桜の花びらが舞っている 土曜日の昼下がり、小さな駅のホームに大きな声が響き渡った。
「危ない!」
小さな男の子を抱えた女子高校生がバランスを崩して階段から落ちそうになっていた。
それを見ていた俺は何とか支えようと両腕を伸ばした。
二つの命が腕の中に飛び込んでくる。それは予想していたよりもはるかに重かった。
支え切ることができずに俺は地面に転がった。
……
「本当にありがとうございました!」
駅に設置されている職員用休憩室の簡易ベッドの上に俺は座っていた。
なぜかというと、小さな男の子を抱えて階段から落ちた女子高校生をかばいコンクリートに頭をぶつけたからだ。頭に小さなこぶができている気がするがあまり気にならない。
そんなことよりも俺は少し緊張していた。俺の目の前の椅子に座っている女子高校生――椿璃子がいるからだ。
椿さんは俺たちが通っている高校では、大人っぽい雰囲気を纏っている美人と有名だ。いわゆる高嶺の花というやつ。
俺は今初めて彼女と話しているけど、一生懸命で放っておけない人なのだろうと思った。
「別に感謝されるほどのことはしてないですよ」
「そんなことないです! 藤月くんがいなかったら私今血だらけだったと思います」
真剣な表情で椿さんは言った。
でもごめん、それはない。
階段から落ちたと言ってもたったの2段。俺がコンクリートに頭をぶつけたのはただの筋力不足で二人を支えきれなかったからだ。
深刻そうに話されると俺の貧弱さが目に見えるようでちょっと虚しい。
「俺は本当に大丈夫ですから」
なんとか椿さんを説得した。時々心配そうに振り向きながら彼女は家に帰っていった。
……
新学期、それは俺にとっては少し憂鬱でそわそわする季節だ。
クラス替えが行われて人間関係がリセットされる。生徒たちはまた一から関係を築いて行かなければいけない。
その前に同じクラスの人たちの雰囲気が悪ければそこで終わりなんだが。クラス全体の雰囲気が悪ければ、俺一人が関係構築に勤しんだってほとんど意味がない。
学校ってところはどれだけ空気を読むことに長けているかが重要で、それができなければハブられる。馬鹿みたいな仕組みだとは思うけれど、それはきっとみんなの根本にあるもので、気がついたとしても変えるのは難しい。
今年の俺のクラスはいわゆる当たりクラスだ。
なぜなら学年のマドンナ椿璃子がいるから。大人びた容姿とは裏腹に明るい無邪気さを持つ彼女はムードメーカーでいつも誰かが隣にいる。
でも気取ったような高校生独特の雰囲気はなくて、自然体な様子が彼女の魅力だ。だから男女関係なく憧れの的なのだろう。
一方で俺はクラスの隅の方で本を読んでいるタイプ。特にずっと一緒にいる友達もいない。話す程度の人ならいるけど。でもそれはクラスに馴染むための努力義務だ。
だからそんな地味な俺が椿さんと話すことになるなんて思ってもいなかった。小さい子を庇って階段から落ちた椿さんを庇ったことがきっかけになるとも。
いつどこで話すきっかけが生まれるのかわからないものだと思った。
……
「ねえ藤月くん、今暇? お昼ご飯一緒にどうかな?」
昼休み、椿さんが話しかけてきた。
空き教室に行って弁当を食べようと思って準備していた俺は不意を突かれたような気分だった。
「別にいいですけど、いつもお昼を食べている友達はいいんですか?」
「うん、大丈夫。今日は藤月くんに用事があるって言ってきたから」
先日駅で出会った後、椿さんは俺たちがクラスメイトだということがわかってから何かと声をかけてきた。敬語もいつの間にか抜けている。
おはよう、また明日、こんな些細な言葉だ。
少し注意してみると彼女は少しでも交流のある人にはこんなふうにして声をかけているようだった。
また一つ、彼女がみんなに慕われている理由を知った。
「私はお弁当だけど、藤月くんもお弁当?」
「いや今日はコンビニです」
屋上に設置されているベンチに座っている時に椿さんは尋ねた。
「あ、それチョコスティックパン? 美味しいよね、私もそれ好き」
「同じですね」
相手が持っているものを見てそれに共感する。そして同じ感覚を自分たちは持っているのだと案に知らせる。
それは一種のトリックのようなもので、人との距離を縮める時に有効だと誰かから聞いた。
「もし嫌な質問だったら申し訳ないんだけど、藤月くんはどうして私に敬語なの?」
同級生なのに、ということだろうか。
でも今までほとんど相手と交流がなかった男子高校生にとって、この距離感は適切なんじゃないかと思っていた。
「特に理由はないです。それに嫌な質問でもありません」
「そっか、よかった。もし藤月くんさえよければタメ口で全然いいからね」
「わかりました。……それでわざわざ昼食を一緒に食べようっていた理由は何?」
「あーそれはね」
椿さんは持ってきていたカバンから包みを取り出した。
「これ、この前助けてもらったお礼を渡したくて」
渡されたのはお菓子折りだった。お礼はいらないと言っていたけど、ここで断るのは彼女の体裁が悪いだろう。
「ありがとう」
俺がお菓子を受け取ると彼女は嬉しそうにした。
「こちらこそ。さ、お昼食べよっか」
椿さんはお弁当の包みを開けた。俺は袋を開けてスティックパンを頬張る。
彼女の俺にお菓子折りを渡すという目標は達成したはずだ。そしたらもう俺に用事はない。それでも教室に戻らず、屋上でお昼ご飯を食べる彼女はなんだか素敵だと思った。
……
「本日のホームルームでは将来の目標に向けたロードシートを書いてもらいます。自分自身が今持っている目標を紙に書いてそれを達成するためにどう行動していくのかを考えて記入してください」
無茶なお題だと思った。案の定俺は配られたロードシートを前にしても書き出すことができなかった。
大人はどうして高校生がみんな何かしらの目標を持っていると考えるのだろう。これから出ていく社会とは比べ物にならないほど小さいコミュニティの中で、将来の目標を見つけ出す方が難しいのではないか。
教室を見渡してみると俺と同じように書き出すことすらできずに止まっている人が何人かいた。
気になってそっと、前の方の席に座っている椿さんの様子を伺った。
彼女はなんの躊躇いもなくロードシートを書き進めていた。
そうか、彼女には将来の目標があるのか。少しだけ羨ましく感じた。
「それではロードシートを書いた紙を提出してください」
担任の先生の指示で生徒たちがロードシートを回収し出す。
俺は結局将来の目標を、安定した職業に就くと書いて提出した。どこかで見た目標を達成するためのテンプレートを思い出しながら。
……
「あら、ごめんなさい藤月くん。ホームルームでクラスのみんなに書いてもらったロードシート、一人足りないみたい。……足りていないのは、椿さんの分ね」
放課後、職員室に日直が書く日誌を提出しにいくと担任の先生がそう言った。
俺たちが提出したロードシートを確認していた先生は困っているようだった。
「じゃあ、俺確認してきますよ」
「あらそう? もし椿さんがまだ教室に残っていたら提出するように伝えてください。もしいなければそのまま下校してもらって構わないからね」
どうせ鞄を取りに教室に戻るのだし少しくらい、いいように使われても構わない。
ほとんどの生徒が帰宅するか部活に行っていて校舎にはほとんど生徒が残っていなかった。そのため上履きの音がやけに鮮明に聞こえた。
普段は狭く感じる廊下でさえこんなにも広かったのかと感じる。
俺が2年生の教室に戻ると椿さんがいた。
ああよかった。担任の先生がロードシートを提出するように言っていたと伝えよう。
「あの、椿さん……」
「……」
反応はなかった。彼女も無視をすることがあるんだな。いや、教室の入り口から声をかけたから俺の声が聞こえていないだけかもしれない。
「あの……」
もう少しだけ近づいて声をかけた。でも椿さんはなんの反応も示さない。
彼女の手元を見ると一心不乱に何かを書いていることがわかった。
ロードシートだ。
まだ何か書きたいことがあるんだ。素直に驚いた。
「あれ、藤月くん?」
俺が目を見張っていると椿さんが顔を上げた。やっと俺がいることに気がついたようだった。
「担任が椿さんのロードシートだけ出てないって言ってた。提出するように俺は伝言を頼まれたんだ」
「そうだったんだね。伝えてくれてありがとう。書き終わったらちゃんと出しに行くね」
少し見えただけだが、椿さんが書いているロードシートは文字でびっしりと埋まっていた。
「わかった、よろしく」
俺は自分の席に置いていた鞄を肩にかけた。
……
「危ない!」
小さな男の子を抱えた女子高校生がバランスを崩して階段から落ちそうになっていた。
それを見ていた俺は何とか支えようと両腕を伸ばした。
二つの命が腕の中に飛び込んでくる。それは予想していたよりもはるかに重かった。
支え切ることができずに俺は地面に転がった。
……
「本当にありがとうございました!」
駅に設置されている職員用休憩室の簡易ベッドの上に俺は座っていた。
なぜかというと、小さな男の子を抱えて階段から落ちた女子高校生をかばいコンクリートに頭をぶつけたからだ。頭に小さなこぶができている気がするがあまり気にならない。
そんなことよりも俺は少し緊張していた。俺の目の前の椅子に座っている女子高校生――椿璃子がいるからだ。
椿さんは俺たちが通っている高校では、大人っぽい雰囲気を纏っている美人と有名だ。いわゆる高嶺の花というやつ。
俺は今初めて彼女と話しているけど、一生懸命で放っておけない人なのだろうと思った。
「別に感謝されるほどのことはしてないですよ」
「そんなことないです! 藤月くんがいなかったら私今血だらけだったと思います」
真剣な表情で椿さんは言った。
でもごめん、それはない。
階段から落ちたと言ってもたったの2段。俺がコンクリートに頭をぶつけたのはただの筋力不足で二人を支えきれなかったからだ。
深刻そうに話されると俺の貧弱さが目に見えるようでちょっと虚しい。
「俺は本当に大丈夫ですから」
なんとか椿さんを説得した。時々心配そうに振り向きながら彼女は家に帰っていった。
……
新学期、それは俺にとっては少し憂鬱でそわそわする季節だ。
クラス替えが行われて人間関係がリセットされる。生徒たちはまた一から関係を築いて行かなければいけない。
その前に同じクラスの人たちの雰囲気が悪ければそこで終わりなんだが。クラス全体の雰囲気が悪ければ、俺一人が関係構築に勤しんだってほとんど意味がない。
学校ってところはどれだけ空気を読むことに長けているかが重要で、それができなければハブられる。馬鹿みたいな仕組みだとは思うけれど、それはきっとみんなの根本にあるもので、気がついたとしても変えるのは難しい。
今年の俺のクラスはいわゆる当たりクラスだ。
なぜなら学年のマドンナ椿璃子がいるから。大人びた容姿とは裏腹に明るい無邪気さを持つ彼女はムードメーカーでいつも誰かが隣にいる。
でも気取ったような高校生独特の雰囲気はなくて、自然体な様子が彼女の魅力だ。だから男女関係なく憧れの的なのだろう。
一方で俺はクラスの隅の方で本を読んでいるタイプ。特にずっと一緒にいる友達もいない。話す程度の人ならいるけど。でもそれはクラスに馴染むための努力義務だ。
だからそんな地味な俺が椿さんと話すことになるなんて思ってもいなかった。小さい子を庇って階段から落ちた椿さんを庇ったことがきっかけになるとも。
いつどこで話すきっかけが生まれるのかわからないものだと思った。
……
「ねえ藤月くん、今暇? お昼ご飯一緒にどうかな?」
昼休み、椿さんが話しかけてきた。
空き教室に行って弁当を食べようと思って準備していた俺は不意を突かれたような気分だった。
「別にいいですけど、いつもお昼を食べている友達はいいんですか?」
「うん、大丈夫。今日は藤月くんに用事があるって言ってきたから」
先日駅で出会った後、椿さんは俺たちがクラスメイトだということがわかってから何かと声をかけてきた。敬語もいつの間にか抜けている。
おはよう、また明日、こんな些細な言葉だ。
少し注意してみると彼女は少しでも交流のある人にはこんなふうにして声をかけているようだった。
また一つ、彼女がみんなに慕われている理由を知った。
「私はお弁当だけど、藤月くんもお弁当?」
「いや今日はコンビニです」
屋上に設置されているベンチに座っている時に椿さんは尋ねた。
「あ、それチョコスティックパン? 美味しいよね、私もそれ好き」
「同じですね」
相手が持っているものを見てそれに共感する。そして同じ感覚を自分たちは持っているのだと案に知らせる。
それは一種のトリックのようなもので、人との距離を縮める時に有効だと誰かから聞いた。
「もし嫌な質問だったら申し訳ないんだけど、藤月くんはどうして私に敬語なの?」
同級生なのに、ということだろうか。
でも今までほとんど相手と交流がなかった男子高校生にとって、この距離感は適切なんじゃないかと思っていた。
「特に理由はないです。それに嫌な質問でもありません」
「そっか、よかった。もし藤月くんさえよければタメ口で全然いいからね」
「わかりました。……それでわざわざ昼食を一緒に食べようっていた理由は何?」
「あーそれはね」
椿さんは持ってきていたカバンから包みを取り出した。
「これ、この前助けてもらったお礼を渡したくて」
渡されたのはお菓子折りだった。お礼はいらないと言っていたけど、ここで断るのは彼女の体裁が悪いだろう。
「ありがとう」
俺がお菓子を受け取ると彼女は嬉しそうにした。
「こちらこそ。さ、お昼食べよっか」
椿さんはお弁当の包みを開けた。俺は袋を開けてスティックパンを頬張る。
彼女の俺にお菓子折りを渡すという目標は達成したはずだ。そしたらもう俺に用事はない。それでも教室に戻らず、屋上でお昼ご飯を食べる彼女はなんだか素敵だと思った。
……
「本日のホームルームでは将来の目標に向けたロードシートを書いてもらいます。自分自身が今持っている目標を紙に書いてそれを達成するためにどう行動していくのかを考えて記入してください」
無茶なお題だと思った。案の定俺は配られたロードシートを前にしても書き出すことができなかった。
大人はどうして高校生がみんな何かしらの目標を持っていると考えるのだろう。これから出ていく社会とは比べ物にならないほど小さいコミュニティの中で、将来の目標を見つけ出す方が難しいのではないか。
教室を見渡してみると俺と同じように書き出すことすらできずに止まっている人が何人かいた。
気になってそっと、前の方の席に座っている椿さんの様子を伺った。
彼女はなんの躊躇いもなくロードシートを書き進めていた。
そうか、彼女には将来の目標があるのか。少しだけ羨ましく感じた。
「それではロードシートを書いた紙を提出してください」
担任の先生の指示で生徒たちがロードシートを回収し出す。
俺は結局将来の目標を、安定した職業に就くと書いて提出した。どこかで見た目標を達成するためのテンプレートを思い出しながら。
……
「あら、ごめんなさい藤月くん。ホームルームでクラスのみんなに書いてもらったロードシート、一人足りないみたい。……足りていないのは、椿さんの分ね」
放課後、職員室に日直が書く日誌を提出しにいくと担任の先生がそう言った。
俺たちが提出したロードシートを確認していた先生は困っているようだった。
「じゃあ、俺確認してきますよ」
「あらそう? もし椿さんがまだ教室に残っていたら提出するように伝えてください。もしいなければそのまま下校してもらって構わないからね」
どうせ鞄を取りに教室に戻るのだし少しくらい、いいように使われても構わない。
ほとんどの生徒が帰宅するか部活に行っていて校舎にはほとんど生徒が残っていなかった。そのため上履きの音がやけに鮮明に聞こえた。
普段は狭く感じる廊下でさえこんなにも広かったのかと感じる。
俺が2年生の教室に戻ると椿さんがいた。
ああよかった。担任の先生がロードシートを提出するように言っていたと伝えよう。
「あの、椿さん……」
「……」
反応はなかった。彼女も無視をすることがあるんだな。いや、教室の入り口から声をかけたから俺の声が聞こえていないだけかもしれない。
「あの……」
もう少しだけ近づいて声をかけた。でも椿さんはなんの反応も示さない。
彼女の手元を見ると一心不乱に何かを書いていることがわかった。
ロードシートだ。
まだ何か書きたいことがあるんだ。素直に驚いた。
「あれ、藤月くん?」
俺が目を見張っていると椿さんが顔を上げた。やっと俺がいることに気がついたようだった。
「担任が椿さんのロードシートだけ出てないって言ってた。提出するように俺は伝言を頼まれたんだ」
「そうだったんだね。伝えてくれてありがとう。書き終わったらちゃんと出しに行くね」
少し見えただけだが、椿さんが書いているロードシートは文字でびっしりと埋まっていた。
「わかった、よろしく」
俺は自分の席に置いていた鞄を肩にかけた。
……



