」
信じられない。今のは聞き間違いか? と自分の耳を疑おうとしたけど聞き間違いのせいにしていっそキスするのもありなのではという思考回路になって、ごくりと唾を飲み込む。
「瑞希、本当に?」
「……いいよ。言っとくけど、僕、そんなに鈍くないから。最近やたらと漫画ごっこしてくるの、そういうこと、なんだよね? だって二人きりのときにしかしてこないし。やたらと目が優しいし」
瑞希の明察ぶりに俺の心臓が色んな意味で暴れ出す。
「でも! こ、これが遊びだったら、許さないからね」
途端に泣きそうな顔で声を震わせた瑞希に、俺は反射的に叫んでしまった。
「んなわけあるか! 俺がどれだけ瑞希と付き合いたいと思ってたかわかる!? 意識してもらうために漫画の真似だってしてんだよこっちは! じゃなきゃあんなクソ恥ずかしいこと誰がするかよ!」
瑞希が口を開けてぽかんとしている。そんな間抜けな表情すらかわいいとか反則すぎる。
「いや、瑞希が疑うのも俺のせいだってわかるけど。でも、遊びで親友に手ぇ出さないよ、俺。あんな必死に漫画のキャラだって演じないし」
勢い余って告白もどきをしてしまい、遅れて羞恥心が頭に上ってきた。
それを隠そうとして瑞希の肩に頭を預けたら、瑞希から小さく吹き出す声が聞こえてくる。
「確かに、それはそう」
「だ、だろ?」
「じゃあさ、僕ら、恋人にも、なれる?」
「な、なれる! なりたい!」
「僕、冬李のこと、恋愛の意味で好きだと思うんだけど」
「俺も好き!」
そう言って、「ちょっと待って」と俺は膝の上の瑞希を自分の方へ身体ごと反転させた。
「目を見て言わせて。あ、あとスマホ、見て」
「?」
俺はLINEの画面を呼び出すと、トーク一覧を開いて瑞希の方へ画面を向ける。
「俺には瑞希しかいないっての、見て。マジで好き。俺を瑞希の恋人にしてください」
恥ずかしさを押して告白すると、俺のスマホを見て驚いた瑞希が画面に触れる。
スクロールする必要もないトーク一覧に、瑞希が困惑していた。
「ね、さすがに少なくない? 『ババア』と『クソジジイ』と僕とのトークしかないよ」
「瑞希が男いけるって聞いて、絶対落とすって決めたから」
「……決めたから?」
「瑞希以外は要らないなって、消した。まあさすがに親のは残したけど」
「親は消しちゃだめだよ!?」
「な、これで俺の本気、伝わった?」
「そ、そうだね。予想以上にね」
若干瑞希の頬が引きつっているように見えたのは、たぶん気のせいだろう。
手に入らないと思っていた瑞希の恋人の座につけたことが嬉しすぎて、俺は瑞希を力いっぱい抱きしめた。
恋愛には疎いだろうと思っていた瑞希の意外と勘の鋭いところに、俺は助けられたらしい。
そんな瑞希がやっぱり最高で、俺にとって代わりなんていない、たった一人の幼なじみで親友で――今日からは恋人だ。


