ちょっと肩を落としてとぼとぼっと待ち合わせしていた場所までたどり着いた。本屋の近くのカフェの前、おなじみの黒のチェスターコートに白いシャツ、グレーのセーターに黒のパンツ姿の幼馴染がいた。
「瑞貴!」
結構大きな声で名前を呼んだら、瑞貴が手にしていた文庫本から目を上げてはにかんで笑う。その顔を見たら胸がぽかぽかと暖かくなった。
ほらな、顔見ただけでこんないい気分になれるのってこの世で瑞貴しかいない。学校の友達ともバイト先の友達とも瑞貴は全然違うんだ。
背の高い瑞貴の前を俺らと同い年ぐらいの女子グループが通り過ぎて行った。わざわざ瑞貴を振り返って少し離れたところで立ち止まって、鳥が囀るみたいに何か言いあってる。大方、瑞貴がイケメンだとか背ぇ高いとか、声を掛けたいとか写真撮りたいとかそんなん、言いあってるんだろう。瑞貴と出かけると度々こういうことがある。連絡先聞いてこられたり、盗み撮りされたり。スマホで勝手に写しそうな気配を感じたから、俺はその間に分け入るように、慌てて瑞貴に駆け寄った。
とはいえ俺の身体では瑞貴を全部隠せないのが残念だ。瑞貴は中学卒業の時よりさらに身長が十センチ近く伸びたから、傍に寄るとどうしても上目遣いになってしまう。俺もまだまだ伸びる予定だけど、今のところ差は広がるばかりだ。ちょっと悔しい。一昨年まで中学で同じ給食食べてたはずなのに。
「遅くなってごめん」
女子をチラ見したら目が合った。にこっとしたらきゃあって声が上がって、またなんか話してる。まあ、もういいや。もう放っておこう。瑞貴にぐっと腰を押されて、カフェの入り口に先導された。
「バイトお疲れさま。ここでいい? それとももっとがっつり何か食べる?」
こんなに大きくなっても覗き込んでくる仔犬みたいに澄んだ優しい眼差しは小さい頃と全然変わっていない。カッコいいのに可愛いとも思う。いちいちお得な男だ。
「がっつり食べたい、けども。とりま、甘いもの飲みたい。瑞貴、春物の服も見たいって言ってただろ? 映画の前に甘いの飲んで、服ちらっとみて、そんでラーメン屋食いに行こ!」
「分かった。みて。新作出てるよ」
流石瑞貴は俺の好みを熟知している。好物のイチゴと抹茶のドリンクがポスターに並んで写ってる。どっちも春の新作みたいだ。
「おお、やったあ」
俺はクリームがたっぷりかかったような甘い飲み物が大好きだけど、ブラックコーヒーが好きな瑞貴は多分あんまり得意ではなさそうだ。でも俺の為にここで待っててくれたんだなって思うと、それだけで機嫌がぐわっと上向きになった。
「この間、バイト代出たから俺がおごるよ」
「いいの? お前あんまりシフト入れないんだろ? バイト代全然足りなくならない?」
と聞いてから我ながら愚門だと思った。瑞貴の家は代々地元で開業医をしている一族で、両親は自宅で歯科医院を営んでいるお坊ちゃんだ。別にバイトなんてしなくても何でも欲しいものは親から買ってもらえるはずだ。今身に着けている服だって、小さい時は気が付かなかったけど、なにげなくタグを見たら、俺でも知っているハイブランドで驚いた。それを指摘したら母さんが買ってくれた服だから気にしたことなかったけど、なんて恥ずかしそうにしていた。ちょっと高校生には堅苦しいけど、きちんとした身なりに見えて上品だから瑞貴によく似あっている。そんな瑞貴も最近では俺と一緒に出かけるためにもっと砕けた服を買いたがる。俺と遊ぶお金ぐらいは自分で稼ぎたいって、シフトを入れているんだそうだ。義理堅いやつだ。
「俺は八広としか出かける約束してないから、月に二回に全力をかけてるんだ」
「なんだそりゃ。高校の友達はどうしたんだよ」
「高校の友達はいるけど、別に学校帰りにちょっとどこかによるぐらいで間に合ってるから」
「ふーん」
「八広こそ急にシフト入って大変だったろ? 眠たくない? 昨日遅くまで俺と通話してたのに」
「アラーム二回も消してたけど、起きれたから平気。映画館で寝てたら起こして」
「そっか。八広と話していると、通話を切りがたくて、切ったらすごく寂しくなるんだ。八広が眠りにつくまで通話していたくなる。ごめんね」
大きな瞳にくっきりした二重、長い睫毛がバサバサした目は華やかなのに、やはり骨格は親父さんに似てしっかりとして鼻筋が通っているから男らしくも見える。瑞貴は中学生までの大人しくて可愛い感じからシフチェンして、すっかりクールで知的な雰囲気を醸し出してきてる。そんな相手にじっと見つめられてこんなことを言われたら、幾ら友達だってなんだかどぎまぎしてしまう。
「そんなの、瑞貴が悪いわけじゃないじゃん。中々通話切れなかったの、俺もだし」
「……じゃあ、平日ももっと通話していい?」
「いいに決まってるじゃん。俺も話したくなったら連絡するし」
「よかった。じゃあ、イチゴと抹茶、どっちにする?」
俺と連絡とるぐらいでこんなに嬉しそうな顔するなんて、ほんと可愛い奴だなって思う。
「待たせたの俺なのにごめんな。うーん。悩むなあ。イチゴにしようかな。瑞貴はどれにする?」
「じゃあ、俺は抹茶のにするから、沢山味見していいよ」
「やったあ」
瑞貴の前だとなんも取り繕わなくて済むから嬉しい。先回りして欲しいものを察してくれるからかもしれない。大事にしてくれるから、俺も瑞貴との時間を大事にしたいって余計に思える。動画ばかり見ている俺と違って、本をよく読んでいる瑞貴はすごく博識で、話をするのがすごく楽しい。
学校の友達とはできないような深い会話もする。人は死んだらどうなんだろうとか、無人島に一冊本を持っていくなら何がいいかとか、戦国時代にタイムスリップしたらお前ならどう生きるとか、将来どんな生き方をしてみたい? とか。荒唐無稽な話からちょっとしたライフハックの相談も何でも気軽に話せる。こんな事話したらどう思われるかな? なんて気にしないで済む。
それとまあ、とにかく、これは確実に、見慣れててもやっぱこいつカッコいいなって度々見惚れるぐらいにイケメンだ。傍に居るだけでこいつと友達ですって隣歩くの、なんか誇らしくて嬉しい気分になれる。いや。小さい頃は俺より背も低くて華奢だったし、今みたいな分かりやすくイケメンって感じじゃなかったけど。そんな頃から一緒にいて楽しかったから、断じて顔や見た目だけで仲良くしているわけじゃないぞ。
もちろん話をしてなくて街を普通に二人で歩いているだけで、なんかわくわくする。この間は瑞貴の希望で東京の路地裏歩きしてみよう、って言いながら何キロも見知らぬ街をうろうろと歩いた。普通の民家の隙間に稲荷神社があってびっくりしたり、腹をすかせたまま休日のオフィス街に迷い込んで、折角発見した喫茶店は未成年はダメって断られた。腹ペコで寒くて閉口したけど、こんなん高校の友達とだったら険悪な感じになったかもだけど、瑞貴が『断られちゃったね。電車で別の駅に出る?』ってふんわり笑ってくれたから『それもいいな。じゃあ気になった駅で降りて最初に見つけた店でなんか食おう』なんて行き当たりばったりのチャレンジもできる。
彼女とのデートでこんな真似は絶対できないだろう。疲れた、意味わかんない、無駄、つまらないなんて思われたら最悪だし、どこで何食べて何して遊んでってきっちり決めておかないと駄目だろうな。
だけど瑞貴となら行き当たりばったりのそんな小さな冒険も楽しめるし、なんでだろ。馬が合うからふと街中でも気になるものとか目を惹かれるものが似ていて、気になったところに飛び込んでいけるタイミングが似ているんだ。
そういうのは瑞貴としか味わえない、ちょっとした奇跡。癖になるやつ。
席について向かい合う。喉も乾いていたからすぐに口元にストローを運ぶ。ちょっとドロッとした甘いイチゴのシェークとクリームが口いっぱいに広がった。
舌に重たい甘みも、少しだけ疲労を感じていた身体に染み入る。美味しくてにやけてしまったせいか、瑞貴も蕩けるような眼差しで「美味しい?」と聞いてきた。俺は満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。
「すげぇ、うまい」
「こっちものむ?」
瑞貴が差しだしてくれたドリンクの黒いストローに吸い付くと、こちらは抹茶の爽やかな苦みが心地よい。飲み終わって幸せだあって目を細めたら、瑞貴が俺の口の端を指先で拭ってくれた。びっくりして見つめ返したら涼しげな顔で指先を舐めとっている。どきっとする仕草に目を奪われたら、「なに?」と微笑まれた。
「うーっ。お前なあ」
また、にこにこ。嬉しそう。とんでもないイケメンだな。うん。
こいつはたまにこういうことしてくるから心臓に悪い。何この思わせぶりな悪い男ムーブ。幼馴染にやること? 心臓ばくばくってなるじゃん。
だけど一緒にいるとやっぱりしっくり落ち着きもするから、瑞貴は俺にとって本当に不思議な存在だ。一緒にいると空気みたいに自然だ。ただそこに居てくれるだけで心地がいい。美味しい空気?ってやつ。吸っていて楽、深呼吸できる。心地よくて気持ちが晴れやかになる。そうなんか、瑞貴といると、天気のいい山の上にいる時みたいなそんな気分になるんだ。
「どうしたの、人の顔じっとみて」
「いや、お前って山頂の景色って感じ」
こんな口からぽろっと零れ落ちた、自分でもわけわからない発言も、瑞貴は慣れっこなのかクスッと笑うにとどめる。
「なんだよ、バカにしてんの?」
高校の愉快であほっぽくてガサツで騒がしい連中とバカ騒ぎするのも嫌いじゃないけど、こんな発言は絶対に瑞貴の前でしか出来ない。多分瑞貴専用の自分だって思える。だからやっぱり、瑞貴と他の人は全然違うんだ。
「また八広が意味わからないことをいいだしたなあって思って。でもそれってきっといい意味で言ってるんだよね?」
「そうだよ。俺はポジティブなことしか口にしねぇの。ほら高っかい山のてっぺんってきっと空気が良くて澄み渡ってて、遠くも見えるけど足元の緑も綺麗で、青空でいい天気で……」
言っているうちに本格的に意味が分からなくなってきたのに、よしよしみたいな感じに瑞貴に頭を撫ぜられたから、自分でもう一回前髪を直してから、へへっと俺も出たとこそのまんまの笑顔を返せる。
「じゃあ、俺にとっては八広は青空かな。それとも宇宙かな」
「え、なんで?」
「これ以上、上はないってこと」
綺麗な目に俺だけが映ってにっこりされる。こういう笑顔を上品っていうんだろうな。瑞貴のお母さんもすごく綺麗な人で、うちの豪快ガサツな母さんみたいな、がははって笑い方じゃなくてこんな風にふわっと笑う。この笑顔見るだけでもなんか、すごく癒されるっていうか。だからやっぱ月に二回、二人で会うのは譲れない。って思ってたんだけど……。
「瑞貴あのさ、俺。日曜日、今までみたいに会えなくなるかもしれない。バ先の先輩に頼まれて、シフト変わることになるかも」
「え……。八広、その先輩と親しいの?」
「まあ、親しいかな」
「……ふうん。頼まれたら断れない程、親しいんだ」
珍しく穏やかでない声色で、こいつが俺といて機嫌が悪くなることは珍しいから流石に焦ってしまう。
「いや、っていうか、先輩、彼女さんが束縛強いみたいで今まで土日どっちもシフトはいってたのに、土日どっちも休んでって言われることもあるみたいなんだ。それでさ、マネージャーにも、日曜入れる人が減ってきたから入ってって言われて……」
「ふーん」
「俺だって、第一第三日曜日は予定あります、友達と会うっていったらさ。ならこっち優先できるっしょって、友達だったら彼女いる人優先してみたいなトーンで言われた」
自分でも納得していないことなのに瑞貴に弁明することになったのがなんだか悲しかった。しょぼっと下を向いていたら、テーブルの上に置いていた手をぎゅっと握られるのが視界に入った。指が長くて節がしっかりしてて、あったかくて、俺よりずっと大きな手。ぎゅっとされる。あの日腕を掴んでこられた時みたいに。びっくりして顔を上げた。
「……友達じゃないなら?」
「?」
「友達じゃないなら、いいの?」
そういって俺の顔を覗き込んできた瑞貴の目が、すごく真剣でなんというか熱っぽいっていうんだろうか。それをみたら頬がかあって熱くなってしまった。見慣れた幼馴染のしゅっとした顔が、なんだか別人みたいに見えたんだ。
手を、どうしたらいいのか分からない。ぴくっと動かしかけたけど、瑞貴は微動だにしない。むしろもっと強く握りこまれてしまった。
あああ、なんだこれ。どうしよ。周りの人が見てるかも。なんて思われる?
はわわわわっと頭の中で焦っていたら、ぐる、ぐるるるるると急にお腹が鳴ってしまった。
「あああっ」
とんでもないタイミングに、恥ずかしくて顔がどんどん真っ赤になる。瑞貴も目を真ん丸にして、そのあと真剣な顔を崩してふき出した。
「あははっ。お腹すいてたよな。やっぱ先にラーメン食べに行こう」
手はぱっと、何事もなかったように離された。
俺はぎゅっと掴まれた心臓もぽてっと落とされたような気持になった。なにこれ、ちょい寂しい?のか。でもでもでもっ。ど、どうしてくれよう、この動揺を。まだどっどっどっどって心臓はまだ鼓動が早いまんまだ。トレイをもってさっさと片づけに行く幼馴染の背中を見送りながら、俺は冷たいカップを持ち上げ続けて冷えた手を熱い頬に当て、どうにか冷まそうと頑張った。
※※※
なんか妙な空気をまとったまんま、俺はふわふわした足取りで店を出て、でも気を取り直して今日の目的の一つだった、瑞貴の春服を選ぶことにした。
入ったのは流行の服を試すのにはちょうどいい価格帯の店だ。
俺が選んだのは、普段瑞貴が着ないような、ストリートカジュアルの服。ネイビーのバギーパンツに、黒地に白いロゴの入ったデザインニット、そこに黒のキャップを合わせる。靴は俺が今日はいているのとお揃いの赤いスニーカーなんだ。瑞貴は顔がびっくりするぐらいに小さくてすごくスタイルがいいから、大抵のものをオシャレに着こなせると思うけど、このコーデはこの店のポスターに貼られててもおかしくないんじゃないか思うほどの出来栄えだ。
「あと、なんかアクセサリーつけたら完璧かな」
「すごくかっこいいですぅ。もしかしてモデルさんされてます? お兄さんのコーデも天才的、本当に素敵!」
長身の瑞貴が目立つせいもあってか、お店のお姉さんがつきっきりで色々お世話をしてくれている。今はちょうど二人きりで話をしようにも、さっきのあれは一体なんだったのかと、妙に意識しすぎてギクシャクしそうだったから、お姉さんの存在が地味に助かる。
「このニット春物なので今の時期はまだ一枚で着るのは厳しいですけど、そちらのお兄さんが着てるみたいな黒のダウンと合わせたら今の時期からでもいけると思います!」
「瑞貴もたしか黒ダウン持ってたよね?」
「うん。八広はどう思う?」
いつものきちんとした綺麗めお兄さんって感じの格好から、ちょっと治安の悪げなコーデに着替えた瑞貴はむしろ男の色気が増しててやばいぐらいにかっこいい。
腰の位置が高くて脚が凄く長いから、ダボっとルーズなシルエットがむしろスタイルの良さを際立たせている。本当は俺が理想としているような着こなしだから羨ましくて仕方がない。
「似合わない?」
「え……、ああ」
素直に褒めちぎりたかったけど、さっきの瑞貴の行動が頭から離れなくって、ワンテンポ反応が遅れてしまった。
「こういうの。俺すげぇ好き」
そんな風に思いついたことを素直に口にするにとどめた。瑞貴は満足そうに微笑む。
「そうか。じゃあ、これ上下どっちも買う。これ買います」
「ええ、即答?」
「八広もこれ着てみる?」
「え……、俺も?」
そうこう言っているうちに、ショップのお姉さんの前で瑞貴はシャツの上から着ていたニットを脱ぐと今度は俺のダウンとトレーナーを無理やりはぎとって上からずぽっとかぶせてきた。
案の定、瑞貴のサイズでは俺が着たらダボダボだ。すごい好みなんだけどなあ。
「ええ。大きくない? ワンサイズ下ならいいけど。ほらぶかぶかだぞ」
「う……。彼ニット。彼ジャージ以来の破壊力」
瑞貴が口元を手で押さえてなんかもごもごいってる。
指先が出る程度の大きさだから袖をたくし上げたら、お姉さんが「可愛い! すごくお似合いですよ」っていう甲高い声を上げて、それににかぶせるように瑞貴まで「すごく似合ってる、すごく可愛い」とか呟いて来た。俺は服装に可愛さは求めてないから、絶賛されても複雑。
「八広、この服も着てみて。俺も八広の服、選びたくなった」
「ええ? お前の服見に来たんじゃないの?」
「……一緒に出掛ける時の、コーデのバランスを見るから」
「んん??」
ぐいぐい押されて俺もダメージウォッシュが入ったネイビーのハーフバミューダと白い春物のニットを押し付けられた。
そのままお姉さんと一緒に試着室に連行されて、瑞貴お勧めのコーデに変身させられた。
ハーフパンツだけどバミューダだから大分いい感じのラフなシルエットでこなれ感でる。でも普段この丈、あんまりはかないから足元が今の時期は心もとない。ちょい長めの白のソックスと合わせてみればいいかな。嫌いじゃない。それに足の長さとスタイルの良さじゃ瑞貴に完敗だから、俺はこのくらい変化をつけた格好の方がいいかもしれない。
鏡でちゃんと見え方を確認してからカーテンを開けたら、二人して俺の登場を待っていたので照れてしまった。
「わあ、お客様、お顔が色白で髪の毛も癖がいい感じにほわほわっとした茶色で、白ニットを合わせると優しい雰囲気が正しく春コーデって感じ。可愛い! 足元ももうちょっと長めの白のソックス合わせたら、赤いスニーカーがアクセントになってて、すごくいいと思います。お顔立ち、きりっとも見えるのに、目元がキュートだからすごく爽やかですねえ。お兄さんの方はブルべ冬だと思うのでモノトーンやはっきりしたコントラストの色が似あうと思います。差し色に赤のお揃いのシューズを履いているのもポイント高いです! 二人とも、いい。すごくいい。浜辺を二人で歩いて欲しい。めちゃめちゃ可愛い! はわああ。推せる!」
なんだか興奮しているお姉さんの勢いに押されていると、
「買おう、それ、買おう、ぜったい。俺と出かけるときに着てきて欲しい」
何て瑞貴まで無責任に後押ししてくる。プチプラ系の店だから今手持ちのお金で買えないこともないし、ここまで絶賛されたのなら買うしかなさそうだ。
「じゃあ、お揃いでこのキャップも……」
お姉さんが俺の頭にも瑞貴と同じ帽子をかぶせようとしたら、瑞貴が凄い早業で自分が被っていた方のキャップを俺にかぶせてきた。
「わっ! 急にぎゅうってかぶせるなよ」
「ああ、ごめん」
帽子を一度とると、瑞貴が優しい手つきで俺の髪の毛を撫ぜたり前髪を横に流したりして整えてくれた。科学の実験でもしているみたいに真面目な表情がなんだかおもしろい。中学の頃もよくこれやられてたなあ。
友達からは「お前ら距離感バグってる。付き合ってんのか」ってからかわれたし、女子からは「桜場ばっか、大窪君に甘やかしてもらってずるい」ってやっかまれた。ほっとけ。小さい頃はむしろ俺が瑞貴のお世話してたんだよ。小学生の頃瑞貴はズボラでおっとりしたやつで、寝癖そのまんまで登校してきてたのを俺が直してあげてたんだからな! 俺たち自体は全くそのまんま、ずっとこんな距離感。お互いが手に届く距離にいるのが普通で、なんも変わってない。だけど瑞貴の背が伸びて格好よくなったら、やたら外野がうるさくなったのは面倒だったなあ。
距離が近いといえば、高校に入ったばかりの時、俺がネクタイがしめられなくって瑞貴に締め方を教えて貰ったことを思い出した。
あの時は正面からじゃなくて後ろからハグされるみたいな体勢で鏡を見ながら教えて貰った。ネクタイと一緒に手も取られても、俺があんまり上手じゃないから、何度も何度も根気強く巻きなおして、瑞貴からなんかいい匂いがしてた。多分瑞貴の家のラグジュアリーって感じの柔軟剤の香り。たまに頬に髪が当たってくすぐったくて俺が笑って逃げようとしたら、何笑ってるんだってぎゅうって抱き着かれた。
あの時もう瑞貴の方が五センチぐらい背が高くなってたから、背中に逞しくなった身体を感じて、低い声で「逃がさない」なんて囁かれたら、なんだか瑞貴すごく大人っぽくなったなあってドキドキしたっけ。
ドキドキしたなあ、あの時も。うん。
なんて思ってから正気に返る。お姉さんが瑞貴の肩越しに口元に手を当てて「うんうん分かるよ」、みたいな顔で頷いている。なんだろう。その不思議な表情。多分変だとは思われていないけど、明らかに男子高校生なのに、友達にお世話されてるのが微笑ましいとかそんな感じなのかな。
「おい、もういいって」
ぎゅっと瑞貴の胸に手をついて身体を少し向こうに押して俺は唇を尖らせた。なんか恥ずかしいだろうが。
「キャップは……、俺はいっかな」
「そうか」
着替えに行って買い物袋を提げて出てきたら、瑞貴に「手、だして」といわれた。
なんだろうと素直に右手を差しだしたら「逆がいいかも」って言われたので逆の手を出す。そうしたら手首に何やらまかれた。あっという間にブレスレットがまかれていてびっくりする。
「え、これ……、今買ったの?」
円の内側が白、外側が赤。ごくごく小さな赤いガラスビーズが細い革に通されていて、ところどころに白いビーズとアクセントのハンドメイドっぽいシルバーのパーツがはまっている。ぐるぐるっと二重にまかれたそのブレスレットが、輪っかにT字のパーツでひっかけるように腕に止められていた。
「あ……。これはその……」
瑞貴はなんだかもごもご言っている。ロゴを探して手首を動かしていたら照れて頭に手をやっている瑞貴の手首にも同じものを見つけた。
「お、お揃い!」
「……着替えている時、あっちの催事の店をちらっと見てきて、今日はその、二つ買うと割引になるっていうから」
「本当かあ?」
慌てて向こうの店に行ったら確かに二点以上で20パーセントオフっていう張り紙が貼ってあった。同じ商品は見当たらなかったけど、おいてある他の品物の値段を見たらそこそこしている。
「俺、自分で買うって」
「いいんだ。お揃いでなにかもてたらって思ってたから。それに、八広誕生日もうすぐだろ」
「もうすぐって4月だけど。まだ1か月以上あるし。むしろ来月瑞貴が誕生日じゃんか」
「でも、いいだろ」
催事の出店をしていたおじさんがひょこっと瑞貴の隣に立って「気にいって貰えたかい?」なんて聞いてこられた。
「どう?」
なんて瑞貴が俺に振ってくるから「気に入りました!」なんて腕を上げてしゅびっと答えるしかない。実際なんか、このブレス、インディアンジュエリーみたいにワイルドなところもあるし、赤が差し色で綺麗だし、しやすくてお洒落なブレスだと思う。そもそも俺は赤が好きなんだ。
「それ、本物のアンティークのホワイトハーツ使っているからね。かなりお値打ちだよ」
「ホワイトハーツ?」
「内側が白いからホワイトハーツ」
確かに言われたとおりに内側が白くて外側が赤いビーズだ。
「ホワイトハーツはね、昔は貨幣の代わりに使われていたトレードビーズなんだよ。100年ぐらい前のものだって聞くよ」
艶々と赤いゴマ粒みたいに小さなビーズにそんな力が秘められていたとは驚きだ。
「へえ、すごいね。流石瑞貴、物知り」
「貴重なものだから、大事な人にあげたいってことだよ」
なんて色の抜け具合が絶妙にオシャレなジーンズのつなぎを着たイケオジにそうウィンクされて、俺たちは二人そろってなんだか照れてしまってペコっと頭を下げる。
映画の時間まであと一時間余り。日が傾いて来た街を歩く。映画館の近くは生花のミモザが植わっていて、この時の為に特別な屋台も軒を連ねて、より一層の華やぎを見せていた。
パンフレットを貰った瑞貴はしげしげと中身を読んでいる。瑞貴は活字中毒だから普段から気が付くと何かしら目で追って読んでいたりする。俺がすることは「なんて書いてあった?」って聞くことぐらいだ。
「ああ、ミモザの日っていうのがあって、3月8日に女性に感謝を伝えるためにイタリアでは男性から女性にミモザの花を渡すって。ミモザの花言葉は感謝とか、友情とかあと……」
パンフレットから目を逸らさずに、舌の上で静かに転がすように、低い声で瑞貴が「秘密の恋、とか」と呟いた。
斜めに差し込んできたオレンジ色の日差しに照らされ、瑞貴の横顔が綺麗だけどなんだか光に透けて儚く見えた。
秘密の恋。
秘密の恋……。
俺も頭の中でその言葉がぐるぐると回る。すごく胸にぐっと来る言葉。瑞貴が掴んできた手、髪を直してくれた指先、見つめてくる眼差しが頭の中で映画のフィルムみたいにカタカタと流れていく。
雑踏の向こうからわあっと声が上がって、俺は現実にひきもどされた。
「あっちで、日ごろの感謝を伝えたら、花束を貰えるイベントがやってるんだって」
「そうなんだ」
「いってみる?」
「うん」
噴水のある広場がその会場になっているみたいだ。屋台にはミモザにちなんだアクセサリーや美味しそうなパン、俺達にはまだ早いお酒なんかが置かれている。綺麗な黄色のミモザのブーケが目に鮮やかで、手にして歩く人とすれ違ったら女性も共に歩く男性も笑顔が眩しい。
人だかりの向こうが映画館で、あと三十分もしないうちに映画が始まる。それまでの時間つぶしもかねて、二人並んで人垣の後ろで告白を聞いていた。
「お母さん、いつもお弁当を作ってくれてありがとう」
「受験一緒に頑張ろうねええ」
「就職した後もたまに一緒に遊ぼうね」
「この間勝手にケーキ食べちゃってごめんね」
「今まで傍に居てくれてありがとう、結婚してからもずっと仲良くしようね」
みんな臆面もなく大きな声で爽やかな告白をして、ミモザのブーケを手にして相手にプレゼントしている。幸せな顔、素直な気持ちを伝えられる人たちが、すごくすごく羨ましくなった。
俺は隣にいた瑞貴の腕に凭れるみたいに身体をぎゅっと押し付ける。
「……日頃さあ、親しいから言い出せないことってあるよね」
「そうだな……」
俺が瑞貴に叫ぶなら、何ていうだろう。
今この心にいっぱいに詰まっている気持ちってなんだろう。
感謝? 友情? 秘密の恋?
瑞貴の指先が俺の手の甲に触れた。びくっと反応したら、瑞貴が手を握ってきた。心臓がばくばくと鳴り始めた。
今日はなんだかおかしい。ずっとずっとこんな風にすぐに身体が反応する。いや、違うかも。最近ずっとそうだったかも。
瑞貴からのメッセージの返信を心待ちにしたり、通話したらもう眠る寸前まで声を聞いていたくて、相手が切ってくれないかな、俺からは切りたくないな、でも切られたら余韻が寂しくて、一緒に切ろうとか言い出したら変かなとかそんなことばっか考えてた。
日曜にシフト入れたくなくて、会いたくて、だけどそれを周りに言い返せるパンチ力の低い関係性が嫌で。
何で嫌なんだろどうしてなんだろ。
周りに叫びたい。一番大事な人だから、約束も一番大事にしたいんだって。
だけど友達だと無理なんだ。でもこの関係を変えるのが怖い。すげぇ怖い。
生まれてこのかた、物心ついてずっと傍に居た相手なのに、これからギクシャクしちゃったら何もかもなくなっちゃったら。
怖いよ。怖い。でもでもでも、物足りない。ずっともっと欲しい。瑞貴が俺以外と手を繋ぐなんてありえない。
身体中をぐるぐるぐるぐると渦巻くいろんな感情。
「八広」
名前を呼ばれて、長い指にきゅっと指がからめとられた。
「この1年、ずっと考えてた。保育園から今までずっと八広が傍にいることが当たり前すぎたから。離れたらどうなるんだろう。見当もつかない。って思ってた。いつも八広の事ばっか考えてしまうかもな。どこにいても、何をしていてもきっとね。……実際そうだった。離れていてもいつも、楽しい時も悲しい時も悔しい時も寂しい時も。いつも真っ先に八広の顔が浮かぶんだ。もっとずっと一緒に居たいって俺が一番特別になりたいって思ってた。でも本当の気持ちを伝えたら、この関係が変わってしまうのが怖かったんだ。でも……」
俺は胸に沸き起こった感情の赴くまま、瑞貴の手をぎゅっと握り返した。そしてぐっと瑞貴の腕を引っ張った。人にぶつかりそうになりながら駆け出す。駆け出して、手を繋いだままさっき見かけた花屋さんに飛び込んだ。
「この、ブーケ。一つください」
風に揺れているふわふわと光の粒子みたいに愛らしくて輝かしい花。ミモザのブーケが俺の胸にも勇気の灯りをともす。
言いたいのに言葉にならないんだ。いいの、本当に俺たちの関係を変えてしまってもいいの?
真っすぐに差しだしたブーケ。瑞貴はそれを静かに受け取って、胸に抱いてから、気持ちを落ち着けるように大きく吸って、息を吐いた。その姿に俺は胸がいっぱいで、何も言えないんだ。
「八広、何も言わなくていいよ。わかるから。俺と同じってことでいい?」
目配せだけで俺が行きたいところ、見たいもの、欲しいものを読み取ってくれる瑞貴。今まで一度も疑ったことはなかったから、俺は賭けに出た。こくっと頷いた。
「俺も、同じ気持ちで、あってると思う」
「やったあ!」
雑踏の中でも周りが驚いてこちらを見るほど、瑞貴がこんな風に大きな声を上げたのって、いつぶりだろう。ああ、中三の時にクラス替えで同じクラスになった時以来かな。
『修学旅行ぜったい八広と同じクラスになりたかったんだ。嬉しい、嬉しい』
そんな風に噛み締めてくれた。あの時の笑顔とおんなじか、それ以上の笑顔だ。俺が掴んでいた手を逆にぐっと引かれた。
それで俺は、バランスを崩して瑞貴の胸に体当たりしたら、長い片腕に巻き込まれるように抱きしめられた。
「八広……、八広」
ちょっと屈んだ瑞貴の声が耳の近くで聞こえる。感極まった声色。祭の影響で狭い広場は人でごった返していたのに、一瞬周りの雑音が気にならなくなった。
時間にしたらどのくらいだったんだろう。瑞貴は掴んでいた俺の手を離すと、両手で腕の中に俺を抱え直す。宝物を包み込むような感じ。俺はお前の大事なものなんだなって、すげぇ伝わってくる仕草。
ああ、瑞貴のコートは肌触りも優しい。流石高級品。なんて照れ隠しに必死で別の事を考えないと、どうにかなってしまいそうだ。そしたらぱちぱちぱち、って前から聞こえる。
はっとして音のする方を探したら、花屋さんのお姉さんたちがこちらを見ながら、満面の笑みを浮かべて手を叩いていた。
「み、みずき、人が見てる」
「いこう!」
瑞貴がもう一度俺の腕を掴んで駆け出した。どこに行くというのだろう。背後の建物の中に飛び込んだ。そのまま階段を駆け上がる。あまり人の往来がないそこは、映画館とは別棟の建物の階段だ。今は夕暮れ時で、踊り場に嵌っているステンドグラスみたいな丸い赤い硝子とアールを描いた鉄の飾りの模様がすごく綺麗なんだ。
小さい頃から俺はここと、建物の間を結ぶブリッジとアーチ形の回廊が好きって思ってた。ごちゃついた雑多な街で、子供の頃から何度も遊んでる街で、ロマンチックの欠片もないけど、ここだけすごく綺麗で、さっき瑞貴からもらった赤いブレスレットを見てここを思い出した。
俺がここの赤いの、綺麗だねって小さい時に言ったこと、瑞貴はちゃんと覚えていたんだ。胸が苦しい。涙も出そうになる、なんだろうこの感覚、身体から溢れそうになるこの気持ち思い、愛おしい、感情。
何度も来たことがある地元の映画館で、相手は幼馴染の男で、なのにぎゅうって抱きしめられて顔が近づいてきたらもう、映画のドキドキなんて目じゃないほどの興奮が身体中を駆け巡る。瑞貴の真剣な顔を、俺も息を飲んでただ見つめ返す。
「八広の土曜も日曜も全部の時間、俺が好きな時に予約できる権利が欲しい。俺を八広の彼氏にしてください」
「はい」
ああ、もうこんなん。頷くしかないじゃん。ぽろっと涙が零れてしまった。情けない俺を瑞貴は背中に手を回して抱き寄せてくれた。
「はい、とかいっちゃったよ」
照れ隠しでそんな風に言って、涙を見られたくなくて瑞貴の襟の間から覗くセーターにごしごしと顔を押し付けて拭いたら、瑞貴は後ろに回していた手をほどいて、俺の両頬に手を当てぐいっと顔を上向かせた。
「今更、嫌とか言わせないよ」
屈んだ瑞貴の端正な顔に影が落ちる。なんだか魔王様みたいな妖し気な風情だなって俺がほへぇってボケ顔で見上げていたら、あれよあれよという間に瑞貴の顔が近づいてきて、唇にふにゃ、と柔らかいものが当たった。
「みずっ」
慌てて口を開いたところにもう一度角度を変えて唇が押し当てられる。あったかい唇、柔らかい。吐息が熱い。何より俺の顔は耳の先まですんごく熱い。何度も押し当てられるような口づけ、当然俺は初めてだ。当然っていうのは情けないけども。
瑞貴も初めてなんだろうか。顔が離れる寸前にちらっと盗み見た顔は、頬を真っ赤に染めた可愛い顔だった。可愛いけども、強引な力は男らしくてすごく悔しい。
俺は無性にからかってやりたくなって「おい、お前顔真っ赤だぞ」なんて胸を張ったら、瑞貴は綺麗な眉を片方上げた。
「そっちこそ耳まで真っ赤だよ」
じゅわあああって、水が掛かったらいうんじゃないかぐらいに余計に頬が熱くなった。
「くそう、瑞貴のくせに生意気だぞ」
涙目で見上げたら瑞貴はそれはそれは色っぽい顔をしてきた。
「そんな顔しないでよ。映画じゃなくて二人っきりになれるとこ今すぐ探したくなるから」
「ふ、ふたりっきりとは……」
瑞貴はくすっと笑う。いつもみたいにふんわり甘くて柔らかいかき氷みたいに儚い笑顔じゃない。なんだろう、こう。今まで隠していた熱い塊みたいなやつを覗かせるような情熱的な顔。端正だからこそ余計に凄みがある。言うなれば綺麗な天使の背中から悪魔の羽が生え直したみたいな感じ。なんかそうだな、こいつからは逃げられないって感じ。だって俺もう身体が操られるみたいに、瑞貴にしがみ付いちゃってるし、情けないけどちょっと身体がぶるって震えてしまった。
怖いんじゃないぞ、こういうの。武者震いっていうんだろ?
「まあ、いいか。映画館も暗くなったら周りなんてみんなみないだろうし」
「ええええ、なにすんの。怖いんだけど」
「なんでしょうか。そろそろいこうか」
そう言って憎たらしいぐらいにいつも通りの涼しい顔でにこって笑ってから、瑞貴は先に階段をすたすた上る。なんか鼻歌でも歌いそうな足取りの瑞貴に、俺は手を引かれてその後をついていく。
映画館の方に渡るアーチのブリッジから下を見下ろすと、さっき告白イベントをしていた広場はいつも通りの噴水ショーが始まって、光と水の飛沫が上がったり下がったりしているところだった。
こんなのじっと見つめてるの、暇なカップルぐらいだろうって良く揶揄してたわけだけど、今まさに二人して噴水を見下ろしている。夕焼けに近づいた空の下、瑞貴の顔が急に俺に急接近してきた。そうは何度もやられてたまるか。
今度はこっちからやってやる。俺は瑞貴のシャツを首元を掴むと、自分から背伸びして唇をくっつけてやった。
焦った顔で目の下あたりの頬をさっと赤らめて、瑞貴が驚いて一歩引いた勢いで小さなミモザの花のブーケが瑞貴の指先を離れて宙を舞う。
「「あっ!」」
慌てて手を伸ばしたけど橋から下に向かって落ちていった。
軽いブーケはふわふわと下に落ちて行き、覗き込んだら小さな女の子が拾っていた。上を見上げたから俺たちは逃げるように後ろに引っ込んで、悪ふざけで倒れ込んでお互いに抱き着いて笑いあう。
「あーこれ、あれだな。ブーケトスみたいだ」
そんな小洒落た台詞を言えるのは、俺の幼馴染じゃなくて、できたてで湯気が立ちそうな俺の恋人。坪井さん、俺もうシフト変わってあげらんないかも。
好きな奴が幸せそうに俺の手を握って笑ってる。ああ何ていい日だろうなあって俺は薄オレンジとピンクに色づいた雲を見上げたんだ。
※※※
たんまりポップコーンを買い込んで、コーラをぐびぐび。
暗い上に公開から日が経ってる映画なせいか、劇場の座席の周りは隣も前も人がいない。一番後ろの席だからって、瑞貴がずっと手を繋いでくるのは卑怯だと思う。でもなんかちょっと、この席、策士のなこいつからの謀ごとの香りがする。
「八広、眠たい?」
「うん……、ちょっとな」
顔がくっつくんじゃないかって位置で囁く瑞貴の声は、心なしかいつもよりずっと甘くて身体にゾクゾク響くほどに低い。
たまに俺の手をひじ掛けから勝手に持ち上げて、手の甲にまでキスをかましてくる。なんだこいつ、俺の知ってる瑞貴じゃないぞ。どうしちゃったんだよ。頭にミモザの花でも詰まってるのか? ふわふわでキラキラで綺麗なやつ。なんて考えてしまってる俺も大分きてる。
なにしろ映画の内容なんて全然頭に入ってこない。そんな風に考えている傍から、瑞貴が俺の耳元に形のいい唇を寄せてまた囁いて来た。
「次、映画見るときはこっちの映画館じゃなくてさ、ショップモールの方行ってみる? カップルシートあるから」
「ま、まじか。瑞貴なんか浮かれてない?」
「そりゃ浮かれるよ。物心ついた時から好きだった人と恋人同士になれたんだよ」
「え、お前ずっと俺の事好きだったの?」
「……ずっと好きだったよ。むしろ好きじゃなきゃ、学校離れた幼馴染にここまでしつこくしないだろ」
「そうかあ?」
「はあ、八広のそういうとこ、本当に心配なんだよなあ。鈍感で」
小さい声でなんか言ってるけど、ちょうど映画のアクションシーンが始まって流石に聞こえない。
「なんかいった? 悪口だろ」
「共学の高校だし、バイト先も女の人が多いし。こんなに明るくて楽しくて可愛いんだ。みんな好きにならないはずがない」
「……あとでゆっくり聞くからな」
しんっと静かなシーンになった。主人公たちのシリアスなシーン。字幕に目を凝らしていたら目の前を腕が横切った。
「え、なんだよ……。んっ」
またもやキス。キャラメルポップコーンの甘い味。美味しくて、思わずペロッと瑞貴の唇を舐めたら、うっと唸って動きが止まった。
「……この、八広お前」
「なんだよ、仕方ないだろ。美味しいんだもん。お前のキス」
「あーもう、どうしよう」
「なんだよ」
クリーンが昼間の情景になって、背もたれに脱力するように凭れた瑞貴の顔も明るく照らされる。なんか照れて照れて仕方ないみたいな、珍しく落ち着きない動きをしててこっちもそわそわしてしまう。
「八広可愛すぎ……。あーもうどうしたらいいか分かんないな。好きすぎて、休み以外もずっと毎日会いたい。なんで俺たち、同じ高校じゃないんだろう」
ちょっと悔しそうな顔でぎゅっと目とか瞑ってるから、俺の方から手を握り返した。
「……じゃあさ、俺が毎日早起きするから、駅で会おうよ。ちょっとの時間だって、顔見たらさ。多分、毎日、楽しいよ」
「……それ名案。八広最高」
「だろ」
「ブレスレットつけて学校いってね」
今度はブレスレット事、手首の内側にキス。なんかくすぐったいし、ちょっとぞくっとくる。笑い出したくなって口元を押さえたら、余計にキスしてくるから、こいつほんと悪い奴。
「くすぐったいからやめろって。……まあ、うちの学校はゆるゆるだからブレスレットつけるぐらいいいけど、お前んとこは厳しいだろ?」
「まあそうだね。胸ポケットにいつもしまっていくよ。あーあ。本物も小さくしてポケットに入れて持ち歩けたらいいのに。そうしたら今日だって家に持って帰って、学校にも隠して連れて行くよ」
「なにそれ、瑞貴、面白すぎる」
なんて茶化したつもりだったのに、瑞貴は本気だったみたいで「ホムンクルスっていうのがあって。人造人間なんだけど、人も小さく作り替えられないのかな」とかまたとんでもないこと言いだした。
「小さくなったら、いつでもお前と一緒に居られるから、まあ、悪くないかも」
「でも大きな瑞貴にこんな風に触れられるだけで、嬉しいよ。夢みたいに」
優しい手つきで瑞貴が髪を撫ぜてくれる。ほっとしたら睡魔が襲ってきた。やっぱり夜更かしは良くない。ふわっと身体の上にあったかいものがかけられた。多分瑞貴のコートだ。もう一回、唇がふわふわっと甘くて柔らかなもので包まれる。
「おやすみ、八広」
「おやすみ」
お休み、瑞貴。夢の中でもお前に会えたら、俺の今日一日はずーっとずっと。幸せだって言えるよな。
短い間だけど、瑞貴と満開のミモザの木の下を散歩して歩く夢を見た。
幸せな夢だった。目が覚めたら周りはもう明るくって、みんな静かに劇場の出入口に向かって階段をおりている。
「楽しかった? ラストどうなった?」
って聞いたのにさ。瑞貴は肘掛に置いた腕に頭を乗っけてさ、小首を傾げてこういうんだ。
「さあ、どうなったんだろ?」
「え?」
「ずっと八広の寝顔を見てたから、俺も結末がわかんない」
そんなうっとりした顔で言われたらあーもう恥ずかしい。俺は両手で顔を覆って、でもなんか無性に嬉しくって、くすぐったいこの気持ちをとても落ち着けることが出来なくって。脚をジタバタさせることしかできなくなってしまった。
終
海に近いアクセサリー店。ショーウインドウ越しに一瞬眺めた後、八広はガラス戸に手をかけて中を覗いた。
そしてすぐに俺を振り返って「瑞貴、ここであってる!」なんてぱあっと顔を輝かせてる。
八広はいつでも仕草がいちいち可愛い。ちゃんとショップカードに書いてあったアドレスに尋ねてきたんだから、あたりまえだろ? なんて只の男友達には冷たい言い方をして突き放してしまうけど、八広には口が裂けてもそんなことは言わない。
俺はただにこっと笑って頷いた。
「こんにちは!」
元気な挨拶をしながら店に入っていく春物の白いセーターを着た背中に続き、俺も店の中へと足を踏み入れる。
店内は明るい。窓からの春らしい柔らかな光が差し込んでいて、広々とした印象だ。白い壁に木のぬくもりを感じさせる棚が配され、サーフボードや西海岸風の写真が飾ってある。鎌倉らしい海街らしさがそこここに覗いている。
大人の先客の姿もあった。ユニセックスで海辺に似合いな洋服や雑貨の置かれた棚を眺めている。お洒落なセレクトショップといった感じだ。
「あれ、君たち。確か前、催事の時に来てくれたよね」
店の奥にた俺たちの父親よりちょっと年上らしき店主が、老眼鏡らしくお洒落な金縁の老眼鏡を外しながら声をかけてくれる。
「そうっす。これ!」
八広は屈託ない笑顔を浮かべ、自分の腕についた赤いビーズのブレスを持ち上げた後、ついでに俺の左腕も持ち上げた。
赤いブレスレットと、今二人で身に着けている服を買った日。俺は八広と念願の恋人同士になった。
お揃いのブレスレットはあの日から俺にとっての宝物。今日はもう一つの宝物を二人で探しに来たんだ。
「わざわざ来てくれてありがとう。大仏はもう見てきたかな?」
「この後行きます!」
駅の反対側を道沿いに歩けば、あの有名な鎌倉の大仏がある。だけど今日はこちらに来ることがメインだったから、観光も食べ歩きの予定も全部これからの予定だった。
「えっと、あの。今日は指輪……、見に来ました!」
何も聞かれていないのに、そんなに照れてたらペアリングを買いに来たってバレバレだよ、八広。
頑張って言えたよ? みたいな顔で俺を見上げてくるからこっちまで妙に照れてしまう。
俺の恋人は、何て愛おしい奴なんだろう。
「そうか。君たちみたいに若い子が気に入るものがあるといいけど。そっちの棚とこっちのガラスケースの中にもいくつかあるから。気になるものがあったら出すから声をかけてね」
耳まで真っ赤になった八広に、店主さんも目を細めて嬉しそうに微笑んでくれてる。八広ってなんていうか、相手の心を和ませる雰囲気を出せるんだ。それにずっと、人付き合いが苦手で顔に感情が出にくいって言われ続けてきた俺は、小さい頃から八広の人懐っこさに救われ続けてきた。一緒にいると二人そろって感じがいいと思われがちで、俺はそれで大分得をしてきた。いうなれば八広は俺にとっての守護天使みたいな感じだ。
実際明るい日差しの下にいると、背中に羽根でも生えてるんじゃないかと思うことがある。それぐらいに真っすぐで素直なところが、俺にはないものを持っていて、好きにならずにはいられなかった。
「君たちがしてるそのブレスレットは、企画は僕がして、作った作家さんはそっちの棚にあるアクセサリーを作った人だ」
「だってさ。ブレスと同じ作者の方がいいかな。みよ」
男性向けのデザインはインディアンジュエリー的なテイストのものもあれば、もっと洗練されたデザインのものもある。
綺麗なターコイズがはまっているものはやっぱり値段が高い。スリーピングビューティーという真っ青な空みたいなターコイズは希少だけど、色白な八広にその色が良く似あいそうだ。
八広の提案で三月と四月生まれの俺たちはそれぞれに指輪をプレゼントしあうっていう形でプレゼントを贈り合うと決めた。八広はブレスレットをプレゼントされたから指輪は自分が買いたいって言ってくれたが、あれは俺の独占欲が爆発した形で本当に衝動的に買ったものだから、誕生日プレゼントは別に買いたかったんだ。
※※※
ブレスレットを買った日曜の前の週。八広の通う県立高校はバレンタイン当日は入試に重なるので在校生はお休みに入る。俺にとっては八広が高校で女子からアプローチされてくることを一番恐れていたから、願ったり叶ったりの休みだ。八広も入試休みに沢山バイトを入れられたから嬉しいといっていた。
バレンタイン当日。俺はバイト帰りの八広を地元のカフェに呼び出した。八広は手作りのお菓子が入っているらしいお店のロゴはない可愛い紙袋を幾つも下げて帰ってきた。
目に入った瞬間、胸が焼けるほどに焦れてたまらなくなった。
八広、八広。その紙袋、きっとチョコだよな。バイト先で貰ったのか?
手紙が入っていなかったか?
バレンタイン、俺以外と会う約束をした?
呼び出されて告白とか、されてないよな?
詰問したい気持ちを抑えて「バイトお疲れ」と微笑んで労う。八広は「あんがと」ってあっけらかんと笑って一緒にカフェに入った。
意気地のない俺は八広にちゃんとしたチョコレートを渡す勇気はなくて、ただカフェで飲み物を奢るよって声をかけた。
そしたら八広は「今日は俺が奢る」っていったから、俺は自ら進んで、バレンタイン限定のラズベリーソースのかかったショコラのドリンクを選んだ。
八広は「瑞貴甘いの苦手なのに、平気なのか?」なんて言って笑ってたし、実際俺は甘いものは得意ではない。
だけどどうしても今日は八広からチョコレートを貰いたかった。それがショコラのドリンクでも。だからそんな姑息な作戦を決行してしまったんだ。
「じゃあ、俺はこっちにする」
八広はホワイトチョコが溶けた温かい飲み物を選んでた。上にはクリームまでどっさりのって、さらにパラパラと削ったピンク色のチョコが散らしてある。甘い、きっと甘すぎる。八広は嬉しそうに飲むから、見ていてこちらも楽しくなるけど。
席に移動して、甘い香りが漂うカップに八広が口を付けた。白いクリームが唇につく。八広の唇はちょっと薄めで、良く笑う口はちょっぴりだけ大きめだ。
傍に居たら触れたくて仕方なくなるから、無意識に手が動く。俺は八広の唇の端についたクリームを指でなぞろうとした。いつもしていることだけど、八広は恥ずかしそうに頭を後ろに引いて、自分の手の甲でグイって口を拭う。ここのカフェは地元だから、働いている中に同級生がいるんだ。それが少し、忌々しく感じた。
「……八広、それ一口飲んでもいい? こっちも飲む?」
「いいよ。瑞貴が甘いの欲しがるなんて珍しいな。疲れてる? テスト勉強忙しい?」
そんな風に目を細めて笑う。確かにテストまで二週間になっていたけど、そんなことより八広に誰か告白してきたりしないか、そんなことが気になって前の晩中々寝付けなかったなんてとても言えない。
「はい」
差し出されたカップ、わざわざ聞き手に持ち替えて口をつける。こっくりと甘い。ホワイトチョコレート。八広も遠慮なくストローに口をつけて俺の分のショコラドリンクを飲んでいる。
「あー。こっちのが好みだった。失敗した」
「じゃあ、そっち八広が飲んでいいよ」
「え、いいの?」
にぱっと素直に笑う。目を細めると狐っぽくて可愛い。一口しか飲んでいなかったけど、俺が選んだものを八広が飲んでくれるならチョコレートを交換した気分まで味わえてちょっと嬉しい。
なんてことを俺が考えているなんて、この鈍感幼馴染は一切思わないんだろうな。
あくまで、優しくて気の合う、一番の親友で幼馴染み。このポジションを動かさないようにしなければいけない。学校が離れてしまった今、お互いに接点を務めて持たなければ、俺たちは本当に離れ離れになってしまう。
八広の方から避けられてしまったら、取り戻すまで時間がかかることは必定だ。
「ねえ、八広。その紙袋って……」
探りを入れる声を感情を薄めに入れる。怖がらせては駄目だ。今どれだけ胸の中にドロドロした感情が溢れているか、この素直な幼馴染に悟られてはいけない。いつだって八広を独り占めにしてどこにも行かずに腕の中に閉じ込めておきたいなって、そんなことばかり考えているなんて、知られちゃいけないんだ。
「ああ、バ先の先輩たちからもらった。女子はみんな手作りチョコとかお菓子の交換会してたんだって。俺はあまりをもらったようなもんだから。帰りに渡されて、まだ中見てないけど。瑞貴こそ、たくさんもらっただろ? 中学の時、最後すごかったもんな」
「男子校なんだから。貰うわけないだろ」
「それもそっか」
ちょっとほっとしたような顔をしてくれた気がしたけど、そんなはずはないよな。
八広の笑顔はあくまで屈託ない。
今回だって先輩からただお菓子を貰っただけ、なのかもしれないけど。ホワイトデーにはお返しとか考えるよなあ。
女子と接点を持って、近づいて欲しくない。
胸の中でもやもやとした黒い雲が立ち込めていく。ホワイトデー。一か月後。むしろ俺の誕生日が近い。出来ればそれを口実に八広の気を引けるようにしたい。でも……。出来ればそれまでに八広と一歩関係を進めてしまいたい。俺の事を意識してくれるように。意識してくれるような……。何かできないだろうか。
「明後日の日曜日。会えるよね?」
「会えるよ。朝からちゃんと一日開けてるって」
八広が座席からずり落ちそうになっていた紙袋を、テーブルの上に並べなおした。可愛らしいラッピングのセロファンが覗いている。女子ならこんな風に何げなく渡せるんだろうな。正直羨ましい。俺は色んな理由を考えたけど、チョコを渡す勇気が出なかった。
紙袋の中にメッセージカードとかあるんじゃないのか。気になる、どう確認しようか……。
「どんなのもらったか。見せて? 誰からもらったの?」
不自然だっただろうか。八広は目をぱちくりっとして驚いてから「いいよ」と中身をごそごそしてきた。
「あー。マフィンとか、こっちはクッキーかな。これはチョコ。こっちもクッキーだ。俺にまで作ってくれて気を使ってもらっちゃったなあ。手作りだ」
ちらっと見えたカードには「いつもありがと」的な一言とか、ヤヒロ君と名前だけ書かれた花柄のテープが張られていただけだったから、俺はほっと胸を撫ぜおろす。
「こういうの、俺も作って返さないと駄目かな? 小さい頃は姉ちゃんと一緒に作って返してたけど」
「それ、俺とやろう」
「え? 瑞貴と?」
食い気味に言ってしまった。変に思われなかっただろうか。とはいえ感情が顔には出にくいので、静かに応える。
「お菓子作りに母さんが凝っていて、近所に配りまくっている」
「おばさん料理上手だもんね」
「それが母さんのストレス解消手段らしいから。俺もガトーショコラに添える生クリームを作る係をしている。傍で見てたから作れると思う。八広が久しぶりにうちに来てくれたら、母さんも喜ぶ。とにかく母さんは誰それにあげたいからとかお礼とか口実を作ってお菓子作りがしたいんだ」
「ほんと? じゃあ俺も大窪家に教わって作ってみるか。面白そうだし。材料ちゃんとかってくから、教えてくれよ」
「わかった」
こうしてホワイトデー付近の八広の言動も見張ることができたわけだが、それだけでは足りなかった。日曜日に会って、どうにか八広に俺の事を四六時中意識してもらえる何かができないか。
八広が急にアルバイトのシフトが変わったというから、俺は朝から先に本屋を巡ったり文房具を見に行ったりして時間を潰していた。八広に一緒に服を選んでもらおうと思っていて、服屋も下見をした時。近くに出ていた催事のアクセサリー店の棚の上に赤いものが見えてすごく気を惹かれた。
赤は八広が好きな色。好きな人が好きな色だから俺も意識している色。
「それ、ホワイトハートっていってね」
「トレードビーズだったものですね」
「おお、若いのに博識だな」
初老の店主さんが色々と語ってくれた。俺はものの背後にあるストーリーを聞くのが好きだからすっかり話し込んだ。その中でいいアイディアがふと頭に閃いた。
この目を惹く赤いビーズのブレスレットを、八広にどうにか毎日身につけさせられないだろうか。急に八広が付け始めた目立つ色のアクセサリー、誰が見ても牽制にならないだろうか。あくまでさりげなく渡して、さりげなくつけて貰って……。
あまりにもブレスレットをじっと眺めていたから、店主さんからも後押しされた。
「元々は一つの束から作ったシリーズだったけど、これもう二つで終わりだ。本当はセール外のつもりだったけど、熱心に見てたからなあ。好きな子にでも渡すのかい? 割引してあげるよ」
俺はこくっと頷いて、ブレスレットを手に入れた。
もともと一つだったものが離れたのか。その物語性にも心惹かれた。二人で身に着けたい。これが二人を結びつける、運命の赤い糸みたいになってくれたら……。
「おい、瑞貴。考え事かよ」
「あ……」
指輪を選んでいる最中だった。八広がちょっと唇を尖らせながら文句を言ってきた。可愛い。俺の手を取ると、ガラスのショーケースの上に載せさせる。
「これとかどうかな?」
指輪を何の躊躇もなしに、左手の薬指に嵌めさせてきた。なんだか胸がいっぱいになる。俺が周りを牽制しつつ、いかに八広の気を惹こうかと考えている間に、八広はいつでも真っすぐに俺の胸をぐっと掴むリアクションをして喜ばせてくれる。
「なあ。これシンプルだけど、シンプル過ぎん? え……、瑞貴? 調子悪いの?」
ちょっと泣きそうになってしまって、右手で目元を覆ってしまった。
「いや。大丈夫。八広も手を出して」
「ああ。うん」
俺も元々こっそり測って知っていた、八広のサイズのところから同じデザインの指輪を選んで、嵌めてあげた。
あの日のミモザのブーケに続いて、これはまるでエンゲージリングみたいだな。
そんな風に思いながらいつでも俺の気持ちを明るく照らしくれる人の頬に、俺は人目を憚らずにキスをした。
「おい! 瑞貴、急になにすんだよお」
ぷんぷんっていう擬音でもつきそうな表情。八広の膨れたまろい頬が赤いから、ああもう、本当にすごく可愛い。
あーあ。俺の語彙は八広を前にすると蕩け落ちてしまって、可愛いって単語以外浮かばなくなってしまうんだ。
終