『書籍化した!』

 友達がそう言ってきた。
 わざわざ俺の家に来て、大賞という文字の下にあるペンネームを指さしながら。

 その時の俺がどんな顔をしていたかなんて、鏡を見たわけではないのでわからない。

 ただ、明るい声を発していたことだけはわかった。
 俺には耳もあるし、友達が終始笑顔だったのを見れば自ずと分かる。

 芝生が広がる丘で、背中の後ろに両手をつく。
 チクチクと頑固な芝生がお尻に刺さるが、もっと欲しいぐらいだ。
 遠くで輝く望月を眺めながら、俺は小さく息を吐いた。

 学校で目をキラキラさせて『ここ面白かったよ!』と言われた時が懐かしく感じる。
 つい先日の事なのに、遠い昔のことだと思ってしまう。
 ……あの時にはもう第三次選考に受かっていたのか。

 芝に指をねじ込ませる俺は、煩慮せざるを得なかった。

 とあるWebサイトに小説を投稿し始めて1年半が経った。
 何十万、何百万と書いた文字は審査員の目にも触れず、ただ地の底に落ちるだけ。
 でも、書籍化という称号を夢見て書き続けてきた。

 毎日毎日キーボードを叩いて、構想を頭に思い描いて。
 幾度となく挫けそうになった心も、好きな執筆をすればすぐに忘れられる。
 それぐらい、俺は小説を書くことが好きだ。

 でも、今日。あいつは言ったんだ。
『書籍化した!』と。

 作品を書いたきっかけは俺。
 自分も面白いストーリーを書きたいとのことだった。

 そんなことを言われたらそりゃ嬉しいさ。
 自分に憧れて書き始めてくれたんだから。
 唯一、俺が執筆していることを言っている友達が同じ趣味を持ってくれたのだから。

 不意に、芝生には水滴がかかる。
 夜中に水やりだなんてけったいな光景だが、塩味を帯びた水が止まることはない。

『ラブコメで受賞したんだよ!』

 なんて、満面の笑みで言うあいつは俺の気なんて知らないのだろう。

 俺が執筆してて、一番書いたジャンルはラブコメだ。
 もちろんあいつだって知っている。

『このキャラ可愛いね。イラストが付いたらもっと可愛くなりそ〜』とか言っていたな。
 その度に俺は謙遜することもなく、腕を組んで頷くばかり。

 実際に俺だって可愛いヒロインが書けたと思った。
 表情豊かで、かまってちゃんなヒロインが書けたんだ。

 でも、選ばれたのは俺じゃなくてあいつ。
 あいつのほうが想像力が優れていて、あいつのほうが地の文が上手だった。

 きっと、俺が書いたヒロインよりも可愛かったのだろう。
 インパクトのある言葉を選んで、可愛さを増させる。

 風のように揺れる月影は湿った芝生を明るく照らす。
 けれど俺の心だけは照らしてくれない。
 満足させてくれない。

 俺と同じ出版社に応募したあいつは処女作。
 変わって俺は5作品の応募。

 1つの作品が第二次選考を突破した時、俺は喜色満面になったさ。
 ボーっと眺めていたスマホを放り投げ、ベッドの上に立ち上がってブリッジでもしようかと思ったほどに喜んださ。

 でもまぁ、結果は処女作に負けた。
 第三次選考にも届かない俺の作品はたかが知れている。
 ただ一心に書いた子供たちは声1つあげずに人の目から消えていく。

 でもあいつの作品はこれから観衆の目を引く。
 イラストが付いて、文字ですら可愛かったヒロインが更に可愛くなる。
 自分が呟いた言葉がそのまま自分に返ってくるなんて、幸せ者だな。

 しっとりとした夜風が俺の頬を表面だけ冷やす。
 杪夏でも、夜ともなれば辺りは冷える。
 けれど、俺の身体は無性に暑苦しい。

『この書き方真似たんだよね!』

 俺がきっかけで執筆を始めたのだから、あいつの書き方は自ずと俺の文字と似る。

 俺の書き方は間違ってなかったんだと喜ぶ反面、悪い場所を見つけられなかった自分に呆れが湧く。

 作品を少し見させてもらった。
 そしたらよく分かる。自分がどれだけ下手な言葉を選んでいたか、ということが。

 あいつはずっと俺の作品を読んできた。
 だから分かったのだろう。どこが悪くて、どこがいいのか。

 いわば俺の上位互換なのだ。
 俺の悪いところを直し、圧倒的な想像力を身につけた姿。
 それが書籍化したあいつ。

 あいつの作品にはひと工夫があった。
 留学生の美少女が転校してくるありきたりなお話。でも、その作品だけの特徴を最大限に引き出していた。

 誰も書かないような、誰も思いつかないような、そんな物語をあいつは書いた。

 知らぬ間に爪の間には土が溜まる。
 両手をぶつけて落とそうとしても、忍耐強い土はキーボードに触れていた手に引っ付いたまま。

 ずっと追い続けると言わんばかりにしつこい土は、指紋の間でしがみつく。
 避けるように視線を逸らした俺は、変わらず揺れ続ける月を見やった。

『ね!今度貰った賞金で焼肉行こうよ!』

 はにかみながら言ってくるあいつは善意のつもりなのだろう。
 でも残念。それは独り善がりの親切ってやつだ。

 気まずくなりたくなかったから、あの時は頷いた。でも、正直行きたくない。
 名一杯の笑顔でおめでとうと言い合える人が真の友達だということは分かっている。
 もちろん伝えられたときにはおめでとうと口にした。

 けどやっぱり悔しい。
 こんなのは負け惜しみだということぐらい分かってる。

 ただの嫉妬だって分かってる。
 嫉みだって。僻みだって。それぐらい分かってる。

「……悔しいんだよ」

 止まらない涙を肌で拭いながら歯を噛みしめる。

 こんなこと言ったって意味がないことぐらい分かっている。
 でも言いたいんだ。

「俺だって作家になりたいよ……!」

 Webで投稿してても作家は作家だ。
 1つの物語を作っているのだから立派な作家だ。

 けれどあいつみたいに俺だって自慢したい。
 胸張って、本を見せびらかしながら笑顔を撒き散らしたい。

 幾度となくそんな光景を頭に思い浮かべた。
 父さんにサイン本をあげたらどんな顔をするだろうか。自分の本を読んでいる友達に名乗り出たらどんな言葉が聞けるだろうか。
 そんな淡い夢を見続けていた。

 ――でも、もう無理そうだ。

 ただ一心に書いていた小説が、もう書けそうにない。
 好きだった執筆が嫌いになる。
 パソコンの前に座らなくてもすぐに分かった。

 小説を書いていると、ふと自分のことを俯瞰する時がある。
 その癖が初めて嫌になった。

 自分を見る能力さえなければ続けられていたのかもしれない。
 そんな悔しさが胸を蝕む。

 自分の作品が面白いと思わなくなってしまう。
 一番近くにいたファンの言葉が薄くなってしまうほどに、執筆が嫌いになる。

 だから俺は成長ができないんだということも分かってしまう。
 納得したくない言葉に頷いてしまう俺が憎い。

 まだ高校生なのだから成長の余地がある。そんな事言われなくたって分かっている。
 努力をしたら変えられるということも分かっている。
 でも変えられるのは語彙のみ。

 想像力はどんなにあがいても成長できない。
 あいつみたいに俺はひと工夫を加えることができない。
 いや、できなかった。
 その想像ができなかった。

 だから、もう……――

「――小説を書くの、やめよ」

 流れる涙とともに言葉が出る。
 足掻こうとも抵抗しようともせず、すんなりと口から溢れた。

 そしてすんなりと受け入れられた。
 自分の弱い意志が反抗する気にもなれなかったのだろうか。

 目元から腕を外せば、雲ひとつない月が俺を照らしてくれる。
 揺れていた光も、暑苦しかった身体も、いつしか消えていた。

 けど、やっぱり指についた土だけは消えていない。

 いつまでついてくる気なのやら。