俺はあの頃の気持ちを思い出していた。ただ、ピアノを弾くことが嬉しくてたまらなかったあの時を。
 正直、そんな気持ちにはもうならないだろうと思っていた。

 だけど、藤川と今一緒に弾いてみて。これも悪くないと思えた。
 俺は結局藤川へ教えることも嫌じゃなくなっていたし、むしろ楽しさを思い出させてくれたのは藤川だと気づいてしまった。
 だから、確かめたかった。

 俺は想いを込めて弾いてみた。あっという間の時間だったが、藤川はじっと聞き入っていた。
 最後の一音を丁寧に弾ききると、辺りを静寂が包む。

「おい、何とか言えよ。やっぱり運命の音色じゃ……」

 俺が藤川を見上げると、藤川は今まで見た中で一番嬉しそうに笑っていた。
 ただ……どちらかというと音に酔っているような、熱に浮かされているような……そんな表情だ。

「……オレ、我慢してたのに。こんなのもう我慢できない」
「は?」

 藤川はうっとりとした表情のまま、俺に身体を寄せてきた。そして、俺の手を優しく持ち上げると指先にやんわりとしたものを押し付けてくる。
 これは……キス? 指先にキスされてる?

「ちょ、お前……」
「オレ、気付いたんだ。風見くんの運命の音色にずっとあこがれていたけど……そうじゃない。オレは風見くんの全てが好きなんだ。この細くて綺麗な指もピアノに向かう真剣な眼差しも、時々見せる迷うような視線も……全部全部……」

 藤川の言葉は今までの俺ならキモイの一言で全て終わらせていたはずだ。
 それなのに、今度は俺が雰囲気に飲まれてしまって声が出ない。

「会えば会うほど、どんどん風見くんにハマっていくのが分かって。でもキモイって拒絶されるのが怖くて……だから離れたらいいって思ったのに……」
「ふ、藤川……」
「風見くんから、オレのところへ来てくれると思わなかった。ねえ、風見くん。やっぱり、オレのことは嫌い?」

 これはつまり、俺は……藤川に告白されてるのか?
 結構ドン引きなことも混ぜて言われているのは気のせいじゃなさそうだが……どう反応すればいいんだコレ?

「お前の言ってること、正直半分くらい気持ち悪いと思う。けど……お前といると俺はピアノが楽しかった頃に戻れた。だから……お前のことは、嫌いじゃない」

 嫌いじゃないって返事としてどうなんだって話だが、正直俺も混乱している。
 藤川の視線が熱すぎるし、俺の手はずっと藤川が握ってなでてるし。
 振り払いたいのに、藤川と離れるのも腹立たしいってどうすればいいんだよ?

「風見くんは正直だよね。拒否するときはハッキリ拒否してくれるし、本当は優しいし今も照れているだけだ。オレの顔も気に入ってくれてるみたいだし?」
「お前な、そうやって調子に乗るなって……おいっ、コラ! 指ごと頬にこすりつけるな!」
「だって、こうして我慢してないと……風見くんが可愛すぎて、オレ襲いそう」

 コイツ、笑顔でサラッと恐ろしいことを言い始めた。
 受け入れない方が良かったかと後悔しても、もう遅い。
 藤川が暴走しないように、うまくコントロールするしかなさそうだ。

「襲うとか物騒なこと言うんじゃねぇよ! いいから、ピアノの続きだ続き」
「オレも正直に言っただけなのに、赤くなってくれたってことは……少しはオレのこと意識してくれた?」
「してない。俺は昔の感覚を取り戻すためにお前を利用してやろうってだけで……おい、聞いてるのか?」

 藤川は俺の話を聞かずにやたらと擦り寄ってくる。
 コイツは爽やかなイケメンの皮を被っているだけで、実際はかなりしつこいヤツなのがよく分かる。
 俺たちを繋いだ運命の音色のせいで、どうやら厄介な絆で結ばれてしまったらしい。