俺たちは雨が降り止むまで公園の東屋で待つことにした。
 時々厚い雲の隙間から光が差し込んでいるのがわかる。きっともうしばらく待てば雨は止むだろう。
 腰掛けたベンチはほんのり湿っている。
 椿さんはそこにハンカチを引いて座った。

「さっきみたいなのは今までもあったの?」

 椿さんとの間に流れていた沈黙を絶った。
 彼女は少し言葉を選んで口にした。

「……うん、そうだね。少なくはなかったかも」

 人にはやっていいこととそうでないことの境界線があって、誰かを傷つけることはやってはいけないことの最上級だと思う。
ただでさえ人は簡単に自分自身を攻撃できてしまうのに。
他者からの批判はどれだけ恐ろしいものだろうか。

「でも私気にしてないんだ。誰にだって人を羨む気持ちはあって。本人には言わないようにしているんだから別にいいんじゃないって。そんなことで私は傷つかないし」

「……俺は、よくないと思う」

「どうして?」

 彼女はまたあの顔をした。
 無理をしているような、何かを堪えているようなそんな顔だ。

「傷ついたことを見ないふりすることは苦しいから」

 彼女は傷ついていないというかもしれない。
 でも本当に傷ついていないのなら何かに耐えるような顔はしない。

「藤月くんにはそう見えたんだ」

「失礼なこと言ってたらごめん」

「うんん、図星だよ」


俺はこの世界の人たちがみんな誰かの様子を伺って生きているんじゃないかって思う。
でも同時にそうじゃない人もいるんじゃないかと思う。それくらいたくさんの価値観がある。
感情の波が交差している世界を生きている。

「私はね憧れの人がいるんだ。……私の話聞いてくれる?」

 俺は彼女の問いに頷いた。

「私はずっと自分に自信がなかった。小学生の頃の私は同年代の女の子たちと比べて背も高くて。なんなら男の子よりもね。それに発育も他の人より早かった。それがなんだか恥ずかしかったの。
誰にも見られたくなくてずっと背を曲げて、髪で表情を隠してた。
そんな時一人の先生が私に声をかけてくれて、たくさん悩みを聞いてくれた」

 懐かしい記憶を辿って表情が弛緩していく。
 固めた心を解いていくみたいだ。

「その先生は笑顔が絶えない人だった。背筋がスッと伸びていてまっすぐ前を向いている人。
私の憧れなんだ」

 椿さんはそれがきっかけで学校の教師を目指しているのだそう。

「だからこの間のロードシートもぎっしり埋まっていたんだ」

「あ、藤月くん盗み見は駄目だよ?」

「ごめん」

「素直でよろしい」

 すると彼女の顔にまた影が戻った。

「ずっと先生のことを目標にしてた。笑顔を絶やさない、みんなに優しい人になりたかった。そうでいようって努力してきた。……でも少し疲れちゃたな」

 椿さんが俺の肩に頭を乗せた。
 どきりとして少し体が跳ねる。

「ごめんね。……雨が止むまではこうしていてほしい」

 その言葉を聞いたら俺はただ従うしかなかった。
 彼女にもなりたい自分があって。
 そのために努力をして、でもそれは決して簡単なことではないんだ。

「あーあ、こんな話を藤月くんにするつもりはなかったんだけどな」

「本当は何をするつもりだったの」

「んー? パーっと遊びに行きたかったの。藤月くんともっと仲良くなりたくて」

「俺と?」

「そう」

 椿さんは話している間ずっと瞼を閉じていた。
 俺はどうすることもできなくてただ彼女の話を聞いていた。

 「藤月くんはすごいよね。なんかちゃんと周りを見れてるっていうか。達観しているというか。みんなが気になっているのもわかるな」

 (みんなが気になっている? 俺のことが?)

「あれ、驚いてる。ミステリアスで勉強ができる藤月圭介くん、女子の間では有名だよ?」

 知らないところで俺にもレッテルが貼られているようだ。

「他の人のことは気がつくのに自分のことには鈍感なんて、藤月くんは面白いね」

 独り言のような呟き。
 ああ、人の心は簡単には測れないのだと思う。それがたとえ自分自身であったとしても。
だんだんと雨音が小さくなってきた。灰色の雲の隙間から陽の光が差し込んで濡れた地面を照らしている。
 椿さんの頭が俺の肩から離れた。

「今日はありがとう。初めて誰かにこんなこと話したけど案外スッキリするもんだね」

 そう言って肩をグーっと伸ばした。

「俺でよければ話を聞くよ。本当にただ聞いているだけだけど」

「本当? それはありがたい」

 椿さんに傘のお礼を言ってそれぞれの帰路についた。

……

 その後俺は特に変わったことはなく、学校生活が過ぎていった。
 あの時椿さんのことを教室では話していた女子生徒たちは気まずくなり、彼女にはあまり話しかけていないようだ。
 今日でテスト期間は終了。クラスメイトたちはテストの緊張感から解放され各々予定を立てている。

「皆さん本日のホームルームでは学園祭の出展内容を決めたいと思います。テストが終わって気が緩むのもわかりますが、きちんと話し合いに参加してくださいね」

 担任の先生から進行役が学級委員に受け渡される。
 決めると言っても学年ごとに大体やる内容は決まっていた。
 2年生は毎年教室でできる出展か、劇をやっている。
 屋台は3年生が優先されるため他学年では採用されにくいのだ。

「それでは皆さんの挙手で出展内容を大まかに決めていきたいと思います。それでは……」

いくつかの候補の中から決まったのは劇だった。
 題材はシンデレラ。
 誰しもが知っている有名な作品だからという理由だ。
 そこから配役が決まった。

「それではヒロイン役とヒーロー役から決めていきたいと思います。自薦でも他薦でも構いません。誰かやりたい人、もしくはやって欲しい人がいる人は挙手をしてください」

 ヒロインのシンデレラ役はきっと椿さんだ。
 彼女の純粋で目標のために努力する姿勢は配役に当てはまっている。
 予想通り一人の女子生徒が手を挙げて彼女を推薦した。
 誰も反対をすることはなくシンデレラ役は決まった。
 問題はヒーロー役だった。
 椿さんは学年のマドンナだ。男女問わず人気があり憧れの対象だ。
 そんな人の相手役が簡単に決まるとは思えない。
 ヒーロー役が決まらないまま時間が過ぎていく。
 そんな中一人の男子生徒が手を挙げた。

「藤月はどうですか」

(え、俺?)

 彼が俺の名前を読んだ途端にクラス中の視線が向けられた。
 こんなに視線を浴びたのは久しぶりで体が芯から熱くなった。
 顔全体が赤くならないように平静を保つ。

「確かにいいかも。藤月くん立ってみると意外とスタイルいいしね」

「確かに」

「最近椿さんとの仲もいいみたいだし、いいんじゃないか」

 俺は断ろうとしていたがクラス全体の雰囲気がそれを是としない。
 椿さんの様子を盗み見た。彼女は心配そうにこちらを見つめていた。

(ちょっとくらい頑張ってみようか)

 そしてヒーロー役を引き受けることになった。