「遠野のことが好きなんだ」


 入学してすぐに任された学校の花壇。
 茹だるような夏もせっせと通い花たちを愛でてきた。実家が花屋という理由で押し付けられたも同然だが、遠野(とおの)にとっては寧ろ好都合だった。

 今はコスモスやシュウメイギク、サルビアなどが満開を迎え心地よい秋の風が吹いている。
今日も普段通り、平和に花壇の世話をして一日を終えるはずだった。

 なのに今、どうして俺は全校生徒から人気を集める彼__生徒会長である七瀬碧(ななせあおい)に告白されているのだろう。
 くっきりとした二重幅に、さらりとしたストレートの黒髪。制服は着崩さず、紺色のブレザーと寒色系ベースのチェックパンツにきっちり黒のローファーを合わせている。間近で見るとクラスメイトの女子たちが、七瀬先輩を見て騒ぐ理由がよく分かった。
 骨格から一般人のそれとは違う。長い手足に高い身長、なのに顔は驚くほど小さく鼻はきゅっと形がいい。薄い唇はいつ見ても乾燥しておらず、その口から発せられる声は全校朝礼でも際立っている。
 加えて成績優秀、運動神経抜群と神から愛された存在の彼が、どうしてなんの変哲もない一年生に告白するのだろう。二年生から見た一年生など、ガキくせえと一蹴される存在じゃないのか。

 ちらりと会長を盗み見すると、その美しい顔を綻ばせた。
「なに、その可愛い顔」
「‥‥か、可愛いですか?」
「うん、遠野は入学当初からずっと可愛いよ。いつもこうして二人きりで話したいと思ってた。でも会長になるまでは話しかけないって決めてたんだ」
 ますます頭の中にはてなマークが増えてゆく。そもそも会長と話した記憶がない。
「あの、誰かと勘違いしてませんか?」
「勘違い?」
「だって、会長が俺なんかを好きだなんてどうしても信じられなくて‥‥」
 冴えないうえに周囲に心を開けず、植物との対話ばかりを重ねている自分と彼の世界が交わるとはやはり到底思えない。
「ねえ、遠野」
 じりじりと会長が近づいてくる。一歩、一歩とゆっくり近づいてくるのが怖くて同じペースで後ろに下がる。
 
 だが、とん、と背中が校舎に触れた。
 もう逃げられない。
「俺なんかって言わないで、遠野は遠野でいるからいいんだよ。可愛いし、すごく好きだ。だからもう言わないって約束して?」
 すっと差し出された細長い小指。ゆびきりげんまんをしようというのだろうか。
「遠野はいい子だから出来るよね」
 先日、選挙の時に見た作り笑顔を貼り付けた会長の圧に負けた。美形の作り笑いほど怖いものはない。
「はい‥‥」
「ん、いい子」
 くしゃりと頭を撫でられる。
 会長の美形に耐えきれず、さっと目を逸らした。
「あ、目逸らした」
「先輩は自分の顔がいいことを自覚してください」
「ふうん、俺のことかっこいいって思ってるんだ?」
 にやりと彼が笑う。ああそうだ。同性だと理解していても、廊下ですれ違ったら目で追ってしまうくらい美しい顔だ。だからこそ見つめられるのも、至近距離で話すのもきつい。
 美は時にして暴力になるのだと学んだ。
「お、思ってません!」
 ついムキになって言い返してしまった。
 はっと口に手を添えて会長を見ると、楽しそうににこにこ笑っている。
「怒ってる遠野を初めて見れたから嬉しくて、つい。それで、遠野のこと好きなんだけど付き合ってくれる?」
 ふっと柔らかく笑う彼に、どきりと心臓が跳ねた。
 だがしかし、なんの波風も立てず遠野は学校生活を終えたい。
「ごめんなさい、お断りさせていただきます」
 さっと頭を下げる。しばらく沈黙が流れ、恐る恐る顔を上げた。
「‥‥うん、それでもいいよ。今は」
 すっと手を取られ、手の甲にキスを落とされる。
 するりと指が絡まり、きゅっと片手を恋人繋ぎで握られた。
「絶対に惚れさせるから」
 みんなの憧れである生徒会長の知られざる面を知ってしまった日だった。



 次の日の朝、スマホを開くと珍しくメッセージアプリに通知が来ていた。
 不思議に思い、寝ぼけた頭で確認してみると会長からメッセージが届いている。
 一瞬驚きすぎて、スマホをベッドから落としそうになった。
 なんで会長が俺に「おはよう。今日も会えるのが楽しみだよ」とか送ってくるんだ?

 困惑していると、帰り際のことを思い出した。
「そういえば、会長とアカウント交換したんだっけ」
__今ここで交換してくれないのならクラスまで聞きに行くけど、どうする?
 くすりと笑いながら七瀬はスマホをひらひらと振った。
 教室まで来て話しかけられたら、大小問わずどよめきが起こるに違いない。
「なんであいつが会長と話してるんだ」とひそひそ噂されるのが嫌で、渋々交換したのだ。
 家族と幼馴染、ほとんど連絡も取らない中学生時代の友人数人、そして公式アカウント以外に誰かを追加するのは久しぶりだ。
 高校生になってからは初めてかもしれない。
 見慣れた名前の中で、会長のアカウントだけが浮いて見える。
 七瀬碧。なんて綺麗な文字の並びなんだろう。

__遠野のことが好きなんだ。

 ふと、昨日言われたことを思い出し、顔に熱が集まる。がばっともう一度布団を被り、中で丸まった。
 もし今日会ったら、どんな顔をしたらいいんだろう。心臓の音がどんどん速くなる。
 心が乱されるなら会いたくない。会いたくないのに、少しだけ話したいような気もする。
 ぴた、と一瞬思考が止まる。
 少しだけ話したいってなんだ。
 そりゃあ、どうして好きなのかとか、可愛いってどういうことだろうとか気になるけど。
 朝は学校に行きたくないと考えてばかりだったのに、誰かのことを家で考えるなんて初めてだった。
 思考を止めたくて無理矢理体を起こす。
 母親が用意してくれたトーストと野菜スープを飲み干し、顔を洗って歯を磨く。
 いつものろのろと着替えるが、今日はさっと制服を着て家を出た。 

「おはよう」
 同じ高校に通う幼馴染__長谷川悠希(はせがわゆうき)に挨拶すると「来るの早いな」と驚かれた。
 身長が急に伸び、春の身体測定で一七五センチを超えたらしい。遠野は七瀬といい長谷川といい見下ろされてばかりだ。
 最近女子たちからの人気が上昇中の長谷川といるだけで怪訝な顔をされる。
 やっぱり七瀬とは極力関わりたくない。
「なんかあった? さっきから溜息吐いてるけど」
「な、なにもないよ」
 ぎくり。肩が跳ねる。保育園の頃から一緒の彼に隠し事は難しい。
「嘘つき。顔にありましたって書いてある。なに、俺に言えないこと?」
 信号待ちで顔を覗かれ、さっと顔を逸らした。確かにありましたと匂わせてしまっている。
 だが、長谷川に話すと過保護に心配されそうでまだ話したくない。
「大丈夫だって。悠希は昔から心配性すぎるよ」
(はるか)以外にはこんなに心配してない。遥は変なのに目をつけられやすいんだよ」
 はて、変なのとはなんだろう。イマイチ幼馴染の考えが読めず顔をしかめる。

 信号が青に変わり歩き出すと、後ろから肩を叩かれた。
「遠野、おはよう。学校まで一緒に行こう」
「かっ、会長。おはようございます」
 さあっと顔が青ざめる。なんで会長が話しかけてくるんだ、といいたげな長谷川の視線が痛い。
「なんでメッセージ返してくれないの? 既読スルーは傷つくなあ」
 全く傷ついていないような顔で、さらりと問題発言を投下される。
「す、すみません。なんで返したらいいか迷ってたら家を出る時間になっちゃって」
 嘘ではないが、本当でもない。返信のことなど考える余裕がなかった。ちらりと隣の幼馴染を見ると、怖い顔をしている。
 教室に着いたら絶対質問攻めに合うやつだ。
 遠野は早速バレてしまい、遠くの空を見つめた。
「俺のこと考えてくれてたんだ? 嬉しいな。そうだ、よければ今日一緒にお昼食べようよ」
「昼休み忙しくないんですか? 生徒会の人はみんな昼休みも生徒会室で作業してるイメージなんですが」
「まあそれなりにやることはあるね。文化祭もあるし。だから遠野が生徒会室に来てくれると嬉しいんだけど、気まずい? 今日は俺以外誰も昼は来ない予定ではあるよ」
「ねっ!」とウインクされたが、行けるはずがない。
 生徒会室など縁もゆかりもない場所に「会長に呼ばれたから来ちゃいました」と乗り込めるメンタルを遠野は持ち合わせていない。
 困ってしまい、長谷川に目線で助けを求める。
 仕方ないといいたげにわざとらしく溜息を吐いてから、彼は会話に割り込んできた。
「あの、話進んでる中悪いんですけど遙はいつも俺と昼飯食べてるんで。会長忙しそうですし、こいつに構ってる暇無さそうですけど」
 ぶすっと感じ悪く突き放す。幼い頃から長谷川のサバサバとした強さに憧れてきた。だが、今は不穏な空気にはらはらする。
 悠希、頼むから会長を怒らせたりはしないでくれ。
 内心とても心配していると、大きな目をさらに大きく広げ、七瀬は驚きを隠さない。
 だが、すぐに穏やかな表情を浮かべた。
「君は確か遠野の幼馴染だよね。長谷川悠希くんだったかな」
「は? なんで俺の名前知ってるんですか」
「遠野が好きだからかな」
 それ言うんだ、全然照れずに言っちゃうんだ。さらりと溢れた好きに遠野も長谷川も足を止めた。
「会長、遙のこと好きなんですか」
「うん。昨日告白もしたよ。でもまだオッケー貰えてなくてさ」
「七瀬会長、周りの視線が痛すぎます。声のボリューム落としてください」
 通学路のため、もちろん他の生徒も多くいる。
 周りがざわつき始めた。
 ところどころで「会長が誰かに告白したって聞こえなかった?」と話す声が聞こえる。
 注目されることに慣れているのか、七瀬は涼しい態度を崩さない。
 長谷川は明らかに面倒くさい感情を隠さない。どんどん顔が渋くなってゆく。
「とりあえず、今日の昼休みは三人で食べませんか」
「俺はいいけど、遠野はどう?」
「それでお願いします」
 これ以上通学路でこの話を進めるのは危険だと感じた。学校までの残り短い道は、授業やクラスについて話して乗り切る。

 七瀬とは玄関で別れた。無事教室に着き、自身の席に着くと一気に疲れに襲われる。だらりと手を投げ出して突っ伏した。
「だから言ったろ、遙は変なのに目をつけられるって」
 頭上から振る長谷川の文句にも、反論する気力すらない。
 授業が始まっても上の空で受け続けた。
 窓の外には絵の具で色付けたような青空が広がっている。気持ちのいい秋晴れと対照的に、遠野の気持ちはどんよりと沈んでいた。



 結局昼休みは生徒会室に集まることになってしまった。長谷川は職員室に用事があるらしく、先に向かう。 緊張しながら生徒会室の扉を開けると、すでに七瀬は自分の席に座っていた。
 その姿は紛れもなく生徒会長で、本来感じる緊張感が増した。全校生徒から選ばれた責任を全うする姿は、一学年しか違わないのに随分大人に見える。
「長谷川くんは?」
「悠希は先生に用があるみたいで遅れてきます」
「俺としてはラッキーだけど、遠野は一緒に来たかったでしょ」
 思考が透けているらしい。
 ほらね、と七瀬が笑う。
「俺と話すのは緊張する?」
「正直しますね」
「そっか。本当は二人きりでたくさん話せるようになりたいんだけどな」 
 そっと七瀬が近づいてくると、生徒会室の扉ががらりと音を立てて開いた。
「俺が許可しません」
 入ってきた長谷川に腕を引かれ、縮まった距離がまた離れた。
「悠希、もう用事はいいの?」
「急いで終わらせてきた。会長と二人きりにしたらろくなことが無いだろ」
「酷いな。ただ仲良くなりたいだけなんだけど」
「そんな下心まみれの仲良くなりたいを信用できません」
 バチバチと二人の間で目に見えない火花が散る。なんとか空気を変えようと一旦昼食を摂ろうと提案した。
 二人は遠野の真ん中にし、渋々座る。
 おい、なんで俺が真ん中なんだ。どっちかは反対側に座ろうよ。
 広い部屋の中で横並びに三人座るのはおかしいと、遠野は席を変えようとする。
 すると両サイドから腕を掴まれた。
「遠野はそこにいて。俺が反対側に移動するよ」
 七瀬が遠野の前に座り、歪な三角形が出来上がった。 
 とりあえず気にしないで弁当を食べ始めると、七瀬がにこにこしながら見つめてくる。
「遠野は好きなものを後に残す派なんだね」
「なんで分かったんですか?」
「ハンバーグとか、唐揚げとか美味しそうなものばっかり残してるから」
「そういう会長は先に食べる派ですか? サンドイッチも迷わずたまごを選んでましたし」
「え〜バレた? よく見てるね」
 きゃっきゃと盛り上がっていると、長谷川は苦虫を潰したような表情を浮かべる。
「なにその会話。女子か」
「長谷川くん、もしかして嫉妬してる?」
「しませんよ、会話くらいで。俺は毎朝一緒に登校して、クラスも一緒なんですよ。毎日どんだけ遙と話してると思ってるんですか」
 ふん、と長谷川は鼻を鳴らす。遠野は小競り合いをスルーして弁当を食べ進めた。
「俺聞きましたよ、会長が三年の菅原さんに告白されたって。菅原さんっていったら、この学校を代表する美人ですよね」
 ミニトマトを口に運ぶ長谷川。話題に上がった三年生の名前は、噂話に疎い遠野ですら聞いたことがある。
 移動教室中にすれ違ったこともあるが、日本人離れしたはっきりとした顔立ちの美人だ。
 付き合ったら校内中にすぐ知れ渡るほどのビックカップルになるだろう。
「もう話出回ってるんだ。俺が遠野に告白した話も早く広まらないかな」
「会長! 冗談でもまずいです」
 がたん、と音を立てて立ち上がってしまった。
 だが、事が知られれば最悪の場合女子たちからいじめられるかもしれない。いや、まずその前に一気に注目を浴びることは確定している。
 あと卒業まで二年もあるのに、耐えられる気がしない。

「遠野の気持ちも分かってるよ。俺と付き合ったなんて広まれば知らないやつからも恨みを買う可能性もある。けど、悪い虫がつかないか心配なんだ」
 熱を帯びた瞳と視線が交わり、どきりと心臓が跳ねた。昨日から何度も実感する。
__会長は、本気で俺のことが好きなんだ。

「申し訳ないですけど、俺からしたら会長が悪い虫です」
 悪態をつく長谷川にも七瀬は柔和な態度を崩さない。
「君はどうしたら付き合うことを許してくれるのかな」
 おねが〜いとぶりっ子しながら手を合わせる姿は、凛々しさの欠片もなく少しだけ可愛い。
 七瀬先輩は顔が良いからこうやって許されてきたんだろうな。
 彼には特別な愛嬌がある。人目を惹きやすいのは、ルックスの美しさだけではない。
「だって君ら付き合ってるわけじゃないんだろ。長谷川くんは遠野に恋愛感情を抱いてるわけ?」
 にやりと悪い顔をして会長が聞くと、長谷川は耳を赤く染めて立ち上がった。
「お、俺は幼馴染として遙には幸せになってほしいんです。ただ、それだけで‥‥っ」
「へえ、可愛いところあるじゃん」
 楽しそうに瞳を細めた七瀬を見て、なぜか胸がもやついた。初めての感覚はすぐに消えることなく腹の中に溜まってゆく。
「可愛いとか、馬鹿にしてますよね」
「してないよ。本気で認めて欲しいし、付き合いたいと思ってる」
「だったら理由を話してください。人気者な会長が遙にこだわるわけはなんですか」
「悠希やめなよ。声も大きいし」
「遙も気になってるだろ。逆に聞くけど、好きな理由も知らないまま付き合えるのか?」
 鋭い質問に冷や汗をかく。完全に答えはノーだ。
 だからといって「俺のどこが好きなんですか?」とは聞けなかった。
 会長と親密になるのは怖い。どれほどの人数が彼の隣を狙っているのかと考えると目眩がする。
「そりゃ、付き合えないけど‥‥」
 重たい空気の中だが、やはり七瀬はすんとしている。彼は長い人差し指を唇に当てた。
「理由を話すなら、最初は遠野と二人きりじゃないとね」
 にっこりと笑っているのに、何故か圧を感じた。
「逃さないから」という心の声が聞こえた気がする。
 直感が叫んでいた。いつか七瀬は特別になる気がする。でも今は、気がつかないふりをしていたい。



 結局長谷川は七瀬が理由を話さないので納得せず、告白も一旦保留のまま日常は流れていった。
 相変わらず七瀬は「好き」だの「付き合ってくれ」だの花壇で作業しているとよく言いにくる。
 通学路で顔を合わせるのが当たり前になり、三人で登校することも増えた。
 初めは嫌がっていた長谷川もなんだかんだで七瀬とよく言葉を交わし、なんなら懐いている気もする。
 二人が話しているのを見ると、やはり少しずつだがもやもやが溜まってゆく。
 だからだろうか。冷たい言葉を投げてくる生徒にも怒るに怒れない。

 七瀬と関わるようになってから遠野への風当たりは目に見えてさらに強くなった。
 クラスのリーダー格である女子には「どうやって遠野くんが会長と仲良くなったの?」と初めて話しかけられ、返答に困ると最後にゴミを見るような目で見られた。
 口角が上がっているのに、目の奥が奥が笑っていなく寒気がする。陽キャの女子ってやっぱり怖い。
 小学生の頃からヒエラルキーの頂点に君臨する女子たちが苦手だ。
 おおかた「てめえみたいな冴えないやつが七瀬会長と話してんじゃねえよ」とか思われているのだろう。
 予想はしていたことだが、実際にそういった感情を向けられているかもしれないと考えると心が軋む。
 かと言って、これ以上関わらないでくれと七瀬を突き放すこともできない。
 彼に話しかけられると、ほっと安心してグレーだった世界に花が咲く。
 微笑んだ七瀬の横顔を眺めていたいという衝動に駆られることが増えた。
 彼のことがもっと知りたくて、近づきたい。
 遠野は、ぽっと咲くように訪れた心境の変化をどう扱っていいのかまだ分からない。



「あ、また上の空だ。気がついてる? 遠野、最近溜息が増えてるよ」
 今日は会長に呼ばれ、屋上で昼休みを共に過ごしている。長谷川は男子バレー部の集まりがあり、残念ながら不在だ。
 早々に弁当を食べ終えると、七瀬はブレザーが汚れることも気にせず、ごろんと寝転がって空を見ていた。
 だが、だらだらと食べるのが遅い様子を心配してくれていたらしい。
 さすが成績優秀でスポーツ万能な優等生である。
 周囲の変化にも抜かりなく気がつくのだろう。
 対して遠野は勘づかれていたことに驚き、咄嗟に作り笑いを浮かべた。
「大丈夫です、気にしないでください」
「‥‥遠野は分かってないなあ」
 さっと起き上がった七瀬の片手が遠野の頬に添えられる。咄嗟にキスされるかもしれないと危惧し、目を強く瞑った。
「へえ、キスされると思ったんだ?」
 水分量の多い声が、耳元で意地悪に発される。
 気がついてても言葉にしないでほしい。七瀬は普段とても優しいのに、二人きりでいるとたまにこうして意地の悪いことを言う。
「‥‥会長が、紛らわしいことするからです」
 ぱっと顔を逸らすと、顎を掴まれてまた視線が交わる。
「好きな子のこと心配するのも、いじめちゃうのも、遠野は本当に分かんない?」
 穏やかだった空気が途端に甘く変わり、急に緊張してきた。これまで何度も好きをスルーしてきたが、あと何回出来るだろう。遠野は長く知らないふりをできる自信がない。
「なんで、会長は」
__俺のこと好きなんですか。
 そう声に出かかった時だった。
 きんと響く声で、七瀬が背後から呼ばれる。
「七瀬くん、ちょっといいかな」
 声の主は先日会長に告白したと話題の菅原だった。 
 鬼気迫る様子で近づいてくる。つんと釣り上がった瞳が怖く、咄嗟に遠野は七瀬と距離をとった。
「菅原先輩、どうしました?」
 べったりと作り笑顔を貼り付けた七瀬だが、明らかに普段より声が低い。
 遠野との時間を邪魔されて機嫌が悪くなっている。
「私、ありえない話聞いたんだけど」
「ありえない話?」
 菅原はぎろりと遠野を睨む。蛇に睨まれた蛙の如く、震え上がった。
 なんで怒りの矛先が俺に向いてるんだろう。
 浮かんだ疑問は声に出せず、さっと七瀬の後ろに隠れた。
「っ! ねえ、七瀬くん。その子のことが好きって噂、本当? 好きどころか告白もして返事待ちだって聞いたけど、嘘だよね?」
 つんざく声は、真剣に七瀬を好いていることを主張してくる。同時に「なんで私じゃなくてあんたなのよ」という僻みも滲んでいて、遠野は胸が痛んだ。
 七瀬がモテることは重々承知していたが、自分のせいで深く傷つく姿を目の当たりにするのは申し訳なさで胸がいっぱいになった。
 自分さえいなければ、菅原さんは七瀬会長と付き合えていたのかもしれない。
 双方に失礼な考えが、一度溢れると止まらなかった。
「全部本当のことです。ね、遠野」
 ちらりと視線を投げられ、遠野はびくりと大きく肩を振るわせた。菅原が怖くて前を向けない。
「‥‥七瀬くんは、男の子が好きってこと?」
 はっきりと噂を肯定されても、菅原は納得できないのだろう。涙声で話し続ける。
「好きに性別は関係ありません。俺は遠野だから好きなんです」
 そっと七瀬の手が重なり、じんわりと温もりが広がってゆく。
 声に出さずとも、安心させるために気遣ってくれる優しさが沁みた。
「そんなこと言われたら、私もうなにも言えないよ。__ねえ、遠野くんも七瀬くんのことが好きなの‥‥?」
菅原の頬に一筋の涙が出て伝う。彼女の気持ちを汲み、自分に正直であろうと決める。
「俺は__」
 遠野が口を開くと、七瀬の手によって塞がれる。揺れた彼の瞳と視線が交わり、一瞬時が止まる。
「答えなくていいよ。今ここで言うことじゃない」
 辛そうに下がった眉。唇を噛んでいる姿は初めて弱っているように感じた。
「遠野くんが七瀬くんのこと好きじゃないなら、私じゃだめかなあ」
 ふわりとしゃがんだ菅原から、甘い花のような香りがする。緩く巻かれた長い髪はさらさらとしていて、肌も陶器のように白くキメが細かい。
 大きな瞳は長いまつげに縁取られ、唇はぷっくりとしていながらも形が良く小さめだ。
 誰が見ても美少女だと答える彼女の容姿は、七瀬の隣に並ぶとさらに輝きを増す。
 悔しいほど彼らはお似合いで、遠野は思わず立ち上がりその場を離れてしまう。
「待って、遠野」
 七瀬に腕を掴まれるが力強く振り解き、彼の声を無視して教室へ逃げ帰った。

「遙、そんなに急いでどうした?」
 部活の集まりからちょうど帰ってきた長谷川と入り口で鉢合わせると、思わず涙が溢れてしまう。
「俺、もうやだ‥‥」
 七瀬に気持ちを伝えられない自分が嫌だ。
 好きな理由も満足に聞けない臆病者の自分が嫌いで仕方ない。
 今こうして長谷川に甘えてしまう自身の弱さも大嫌いなのだ。そして遠野がなにより嫌なのは、真っ直ぐ向き合ってくれる七瀬を傷つけてしまったことが嫌だった。
 ぽろぽろと流れる涙は止まらず、周囲からの視線を集める。
「とりあえず保健室行こう。俺もついてくから」
 大人しく保健室に連れて行かれると、顔が赤いという理由で熱を測られる。
 養護教諭はちょうど不在で、勝手に体温計を拝借した。ピピ、と聞きなれた音がして脇から取り出すと、数字は三十七度を超えていた。
 気がつかないうちに微熱があったらしい。
「荷物持ってきてやるから、今日は迎えに来てもらって帰れよ。話は熱が下がったらいくらでも聞くからそれ以上落ち込まないこと! いいな?」
「ごめんね悠希。ありがとう」
「いいって。俺ら幼馴染だろ」
 わしゃわしゃと犬のように頭を撫でられると、七瀬に告白された日を思い出した。
 こんな状況でさえ、彼のことを考えてしまう。
 また泣けてきて机に突っ伏した。熱があると自覚すると、途端にどんどん上がっていくのを感じる。発熱は恋に似ている気がした。
 気がついたらコントロール出来なくて、振り回される。でも恋は薬では治せないから厄介だ。
 自分から逃げたくせに、屋上に残した二人のことが気になって仕方ない。
__菅原さん、すごく可愛かったな。
 可愛いだけじゃなく、しっかりお似合いだった。俺よりずっと会長の隣にいる姿が想像できる。
 頭の中をぐるぐるとネガティブな想像が回り続ける。
 もし会長が逃げた俺に愛想を尽かして、菅原さんと付き合ったらどうしよう。
 彼女は強かにチャンスを逃さないタイプだろう。
 派手な女子たちより、ああいう柔らかい雰囲気の美人のほうが頭が回るイメージがある。
 実際逃げていくとき、視界の端に写った彼女の口角は微かに上がっていた。悔しくて制服のパンツを握りしめると、養護教諭が帰ってきた。
「君、大丈夫?」
「熱がありました」
「じゃあ早退届にクラスと名前書いて、迎えに来てもらえそうならお家の人に連絡してね。担任の先生には私から伝えておくわ。そうだ、荷物は教室に取りに行ける?」
「荷物は今、クラスメイトが__」
 取りに行っています。そう伝えようと顔を上げたときだった。勢いよく保健室の扉が開く。
「先生、昼休みが終わるまで彼と少し話してもいいですか?」
 凛とした声が響く。今一番会いたくない七瀬が立っていた。その後を長谷川が追ってきて、申し訳なさそうな顔を遠野に向けた。
「七瀬くん?」
 状況が読めず、困惑している養護教諭に七瀬は頭を下げる。
「先生、お願いします」
「あー、なんていうか、先生。俺からもすみません」
 驚くことに長谷川もぺこりと頭を下げた。
「でも彼、熱があって帰らなきゃいけないのよ。それに七瀬くんにもうつったらどうするの」
 判断を渋られるが、七瀬は諦めない。
「お願いします。少しだけでいいんです」
 ぎゅう、とリュックのショルダー部分を握りしめた彼の様子を見かねて「少しだけよ」と養護教諭は保健室から退出した。
「気をつけて帰れよ」
 ぶっきらぼうには長谷川も言い残して帰り、二人きりになる。どさりとリュックを机に乗せた七瀬は、すぐに手を伸ばしティッシュで遠野の涙を拭う。
「ごめん。俺が泣かせたよね」
「‥‥会長のせいじゃ、ありません」
 そう答えながらも、やはり涙が溢れて止まらない。会いにきてくれたことの嬉しさと、謝らせてしまったことへの罪悪感で頭の中がぐちゃぐちゃになる。
 七瀬の腕を掴むと、そのまま抱きしめられた。
「体調が良くなったら話したいことがあるんだ」
「はい」
 短い言葉しか返せない。七瀬の香りに包まれながら泣いた数分間に終わりがこないことを切に願った。



 そのままずるずると体調を崩し、遠野は秋なのにインフルエンザにかかってしまった。
 数日間高熱にうなされ、咳も鼻水も止まらず地獄を見た。久しぶりに大きく体調を崩し、メンタルも日に日に弱まっていく。
 七瀬から心配のメッセージが来ていたが返す気力はなく、ただただ熱が下がるように食事を摂っては薬を飲んで寝るを繰り返した。
 高熱にうなされると悪夢を見やすい遠野は、何度も夢の中で七瀬に冷たくあしらわれる。
「もう遠野のこと好きじゃないから」
 光を失った瞳で去ってゆく七瀬を、花壇の横から見つめる自分。足が酷く重たく、声も出ない。
 伸ばした手は空を切り、そして目が覚める。
 頬に違和感を感じ、触ると涙で濡れていた。
__体調が良くなったら話したいことがあるんだ。
 保健室での会話を思い出し、熱い息を吐いて寝転びながら天井を眺める。
 会長のこと本当に信じていいのかな。
 学校でも人が怖い遠野にとって、誰かを信用するというのはとてつもない労力が必要だ。
 好きになっても、なにかの拍子にあっさりと離れられたら、きっと心が軋んで耐えられないだろう。
 傷つくのが怖くて周囲と深く関わることを避けていた遠野が、怖いなりに変わろうとしている。
 幼馴染である長谷川にもその気持ちは伝わっているようだ。
 微熱まで下がったタイミングで、彼は見舞いに来てくれた。遠野が好きなみかんゼリーや桃の缶詰をたくさん持ってきてくれる。
 慣れた様子でどかっとカーペットに座り、寝ている遠野の髪を撫でた。
「会長、お前のことすげえ心配してたぞ」
「‥‥うん」
「メッセージが返ってこないって珍しく凹んでたし。遙って釣った魚には餌やらないタイプだったん?」
「ち、ちがうよ。ちゃんと考えて返信したいから、今は見れてないだけで‥‥」
 そもそも七瀬は釣ったわけではなく、急に現れたのだ。餌を与えなくとも自らアピールしてくる彼に寧ろ自分が釣られているとすら感じている。
 まんまと宣言された通りに絆され、早く熱が下がって会いたいと毎日考えてしまう。
 恋がこんなにも苦しく、思考を埋め尽くすものだなんて知らなかった。夢にまで登場する七瀬を、遠野は決して無下に扱うことは出来ない。
 例え振り回されたとしても、彼なら許せる気がした。
「勝手に遙は誰も好きにならないんだと思ってた」
 ベッドにもたれ、長谷川が胸の上に頭を置く。
 今度は彼の頭を撫でた。
「悠希にも同じこと思ってるよ。でも、きっとこれから悠希も恋をするときがくるんだろうな」
「俺、まだ好きとかよくわかんねえけどな」
「俺も会長と関わるまでそう思ってたよ。縁がないとも思ってたし」
「なあ、置いてくなよ。寂しいじゃん」
 学校ではクールな印象の長谷川が、大型犬のように甘えてくる姿は遠野の前限定で珍しくない。
 彼は部活や教室でも多くの生徒と話すが、心を開く人数はとても少ないのだ。
 いつも本音は、結局遠野に話して終わる。
 幼馴染であり、親友の彼らも少しずつ互いのペースで成長していっている。
「置いていかないよ。これからも悠希とはずっと幼馴染でしょ」
「とか言って俺との予定蹴って会長とばっか遊んでたら怒るからな」
「三人で会うのはだめなの?」
「いや、それは会長嫌がるだろ。遙は鈍感すぎて七瀬先輩が可哀想になってくる」
 深く溜息を吐かれる。変なこと言ってるかな。
 遠野はいまいち長谷川の態度にピンときていない。
「まあいいよ、その内わかるだろ。会長重そうだし」
__だってあの人、お前のこと大好きだもん。
 拗ねたようにいう長谷川。遠野は布団を被り、鼓動を速めた心臓を落ち着かせようと深呼吸する。
 大好き、かあ。
 心の中に温かいものが溢れ、広がる。
 会いたい、話したい。七瀬先輩の笑った顔が見たい。
 以前は風邪を引いたら、どこか喜んでいる自分がいた。学校に行かなくてもいいという許しを得て解放された分、苦しむのが風邪だった。
 だが、今は早く治したいとすら思っている。
「遙も大概か」
 くすりと笑う幼馴染の顔はとても優しいことを、まだ遠野は知らない。



 翌日、無事完治して朝家を出ると長谷川と待ち合わせをしている場所に七瀬がいた。
「おはよう。風邪はもう大丈夫?」
 壊れ物を扱うように優しく話しかけられる。
「おはようございます。はい、もう完治しました。というか、悠希来ないですね」
 七瀬と話すのが気恥ずかしく、わざと長谷川を探す。 ふっと柔らかく七瀬が笑った。
「長谷川くんは先に登校したよ。俺らの雰囲気に耐えられる自信がないとか言ってたかな」
 要は目の前でイチャイチャされても困る、ということだ。肝心な時、いつも彼は側にいない。
「そうなんですね、じゃあ行きましょうか」
 さっと前を向いて歩き出すと、隣で七瀬は面白く無さそうに顔をしかめた。
「淡白な反応だね、つまんない。遠野は朝から俺と会えて嬉しいとか思わないんだ」
「そんなわけないじゃないですか」
 つい大きな声が出てしまい、はっと口を手で押さえる。すでに時遅し。七瀬はにんまりと満足げに顔を緩ませていた。
「そんなに大きな声を出すほど嬉しいんだね」
 急に雰囲気ががらりと変わり、花が咲いたように表情が明るくなる。数日ぶりに見る七瀬の顔は、熱を出す前より発光している気がした。
「そ、そんなこと‥‥っ」
「ないって、言えないね」
 するりと手を絡められ、あっという間に手を繋がれる。手が触れているだけでも心臓が爆発しそうだ。
 そうだ、もう遠野は彼に嘘をつけない。
 恋心のコントロールは、テストで高得点を取るより難しい。
 流石に他の生徒に手を繋いでいるところを見られては困るので、名残惜しいがそっと離した。
「今日の放課後、話してくれますか」
 なにが、とはあえて言わない。暗黙の了解だ。
 ついに今日、好きになった理由を聞く。
「うん。放課後、生徒会室で待ってる」
 きっと今日はどんな授業を受けても頭に入らないのだろう。甘い期待と未知への不安が胸を満たし、脳を麻痺させる。

 空はからりと晴れていて、季節は冬をもうすぐ連れてくる。
遠野は来年の春に向けて花壇にいくつかの球根を植えた。
 どんな風に咲くのだろう。いつも花を植える時はわくわくして、それ以上にどきどきする。
 七瀬と話すときも同じだ。
 好きだからこそ、正常でいられない。
 恋に振り回される感覚を、遠野は全身で体感している。



 予想通り全く授業は頭に入らず、教師の声は耳をすり抜けて消えていった。
 終礼が終わると、まずは深呼吸をして立ち上がる。
 がやがやと騒がしい教室も、なんだかいつもより悪くないと思えた。
 ばし、と長谷川に後ろから背中を叩かれて変な声が出る。
「緊張しすぎだっての。もっと楽にしてけよ」
「うう、分かってるけど」
「大丈夫だよ、絶対」
 痛みと長谷川の不器用な優しさが背中を押してくれた。
「ありがとう。行ってくる」
 リュックを背負って、覚悟を決める。
「おう、いい顔してんじゃん」
 ひらりと手を振った彼も、笑っていた。
 生徒会室の扉を少し震えた手で開けると、七瀬は窓の外を眺めている。
 ふわりと窓から風が吹いて、カーテンを揺らした。
「見て、ここからの景色」
 手招きされたので素直に横に立つ。窓の真下には遠野が管理している花壇が見えた。
「会長、もしかして…」
「うん、春からずっと見てたよ。遠野が入学してから花壇の雰囲気変わったよね。前よりずっと花も増えて、綺麗になった。夏休みも通ってる姿にも胸を打たれた。いつも真剣に花壇の世話をしてて、俺も頑張らなきゃってこの場所で思ってたんだ」
 遠野は実家が花屋のため、特例で花壇の管理を任されている。彼が面倒を見切れない時は、用務員のおじいさんが今まで通り管理を手伝ってくれていた。
 人付き合いが苦手な遠野だが、植物が好きな相手であれば心を開けた。騒がしい教室を抜け出し花壇の土や花をいじる時、遠野は心身ともに解放されるのだ。  
 どの時代も学校は嫌いだが、花壇のために登校しているといっても過言ではない。
 花壇をいじればいじるほど自分以外にも愛でてもらいたいと思っていたが、高望みだと諦めていた。
 一般の高校生で、学校の花壇に興味のある生徒はとても少ない。
 あんなところに花壇なんてあったっけ、という認識のほうが圧倒的に多いだろう。
 だが、七瀬は生徒会室からずっと見守ってくれていたのだ。遠野が真摯に花壇に向き合う姿も、花を愛でる様子も。
「綺麗になった」という言葉に、どれほど救われたか七瀬は知らない。知らないままでいてほしいのに、油断したら涙が溢れてしまいそうだ。
「土が顔についても、手がどんなに汚れても遠野は楽しそうで、目がきらきらしてて。見てるうちに遠野が好きだって気がついたんだ。俺が君を笑わせたいと思ったし、ずっと話しかけたかった。でも、生徒会長になった俺の姿で遠野に好きって言いたくて、話しかけられずにいた。すごくもどかしかったから、今こうして隣に並んで話せて胸がいっぱいなんだ」
 全校生徒の前で演説する時ですら、七瀬は毅然とした態度を崩さなかった。話すまで彼のことを派手な自信家で少し怖い存在だと思っていた頃を、もう懐かしく感じている。
「どうしよう、嬉しくてなんだか泣きそうです」
 誰も自分なんて見てくれていないと思っていた。
 教室では常に隅っこで過ごし、時には壁と同化することもある。自分の席に座られていても、文句の一つすら言えない臆病者。
 幼馴染だからというだけで仲良くしてくれる長谷川にも申し訳なさを感じていた。
 俺なんか構って、悠希が煙たがられたらどうしよう。
 彼の人間関係に悪影響を与えているんじゃないかと不安になる日もある。だが、長谷川はなにを言っても「大丈夫」の一点張りだ。
 その次には「遙が気にすることはなにもないから」と続き、結局長谷川以外と特別親しくもなれないまま秋を迎えてしまった。
 あまりにも不安が募るので、精神科に行ったら社交不安症の可能性があると診断された。
 母も長谷川もそのままでいいと慰めてくれるが、ろくに友達も作れない自分をなんの価値もないと責めて眠れない夜もある。
 怖くて誰かと深く関われない。だけど、心の中ではずっと新しい誰かと対等に関わりたかった。
 自分を認めてもらいたかった。
「泣いたらまた抱きしめちゃうけど、いい?」
 七瀬の包み込むような優しい声色が、じんわりと沁みる。差し込む夕日は彼をオレンジ色に染めた。目を細めると一筋の涙が溢れた。
 小さく頷くと手を引かれ、腕の中に閉じ込められる。
 ふわりと香る柔軟剤と彼の香りで肺が満たされた。
「俺は生徒会長だけど、その前にただの男なんだよ。そんな顔されたらもう離してあげられない」
__俺に愛される覚悟出来てる?
 耳元で囁かれた言葉に今度はしっかり頷いた。
 大きな手のひらに包まれ、上を向く。
 自分だけを大きな瞳に写す七瀬と目が合う。
「好きだ。付き合ってほしい」
 以前は拒否した言葉を受け入れる。そして、遠野自身も自分の気持ちを伝えた。
「__俺も七瀬会長が好きです」
「‥‥あれ、おかしいな」
 七瀬の瞳が涙が浮かぶ。差し込む光が入り込み、宝石のように美しい。吸い込まれるように顔が近づき、二人の唇が重なった。
「好きな人と付き合えるって、幸せなんだな」
 顔を綻ばせた七瀬の姿を見て、胸がきゅう、と締めつけられた。七瀬にはずっと笑っていてほしい。ふと、そんな考えが浮かんだ。
 きっと春には美しい花々が花壇にまた咲き誇る。
 今度は二人で育てていきたい。
 春だけじゃなく、多くの季節を遠野は七瀬と重ねていきたいのだ。
「泣いてる会長も好きですよ」
 優しく七瀬の涙を指で拭い、目元にキスを落とした。
「はは、参ったなあ」
__遠野が好きすぎて、心臓がもたないかも。
 へにょ、と七瀬が笑う。遠野もつられた。
 恋を知った十六歳の秋。遠野は今日という日を忘れないよう心に刻んでゆく。
 これから先、辛いことがあっても七瀬となら笑っていられるという予感がしている。
 そして同時に、より堂々と彼の隣に立てる存在になりたいと思った。
 窓から流れ込んできた風が二人の髪を揺らした。
 遠野はカーテンの中に閉じ込められて、もう一度唇を合わせる。
 彼らが結ばれたことを知るのは、沈みかけた太陽だけだった。



「で、無事付き合ったと」
 後日、昼休みに長谷川を含めた三人で集まり、付き合ったことを報告した。
「これからは俺が遠野の彼氏だから長谷川くんは遠野のこと独占しないでね」
「はっ。名前も呼べないくせになにが独占しないでね、ですか。いっすか、俺は遙と幼馴染であり親友なんですよ。仮に遙が傷ついたらすぐに引き剥がしますからね」
 確かに付き合ってからも七瀬は名前で呼んでくれない。期待を込めてちらりと彼を見る。
「付き合ったからといって、許可を得てないのに勝手に名前を呼ぶのは紳士性に欠けるだろ」
「単に名前を呼ぶ勇気が出ないだけですよね。よくもまあそんな風にもっともらしく言い訳できますね」
 ぐう、と珍しく七瀬が反論できず言葉を詰まらせている。ようやく彼を論破できて長谷川は満足そうだ。
「碧先輩、俺は先輩に名前で呼んでほしいです」
 あえて上目遣いでお願いしてみた。
 七瀬は持っていた箸を太ももの上に落とし、固まっている。
「待って遠野。もう一回いって」
「碧先輩」
「えっうそ、録音しておけばよかった。なにこれ、夢?」
 あたふたとスマホを探す七瀬。
「名前を呼ばれただけで大袈裟な」
「長谷川くんうるさいから。好きな人に名前を呼ばれる嬉しさがどれほどのものか、お子ちゃまな君には分からないだろうけど」
「は? おい遙、お前の彼氏すげえ性格悪いぞ!」
「碧先輩、悠希に喧嘩売らないでください」
「ええ〜なにこれ。怒られてるのに遠野になら寧ろもっと怒られたい」
「きもっ。先輩、頭おかしいですよ」
「だから長谷川くん水を差さないで。今遠野が可愛く怒ってるんだから。動画も写真も撮らなきゃいけないんだよ」
 七瀬は言葉と裏腹にすでにスマホを構えている。
「恥ずかしいのでやめてください。もう碧先輩って呼びませんよ」
「え! なにが悪かった? 直すからこれからも碧先輩って呼んで。なんなら碧って呼び捨てでもいいから」
すぐにスマホをポケットにしまい込んで七瀬は遠野に抱きつく。
「‥‥遙って呼んでくれたら許します」
 小さな声で呟くと、勢いよく顔をあげた七瀬の両手に顔を包まれた。
「遙、好きだよ」
 名前で呼ぶことだけを要求したのだが、気持ちも伝えてくる。
 だから七瀬には甘くなってしまうし、きっとこの先も怒れない。
「俺も好きです」
 
 うげえと舌を出して茶化してくる長谷川を見て笑うと、七瀬もつられた。

 彼の笑顔をいつまでも守り続けたい。
 それが遠野が今思う、一番の願いだ。

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