可愛いヒロインに実は憎めない悪役。
そしてヒロインには優しくって大切な彼氏が付いてくるのがお決まりだ。
ページの端に映るモブも数秒だけ出てくるクラスメイトもみんな輝いている。
それが小説であり漫画でありアニメでありゲームのストーリーである。
現実とは程遠く絶対にいけない世界でありながらもみんなが共感して大好きになって恋焦がれている。
そんな夢物語を二次元と呼ぶならきっと私が体験したこの物語は二次元であって二次元でないのだろう。
こうやっていい風に書いてしまえばきっと誰かには夢物語として取られてしまう。
それでいい、それでこそ創作物と呼べるのだから。
でもこれは、私と彼のきっとこの世界が大きな物語ならモブにすらならない誰にも見られはしない、そんな小さな出来事でモブ以下の私と彼にとっては大きな出来事である。
毎朝、ちゃんと起きる。
毎日、ちゃんと学校にいく。
日本に生まれれば当たり前のことが私は苦手だ。
今いる教室のざわざわとしたうざったい空気も苦手だ。
「奏おはー」
「お、おはよう……」
こんな風に普段絡まないくせに朝の挨拶だけは一人前なクラスの中心人物が苦手だ。
高校二年生になり数か月暮らした私の席は一番窓側列の真ん中の席。
早速だが私には友達がいない。
少ない、のではなくいないのだ。
現代に生まれてよかったと思うことが一つだけあるとするならスマートフォンの存在だろう。
この四角いとても繊細な板を見ていれば友達がいなくったって平気だし。
そう思って今日も影になることに徹する。
先生すら私のことが見えていないみたい、ほとんど授業では当たらない。
二人一組のペアは余るどころかまず視線にすら入らないだろう。
だからやり過ごす、最低限の出席と単位を取るために学校に行っている。
私には青春も恋愛も全部いらない。
学校はそんなところじゃないのだから。
ざわざわと耳の奥でなり続ける音に不快感を示し一人俯き目を伏せた。
「はーっ……疲れたぁ。」
家に帰ってくるなりそう言葉が出てくる。
共働きの家には私一人だけが最初に帰宅するのだ。
見慣れたリビング、キッチン。
すべてを横目に流して私は自分の部屋へと向かう。
ドアを開けて中に入ってドアを閉めてしまえば私一人の空間。
誰にも邪魔されることなどない。
スマホ……
スクールバックから雑に取り出す。
自分の顔が真っ黒な板に映る。
なんだかその姿が醜くて急いで電源をつけた。
親の顔より見た気がするパスワード画面、大好きなゲームのキャラの誕生日を入力する。
「あ……通知来てる。」
SNSツールからの通知に目を通す。
「TAIから……やった、返信だ。」
なんとなく始めた通話ツールから世界のことが知れる投稿ツールまでSNSを一通り始めたように思う。
私自身のことは「沙雪」と名乗っている。
結果、好きなゲームの情報収集と同じ趣味を持つ遠くのどこかの誰との交流に使っているのだ。
TAI……本人が「たい」と自分の名前を言っていたためその読みでいいのだろう……という方との交流が私の中で盛ん。
同じ高校二年生であり男性、柔らかい返信と通話の時に聞ける声が好きだ。
アイコンは私が好きなゲームとは別の美少女アニメのアイコン、顔も知らない人を恋愛的に気になるなんておかしいだろうか。
一人で自問自答する。
『個通?いいよ、今日の8時からね。』
毎日TAIとは通話をする仲になっていた。
午後8時、といってもなんやかんやで二人とも遅れて8時過ぎから通話を初めて寝落ちするまで……もよくあること。
『やったぁ、うれしい!』
私は急いでそう送り、自分の口角が上がるのがわかる。
私のアイコンは美少女イラスト、二次元でお気に入りの画像である。
フリーのものを一生懸命探した努力の結晶。
部屋の大きな窓を開けるとベランダがある。
田舎のマンションの一室だからか無駄に大きい。
「あっつ、もう夏かなぁ。」
夕風が妙に熱く頬を撫でる。
そうだ、もう少しで高校二年生の春が終わってしまう。
ああ、こういう日に……
「死ねれば、主人公か。」
誰にも拾われない声でそう呟く。
私はただただ死にたいのだ。
どこにも吐露したことがない、今は私だけの大事な気持ちだ。
ベランダの柵は高く飛び越えれそうもない。
柵の温度は生ぬるく、触れた手は錆びた鉄のようなにおいがする。
私が死にたいと思ったのは中学の時から、軽くて陰湿な典型的ないじめに出会ったから。
ただ、それだけ。
凡人な理由だ。
いじめといっても創作で見るような激しい奴じゃないから私は逃げてばっかり。
どうにか一番大変ないじめは乗り越えたものの私の心の中にずっしりと沈んでいる。
決して消えない傷とはこういうことなのだろうか。
急にいじめの記憶を思い出し胸が苦しくなる、息ができなくなるそういったことにもずーっと襲われた。
前に調べてフラッシュバック、という現象の名前だけを覚えた。
フラッシュバックと希死念慮。
本当に私の死にたい理由はそれだけなのだ、それだけじゃなかったとしてきっと自分じゃ気づけないだろう。
「……そろそろ部屋に戻らなきゃ。」
独り言を空に向かって吐き出したい分だけ吐き出し部屋に戻る、私のルーティーンだ。
午後8時、街頭すらない町を照らすのは満天の星空。
有線のイヤフォンをスマホに突き刺しSNSアプリを起動する。
『かけていいよ。』
『了解、かけるね。』
毎日のお決まりの言葉をTAIと交わす。
通話をかけるのは決まって私だ。
呼び出し音が小さくなる、早く出てほしいと胸の鼓動がが私の心を交差していく。
「やっほ。」
「やっほ~」
もしもしでもなく、こんばんはでもなく私たちが通話がつながったかどうか確認するのはそんな他愛もない言葉だ。
電話でもないのにもしもし、と唱えるのもこんばんはとあいさつから入るのも何か違う気がしているから。
スマホの奥から聞こえるのは少し男性にしては高めででも高すぎない柔らかいかっこいい声だ。
「沙雪、今日もかわいいね。」
「え、やめてよ~照れちゃうから!」
私好みの声から発せられる私への誉め言葉。
きっと、SNSがない世界線なら言われることはきっとなかっただろう。
「大好きだよ。」
「私も大好き!」
こう互いに声をかけるが本当に好きなのかは知る由もない。
第一TAIは不思議な人物だから。
好き好き言い合っているが付き合ってもいないしリアルな告白を受けたこともない。
TAIからは私はSNSの人物で現実に出会ってないからきっと本当に好きなわけじゃないのだろう。
そう考えるたびに少しだけ胸が痛んだ。
二人でどうでもいい会話を重ねる、互いにしているゲームの話やどうでもいい日常談義。
無言通話だったり寝落ちしても愛おしくてたまらない時間。
私が唯一生きててよかったって思う時間だ。
「ねぇ、もし、なんだけど。」
「なに?」
「もし、私が死にたいって言ったらどうする?」
「……」
しばらく無言にな空気感、ああ、変なこと言っちゃったと思った。
夜にSNSの人物から死にたいと相談されるなんて馬鹿げている。
私なら困り果てるだろう、どうでもいいかまってちゃんが出てしまった。
「あ、やっぱな_」
「一緒に死ぬ……けどその前に死にたい理由が知りたい。」
発言を取り消そうとした瞬間思いもよらぬ答えが返ってくる。
「一緒、に?」
「一緒に死ぬ、死ぬよ俺。」
「そんな冗談_」
「冗談じゃない、一緒に死ぬ俺が沙雪と一緒に。」
いつもより低いトーンで帰ってきた答え。
怒らせてしまっただろうか、それとも本気なのだろうか。
手に汗が滲む。
TAIはどんな顔をしているのだろう。
わからない、黄色髪の美少女アイコンが私が知る彼の顔。
「……ごめん、急に。でも本当なら死にたい理由、話してほしい。」
数秒間の沈黙を破ったのはTAIのほうだった。
「ううん!私のほうこそ、急にごめん……理由、かぁ。」
「嫌だったらいいけど。」
「嫌ってわけじゃないよ……昔に受けたいじめの傷がねずっと残ったままだから、このまま生きるより死んじゃったほうがいいかなーなんて。」
なるべく声色を下げないように明るく言葉を発する。
思いもよらない方向に話が進み私は焦ったように言葉をつづけた。
「それからほんとに死にたくなるの、生きてていいなんて思えないし……記憶を思い出すのが嫌なの。」
「そっか。」
彼から発せられたのは相槌だった。
「じゃあ、一緒に死ぬ。」
「はっ!?話聞いてた!?」
「聞いてた、聞かないわけない。そのうえで死ぬ、一緒に。」
淡々と発せられる言葉がなんだか重かった。
軽い口調で出たいつものTAIの声、でも重い人生二つ分死ぬ方へと舵を切ろうというのだから。
「一緒に……死ぬ。」
私は確かめるように小さく言葉を放った。
「嫌?」
「嫌なわけじゃない。でも、やっぱりTAIを巻き込むのは違うかなって。」
「巻き込みじゃないよ。俺、何もないし。」
「なにも、ない……?」
TAIは確かにたくさんのフォロワーを抱えているわでも友好関係が特別広いわけでもなかった。
でも何もないといえるほどではなかったと思う。
誰でも仲良くしているし私以外にも通話とかDMとかそりゃあしているだろうし。
「一緒に死のうよ、俺何もないし。大切なもの全部ないから。」
「……ぜん、ぶ。」
「もう少しで夏休みだよね。」
「うん、もう少し。」
「沙雪の住んでるとこってどこだっけ。」
一回窓の外を見る、満天の星空。
「鳥取だよ。西側のほう。」
「じゃあ、いろいろあるね。」
「いろいろは……ないけど。山も海も地方にしては一通りはあるよ。」
急に始まったつながりがわからない話。
戸惑いながらも問いかけに答える。
「泊まるとこ、ある?」
「ある、旅館もネカフェもホテルもある。」
いくらTAIが都会住みだからと言っても地方をなめすぎな気も少しする。
観光地としての面もあるしもちろん旅館やホテルはある。
地元だから宿泊したのはまったのは数回だけれど。
「じゃあ、夏休みの間に俺がそっち行くよ死ぬ前に会いたいし。そこで案内してよ沙雪の地元。」
「お金……」
「俺の貯金があるしどうにかなる。二人で泊まって観光してそのあと死のうよ、幸せな時に死にたいじゃん。」
幸せな時に死にたい、二人で死にたい、死ぬ前に会いたい。
確かに私たちがやりたいことは全部そろってる。
お金も通帳を持ち出せば幼いころのお祝い金をためた分、数十万はあるだろう。
旅館も数日はいいところに行けるしタクシーを使えばどうにかなる。
「わかった。ほんとにいいの……?」
「いいよ、俺が約束も一度いったことも破ったことある?」
TAIとは数か月の付き合いだ。
毎日言葉を交わした、それだけだけれど彼の言葉はいつでも重かった。
もしかしたら彼が言う通り本当に何もないからかもしれない。
何もないからこそ言葉に重みがあるように裏表がないように感じるのだ。
「ない。」
「じゃあ決まりね。夏休み、予定建てよう。二人きりの旅。」
「そうだね、本当に二人っきりだ。」
これで会話は終わった、いつも通りの他愛ない話に切り替わった。
嘘かほんとか冗談か本気かなんて見分けがつかないまま。
翌日寝落ちた後に送られてきた、『飛行機の予約、この日でいい?』という一文とともに添えられた羽田空港からの飛行機の予定表を見てああ、本気なんだ。と少しうれしさを感じた。
8月11日に到着の便でTAIはここに来る。
ずっと離れていた私たちの距離がやっと縮まるんだ、そう考えるとなんだか自分の人生を信じられなかった。
夏の日照りが私たちを突き刺している。
8月11日、私は珍しく朝から起きて親には旅館使って友達と小旅行ということにした。
私の貯金で動くし帰ってくる、と約束をし知らないクラスメイトを友達として使った。
なんだか申し訳ない反面、あと数日で私はどうせ死ぬんだからと少し現実がどうでもよくなっている感覚。
TAIに会うんだからちょっとでもビジュアル、よくしないとと思い髪の毛のスタイリング剤を使う。
べたべたとした泡が手のひらに張り付く。
鏡の前に立つ私は必至そうな顔をして顔をしかめている。
若干天然パーマがかかったロングヘアを触る。
黒い髪が電球の光を反射し光っている。
編み込みを作ってぐるっと後ろへもっていく。
ハーフアップを作りスタイリング剤で固定する。
毛先がくるんとカールするように何度も手を動かす。
可愛くなるってこういうことなのだろうか、だとしたらそれはそれでめんどくさい。
メイク道具なんて持っていないけれどコンビニで買った安物をなんとなく使った。
ほんの少しアイシャドウを載せて淡い色のリップを初めて使う。
チークはせっかく買ったけれどうまくいかなかった。
アイシャドウも薄すぎて鏡にすら映っていない。
一つのゲン担ぎみたいなものだ、大好きな人に会うんならおしゃれをしたい。
そう思うのは決して場違いな感情ではないのだろう。
旅行……と言ってしまったからにはと数年前の修学旅行で使ったキャリーケースに数日分の衣服を入れる。
可愛いワンピースはもう着てしまったから、おしゃれのかけらもないような適当な服ばかり。
せめてかわいいブラウスとか買っておくんだった、と少し後悔する。
メイク用具や幼いころから持っているテディベアを端っこに詰めた。
あとはいつも通り小さな肩掛けバッグを持つ。
TAIとは空港で待ち合わせ、せっかくだしと朝一番の便を取ったらしい。
通帳をバッグに入れ財布には20万ほど前日に卸しておいた分が入っている。
アルバイトもしたことがなく、通帳に残った30万と今もっている20万、あと小銭がほんの少し。
まだ大人になれない私の小さな全財産だ。
死ぬときに持っていたいものかぁ……
部屋の中を見渡すもののめぼしいものは好きなゲームキャラクターのグッズぐらいだけれどどうせ死ぬときはその身一つだろう。
だったらこのまま家にいてもらうのがいい気もする。
「あ、ハサミ……」
刃物で死のうと思ったわけではない、その言葉の通りなんとなく目についた。
白色の持ち手に銀色の光る刃。
お守り、みたいなものだろう。
こんな小さな刃で首が掻っ切れるものだろうか、多分そうではない。
だから何かあった時の護身用。
飛行機で来るTAIは持ち込めないだろうから。
カバンの中に放り込んだ。
両親は共働き、そして接客業。
夏休みの今がかき入れ時、だから小さなころから長期休みは一人っきりだった。
誰もいない家。
そして上手く死ねれば二度と戻ってこない家。
なんだか見納めだな、と意識してしまうとどうにも離れがたい。
人生のどこかではこの家とどのみち別れが来るのだからと腹をくくる。
「行ってきます。」
何回もこれまで行ってきた言葉が家によく響いた気がした。
私の住んでいる地域からTAIがたどり着く空港までは距離がある。
バスがないことはないがそこに行くのも手間。
タクシーを捕まえて空港まで送ってもらった。
タクシーにお金を払うのは緊張する。
怪しまれたのかもしれないが遠くから来る知り合いとの待ち合わせだと説明した。
平均的な身長の高さだから中学生にも高校生にも大人にもきっと見えるのだろう。
財布、きちんとした大人っぽいものにしたほうがよかったかな。などとキャラクターが描かれた財布に向かって苦笑する。
きっとここまで来てしまえば知り合いはいないだろう。
髪型も変えてなんとなくできていた洋服も変えて、もう私はあの時の私ではないのだから。
空港へ到着し、降りると強い風が私の頬を掠めた。
午前8時到着の便、無事に進んでいるのを確認して安心する。
空港に入ると鬼太郎の像が迎えてくれる。
私が幼いころから変わらない空港の景色だ。
米子空港、という名前ではあるが米子市ではなく境港市に位置している。
全国に伝わるように言うならば某テーマパークが千葉にあるのに東京と付くのと同じ。
境港もよく来る場所だから今日一日はここを案内しようか、と昨夜に練っていたプランをもう一度想像する。
鳥取市側に行ってもいいのだけれど一日目には移動量が多すぎる。
それに真夏の鳥取砂丘は二人して焼けてしまいそうだ。
やっぱり、都会に慣れているのをここに染まってもらうためにここしかないものに案内しよう。
そう考えながら飛行機の到着を待つ。
朝早いからか人はほとんどいない。
職員さんの視線がたまに突き刺さる。
どうしても人からの視線は苦手だ。
水色のシンプルなワンピース、おかしくないよね?と妖怪たちに向かって問いかけるものの黙ったままだ。
考えれば絶対に返事が返ってこないことぐらいわかるというのに、私は変にファンタジーを願ってしまう。
「あ……!」
スマホの通知に一喜一憂する。
聞きなれた通知音、見慣れた美少女アイコン。
『到着した。いる?』
短い連絡。
『いるよ~待ってるから案内に従っておいで!』
ついでに私の今日の服装も送る。
どうせ顔は見られてしまうのにハートのスタンプで隠して。
胸のドキドキが止まらなった。
初めて会うってこんなに緊張するんだ……
同じ便から来たであろう人がだんだんとこちらへ出てくる。
『わかった、今行く。』
メッセージの返信が来る。
ずーっと画面をつけたままで熱いスマホをぎゅっと一人で握りしめた。
似たようなスーツケースを持ち大きなリュックを背負った少年がスマホ片手に出てきた。
これまでも似たような少年と何度もすれ違っている。
そのたびに声をかけられないかと心臓が高鳴った。
「……沙雪、?」
「えっと、TAI?」
私のSNSを知っていないと出ないような名前。
そして私のよく知る声色。
「うん、やっと出会えたね。」
笑ってる……当たり前だけれどTAIの笑う顔を初めて見た。
少し明るい茶髪の髪。
ゲームに出てきそうな少年、といったところだろうか。
大きな瞳が私のことをとらえている。
「……やっと、だね。」
出会ってからは数か月だ、何年も互いに待ち望んだわけじゃない。
それでも私たちの数か月は長い精神的には5年ぐらい待った気でいる。
「ん!」
TAIはスーツケースから手を放し私に向かって手を広げる。
「?……ああ、そっか、やらなきゃね。」
その腕の中に私はそっと飛び込む。
通話を始めてから10も回数がいかない頃、二人で約束した。
出会ったら一番に恋人と間違われるぐらいのハグをしようと。
私からそのお願いしたのに忘れちゃうなんて、ほんの少し恥ずかしいや。
「思ったより、小さい可愛い。」
「え、またそんなこといって……!」
「ほんとのことだし。」
きれいな声が私の大好きな声が、イヤフォンがなくとも耳元で聞こえる。
その場に残る。
大好きだなぁ、決して声に出せない思い。
ぎゅっと抱きしめると暖かい。
生きてる、私の大好きな人は。
ずっとずっと画面の中だったけれどやっと会えた、文字と声だけじゃない。
会えたんだ、生きてるんだ。
なんだかこれまでに味わったことのない気持ちだった。
地方住みの私にとってはエンカ……オフ会ともいうんだっけ、に参加することなんてなくて。
だから初めてだ、初めてSNSにいる人は生きてるって人間だって実感したのは。
「あったかい。」
「よかった。ここまで来たかいがあったな~」
そう言ってTAIは背中を伸ばす。
一時間ほどの旅といっても飛行機に乗っていたわけだし、しかも朝一番。
これから思いっきり観光につき合わせる気だったけれど一回休ませたほうがいいかな。
「休憩する?まだそんなにこまないだろうしコンビニもお土産も見れるよ。」
「ううん、大丈夫。俺そんな疲れてない。沙雪に会うためにここまで来たんだし!」
「ふふ、そっか。」
なんだか幸せでたまらない。
夏の日差しも暑さも吹き飛んでしまいそうだ。
「お土産、持って帰れないんだし。もっといろんなとこ見て決めたいな。」
「そうだよね。じゃあ早速行こうか。」
「うん!」
同い年とは思えない、どこか子供っぽくて犬みたいな人だ。
外に出ると生ぬるい風が私たちの間を通り抜ける。
「最初はどこ?」
「最初は_せっかくだしここら辺、境港を回ろうかと思って!」
スマホを触ってマップを探す。
「ここら辺?」
「そうそう。まだまだ旅館までは時間あるしせっかくここまで来たんだし。」
「……境港が地元なの?」
「ううん、違うけど遊びに来ることは多いかな。」
目当てのバス停を探して空港の周りを歩く。
空港やら駅やらの近くはたくさんのバス停があり目が回ってしまいそうだ。
次行きたい場所へはバスが出ている。
お金はなるべく温存したいし仕方ないだろう。
「あった!あ、丁度来るみたい。」
時刻表を確認して口に出す。
何年も使われて少しくたびれた時刻表の文字。
きっと何人もの人たちがこうして私たちみたいに覗いているのだろう。
「はまるーぷ……?」
「うん、そういう名前のバス。境港をグルって回ってくれるし観光にはちょうどいいかなって。」
私の声と同時にバスがバス停へとたどり着いた。
青い車体に鬼太郎たちがラッピングされたバス。
小さめの車体。
ラッピングを見ているTAIを後でも見れるから!といい半ば無理やり押し込む。
まだ朝一番で人はいない。
私たちが最初の乗客だろうか。
一番奥の広い席に二人で端っこにぎゅうぎゅうになって座る。
静かにしなきゃいけないのに互いに笑みがこぼれてしまう。
笑う君の顔を見て私は笑っている。
もしTAIが笑うのが私の笑顔が理由ならいいのに。
二人で朝からバスに揺られる。
「どこに行くの?」
「まあまあ、見てて!」
そう言って焦らす。
観光なんだし一番のびっくりを味わってほしい。
きっと今から行くところはTAIには驚きだろう。
都会には絶対にない景色が広がっているから。
絶対に見たことがないって断言できる。
「よし、ここ!」
あえてアナウンスが聞こえないように少しかぶせて言う。
だけれどきっと聞こえているだろう。
「え~なになに?」
それでもこうやって乗ってくれるのが彼なりの優しさってやつだろう。
バスを降りると湿気の多い暑い空気が私たちに覆いかぶさる。
降りて見えるのは大きなタワー。
ドーム型の建物と大きな上に伸びるタワーがつながっている。
私から見ればタワーだがきっと彼から見ればタワーとも呼べないだろう。
「じゃじゃーん!ええっと、夢みなとタワーです!」
入り口前でそんなことを私は手ぶり交じりで伝えた。
人はまだ少ない、きっとこんなことをしたって誰にも見られちゃいない。
「夢みなとタワー……?」
TAIは不思議そうに首を傾げた。
海に囲まれるような中に一つだけ佇むタワー。
異質な空間だろう、そして絶対_
「タワーじゃないって思ったでしょ!」
「え、と……うん、まぁ。」
遠慮がちにTAIは頷いた。
きっとこのぐらいの建物都会にはゴロゴロある。
でも絶対都会の大きな建物にはない二つ名がある!
「日本一低いタワーなんだよ、あとは展望台からの景色はきれいだしガラス張りで囲まれたエレベーターも!……ちょっとは気になってきた?」
仕方ない、地元民の本気を見せてやろうと観光案内のように紹介をする。
「気になってきた、かも。」
歯切れの悪い言い方をする。
TAIは優しいが少し意地悪だ。
「んー、じゃあとっておき教えちゃうね。運がよかったらイルカが見れるんだよ。」
彼の耳元でこっそりと呟く。
「イルカ!?」
「運がよかったら、だけどね。私も何回も来たことあるけど見たことはないなぁ。」
ちょっとわくわくした顔が見れてうれしい。
こんな顔されたら全力で案内するしかないじゃん。
「もう開いてると思うし、行こうか。」
「わかった。」
二人で展望台に上った。
上る前の受付にあるとりぴーとか三階にある展示を見て二人で顔を見合わせて笑った。
エレベーターの近くにあるべとべとさんを見て驚いたように固まってしまうのとか、可愛くて仕方がない。
私がそっとべとべとさんに近づくとすこし怯えながらも後を付いてくる。
「怖く、ないの?」
「ないなぁ、小さなころからここにいるから妖怪というよりここにいる友達かも?」
冗談めかしくそう言う。
いろいろな人たちに触られて少しづつ汚れているべとべとさん、本当に私からするとみんなを見守る守り神みたいだ。
「_あ!お母さん、べとべとさんだよ!」
小さな、幼稚園生ぐらいの男の子が楽しそうな声をあげてべとべとさんに近づく。
「ほら、みんなの大事な友達かもよ?」
私がそう言って笑う、そうだね。とTAIも笑っていた。
展望台に上がるときれいな太陽の光が目に入る。
「わぁ……!」
「360度ガラス張りだよ。ほら、」
案内しようとする前に彼は飛び出してしまう。
そういうところが少し子供っぽくてかわいい。
展望台もそこまで広くないし好きに見させてあげようと私は反対方向に降りる。
ガラスの奥に見える海は波がうねり太陽が反射しキラキラと光っている。
たまにポツポツと船やヨットが見える。
銀色の手すりはいつ握ってもひんやりと冷たい。
この街を上から見れるのはここの醍醐味だろう。
「沙雪!鐘がある!」
「そうだね、えっと……ならせば幸せになれるっていう鐘。」
確かそんなことが書いてあった気がすると曖昧な記憶をたどってゆく。
「へー……じゃあさ、一緒にならそうよ!」
「一緒に?」
「うん、ほら!」
気が付いた時には手を握られていた。
あったかくて私より大きな手。
小さな鐘からぶら下がる白い糸を握る。
二人分重なる手。
「二人とも思いっきり幸せになれますように!」
そんなことを叫んで思いっきり鐘を鳴らすものだから、あまりの音量に驚いてしまう。
鐘の音も私がこれまで聞いた中で一番大きい。
人がまばらな朝早い展望台に耳を突き刺すような鐘の音がゆっくりと広がっていき何度か繰り返すうちに少しづつ消えていく。
その様子を見てとてもTAIは満足そうにしている。
「幸せに、なれますようにって_」
「いいでしょ、二人で、ね?」
「うん、そうだね。」
TAIの声には顔に似つかない気迫があった。
圧というかなんというか……煮え切らないなにかの思いがそのまま言葉に出ている感じ。
幸せ、かぁ。
ここ数年考えたことがなかったかもしれない。
「あ、スタンプある!」
「押していく?」
展望台に上がった記念のスタンプ。
台紙が用意してあってそこに押すのだ。
濃い青色のスタンプ。
夢みなとタワーの外観と「日本一低いタワーにのぼったわー」というダジャレの一文がそっと添えられている。
何度見てもくすっと笑ってしまう。
「裏、見てみて。」
スタンプを押して満足そうな彼にそう言った。
素直に紙の裏側を覗いている。
「ビンゴ?」
「ここから見える景色の中で探すんだよ。今日は天気がいいしビンゴ埋まりやすいかも。」
展望台の景色からビンゴに書かれた景色を探す、というシンプルなもの。
簡単に見つけられる近くのお店から釣り人やヨットなどの見れるかどうか運がかかわるものまである。
たくさん埋めるまで帰りたくないと駄々をこねる子供もたまに見かける。
私もそんな子供の一人だったのだろうか。
TAIはビンゴを探しにくるくると展望台を回り始めた。
しばらく一緒にビンゴを埋めていた。
私が埋めたことのないような量を埋めれていた。
「あっ!」
TAIの大きな声が少し人が増えてきた展望台に響く。
「イルカ!」
「え、見えたの!?」
思わずそう言って彼のほうへと駆け寄る。
「いた!ジャンプしてた!」
彼が指さす方角の海をくまなく見るものの見つけられない。
ジャンプしたといったから本当に一瞬の出来事なのだろう。
「……私は見えなかったなぁ。きっと、遠くから来てくれたTAIへのサービスだろうね。」
私はそう言って笑った。
TAIは私に見せたかったと何回もそういってた。
そこまで必死にならなくてもいいのになぁ、なんて思ってしまう。
きっと私は彼みたいに子供っぽくなれないのだろう。
これからもずっと、数日後死ぬまでずーっとそうなんだろうな。
夢みなとタワーを満喫し昼ご飯を二人で済ませ、次はどこに行こうかという話になった。
せっかく境港方面にいるのなら私的にはいくところは一つ。
「妖怪のたっくさんいる場所、行く?」
驚かせるようにそう言った。
「行く!」
「じゃあ、もう一回バスに乗っていこうか。」
来た時と同じはまるーぷに乗る。
二度目はもう慣れたも同然だ。
次に行く場所は妖怪がたくさんいる場所、水木しげるロードだ。
いろいろな妖怪の像が商店街に置かれていてロードに沿ってたくさん並ぶお店にはグッズからお土産にもってこいのお菓子までたくさんのものが置かれている。
私も最後言ったのは小学校低学年の時で記憶があいまいだけれど……
なんとなくワクワクして楽しい場所。
その感覚だけはずっと覚えている。
夏の太陽が真上に上り眩しい。
強い光が海面に反射して私の瞳まで届く。
バスを降りると蒸し暑い空気が私たちを迎える。
二人でロードを探検する。
観光客も多く外国の方らしき集団とも何度もすれ違った。
たくさんの妖怪の像を見つけて写真を撮った。
どこに載せる意味もない写真を何度も何度も撮影する。
水木しげる記念館を回ってお土産屋さんを回って……
目玉おやじを象った飴を買って二人で舐めた。
お饅頭やお菓子がたくさん並ぶ部屋、TAIは悩みに悩んで小さなお菓子の箱を手に取っていた。
私はその様子を眺めている。
楽しい時間はあっという間で気が付けば日が傾いていた。
外を歩くのが嫌になるぐらいの強い日差しは優しい日差しに代わっている。
蒸し暑い空気はそのままだけれど息苦しくない、いい夏の空気がする。
「疲れたぁ……楽しいね。」
TAIは旅館に向かう途中にそんな言葉を零す。
「そうだね、楽しい。」
彼の表情は疲れた、と言いつつも生き生きしていて夏休みを全力で楽しむ小学生みたいだ。
「ここで、いいですか?」
「はい!ありがとうございます。」
タクシーのおばさんにお金を渡す。
「じゃあ、デート楽しんでね。」
「は、はい……」
付き合ってるとか聞かれたわけでも言ったわけでもないんだけれど、このおばさんの中では私たちはカップルに見えるらしい。
レシートを受け取るときこそっと耳打ちをされる。
ぎこちない笑顔で応援を受け取る。
そうだ。私たち付き合ってないんだよね。
なんだかさみしくなってしまう。
何度も一緒に楽しんで今日だけでも笑いあって。
でも付き合ってはない、告白していないし告白されていない。
「海だぁ~!」
旅館の前に続いていく皆生海岸の砂浜に向かって大声でTAIは走っていく。
ああ、苦しいなぁ。恋心は持ってるだけで苦しくて痛い。
夕焼けが海に沈みかけてすべてが茜色に染まっている。
この声がこの愛おしさがずっと私の中に残って離れない。
無邪気に笑って真剣な一面があって、横顔が眩しいぐらいに綺麗な笑顔で。
「沙雪、夕日見よ!」
いつの間にか私のそばまで戻ってきていてぱっと手を取られる。
「ほら、沈んじゃうよ。」
楽しそうに私と手をつなぎ走り出している。
好きだ、好きで好きでただ仕方がない。
でもこの想いはきっと、この旅行の無駄。
ぎゅっと繋いだ手を握る。
砂浜の塀の上に二人で座る。
足をぶらぶらさせて手をつくと砂が張り付く。
水平線の向こう側に沈んでいこうとする太陽は綺麗。
ゆらゆらと波が揺れる。
藍色と茜色が混ざり合う複雑なカラーパレット。
「綺麗……」
思わず手を伸ばしたくなってしまう。
「綺麗だね。」
TAIの横顔も淡く色づいて瞳に宿る光がゆらゆら揺れて光っている。
「うん、綺麗。」
私たちの間に言葉はそれ以上出なかった。
水平線に太陽が沈み切ってしまうまで二人でそのまま動かずにいた。
太陽が沈んだ瞬間に世界は夜になる。
真っ暗になって風も冷たく感じる。
「そろそろ、旅館チェックインしよっか。」
私の言葉にTAIは頷く。
二人できらきらとしたエントランスに入る。
近くにあるソファや花瓶からにじみ出る上品さ。
せっかくだしいいところに泊まろうと思ったけれどすごいとこに来ちゃった気がする……
「ちょっとチェックインしてくるね。」
TAIにそう言い私はカウンターに向かった。
「えっと、予約してた霧森です。」
「お待ちしておりました。霧森様。」
丁寧な一礼で出迎えられる。
こんな状況に慣れていないため私のほうが固まってしまう。
言われたとおりに書類に必要なことを書き込む。
こちらを見ないようにはしてくれているが人の前で何かをするのはどうも緊張して仕方がない。
手渡されたボールペンを紙の上に走らせる。
「お願いします。」
「はい、ありがとうございます。」
私が書いた書類を一通り簡単に確認されている。
数秒が少し長く感じた。
「ありがとうございます、ではこちらが今回泊まるお部屋のカードキーです。オートロックなので中に置いたままお部屋を出ないようにお気を付けください。」
「は、はい。ありがとうございます。」
鍵を受け取りTAIのもとへと向かう。
「お待たせ、部屋行こっか。」
「ありがとう。ええっと…」
「403だね。四階だからエレベーターで行けるかな。」
大きくて広いエントランスを右に左に視線を動かす。
「あ、向こうにあるよ。」
「ほんとだ。向こうだね。」
なんだかTAIと視線が合うと笑みがこぼれてしまう。
おかしいことなのか、これが普通なのか私にはわかったことじゃない。
エレベーターに乗るとホテル特有のなんとも言えない香りが漂う。
家では感じられない少し緊張するけれど少しわくわくする香り。
エレベーターには幸い誰も私たち以外に乗り込む人はいなかった。
小さな箱に私たち二人が絶妙な距離を保って何も話さない。
今日一日あってしゃべったとはいえまだ面と向かっては知り合い程度に過ぎない。
私たち二人とも「旅」という特別感に飲み込まれ少しテンションが高かったのだろう。
なんだか今になって恥ずかしくなってきていしまった。
私がこの時間をどう埋めようかと考えているうちに目的の階層についた音が大きく響いた。
何も発さず二人でエレベーターから降りる。
エレベーターを待っていたであろう高年夫婦が私たちに柔らかく会釈をする。
私たちも小さな会釈で返す。
老夫婦はたがいに言葉を発していなかったが信頼と笑顔がそこにあったように思う。
なんだか無性に羨ましかった。
「沙雪?」
私を先導して歩いていたTAIが振り向いて私に声をかける。
こっちだよ、と言いたげに二手に分かれる通路の真ん中で右側を指さしている。
「ううん、なんでもない。」
私は何を聞かれるでもなくそう答えて静かにTAIの後ろへとついていく。
廊下はどこか洋風の館のようで、濃い茶色を基調として所々に花瓶や絵が飾られている。
なんだかそれこそホテルみたいだ。
同じような扉が続く中私たちの部屋を探す。
間違い探しのような時間。
「あった。」
思わず声が漏れた。
「そうだね。」
持っていた鍵を使いドアを開ける。
ガチャと鍵が回る音が聞こえる。
ドアノブは金属で冷たい空気をまとっていた。
ドアを開けると静かな風が抜ける。
「わぁ……」
部屋をのぞき込むと二人で言葉を失った。
すでに畳が顔をのぞかせていて視線の先には大きな障子と窓。
窓の近くには旅館によくある椅子と小さな机……確か広縁というんだった。
畳の上にあるちゃぶ台にはお菓子と急須、湯飲みが私たちのことを待っているよう。
この非日常感に吸い込まれてみたくなる。
「すっごい……!」
「ふふ、すごいね。」
横に立っているTAIの表情はなんだか私よりも喜んでいるように見えた。
私も旅館に泊まった回数は少なく新鮮で感動したがTAIにはきっとそれ以上の何かが彼の心を動かしているのかもしれない。
「上がっていいんだよね!?」
「うん。私たちの部屋だし。」
やった!と楽しそうにTAIは部屋に上がる。
彼の心を動かしたのは何なんだろう。
この旅館のいい雰囲気だろうか、それとも内装だろうか。
はたまたそれ以外の何かだろうか。
「わぁ、ねぇねぇ海が見えるよ!海!」
荷物を畳の上に乱雑に置きTAIは窓のほうへ一直線だ。
私に向かって早くおいでと言いたげに視線を向ける。
「海見える?よかったぁ。」
なんて言いながら、私も靴をぬぎ荷物を端に置く。
TAIが視線を向ける水平線には若干明るい太陽の色が残っていた。
藍色の中に滲んで、綺麗なグラデーションができている。
揺れる海面。
「綺麗……」
「本当に、そうだね。」
水平線に滲む太陽の欠片を二人で消えてしまうまで眺めていた。
真っ暗に包まれる窓の外を眺めながら私たちは畳の上で思い思いに過ごした。
夕飯は旅館のご飯を食べた。
部屋に持ってきてくれるシステムで、海鮮料理やすき焼きなどいろいろなものが出てくる。
普段は見慣れないものばかりでそのどれもが美味しい。
TAIはたくさんの品をおいしそうに頬張っていた。
その笑顔がとても可愛かった。
一回食べるのを忘れ見入ってしまうぐらいには。
美味しくお腹が膨れた後、お風呂に入ってこようという話になった。
部屋にもついているがせっかくだし大浴場に入ってくるとTAIがいい、私はその姿を見送った。
鍵を持ち歩くとなくしてしまいそうで怖いし私は部屋のお風呂をいただいて部屋で彼を待つことにした。
一人になると急に部屋が広く感じる。
もともと広いのだが楽しそうに笑顔で話し純粋な心で私を楽しませてくれる彼がいないからだろう。
彼を見ていると同い年なのに私が大人に近づきすぎたのか彼が童心を持っているのか、わからなくなる。
どっちでもいいしきっと高校生は大人と子供の真ん中だ。
特に私たち高校二年生は来年には成人を嫌でも迎える。
きっと法律的に子供な最後の時間。
もう二度と戻れることはない。
大切な時間とはわかっているがその時間が惜しいほど私は大人になれていない。
この時間が苦痛できっと生きていること自体が私には大分苦痛なのだ。
「あ~……この旅終わったら死んでるのかぁ。」
なんとなくそんな言葉を力なく口に出す。
夕飯後仲居さんに引いてもらった二人分の布団の上に倒れこむ。
死んでいるか死んでいないか、なんて知りようがない。
それは知っている。
柔らかい羽毛布団のふわふわとした感触。
仰向けになり天井に手をかざす。
運動をせず外に出ないから無駄に白い肌。
「死にたい、んだよな。私は。」
照明が眩しく私の瞳に突き刺さる。
声に出して死にたいか自分に問う。
結果、わからない。私にすら私のことはわからない。
死にたいそう思うと心の奥がざわつく。
ざらざらとした不快な感触だ。
のどが渇いてくるような苦しくて息が詰まるような、きっと私だけの感覚。
目をつむる。
何も見えない、見えないようにする。
「ただいまー……って眠い?何かあった?」
「あ……おかえり。ううん、なにもないよ。」
TAIが返ってきたことを聞きなれた声で確認する。
目を開け起き上がる。
浴衣姿のTAIが私の目に映る。
「お風呂、どうだった?」
なんだか話題をそらしたくて適当な話題を振る。
「めっちゃよかった!露天風呂とかもあって……海の波音が聞こえたし。」
「いいね、波音が聞こえる露天風呂かぁ。」
「沙雪は明日行っておいでよ!もう数日ここにいるんでしょ?」
「うん。ええっと一応一週間で取ってる、その前に帰ってこなくなるかもしれないけれど。」
冗談っぽく話の中に織り交ぜる。
この旅行はただの旅行ではない、どちらかというと家出や逃避行に近い何かなのだろう。
「そうだね。一週間か……」
TAIがまとう空気が変わった気がした。
柔らかなオーラが急に冷え切った。
悩んだように視線をずらしている。
「ねぇ、どうやって死ぬの?」
「それは、決めてる。」
彼の瞳から光が消えた。
照明の加減なのだろうがどことなく暗く苦しい雰囲気にのまれたよう。
「どうするの?沙雪が決めならどうだっていいけど。」
「……海。」
「入水?」
「うん、きっと夜明け近く……いや夜中なら人は居ないだろうし流されてしまえばいいよ。」
「それで、死ねるの?」
私は静かに頷いた。
もちろん試したこともその様子を見たこともそんなニュースを聞いたことすらない。
でも、この旅の終末はそうする予定だった。
「……わかった。」
彼はそう頷いた。
まだ夜は遅くなかったが明日のこともあるし早めに寝ようと話がまとまり、二人で布団にもぐりこんだ。
光のないTAIの瞳が私の中に焼き付いて離れない。
「ねぇ、なんで私と死んでくれるの?」
好奇心からの質問だった。
特に深い意味は持たないはずだった。
「うーん……沙雪のことが本当に心配で、本当に大好きだから。」
「え?」
ばっと彼のほうを振り向く。
寝る寸前の言葉だったのか彼からは返事が返ってこない。
小さな寝息が返事のように空気中に転がる。
「大好き、か。」
初めて出会ってから聞いた私への「好き」という単語。
彼はいつも発する言葉すべてに必要以上に熱を持たない人だ。
その言葉が真実かどうかはわからない。
からかわれてるのかもしれないし、恋愛面での言葉ではない可能性すらある。
それに縋る私も私だし本当に?と聞けない私はきっと臆病者だ。
でも、それでも、面と向かって言ってくれたことがうれしいなんて。
私は、
「幸せだなぁ……」
朝から長時間気を張っていたのか心地よい布団に抱かれ私は眠りの底へと沈んでいった。
次に目が覚めた時にはもう朝日が昇り切っていた。
窓側で寝ていた私にやわらかい日差しが差し込んで眩しい。
「あ、おはよ。」
「ん……おはよ。」
TAIのほうが先に起きていたようで目が合う。
ふかふかの布団から起き上がり一回伸びをする。
窓際の椅子に座りTAIはスマホをいじっている。
私も近くで充電していたスマホを手に取った。
電源をつけると朝日とはまた違う種類の眩しさが瞳を刺激する。
ロック画面に表示される時計は七時半を指していた。
ちょどいいぐらいに起きれたかな、とまだ眠たい目を擦る。
「今日はどこに行く予定?」
「んー……」
TAIからの期待の視線。
外を見るに今日も快晴のようだ。
やっぱり、屋外がいいかな。
見せたい場所があるし……
私が今日のプランを考えていると部屋のドアがノックされた音が響く。
「あ、はーい!」
返事をする。
昨日の夜のように仲居さんが朝食を運んできてくれていた。
ご飯にお味噌汁、煮物や和え物が乗った小さな小鉢がたくさん。
ハムエッグとオレンジジュース。
小さなお刺身の盛り合わせまでついている。
せっかくだから、と最初の一日は夕食も朝食も付けたプランにしたのは正解だったみたい。
「いただきます。」
すべてのものがおいしい。
家じゃ絶対に感じられないこの特別感が私は好きだ。
朝食を済ませ交代しながら着替えをすました。
またこの宿に戻ってくるから大きな荷物は置いておいて、肩掛け鞄だけを手に持つ。
「じゃあ、今日は山のほうへ行こうか。」
私がそう言って彼の手を引いた。
山、というのは大山のこと。
海の次は山、頑張れば一日ですべて回り切れるだろう。
でも私たちにそんな体力はないから分けて回ることにしたが正解だったようだ。
その証拠に今日は昨日よりさわやかな快晴。
「んー、夏って感じだね。」
外に出るなりTAIがそう口にする。
「そうだね。」
昨日より日照りは強くなく涼しい風が心地よい。
「山の中のどこへ行くの?」
「えっと、いろいろあるんだけど……」
頭の中に浮かんでいる私が好きな場所や人気がある場所を整理していく。
「夏だしあんまり虫がいないところがいいよね。」
そういって私は苦笑を浮かべる。
山ということもあって夏は虫が心配。
私が大好きな綺麗な泉に連れて行ってはみたいけれど、夏にあの山の中はなかなかチャレンジャーだろう。
本宮の泉という場所。
透き通る水と大きな木々が共存している神秘的な空間。
泉の中心近くに小さな東屋があってそこで過ごす時間はなんだかゆったりしていてお気に入り。
「確かに虫は嫌かも……俺もそんなに得意じゃないし。」
TAIもそういって苦笑の表情を浮かべていた。
これから山に行くんだし虫がどうこうと選り好んでいる場合ではないのだが、せっかくなら楽しめるところがいい。
「じゃあ、最初は牧場かな。」
「牧場?」
「うん、そうはいっても動物園と牧場の間みたいな……」
私がそういうと少しTAIは首をかしげている。
「ここで言うより見てもらったほうが早いかな。」
百聞は一見に如かず、こんなところで使っていい言葉なのかもわからないがきっとそう。
あの場所には私の思い出が詰まってる。
TAIは動物が苦手ってわけじゃなさそうだし連れて行くほうが早そうだ。
頼んでいたタクシーに乗り込み、今日は山へと昇っていく。
二日目の私たちの小さくて大きな旅の途中。
夏休みシーズンということもあり結構車通りが多い印象を受ける。
観光バスとも数回すれ違う。
「ショッピングモールだ!」
「ショッピングモールだね。」
「行きたいなぁ。」
窓に張り付いたように外を見ていたTAIがそんなことを口にする。
確かに大きなショッピングモールがあるが、こういう施設こそ見慣れているのかなと思っていた。
よくある、ゲームセンターやら書店やら映画館やらが入った商業施設。
だから雨が降ったり天候に恵まれなかった日に行く緊急プランとして用意していたのだけれど……
でもTAIが行きたいなら連れてこない選択肢はない。
私はこの旅で死ぬ以外にはTAIを楽しませることが目的なのだから。
「そう?じゃあ明日来ようか。」
「ほんと!?」
「うん、私もよく来てるし案内……になるかはわからないけど一緒に回ることならできるよ。」
「やった、ありがとう。」
TAIは嬉しそうにそう言って笑う。
この笑顔が見れるのはあと何回なのだろうか。
○○がある!と何度も何度も様々なもので繰り返す姿は小さな子供みたいだ。
私に弟妹はいなかったけれどもし年下の兄弟がいたら何度もこういう光景を目にしていたのかな。
同級生だけれどやっぱりTAIはどこか幼くてたまに驚くほど大人びていて息が詰まるほどの圧がある。
私はTAIのことを何も知らない。
こんなに幼くかわいい一面があるのは彼のもともとの性格だろうかそれとも彼の過去に何かがあったせいだろうか。
わからない。
知っている彼の大事な言葉は「俺には何もない」音声通話の奥で言ったそんな一文だけ。
どういうことなのだろう。
何も、ない……
私にはそうは見えなかった。
であったから何回もそう感じた。
手はあったかくて楽しそうに今もしゃべって興味深そうに景色を眺めて。
自分のことはまだ話してはくれないけれど何もないような空っぽな人間のようには見えなかった。
私は、私は彼を連れて死んでいいのだろうか?
ふとそんな疑問が頭に浮かんだ。
いや、でも本人から提案してきたんだし!と考えを振り切る。
今こんなことを聞いたところで困らせるだけだろう。
「沙雪、大丈夫?」
「あ、うん!大丈夫だよ。」
気づけば下を向いていたようでTAIが私の顔を覗き込んでいた。
「そろそろ到着するって!」
楽しそうな横顔が見える。
私も窓の外を覗く、すると先ほどまで見えていた田んぼや家宅ではなく緑色の森林が目に入る。
山の中敷かれたアスファルトと建てられた看板、たまに目の前を通り過ぎるホテルや寺などの建物。
ある場所でタクシーが止まる。
大きな看板には「大山トムソーヤ牧場」と書いてある。
急に現れる人工物。
タクシーから降りると土のにおいがする。
森の緑で溢れる鼻を突き抜けていく強い香り。
受付に立っているお兄さんに声をかける。
「えっと、高校生二人です。」
「高校生がお二人ですね。では合わせて2000円になります。」
せっかくだし私が出してしまおうと財布から千円札を二枚出す。
小さなトレイに置き、渡した。
「丁度お預かりします。こちらチケットです。」
「ありがとうございます。」
チケットを受け取りそばにいるはずのTAIを探すように周辺を見る。
あれ、いない。
TAIは私よりも身長が高めで立っていたら絶対に気づくはずなのに。
辺りをくまなく見渡す。
「あ、いた。」
入口の近くにある金魚鉢に向かってしゃがみ、中を覗き込んでいる彼の姿があった。
170以上はある大きくしっかりとした体を持った少年が幼稚園児のように金魚鉢を覗いている。
「ふふ、かわいい?」
私が後ろからそう問いかけると驚いたようにTAIは振り向く。
「うん、かわいい。」
彼の心は金魚に奪われたようで、水草が浮き少し濁っている鉢の中を見つめている。
よくあるガラスの金魚鉢ではなくて旅館とかに飾ってあるような大きな鉢の中で泳いでいる金魚。
透けていないこともあってなかなか目を凝らさなければ金魚を見つけることすら困難だ。
彼が楽しんでいるのだからずっとここにいても私に損はないけれど……
せっかく買ったし、と手に握ったチケットとにらめっこをする。
「チケットかったよ、そろそろ行こう?」
少し強引だったかな、などと思いつつ一枚チケットを渡す。
「ありがとう、うん、行こう。」
私からチケットを受け取りTAIは立ち上がる。
中継所のようにたっている建物の中に入ると沢山のお土産や動物のぬいぐるみが出迎えている。
「羊の餌……?」
レジの真横に並んでいる一つの商品にTAIが足を止めた。
その場所にはカラフルな半透明の小さなバケツにリンゴやキャベツ人参などが細く切られて入っている。
「そうそう、ここにはヤギや羊がいてこの餌をあげられるの。」
なんとも魅力的な商品だが、私には少しいい思い出がない。
でもキラキラと瞳を輝かせる彼に言い出せるわけが思いつかない。
それに迫力はあるが楽しい経験なのも間違いないのが確かだ。
「俺、買ってみる。」
何かの決意表明のように彼が言い青色のバケツを手に取った。
購入を済ませ中継所から出ると晴天の空が私たちを出迎える。
「あ、」
小さくTAIは呟いて足を止めた。
「どうしたの?」
彼から聞いたことのないような少し低い声。
私はどうしたものかと彼の表情を見ようとする。
楽しそうな声を上げて小さな子供が私たちの横を通り過ぎていく。
「もしかして、俺チケット代払ってない!?」
「へ……?」
なんだかとても重大なことのように放った言葉が響く。
「あー、大丈夫。私が払っておいたし。」
「だ、大丈夫じゃないよ!沙雪に払わせたままにするわけには……」
そんなことを言いながら彼は自分のカバンを漁ろうとする。
手に青いバケツを持ったまま。
「いいよ、大丈夫。いつもよくしてもらってるしお礼?みたいな。」
「お、お礼って言われても……!」
申し訳なさそうに眉を下げて私のことをTAIは見つめている。
「だからいいの。TAIはここに来るまでに飛行機のお金とか払ってるし。」
「昨日のお昼ご飯も出してもらったしさっきのタクシー代も……だから、ね?」
私は言葉を連ねてそう言う。
「わかった、ありがとう。」
「どういたしまして。」
TAIはそれ以上この話をつづけるでもなく身を引いた。
払ってもらったのは本当だしもうあと数日で海に沈む私にとっては2000円など大した出費ではない。
もちろん普段だったら財布にダメージが入るが今日は特別。
きっと死んでしまうから、ではなくてTAIと一緒にいるから何かしてあげたいと少し思ってしまうのだろう。
「じゃあ早速行こうか、羊とヤギがいるところ。」
私はそう言って彼の手を取る。
広い草原に柵で囲われてできたたくさんのエリア。
何回来てもなんだかワクワクしてしまう。
中心に伸びる大きな一本道、それを彩るように植わっている木々。
さわやかな風が通り抜けるたびに木々が揺れて音を出す。
その音は大きいけれど嫌な音じゃない。
ずーっと聞いていたいようなきれいな音。
「ヤギも羊もいっぱいいるね。」
「でしょ?ここは柵の中にも入れるけれど……入らないほうが餌はあげやすいかな。」
私がそう言った目線の先には餌のバケツを持ったまま入ってしまい羊とヤギが群がる小さな男の子。
近くにいるお兄さんらしき人物が一生懸命助け出そうとしている。
「わかった、ここからあげる。」
彼はそのままバケツから人参を取り出した。
その姿を見るや否や臭いでわかるのかそれともバケツを持つ人間は大体餌をくれる人、と認識されているのか。
大きな角を持った立派なヤギが我先にと近づいてくる。
やっぱりすごい圧だな……
何度見ても餌を自分のものにしようと欲しいと近寄ってくるヤギのオーラは強い。
私何度も餌をねだって買ってもらっていたけれど、結局怖くなってあんまりあげてないな。なんて昔の思い出を振り返ってしまう。
「どうぞ。」
TAIは一番に自分へと近づいた大きなヤギに人参を上げていた。
上手に餌をあげている。
「大きい角だね。」
「うん、そうだね。多分この群れのボス的な位置なのかも。」
「へえ、なんで?」
私が何となく発した言葉に彼は疑問を投げかける。
「まずこのオーラがすごいなぁって思ったのと、小さなヤギが寄ってこないでしょ?だから群れの中で強いのかなって……」
「なるほど……沙雪は物知りだね。」
「ありがとう。でもそんなんじゃないよ、本当は違うかもしれないし。」
そう言って私は笑う。
家族で来た時も家族でそんなことを考察していた気がする。
「うわっ。」
TAIの悲鳴と重なって、ガシャン、と大きな音がした。
その音はヤギがフェンスを蹴った音だった。
「ふふ、早く頂戴、だってさ。」
笑って私はそういう。
こういう催促も珍しくはない、それは初めてやられた側にとってはとてつもなく怖いことなのだが……この光景を何回も見たことがあるのと久しぶりに見る初めての反応になんだか笑ってしまう。
驚いたようで一瞬呆然としていた彼の時間が鵜こきだした。
「え、あ、なるほど。ちょっとまってね!」
少し待って!と言いながら今度はバケツの中からリンゴを取り出している。
「どうぞ!」
差し出されたリンゴのスライスをヤギは一瞬で頬張る。
私はTAIがヤギへ餌をあげているのを少し遠くから見守る。
「あれ、どうしたの?」
ほんの少し離れた私の場所に小さなヤギが近づいてきた。
まだ生まれて間もないのか弱いのか、体が小さく彼が餌をあげているヤギを気にしている様子。
「餌が欲しいのかなぁ……」
黒い色の毛が目立つまだ角も幼い姿。
「ごめんね、私餌持ってなくて。」
何も握っていない手のひらを子ヤギに見せる。
「ごめんね。」
私も餌買っておけばよかったかなぁと少し申し訳なくなる。
餌をボスに奪われてたりするのかな。
「沙雪!」
「どうしたの?」
自分の名前を呼ばれる。
「沙雪に近づいた子、おなかすいてる?」
「そうだね、すいてるかも。」
「じゃあ一つ人参持って行ってあげて!」
ガシャン、とまた催促の音が響く。
「い、いいの?」
「うん!俺がこのヤギひきつけてるから!」
必死な声色、なんだか笑ってしまう。
「ふふ、わかった。ありがとう。」
バケツから人参を一本引っ張り出す。
みずみずしい野菜の冷たさを感じる。
「よし、子ヤギちゃんおいで。」
人参を見せると楽しそうに駆け寄ってきた。
「いい子だね。」
「はい、どうぞ。」
人参をフェンスの近くまでもっていく。
フェンスぎりぎりまでヤギも近づき舌を伸ばして、人参に巻きつく。
「わ。」
急いで手を離すと満足そうにヤギが咀嚼している。
「いっぱい食べてね。」
独り言のようにそう呟く。
催促するように私のことをじっと見つめている。
「もうないの、ごめんね。」
また何も持ってない手のひらを見せると、今度はわかった。とでもいうように私のもとを離れていく。
一本でもあげられてよかった。
沢山のヤギが集合している群れに買っていく様子を見つめる。
「あ、無事食べてもらえたー?」
「うん、食べてくれたよ。ありがとう。」
「へへ、よかった。」
私のほうへTAIが駆け寄ってきた。
「俺はいろんな子にあげ終わったよ。途中から沢山寄ってきて大変だった。」
「沢山……?」
「うん、小さいのから大きいのまで寄ってきてさ。」
「そっか、大人気だったんだね。」
「そうかなぁ。」
確かに手にはもうバケツが握られていなかった。
沢山のヤギに囲まれるTAIも見てみたかったな、なんて思う。
「じゃあ次は……犬?」
道を挟んだ隣にある犬と触れ合えるコーナーに指をさす。
「犬、と会えるの?」
「うん、触れるよ。人懐っこくてかわいいの。」
「行ってみたい。」
「じゃあ、行こうか。」
脱走などがないように二重にされたフェンスのドアをくぐる。
大型犬から小型犬まで沢山の犬が敷地内に寝そべっている。
「かわいい……!触っていいの?」
「うん。あ、久しぶりだね。」
足元によって来るハスキー犬。
オオカミのような大きな体にふわっふわの長毛、きりっとした瞳。
「久しぶり~。」
しゃがんで目線を合わせる。
頭の上を撫でると嬉しそうに目を細める。
その姿で小さいころ私が持っていたハスキーの先入観が壊された。
「知り合い……犬?」
不思議そうな顔をしてTAIは私の隣にしゃがむ。」
「知り合いっていうか、よく私中学の時ぐらいまでよく来ててこの子がお気に入りだったんだ~。」
もふもふとした毛の感覚。
肌はあったっかくて生きているのが伝わる。
息遣いまで聞こえてくるような気がした。
彼も見よう見まねで撫でている。
二人分の触れ合いに動じずただただ目を細めて、気持ちよさそうだ。
「わー、わんちゃん!ママ、わんちゃんだよ!」
元気な声が後ろから聞こえる。
幼稚園生ぐらいの女の子とお母さんが来たようだった。
「おっきい!」
楽しそうに声を上げてハスキー犬の背中を撫でだす。
「お姉ちゃんたちもなでなでしてるの?」
「うん、そうだよ。優しくなでなでしようね。」
ハスキーは小さな子供からの触れ合いにも落ち着いた様子で対応している。
プロだな、と思いながら一緒に撫でることを提案した。
小さな女の子はふわふわの毛に感動したように撫でることを繰り返している。
「あの、ごめんなさい。急に。」
声がしたほうを振り向くと女の子のお母さんだろうか、女性が申し訳なさそうな顔をしていた。
「いえいえ。みんなで楽しく犬と触れられるのがここのいいところですから。」
これであっているのかわからないし、私は大丈夫ですよ、と伝えたかったんだけれど……
どうも私は言葉を人に向かって紡ぐことが苦手だ。
「ありがとうございます。」
「ママ!ママもなでなでしよ!」
女の子が女性に向かって手招きをする。
「わかった、一緒にね。」
なんだか微笑ましい光景が広がっている。
私には縁がないような、あったかい景色。
「あ、来てくれた。」
人懐っこい小型犬が私の足元に近づく。
撫でるとこの子も気持ちよさそうに目を細める。
「沙雪は人気だね。」
「そんなことはないと思うけれど。」
私はTAIの声にそう答える。
足元にぴったりとくっついて離れない小型犬を繰り返し撫でる。
なんだか、いつもより引っ付いてくる気がする。
基本的に地面に寝て誰かに撫でられるのを待つ犬が多い。
走り回っていたら危ないし触れ合いづらいのが理由なのかスタッフの方にそうしつけされているらしいことをたまに耳にしていた。
私も寝そべっていたり座っている子を撫でて触れ合いを楽しんでいる。
「……今日はよく来てくれるね。」
動物は何かを感じ取る、と都市伝説か本当か唱えられることがある。
もしかしたら私からいや私たちから何かを感じ取っているのだろうか。
独り言のようにつぶやいた言葉に反応するように、小さな高い鳴き声が私の耳に届いた。
「ん、そうだね。でも、何もないよ何もない。」
会話をするように言葉を続ける。
犬の言葉、なんて私にはわからないし、この子が私の何かを感じ取ってすり寄ってきたと確信しているわけでもない。
だけれど何故か私のことを心配してくれているような気がしていた。
「沙雪は犬と話せるの?」
「ううん、そういうわけじゃないよ。」
問いかけに首を横に振る。
私が撫でるのを少しやめるとすっと私のそばから消えていた。
「あ、行っちゃった。」
空気に向かってそう呟く。
「次はどこに行く?」
「んー……奥にはウサギとモルモットがいるよ。」
「いいね、行きたい。」
「じゃあ行こうか。」
私は立ち上がり空を見上げる。
相変わらず晴天のまま。
真っ白な入道雲が遠くに見える、夏の景色だ。
運動不足な体にずっとしゃがんでいたことが重なり筋肉が少し痛む。
「じゃあね。」
前にはまたね。と言って出た場所を今日は別れの言葉を呟くだけ。
私たちは犬の触れ合い場を後にした。
大きな一本道を突き抜けていった場所にある小屋、そこには小動物が暮らしている。
木造の小屋でドア代わりについている柵を押すとギィと音が鳴る。
スタッフであるお兄さんの力強く優しい声が響く元気になれる場所。
入るとTAIが瞳を輝かせる。
「モルモットだ!」
小屋の中心に置かれているのはモルモットの居場所。
「ベンチの上に置いてある、かごの中の子は撫でられますので撫でてあげてください。」
中心に置かれた大きなモルモットの場所は撫でるのが禁止になっている。
休憩している子たちが入っているから。
撫でられる子たちは中心を囲うように設置されたベンチの上に箱が並んで、触ってもいいよと張り紙がしてある。
私が説明するよりもここはプロのお兄さんに任せたほうがよさそうだ。
TAIは嬉しそうに一匹のモルモットを撫でる。
その様子を私は見守りながら、小屋の端に設置されているケースに目をやる。
チンチラが飼育されていて触ることもできないし起きていて動いてる姿を見ることも稀。
なんだか運試しのような感覚で見に来てしまう。
「今日は起きてる。」
灰色のもふもふとした小さな生き物がゲージの中に佇んでいる。
瞳も空いていてきょろきょろと周辺を眺めていた。
「チンチラ?」
「うん、ここに来たら毎回見るんだ。可愛くて。」
辺りをゆっくりと動く姿が愛おしく見える。
「沙雪って動物、大好きなんだね。」
「そうだね、好きだよ。TAIはそうじゃないの?」
私がそう問いかけると少しの間が空いた。
「俺も好き、だけど沙雪のそれとは多分違う。」
呟いた彼の言葉はなんだかふわふわしていた。
私が覗き込む横顔はいつもと違ってなんだか下を向いているよう。
「違う、かぁ。」
「俺は沙雪みたいに動物たちから何も感じ取れたことがないから。」
「どういう意味……?」
「なんて言ったらいいんだろう。俺自身もわかんないかも。」
彼は苦笑するような表情を浮かべていた。
「わからないでもいいんじゃないかな。動物は可愛いし自分の中で好き、その感情はきっと間違ってないと思うよ。」
「それでいいのかな。」
「いいよ。」
投げやりに聞こえちゃうかな、でも好きなものは好きで間違いはないから。
数学の問題と違って確立した答えは感情にはない。
答えなんてあるようでないんだから、自分の言葉を信じたもの勝ちだと思う。
チンチラにふと目をやると私たちの長い会話に待ちくたびれたのか目を閉じて寝てしまっている。
「寝ちゃった。」
「寝ちゃったね。」
二人で意味もなく言葉を交わす。
奥のほうにいたウサギも撫でて私たちは小屋を後にする。
山にあるからか日差しは強いけれど暑さと熱気はあまり感じない。
小屋のさらに奥にあるリクガメとカンガルーを眺めて二人で時の流れを忘れた。
丘の上にあるアスレチックのような遊具で私たちは年齢を忘れて遊んだ。
小さな子供の邪魔にならないようにしながら。
何年振りかわからないけれど滑り台で勢いをつけて、ターザンロープに必死につかまって手を真っ赤にして。
遊具の一番上から辺りを眺めて。
周囲の様子は気にせずに、高校生だということも来年には大人になるってこともすべて忘れて走り回った。
「あははっ、はしゃいだね。」
「そうだね。」
二人で息を切らして芝生に転がる。
夏空の下で遊ぶために着てきた服でもないのに走り回って、久々に走ったから心臓が飛び跳ねて息が切れ切れ。
それはTAIも同じようで大きな肩が何回も上下している。
ヤギの鳴き声、人々の声は小さく聞こえ隣にいる彼の息遣いだけが私に深く聞こえた。
「久しぶりに走ったかも。」
「私も、ほんと夏休みに入る前の体育ぶりだよ。」
互いに笑い声が漏れ出てくる。
彼は笑っている、きっと私も笑っている。
体を起こし、夏の涼やかな風を一生分浴びてどこかで鳴いている蝉の必死な声。
「おなかすいちゃった。ご飯にする?」
「うん、ご飯にしよ。」
立ち上がって服についた土やら草やらをはらう。
一番最初の中継所まで戻ればご飯が売っている場所につく。
スマホを見ると午後1時。
どれだけここで遊んでいたのだろうか。
頬に張り付く冷たい汗を手で拭った。
中継所に戻るって確認するとまだ昼食は売り切れていないことを確認し安堵する。
数グループが各自テーブルに腰かけて昼食をとっていた。
「何食べる?」
メニューを二人で覗く。
レジの奥側で店員さんが待っているのがわかる。
少し見られているのは緊張する。
カルビ丼にカレー、カツサンド、うどんなどいろいろなメニューが写真付きで壁に貼ってある。
厨房の方向から美味しそうな香りが漂う。
「じゃあ、俺はカレーで。」
「私はカツサンドにしようかな。」
「わかった、じゃあ席とってて。注文してくる。」
TAIに言われるがまま私は一番隅の席に座った。
四人掛けのテーブル席。
背もたれのある椅子にもたれかかる。
昨日もたくさん歩いたしちょっと疲れちゃった。
彼といれば楽しいことばっかりで忘れてしまうけれど、旅行は疲れるし後々が苦しくなることだってある。
でもやりたいことをこうやってやれてるのも青春の一種かもしれない。
そう思うと悪くない気がしてくる。
目の前の子供連れや初老のおじいさんとお孫さんらしき小さな子供。
いろいろな人が来てるな、とつい目が行ってしまう。
時刻耳じゃないし詳しい話が聞こえてくるわけでもないけれど笑顔で笑ってて、稀にあきれたような顔を大人たちはするけれどどこか幸せそうだ。
私には何が足りないんだろう。
私も誰かと笑いあいたくて幸せになりたくて、でもそれが言えなくて。
用意された私の道にはきっとこんなありふれて特別な幸せはやってこない。
こうやって変な考え方をするのも原因、私には幸せになりたいと行動する力も誰かの幸せのために働こうとする気持ちも単に足りない。
いじめられてから、無視されてから、大人たちに適当にあしらわれてから。
みんなそうなのかなって思うようになって、自分以外の人が妙に気になって。
気づけば眺めて羨んでいる。
幸せを何も知らずに笑う純粋な瞳を、そして素直な表情を。
「沙雪、おまたせ。」
私のほうを見つめる目、茶色っけが強い濃い瞳。
そこに私が映っている。
素直に動いてる口角、ころころと変わる表情。
「沙雪?」
純粋な心に子供のような軽い口調。
私は、私はTAIのことが好きで、好きだけど。
きっと、彼のことを私はずっと羨んでいる。
中身が何もないと自分のことを言っているけれど私はそれが羨ましい。
失礼なことを言っているとは思う、でも自分と違う瞳が心が表情が全てキラキラ私の中で輝いてるから。
「……ううん、なんでもない。ありがと。」
私はお礼を言い前の椅子を彼に座るよう勧めた。
彼の手に握られたトレーにはカレーが乗っていて、私にはカツサンドを渡してくれた。
さっき気づいたことは言葉の通り墓場まで持っていこう。
第一ここで話すような内容ではない。
「いただきます。」
心に決めて私はサンドを齧った。
拭き取りきれなかった汗が伝ってなんだかしょっぱかった。
TAIはこれまで通り楽しそうに食事をしている。
「ごちそうさまでした。じゃあお金払うから_」
私たちは食事を終え、私は買ったときに代替わりしてもらったお金を渡そうとした。
「ううん、俺が払ったから大丈夫。」
「え、でも私が食べた分……」
「いいの!俺、入園料おごってもらっちゃってるし。それに俺なりの恩返し。」
彼は格好をつけるようにそう言った。
まるでチケット代で押し問答していた先ほどみたいだ。
「恩返し?」
恩返しの意味が分からずオウム返しの質問をする。
「うん、だって俺が急に来るっていっても嫌な顔せずこうやって一緒にいるし。」
「それは、だって、」
「心中相手を探すため、でしょ?」
その言葉に私はうなづくことしかできない。
人が減り食事をしているのは私たちだけ、そして目にもとまらぬような隅っこで二人。
彼にはよく子供のような言動が目立ち、何も知らないかのような純粋な心を持っている。
これはきっと彼の個性。
彼のこの圧も確信をつくしゃべり方が怖くなるようなまっすぐに見つめてくる瞳が彼がただの少年ではないことを主張してくる。
「でも、俺さ。嬉しかったから、嬉しいことをしてもらってお礼をしないのはカッコ悪いかなって。」
「なにが嬉しかったの……?」
口から小さく漏れ出した言葉。
何が嬉しかったのだろうか、心中を了承してもらえたこと?それとも私に会えたこと?ここに連れてきたこと?逃避行の旅を楽しんでいること?何がこの少年を喜ばしたの?嬉しくさせたの?
「_あ、ソフトクリームある!」
「え、」
数秒間の沈黙の間にTAIは一度考えるように目を伏せた。
そのあと開いた瞳は子供っぽくソフトクリームのメニューに目を輝かせている。
「ごめん、俺から言っといてこれってのはきっと沙雪は了承してくれないけど。俺もわかんないから、今日の夜までには考えとく!」
「う、うん。わかった。」
明るいトーンで吐かれた言葉。
何を考えていたのだろう。
無理に聞きたくはないけれど私の心には靄がかかった気がした。
彼が嬉しいのもきっと嘘じゃない、格好つけたかったのも嘘じゃない、そして嬉しい理由がわからないのも嘘じゃない。
ネットで知り合ったころからTAIの言葉は軽かったり重かったり、受け取る側が疲れてしまうような上下が激しいものだった。
でも彼の言葉に嘘がないことは私が一番知っている。
薄っぺらい一言にも意味があることを知っている、それが私の知るTAI。
だったら、私は何も言えない。
TAIのことをただ羨み、好きという感情さえもしかしたらただの羨みだったのかもしれない。
それが本当なら、もし本当なら、私には彼と死ぬ権利も彼のことに首を突っ込む権利もない。
ただただ、一緒に死ぬことしかできない。
「ソフトクリームは、もう少し上にある場所で食べたほうがいいかも。」
「もう少し上?」
気持ちを切り替えなきゃ、私はこの旅ではガイドなんだから。
楽しんで、もらわなきゃ。
「うん、もう少し山を登ったところにある場所なんだけど。景色もいいしおいしい乳製品がたくさんあるんだよ。」
「いいね、行ってみたい。」
「じゃあ次の目的地はそこだね。」
次の行き場を決め、私たちは席を離れる。
私は靄がかかったこの気持ちが言葉が間違っても彼に届かないようにそっと蓋をした。
太陽が高くなり、外に出ると熱気を感じる。
快晴と呼べた空は夏の強い日差しでコーティングされてしまった。
山とはいえ蒸し暑い空気が漂っている。
中継所にはエアコンがついていたから猶更強く暑さを感じた。
日差しを手で精いっぱいよけながらまだギリギリ屋根がある場所でタクシーが来るのを待機する。
「あっつい……」
「暑いね。」
「夏に来るんじゃなかったぁ……」
「あはは、そうかも。今日は早めに旅館に戻る?海に足をつけたら気持ちいいかも。」
「それ名案。きっと夜中の海は寒くて苦しいけどこの日差しの中入ったら涼しいだろうなぁ。」
「じゃあ、次の場所行ったら今日は旅館に戻りだね。」
「うん、そうしよ。」
タクシーを頼んだけれど来るまでの数十分間、彼はずっと暑さを憂いていた。
あまり暑いのが得意じゃないのだろうか。
薄い自分の服を首元でぱたぱたとさせて顔には汗が浮かんでいた。
このままでは熱中症にでもなってしまうから近くの自販機で水を買い、渡す。
彼は生き返る~と笑いながら一口飲んだ後は首元や顔にペットボトルをやり冷やしていた。
買ったときのペットボトルについていた水滴が私の手のひらの中でまだ張り付く。
忘れたくない思い出のようにじわっとしみこんでいく。
タクシーが来てから乗り込み私は目的地を小声で伝える。
もう小声で言う必要性などどこにもないのだがTAIにはついてから伝えたいという私の自己満足だ。
運転してくれたおじいさん運転手は、はいわかりましたよ。と静かに頷いてくれた。
タクシーの中はエアコンがきき、空調が整っている。
ほんの少しの移動なのだが疲れたようで彼は眠ってしまった。
その寝顔を盗撮だとわかっていながら一枚撮った。
私が墓場まで持っていく物が増えちゃったな、と一人で苦笑する。
だんだん耳がキーンと鳴ってくる、だいぶ高いところまで来たなと窓の外を覗いた。
見える景色は似たような森ばかりになっていく。
家族で来た景色が鮮明によみがえる。
記憶に色がついて感触がついて声がついた。
「つきましたよ。」
「ありがとうございます。」
到着すると大きな駐車場が広がっておりさっき見た森はどこへやら。
隣に座り寝ているTAIの肩を揺さぶる。
「ん……沙雪……?」
「ついたよ。」
「どこに……?」
寝ぼけているのか瞼をこすりながら彼は私のことを見つめる。
「ソフトクリームの場所!」
まだ地名も言っていなかったしどういっていいか困りながら私はそう伝える。
おじいさん運転手はくすっと笑っていた。
「ソフトクリーム!ついたの!?」
「うん、ついたよ降りよ?」
「わかった。」
ソフトクリーム、という名前で思い出したのか急にテンションが元通り……いや二倍ぐらいにはなっていると思う。
お金のやり取りを終え、タクシーから降りる。
「元気のいい弟さんだねぇ。」
「そ、そうですかね。」
なんだか姉弟と勘違いされしまったよう。
昨日のカップルと勘違いされるよりはましだけれど、嬉しそうに言われるものだから否定できなかった。
「では、楽しんで。」
「はい。ありがとうございます。」
私は運転手さんに一礼し見送った。
「沙雪、ここでソフトクリームが食べられるの?」
「ううん、少し坂を上った先。」
私たちがいるのは駐車場、駐車場から坂を上った先に最高の景色と販売所がある。
「まだ紹介してなったよね、ここはみるくの里。」
「みるく……?」
「うん、みるくの里。大きな広場があって上も下もいい景色が見れるんだよ。「」
「いい景色_わっ」
景色、と聞いて後ろを振り向いたTAIが大きな声を上げる。
「どうしたの?」
「大山近い!」
「確かに近いよね、というかもう登ってはいるんだけど。」
山の山頂側を見上げるとすぐそこに山頂があるかのよう、はっきりと濃い緑で覆われた山面が見える。
「ふふ、もっといい景色が見えるからね。もう少しだけ坂があるけれど登れる?」
「まだまだ歩けるよ!大丈夫!」
ニコニコの笑顔が私に向けられる。
彼もとても歩いて走っていたはずなのにまだ元気そうだ。
「あれだけ走ったのに元気だね、部活運動部とかなの?」
「ううん、帰宅部!だけど寝たからね、元気になる。」
「そっか。寝たから……」
なんだか納得してしまいそうになる。
小さな子供なら寝たら全回復、なんてよく聞く話だけれど。
高校二年生男子ってこうなのかな……
「ふふっ。」
「何笑ってるの?」
「かわいいなって。」
「え。」
私が思ったことをそのまま口に出すと予想外だったのかTAIは固まってしまった。
「か、かわいい……?」
「うん。かわいいなって思っちゃった。」
そう言ってまた笑いがこぼれる。
「冗談よして!」
「冗談じゃないよ~」
私は彼が柄になく照れているのをこれでもかと堪能する。
赤く染まった頬は綺麗で整った顔立ちから髪を伸ばせば美少女にも彼の姿が私の瞳に映る気がする。
ざわざわと周囲の人の声が響く。
立派な観光地だからか駐車場にある車の中には他県ナンバーが多くあった。
「からかっちゃったね、ごめん。」
「……もう口きかない。」
「え、それは悲しいなぁ。これからソフトクリーム売ってる場所に行くのに。」
私は彼をなだめるようにそしてまたからかうようにそう言った。
「わかった、でももうしないって誓って。」
「んー誓うのは厳しいかも。」
「え。」
「わかった、誓います。」
まるでキャラクターのように彼の表情は変わった。
怒ったり笑ったり創作物の登場人物のよう。
もう少し珍しく照れた彼のことをからかいたかったがまずはソフトクリームが優先だ。
冗談っぽく誓いを立てた。
すると彼は満足したように一つ大きくうなづいた。
コンクリートの坂を二人で登る、飼い犬と思われる小型犬がリードにつながれ私たちより早く坂を上っていく。
リードの先には私たちと同じぐらいの少女が楽し気に犬と走っている。
長い髪をポニーテールにまとめ、笑顔が太陽に負けずまぶしい。
私たちは熱気のたまったコンクリートをただひたすらに歩いた。
ひたすらに、といっても大幅な距離ではなく100メートルほどだ。
登りきると大きな草原が見える。
草原の反対側には販売店が立っており、道の隅やベンチで何人もの人がソフトクリームを食べていた。
「わぁ……いい景色。」
TAIは先に販売店より草原から続く景色に目が行ったようだった。
広い草原、その奥に見えるのは街の景色、今日は天気がいいからその奥の弓ヶ浜半島や海まで一望できる。
私は夢みなとタワーからの景色も好きだけれどこの壮大な自然を感じられる景色が私は一番好きだ。
息を吸い込めば夏の照った太陽のこびりつくような暑さと草原に茂る芝生の青い香りが肺の中に広がる。
雲より高い場所に来たんじゃないかと錯覚するような少し霞んで遠くに見える街のにぎやかさ、水平線が見えないほど大きく広がる海、永遠と奥に続いていくような砂浜。
山も海も街も全部見えて全部感じれる、この街が好き。
「ほんと、いい景色だよね。」
「うん、綺麗。」
瞳に何が映っているのだろう、輝いて何かが彼の心に刺さった。
「……これが、いままで行ってきた場所が沙雪を育てた場所なんだね。」
「育てた、かぁ。」
想像の斜め上を行くような彼がつぶやいた言葉。
確かに小さなころからよく言っていた場所でこれでもかというほど思い出が意味がしまってある。
簡単には取り出せないけど簡単には削除できない特別なファイルに。
「うん、そうなのかもね。」
「だから、俺も好き。」
彼はそう言って柔らかく笑った。
私が見れるのは横顔だけだけれどふにゃっとした優しい顔。
「じゃあ、ソフトクリーム買おうか。」
「やった!」
「ここにある今列ができてるところに並べば買えるけど……」
そう言って外側に設置してあるソフトクリーム専用の販売場を見る。
長い列ができていて忙しそうだ。
「_まず、販売店の中見てみる?」
「うん!」
中に入るとクーラーの入った涼しい店内。
人工的な風が私たちの頬をかすめる。
意外と中に人はおらず、たくさんのお土産用のお菓子やちょっとしたグッズが並んでいる。
どこを見渡してもそればかりだ。
牛のグッズや地域で大人気の牛乳を使ったお菓子や乳製品、象った文房具なんてものもある。
「スピードくじ……」
ある場所で私は歩みを止める。
それは外れなしで確実に牛のぬいぐるみがゲットできるというくじだった。
スピードくじ、意外と聞いたことのない人もいるかもしれない。
私もこの場所で正式名称を知った。
大きな空気で膨らませた透明なバルーンの中に風の流れがあり、それらに流されるようにくじがまっている。
ここではなく、ほかの場所でチャレンジしたことがあったが強い風とそれに翻弄される紙製のくじの相性でなかなかとりづらい。
「沙雪、やりたいの?」
「んー……小さいころからのあこがれではあったかな、ぬいぐるみが当たるし。」
スピードくじの機械が置いてある隣には景品のぬいぐるみが積み重なっている。
もちもちとした素材でプラスチックの光を反射する瞳がきゅるんとこちらを見ている。
愛おしい白黒模様のホルスタイン牛のぬいぐるみ。
何等かで、ぬいぐるみの大きさが変わる。
一番下は両掌ぐらい、一等へと上がるにつれだんだんサイズ感が大きくなる。
一等は抱えて持ち運ばなきゃいけないほどの大きさがある。
「じゃあ引いたらいいんじゃない?もう自分のお金なんだし。」
「それも、そっか。」
今は値上がりして1000円を超える値段が書いてあるが私が小さなときは700円程度だったように思う。
それでも大金だからと私がやりたいといっても親が首を縦に振ることは無かった。
でも自分のお金が今はある。
どうせ死んでしまうんだ、ここに来るのはこれが最後。
せっかく下したお金はまだ半分も減っていなかった。
「じゃあ、引いてこようかな。TAIはどうする?何か買うの?」
「俺もせっかくだし。」
その言葉になんだかうれしくなる。
店員さんに伝えくじを引くためにお金を渡した。
「どちらからお引きになりますか?」
二人で目を合わせる。
「じゃあ、俺から。」
目を合わせた時間は一秒もなかった。
「俺一等とってくる!」
自信ありげに彼は宣言する。
「がんばって!」
くじなんて運なんだから頑張るもなにもない気がするのだが、私も応援の言葉を口にした。
彼は思いっきり空気の流れの中に手を入れる。
「よいしょ!」
何度も何度も漂ってくるくじを取ろうと手を握るのだが逃げられてしまう。
宙に舞い、一回転したくじがなんだか煽っているよに感じ面白い絵面へと変わっている気がする。
やっとの思いで彼はくじを一枚握りしめた。
離さないように丁寧にこぶしを握ったまま彼は空気の流れから手を引いた。
「どうぞ、開けて確認してください。」
にこやかに笑う店員の言葉。
彼は頷き、丁寧につなぎ目をめくった。
そこには一番下の番号が書かれていた。
「あっ……」
なんとも互いに声にならない声が漏れる。
「よし、沙雪、後を頼んだ!」
「ええっ、う、うん!」
次は君だよ、と言わんばかりに私の背中をTAIが押す。
いざ機械を前にするとなんだか怖いなと感じてしまう。
私は何も言わず無言で腕を中に入れる。
ゴーゴーと風が吹き荒れ私の腕にまとわりつく。
嵐の中央に入ってしまったよう。
「紗雪!くじ掴んで!」
「わ、分かってる!!」
威勢よく返事は返すものの掴もうと手を開いて閉じる度何も掴めていないのが身に染みる。
風を掴みふっと指の間から消えてしまう。
掴んだ時に同時に握り込む手のひらが爪に押され痛んだ。
「えいっ!」
まるでどうにでもなれと願うように私は目を瞑り、風の流れと冷たさを感じながら手を握った。
すると手の中に何かが収まったような感覚、小さくてくしゃっと音が鳴る。
「わ、掴んだ!紗雪!」
「うん、そうだね。」
掴んだ私よりTAIが喜ぶ声。
くじを離さないように気をつけながらそっと風の流れから抜ける。
外の少し湿った空気に触れた。
くじは軽く握りつぶしてしまっていたが破れてはなさそう。
所々、しわができている。
「さ、紗雪……」
「わかってる、行くよ……!」
私たちに緊張の糸が張る。
ただのくじで運試しで、良い等が出たからと言って同じぬいぐるみなわけだし……
それでも今は大事なことで、私たちの瞳に映る全てだ。
繋ぎ目に指を引っ掛ける。
心の中で一息つき、めくる。
「……あら。」
沈黙を破ったのは確認した私でもTAIでもなく、一緒に居た店員さんだった。
私のめくった番号を見てニコニコしている。
その一声を合図に私達も緊張が抜ける。
「お揃い、だね。」
「ふふ、そうだね。」
書いてあった番号はTAIと一緒。
要するに、1番下の賞品。
店員さんに促されて、こちらを見つめるぬいぐるみから1つ選ぶ。
彼はぱっと1つのぬいぐるみを掴む。
私はなんだか悩んでしまう。
光に反射しキラキラと見つめるぬいぐるみの瞳。
どれも同じはずだけど違う気がする。
こっちを見てる子、後ろ向いてる子……一括りにぬいぐるみと言ってもこのコーナーだけで個性が見えてどうも選べない。
視線を左右に揺らしどの子にするか、考える。
「あっ……」
そのうちに目が合う。
手が伸びる。
きっと、私がお迎えしたい子。
隅っこにいて、でもこちらを見つめて、黒いプラスチックの瞳に反射する輝き。
掴むと大福みたいに柔らかい感触。
さっきのくじとは真反対だ。
少し強めに握るとぎゅーっと指が沈んでいく。
サラサラしていてふわふわしていて両手に収まるサイズ感だけれど……思いっきりぎゅってしたい……!!!
そんな気持ちを堪えて、彼の方に向き直る。
「その子にしたの?」
「うん。」
私はそう言って彼のほうへとぬいぐるみの顔を向ける。
「かわいい、沙雪に似て。」
「えっ、それってどういう__!」
さらっと放たれた言葉に驚いてしまう。
深堀できないかと言葉を探す。
「沙雪の牛さん、初めまして。」
私が紡ごうとした言葉を覆い隠すようにTAIが言葉をつないだ。
それも、私のぬいぐるみの口に彼のぬいぐるみの口が重なって。
「……え。」
口から漏れ出てきたのはそんな不甲斐ない言葉だった。
TAIの表情を見るといたずらに笑っている。
顔が熱くなるのを感じる。
ただでさえ暑いのに。
「沙雪、照れてる?」
私の顔を覗き込む彼。
「う、うるさい。ちょっと、びっくりしただけだし……」
こちらを見つめる視線がどうにも居心地が悪い。
嫌だったわけじゃないんだけど、どうして急にそんなことができるのだろうか。
だってあれは、
「えへへ、そっかぁ。」
あれは、無自覚じゃなくて。
純情なTAIの感情じゃなくて、きっと確信犯だ。
私の顔を覗き込む瞳とニヤッと笑う口元。
今の状況を全力で楽しんでいるよう。
私が拗ねたように視線をそらしぬいぐるみを抱え、下を向く。
アスファルトには私の影が落ち、濃い色で染める。
隙間から出てきた雑草が鮮やかな色で上を向いていた。
「もー……沙雪、拗ねないでよー!」
駄々をこねるような言葉が頭上から聞こえる。
なんだかいつもの調子で返事をしたら負けのような気がして言葉を飲み込む。
「ソフトクリーム、沙雪の分も買ってくるから……俺のぬいぐるみ持っててくれる?」
「わかった。」
彼の言葉に頷く。
そうだ、ここにはソフトクリームを食べに来たんだった。
さすがに拗ね続けるのは子供っぽいし……
彼からぬいぐるみを受け取る。
「よし、じゃあ沙雪と待っててね。」
牛のぬいぐるみにやわらかい視線が向けられる。
先程まで彼の手の中で握られていたのか体温が染みついて暖かい。
左手に持った私の牛と右手に持ったTAIの牛。
じーっと見つめる。
すると違いが分かる気がする。
「ふふっ、あなたは少し目が離れてるかな?」
私のぬいぐるみよりTAIのぬいぐるみのほうが表情が賑やかに見える。
まるで私たちみたい。
「ねえ、さっきの……キス、だよね?」
二つのぬいぐるみを抱えそんなことを呟く。
誰にも聞こえない声で。
目の前に広がる大草原に響く人々の声が大きく聞こえる。
キャッチボールをする親子、シャボン玉を吹いて目を輝かせる小さな女の子。
バトミントンの羽が遠くに飛び、友達らしき人に飛ぶ「おーい、ちゃんとしろよー!」という声。
そういいながらも声も表情も楽しそうだ。
レジャーシートを広げ鬼ごっこをして遊ぶ弟妹を見つめる母親と姉らしき人。
隣のベンチで風景を眺め手にソフトクリームを持つカップル。
楽しそうな人々の声と情景、全てを感じる。
「いろいろな人生が見えてくるね。」
「ここが、きっとみんなの大事な場所。」
手の上にいるぬいぐるみから視線を感じた、そんな気がした。
「わかんない?わからなくても大丈夫。」
「みんなの笑顔から見えてくる人生がきれいだなって、そうやって考えるのが私は好きだから。」
ぬいぐるみに微笑みかける。
微笑みも声も何も返ってはこない。
プラスチックの黒い瞳が私のことを反射する。
「沙雪、お待たせ。」
「ありがと。」
声に振り向くと両手にソフトクリーム、脇に財布を抱えてTAIが立っていた。
持ってあげなきゃ、と思いぬいぐるみをいったん置き、一つソフトクリームを受け取る。
鼻腔を抜ける甘い香りとコーンの香ばしさ。
「溶ける前に食べちゃおっか。」
私の声を待っていたのか否か、彼は私の言葉を合図に一口食べる。
大きく口を開き、気が付けばソフトクリームが半分ぐらいに減っている。
「食べないの?溶けちゃうよ?」
口の端にクリームをつけたまま私のほうを彼は見つめる。
「ううん、食べるよ。」
TAIぐらい思い切っては食べられないけれど……
口を開け、ソフトクリームを口に入れる。
「ん、おいしい。」
「おいしいよね!」
私の言葉に彼が反応する。
口に入るとそっと溶けていくソフトクリーム。
甘いバニラの香りと濃厚なミルク。
私が初めて食べた時から変わらず、ずーっとおいしい。
彼は楽しそうにパクパクと口に運ぶ。
空気の熱にさらされ溶けかけてくる様子を見て私も少し焦りながら口に運ぶ。
コーンを齧るとパリッと割れる。
噛むたびにサクサクと音が鳴る。
溶けかけてジュースのようになりかけたアイスを最後のコーンと一緒に口に放り込んだ。
アイスだけじゃなくて夏の空気を思いっきり吸い込んだ気がした。
青い緑の味。
夏の土のにおい、芝生のにおい。
「おいしかった~!いろんないいところ知ってるんだね。」
「うん。まあ、ずっとここにいるし。」
私はどう答えたらいいかわからず当たり障りのないことを返す。
家族で来たとか幼稚園の時遠足で沢山いったことがあるとか。
ほかにも山ほど理由があるけど、それでは言い訳のような気がして。
「そっか。沙雪の思い出の場所たち?」
「……うん。思い出で大好きな場所、かな。」
そう答えた私の表情はどうなっているのだろうか。
笑っているのかさみしいのかどこかの思い出に思いを馳せているのか。
自分でもわからない。
「そっか、いいね。」
彼の表情が答えなような気がした。
やわらかい笑顔が彼の表情を覆う。
偽物じゃない本物のふわっとした優しい顔。
「あっ、ソフトクリームのお金。」
「え、今それ言う?」
「だって、忘れないうちにしなきゃ。」
なんだかいい雰囲気やロマンチックと言われればそうだったような気もする。
でも、また払わせてしまうのに罪悪感がありそれが勝ってしまった。
「いいよ。俺が払ったのもついでだし。」
「ううん。さすがに今回ばかりは私が気にしちゃうから。」
そういいながら小銭を財布からあさる。
カチャカチャと小銭同士がすりあう音。
金額分を握り、そっと彼に手渡す。
「あ、ありがと。」
彼の手が熱い気がした。
「よし、じゃあ目的は達成したし今日は旅館に戻ろうか。」
互いの体調や心中までのコンディションを心配し今日は帰ろうと打診をする。
私の言葉に彼は頷いた。
「俺のぬいぐるみどっちだったっけ……」
「あー……えっと、待ってね。」
どっちの手に持っているかで見分けていたのだがすっかり手を放しベンチに置いていたからわからない。
じーっと二つのぬいぐるみを交互に見る。
「よし、君がTAIのだね。」
右側に置いてあった子を掴んで彼に渡す。
「よくわかるな、俺わかんないや。」
「ふふ、私も完全にわかるわけじゃないよ。」
彼は少し困ったように渡されたぬいぐるみと私のほうへ残ったぬいぐるみを見つめていた。
「さっき見てた時に気づいた特徴を照らし合わせただけだよ。」
私はそう言って笑う。
実際はその特徴とほんの少しの勘なのだけど。
「すごいね。」
「TAIも頑張れば、見分けれるかもよ?」
「えー、うーん……」
もう一回彼はぬいぐるみを見る。
「やっぱり俺にはわかんないや。」
そう言って彼は苦笑いを顔に浮かべた。
タクシーを呼び、旅館へと帰路につく。
到着した後、一度荷物やぬいぐるみを置くために部屋へ戻り、タオルを数枚持ち外へ出た。
昨日と違い、日が高い時間だからか砂浜には人の姿が多くあった。
海岸線はレジャーシートやテントによりカラフルに染められ、人々の水着や浮き輪で水面も賑やかだ。
「海、ちょっと気になってたけど。人が多いかな。」
「ううん、人が多いところから少し離れれば大丈夫だよ。足をつけるだけだし。」
私はそう言って彼の手を引いた。
山の中とはまた違う熱気で囲われている。
海面に反射する直射日光が照りつけて痛みすら覚える。
海に面した道を二人で歩き、スニーカーを脱ぎ片手に靴を片手に片方の手は彼の手を握る。
「もう少しだけど歩ける?」
「歩けるよ、大丈夫。」
私の言葉に彼が反応する。
200mほど歩くと人混みがなくなり、波の満ち引きする音だけが鮮明に聞こえた。
「ここ?」
「うん、ここ。静かでしょ?」
「静かだね。」
砂浜の視界に入るところに靴とタオルを置く。
消波ブロックに大きな波が当たる。
水しぶきがパラパラと私たちに降り注ぐ。
砂浜にあたる足裏が焼けるように熱い。
日光を含んだ砂がくっつき離れない。
砂浜から逃げるように海へと足を進める。
足元が水を含んだ砂になり、ひんやりと熱が取れていくのを感じる。
波が押し寄せ水がかかる。
冷たい。
夏の涼しさが足を伝う。
「つっめた!」
はしゃぐような彼の声が耳元で響いた。
「冷たいね。ほんとに。」
足元まで来た水を手で少しすくう。
ベタベタと手に張り付く。
強い海水の匂いが鼻をかすめる。
海風が私たちに当たり通り過ぎ、夏を空中に揺蕩わせた。
ばしゃっ。
大きな音が海面に響いた。
「ふふっ、何してるの?」
私が音のした彼のほうを向くと、彼は水をすくっては水面に投げていた。
「えっと、」
「よいしょ!」
彼が言葉に詰まったのを見届けず、私は彼に向かて水をかける。
「うわっ。」
驚いたように言葉を放ち、彼は水しぶきを被る。
「油断した?」
「……ちょっどだけ。」
私が仕返しのように笑うと、水で濡れたまま彼は視線を合わせなかった。
なんとなく哀愁が漂う表情にいたたまれなくなる。
もしかして私は彼にとって嫌なことをしてしまったのではないだろうか。
どうにかして謝らなければと言葉を探した。
「あ、えっと。驚かせたかっただけで__!」
「よし、かかった!」
「え、」
下に向いていた視線が上がったかと思うと目の前が水しぶきでおおわれる。
「わっ。」
どうにか水を腕で受け止めようとするも間に合わず、海水が髪を濡らした。
用意していた服も水を含み、ずっしりと重くなる。
冷たい水が頬の熱を分解していく。
涙のように顔を伝った。
「ふふっ、やられちゃった。」
「どう?俺の演技力。」
「すごいよ、騙されちゃった。」
人の少ない海岸線に私たちの笑い声が響いた。
水をかけてごめんね。と互いに誤り笑って終わり……
とはいかず、簡単にむきになってしまった17歳の少年と少女は何度も互いに水をかけ。
歩き疲れていたはずなのに海と砂浜の境界線を走り回った。
砂も海面もキラキラと輝いて、網膜を刺激した。
気づけば少し太陽が傾き、私たちを見下ろしている。
互いに息が切れてしまい、濡れて重くなった服を纏いながら砂浜に座り込む。
強い日差しが肌にあたり、海水が不気味なほどに渇き皮膚が張る。
何も言わずに見つめあう。
そしてたまに笑いあう。
服がある程度渇き、歩ける体力が戻るまで私たちの間に言葉はなかった。
ただ、互いが目の前にいることが肩で息をしながら汗と海水で濡れながら見つめあえることが、幸せでしょうがなかった。
知らぬ間に過ぎていった暑さに苦しみ自然を恨むいつかの夏より、今日の輝く太陽と暑くて仕方がないのに楽しくて笑ってる、今の夏が幸せだ。
「そろそろ戻ろうか。」
「うん。まだ日が落ちる前だけどお風呂入りたいなぁ。」
「いいね!今日こそ沙雪に露天風呂入ってもらわなくちゃ。」
波打ち際から離れ、アスファルトの上を二人で歩く。
柄にもなく遊んでしまった、と自分自身に向けて少し苦笑する。
できるだけ払ったけど砂粒がついたりしているだろう、旅館に帰ったらお風呂に入ることにした。
部屋に戻るとなんだか安心感がある。
旅館特有の和室のにおいが心地いい。
「よし!じゃあ最初に沙雪お風呂入ってきなよ。」
部屋につくなりTAIがそう口にする。
「いいの?」
「もちろん。お風呂は部屋にもついてるし俺は一旦シャワーだけ浴びとくよ。」
私を気遣っての言葉なのだろうが彼には気遣っているそぶりがなかった。
当たり前にこうである、と彼の中で決まっていた決定事項のようだ。
「わかった。じゃあ、行ってくるね。」
ここで遠慮したらそれこそ彼に悪いと思い私は言葉に甘えることにした。
「うん、ゆっくり入ってきて。」
そう見送られ、私は着替えとタオルを持ち大浴場へ向かった。
大浴場とは階層が違い、エレベーターで下へと向かう。
まだ時間が早いこともあってか風呂用の荷物を持った人とはすれ違わない。
赤色の暖簾を見つけ、くぐる。
すると狭く少し長い廊下が見え、道なりに進むと大きなスペースが私の前に広がる。
ロッカーが一定間隔で並べられていて脱衣所だと悟る。
時間が早いのが功を奏したのか私のほかには人がいないようだ。
なんだかほかの人と顔を合わせるのが嫌で急ぎぎみに準備をする。
ロッカーに鍵をかけたのを確認して鍵をしっかりと手首につけた。
番号も確認しタオルを持ち、浴場へ向かう。
「わぁ……」
思わず声が漏れた。
暖かそうな湯気が天井に向かって舞い、空気中にふわふわと浮かんでいる。
引き戸を開けた瞬間に感じる湿気と太陽の熱とはまた違う温かさ。
シャワーを済ませ、一番に目に入った大きなお風呂へと浸かる。
「あつい……」
足先から少しずつならしたはずだが、家のお風呂とは違う温泉の熱さにはなかなか慣れない。
じわんわりと肌から中へと伝わっていく熱量が気持ちいい。
電灯だけが光る天井を見つめる。
水を体に纏うこの感覚が好き。
運よく誰もいない大きなお風呂の端っこで一人足を伸ばしてくつろぐ。
しばらく入り、体がほてってきたのを感じる。
ぼーっとしすぎてたかも……あ、露天風呂まだ入ってない。
露天風呂はどこにあるのかとしばらく視線をうろつかせる。
脱衣所とはまた別のどこかにつながっている引き戸を見つけた。
そこにあるのかな、と思いながら引き戸のほうへと向かう。
水が滴り、私の歩いた跡ができる。
ガラスになっている引き戸の奥を覗くと確かにそこは露天風呂のようだ。
生垣と石垣によって外からは見えないようになっていて丸い温泉が姿をのぞかせている。
戸を開けるとステンレスの持ち手が水で少し滑った。
隙間から風が入り込み、火照った頬が元に戻るのを感じる。
まだ日差しは高く、遠くのほうから海水浴を楽しむ声が響いてくる。
一定の間隔で波音が鳴り、耳の奥へと流れ込む。
湯船につかると表面の温度は風にさらされぬるくなっていた。
でも一歩踏み込むとじゅわっと熱を感じる。
「はー……涼しい。」
空気を思いっきり吸い込んで吐き出す。
温泉に入りながらだと夏風すら涼しく感じる。
生垣が風に誘われ揺れ動く。
波も風も空気も雲も温泉の湯も、すべてが動く中私だけが温泉の中で静止している。
しばらく外の空気と温泉が混じる露天風呂を楽しんだ後、上がろうと思い体を動かした。
大浴場の中へと戻ると知らぬ間に人が増えていた。
数人がゆっくりとお風呂へつかっている。
その景色を横目に脱衣所へと向かった。
部屋に置いてあった浴衣を持ってきていてそれに着替える。
さらっとした肌触りの生地が長風呂で水を含んだ肌に馴染む。
温泉に入って浴衣まで着用していると美人になった気さえする。
廊下に戻り、部屋へ戻った。
部屋の番号を確認して部屋のドアを軽くノックした。
「はーい!入っていいよ。」
「ただいま。」
彼の声がしたのを確認して私はドアを開けた。
「どうだった?お風呂。」
「気持ちよかったよ。」
私はそう答え、彼が座っている畳の正面に向かい合うように座った。
もうシャワーは終えたようで彼の服は変わっていて温かい空気が彼を包んでいた。
「TAIはどうする?今から入ってくる?」
「俺はご飯の後にするよ。」
「あれ、もうそんな時間?」
確かに長風呂をした自覚はあったもののそこまで時がたっているとは。
急いで時計を確認すると午後5時を回っていた。
「ごめん。長風呂してたみたい。」
「いいよ、気にしてない。シャワー浴びた後にすぐ大浴場ってのもなんかあれだし。」
TAIは優しくそう笑った。
彼の握っているスマホから聞きなれたゲームの音楽が聞こえた。
……私たちが出会ったきっかけのゲーム。
最初は同じゲームを楽しむネットグループとして出会った。
私が最初にいて彼はそのあとの募集で入った後期生。
私だったら新しく入った場所でしゃべるなんて緊張しちゃうのに彼にはそんなそぶりは一切なかった。
元々そのグループでよく私がチャットを飛ばしていたから自然と互いにチャットで話す機会が増えていった。
彼はよく音声通話をグループ内でしていて、通話は苦手だったけれど私がミュート状態でも入ったら歓迎してくれてそして何より声が好きだった。
一般的に言えば一目ぼれに近いだろう。
でもバカみたいって最初は思った。
あったこともなくて顔も見たこともなくて知ってるのは同級生だっていう年齢と彼とチャットを飛ばす中で知ったどうでもいい情報ばかり。
そして、遠いところに彼が住んでて気軽には会えないことも悟っていた。
私が緊張しながらも声を出してしゃべると可愛いと言ってくれた。
なんどもそう言葉をくれた。
少しうれしくてでも私はネットだけの存在だからと境界線を引く。
相手のためとかじゃなくて私の保身のために。
何度も聞いた「ネットには怖い人もいる」という話。
一度たりとも忘れたことはないし全員を全員信用しているわけではない。
でも、彼だけは彼だけは信じていたかった。
同じ都会に住む子とはよくオフ会をしていたし、その子に手を出していないことやほんの少し流出した彼の学校の様子や塾のこと聞いているうちに彼は偽物じゃないって確信を持ち、会いたいと願っていた。
ネット上の叶わぬ恋をするただの少女だった。
そんな私の目の前に彼は今、いる。
あと数年会えないよなと思っていたけど、存在して、あえてここにいる。
ただそれが今はうれしくて仕方ない。
一生叶わないって思ってたけど最後にこうやって終末を迎えるのなら、いい結果なんじゃないかって少し思う。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。私も一緒にやっていい?」
「いいよ。」
じっと見ていたからなのかTAIに声を掛けられる。
私は当たり障りもなくそう返し自分のスマホを取り出しゲームを開いた。
二人でゲームをやっていると離れて通話をつなぎながらの日を思い出す。
離れてても今と一緒なことをしているんだな。と真剣な表情で舌が出るほど集中している彼を見る。
ゲームの話や攻略で盛り上がりながら、日が沈み夕飯の時間まで過ごした。
夕飯は、昨日と同じような豪華な盛り合わせが用意されていた。
昨日とはまた違ったメニューで刺身の魚やメイン料理の種類が異なっている。
見慣れない料理がありながらも口にするとどれもおいしくて笑顔になる。
満足するまで食事をし、宣言通りTAIは大浴場のほうへと向かった。
部屋に一人残された私は昨日と同じように外を眺めていた。
窓を開ければ聞こえてくる波音に海風。
昼間と変わらない音に安心感を覚える。
にぎわっていた海岸は静まり返り、近くの大通りを通る車の音ももう聞こえない。
景色は藍色と紫色に染まって緩やかなグラデーションができている。
空に浮かぶ星の数々を見上げるとプラネタリウムでも見ているような気分になった。
星の輝き具合も色もそれぞれだけれど全部が見劣りしない、綺麗でみんな主役みたい。
夜は自分ではどうにもならないような考えが頭の中にこだましてしまう。
明日の予定を立てたから、今日のうちには心中実行しないんだろうな。
この波音に飲まれない。
だけど明日にはどうかはわからないから……明日の今自分が生きてるかさえも想像がつかない。
なんとなく練っていた将来図もなんとなく期待してしまう未来ももう終わる。
自分で自分の話を締めくくる。
誰にも脚色されない、自分だけの物語として。
星に手が届くような気がして外に向かって手を伸ばす。
届かない、届くはずがない。
それでもあの星に触れてみたいと、輝きを手の中に収めてみたいと願わずにはいられなかった。
窓際に座り、TAIの帰りを待ち始めてからどの位がたっただろうか。
グラデーションで彩られていた空はいつしか一色の闇に飲まれてしまった。
星と月の輝きが増す一方で波の満ち引きの音が変わらず耳に残る。
「_っ、」
急だった、私から悲鳴に近い何かが漏れた。
何がトリガーだったのか、いじめられていた時の記憶がフラッシュバックしたのだ。
ぐるぐると眩暈が襲いそうなほど場面の一部が今体験したように感じる。
嫌だったこと、言われて苦しかったこと、我慢して我慢していつしか切れてしまった私の何か。
終わったと思ったのにそうじゃなかったあの日、クラスメイトのあの視線。
何度もいろいろな記憶の場面がよぎる、記憶の写真が急に脳内にすべてばらまかれたような。
閉じ込めていたはずのものが全て出てきたような不快感を強く覚える。
誰かの声が脳内に響く、それは言葉といえないほど私の頭の中で劣化し思い出したくないからうまく聞き取れない。
それでもその声に音程に言い方にすべてに恐怖を感じた。
記憶の渦におぼれそうで、押しつぶされてしまいそうで苦しい。
私は何をしている?私は今どこにいる?
苦しい、死ぬ前におぼれてしまう。
耳に響く音は波音のように心地よくなく、高い音が無造作に私を刺激する。
耳鳴りなのか幻聴なのかはたまたその中間なのか。
言葉にならない言葉と不快な音が交わり、最悪な音楽を作り上げる。
不協和音なんてものじゃない。
不協和音だらけの曲が優しいほどこの音は不快だ。
うるさい、うるさい、うるさいうるさいうるさい!!!
声に出しているのか出していないのかさえ自覚ができない。
どっちが記憶でどっちが現実なのか。
どっちが右でどっちが左なのか。
不愉快な音にすべての間隔が奪われ、今立っているのか座っているのかさえも分からない。
苦しい、息が吸いたい、溺れたくない。
私は、私は、
「__!」
誰かの声が脳内に響いた。
一瞬、記憶の渦が緩まった気がした。
誰の声?
聞き覚えのある。
「__き!沙雪!」
……私の、名前だ。
真っ暗だった私の記憶の渦が粉雪のように崩れ落ち、空間が白く染まった。
まるで、何かの合図がされたみたいに。
「沙雪!!」
もう一度大きな声が脳内で響く。
悪夢から覚めるように私は一瞬意識が途切れた。
「沙雪!」
目を開けると知った場所だった。
呼吸が荒い、自分からしてるとは思えない呼吸音が肺に響いた。
部屋の畳の上で手が震えていた。
「……TAI?」
そうだった、私は彼を待っていて__
私が呼吸を整えながら名前を呼ぶ。
少し余裕ができ、彼の顔を覗き込む。
「よかった……どうしたの……?」
今にも泣きそうな表情が私の瞳に映る。
「帰って、来てたの?」
「俺が帰ったのは今さっき。ノックしても反応がないから寝ちゃったのかと思って。」
私と会話ができたとこに安心したのか、彼はいつもより近かった距離を元に戻した。
「そっか__」
何があったか説明しなきゃと言葉を紡ごうとするものの何を言えばいいかわからない。
完全に言葉が詰まってしまった。
「部屋の中に入ったら、窓際で苦しそうにしてるから。……俺は、」
彼もそこまで言ったところで言葉に詰まったようだった。
夜のかすかな光でもわかるほど彼の眼には涙が浮かんでいる。
「心配、させちゃったかな。ごめんね。」
どうしていいかもわからず、私はそのまま彼を抱き留め安心させることしかできそうにない。
ぎゅっと抱きしめると彼から小さな抱き返す力を感じた。
黙ったまま、動こうとはしなかった。
私も何を言うこともなく落ち着く時をひたすらに待つ。
少ししたころだろうか、彼はそっと私から離れた。
「心配した。急で、そんなこと一言も言われてないし。わかんなかったし。……俺が何かあったか聞きたいって言ったら迷惑かな。」
彼の紡いだ言葉はただ弱くて脆くて小さな声だった。
でも私に届くには十分だった。
「ううん、迷惑じゃないけどいっていい話なのかはわからないかな。」
素直にそう答えた。
私にとってはこれ以上さっきの光景を思い浮かべるのは嫌だった、でもそれ以上に彼に言わないでおくのが心配をかけたままでいるのが嫌で苦しい選択肢だと思ったから。
「話せるなら、話してほしい。俺は沙雪のこと全部受け止めるから。」
力強い言葉を信じ、私は頷いた。
初めていじめの詳しいことも傷が残って言うのは心が重いだけじゃなくてさっきのようなことも起こっていたのが理由ということも話した。
うまく話せたのか、文字にできたのかといわれると全く自信がない。
記憶の棚をホラーゲームのように慎重に開けながら、さっきみたいに溺れないように少しずつ言葉を見つけた。
「じゃあ、沙雪の死にたい本当の理由は、」
「うん、どっちかっていうとこっちかな。大人は時間が解決してくれるって綺麗ごというけどさ私にはそうは思えなくて。私も大人になったらあと少し成長したら、この傷も大事なものだーとか時間がたってましになったとか、思うかもしれないけどさ。」
「私は、そんな大人になりたくないの。今の私を否定する人に成長してしまうよりかはここで区切りをつけようかなって。」
私の言葉を最後まで彼は黙って聞いていた。
死にたい理由にも何も返事は帰ってこなかった、下を向いた彼が顔を上げるのをただ待っている。
「……なら、俺の話もしておこうかな。」
「TAIの?」
「うん、話させるだけさせてってのもあれだし。それに多分俺のことでつっかえてるようだし。」
彼は柔らかく笑顔を見せた。
「わかってたんだ……?」
私には彼が隠し事をしているようにも私の表情を読んだようにも思えなかった。
ついて出た疑問。
「うん、だって俺なら気になる。自分に何もないからって一緒に心中って選択肢飲むとか。」
「そう、なの……?」
前言撤回、私の表情を読み取ったわけではなく、自分だと疑問に思うからとう想像の範囲内だったらしい。
「たしかに気になってはいたけど。」
「ちょうどいいから、俺も話しとく。」
彼はそう言葉に区切りをつけ、私の返事も待たぬまま物語のように言葉をつなげた。
「俺は昔音楽をやってた。昔ってか数年前まで。結構上達してさ、作曲とかも練習しててこのまま音楽で食べていくつもりだった。そういうレールが俺の前にあって主人公で、このまま頑張ればいいやって。」
目を伏せたままの言葉。
音楽、という新しいワード。
彼の口から「音楽」というものが出てきたことに驚きすら感じていた。
これまでの通話でも会話でも一度も話したことはなかったはず。
「でも、挫折した諦めた。」
「それって__」
「何かがあったわけじゃないよ、沙雪みたいに辛い過去もさ。ただ単に俺のけじめ不足、同年代のやつに負けてその時初めて気が付いたんだ。『俺、このままでいいのかな。』って。音楽が大好きだったはずなのに、いざ広い視野で俺の周りを見てみたら有名になっていったりコンクールで優勝していくみんなより__」
「音楽、好きじゃないなって。気づいたから。」
そこまで言い終えて彼は瞼を開けた。
目の奥にはこれまで感じた輝きは一つも入っていない。
「それまではずっと、音楽のために何でも犠牲にする!!位の熱量だったから、本当に他は何もしてなくて。音楽っていう俺を装飾してたものを取り外すと何にもなかった。不思議だよね。輝いていたはずの世界が灰色に見えた。」
「灰色の、世界……」
どんな景色なのだろうと想像する。
唯一のものを取り外してみたら何もなくなった自分と見えていたもの。
考えてみるものの想像がつかない。
私は何か並外れたものを持っていない、持っているという感覚そして手放した瞬間は想像ができない。
「そんな、苦しいものじゃないよ。だけど何もなくなったのは本当、そんなときに沙雪と出会ったから。」
「私?」
急な言葉に戸惑う。
「うん、沙雪と出会ってからなんだか楽しくなったんだ。好きって感情かな。」
「え、」
「ずっと俺の言ってる言葉嘘だと思ってた?嘘じゃない、本当に好きだから。」
まっすぐと見つめられる彼の瞳、瞳の中には確かに何も映ってないのかもしれない。
反射する私を除けば。
「本当に好きだから、心中も止めなかった。一人で死ぬ沙雪を見殺しなんてのが一番嫌だし。俺は沙雪と死ぬって決めたの。」
軽い口調でいつも通りに彼はまた重い言葉を吐く。
彼の過去を知った、私には想像もつない世界が彼には見えていた。
辛くない、と何度も念押しのように挟まれた言葉だけれど絶対にそんなことはないように感じる。
自分になにもないほど、空っぽになってしまうほどの出来事は辛いはずだから。
「そんなことが、あったんだ……」
何だかしゃべった彼より私のほうが感傷に浸ってしまったよう。
「あ、いやな気持ちにさせちゃった?」
「ううん。そんなことはない、大丈夫。」
彼の表情は本当に今までと変わらないように思える。
でもその中に埋まっていたものは相当大きなもの、きっと話してくれたのも氷山の一角に過ぎない。
彼が言った、「本気で好き」という言葉が私の中で何度もループする。
息が詰まるほど大きな音で。
「…ねえ。」
「なに?」
「好きって本当?」
我ながら何て言葉を投げかけてるんだと感じる。
今の今聞かなくてよかったな、と反省を繰り返す。
「本当だよ。沙雪は?」
嘘じゃない言葉の重さが私に伸し掛かる。
likeじゃなくてloveのほうであっているだろうか、なんて今更疑ったところで遅い。
私には彼のまっすぐな瞳しか見えない。
「私も、ほんとに好き。大好き。」
ずっと言えていなかった言葉が、考えていたよりも簡単に言葉になった。
「両想い、かな。」
「そうかも。」
まるで少女漫画の一部だ。
背景には夜景で海と星空が輝く中のセリフ。
「じゃあ、今から恋人かな?」
彼はいたずらっぽく笑みを浮かべ私の手を握った。
王子様がお姫様にするようにそっと手を包んでいた。
「恋人、なれるかな。」
「なれるよ、俺の一番好きな人が沙雪なんだから。」
握られた手からはあたたかな体温を感じた。
これまで引いた手とはまた違った熱量が。
そのまま、今日は寝ることになった。
昨日より布団を近づけて、手をつないだまま寝ようという話に落ち着いた。
ふかふかの布団に挟まれ大事な人の手がそばにあって温かい。
電気を消した後もなんだか少し熱が冷めない。
思い出したように火照る顔が恥ずかしい。
きっと今は見えていないけれど。
「TAI、起きてる?」
今にも寝てしまいそうなまどろみの中、小さな声をかけた。
「起きてる、どうしたの?」
「名前、TAIって名前音楽用語からとったのかなって。」
「あー……俺の名前か。」
TAIの名前の読み方である「タイ」という言葉、何が由来なのかずっと考えていた。
国の名前なのか誰かの名前や自分の名前からもらったのかもじったのか。
でも今日の話で合点が行った気がする。
タイという音楽用語の意味は「同じ高さの音符を繋げ一つの音のように演奏すること」よく見るフォルテなどとは違い、音符と音符をつなぐ弧線である。
「そうだよ、よくわかったね。」
「私、音楽はやってなかったけど趣味でよく聞いてたし。音楽の授業はちゃんと聞いてたから。」
私がそういうと彼は笑った。
「沙雪の言う通り、名前っぽい音楽用語を選んだんだ、TAIにした絶対的理由はないけど……なんだかピンと来たんだよね。」
暗闇の中彼の声が響いた。
ピンときた、彼の言葉はそこで途切れ空気に波紋が広がる。
可笑しいほどに彼の言葉はすっと私の中に入り込む。
「ほんとに音楽やめちゃったの?」
「うん、やめたよ。」
「そっか。」
音楽用語の名前、出会ったゲームも音楽ゲーム。
私には彼が引きずっているようにしか見えなかった。
彼は空っぽと言いながらも何かを抱えている。
聞き出したかったがどういうのが正解なのか彼の古傷をえぐることになるのではないかと一度考えてしまったら、もう二度と喉から出かかった言葉がこぼれることはなかった。
「沙雪は?」
「私?」
「沙雪はなんで沙雪っていうの?」
「私、かぁ……」
促されるまま初めてSNSに触れ、名前を書いた日を思い出す。
ニックネームが何かいるなとおもい画面の前で考えを巡らせたとても寒い真冬の日。
そのころ私は中学生で親にSNSは禁止されていた。
自分のアカウントを作り、自分から発信したり人とつながることを。
でも好奇心と自分だけ制御されるということに苛立ちを覚え一種の反抗としてアカウントを手にした。
名前を考えて10分15分と時がたった。
『奏』という私の名前はニックネームにも見えるしゲームではそのまま名乗っていたこともあり一から考えるのは苦悩の連続だった。
私自身が覚えられて印象に残って使いやすい名前……
TAIみたいに器用に探すこともできず、雪がちらつくのを見ながら暖房をつけるのを忘れた部屋でただひたすらブルーライトが光る画面と向き合う。
「初めてSNSアカウント作ったのが真冬の日でちょうど雪が舞ってたから__そこからとって沙雪。」
たしかそうだった、と朧げな記憶を頼りにする。
本当はもっとお洒落な名前が浮かべばよかった、と何度か反省したほど自分では気に入っていなかった。
名前を変えてしまったらせっかくつながった人に迷惑をかけてしまうと思い惰性で使っていたにすぎない。
それを変えてくれたのがTAIだったように思う。
彼に呼ばれると私の本当の名前が『沙雪』でないか考えてしまうほど。
『沙雪』になりたいと願うほど彼の声と温かさが私は大好きだった。
しばらく天井を向き、彼の返事を待ったものの言葉は返ってこない。
彼のほうを見ると瞼は閉じられ小さな寝息が聞こえた。
「寝ちゃった……疲れてたよね、おやすみなさい。」
起こさないように小さく呟く。
そして私も目を閉じた。
ぱっちりと目が覚めてしまったのはまだ朝日が昇らない時間だった。
暗い窓のほうを見てもう一度寝てしまおうとほんのり暑い真夏の香りがする空気を飲み込む。
瞼を閉じても寝付けず、目が覚めてしまったな。とあきらめて上半身を起こした。
布団から起き上がり小さな冷蔵庫からペットボトルの水を取り出す。
冷たい冷気を掌で受け止め一口水を口に含んだ。
飲み込めば喉から音がする。
このまま寝付ければ一番いいのだがそうもいかなそうで、TAIが起きてしまわないよう手で囲いスマホで時間を確認する。
真っ青に光るブルーライトの刺激が瞳に突き刺さるように痛い。
大好きなキャラクターが居座るロック画面に4:30と文字が映った。
寝るにも起きるにも微妙な時間。
彼もまだ起きないだろう。
布団に戻っても寝付けないと悟った私は少し外の空気を吸うことにした。
外は朝焼けで海側の空が淡いピンク色になり夜と比べてずいぶん明るい。
あと30分もすれが日が昇る、外を歩いていてもおかしくはない。
自分にそう言い聞かせ薄手のは織物を着込み、タオルと最低限の小銭を握りしめる。
バッグを漁っていると仄かな光が反射するものを見つけた。
取り出すとそれはハサミだった。
出発直前を思い出しそういえば持ってきてたな…と思いながら上着のポケットにしまう。
鍵を忘れないように確認し彼が起きていないことも確認しながらそっと部屋を離れた。
すでに朝食の準備が進んでいるのかところどころから音が聞こえる。
そんな音を聞き流しながら旅館を出た。
まだ少し肌寒い、冷たい潮風が頬を掠める。
息を吸い込むとすっきりとした気分になる。
早起きなど数えるほどしかしたことがない。
でもこうやってすがすがしい気分になっているのを感じるに早起きが得、というのは間違いでもなさそうだ。
人の影が見えないかと思ったがそうでもなく、散歩をする老婦人やランニングをする親子、大型犬がしっぽを振り飼い主と走る様子。
普段は見えないものが見えたような気がした。
特に行先もなくブラブラと砂浜を歩く。
一定の間隔で揺れる波の音。
しばらく行ったところで疲れてしまい、砂浜とアスファルトを隔てる石壁に腰を落とした。
かすかに聞こえるランニングの息遣いと誰かの声、目を閉じると音が鮮明に聞こえ想像が膨らむ。
好きなキャラにあこがれて伸ばし始めた背中に毛先が当たる私の髪の毛。
風で揺れるたびに毛先がくるっと収縮し体に巻き付くような感覚がある。
もう、あと数日で死ぬ、この海で死ぬ。
薄紫の空が海面に反射し不思議な色を保ち続けている。
ゆらゆらと揺れる波が私を誘っているような気がした。
髪の毛に触れるとふわふわと軽いタッチで指に絡みつく。
切ってしまおうか。
気づけばそう思っていた。
死んでしまうなら最後は知らない自分でいたい。
短くすればもう昔馴染みにも今のクラスメイトにもばれることなどない。
うまく流されればきっと身元もわからなくなる。
TAIと二人で二人でこの海の奥の奥まで行く。
それができればいい、私はそうありたい。
水平線の奥から少しづつ太陽が顔を出す。
ポケットからハサミを取り出すと刃渡りがきらっと光った。
左手で髪を握り右手でハサミを握る。
髪の毛にハサミが触れる。
手に力が入りすぎている、カタカタと小さく指先が震えた。
その瞬間はあっけなかった。
小説でよく見るような強い音もなることはなく、耳元で何かを切った音だけが繰り返し響く。
左手を恐る恐る見ると握っていた髪の毛は裁断され黒い糸くずのように掌に張り付いていた。
足元には髪の毛が少しだけ散らばっている。
肩の上あたりで切ったから首元に違和感を感じる。
セルフだからうまくできなくて毛先が首に刺激を加えた。
大体すべての後ろ髪が同じ長さになったのを確認する。
もう髪を切った、死ぬ準備は済ませた、TAIにとって私は『沙雪』……
『奏』であるものは今すべて消えた。
ああ、私は、私はもう……『奏』じゃない『沙雪』でいいんだ。
いやなものは捨てて好きな人とずっと一緒。
なんだかいいことのはずなのに考えていると目頭が熱くなった。
涙があふれて頬をいたずらに濡らす。
違う、これは泣いてない。
私は泣いてなんか__!
水平線をふと見ると太陽が上がっていた。
眩しい、輝いている。
この世のものとは思えないほど。
白く飛んでしまいそうな輝き、涙が出るのは太陽のせいだ。
涙を隠すように乱雑に拭う。
目と指の肌がこすれて痛い。
とまれと思えば思うほど止まらなくなった涙が視界を狭めていく。
冷たくなった水滴が頬で固まり違和感を残す。
「そろそろ、帰らなきゃ。」
TAIが起きてしまったら部屋にいないことで驚かせちゃうしきっと心配をかける。
早くいつも通りになって部屋に戻らないと。
そう思うのに、思うのに涙が止まってくれなくてどんな感情かもわからないほど表情がぐちゃぐちゃになって。
笑いたいけど泣きたくて悲しくてでもどこか暖かくてこれでいいってすっきりしててどうにも喪失感が埋まらなくて。
ポロポロと砂の上に水の跡が広がる。
水滴が何度も何度も肌を伝う。
「かえら、なきゃいけないのに。」
自分自身に言い聞かせるようにそう言った。
でもその言葉もうまく感じられなくて、止めることができない。
涼やかな風に乗ってよく知った匂いが私に届く。
日の出の太陽に照らされ伸びた影が近づいてきていた。
「なん、で。」
私が泣きながら絞り出したその声に人影が答えることはなく、私の隣に腰掛け私の背中を優しくなでた。
「こんなに短くしちゃって、失恋したみたいじゃん。」
短くなった私の髪の毛をそう言って触った。
「TAI……」
彼の名前を気づけば呟いていた。
「沙雪は恋が実ったばかりだっていうのに……短くなったね、でも似合ってる。」
私が泣いている理由を聞くことも髪を切った理由を聞き出しもせず、いつもの声で彼は言葉を放つ。
「あり、がと……」
「俺が起きた時にはもう部屋にいなかったからさ。いるならここかなって。」
「日の出と同時にイメチェンとはお転婆さんだね。」
そういった彼の瞳は海を向いていた。
なんだかずっと子犬に思っていた彼が少しお兄さんに見えた。
「……ごめんなさい。」
私はそう声に出して隣にいる彼をぎゅっと抱きしめた。
顔は見られるような状況じゃないし下を向いて、服に埋もれる。
「沙雪は悪いこと何もしてないよ。急に部屋からいなかったのは少しびっくりしたけど。」
彼は笑って言葉を紡ぐ。
私の頭を撫でながら。
温かさと一定のテンポで繰り返される撫でるリズムが心地よくてなんだか寝てしまいそうだった。
「綺麗だね。」
そうつぶやいた彼の顔は水平線を捉えている。
「うん、綺麗。」
鳥が鳴きだし人の通りも増え、車のエンジン音がどこかで響く。
この街に降り注ぐ朝が眩しくてそれを見守る海と太陽が暖かくて綺麗だった。
「さて、今日はショッピングかな?」
彼の問いに私は頷く。
「よーし、恋人になってから初めてのお出かけだし俺が何か買ってあげる!」
「いいの?」
「もちろん、短くしたし似合う髪留めでも買おうよ。」
笑った顔が私の瞳に強く反射する。
「うれしい、ありがとう。」
「やっと笑ってくれた。」
彼はそう言ってふんわりと笑った。
「ほら、朝ごはん食べなきゃ。部屋に帰ろ~」
くるっと振り返り、石壁から軽々と飛び降りた。
そのままTAIは私の手をつかむ。
「そうだね。」
ハサミをポケットに入れたのを確認して私もアスファルトの道に脚を下した。
部屋に入るまでずっと手は繋がれたままで心臓がうるさく鳴いた。
ちょっと息苦しくて痛いけど、いやなことを思い出した時より何倍も幸せな鼓動を感じる。
私の少し前を行く彼の表情はどうなんだろうか、同じようにドキドキしてるかな……そうだったら一番私が嬉しい。
そう思いながら絨毯が敷かれた廊下を歩いた。
「じゃあ、行こうか。」
朝食を食べ用意を済ませた後、二人で旅館の外へと立つ。
また私が案内役に戻り、彼は昨日と変わらない子犬のようだ。
違うのは手がつながれていること、そして恋人になったという外側からは見えない事実。
タクシーを呼び、乗り込めば一日目に旅館まで運んでくれたおばさんだと気づく。
「あら。」
と楽しそうな声が手をつないで待っていた私たちに掛かる。
もう付き合っているのだから、と私がおばさんに笑顔を見せるとこれまたニコッと笑顔がかえってきた。
行き先を伝えそこからは無言の時間が続いた。
私とTAIも自ら話すこともなく車窓をのぞき大通りを走る道を見つめる。
夏休み真っ最中ということもあり道は混んでいた。
ショッピングモールの先を行けば高速道路があることも相まって、車だらけ。
カラフルに彩られる道路、様々な県のナンバープレート。
中にはキャンピングカーも走っている。
少し渋滞にまかれた後、どうにか目的地までたどり着く。
「ありがとうございました。」
私はそう言ってお金を渡す。
「デートの続き、楽しんでね。」
「はい、ありがとうございます。」
一日目と同じようにそういわれる。
一日目と違い笑顔で言葉を返した。
「沙雪ー!」
一足早くタクシーから降りたTAIの声。
もう数メートル先まで歩いていて、大きく手を振り私を呼んでいる。
「今行くー!」
運転手さんへ小さく一礼をし小走りでショッピングモールの中へと向かった。
中に入ると周りの音がスッと消え冷房とショッピングモールの雑音が耳に響いく。
「広いね!」
彼は楽しそうにそう笑った。
スーパーの野菜コーナーと反対側には薬局とドラックストアがある入口。
夏休みで人は増えているといっても地方に比べたらもっと大きくて人が集まるものをTAIは見ているはずなのに、満面の笑みを浮かべ私のほうを見つめていた。
「そうだね。」
数歩前を行く彼の手をぎゅっと握る。
「ふふっ、俺の手あったかい?あ、あったかいとだめかな……暑いし……」
ふわっと花が咲くように笑顔を見せた後考え込むようなしぐさを見せた。
確かに私が握った手は暖かく、一定の熱と一時の熱が同時に紛れ込んでいる。
外が熱いから彼なりの気遣い、でも私は否定する言葉を彼に送ることも手を離すこともできなかった。
「……このままがいい。」
「わかった、今日は甘えん坊だね。」
消えかかった私の言葉は彼に届いた。
エスカレーターに乗り、二人で並ぶ。
手を彼はぎゅっと握って私の頭を優しくなでた。
朝の光景を思い出して甘えている自分に否定ができない。
少し揶揄うこともできなくて、曖昧な一音を適当に口から吐く。
髪のアレンジもできなくなった私の髪を大切そうに彼は何度も何度も撫でていた。
おもちゃが並ぶコーナーを二人でブラブラ歩く。
小さな子供と親やおばあちゃんたちがいる中で高校生二人が背の低い棚の間を進む。
懐かしいおもちゃを見つけて顔を見合わせて、最新のおもちゃの高性能に驚いて幼いころに戻ったように少しだけ遊ぶ。
「……ゲームセンター!」
「ちょっと遊んでいく?アーケードゲームはあんまりないけど。」
「大丈夫、クレーンゲームやろうよ。」
おもちゃコーナーとは一変してビビットな色がまんべんなく広がるゲームセンターのコーナーは異質で、別ベクトルの輝きを放っていた。
そこに吸い寄せられるように彼は足を進める、繋がれた手が私を引っ張っていく。
お菓子の取れる小さな機械から大きなぬいぐるみの機械まで、大きさも操作性も違う物を一つ一つショーケースの中をのぞいた。
「大きい……!」
「ほんとだ、テディベアかな。」
機械の中に50cmほどの大きなテディベアがクレーンに捕まえられるのを待っている。
淡いブラウンのカラー、一つ一つよく見ると首に巻かれるリボンの色とそこからぶら下がるチャームの色が違っている。
ブルー、グリーン、ピンク、レッド……
「誕生石のカラーかな。」
「誕生石……あ、ほんとだ。こっちがサファイアで、これはエメラルド?」
じーっと見るとリボンに各誕生月が英語で刺繍され、チャームは宝石のように輝いている。
「沙雪のはある?」
「えっと、私の?」
急に問いかけられ思わず聞き返すと頷きだけが返ってきた。
「私は、四月だから__あ、今丁度コーナーに出てるや。」
リボンは白色で透き通るようなチャーム。
「ダイヤモンド、沙雪にぴったりだね。」
嬉しそうに彼は笑い、同時に100円玉が機械に流れ込んだ音がした。
「や、やるの!?」
「もちろん、安心して俺こういうの得意だし。」
驚いたのもつかの間、彼の瞳はクレーンゲームに集中していた。
得意だと笑った彼は慣れたようにクレーンを動かす。
「と、取れた……!はい、沙雪。」
結果は彼の惨敗だった。
何回も何回も持ち上がりはするものの大きなぬいぐるみの体がクレーンから落ちてしまい、10数回はやっていたと思う。
クレーンがテディベアの体をぎゅっと掴み、取り出し口まで運ばれたのを見て喜びより安堵が勝った彼の声が聞こえた。
「いいの__?」
取れる過程を見ていた私からするともらっていいのか悩んでしまう。
「俺が沙雪にあげたくて取ったから。」
「じゃあ、ありがとう。」
大きなぬいぐるみはフワフワしていて抱きしめるとぎゅっと凹み綿が力を反発し、返ってくる。
「気に入ったみたいでよかった。」
私がぬいぐるみを触っているのを楽しそうに彼は見つめていた。
丁度店員さんが通りかかり、ショーケースからまた一体取り出してコーナーに置く。
その手早い動きになんだか目が行った。
「そういえば、TAIは何月?」
まだ聞いたことがなかった気がする。
「俺は10月。トルマリンだからピンク色かな?」
「ちょうど出てるね。」
先ほどおかれたものが10月のテディベア。
私は抱いているテディベアを見つめる。
黒く周りを反射する瞳、私が見える。
「私もやってみようかな。」
そう言って彼にテディベアを渡した。
「沙雪も?」
「うん、私はあんまりやったことがないけど……TAIの見てたらやりたくなって。」
財布の中から100円玉を探した。
輝く銀色の100円玉、機械に入れるとゲームの効果音が響く。
レバーを持ち、奥へと倒す。するとクレーンと連動しグラグラと揺れながら景品のほうへ進んでいった。
何度も移動させて位置を整える。
たぶんここかな、と思いつつも実際どうクレーンが動くかはうまく想像ができない。
手に少しだけ汗がにじんだ。
「こ、ここ!」
ボタンを探すのにも少し手惑いながら、降下ボタンを深く押し込む。
ゆっくりとクレーンが下がりぎゅっとクレーンがテディベアを握りしめた。
少し取れそうに見えたのもつかの間、上昇中に落ちてしまった。
その様子を見て驚いてしまう、焦ったようにもう一回100円を入れた。
どうやればとれるんだろう……クレーンを動かすもののなんだかさっきよりぎこちない気がする。
「ここはこっちかな。」
そっとレバーを握る私の手にTAIの手が重なった。
「ごめんね、ちょっとだけ。」
優しい声が聞こえたかと思うと手が優しく包み込まれ、誘導されながらクレーンを動かす。
その動きには迷いがなくて格好良かった。
顔が火照るような柔らかい熱が私を囲んだ。
「じゃあ、行くよ、せーの!」
掛け声に合わせてボタンを押した。
さっきと同じようにクレーンが下がり上昇する。
テディベアは落ちることなく一番上まで上がりきった。
ぐっと強い力で握られたテディベアはそのまま景品口へと進み、落下する。
「やった!」
「取れた、の!?」
「うん、そうだよ!」
私より喜んで彼は私に景品をとるように促した。
機械からにぎやかなBGMが掛かる。
ぬいぐるみを取り出し彼へと渡す。
「私がもらった子のお返し。」
「いいの?ありがとう。」
私がそうしていたように彼もテディベアに顔をうずめ、優しい表情で撫でていた。
その様子を見るだけで幸せな気分になる。
「私のほうこそ、さっきはありがとう。」
「あ、えっと、ごめんね。勝手にやっちゃったから。」
「ううん、助かったよ。」
「ちょっとテンパってるみたいだったし……」
「だからこそ一緒に動かしてくれて心強かった。」
「そっか、ならよかった。」
笑顔に戻った彼の手をもう一度取る。
二人とも片手に大きなぬいぐるみを抱えてもう一度ショッピングモールの中を歩き始めた。
書店で互いの趣味の小説を紹介しあって好きな作家さんの名前を探した。
フードコートで好きなものを二人で頬張った。
映画館に行くと甘いキャラメルポップコーンの匂いが鼻腔を刺激した。
何かアニメ映画でも見ようかと席をとり、大きなサイズのポップコーンを二人で分けた。
映画は二人とも初めて見るもので感動し二人で号泣した。
すべての行動に『二人で』とつけたくなるほど二人でいるのが特別でうれしくて幸せで仕方がなかった。
「ちょっとここで待ってて!」
ある雑貨屋の前を通りかかったときに彼が私に声をかける。
「わかった。」
内装はお洒落で高校生の姿が多くあった。
何か買いたいものがあったのだろうか。
ここで待っててと言われたからには動くわけにもいかず、店と店の間に壁を背にして立つ。
ざわざわとした声が遠くで纏まっている。
これまで一人できていたら気になっていた音が気にならない。
「お待たせ!」
「おかえり。」
それよりも聞いていたい音が増えてしまったせいだろうか。
ニコニコと笑いながら彼は小さな包みを私の前へと差し出す。
「沙雪に似合うと思って。」
「開けてもいい?」
「もちろん。」
丁寧に梱包された封を空ける。
真っ白な宝石が付いた雪の結晶の髪飾り。
証明に反射してキラキラと輝く。
「綺麗……」
「気に入った?」
「もちろん。」
「よかった。着けてあげる、貸して。」
片手にすっぽり収まる小さな髪飾りをTAIへ手渡した。
顔が近い、真剣な瞳に目が奪われる。
じっと見つめる訳にもいかず、ぐっと目を瞑った。
パチッとピンが止まる音が耳元で鳴る。
「よし、紗雪終わったよ。」
彼の優しい声がして瞼を開ける。
「可愛い、似合ってるね。」
笑顔の彼が瞳に映る。
「ありがとう。」
「あ、でも見えないよね__はい。」
私の前に出してくれたのはスマホのカメラ画面。
インカメにされたレンズが私の方を向く。
短くなった髪、髪の左側で輝く髪飾り。
証明に当てられて雪の結晶のようにキラキラと光る。
「可愛い……ありがとう。」
「ふふ、どういたしまして。」
彼は楽しそうに笑った。
「せっかくだし、着けたまま歩こうか。」
「うん、そうする。」
今度は彼が私の手を取った。
ぎゅっと握られる。
そのまま洋服を見て回って夏らしい真っ白なワンピースを買った。
TAIも服を買っていた。
海に行くから、とサンダルも選ぶ。
歩きやすくて爽やかな空色のサンダルを2人分。
彼のサイズは私よりも大きくて並べると違いは明らかだった。
すっかり私たちの両手は荷物でいっぱいになった。
空の色も夏日の目が眩む眩しさから柔らかい色に変わる。
「そろそろ帰ろうか。」
ショッピングモールを一周し、帰りの時間はすぐそこに迫っていた。
「そうだね。……最後に一つだけ買い物していい?」
「いいけど、何を買うの?」
彼の問いかけに答えぬまま、楽器店に足を踏み入れる。
「楽器買うの?」
「そんな感じ。」
床一面に並ぶアップライトピアノ。
奥へと進み、キーボードのコーナーへ歩く。
沢山並んでいるキーボードを一つ一つ見ていく。
高すぎず性能がいいのを探す。
私は音楽経験が少ないしどれがいいのかなんて分からないけれどなんとか説明と値段を読み込む。
最終的に白いキーボードに決める。
1音だけ触れた感じが柔らかく、小さく音が鳴った。
大きくなくて音量が調節出来るものを抱えてレジに持ち込んだ。
これなら音量を小さくすれば旅館で弾いても迷惑にはならないだろう。
この数日で両隣に宿泊客がいないことも知っている。
彼は音楽を辞めたと言った。
どこか寂しそうでそれでもスッキリとした表情で。
私は彼の音楽を知らない、輝いた世界を知らない。
少し弾いて欲しかった。
これは気遣いじゃなくて私のエゴでお節介。
輝く彼を見たかった。
もちろん強制する気は無い。
彼が弾けなかったら私が弾く。
……ドレミの歌とかは弾けるし。
TAIは私の道央は気にせずお店の外で待っていた。
もしかしたら入ることすら嫌だったのかもしれないと購入が終わってから少し後悔した。
「お待たせ。」
「ん、何買ったの?」
「えっと……キーボード。」
「キーボード__弾けるの?」
「弾けない、けど……!」
TAIに弾いてほしい、そういいたいだけなのに声が出ない。
言葉が詰まる。
「俺のため?それとも俺に教えてほしい?」
表情は曇らず、いつも通りの声色だった。
「TAIの音楽が聴きたかった。勿論いやだったらいいからね、その時は私に教えて。」
「それだとどう転んでも俺が弾かなきゃじゃん。」
そう言って彼は笑った。
笑い声は淡く空気中に浮かんで揺蕩う。
「あ、そっか。」
「ふふっ、いいよ。帰ったら弾いてみる。」
「本当?」
「うん、本当。俺の為にも買ってきてくれたんでしょ?」
意地悪な質問してごめんね。とTAIはいって私の頭をまた撫でる。
両手がすっかり塞がってしまい、ただ撫でられることしかできない私は静かに頷いた。
本当に荷物が手にいっぱいいっぱいになり、タクシーを呼んで外に出た。
柔らかくなった太陽の光は私たちのことを突き刺すのではなく優しく照らした。
ショッピングモールの中を沢山歩いてすっかり疲れてタクシーの中では今すぐにでも寝てしまいそうな朦朧とした意識。
「眠くなっちゃった?」
タクシーのリズムの整った微かな揺れと大好きな人の声。
質問に小さく頷くと頭を撫でられる。
「よしよし、到着したら起こすから寝てていいよ。」
その言葉に甘えて彼の体温を感じながらゆっくりと意識を夢の中へと放つ。
「沙雪ー」
「あ、起きた。おはよう、到着したよ。」
優しい声に起こされる。
「ん……おはよう。」
彼が荷物をほとんど持っていて、私はテディベアを二匹抱える。
そのまま部屋に戻り荷物を置く。
「あっ。」
「どうしたの?」
「えっと、タクシーのお金……」
夢と現実のはざまでテディベアを抱えていたからすっかりお金のことを忘れていた。
「俺がちゃんと払ったから安心して。」
なんだそんなことか。と言いたげに彼は笑った。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
荷物を置き終わってTAIはキーボードを取り出した。
説明書と顔を見合わせながら5分ほどで設置を終えたようだった。
「何を弾いてほしい?」
キーボードの前になれたように座り、彼は優しく鍵盤に指を乗せる。
数音音を出してから私に問いかけた。
「私は、TAIの音楽が聴きたい。」
「俺の?」
「うん。TAIが好きだった世界を見てみたいの。」
私が言葉を放った後沈黙が生まれる。
少し考えるように彼が口を閉ざした。
「わかった。やってみる。」
そう声が届いたのと同時に音色が響いた。
彼が鍵盤に触れるたびに空気が揺らぐ。
曲調は静かで優しくて、どこかに消えてしまいそうな、雪みたいな曲。
どこかへ飛び立ってしまいそうな軽やかなスタッカートがふわっと余韻になり漂う。
TAIは楽しそうに弾いていた。
何度も弾いたことがある曲なのだろうか、ところどころ目を伏せながら音楽にすべての感情を預けていた。
口角が少し上がっている。
滑らかに指先が鍵盤の上を滑る。
緩やかなリズムが急に崩れたかと思うとリズムが早くなり和音に着地した。
曲自体は3分ほど、でも私には一瞬に感じた。
彼の曲の世界観が私のそばを駆け抜ける。
「どう?」
「凄かった……綺麗な音、素敵な曲だね。」
「よかった。この曲実は俺が初めて作った曲。」
「初めて?」
彼はもう一度ピアノの鍵盤にすっと手を置き、慈しむような表情を浮かべた。
「うん、初めて作ったときの……5歳の時に作った曲。」
「5歳!?」
私の驚きの声に彼は頷いた。
「ぽくないって思った?」
ニコッと笑って彼は私に顔を向ける。
確かにそれっぽくないな、とは思った。
だけどそれはTAIへの言葉じゃなくて5歳で作ったように思えなかっただけ。
この曲を弾く小さなTAIが想像できなかった。
すごく有名な作曲家ですら作れないと思った、こんなに感情的できれいな曲。
「そういうわけじゃ、ない__けど本当に五歳の時?」
「やっぱりびっくりするよね。これを作ったのは妹の誕生日のためかな。」
「妹さん……?」
彼の口から家族の単語が出たことはなかった。
妹がいるというのも初めて知る、薄暗くなった部屋の中彼の言葉の続きをただ待つ。
「そう、妹。小さくてやっと1歳になったとき凄く嬉しくて__妹が生まれたとき雪が降ってたなぁって。」
口を動かしながら柔らかい音を彼は奏で始めた。
さっきの曲とはまた違った雰囲気。
太陽の光のような自然で温かい気持ちになる、ゆったりとしたテンポ。
「俺は最初妹のために曲を作った、そうだったね。」
先ほどまでとは違った少し寂しそうな悲しそうな表情を浮かべ彼は弾き続ける。
私に語り掛けるのではなく自分に言い聞かせてるような、空に向かって言葉を並べているような感じ。
段々と動いていく和音、神様が降りてきそうな神々しい響き、後光が差すようなアクセントの高い音。
聞き覚えがあった、それはコンサートや自分で奏でた音色ではなかったけれど確実にこんな雰囲気の曲を私は知っている。
「教会みたいな__」
ぽつりと零れた言葉はそこで止まった。
私の言葉と同時に彼の演奏も止まった、いや止まったのではない長く鍵盤に指を乗せ続け音がすっと途切れたのだ。
途切れた音の後から指を進めることはなく悲しそうな瞳で私を見つめる。
「気づいちゃった?」
「え……?」
確かにアニメやドラマで教会に入ったときに流れる落ち着きながら神々しいBGMに似ているなとは思っていた。
だかそれ以上の意味も考えも私は持っていない。
寂しそうな彼の表情の意図が読めない。
「……わかってない感じか。」
私の焦ったようにポカンとした表情を悟ったのか、彼は泣き笑いに近い笑みを浮かべ私のほうに向きなおる。
「俺の妹、死んじゃったんだ。もういない。」
声色は変わらずよく響く彼の声だけが部屋に残った。
唐突な言葉に私は声が出なかった。
胸と喉の奥がきゅっと閉まる、なんて声をかけていいかわからない。
「小さくて元々体が弱かった、10歳に届くかすらもわからないって4歳のころから宣告を受けててね。」
彼は涙を抑えるように軽く息を吸う、波形の揺れる呼吸音が微かに聞こえる。
「どんどんカウントダウンのように弱った体が更に衰弱していく、その様子を俺は見てることしかできなかった。でもどれだけ命の灯が尽きようとした姿でも俺がピアノを弾いたときは起きてくれた笑ってくれた。」
そこまで話したとき、彼の声に嗚咽が混ざった。
自分の話が邪魔されたのを怒るように彼は荒い呼吸で息を吐く。
「それが、俺は嬉しくて。でも妹の命はあっけなかった。10歳の誕生の瞬間を目の前に残して亡くなった。この曲は__この曲は俺から妹へ送る弔いの精一杯だよ。」
美しい輝きを放つ彼の瞳から涙がこぼれる。
私はまた声が出せない。
彼の語るものの重さに何故か私のほうが押しつぶされる。
頬を伝い零れる涙はこの世のものと思えないほど美麗に私の目に映る。
「そっか。」
数秒の時間がたったころ真夏なのに吹雪の後にように冷たい空気を破ったのはそんな気遣いもできないただの相槌だった。
言葉で埋めることはできない彼の気持ちをどうすることもできず、そっと隣に座り背中を摩った。
彼の体温が私の手のひらに移る。
「葬式で演奏して、うちは別に教会じゃなくて仏教式だったし怒られるかとも思ったんだけど親も親戚も何も言わなくて……葬式のホールで場違いな演奏だったなぁって今は思うけどね。」
彼は止まらぬ涙を雑にぬぐいながら小さく笑った。
その笑顔の奥には何が隠れているのだろうか。
「ごめん、嫌なこと思い出させちゃった……?」
「ううん、嫌なんかじゃないよ。音楽やめたのは妹のことと関係ないし。悲しいことも思い出すけどさ、でも同じぐらい妹の笑顔も思い出すんだよね。」
嫌じゃない、はっきりと凛とした声が響く。
本心であろうその言葉はいつもの彼より熱を持った声色。
「もう一曲、聞いて。」
枯れきった涙の跡が光に反射する彼の横顔。
手を伸ばすのは鍵盤、私は頷く。
彼の音楽は温かくて、雪をイメージした曲が多いせいか少し冷たくて。
でも心がきゅっとなる冷たさじゃない奥で愛情を感じる。
次の曲は明るく跳ねる音に軽快なメロディが乗っかる。
冬の明るく跳ねる曲。
ああ、これも私はよく知っている。
「クリスマスソング__」
「当たり。これも俺が作った曲。」
楽しそうな横顔からどんな思いで曲を作っていたのか想像できてしまう。
にぎやかな街に大きなクリスマスツリー、ある家の中には赤と白の新品の靴下があり小さな少女が何がもらえるかとワクワクしながら眠るのを拒む。
きっと私の想像した光景が彼の妹の姿でそうあってほしかった未来なのだろう。
「妹の誕生日はクリスマス前日の23時59分から始まる、だからイブからクリスマスへと変わる瞬間。いつも寝たくないってベッドの上でごねてね、寝ないとサンタさん来ないよって説得するんだけど嫌だってどこにそんな元気があるのかって程暴れてたなぁ。」
彼は思い出を思い出すように目を伏せながら弾く、優しい笑みを浮かべて弾き続ける。
「どうしても寝ないって騒ぐものだから、俺が寝かしつけの意味もかねてこの曲を作ってクリスマスが近くなると毎年弾いた。最後のほんとに最期の瞬間まで俺のこの曲をねだったんだよ。『お兄ちゃんの曲があればサンタさんが来るんだ。』って。」
軽快だったメロディが段々と落ち着いていく、街の明かりが一つ一つ消えていくように街が眠りにつく深い夜が来るように。
寝てしまいそうなほど穏やかなメロディへと変わる、妹のための子守歌。そう聞いてからだと手を取るように場面がわかる。
「俺泣きながら演奏したよ、そしたら『なんで泣いてるの?』って。もう終わりの時が近いってわかってたのに何も言えなくて、そしたら妹が力がない声でサンタさんへの願い事をつぶやき始めて『もう少しで私が生まれた時間、サンタさんお願い事一つかなえてください。お兄ちゃんがいっぱい楽しく過ごせますように。』」
その言葉と当時に曲が終わった。
ふわっと余韻が宙に浮かび、空気を震わす。
「……こんな感じで曲と同着で空に行っちゃって、きっとわかってたんだろうね俺が反抗期に入って親と険悪だったのも妹のことと自分のことで手一杯で苦しかったのも。元気になって外に遊びに行きたいとかもっともっとお願いしたいことあったはずなのに。」
彼の表情を見ると泣いているわけじゃない、微笑みを浮かべているなのに声が震えている。
何かを嚙み殺すように口を閉ざしぎゅっと拳を握っていた。
「いい曲だね。安心できる曲、きっと妹さんも最期までそう思ってたと私は思う。」
微かに震える彼の手を私の両手で包む。
冷たいのはどちらの指先だろうか、氷のように指先が悴む。
「そうかな……そうだといいな。」
部屋の窓からは満点の星空が見えた。
青や赤、沢山の星の光。
それぞれが輝きこちらを見守るように覗き込んでいる。
「暗い話聞かせちゃってごめんね。」
星々に見惚れる時間が過ぎた後の沈黙を終わらせたのはTAIだった。
「ううん。知れてよかった。」
私はテンプレートのような言葉を吐くことしかできない。
「ねえ。」
「なに?」
「私に教えてくれない?ピアノ。」
「沙雪も弾くの?」
「聞いてたら弾きたくなったの。」
「わかった。」
急なお願いにも笑顔で彼は答える。
プラスチック製の鍵盤は軽く少しの力でも押すことができた。
私がどうにか奏でる音はTAIの音の足元にも及ばない。
きっと歴がどうこう言うものじゃなくて音楽への愛、ただそれが違い。
一時間ほど教えてもらって一曲だけをマスターした。
その曲は彼が何となく作った短い曲と言われ、キラキラとしたメロディが夜空に光る星のように散っていく。
彼の助け無しで弾き終えたとき、彼は喜んでくれた。
「難しいけど楽しいね。」
「それならよかった。」
楽しい、と口にしたとき彼は決まって笑顔になる。
メロディを片手分弾くとか初めて両手で音がそろったとかそういう時よりもっと笑顔。
私が楽しんでいることがうれしいのだろうか。私はそうであると解釈をする。
彼が嬉しいなら私はもっと嬉しい。
そこから夜は更けていく、月が空に浮かび海に反射した。
夕ご飯を食べ終え、お風呂にも入り終わり仲居さんが敷いてくれた布団、そのうえで二人ゴロゴロと過ごす。
午前二時夜中まで二人で起きていた。
どちらも口を開かないだけで私たちの中で結論は出ていた。
浴衣ではなく普段着しかも初日の服を着て布団に入ることはなく時間をつぶしている。
「行こうか。」
彼からの言葉だった。
私は頷くことも言葉を返すこともせず立ち上がる。
今日プレゼントしてもらった髪飾りを付ける。
互いに無言で部屋を出た。
ほかの宿泊客は寝ているのか廊下も怖いほどシーンとした空気が漂っている。
重く苦しい熱帯夜の酸素が重く肺に伸し掛かる。
暗い闇に吸い込まれてしまう気がして浅い呼吸を繰り返す。
旅館を出ると建物内とは一変して爽やかな空気が私たちを誘う。
波音だけが定期的に空気を震わす。
あたりは明かり一つすらなく真っ暗で車のエンジン音も聞こえることがない。
どこかの横断歩道の音が遠くで響く、その音すら波音にかき消される。
大きな月が顔を出し海面に揺らめく、水平線の切れ目を月の明かりが照らし出す。
空には満点の星が鬱陶しいほど広がりモールス信号のようにきらめく。
「……行くの?」
「もちろん。」
私の手を引くのは彼で大きな手のひらに包まれる私の手。
波打ち際を暫く行く当てもなく歩いた。
踏み切ることが出来ぬまま足が疲れて立ち止まる。
立ち止まってしまった私はTAIの速度に追い付けつ無情にも手が解かれる。
「ごめん。」
手が離れたことに気づき、彼は焦って私のほうへと戻ってくる。
息が荒い、マラソンを走り切った後のように喉が渇く。
「大丈夫?……怖い?」
「怖くはないよ、怖くなんて。」
海のほうへと目をやると底が見えない蠢く闇。
立っているだけなのに飲み込まれてしまいそうで思わず息をのむ。
ここに沈んでしまえばすべてなくなる、全て全てが終わる。
そう考えればすがすがしい程だ、なにも怖いことなんてない。
大切にしていた長い髪を乱雑に切り好きな人と言葉を交わし私は私を捨てたのだから。
「歩くの早かったかな。」
ごめん、と彼は言い私の手をもう一度とる。
冷たい砂浜の上にしゃがんだ私に視線を合わせながら。
私は首を横に振り立ち上がった。
足に痛みが広がる、一歩動かす行動さえ鬱陶しくなるようなパンパンで感覚が鈍い。
彼の大きな瞳には絶望もやっと終わるという爽快な表情も感じない。
私の瞳に映るのは出会った時と同じ純粋な目をした少年が一人。
こうも表情が変わらないと彼は本当に私と死んでくれるんだろうか、いや、私が死なせて良いのだろうか。
TAIの良いところも過去もたくさん知った、沢山話した。
無邪気で犬のようにころころと表情が変わりなんにでも興味を示すところ、笑顔が愛らしいところ。
全部、全部彼の全てが大好きだ。
「そろそろ行こう。」
ふにゃっと彼は笑って私の手を引く、向かう方向は海。
段々と砂が湿っていく。
濃い海風が私たちを殴りつける。
心中を頼んだのは私、死んでくれるといったのは彼。
私がきっかけで彼にこの道を歩ませている。
……私が今から殺すんだ。
何もないって彼は何度も言った。
このままより私と死ぬと。
そう思うと足は中々進まなかった、死んでもいい死にたいのは本心。本心であると思い込んでいる。
実際がどうかなんてまだ分からない私は私のことを理解するのが怖い。
だから死にたいっていう何とも複雑でそれでいて現代で使いやすい言葉を多用するのだ。
言いたかった言葉なんて吐くことが出来ないままそのまま生きるしか噓をつきながら自分を騙しながら生きているのだから。
波音が大きく聞こえる、消波ブロックに当たった波が飛び散り顔を濡らした。
足元に冷たい水が当たる。
真昼に入ると生ぬるくそして冷たかった海水がどこでそれほどまで冷やされたのだろう。
太陽が沈み切れば世界が変わる。
星が輝く、月が上る、空気が冷やされる。
息を吸えば夏とは思えない潮風が体を一周する。
「怖くないよ。」
「うん、そうだね。怖くない。」
これまでより慎重に二人で手を取り進んでいく。
海底を歩けば砂が沈み込み足元が危うい。
ゆっくりと冷たい水が足の感覚を奪ってくる。
「ねえ、もう最期?」
「そうだね、最期かも。」
彼は声色を変えず淡々と答える。
「……私一つだけ知りたいことがあるの。」
「なーに?沙雪の頼みなら何でも。」
「TAIの__あなたの名前が知りたい。」
私の震えた声が海面に跳ね返る。
「俺の?俺は雪兎」
「雪兎……くん?」
「雪兎でいいよ。秋晴雪兎、改めてよろしくね。」
いつも通り彼は笑う。差し出された手から海水が滴る。
「うん、よろしく……」
「死んじゃうのによろしくってのも変かなぁ。あ、そういえば沙雪は?沙雪はなんていうの?」
「私は霧森 奏。」
「奏かぁ、かわいい。」
嬉しそうに彼はそういった。
「じゃあ奏は音楽の名前?」
「そういうことになるのかも。」
私が彼の問いに答えると膝上ほどまで迫ってきた水位の中を彼は軽々とその場で一回転をする。
「だったら、俺と反対だね。俺は音楽の名前を名乗っていたのに名前には『雪』が入ってる。奏は名前に『雪』を入れて名乗っていたのに名前には音楽が入ってる。」
「確かに、そうだね。」
私の言葉を聞き満足げに彼は笑顔を見せる。
「奏__来世ではちゃんと会おうね、最初っから会おうね。」
「最初っから……」
「うん、ちゃんと出会って奏の嫌だったことぜーんぶ忘れてさ俺も空っぽなんかじゃなくて幸せな世界で最初から会おうよ。」
約束。というように彼は小指を差し出す。
「巡り逢えたらいいね。」
答えの代わりに私も小指を彼の小指に絡める。
ぎゅっと力を感じる。
二人で目を伏せる。
しばらくたち私が目を開けると彼はまだ瞼を閉じていた。
その顔立ちはなんだか大人っぽくて、終わりのその時を待っているようだった。
ゆっくりと一定の間隔で海の奥へ奥へと向かう。
水平線のあの先へ私たちはいけるのだろうか。
息を吸えば潮のにおい、空を見上げれば瞬く星が空に揺蕩う。
……死にたくない。
唐突にそう思う。
いや死にたくないんじゃなくて私は私はやっぱり、彼を死なせたくない。
私と一緒に死なせてしまったら私が永遠と後悔してしまう。
後悔なんて死んでしまったらできないだろうど。
ああ、私は__
「どうしたの?奏、泣いてる。」
「え……あ、」
頬を伝うのは海水ではなく涙のようだった。
潮風で乾いた肌に水滴が張り付く。
私は、彼を雪兎を__
「雪兎__死なないで。」
言葉にしてしまった瞬間、伝えてしまった瞬間何を言っているのだろうと思った。
彼は私のために命を投げようとしているのに、死なないでって自分勝手すぎる。
「何言って……」
私の涙を拭おうとした彼の指の動きが止まった。
波音だけが鮮明に響く。
「嫌だよ、死なないでよ。私は、私は雪兎を殺したくない__!」
「ど、どいうこと……?俺は奏に殺されるんじゃない俺は自分の気持ちで。」
「死にたかったの。憧れてたきれいな人生、それが私には送れないものだって知った時から。」
いじめられていた記憶が脳裏によぎる。
今は今は倒れてる場合じゃない、呼吸を無理やり整え声を張る。
「きっと、きっと小説なら姿さえ書かれない私はモブ未満の人生。過去にとらわれるのも全部全部嫌だった……だから私は死ぬ。死のうとしてる。」
長台詞に息が持たない。
思いっきり重苦しくて綺麗な真夜中の空気を吸い込む。
「でも、雪兎は違う。空っぽならまた詰め込めばいい、これからきっときっと良いほうに変わっていける。だから__だから__!」
息が途切れ途切れで信じられないほど大きくて上ずった声。
「……雪、兎__」
彼の顔を除いた瞬間、呼吸が止まった。
どうにか彼を私は死なせたくなかった。
だから止めようと必死に言葉を紡いだつもりだった、必死だった。
でも言葉は届かなかったようだった、淡い色でどこかを見つめる彼の瞳は私が言葉を紡ぐ前と変わっていない。
腰ほどまで届くようになった海水が私たちを隔てるように流れを作る。
どうしよう、どうしたらいいんだろう。
私は何かが詰まったように言葉が出ない。
話そうと口を開くたびに声が出ない。
どうやったら彼に言葉が届くの?
私は私じゃダメだったのかもしれない。
私の言葉は空っぽな君には届かないのかな。
でも諦められない。
彼を殺して一緒に死ぬのも彼だけ死んでしまうのも絶対に嫌だ!
「__!」
何か言葉を紡ごうと一歩を踏み出し大声を出そうとした瞬間だった。
サラッとした砂に足元を取られる。
深い水位まで来た海に顔から突っ込む。
一瞬の出来事で画面が暗転したように景色が変わる。
肺に空気も残っていない、パニックになり冷静に立ち上がることができない。
酸素が取り込めない苦しい。
闇色の海が私を誘う。
走馬灯、というのだろかこの度の光景がアルバム機能のように流れていく。
『人間は顔が水に全面的に覆われればどんな水位でも死ぬ。』たしか小学生のころ先生に言われた言葉。
ああ、そっかそういうこと。
私は死んじゃうのか。
視界は痛くて歪んでて暗い闇しか見えなくて、あ、泡。
空気の泡が視界に入る。
雪兎とともっと一緒にいたかったな。
もし、こんなお願いが許されるのなら私は雪兎ともっと生きていたかった。
雪兎といれるならそれでいい。
そっか、私は死にたかったんじゃないんだ。
この気持ちをわかってくれて一緒に隣で歩いてくれる人と生きたかったんだ。
でももう声も出せない。この言葉を伝えられる機会なんてもう来ない。
水の冷たさと息苦しさと怖いほど冷静に回る思考。
プツンと回線を切ってしまったゲームのように意識が落ちた。
そしてヒロインには優しくって大切な彼氏が付いてくるのがお決まりだ。
ページの端に映るモブも数秒だけ出てくるクラスメイトもみんな輝いている。
それが小説であり漫画でありアニメでありゲームのストーリーである。
現実とは程遠く絶対にいけない世界でありながらもみんなが共感して大好きになって恋焦がれている。
そんな夢物語を二次元と呼ぶならきっと私が体験したこの物語は二次元であって二次元でないのだろう。
こうやっていい風に書いてしまえばきっと誰かには夢物語として取られてしまう。
それでいい、それでこそ創作物と呼べるのだから。
でもこれは、私と彼のきっとこの世界が大きな物語ならモブにすらならない誰にも見られはしない、そんな小さな出来事でモブ以下の私と彼にとっては大きな出来事である。
毎朝、ちゃんと起きる。
毎日、ちゃんと学校にいく。
日本に生まれれば当たり前のことが私は苦手だ。
今いる教室のざわざわとしたうざったい空気も苦手だ。
「奏おはー」
「お、おはよう……」
こんな風に普段絡まないくせに朝の挨拶だけは一人前なクラスの中心人物が苦手だ。
高校二年生になり数か月暮らした私の席は一番窓側列の真ん中の席。
早速だが私には友達がいない。
少ない、のではなくいないのだ。
現代に生まれてよかったと思うことが一つだけあるとするならスマートフォンの存在だろう。
この四角いとても繊細な板を見ていれば友達がいなくったって平気だし。
そう思って今日も影になることに徹する。
先生すら私のことが見えていないみたい、ほとんど授業では当たらない。
二人一組のペアは余るどころかまず視線にすら入らないだろう。
だからやり過ごす、最低限の出席と単位を取るために学校に行っている。
私には青春も恋愛も全部いらない。
学校はそんなところじゃないのだから。
ざわざわと耳の奥でなり続ける音に不快感を示し一人俯き目を伏せた。
「はーっ……疲れたぁ。」
家に帰ってくるなりそう言葉が出てくる。
共働きの家には私一人だけが最初に帰宅するのだ。
見慣れたリビング、キッチン。
すべてを横目に流して私は自分の部屋へと向かう。
ドアを開けて中に入ってドアを閉めてしまえば私一人の空間。
誰にも邪魔されることなどない。
スマホ……
スクールバックから雑に取り出す。
自分の顔が真っ黒な板に映る。
なんだかその姿が醜くて急いで電源をつけた。
親の顔より見た気がするパスワード画面、大好きなゲームのキャラの誕生日を入力する。
「あ……通知来てる。」
SNSツールからの通知に目を通す。
「TAIから……やった、返信だ。」
なんとなく始めた通話ツールから世界のことが知れる投稿ツールまでSNSを一通り始めたように思う。
私自身のことは「沙雪」と名乗っている。
結果、好きなゲームの情報収集と同じ趣味を持つ遠くのどこかの誰との交流に使っているのだ。
TAI……本人が「たい」と自分の名前を言っていたためその読みでいいのだろう……という方との交流が私の中で盛ん。
同じ高校二年生であり男性、柔らかい返信と通話の時に聞ける声が好きだ。
アイコンは私が好きなゲームとは別の美少女アニメのアイコン、顔も知らない人を恋愛的に気になるなんておかしいだろうか。
一人で自問自答する。
『個通?いいよ、今日の8時からね。』
毎日TAIとは通話をする仲になっていた。
午後8時、といってもなんやかんやで二人とも遅れて8時過ぎから通話を初めて寝落ちするまで……もよくあること。
『やったぁ、うれしい!』
私は急いでそう送り、自分の口角が上がるのがわかる。
私のアイコンは美少女イラスト、二次元でお気に入りの画像である。
フリーのものを一生懸命探した努力の結晶。
部屋の大きな窓を開けるとベランダがある。
田舎のマンションの一室だからか無駄に大きい。
「あっつ、もう夏かなぁ。」
夕風が妙に熱く頬を撫でる。
そうだ、もう少しで高校二年生の春が終わってしまう。
ああ、こういう日に……
「死ねれば、主人公か。」
誰にも拾われない声でそう呟く。
私はただただ死にたいのだ。
どこにも吐露したことがない、今は私だけの大事な気持ちだ。
ベランダの柵は高く飛び越えれそうもない。
柵の温度は生ぬるく、触れた手は錆びた鉄のようなにおいがする。
私が死にたいと思ったのは中学の時から、軽くて陰湿な典型的ないじめに出会ったから。
ただ、それだけ。
凡人な理由だ。
いじめといっても創作で見るような激しい奴じゃないから私は逃げてばっかり。
どうにか一番大変ないじめは乗り越えたものの私の心の中にずっしりと沈んでいる。
決して消えない傷とはこういうことなのだろうか。
急にいじめの記憶を思い出し胸が苦しくなる、息ができなくなるそういったことにもずーっと襲われた。
前に調べてフラッシュバック、という現象の名前だけを覚えた。
フラッシュバックと希死念慮。
本当に私の死にたい理由はそれだけなのだ、それだけじゃなかったとしてきっと自分じゃ気づけないだろう。
「……そろそろ部屋に戻らなきゃ。」
独り言を空に向かって吐き出したい分だけ吐き出し部屋に戻る、私のルーティーンだ。
午後8時、街頭すらない町を照らすのは満天の星空。
有線のイヤフォンをスマホに突き刺しSNSアプリを起動する。
『かけていいよ。』
『了解、かけるね。』
毎日のお決まりの言葉をTAIと交わす。
通話をかけるのは決まって私だ。
呼び出し音が小さくなる、早く出てほしいと胸の鼓動がが私の心を交差していく。
「やっほ。」
「やっほ~」
もしもしでもなく、こんばんはでもなく私たちが通話がつながったかどうか確認するのはそんな他愛もない言葉だ。
電話でもないのにもしもし、と唱えるのもこんばんはとあいさつから入るのも何か違う気がしているから。
スマホの奥から聞こえるのは少し男性にしては高めででも高すぎない柔らかいかっこいい声だ。
「沙雪、今日もかわいいね。」
「え、やめてよ~照れちゃうから!」
私好みの声から発せられる私への誉め言葉。
きっと、SNSがない世界線なら言われることはきっとなかっただろう。
「大好きだよ。」
「私も大好き!」
こう互いに声をかけるが本当に好きなのかは知る由もない。
第一TAIは不思議な人物だから。
好き好き言い合っているが付き合ってもいないしリアルな告白を受けたこともない。
TAIからは私はSNSの人物で現実に出会ってないからきっと本当に好きなわけじゃないのだろう。
そう考えるたびに少しだけ胸が痛んだ。
二人でどうでもいい会話を重ねる、互いにしているゲームの話やどうでもいい日常談義。
無言通話だったり寝落ちしても愛おしくてたまらない時間。
私が唯一生きててよかったって思う時間だ。
「ねぇ、もし、なんだけど。」
「なに?」
「もし、私が死にたいって言ったらどうする?」
「……」
しばらく無言にな空気感、ああ、変なこと言っちゃったと思った。
夜にSNSの人物から死にたいと相談されるなんて馬鹿げている。
私なら困り果てるだろう、どうでもいいかまってちゃんが出てしまった。
「あ、やっぱな_」
「一緒に死ぬ……けどその前に死にたい理由が知りたい。」
発言を取り消そうとした瞬間思いもよらぬ答えが返ってくる。
「一緒、に?」
「一緒に死ぬ、死ぬよ俺。」
「そんな冗談_」
「冗談じゃない、一緒に死ぬ俺が沙雪と一緒に。」
いつもより低いトーンで帰ってきた答え。
怒らせてしまっただろうか、それとも本気なのだろうか。
手に汗が滲む。
TAIはどんな顔をしているのだろう。
わからない、黄色髪の美少女アイコンが私が知る彼の顔。
「……ごめん、急に。でも本当なら死にたい理由、話してほしい。」
数秒間の沈黙を破ったのはTAIのほうだった。
「ううん!私のほうこそ、急にごめん……理由、かぁ。」
「嫌だったらいいけど。」
「嫌ってわけじゃないよ……昔に受けたいじめの傷がねずっと残ったままだから、このまま生きるより死んじゃったほうがいいかなーなんて。」
なるべく声色を下げないように明るく言葉を発する。
思いもよらない方向に話が進み私は焦ったように言葉をつづけた。
「それからほんとに死にたくなるの、生きてていいなんて思えないし……記憶を思い出すのが嫌なの。」
「そっか。」
彼から発せられたのは相槌だった。
「じゃあ、一緒に死ぬ。」
「はっ!?話聞いてた!?」
「聞いてた、聞かないわけない。そのうえで死ぬ、一緒に。」
淡々と発せられる言葉がなんだか重かった。
軽い口調で出たいつものTAIの声、でも重い人生二つ分死ぬ方へと舵を切ろうというのだから。
「一緒に……死ぬ。」
私は確かめるように小さく言葉を放った。
「嫌?」
「嫌なわけじゃない。でも、やっぱりTAIを巻き込むのは違うかなって。」
「巻き込みじゃないよ。俺、何もないし。」
「なにも、ない……?」
TAIは確かにたくさんのフォロワーを抱えているわでも友好関係が特別広いわけでもなかった。
でも何もないといえるほどではなかったと思う。
誰でも仲良くしているし私以外にも通話とかDMとかそりゃあしているだろうし。
「一緒に死のうよ、俺何もないし。大切なもの全部ないから。」
「……ぜん、ぶ。」
「もう少しで夏休みだよね。」
「うん、もう少し。」
「沙雪の住んでるとこってどこだっけ。」
一回窓の外を見る、満天の星空。
「鳥取だよ。西側のほう。」
「じゃあ、いろいろあるね。」
「いろいろは……ないけど。山も海も地方にしては一通りはあるよ。」
急に始まったつながりがわからない話。
戸惑いながらも問いかけに答える。
「泊まるとこ、ある?」
「ある、旅館もネカフェもホテルもある。」
いくらTAIが都会住みだからと言っても地方をなめすぎな気も少しする。
観光地としての面もあるしもちろん旅館やホテルはある。
地元だから宿泊したのはまったのは数回だけれど。
「じゃあ、夏休みの間に俺がそっち行くよ死ぬ前に会いたいし。そこで案内してよ沙雪の地元。」
「お金……」
「俺の貯金があるしどうにかなる。二人で泊まって観光してそのあと死のうよ、幸せな時に死にたいじゃん。」
幸せな時に死にたい、二人で死にたい、死ぬ前に会いたい。
確かに私たちがやりたいことは全部そろってる。
お金も通帳を持ち出せば幼いころのお祝い金をためた分、数十万はあるだろう。
旅館も数日はいいところに行けるしタクシーを使えばどうにかなる。
「わかった。ほんとにいいの……?」
「いいよ、俺が約束も一度いったことも破ったことある?」
TAIとは数か月の付き合いだ。
毎日言葉を交わした、それだけだけれど彼の言葉はいつでも重かった。
もしかしたら彼が言う通り本当に何もないからかもしれない。
何もないからこそ言葉に重みがあるように裏表がないように感じるのだ。
「ない。」
「じゃあ決まりね。夏休み、予定建てよう。二人きりの旅。」
「そうだね、本当に二人っきりだ。」
これで会話は終わった、いつも通りの他愛ない話に切り替わった。
嘘かほんとか冗談か本気かなんて見分けがつかないまま。
翌日寝落ちた後に送られてきた、『飛行機の予約、この日でいい?』という一文とともに添えられた羽田空港からの飛行機の予定表を見てああ、本気なんだ。と少しうれしさを感じた。
8月11日に到着の便でTAIはここに来る。
ずっと離れていた私たちの距離がやっと縮まるんだ、そう考えるとなんだか自分の人生を信じられなかった。
夏の日照りが私たちを突き刺している。
8月11日、私は珍しく朝から起きて親には旅館使って友達と小旅行ということにした。
私の貯金で動くし帰ってくる、と約束をし知らないクラスメイトを友達として使った。
なんだか申し訳ない反面、あと数日で私はどうせ死ぬんだからと少し現実がどうでもよくなっている感覚。
TAIに会うんだからちょっとでもビジュアル、よくしないとと思い髪の毛のスタイリング剤を使う。
べたべたとした泡が手のひらに張り付く。
鏡の前に立つ私は必至そうな顔をして顔をしかめている。
若干天然パーマがかかったロングヘアを触る。
黒い髪が電球の光を反射し光っている。
編み込みを作ってぐるっと後ろへもっていく。
ハーフアップを作りスタイリング剤で固定する。
毛先がくるんとカールするように何度も手を動かす。
可愛くなるってこういうことなのだろうか、だとしたらそれはそれでめんどくさい。
メイク道具なんて持っていないけれどコンビニで買った安物をなんとなく使った。
ほんの少しアイシャドウを載せて淡い色のリップを初めて使う。
チークはせっかく買ったけれどうまくいかなかった。
アイシャドウも薄すぎて鏡にすら映っていない。
一つのゲン担ぎみたいなものだ、大好きな人に会うんならおしゃれをしたい。
そう思うのは決して場違いな感情ではないのだろう。
旅行……と言ってしまったからにはと数年前の修学旅行で使ったキャリーケースに数日分の衣服を入れる。
可愛いワンピースはもう着てしまったから、おしゃれのかけらもないような適当な服ばかり。
せめてかわいいブラウスとか買っておくんだった、と少し後悔する。
メイク用具や幼いころから持っているテディベアを端っこに詰めた。
あとはいつも通り小さな肩掛けバッグを持つ。
TAIとは空港で待ち合わせ、せっかくだしと朝一番の便を取ったらしい。
通帳をバッグに入れ財布には20万ほど前日に卸しておいた分が入っている。
アルバイトもしたことがなく、通帳に残った30万と今もっている20万、あと小銭がほんの少し。
まだ大人になれない私の小さな全財産だ。
死ぬときに持っていたいものかぁ……
部屋の中を見渡すもののめぼしいものは好きなゲームキャラクターのグッズぐらいだけれどどうせ死ぬときはその身一つだろう。
だったらこのまま家にいてもらうのがいい気もする。
「あ、ハサミ……」
刃物で死のうと思ったわけではない、その言葉の通りなんとなく目についた。
白色の持ち手に銀色の光る刃。
お守り、みたいなものだろう。
こんな小さな刃で首が掻っ切れるものだろうか、多分そうではない。
だから何かあった時の護身用。
飛行機で来るTAIは持ち込めないだろうから。
カバンの中に放り込んだ。
両親は共働き、そして接客業。
夏休みの今がかき入れ時、だから小さなころから長期休みは一人っきりだった。
誰もいない家。
そして上手く死ねれば二度と戻ってこない家。
なんだか見納めだな、と意識してしまうとどうにも離れがたい。
人生のどこかではこの家とどのみち別れが来るのだからと腹をくくる。
「行ってきます。」
何回もこれまで行ってきた言葉が家によく響いた気がした。
私の住んでいる地域からTAIがたどり着く空港までは距離がある。
バスがないことはないがそこに行くのも手間。
タクシーを捕まえて空港まで送ってもらった。
タクシーにお金を払うのは緊張する。
怪しまれたのかもしれないが遠くから来る知り合いとの待ち合わせだと説明した。
平均的な身長の高さだから中学生にも高校生にも大人にもきっと見えるのだろう。
財布、きちんとした大人っぽいものにしたほうがよかったかな。などとキャラクターが描かれた財布に向かって苦笑する。
きっとここまで来てしまえば知り合いはいないだろう。
髪型も変えてなんとなくできていた洋服も変えて、もう私はあの時の私ではないのだから。
空港へ到着し、降りると強い風が私の頬を掠めた。
午前8時到着の便、無事に進んでいるのを確認して安心する。
空港に入ると鬼太郎の像が迎えてくれる。
私が幼いころから変わらない空港の景色だ。
米子空港、という名前ではあるが米子市ではなく境港市に位置している。
全国に伝わるように言うならば某テーマパークが千葉にあるのに東京と付くのと同じ。
境港もよく来る場所だから今日一日はここを案内しようか、と昨夜に練っていたプランをもう一度想像する。
鳥取市側に行ってもいいのだけれど一日目には移動量が多すぎる。
それに真夏の鳥取砂丘は二人して焼けてしまいそうだ。
やっぱり、都会に慣れているのをここに染まってもらうためにここしかないものに案内しよう。
そう考えながら飛行機の到着を待つ。
朝早いからか人はほとんどいない。
職員さんの視線がたまに突き刺さる。
どうしても人からの視線は苦手だ。
水色のシンプルなワンピース、おかしくないよね?と妖怪たちに向かって問いかけるものの黙ったままだ。
考えれば絶対に返事が返ってこないことぐらいわかるというのに、私は変にファンタジーを願ってしまう。
「あ……!」
スマホの通知に一喜一憂する。
聞きなれた通知音、見慣れた美少女アイコン。
『到着した。いる?』
短い連絡。
『いるよ~待ってるから案内に従っておいで!』
ついでに私の今日の服装も送る。
どうせ顔は見られてしまうのにハートのスタンプで隠して。
胸のドキドキが止まらなった。
初めて会うってこんなに緊張するんだ……
同じ便から来たであろう人がだんだんとこちらへ出てくる。
『わかった、今行く。』
メッセージの返信が来る。
ずーっと画面をつけたままで熱いスマホをぎゅっと一人で握りしめた。
似たようなスーツケースを持ち大きなリュックを背負った少年がスマホ片手に出てきた。
これまでも似たような少年と何度もすれ違っている。
そのたびに声をかけられないかと心臓が高鳴った。
「……沙雪、?」
「えっと、TAI?」
私のSNSを知っていないと出ないような名前。
そして私のよく知る声色。
「うん、やっと出会えたね。」
笑ってる……当たり前だけれどTAIの笑う顔を初めて見た。
少し明るい茶髪の髪。
ゲームに出てきそうな少年、といったところだろうか。
大きな瞳が私のことをとらえている。
「……やっと、だね。」
出会ってからは数か月だ、何年も互いに待ち望んだわけじゃない。
それでも私たちの数か月は長い精神的には5年ぐらい待った気でいる。
「ん!」
TAIはスーツケースから手を放し私に向かって手を広げる。
「?……ああ、そっか、やらなきゃね。」
その腕の中に私はそっと飛び込む。
通話を始めてから10も回数がいかない頃、二人で約束した。
出会ったら一番に恋人と間違われるぐらいのハグをしようと。
私からそのお願いしたのに忘れちゃうなんて、ほんの少し恥ずかしいや。
「思ったより、小さい可愛い。」
「え、またそんなこといって……!」
「ほんとのことだし。」
きれいな声が私の大好きな声が、イヤフォンがなくとも耳元で聞こえる。
その場に残る。
大好きだなぁ、決して声に出せない思い。
ぎゅっと抱きしめると暖かい。
生きてる、私の大好きな人は。
ずっとずっと画面の中だったけれどやっと会えた、文字と声だけじゃない。
会えたんだ、生きてるんだ。
なんだかこれまでに味わったことのない気持ちだった。
地方住みの私にとってはエンカ……オフ会ともいうんだっけ、に参加することなんてなくて。
だから初めてだ、初めてSNSにいる人は生きてるって人間だって実感したのは。
「あったかい。」
「よかった。ここまで来たかいがあったな~」
そう言ってTAIは背中を伸ばす。
一時間ほどの旅といっても飛行機に乗っていたわけだし、しかも朝一番。
これから思いっきり観光につき合わせる気だったけれど一回休ませたほうがいいかな。
「休憩する?まだそんなにこまないだろうしコンビニもお土産も見れるよ。」
「ううん、大丈夫。俺そんな疲れてない。沙雪に会うためにここまで来たんだし!」
「ふふ、そっか。」
なんだか幸せでたまらない。
夏の日差しも暑さも吹き飛んでしまいそうだ。
「お土産、持って帰れないんだし。もっといろんなとこ見て決めたいな。」
「そうだよね。じゃあ早速行こうか。」
「うん!」
同い年とは思えない、どこか子供っぽくて犬みたいな人だ。
外に出ると生ぬるい風が私たちの間を通り抜ける。
「最初はどこ?」
「最初は_せっかくだしここら辺、境港を回ろうかと思って!」
スマホを触ってマップを探す。
「ここら辺?」
「そうそう。まだまだ旅館までは時間あるしせっかくここまで来たんだし。」
「……境港が地元なの?」
「ううん、違うけど遊びに来ることは多いかな。」
目当てのバス停を探して空港の周りを歩く。
空港やら駅やらの近くはたくさんのバス停があり目が回ってしまいそうだ。
次行きたい場所へはバスが出ている。
お金はなるべく温存したいし仕方ないだろう。
「あった!あ、丁度来るみたい。」
時刻表を確認して口に出す。
何年も使われて少しくたびれた時刻表の文字。
きっと何人もの人たちがこうして私たちみたいに覗いているのだろう。
「はまるーぷ……?」
「うん、そういう名前のバス。境港をグルって回ってくれるし観光にはちょうどいいかなって。」
私の声と同時にバスがバス停へとたどり着いた。
青い車体に鬼太郎たちがラッピングされたバス。
小さめの車体。
ラッピングを見ているTAIを後でも見れるから!といい半ば無理やり押し込む。
まだ朝一番で人はいない。
私たちが最初の乗客だろうか。
一番奥の広い席に二人で端っこにぎゅうぎゅうになって座る。
静かにしなきゃいけないのに互いに笑みがこぼれてしまう。
笑う君の顔を見て私は笑っている。
もしTAIが笑うのが私の笑顔が理由ならいいのに。
二人で朝からバスに揺られる。
「どこに行くの?」
「まあまあ、見てて!」
そう言って焦らす。
観光なんだし一番のびっくりを味わってほしい。
きっと今から行くところはTAIには驚きだろう。
都会には絶対にない景色が広がっているから。
絶対に見たことがないって断言できる。
「よし、ここ!」
あえてアナウンスが聞こえないように少しかぶせて言う。
だけれどきっと聞こえているだろう。
「え~なになに?」
それでもこうやって乗ってくれるのが彼なりの優しさってやつだろう。
バスを降りると湿気の多い暑い空気が私たちに覆いかぶさる。
降りて見えるのは大きなタワー。
ドーム型の建物と大きな上に伸びるタワーがつながっている。
私から見ればタワーだがきっと彼から見ればタワーとも呼べないだろう。
「じゃじゃーん!ええっと、夢みなとタワーです!」
入り口前でそんなことを私は手ぶり交じりで伝えた。
人はまだ少ない、きっとこんなことをしたって誰にも見られちゃいない。
「夢みなとタワー……?」
TAIは不思議そうに首を傾げた。
海に囲まれるような中に一つだけ佇むタワー。
異質な空間だろう、そして絶対_
「タワーじゃないって思ったでしょ!」
「え、と……うん、まぁ。」
遠慮がちにTAIは頷いた。
きっとこのぐらいの建物都会にはゴロゴロある。
でも絶対都会の大きな建物にはない二つ名がある!
「日本一低いタワーなんだよ、あとは展望台からの景色はきれいだしガラス張りで囲まれたエレベーターも!……ちょっとは気になってきた?」
仕方ない、地元民の本気を見せてやろうと観光案内のように紹介をする。
「気になってきた、かも。」
歯切れの悪い言い方をする。
TAIは優しいが少し意地悪だ。
「んー、じゃあとっておき教えちゃうね。運がよかったらイルカが見れるんだよ。」
彼の耳元でこっそりと呟く。
「イルカ!?」
「運がよかったら、だけどね。私も何回も来たことあるけど見たことはないなぁ。」
ちょっとわくわくした顔が見れてうれしい。
こんな顔されたら全力で案内するしかないじゃん。
「もう開いてると思うし、行こうか。」
「わかった。」
二人で展望台に上った。
上る前の受付にあるとりぴーとか三階にある展示を見て二人で顔を見合わせて笑った。
エレベーターの近くにあるべとべとさんを見て驚いたように固まってしまうのとか、可愛くて仕方がない。
私がそっとべとべとさんに近づくとすこし怯えながらも後を付いてくる。
「怖く、ないの?」
「ないなぁ、小さなころからここにいるから妖怪というよりここにいる友達かも?」
冗談めかしくそう言う。
いろいろな人たちに触られて少しづつ汚れているべとべとさん、本当に私からするとみんなを見守る守り神みたいだ。
「_あ!お母さん、べとべとさんだよ!」
小さな、幼稚園生ぐらいの男の子が楽しそうな声をあげてべとべとさんに近づく。
「ほら、みんなの大事な友達かもよ?」
私がそう言って笑う、そうだね。とTAIも笑っていた。
展望台に上がるときれいな太陽の光が目に入る。
「わぁ……!」
「360度ガラス張りだよ。ほら、」
案内しようとする前に彼は飛び出してしまう。
そういうところが少し子供っぽくてかわいい。
展望台もそこまで広くないし好きに見させてあげようと私は反対方向に降りる。
ガラスの奥に見える海は波がうねり太陽が反射しキラキラと光っている。
たまにポツポツと船やヨットが見える。
銀色の手すりはいつ握ってもひんやりと冷たい。
この街を上から見れるのはここの醍醐味だろう。
「沙雪!鐘がある!」
「そうだね、えっと……ならせば幸せになれるっていう鐘。」
確かそんなことが書いてあった気がすると曖昧な記憶をたどってゆく。
「へー……じゃあさ、一緒にならそうよ!」
「一緒に?」
「うん、ほら!」
気が付いた時には手を握られていた。
あったかくて私より大きな手。
小さな鐘からぶら下がる白い糸を握る。
二人分重なる手。
「二人とも思いっきり幸せになれますように!」
そんなことを叫んで思いっきり鐘を鳴らすものだから、あまりの音量に驚いてしまう。
鐘の音も私がこれまで聞いた中で一番大きい。
人がまばらな朝早い展望台に耳を突き刺すような鐘の音がゆっくりと広がっていき何度か繰り返すうちに少しづつ消えていく。
その様子を見てとてもTAIは満足そうにしている。
「幸せに、なれますようにって_」
「いいでしょ、二人で、ね?」
「うん、そうだね。」
TAIの声には顔に似つかない気迫があった。
圧というかなんというか……煮え切らないなにかの思いがそのまま言葉に出ている感じ。
幸せ、かぁ。
ここ数年考えたことがなかったかもしれない。
「あ、スタンプある!」
「押していく?」
展望台に上がった記念のスタンプ。
台紙が用意してあってそこに押すのだ。
濃い青色のスタンプ。
夢みなとタワーの外観と「日本一低いタワーにのぼったわー」というダジャレの一文がそっと添えられている。
何度見てもくすっと笑ってしまう。
「裏、見てみて。」
スタンプを押して満足そうな彼にそう言った。
素直に紙の裏側を覗いている。
「ビンゴ?」
「ここから見える景色の中で探すんだよ。今日は天気がいいしビンゴ埋まりやすいかも。」
展望台の景色からビンゴに書かれた景色を探す、というシンプルなもの。
簡単に見つけられる近くのお店から釣り人やヨットなどの見れるかどうか運がかかわるものまである。
たくさん埋めるまで帰りたくないと駄々をこねる子供もたまに見かける。
私もそんな子供の一人だったのだろうか。
TAIはビンゴを探しにくるくると展望台を回り始めた。
しばらく一緒にビンゴを埋めていた。
私が埋めたことのないような量を埋めれていた。
「あっ!」
TAIの大きな声が少し人が増えてきた展望台に響く。
「イルカ!」
「え、見えたの!?」
思わずそう言って彼のほうへと駆け寄る。
「いた!ジャンプしてた!」
彼が指さす方角の海をくまなく見るものの見つけられない。
ジャンプしたといったから本当に一瞬の出来事なのだろう。
「……私は見えなかったなぁ。きっと、遠くから来てくれたTAIへのサービスだろうね。」
私はそう言って笑った。
TAIは私に見せたかったと何回もそういってた。
そこまで必死にならなくてもいいのになぁ、なんて思ってしまう。
きっと私は彼みたいに子供っぽくなれないのだろう。
これからもずっと、数日後死ぬまでずーっとそうなんだろうな。
夢みなとタワーを満喫し昼ご飯を二人で済ませ、次はどこに行こうかという話になった。
せっかく境港方面にいるのなら私的にはいくところは一つ。
「妖怪のたっくさんいる場所、行く?」
驚かせるようにそう言った。
「行く!」
「じゃあ、もう一回バスに乗っていこうか。」
来た時と同じはまるーぷに乗る。
二度目はもう慣れたも同然だ。
次に行く場所は妖怪がたくさんいる場所、水木しげるロードだ。
いろいろな妖怪の像が商店街に置かれていてロードに沿ってたくさん並ぶお店にはグッズからお土産にもってこいのお菓子までたくさんのものが置かれている。
私も最後言ったのは小学校低学年の時で記憶があいまいだけれど……
なんとなくワクワクして楽しい場所。
その感覚だけはずっと覚えている。
夏の太陽が真上に上り眩しい。
強い光が海面に反射して私の瞳まで届く。
バスを降りると蒸し暑い空気が私たちを迎える。
二人でロードを探検する。
観光客も多く外国の方らしき集団とも何度もすれ違った。
たくさんの妖怪の像を見つけて写真を撮った。
どこに載せる意味もない写真を何度も何度も撮影する。
水木しげる記念館を回ってお土産屋さんを回って……
目玉おやじを象った飴を買って二人で舐めた。
お饅頭やお菓子がたくさん並ぶ部屋、TAIは悩みに悩んで小さなお菓子の箱を手に取っていた。
私はその様子を眺めている。
楽しい時間はあっという間で気が付けば日が傾いていた。
外を歩くのが嫌になるぐらいの強い日差しは優しい日差しに代わっている。
蒸し暑い空気はそのままだけれど息苦しくない、いい夏の空気がする。
「疲れたぁ……楽しいね。」
TAIは旅館に向かう途中にそんな言葉を零す。
「そうだね、楽しい。」
彼の表情は疲れた、と言いつつも生き生きしていて夏休みを全力で楽しむ小学生みたいだ。
「ここで、いいですか?」
「はい!ありがとうございます。」
タクシーのおばさんにお金を渡す。
「じゃあ、デート楽しんでね。」
「は、はい……」
付き合ってるとか聞かれたわけでも言ったわけでもないんだけれど、このおばさんの中では私たちはカップルに見えるらしい。
レシートを受け取るときこそっと耳打ちをされる。
ぎこちない笑顔で応援を受け取る。
そうだ。私たち付き合ってないんだよね。
なんだかさみしくなってしまう。
何度も一緒に楽しんで今日だけでも笑いあって。
でも付き合ってはない、告白していないし告白されていない。
「海だぁ~!」
旅館の前に続いていく皆生海岸の砂浜に向かって大声でTAIは走っていく。
ああ、苦しいなぁ。恋心は持ってるだけで苦しくて痛い。
夕焼けが海に沈みかけてすべてが茜色に染まっている。
この声がこの愛おしさがずっと私の中に残って離れない。
無邪気に笑って真剣な一面があって、横顔が眩しいぐらいに綺麗な笑顔で。
「沙雪、夕日見よ!」
いつの間にか私のそばまで戻ってきていてぱっと手を取られる。
「ほら、沈んじゃうよ。」
楽しそうに私と手をつなぎ走り出している。
好きだ、好きで好きでただ仕方がない。
でもこの想いはきっと、この旅行の無駄。
ぎゅっと繋いだ手を握る。
砂浜の塀の上に二人で座る。
足をぶらぶらさせて手をつくと砂が張り付く。
水平線の向こう側に沈んでいこうとする太陽は綺麗。
ゆらゆらと波が揺れる。
藍色と茜色が混ざり合う複雑なカラーパレット。
「綺麗……」
思わず手を伸ばしたくなってしまう。
「綺麗だね。」
TAIの横顔も淡く色づいて瞳に宿る光がゆらゆら揺れて光っている。
「うん、綺麗。」
私たちの間に言葉はそれ以上出なかった。
水平線に太陽が沈み切ってしまうまで二人でそのまま動かずにいた。
太陽が沈んだ瞬間に世界は夜になる。
真っ暗になって風も冷たく感じる。
「そろそろ、旅館チェックインしよっか。」
私の言葉にTAIは頷く。
二人できらきらとしたエントランスに入る。
近くにあるソファや花瓶からにじみ出る上品さ。
せっかくだしいいところに泊まろうと思ったけれどすごいとこに来ちゃった気がする……
「ちょっとチェックインしてくるね。」
TAIにそう言い私はカウンターに向かった。
「えっと、予約してた霧森です。」
「お待ちしておりました。霧森様。」
丁寧な一礼で出迎えられる。
こんな状況に慣れていないため私のほうが固まってしまう。
言われたとおりに書類に必要なことを書き込む。
こちらを見ないようにはしてくれているが人の前で何かをするのはどうも緊張して仕方がない。
手渡されたボールペンを紙の上に走らせる。
「お願いします。」
「はい、ありがとうございます。」
私が書いた書類を一通り簡単に確認されている。
数秒が少し長く感じた。
「ありがとうございます、ではこちらが今回泊まるお部屋のカードキーです。オートロックなので中に置いたままお部屋を出ないようにお気を付けください。」
「は、はい。ありがとうございます。」
鍵を受け取りTAIのもとへと向かう。
「お待たせ、部屋行こっか。」
「ありがとう。ええっと…」
「403だね。四階だからエレベーターで行けるかな。」
大きくて広いエントランスを右に左に視線を動かす。
「あ、向こうにあるよ。」
「ほんとだ。向こうだね。」
なんだかTAIと視線が合うと笑みがこぼれてしまう。
おかしいことなのか、これが普通なのか私にはわかったことじゃない。
エレベーターに乗るとホテル特有のなんとも言えない香りが漂う。
家では感じられない少し緊張するけれど少しわくわくする香り。
エレベーターには幸い誰も私たち以外に乗り込む人はいなかった。
小さな箱に私たち二人が絶妙な距離を保って何も話さない。
今日一日あってしゃべったとはいえまだ面と向かっては知り合い程度に過ぎない。
私たち二人とも「旅」という特別感に飲み込まれ少しテンションが高かったのだろう。
なんだか今になって恥ずかしくなってきていしまった。
私がこの時間をどう埋めようかと考えているうちに目的の階層についた音が大きく響いた。
何も発さず二人でエレベーターから降りる。
エレベーターを待っていたであろう高年夫婦が私たちに柔らかく会釈をする。
私たちも小さな会釈で返す。
老夫婦はたがいに言葉を発していなかったが信頼と笑顔がそこにあったように思う。
なんだか無性に羨ましかった。
「沙雪?」
私を先導して歩いていたTAIが振り向いて私に声をかける。
こっちだよ、と言いたげに二手に分かれる通路の真ん中で右側を指さしている。
「ううん、なんでもない。」
私は何を聞かれるでもなくそう答えて静かにTAIの後ろへとついていく。
廊下はどこか洋風の館のようで、濃い茶色を基調として所々に花瓶や絵が飾られている。
なんだかそれこそホテルみたいだ。
同じような扉が続く中私たちの部屋を探す。
間違い探しのような時間。
「あった。」
思わず声が漏れた。
「そうだね。」
持っていた鍵を使いドアを開ける。
ガチャと鍵が回る音が聞こえる。
ドアノブは金属で冷たい空気をまとっていた。
ドアを開けると静かな風が抜ける。
「わぁ……」
部屋をのぞき込むと二人で言葉を失った。
すでに畳が顔をのぞかせていて視線の先には大きな障子と窓。
窓の近くには旅館によくある椅子と小さな机……確か広縁というんだった。
畳の上にあるちゃぶ台にはお菓子と急須、湯飲みが私たちのことを待っているよう。
この非日常感に吸い込まれてみたくなる。
「すっごい……!」
「ふふ、すごいね。」
横に立っているTAIの表情はなんだか私よりも喜んでいるように見えた。
私も旅館に泊まった回数は少なく新鮮で感動したがTAIにはきっとそれ以上の何かが彼の心を動かしているのかもしれない。
「上がっていいんだよね!?」
「うん。私たちの部屋だし。」
やった!と楽しそうにTAIは部屋に上がる。
彼の心を動かしたのは何なんだろう。
この旅館のいい雰囲気だろうか、それとも内装だろうか。
はたまたそれ以外の何かだろうか。
「わぁ、ねぇねぇ海が見えるよ!海!」
荷物を畳の上に乱雑に置きTAIは窓のほうへ一直線だ。
私に向かって早くおいでと言いたげに視線を向ける。
「海見える?よかったぁ。」
なんて言いながら、私も靴をぬぎ荷物を端に置く。
TAIが視線を向ける水平線には若干明るい太陽の色が残っていた。
藍色の中に滲んで、綺麗なグラデーションができている。
揺れる海面。
「綺麗……」
「本当に、そうだね。」
水平線に滲む太陽の欠片を二人で消えてしまうまで眺めていた。
真っ暗に包まれる窓の外を眺めながら私たちは畳の上で思い思いに過ごした。
夕飯は旅館のご飯を食べた。
部屋に持ってきてくれるシステムで、海鮮料理やすき焼きなどいろいろなものが出てくる。
普段は見慣れないものばかりでそのどれもが美味しい。
TAIはたくさんの品をおいしそうに頬張っていた。
その笑顔がとても可愛かった。
一回食べるのを忘れ見入ってしまうぐらいには。
美味しくお腹が膨れた後、お風呂に入ってこようという話になった。
部屋にもついているがせっかくだし大浴場に入ってくるとTAIがいい、私はその姿を見送った。
鍵を持ち歩くとなくしてしまいそうで怖いし私は部屋のお風呂をいただいて部屋で彼を待つことにした。
一人になると急に部屋が広く感じる。
もともと広いのだが楽しそうに笑顔で話し純粋な心で私を楽しませてくれる彼がいないからだろう。
彼を見ていると同い年なのに私が大人に近づきすぎたのか彼が童心を持っているのか、わからなくなる。
どっちでもいいしきっと高校生は大人と子供の真ん中だ。
特に私たち高校二年生は来年には成人を嫌でも迎える。
きっと法律的に子供な最後の時間。
もう二度と戻れることはない。
大切な時間とはわかっているがその時間が惜しいほど私は大人になれていない。
この時間が苦痛できっと生きていること自体が私には大分苦痛なのだ。
「あ~……この旅終わったら死んでるのかぁ。」
なんとなくそんな言葉を力なく口に出す。
夕飯後仲居さんに引いてもらった二人分の布団の上に倒れこむ。
死んでいるか死んでいないか、なんて知りようがない。
それは知っている。
柔らかい羽毛布団のふわふわとした感触。
仰向けになり天井に手をかざす。
運動をせず外に出ないから無駄に白い肌。
「死にたい、んだよな。私は。」
照明が眩しく私の瞳に突き刺さる。
声に出して死にたいか自分に問う。
結果、わからない。私にすら私のことはわからない。
死にたいそう思うと心の奥がざわつく。
ざらざらとした不快な感触だ。
のどが渇いてくるような苦しくて息が詰まるような、きっと私だけの感覚。
目をつむる。
何も見えない、見えないようにする。
「ただいまー……って眠い?何かあった?」
「あ……おかえり。ううん、なにもないよ。」
TAIが返ってきたことを聞きなれた声で確認する。
目を開け起き上がる。
浴衣姿のTAIが私の目に映る。
「お風呂、どうだった?」
なんだか話題をそらしたくて適当な話題を振る。
「めっちゃよかった!露天風呂とかもあって……海の波音が聞こえたし。」
「いいね、波音が聞こえる露天風呂かぁ。」
「沙雪は明日行っておいでよ!もう数日ここにいるんでしょ?」
「うん。ええっと一応一週間で取ってる、その前に帰ってこなくなるかもしれないけれど。」
冗談っぽく話の中に織り交ぜる。
この旅行はただの旅行ではない、どちらかというと家出や逃避行に近い何かなのだろう。
「そうだね。一週間か……」
TAIがまとう空気が変わった気がした。
柔らかなオーラが急に冷え切った。
悩んだように視線をずらしている。
「ねぇ、どうやって死ぬの?」
「それは、決めてる。」
彼の瞳から光が消えた。
照明の加減なのだろうがどことなく暗く苦しい雰囲気にのまれたよう。
「どうするの?沙雪が決めならどうだっていいけど。」
「……海。」
「入水?」
「うん、きっと夜明け近く……いや夜中なら人は居ないだろうし流されてしまえばいいよ。」
「それで、死ねるの?」
私は静かに頷いた。
もちろん試したこともその様子を見たこともそんなニュースを聞いたことすらない。
でも、この旅の終末はそうする予定だった。
「……わかった。」
彼はそう頷いた。
まだ夜は遅くなかったが明日のこともあるし早めに寝ようと話がまとまり、二人で布団にもぐりこんだ。
光のないTAIの瞳が私の中に焼き付いて離れない。
「ねぇ、なんで私と死んでくれるの?」
好奇心からの質問だった。
特に深い意味は持たないはずだった。
「うーん……沙雪のことが本当に心配で、本当に大好きだから。」
「え?」
ばっと彼のほうを振り向く。
寝る寸前の言葉だったのか彼からは返事が返ってこない。
小さな寝息が返事のように空気中に転がる。
「大好き、か。」
初めて出会ってから聞いた私への「好き」という単語。
彼はいつも発する言葉すべてに必要以上に熱を持たない人だ。
その言葉が真実かどうかはわからない。
からかわれてるのかもしれないし、恋愛面での言葉ではない可能性すらある。
それに縋る私も私だし本当に?と聞けない私はきっと臆病者だ。
でも、それでも、面と向かって言ってくれたことがうれしいなんて。
私は、
「幸せだなぁ……」
朝から長時間気を張っていたのか心地よい布団に抱かれ私は眠りの底へと沈んでいった。
次に目が覚めた時にはもう朝日が昇り切っていた。
窓側で寝ていた私にやわらかい日差しが差し込んで眩しい。
「あ、おはよ。」
「ん……おはよ。」
TAIのほうが先に起きていたようで目が合う。
ふかふかの布団から起き上がり一回伸びをする。
窓際の椅子に座りTAIはスマホをいじっている。
私も近くで充電していたスマホを手に取った。
電源をつけると朝日とはまた違う種類の眩しさが瞳を刺激する。
ロック画面に表示される時計は七時半を指していた。
ちょどいいぐらいに起きれたかな、とまだ眠たい目を擦る。
「今日はどこに行く予定?」
「んー……」
TAIからの期待の視線。
外を見るに今日も快晴のようだ。
やっぱり、屋外がいいかな。
見せたい場所があるし……
私が今日のプランを考えていると部屋のドアがノックされた音が響く。
「あ、はーい!」
返事をする。
昨日の夜のように仲居さんが朝食を運んできてくれていた。
ご飯にお味噌汁、煮物や和え物が乗った小さな小鉢がたくさん。
ハムエッグとオレンジジュース。
小さなお刺身の盛り合わせまでついている。
せっかくだから、と最初の一日は夕食も朝食も付けたプランにしたのは正解だったみたい。
「いただきます。」
すべてのものがおいしい。
家じゃ絶対に感じられないこの特別感が私は好きだ。
朝食を済ませ交代しながら着替えをすました。
またこの宿に戻ってくるから大きな荷物は置いておいて、肩掛け鞄だけを手に持つ。
「じゃあ、今日は山のほうへ行こうか。」
私がそう言って彼の手を引いた。
山、というのは大山のこと。
海の次は山、頑張れば一日ですべて回り切れるだろう。
でも私たちにそんな体力はないから分けて回ることにしたが正解だったようだ。
その証拠に今日は昨日よりさわやかな快晴。
「んー、夏って感じだね。」
外に出るなりTAIがそう口にする。
「そうだね。」
昨日より日照りは強くなく涼しい風が心地よい。
「山の中のどこへ行くの?」
「えっと、いろいろあるんだけど……」
頭の中に浮かんでいる私が好きな場所や人気がある場所を整理していく。
「夏だしあんまり虫がいないところがいいよね。」
そういって私は苦笑を浮かべる。
山ということもあって夏は虫が心配。
私が大好きな綺麗な泉に連れて行ってはみたいけれど、夏にあの山の中はなかなかチャレンジャーだろう。
本宮の泉という場所。
透き通る水と大きな木々が共存している神秘的な空間。
泉の中心近くに小さな東屋があってそこで過ごす時間はなんだかゆったりしていてお気に入り。
「確かに虫は嫌かも……俺もそんなに得意じゃないし。」
TAIもそういって苦笑の表情を浮かべていた。
これから山に行くんだし虫がどうこうと選り好んでいる場合ではないのだが、せっかくなら楽しめるところがいい。
「じゃあ、最初は牧場かな。」
「牧場?」
「うん、そうはいっても動物園と牧場の間みたいな……」
私がそういうと少しTAIは首をかしげている。
「ここで言うより見てもらったほうが早いかな。」
百聞は一見に如かず、こんなところで使っていい言葉なのかもわからないがきっとそう。
あの場所には私の思い出が詰まってる。
TAIは動物が苦手ってわけじゃなさそうだし連れて行くほうが早そうだ。
頼んでいたタクシーに乗り込み、今日は山へと昇っていく。
二日目の私たちの小さくて大きな旅の途中。
夏休みシーズンということもあり結構車通りが多い印象を受ける。
観光バスとも数回すれ違う。
「ショッピングモールだ!」
「ショッピングモールだね。」
「行きたいなぁ。」
窓に張り付いたように外を見ていたTAIがそんなことを口にする。
確かに大きなショッピングモールがあるが、こういう施設こそ見慣れているのかなと思っていた。
よくある、ゲームセンターやら書店やら映画館やらが入った商業施設。
だから雨が降ったり天候に恵まれなかった日に行く緊急プランとして用意していたのだけれど……
でもTAIが行きたいなら連れてこない選択肢はない。
私はこの旅で死ぬ以外にはTAIを楽しませることが目的なのだから。
「そう?じゃあ明日来ようか。」
「ほんと!?」
「うん、私もよく来てるし案内……になるかはわからないけど一緒に回ることならできるよ。」
「やった、ありがとう。」
TAIは嬉しそうにそう言って笑う。
この笑顔が見れるのはあと何回なのだろうか。
○○がある!と何度も何度も様々なもので繰り返す姿は小さな子供みたいだ。
私に弟妹はいなかったけれどもし年下の兄弟がいたら何度もこういう光景を目にしていたのかな。
同級生だけれどやっぱりTAIはどこか幼くてたまに驚くほど大人びていて息が詰まるほどの圧がある。
私はTAIのことを何も知らない。
こんなに幼くかわいい一面があるのは彼のもともとの性格だろうかそれとも彼の過去に何かがあったせいだろうか。
わからない。
知っている彼の大事な言葉は「俺には何もない」音声通話の奥で言ったそんな一文だけ。
どういうことなのだろう。
何も、ない……
私にはそうは見えなかった。
であったから何回もそう感じた。
手はあったかくて楽しそうに今もしゃべって興味深そうに景色を眺めて。
自分のことはまだ話してはくれないけれど何もないような空っぽな人間のようには見えなかった。
私は、私は彼を連れて死んでいいのだろうか?
ふとそんな疑問が頭に浮かんだ。
いや、でも本人から提案してきたんだし!と考えを振り切る。
今こんなことを聞いたところで困らせるだけだろう。
「沙雪、大丈夫?」
「あ、うん!大丈夫だよ。」
気づけば下を向いていたようでTAIが私の顔を覗き込んでいた。
「そろそろ到着するって!」
楽しそうな横顔が見える。
私も窓の外を覗く、すると先ほどまで見えていた田んぼや家宅ではなく緑色の森林が目に入る。
山の中敷かれたアスファルトと建てられた看板、たまに目の前を通り過ぎるホテルや寺などの建物。
ある場所でタクシーが止まる。
大きな看板には「大山トムソーヤ牧場」と書いてある。
急に現れる人工物。
タクシーから降りると土のにおいがする。
森の緑で溢れる鼻を突き抜けていく強い香り。
受付に立っているお兄さんに声をかける。
「えっと、高校生二人です。」
「高校生がお二人ですね。では合わせて2000円になります。」
せっかくだし私が出してしまおうと財布から千円札を二枚出す。
小さなトレイに置き、渡した。
「丁度お預かりします。こちらチケットです。」
「ありがとうございます。」
チケットを受け取りそばにいるはずのTAIを探すように周辺を見る。
あれ、いない。
TAIは私よりも身長が高めで立っていたら絶対に気づくはずなのに。
辺りをくまなく見渡す。
「あ、いた。」
入口の近くにある金魚鉢に向かってしゃがみ、中を覗き込んでいる彼の姿があった。
170以上はある大きくしっかりとした体を持った少年が幼稚園児のように金魚鉢を覗いている。
「ふふ、かわいい?」
私が後ろからそう問いかけると驚いたようにTAIは振り向く。
「うん、かわいい。」
彼の心は金魚に奪われたようで、水草が浮き少し濁っている鉢の中を見つめている。
よくあるガラスの金魚鉢ではなくて旅館とかに飾ってあるような大きな鉢の中で泳いでいる金魚。
透けていないこともあってなかなか目を凝らさなければ金魚を見つけることすら困難だ。
彼が楽しんでいるのだからずっとここにいても私に損はないけれど……
せっかく買ったし、と手に握ったチケットとにらめっこをする。
「チケットかったよ、そろそろ行こう?」
少し強引だったかな、などと思いつつ一枚チケットを渡す。
「ありがとう、うん、行こう。」
私からチケットを受け取りTAIは立ち上がる。
中継所のようにたっている建物の中に入ると沢山のお土産や動物のぬいぐるみが出迎えている。
「羊の餌……?」
レジの真横に並んでいる一つの商品にTAIが足を止めた。
その場所にはカラフルな半透明の小さなバケツにリンゴやキャベツ人参などが細く切られて入っている。
「そうそう、ここにはヤギや羊がいてこの餌をあげられるの。」
なんとも魅力的な商品だが、私には少しいい思い出がない。
でもキラキラと瞳を輝かせる彼に言い出せるわけが思いつかない。
それに迫力はあるが楽しい経験なのも間違いないのが確かだ。
「俺、買ってみる。」
何かの決意表明のように彼が言い青色のバケツを手に取った。
購入を済ませ中継所から出ると晴天の空が私たちを出迎える。
「あ、」
小さくTAIは呟いて足を止めた。
「どうしたの?」
彼から聞いたことのないような少し低い声。
私はどうしたものかと彼の表情を見ようとする。
楽しそうな声を上げて小さな子供が私たちの横を通り過ぎていく。
「もしかして、俺チケット代払ってない!?」
「へ……?」
なんだかとても重大なことのように放った言葉が響く。
「あー、大丈夫。私が払っておいたし。」
「だ、大丈夫じゃないよ!沙雪に払わせたままにするわけには……」
そんなことを言いながら彼は自分のカバンを漁ろうとする。
手に青いバケツを持ったまま。
「いいよ、大丈夫。いつもよくしてもらってるしお礼?みたいな。」
「お、お礼って言われても……!」
申し訳なさそうに眉を下げて私のことをTAIは見つめている。
「だからいいの。TAIはここに来るまでに飛行機のお金とか払ってるし。」
「昨日のお昼ご飯も出してもらったしさっきのタクシー代も……だから、ね?」
私は言葉を連ねてそう言う。
「わかった、ありがとう。」
「どういたしまして。」
TAIはそれ以上この話をつづけるでもなく身を引いた。
払ってもらったのは本当だしもうあと数日で海に沈む私にとっては2000円など大した出費ではない。
もちろん普段だったら財布にダメージが入るが今日は特別。
きっと死んでしまうから、ではなくてTAIと一緒にいるから何かしてあげたいと少し思ってしまうのだろう。
「じゃあ早速行こうか、羊とヤギがいるところ。」
私はそう言って彼の手を取る。
広い草原に柵で囲われてできたたくさんのエリア。
何回来てもなんだかワクワクしてしまう。
中心に伸びる大きな一本道、それを彩るように植わっている木々。
さわやかな風が通り抜けるたびに木々が揺れて音を出す。
その音は大きいけれど嫌な音じゃない。
ずーっと聞いていたいようなきれいな音。
「ヤギも羊もいっぱいいるね。」
「でしょ?ここは柵の中にも入れるけれど……入らないほうが餌はあげやすいかな。」
私がそう言った目線の先には餌のバケツを持ったまま入ってしまい羊とヤギが群がる小さな男の子。
近くにいるお兄さんらしき人物が一生懸命助け出そうとしている。
「わかった、ここからあげる。」
彼はそのままバケツから人参を取り出した。
その姿を見るや否や臭いでわかるのかそれともバケツを持つ人間は大体餌をくれる人、と認識されているのか。
大きな角を持った立派なヤギが我先にと近づいてくる。
やっぱりすごい圧だな……
何度見ても餌を自分のものにしようと欲しいと近寄ってくるヤギのオーラは強い。
私何度も餌をねだって買ってもらっていたけれど、結局怖くなってあんまりあげてないな。なんて昔の思い出を振り返ってしまう。
「どうぞ。」
TAIは一番に自分へと近づいた大きなヤギに人参を上げていた。
上手に餌をあげている。
「大きい角だね。」
「うん、そうだね。多分この群れのボス的な位置なのかも。」
「へえ、なんで?」
私が何となく発した言葉に彼は疑問を投げかける。
「まずこのオーラがすごいなぁって思ったのと、小さなヤギが寄ってこないでしょ?だから群れの中で強いのかなって……」
「なるほど……沙雪は物知りだね。」
「ありがとう。でもそんなんじゃないよ、本当は違うかもしれないし。」
そう言って私は笑う。
家族で来た時も家族でそんなことを考察していた気がする。
「うわっ。」
TAIの悲鳴と重なって、ガシャン、と大きな音がした。
その音はヤギがフェンスを蹴った音だった。
「ふふ、早く頂戴、だってさ。」
笑って私はそういう。
こういう催促も珍しくはない、それは初めてやられた側にとってはとてつもなく怖いことなのだが……この光景を何回も見たことがあるのと久しぶりに見る初めての反応になんだか笑ってしまう。
驚いたようで一瞬呆然としていた彼の時間が鵜こきだした。
「え、あ、なるほど。ちょっとまってね!」
少し待って!と言いながら今度はバケツの中からリンゴを取り出している。
「どうぞ!」
差し出されたリンゴのスライスをヤギは一瞬で頬張る。
私はTAIがヤギへ餌をあげているのを少し遠くから見守る。
「あれ、どうしたの?」
ほんの少し離れた私の場所に小さなヤギが近づいてきた。
まだ生まれて間もないのか弱いのか、体が小さく彼が餌をあげているヤギを気にしている様子。
「餌が欲しいのかなぁ……」
黒い色の毛が目立つまだ角も幼い姿。
「ごめんね、私餌持ってなくて。」
何も握っていない手のひらを子ヤギに見せる。
「ごめんね。」
私も餌買っておけばよかったかなぁと少し申し訳なくなる。
餌をボスに奪われてたりするのかな。
「沙雪!」
「どうしたの?」
自分の名前を呼ばれる。
「沙雪に近づいた子、おなかすいてる?」
「そうだね、すいてるかも。」
「じゃあ一つ人参持って行ってあげて!」
ガシャン、とまた催促の音が響く。
「い、いいの?」
「うん!俺がこのヤギひきつけてるから!」
必死な声色、なんだか笑ってしまう。
「ふふ、わかった。ありがとう。」
バケツから人参を一本引っ張り出す。
みずみずしい野菜の冷たさを感じる。
「よし、子ヤギちゃんおいで。」
人参を見せると楽しそうに駆け寄ってきた。
「いい子だね。」
「はい、どうぞ。」
人参をフェンスの近くまでもっていく。
フェンスぎりぎりまでヤギも近づき舌を伸ばして、人参に巻きつく。
「わ。」
急いで手を離すと満足そうにヤギが咀嚼している。
「いっぱい食べてね。」
独り言のようにそう呟く。
催促するように私のことをじっと見つめている。
「もうないの、ごめんね。」
また何も持ってない手のひらを見せると、今度はわかった。とでもいうように私のもとを離れていく。
一本でもあげられてよかった。
沢山のヤギが集合している群れに買っていく様子を見つめる。
「あ、無事食べてもらえたー?」
「うん、食べてくれたよ。ありがとう。」
「へへ、よかった。」
私のほうへTAIが駆け寄ってきた。
「俺はいろんな子にあげ終わったよ。途中から沢山寄ってきて大変だった。」
「沢山……?」
「うん、小さいのから大きいのまで寄ってきてさ。」
「そっか、大人気だったんだね。」
「そうかなぁ。」
確かに手にはもうバケツが握られていなかった。
沢山のヤギに囲まれるTAIも見てみたかったな、なんて思う。
「じゃあ次は……犬?」
道を挟んだ隣にある犬と触れ合えるコーナーに指をさす。
「犬、と会えるの?」
「うん、触れるよ。人懐っこくてかわいいの。」
「行ってみたい。」
「じゃあ、行こうか。」
脱走などがないように二重にされたフェンスのドアをくぐる。
大型犬から小型犬まで沢山の犬が敷地内に寝そべっている。
「かわいい……!触っていいの?」
「うん。あ、久しぶりだね。」
足元によって来るハスキー犬。
オオカミのような大きな体にふわっふわの長毛、きりっとした瞳。
「久しぶり~。」
しゃがんで目線を合わせる。
頭の上を撫でると嬉しそうに目を細める。
その姿で小さいころ私が持っていたハスキーの先入観が壊された。
「知り合い……犬?」
不思議そうな顔をしてTAIは私の隣にしゃがむ。」
「知り合いっていうか、よく私中学の時ぐらいまでよく来ててこの子がお気に入りだったんだ~。」
もふもふとした毛の感覚。
肌はあったっかくて生きているのが伝わる。
息遣いまで聞こえてくるような気がした。
彼も見よう見まねで撫でている。
二人分の触れ合いに動じずただただ目を細めて、気持ちよさそうだ。
「わー、わんちゃん!ママ、わんちゃんだよ!」
元気な声が後ろから聞こえる。
幼稚園生ぐらいの女の子とお母さんが来たようだった。
「おっきい!」
楽しそうに声を上げてハスキー犬の背中を撫でだす。
「お姉ちゃんたちもなでなでしてるの?」
「うん、そうだよ。優しくなでなでしようね。」
ハスキーは小さな子供からの触れ合いにも落ち着いた様子で対応している。
プロだな、と思いながら一緒に撫でることを提案した。
小さな女の子はふわふわの毛に感動したように撫でることを繰り返している。
「あの、ごめんなさい。急に。」
声がしたほうを振り向くと女の子のお母さんだろうか、女性が申し訳なさそうな顔をしていた。
「いえいえ。みんなで楽しく犬と触れられるのがここのいいところですから。」
これであっているのかわからないし、私は大丈夫ですよ、と伝えたかったんだけれど……
どうも私は言葉を人に向かって紡ぐことが苦手だ。
「ありがとうございます。」
「ママ!ママもなでなでしよ!」
女の子が女性に向かって手招きをする。
「わかった、一緒にね。」
なんだか微笑ましい光景が広がっている。
私には縁がないような、あったかい景色。
「あ、来てくれた。」
人懐っこい小型犬が私の足元に近づく。
撫でるとこの子も気持ちよさそうに目を細める。
「沙雪は人気だね。」
「そんなことはないと思うけれど。」
私はTAIの声にそう答える。
足元にぴったりとくっついて離れない小型犬を繰り返し撫でる。
なんだか、いつもより引っ付いてくる気がする。
基本的に地面に寝て誰かに撫でられるのを待つ犬が多い。
走り回っていたら危ないし触れ合いづらいのが理由なのかスタッフの方にそうしつけされているらしいことをたまに耳にしていた。
私も寝そべっていたり座っている子を撫でて触れ合いを楽しんでいる。
「……今日はよく来てくれるね。」
動物は何かを感じ取る、と都市伝説か本当か唱えられることがある。
もしかしたら私からいや私たちから何かを感じ取っているのだろうか。
独り言のようにつぶやいた言葉に反応するように、小さな高い鳴き声が私の耳に届いた。
「ん、そうだね。でも、何もないよ何もない。」
会話をするように言葉を続ける。
犬の言葉、なんて私にはわからないし、この子が私の何かを感じ取ってすり寄ってきたと確信しているわけでもない。
だけれど何故か私のことを心配してくれているような気がしていた。
「沙雪は犬と話せるの?」
「ううん、そういうわけじゃないよ。」
問いかけに首を横に振る。
私が撫でるのを少しやめるとすっと私のそばから消えていた。
「あ、行っちゃった。」
空気に向かってそう呟く。
「次はどこに行く?」
「んー……奥にはウサギとモルモットがいるよ。」
「いいね、行きたい。」
「じゃあ行こうか。」
私は立ち上がり空を見上げる。
相変わらず晴天のまま。
真っ白な入道雲が遠くに見える、夏の景色だ。
運動不足な体にずっとしゃがんでいたことが重なり筋肉が少し痛む。
「じゃあね。」
前にはまたね。と言って出た場所を今日は別れの言葉を呟くだけ。
私たちは犬の触れ合い場を後にした。
大きな一本道を突き抜けていった場所にある小屋、そこには小動物が暮らしている。
木造の小屋でドア代わりについている柵を押すとギィと音が鳴る。
スタッフであるお兄さんの力強く優しい声が響く元気になれる場所。
入るとTAIが瞳を輝かせる。
「モルモットだ!」
小屋の中心に置かれているのはモルモットの居場所。
「ベンチの上に置いてある、かごの中の子は撫でられますので撫でてあげてください。」
中心に置かれた大きなモルモットの場所は撫でるのが禁止になっている。
休憩している子たちが入っているから。
撫でられる子たちは中心を囲うように設置されたベンチの上に箱が並んで、触ってもいいよと張り紙がしてある。
私が説明するよりもここはプロのお兄さんに任せたほうがよさそうだ。
TAIは嬉しそうに一匹のモルモットを撫でる。
その様子を私は見守りながら、小屋の端に設置されているケースに目をやる。
チンチラが飼育されていて触ることもできないし起きていて動いてる姿を見ることも稀。
なんだか運試しのような感覚で見に来てしまう。
「今日は起きてる。」
灰色のもふもふとした小さな生き物がゲージの中に佇んでいる。
瞳も空いていてきょろきょろと周辺を眺めていた。
「チンチラ?」
「うん、ここに来たら毎回見るんだ。可愛くて。」
辺りをゆっくりと動く姿が愛おしく見える。
「沙雪って動物、大好きなんだね。」
「そうだね、好きだよ。TAIはそうじゃないの?」
私がそう問いかけると少しの間が空いた。
「俺も好き、だけど沙雪のそれとは多分違う。」
呟いた彼の言葉はなんだかふわふわしていた。
私が覗き込む横顔はいつもと違ってなんだか下を向いているよう。
「違う、かぁ。」
「俺は沙雪みたいに動物たちから何も感じ取れたことがないから。」
「どういう意味……?」
「なんて言ったらいいんだろう。俺自身もわかんないかも。」
彼は苦笑するような表情を浮かべていた。
「わからないでもいいんじゃないかな。動物は可愛いし自分の中で好き、その感情はきっと間違ってないと思うよ。」
「それでいいのかな。」
「いいよ。」
投げやりに聞こえちゃうかな、でも好きなものは好きで間違いはないから。
数学の問題と違って確立した答えは感情にはない。
答えなんてあるようでないんだから、自分の言葉を信じたもの勝ちだと思う。
チンチラにふと目をやると私たちの長い会話に待ちくたびれたのか目を閉じて寝てしまっている。
「寝ちゃった。」
「寝ちゃったね。」
二人で意味もなく言葉を交わす。
奥のほうにいたウサギも撫でて私たちは小屋を後にする。
山にあるからか日差しは強いけれど暑さと熱気はあまり感じない。
小屋のさらに奥にあるリクガメとカンガルーを眺めて二人で時の流れを忘れた。
丘の上にあるアスレチックのような遊具で私たちは年齢を忘れて遊んだ。
小さな子供の邪魔にならないようにしながら。
何年振りかわからないけれど滑り台で勢いをつけて、ターザンロープに必死につかまって手を真っ赤にして。
遊具の一番上から辺りを眺めて。
周囲の様子は気にせずに、高校生だということも来年には大人になるってこともすべて忘れて走り回った。
「あははっ、はしゃいだね。」
「そうだね。」
二人で息を切らして芝生に転がる。
夏空の下で遊ぶために着てきた服でもないのに走り回って、久々に走ったから心臓が飛び跳ねて息が切れ切れ。
それはTAIも同じようで大きな肩が何回も上下している。
ヤギの鳴き声、人々の声は小さく聞こえ隣にいる彼の息遣いだけが私に深く聞こえた。
「久しぶりに走ったかも。」
「私も、ほんと夏休みに入る前の体育ぶりだよ。」
互いに笑い声が漏れ出てくる。
彼は笑っている、きっと私も笑っている。
体を起こし、夏の涼やかな風を一生分浴びてどこかで鳴いている蝉の必死な声。
「おなかすいちゃった。ご飯にする?」
「うん、ご飯にしよ。」
立ち上がって服についた土やら草やらをはらう。
一番最初の中継所まで戻ればご飯が売っている場所につく。
スマホを見ると午後1時。
どれだけここで遊んでいたのだろうか。
頬に張り付く冷たい汗を手で拭った。
中継所に戻るって確認するとまだ昼食は売り切れていないことを確認し安堵する。
数グループが各自テーブルに腰かけて昼食をとっていた。
「何食べる?」
メニューを二人で覗く。
レジの奥側で店員さんが待っているのがわかる。
少し見られているのは緊張する。
カルビ丼にカレー、カツサンド、うどんなどいろいろなメニューが写真付きで壁に貼ってある。
厨房の方向から美味しそうな香りが漂う。
「じゃあ、俺はカレーで。」
「私はカツサンドにしようかな。」
「わかった、じゃあ席とってて。注文してくる。」
TAIに言われるがまま私は一番隅の席に座った。
四人掛けのテーブル席。
背もたれのある椅子にもたれかかる。
昨日もたくさん歩いたしちょっと疲れちゃった。
彼といれば楽しいことばっかりで忘れてしまうけれど、旅行は疲れるし後々が苦しくなることだってある。
でもやりたいことをこうやってやれてるのも青春の一種かもしれない。
そう思うと悪くない気がしてくる。
目の前の子供連れや初老のおじいさんとお孫さんらしき小さな子供。
いろいろな人が来てるな、とつい目が行ってしまう。
時刻耳じゃないし詳しい話が聞こえてくるわけでもないけれど笑顔で笑ってて、稀にあきれたような顔を大人たちはするけれどどこか幸せそうだ。
私には何が足りないんだろう。
私も誰かと笑いあいたくて幸せになりたくて、でもそれが言えなくて。
用意された私の道にはきっとこんなありふれて特別な幸せはやってこない。
こうやって変な考え方をするのも原因、私には幸せになりたいと行動する力も誰かの幸せのために働こうとする気持ちも単に足りない。
いじめられてから、無視されてから、大人たちに適当にあしらわれてから。
みんなそうなのかなって思うようになって、自分以外の人が妙に気になって。
気づけば眺めて羨んでいる。
幸せを何も知らずに笑う純粋な瞳を、そして素直な表情を。
「沙雪、おまたせ。」
私のほうを見つめる目、茶色っけが強い濃い瞳。
そこに私が映っている。
素直に動いてる口角、ころころと変わる表情。
「沙雪?」
純粋な心に子供のような軽い口調。
私は、私はTAIのことが好きで、好きだけど。
きっと、彼のことを私はずっと羨んでいる。
中身が何もないと自分のことを言っているけれど私はそれが羨ましい。
失礼なことを言っているとは思う、でも自分と違う瞳が心が表情が全てキラキラ私の中で輝いてるから。
「……ううん、なんでもない。ありがと。」
私はお礼を言い前の椅子を彼に座るよう勧めた。
彼の手に握られたトレーにはカレーが乗っていて、私にはカツサンドを渡してくれた。
さっき気づいたことは言葉の通り墓場まで持っていこう。
第一ここで話すような内容ではない。
「いただきます。」
心に決めて私はサンドを齧った。
拭き取りきれなかった汗が伝ってなんだかしょっぱかった。
TAIはこれまで通り楽しそうに食事をしている。
「ごちそうさまでした。じゃあお金払うから_」
私たちは食事を終え、私は買ったときに代替わりしてもらったお金を渡そうとした。
「ううん、俺が払ったから大丈夫。」
「え、でも私が食べた分……」
「いいの!俺、入園料おごってもらっちゃってるし。それに俺なりの恩返し。」
彼は格好をつけるようにそう言った。
まるでチケット代で押し問答していた先ほどみたいだ。
「恩返し?」
恩返しの意味が分からずオウム返しの質問をする。
「うん、だって俺が急に来るっていっても嫌な顔せずこうやって一緒にいるし。」
「それは、だって、」
「心中相手を探すため、でしょ?」
その言葉に私はうなづくことしかできない。
人が減り食事をしているのは私たちだけ、そして目にもとまらぬような隅っこで二人。
彼にはよく子供のような言動が目立ち、何も知らないかのような純粋な心を持っている。
これはきっと彼の個性。
彼のこの圧も確信をつくしゃべり方が怖くなるようなまっすぐに見つめてくる瞳が彼がただの少年ではないことを主張してくる。
「でも、俺さ。嬉しかったから、嬉しいことをしてもらってお礼をしないのはカッコ悪いかなって。」
「なにが嬉しかったの……?」
口から小さく漏れ出した言葉。
何が嬉しかったのだろうか、心中を了承してもらえたこと?それとも私に会えたこと?ここに連れてきたこと?逃避行の旅を楽しんでいること?何がこの少年を喜ばしたの?嬉しくさせたの?
「_あ、ソフトクリームある!」
「え、」
数秒間の沈黙の間にTAIは一度考えるように目を伏せた。
そのあと開いた瞳は子供っぽくソフトクリームのメニューに目を輝かせている。
「ごめん、俺から言っといてこれってのはきっと沙雪は了承してくれないけど。俺もわかんないから、今日の夜までには考えとく!」
「う、うん。わかった。」
明るいトーンで吐かれた言葉。
何を考えていたのだろう。
無理に聞きたくはないけれど私の心には靄がかかった気がした。
彼が嬉しいのもきっと嘘じゃない、格好つけたかったのも嘘じゃない、そして嬉しい理由がわからないのも嘘じゃない。
ネットで知り合ったころからTAIの言葉は軽かったり重かったり、受け取る側が疲れてしまうような上下が激しいものだった。
でも彼の言葉に嘘がないことは私が一番知っている。
薄っぺらい一言にも意味があることを知っている、それが私の知るTAI。
だったら、私は何も言えない。
TAIのことをただ羨み、好きという感情さえもしかしたらただの羨みだったのかもしれない。
それが本当なら、もし本当なら、私には彼と死ぬ権利も彼のことに首を突っ込む権利もない。
ただただ、一緒に死ぬことしかできない。
「ソフトクリームは、もう少し上にある場所で食べたほうがいいかも。」
「もう少し上?」
気持ちを切り替えなきゃ、私はこの旅ではガイドなんだから。
楽しんで、もらわなきゃ。
「うん、もう少し山を登ったところにある場所なんだけど。景色もいいしおいしい乳製品がたくさんあるんだよ。」
「いいね、行ってみたい。」
「じゃあ次の目的地はそこだね。」
次の行き場を決め、私たちは席を離れる。
私は靄がかかったこの気持ちが言葉が間違っても彼に届かないようにそっと蓋をした。
太陽が高くなり、外に出ると熱気を感じる。
快晴と呼べた空は夏の強い日差しでコーティングされてしまった。
山とはいえ蒸し暑い空気が漂っている。
中継所にはエアコンがついていたから猶更強く暑さを感じた。
日差しを手で精いっぱいよけながらまだギリギリ屋根がある場所でタクシーが来るのを待機する。
「あっつい……」
「暑いね。」
「夏に来るんじゃなかったぁ……」
「あはは、そうかも。今日は早めに旅館に戻る?海に足をつけたら気持ちいいかも。」
「それ名案。きっと夜中の海は寒くて苦しいけどこの日差しの中入ったら涼しいだろうなぁ。」
「じゃあ、次の場所行ったら今日は旅館に戻りだね。」
「うん、そうしよ。」
タクシーを頼んだけれど来るまでの数十分間、彼はずっと暑さを憂いていた。
あまり暑いのが得意じゃないのだろうか。
薄い自分の服を首元でぱたぱたとさせて顔には汗が浮かんでいた。
このままでは熱中症にでもなってしまうから近くの自販機で水を買い、渡す。
彼は生き返る~と笑いながら一口飲んだ後は首元や顔にペットボトルをやり冷やしていた。
買ったときのペットボトルについていた水滴が私の手のひらの中でまだ張り付く。
忘れたくない思い出のようにじわっとしみこんでいく。
タクシーが来てから乗り込み私は目的地を小声で伝える。
もう小声で言う必要性などどこにもないのだがTAIにはついてから伝えたいという私の自己満足だ。
運転してくれたおじいさん運転手は、はいわかりましたよ。と静かに頷いてくれた。
タクシーの中はエアコンがきき、空調が整っている。
ほんの少しの移動なのだが疲れたようで彼は眠ってしまった。
その寝顔を盗撮だとわかっていながら一枚撮った。
私が墓場まで持っていく物が増えちゃったな、と一人で苦笑する。
だんだん耳がキーンと鳴ってくる、だいぶ高いところまで来たなと窓の外を覗いた。
見える景色は似たような森ばかりになっていく。
家族で来た景色が鮮明によみがえる。
記憶に色がついて感触がついて声がついた。
「つきましたよ。」
「ありがとうございます。」
到着すると大きな駐車場が広がっておりさっき見た森はどこへやら。
隣に座り寝ているTAIの肩を揺さぶる。
「ん……沙雪……?」
「ついたよ。」
「どこに……?」
寝ぼけているのか瞼をこすりながら彼は私のことを見つめる。
「ソフトクリームの場所!」
まだ地名も言っていなかったしどういっていいか困りながら私はそう伝える。
おじいさん運転手はくすっと笑っていた。
「ソフトクリーム!ついたの!?」
「うん、ついたよ降りよ?」
「わかった。」
ソフトクリーム、という名前で思い出したのか急にテンションが元通り……いや二倍ぐらいにはなっていると思う。
お金のやり取りを終え、タクシーから降りる。
「元気のいい弟さんだねぇ。」
「そ、そうですかね。」
なんだか姉弟と勘違いされしまったよう。
昨日のカップルと勘違いされるよりはましだけれど、嬉しそうに言われるものだから否定できなかった。
「では、楽しんで。」
「はい。ありがとうございます。」
私は運転手さんに一礼し見送った。
「沙雪、ここでソフトクリームが食べられるの?」
「ううん、少し坂を上った先。」
私たちがいるのは駐車場、駐車場から坂を上った先に最高の景色と販売所がある。
「まだ紹介してなったよね、ここはみるくの里。」
「みるく……?」
「うん、みるくの里。大きな広場があって上も下もいい景色が見れるんだよ。「」
「いい景色_わっ」
景色、と聞いて後ろを振り向いたTAIが大きな声を上げる。
「どうしたの?」
「大山近い!」
「確かに近いよね、というかもう登ってはいるんだけど。」
山の山頂側を見上げるとすぐそこに山頂があるかのよう、はっきりと濃い緑で覆われた山面が見える。
「ふふ、もっといい景色が見えるからね。もう少しだけ坂があるけれど登れる?」
「まだまだ歩けるよ!大丈夫!」
ニコニコの笑顔が私に向けられる。
彼もとても歩いて走っていたはずなのにまだ元気そうだ。
「あれだけ走ったのに元気だね、部活運動部とかなの?」
「ううん、帰宅部!だけど寝たからね、元気になる。」
「そっか。寝たから……」
なんだか納得してしまいそうになる。
小さな子供なら寝たら全回復、なんてよく聞く話だけれど。
高校二年生男子ってこうなのかな……
「ふふっ。」
「何笑ってるの?」
「かわいいなって。」
「え。」
私が思ったことをそのまま口に出すと予想外だったのかTAIは固まってしまった。
「か、かわいい……?」
「うん。かわいいなって思っちゃった。」
そう言ってまた笑いがこぼれる。
「冗談よして!」
「冗談じゃないよ~」
私は彼が柄になく照れているのをこれでもかと堪能する。
赤く染まった頬は綺麗で整った顔立ちから髪を伸ばせば美少女にも彼の姿が私の瞳に映る気がする。
ざわざわと周囲の人の声が響く。
立派な観光地だからか駐車場にある車の中には他県ナンバーが多くあった。
「からかっちゃったね、ごめん。」
「……もう口きかない。」
「え、それは悲しいなぁ。これからソフトクリーム売ってる場所に行くのに。」
私は彼をなだめるようにそしてまたからかうようにそう言った。
「わかった、でももうしないって誓って。」
「んー誓うのは厳しいかも。」
「え。」
「わかった、誓います。」
まるでキャラクターのように彼の表情は変わった。
怒ったり笑ったり創作物の登場人物のよう。
もう少し珍しく照れた彼のことをからかいたかったがまずはソフトクリームが優先だ。
冗談っぽく誓いを立てた。
すると彼は満足したように一つ大きくうなづいた。
コンクリートの坂を二人で登る、飼い犬と思われる小型犬がリードにつながれ私たちより早く坂を上っていく。
リードの先には私たちと同じぐらいの少女が楽し気に犬と走っている。
長い髪をポニーテールにまとめ、笑顔が太陽に負けずまぶしい。
私たちは熱気のたまったコンクリートをただひたすらに歩いた。
ひたすらに、といっても大幅な距離ではなく100メートルほどだ。
登りきると大きな草原が見える。
草原の反対側には販売店が立っており、道の隅やベンチで何人もの人がソフトクリームを食べていた。
「わぁ……いい景色。」
TAIは先に販売店より草原から続く景色に目が行ったようだった。
広い草原、その奥に見えるのは街の景色、今日は天気がいいからその奥の弓ヶ浜半島や海まで一望できる。
私は夢みなとタワーからの景色も好きだけれどこの壮大な自然を感じられる景色が私は一番好きだ。
息を吸い込めば夏の照った太陽のこびりつくような暑さと草原に茂る芝生の青い香りが肺の中に広がる。
雲より高い場所に来たんじゃないかと錯覚するような少し霞んで遠くに見える街のにぎやかさ、水平線が見えないほど大きく広がる海、永遠と奥に続いていくような砂浜。
山も海も街も全部見えて全部感じれる、この街が好き。
「ほんと、いい景色だよね。」
「うん、綺麗。」
瞳に何が映っているのだろう、輝いて何かが彼の心に刺さった。
「……これが、いままで行ってきた場所が沙雪を育てた場所なんだね。」
「育てた、かぁ。」
想像の斜め上を行くような彼がつぶやいた言葉。
確かに小さなころからよく言っていた場所でこれでもかというほど思い出が意味がしまってある。
簡単には取り出せないけど簡単には削除できない特別なファイルに。
「うん、そうなのかもね。」
「だから、俺も好き。」
彼はそう言って柔らかく笑った。
私が見れるのは横顔だけだけれどふにゃっとした優しい顔。
「じゃあ、ソフトクリーム買おうか。」
「やった!」
「ここにある今列ができてるところに並べば買えるけど……」
そう言って外側に設置してあるソフトクリーム専用の販売場を見る。
長い列ができていて忙しそうだ。
「_まず、販売店の中見てみる?」
「うん!」
中に入るとクーラーの入った涼しい店内。
人工的な風が私たちの頬をかすめる。
意外と中に人はおらず、たくさんのお土産用のお菓子やちょっとしたグッズが並んでいる。
どこを見渡してもそればかりだ。
牛のグッズや地域で大人気の牛乳を使ったお菓子や乳製品、象った文房具なんてものもある。
「スピードくじ……」
ある場所で私は歩みを止める。
それは外れなしで確実に牛のぬいぐるみがゲットできるというくじだった。
スピードくじ、意外と聞いたことのない人もいるかもしれない。
私もこの場所で正式名称を知った。
大きな空気で膨らませた透明なバルーンの中に風の流れがあり、それらに流されるようにくじがまっている。
ここではなく、ほかの場所でチャレンジしたことがあったが強い風とそれに翻弄される紙製のくじの相性でなかなかとりづらい。
「沙雪、やりたいの?」
「んー……小さいころからのあこがれではあったかな、ぬいぐるみが当たるし。」
スピードくじの機械が置いてある隣には景品のぬいぐるみが積み重なっている。
もちもちとした素材でプラスチックの光を反射する瞳がきゅるんとこちらを見ている。
愛おしい白黒模様のホルスタイン牛のぬいぐるみ。
何等かで、ぬいぐるみの大きさが変わる。
一番下は両掌ぐらい、一等へと上がるにつれだんだんサイズ感が大きくなる。
一等は抱えて持ち運ばなきゃいけないほどの大きさがある。
「じゃあ引いたらいいんじゃない?もう自分のお金なんだし。」
「それも、そっか。」
今は値上がりして1000円を超える値段が書いてあるが私が小さなときは700円程度だったように思う。
それでも大金だからと私がやりたいといっても親が首を縦に振ることは無かった。
でも自分のお金が今はある。
どうせ死んでしまうんだ、ここに来るのはこれが最後。
せっかく下したお金はまだ半分も減っていなかった。
「じゃあ、引いてこようかな。TAIはどうする?何か買うの?」
「俺もせっかくだし。」
その言葉になんだかうれしくなる。
店員さんに伝えくじを引くためにお金を渡した。
「どちらからお引きになりますか?」
二人で目を合わせる。
「じゃあ、俺から。」
目を合わせた時間は一秒もなかった。
「俺一等とってくる!」
自信ありげに彼は宣言する。
「がんばって!」
くじなんて運なんだから頑張るもなにもない気がするのだが、私も応援の言葉を口にした。
彼は思いっきり空気の流れの中に手を入れる。
「よいしょ!」
何度も何度も漂ってくるくじを取ろうと手を握るのだが逃げられてしまう。
宙に舞い、一回転したくじがなんだか煽っているよに感じ面白い絵面へと変わっている気がする。
やっとの思いで彼はくじを一枚握りしめた。
離さないように丁寧にこぶしを握ったまま彼は空気の流れから手を引いた。
「どうぞ、開けて確認してください。」
にこやかに笑う店員の言葉。
彼は頷き、丁寧につなぎ目をめくった。
そこには一番下の番号が書かれていた。
「あっ……」
なんとも互いに声にならない声が漏れる。
「よし、沙雪、後を頼んだ!」
「ええっ、う、うん!」
次は君だよ、と言わんばかりに私の背中をTAIが押す。
いざ機械を前にするとなんだか怖いなと感じてしまう。
私は何も言わず無言で腕を中に入れる。
ゴーゴーと風が吹き荒れ私の腕にまとわりつく。
嵐の中央に入ってしまったよう。
「紗雪!くじ掴んで!」
「わ、分かってる!!」
威勢よく返事は返すものの掴もうと手を開いて閉じる度何も掴めていないのが身に染みる。
風を掴みふっと指の間から消えてしまう。
掴んだ時に同時に握り込む手のひらが爪に押され痛んだ。
「えいっ!」
まるでどうにでもなれと願うように私は目を瞑り、風の流れと冷たさを感じながら手を握った。
すると手の中に何かが収まったような感覚、小さくてくしゃっと音が鳴る。
「わ、掴んだ!紗雪!」
「うん、そうだね。」
掴んだ私よりTAIが喜ぶ声。
くじを離さないように気をつけながらそっと風の流れから抜ける。
外の少し湿った空気に触れた。
くじは軽く握りつぶしてしまっていたが破れてはなさそう。
所々、しわができている。
「さ、紗雪……」
「わかってる、行くよ……!」
私たちに緊張の糸が張る。
ただのくじで運試しで、良い等が出たからと言って同じぬいぐるみなわけだし……
それでも今は大事なことで、私たちの瞳に映る全てだ。
繋ぎ目に指を引っ掛ける。
心の中で一息つき、めくる。
「……あら。」
沈黙を破ったのは確認した私でもTAIでもなく、一緒に居た店員さんだった。
私のめくった番号を見てニコニコしている。
その一声を合図に私達も緊張が抜ける。
「お揃い、だね。」
「ふふ、そうだね。」
書いてあった番号はTAIと一緒。
要するに、1番下の賞品。
店員さんに促されて、こちらを見つめるぬいぐるみから1つ選ぶ。
彼はぱっと1つのぬいぐるみを掴む。
私はなんだか悩んでしまう。
光に反射しキラキラと見つめるぬいぐるみの瞳。
どれも同じはずだけど違う気がする。
こっちを見てる子、後ろ向いてる子……一括りにぬいぐるみと言ってもこのコーナーだけで個性が見えてどうも選べない。
視線を左右に揺らしどの子にするか、考える。
「あっ……」
そのうちに目が合う。
手が伸びる。
きっと、私がお迎えしたい子。
隅っこにいて、でもこちらを見つめて、黒いプラスチックの瞳に反射する輝き。
掴むと大福みたいに柔らかい感触。
さっきのくじとは真反対だ。
少し強めに握るとぎゅーっと指が沈んでいく。
サラサラしていてふわふわしていて両手に収まるサイズ感だけれど……思いっきりぎゅってしたい……!!!
そんな気持ちを堪えて、彼の方に向き直る。
「その子にしたの?」
「うん。」
私はそう言って彼のほうへとぬいぐるみの顔を向ける。
「かわいい、沙雪に似て。」
「えっ、それってどういう__!」
さらっと放たれた言葉に驚いてしまう。
深堀できないかと言葉を探す。
「沙雪の牛さん、初めまして。」
私が紡ごうとした言葉を覆い隠すようにTAIが言葉をつないだ。
それも、私のぬいぐるみの口に彼のぬいぐるみの口が重なって。
「……え。」
口から漏れ出てきたのはそんな不甲斐ない言葉だった。
TAIの表情を見るといたずらに笑っている。
顔が熱くなるのを感じる。
ただでさえ暑いのに。
「沙雪、照れてる?」
私の顔を覗き込む彼。
「う、うるさい。ちょっと、びっくりしただけだし……」
こちらを見つめる視線がどうにも居心地が悪い。
嫌だったわけじゃないんだけど、どうして急にそんなことができるのだろうか。
だってあれは、
「えへへ、そっかぁ。」
あれは、無自覚じゃなくて。
純情なTAIの感情じゃなくて、きっと確信犯だ。
私の顔を覗き込む瞳とニヤッと笑う口元。
今の状況を全力で楽しんでいるよう。
私が拗ねたように視線をそらしぬいぐるみを抱え、下を向く。
アスファルトには私の影が落ち、濃い色で染める。
隙間から出てきた雑草が鮮やかな色で上を向いていた。
「もー……沙雪、拗ねないでよー!」
駄々をこねるような言葉が頭上から聞こえる。
なんだかいつもの調子で返事をしたら負けのような気がして言葉を飲み込む。
「ソフトクリーム、沙雪の分も買ってくるから……俺のぬいぐるみ持っててくれる?」
「わかった。」
彼の言葉に頷く。
そうだ、ここにはソフトクリームを食べに来たんだった。
さすがに拗ね続けるのは子供っぽいし……
彼からぬいぐるみを受け取る。
「よし、じゃあ沙雪と待っててね。」
牛のぬいぐるみにやわらかい視線が向けられる。
先程まで彼の手の中で握られていたのか体温が染みついて暖かい。
左手に持った私の牛と右手に持ったTAIの牛。
じーっと見つめる。
すると違いが分かる気がする。
「ふふっ、あなたは少し目が離れてるかな?」
私のぬいぐるみよりTAIのぬいぐるみのほうが表情が賑やかに見える。
まるで私たちみたい。
「ねえ、さっきの……キス、だよね?」
二つのぬいぐるみを抱えそんなことを呟く。
誰にも聞こえない声で。
目の前に広がる大草原に響く人々の声が大きく聞こえる。
キャッチボールをする親子、シャボン玉を吹いて目を輝かせる小さな女の子。
バトミントンの羽が遠くに飛び、友達らしき人に飛ぶ「おーい、ちゃんとしろよー!」という声。
そういいながらも声も表情も楽しそうだ。
レジャーシートを広げ鬼ごっこをして遊ぶ弟妹を見つめる母親と姉らしき人。
隣のベンチで風景を眺め手にソフトクリームを持つカップル。
楽しそうな人々の声と情景、全てを感じる。
「いろいろな人生が見えてくるね。」
「ここが、きっとみんなの大事な場所。」
手の上にいるぬいぐるみから視線を感じた、そんな気がした。
「わかんない?わからなくても大丈夫。」
「みんなの笑顔から見えてくる人生がきれいだなって、そうやって考えるのが私は好きだから。」
ぬいぐるみに微笑みかける。
微笑みも声も何も返ってはこない。
プラスチックの黒い瞳が私のことを反射する。
「沙雪、お待たせ。」
「ありがと。」
声に振り向くと両手にソフトクリーム、脇に財布を抱えてTAIが立っていた。
持ってあげなきゃ、と思いぬいぐるみをいったん置き、一つソフトクリームを受け取る。
鼻腔を抜ける甘い香りとコーンの香ばしさ。
「溶ける前に食べちゃおっか。」
私の声を待っていたのか否か、彼は私の言葉を合図に一口食べる。
大きく口を開き、気が付けばソフトクリームが半分ぐらいに減っている。
「食べないの?溶けちゃうよ?」
口の端にクリームをつけたまま私のほうを彼は見つめる。
「ううん、食べるよ。」
TAIぐらい思い切っては食べられないけれど……
口を開け、ソフトクリームを口に入れる。
「ん、おいしい。」
「おいしいよね!」
私の言葉に彼が反応する。
口に入るとそっと溶けていくソフトクリーム。
甘いバニラの香りと濃厚なミルク。
私が初めて食べた時から変わらず、ずーっとおいしい。
彼は楽しそうにパクパクと口に運ぶ。
空気の熱にさらされ溶けかけてくる様子を見て私も少し焦りながら口に運ぶ。
コーンを齧るとパリッと割れる。
噛むたびにサクサクと音が鳴る。
溶けかけてジュースのようになりかけたアイスを最後のコーンと一緒に口に放り込んだ。
アイスだけじゃなくて夏の空気を思いっきり吸い込んだ気がした。
青い緑の味。
夏の土のにおい、芝生のにおい。
「おいしかった~!いろんないいところ知ってるんだね。」
「うん。まあ、ずっとここにいるし。」
私はどう答えたらいいかわからず当たり障りのないことを返す。
家族で来たとか幼稚園の時遠足で沢山いったことがあるとか。
ほかにも山ほど理由があるけど、それでは言い訳のような気がして。
「そっか。沙雪の思い出の場所たち?」
「……うん。思い出で大好きな場所、かな。」
そう答えた私の表情はどうなっているのだろうか。
笑っているのかさみしいのかどこかの思い出に思いを馳せているのか。
自分でもわからない。
「そっか、いいね。」
彼の表情が答えなような気がした。
やわらかい笑顔が彼の表情を覆う。
偽物じゃない本物のふわっとした優しい顔。
「あっ、ソフトクリームのお金。」
「え、今それ言う?」
「だって、忘れないうちにしなきゃ。」
なんだかいい雰囲気やロマンチックと言われればそうだったような気もする。
でも、また払わせてしまうのに罪悪感がありそれが勝ってしまった。
「いいよ。俺が払ったのもついでだし。」
「ううん。さすがに今回ばかりは私が気にしちゃうから。」
そういいながら小銭を財布からあさる。
カチャカチャと小銭同士がすりあう音。
金額分を握り、そっと彼に手渡す。
「あ、ありがと。」
彼の手が熱い気がした。
「よし、じゃあ目的は達成したし今日は旅館に戻ろうか。」
互いの体調や心中までのコンディションを心配し今日は帰ろうと打診をする。
私の言葉に彼は頷いた。
「俺のぬいぐるみどっちだったっけ……」
「あー……えっと、待ってね。」
どっちの手に持っているかで見分けていたのだがすっかり手を放しベンチに置いていたからわからない。
じーっと二つのぬいぐるみを交互に見る。
「よし、君がTAIのだね。」
右側に置いてあった子を掴んで彼に渡す。
「よくわかるな、俺わかんないや。」
「ふふ、私も完全にわかるわけじゃないよ。」
彼は少し困ったように渡されたぬいぐるみと私のほうへ残ったぬいぐるみを見つめていた。
「さっき見てた時に気づいた特徴を照らし合わせただけだよ。」
私はそう言って笑う。
実際はその特徴とほんの少しの勘なのだけど。
「すごいね。」
「TAIも頑張れば、見分けれるかもよ?」
「えー、うーん……」
もう一回彼はぬいぐるみを見る。
「やっぱり俺にはわかんないや。」
そう言って彼は苦笑いを顔に浮かべた。
タクシーを呼び、旅館へと帰路につく。
到着した後、一度荷物やぬいぐるみを置くために部屋へ戻り、タオルを数枚持ち外へ出た。
昨日と違い、日が高い時間だからか砂浜には人の姿が多くあった。
海岸線はレジャーシートやテントによりカラフルに染められ、人々の水着や浮き輪で水面も賑やかだ。
「海、ちょっと気になってたけど。人が多いかな。」
「ううん、人が多いところから少し離れれば大丈夫だよ。足をつけるだけだし。」
私はそう言って彼の手を引いた。
山の中とはまた違う熱気で囲われている。
海面に反射する直射日光が照りつけて痛みすら覚える。
海に面した道を二人で歩き、スニーカーを脱ぎ片手に靴を片手に片方の手は彼の手を握る。
「もう少しだけど歩ける?」
「歩けるよ、大丈夫。」
私の言葉に彼が反応する。
200mほど歩くと人混みがなくなり、波の満ち引きする音だけが鮮明に聞こえた。
「ここ?」
「うん、ここ。静かでしょ?」
「静かだね。」
砂浜の視界に入るところに靴とタオルを置く。
消波ブロックに大きな波が当たる。
水しぶきがパラパラと私たちに降り注ぐ。
砂浜にあたる足裏が焼けるように熱い。
日光を含んだ砂がくっつき離れない。
砂浜から逃げるように海へと足を進める。
足元が水を含んだ砂になり、ひんやりと熱が取れていくのを感じる。
波が押し寄せ水がかかる。
冷たい。
夏の涼しさが足を伝う。
「つっめた!」
はしゃぐような彼の声が耳元で響いた。
「冷たいね。ほんとに。」
足元まで来た水を手で少しすくう。
ベタベタと手に張り付く。
強い海水の匂いが鼻をかすめる。
海風が私たちに当たり通り過ぎ、夏を空中に揺蕩わせた。
ばしゃっ。
大きな音が海面に響いた。
「ふふっ、何してるの?」
私が音のした彼のほうを向くと、彼は水をすくっては水面に投げていた。
「えっと、」
「よいしょ!」
彼が言葉に詰まったのを見届けず、私は彼に向かて水をかける。
「うわっ。」
驚いたように言葉を放ち、彼は水しぶきを被る。
「油断した?」
「……ちょっどだけ。」
私が仕返しのように笑うと、水で濡れたまま彼は視線を合わせなかった。
なんとなく哀愁が漂う表情にいたたまれなくなる。
もしかして私は彼にとって嫌なことをしてしまったのではないだろうか。
どうにかして謝らなければと言葉を探した。
「あ、えっと。驚かせたかっただけで__!」
「よし、かかった!」
「え、」
下に向いていた視線が上がったかと思うと目の前が水しぶきでおおわれる。
「わっ。」
どうにか水を腕で受け止めようとするも間に合わず、海水が髪を濡らした。
用意していた服も水を含み、ずっしりと重くなる。
冷たい水が頬の熱を分解していく。
涙のように顔を伝った。
「ふふっ、やられちゃった。」
「どう?俺の演技力。」
「すごいよ、騙されちゃった。」
人の少ない海岸線に私たちの笑い声が響いた。
水をかけてごめんね。と互いに誤り笑って終わり……
とはいかず、簡単にむきになってしまった17歳の少年と少女は何度も互いに水をかけ。
歩き疲れていたはずなのに海と砂浜の境界線を走り回った。
砂も海面もキラキラと輝いて、網膜を刺激した。
気づけば少し太陽が傾き、私たちを見下ろしている。
互いに息が切れてしまい、濡れて重くなった服を纏いながら砂浜に座り込む。
強い日差しが肌にあたり、海水が不気味なほどに渇き皮膚が張る。
何も言わずに見つめあう。
そしてたまに笑いあう。
服がある程度渇き、歩ける体力が戻るまで私たちの間に言葉はなかった。
ただ、互いが目の前にいることが肩で息をしながら汗と海水で濡れながら見つめあえることが、幸せでしょうがなかった。
知らぬ間に過ぎていった暑さに苦しみ自然を恨むいつかの夏より、今日の輝く太陽と暑くて仕方がないのに楽しくて笑ってる、今の夏が幸せだ。
「そろそろ戻ろうか。」
「うん。まだ日が落ちる前だけどお風呂入りたいなぁ。」
「いいね!今日こそ沙雪に露天風呂入ってもらわなくちゃ。」
波打ち際から離れ、アスファルトの上を二人で歩く。
柄にもなく遊んでしまった、と自分自身に向けて少し苦笑する。
できるだけ払ったけど砂粒がついたりしているだろう、旅館に帰ったらお風呂に入ることにした。
部屋に戻るとなんだか安心感がある。
旅館特有の和室のにおいが心地いい。
「よし!じゃあ最初に沙雪お風呂入ってきなよ。」
部屋につくなりTAIがそう口にする。
「いいの?」
「もちろん。お風呂は部屋にもついてるし俺は一旦シャワーだけ浴びとくよ。」
私を気遣っての言葉なのだろうが彼には気遣っているそぶりがなかった。
当たり前にこうである、と彼の中で決まっていた決定事項のようだ。
「わかった。じゃあ、行ってくるね。」
ここで遠慮したらそれこそ彼に悪いと思い私は言葉に甘えることにした。
「うん、ゆっくり入ってきて。」
そう見送られ、私は着替えとタオルを持ち大浴場へ向かった。
大浴場とは階層が違い、エレベーターで下へと向かう。
まだ時間が早いこともあってか風呂用の荷物を持った人とはすれ違わない。
赤色の暖簾を見つけ、くぐる。
すると狭く少し長い廊下が見え、道なりに進むと大きなスペースが私の前に広がる。
ロッカーが一定間隔で並べられていて脱衣所だと悟る。
時間が早いのが功を奏したのか私のほかには人がいないようだ。
なんだかほかの人と顔を合わせるのが嫌で急ぎぎみに準備をする。
ロッカーに鍵をかけたのを確認して鍵をしっかりと手首につけた。
番号も確認しタオルを持ち、浴場へ向かう。
「わぁ……」
思わず声が漏れた。
暖かそうな湯気が天井に向かって舞い、空気中にふわふわと浮かんでいる。
引き戸を開けた瞬間に感じる湿気と太陽の熱とはまた違う温かさ。
シャワーを済ませ、一番に目に入った大きなお風呂へと浸かる。
「あつい……」
足先から少しずつならしたはずだが、家のお風呂とは違う温泉の熱さにはなかなか慣れない。
じわんわりと肌から中へと伝わっていく熱量が気持ちいい。
電灯だけが光る天井を見つめる。
水を体に纏うこの感覚が好き。
運よく誰もいない大きなお風呂の端っこで一人足を伸ばしてくつろぐ。
しばらく入り、体がほてってきたのを感じる。
ぼーっとしすぎてたかも……あ、露天風呂まだ入ってない。
露天風呂はどこにあるのかとしばらく視線をうろつかせる。
脱衣所とはまた別のどこかにつながっている引き戸を見つけた。
そこにあるのかな、と思いながら引き戸のほうへと向かう。
水が滴り、私の歩いた跡ができる。
ガラスになっている引き戸の奥を覗くと確かにそこは露天風呂のようだ。
生垣と石垣によって外からは見えないようになっていて丸い温泉が姿をのぞかせている。
戸を開けるとステンレスの持ち手が水で少し滑った。
隙間から風が入り込み、火照った頬が元に戻るのを感じる。
まだ日差しは高く、遠くのほうから海水浴を楽しむ声が響いてくる。
一定の間隔で波音が鳴り、耳の奥へと流れ込む。
湯船につかると表面の温度は風にさらされぬるくなっていた。
でも一歩踏み込むとじゅわっと熱を感じる。
「はー……涼しい。」
空気を思いっきり吸い込んで吐き出す。
温泉に入りながらだと夏風すら涼しく感じる。
生垣が風に誘われ揺れ動く。
波も風も空気も雲も温泉の湯も、すべてが動く中私だけが温泉の中で静止している。
しばらく外の空気と温泉が混じる露天風呂を楽しんだ後、上がろうと思い体を動かした。
大浴場の中へと戻ると知らぬ間に人が増えていた。
数人がゆっくりとお風呂へつかっている。
その景色を横目に脱衣所へと向かった。
部屋に置いてあった浴衣を持ってきていてそれに着替える。
さらっとした肌触りの生地が長風呂で水を含んだ肌に馴染む。
温泉に入って浴衣まで着用していると美人になった気さえする。
廊下に戻り、部屋へ戻った。
部屋の番号を確認して部屋のドアを軽くノックした。
「はーい!入っていいよ。」
「ただいま。」
彼の声がしたのを確認して私はドアを開けた。
「どうだった?お風呂。」
「気持ちよかったよ。」
私はそう答え、彼が座っている畳の正面に向かい合うように座った。
もうシャワーは終えたようで彼の服は変わっていて温かい空気が彼を包んでいた。
「TAIはどうする?今から入ってくる?」
「俺はご飯の後にするよ。」
「あれ、もうそんな時間?」
確かに長風呂をした自覚はあったもののそこまで時がたっているとは。
急いで時計を確認すると午後5時を回っていた。
「ごめん。長風呂してたみたい。」
「いいよ、気にしてない。シャワー浴びた後にすぐ大浴場ってのもなんかあれだし。」
TAIは優しくそう笑った。
彼の握っているスマホから聞きなれたゲームの音楽が聞こえた。
……私たちが出会ったきっかけのゲーム。
最初は同じゲームを楽しむネットグループとして出会った。
私が最初にいて彼はそのあとの募集で入った後期生。
私だったら新しく入った場所でしゃべるなんて緊張しちゃうのに彼にはそんなそぶりは一切なかった。
元々そのグループでよく私がチャットを飛ばしていたから自然と互いにチャットで話す機会が増えていった。
彼はよく音声通話をグループ内でしていて、通話は苦手だったけれど私がミュート状態でも入ったら歓迎してくれてそして何より声が好きだった。
一般的に言えば一目ぼれに近いだろう。
でもバカみたいって最初は思った。
あったこともなくて顔も見たこともなくて知ってるのは同級生だっていう年齢と彼とチャットを飛ばす中で知ったどうでもいい情報ばかり。
そして、遠いところに彼が住んでて気軽には会えないことも悟っていた。
私が緊張しながらも声を出してしゃべると可愛いと言ってくれた。
なんどもそう言葉をくれた。
少しうれしくてでも私はネットだけの存在だからと境界線を引く。
相手のためとかじゃなくて私の保身のために。
何度も聞いた「ネットには怖い人もいる」という話。
一度たりとも忘れたことはないし全員を全員信用しているわけではない。
でも、彼だけは彼だけは信じていたかった。
同じ都会に住む子とはよくオフ会をしていたし、その子に手を出していないことやほんの少し流出した彼の学校の様子や塾のこと聞いているうちに彼は偽物じゃないって確信を持ち、会いたいと願っていた。
ネット上の叶わぬ恋をするただの少女だった。
そんな私の目の前に彼は今、いる。
あと数年会えないよなと思っていたけど、存在して、あえてここにいる。
ただそれが今はうれしくて仕方ない。
一生叶わないって思ってたけど最後にこうやって終末を迎えるのなら、いい結果なんじゃないかって少し思う。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。私も一緒にやっていい?」
「いいよ。」
じっと見ていたからなのかTAIに声を掛けられる。
私は当たり障りもなくそう返し自分のスマホを取り出しゲームを開いた。
二人でゲームをやっていると離れて通話をつなぎながらの日を思い出す。
離れてても今と一緒なことをしているんだな。と真剣な表情で舌が出るほど集中している彼を見る。
ゲームの話や攻略で盛り上がりながら、日が沈み夕飯の時間まで過ごした。
夕飯は、昨日と同じような豪華な盛り合わせが用意されていた。
昨日とはまた違ったメニューで刺身の魚やメイン料理の種類が異なっている。
見慣れない料理がありながらも口にするとどれもおいしくて笑顔になる。
満足するまで食事をし、宣言通りTAIは大浴場のほうへと向かった。
部屋に一人残された私は昨日と同じように外を眺めていた。
窓を開ければ聞こえてくる波音に海風。
昼間と変わらない音に安心感を覚える。
にぎわっていた海岸は静まり返り、近くの大通りを通る車の音ももう聞こえない。
景色は藍色と紫色に染まって緩やかなグラデーションができている。
空に浮かぶ星の数々を見上げるとプラネタリウムでも見ているような気分になった。
星の輝き具合も色もそれぞれだけれど全部が見劣りしない、綺麗でみんな主役みたい。
夜は自分ではどうにもならないような考えが頭の中にこだましてしまう。
明日の予定を立てたから、今日のうちには心中実行しないんだろうな。
この波音に飲まれない。
だけど明日にはどうかはわからないから……明日の今自分が生きてるかさえも想像がつかない。
なんとなく練っていた将来図もなんとなく期待してしまう未来ももう終わる。
自分で自分の話を締めくくる。
誰にも脚色されない、自分だけの物語として。
星に手が届くような気がして外に向かって手を伸ばす。
届かない、届くはずがない。
それでもあの星に触れてみたいと、輝きを手の中に収めてみたいと願わずにはいられなかった。
窓際に座り、TAIの帰りを待ち始めてからどの位がたっただろうか。
グラデーションで彩られていた空はいつしか一色の闇に飲まれてしまった。
星と月の輝きが増す一方で波の満ち引きの音が変わらず耳に残る。
「_っ、」
急だった、私から悲鳴に近い何かが漏れた。
何がトリガーだったのか、いじめられていた時の記憶がフラッシュバックしたのだ。
ぐるぐると眩暈が襲いそうなほど場面の一部が今体験したように感じる。
嫌だったこと、言われて苦しかったこと、我慢して我慢していつしか切れてしまった私の何か。
終わったと思ったのにそうじゃなかったあの日、クラスメイトのあの視線。
何度もいろいろな記憶の場面がよぎる、記憶の写真が急に脳内にすべてばらまかれたような。
閉じ込めていたはずのものが全て出てきたような不快感を強く覚える。
誰かの声が脳内に響く、それは言葉といえないほど私の頭の中で劣化し思い出したくないからうまく聞き取れない。
それでもその声に音程に言い方にすべてに恐怖を感じた。
記憶の渦におぼれそうで、押しつぶされてしまいそうで苦しい。
私は何をしている?私は今どこにいる?
苦しい、死ぬ前におぼれてしまう。
耳に響く音は波音のように心地よくなく、高い音が無造作に私を刺激する。
耳鳴りなのか幻聴なのかはたまたその中間なのか。
言葉にならない言葉と不快な音が交わり、最悪な音楽を作り上げる。
不協和音なんてものじゃない。
不協和音だらけの曲が優しいほどこの音は不快だ。
うるさい、うるさい、うるさいうるさいうるさい!!!
声に出しているのか出していないのかさえ自覚ができない。
どっちが記憶でどっちが現実なのか。
どっちが右でどっちが左なのか。
不愉快な音にすべての間隔が奪われ、今立っているのか座っているのかさえも分からない。
苦しい、息が吸いたい、溺れたくない。
私は、私は、
「__!」
誰かの声が脳内に響いた。
一瞬、記憶の渦が緩まった気がした。
誰の声?
聞き覚えのある。
「__き!沙雪!」
……私の、名前だ。
真っ暗だった私の記憶の渦が粉雪のように崩れ落ち、空間が白く染まった。
まるで、何かの合図がされたみたいに。
「沙雪!!」
もう一度大きな声が脳内で響く。
悪夢から覚めるように私は一瞬意識が途切れた。
「沙雪!」
目を開けると知った場所だった。
呼吸が荒い、自分からしてるとは思えない呼吸音が肺に響いた。
部屋の畳の上で手が震えていた。
「……TAI?」
そうだった、私は彼を待っていて__
私が呼吸を整えながら名前を呼ぶ。
少し余裕ができ、彼の顔を覗き込む。
「よかった……どうしたの……?」
今にも泣きそうな表情が私の瞳に映る。
「帰って、来てたの?」
「俺が帰ったのは今さっき。ノックしても反応がないから寝ちゃったのかと思って。」
私と会話ができたとこに安心したのか、彼はいつもより近かった距離を元に戻した。
「そっか__」
何があったか説明しなきゃと言葉を紡ごうとするものの何を言えばいいかわからない。
完全に言葉が詰まってしまった。
「部屋の中に入ったら、窓際で苦しそうにしてるから。……俺は、」
彼もそこまで言ったところで言葉に詰まったようだった。
夜のかすかな光でもわかるほど彼の眼には涙が浮かんでいる。
「心配、させちゃったかな。ごめんね。」
どうしていいかもわからず、私はそのまま彼を抱き留め安心させることしかできそうにない。
ぎゅっと抱きしめると彼から小さな抱き返す力を感じた。
黙ったまま、動こうとはしなかった。
私も何を言うこともなく落ち着く時をひたすらに待つ。
少ししたころだろうか、彼はそっと私から離れた。
「心配した。急で、そんなこと一言も言われてないし。わかんなかったし。……俺が何かあったか聞きたいって言ったら迷惑かな。」
彼の紡いだ言葉はただ弱くて脆くて小さな声だった。
でも私に届くには十分だった。
「ううん、迷惑じゃないけどいっていい話なのかはわからないかな。」
素直にそう答えた。
私にとってはこれ以上さっきの光景を思い浮かべるのは嫌だった、でもそれ以上に彼に言わないでおくのが心配をかけたままでいるのが嫌で苦しい選択肢だと思ったから。
「話せるなら、話してほしい。俺は沙雪のこと全部受け止めるから。」
力強い言葉を信じ、私は頷いた。
初めていじめの詳しいことも傷が残って言うのは心が重いだけじゃなくてさっきのようなことも起こっていたのが理由ということも話した。
うまく話せたのか、文字にできたのかといわれると全く自信がない。
記憶の棚をホラーゲームのように慎重に開けながら、さっきみたいに溺れないように少しずつ言葉を見つけた。
「じゃあ、沙雪の死にたい本当の理由は、」
「うん、どっちかっていうとこっちかな。大人は時間が解決してくれるって綺麗ごというけどさ私にはそうは思えなくて。私も大人になったらあと少し成長したら、この傷も大事なものだーとか時間がたってましになったとか、思うかもしれないけどさ。」
「私は、そんな大人になりたくないの。今の私を否定する人に成長してしまうよりかはここで区切りをつけようかなって。」
私の言葉を最後まで彼は黙って聞いていた。
死にたい理由にも何も返事は帰ってこなかった、下を向いた彼が顔を上げるのをただ待っている。
「……なら、俺の話もしておこうかな。」
「TAIの?」
「うん、話させるだけさせてってのもあれだし。それに多分俺のことでつっかえてるようだし。」
彼は柔らかく笑顔を見せた。
「わかってたんだ……?」
私には彼が隠し事をしているようにも私の表情を読んだようにも思えなかった。
ついて出た疑問。
「うん、だって俺なら気になる。自分に何もないからって一緒に心中って選択肢飲むとか。」
「そう、なの……?」
前言撤回、私の表情を読み取ったわけではなく、自分だと疑問に思うからとう想像の範囲内だったらしい。
「たしかに気になってはいたけど。」
「ちょうどいいから、俺も話しとく。」
彼はそう言葉に区切りをつけ、私の返事も待たぬまま物語のように言葉をつなげた。
「俺は昔音楽をやってた。昔ってか数年前まで。結構上達してさ、作曲とかも練習しててこのまま音楽で食べていくつもりだった。そういうレールが俺の前にあって主人公で、このまま頑張ればいいやって。」
目を伏せたままの言葉。
音楽、という新しいワード。
彼の口から「音楽」というものが出てきたことに驚きすら感じていた。
これまでの通話でも会話でも一度も話したことはなかったはず。
「でも、挫折した諦めた。」
「それって__」
「何かがあったわけじゃないよ、沙雪みたいに辛い過去もさ。ただ単に俺のけじめ不足、同年代のやつに負けてその時初めて気が付いたんだ。『俺、このままでいいのかな。』って。音楽が大好きだったはずなのに、いざ広い視野で俺の周りを見てみたら有名になっていったりコンクールで優勝していくみんなより__」
「音楽、好きじゃないなって。気づいたから。」
そこまで言い終えて彼は瞼を開けた。
目の奥にはこれまで感じた輝きは一つも入っていない。
「それまではずっと、音楽のために何でも犠牲にする!!位の熱量だったから、本当に他は何もしてなくて。音楽っていう俺を装飾してたものを取り外すと何にもなかった。不思議だよね。輝いていたはずの世界が灰色に見えた。」
「灰色の、世界……」
どんな景色なのだろうと想像する。
唯一のものを取り外してみたら何もなくなった自分と見えていたもの。
考えてみるものの想像がつかない。
私は何か並外れたものを持っていない、持っているという感覚そして手放した瞬間は想像ができない。
「そんな、苦しいものじゃないよ。だけど何もなくなったのは本当、そんなときに沙雪と出会ったから。」
「私?」
急な言葉に戸惑う。
「うん、沙雪と出会ってからなんだか楽しくなったんだ。好きって感情かな。」
「え、」
「ずっと俺の言ってる言葉嘘だと思ってた?嘘じゃない、本当に好きだから。」
まっすぐと見つめられる彼の瞳、瞳の中には確かに何も映ってないのかもしれない。
反射する私を除けば。
「本当に好きだから、心中も止めなかった。一人で死ぬ沙雪を見殺しなんてのが一番嫌だし。俺は沙雪と死ぬって決めたの。」
軽い口調でいつも通りに彼はまた重い言葉を吐く。
彼の過去を知った、私には想像もつない世界が彼には見えていた。
辛くない、と何度も念押しのように挟まれた言葉だけれど絶対にそんなことはないように感じる。
自分になにもないほど、空っぽになってしまうほどの出来事は辛いはずだから。
「そんなことが、あったんだ……」
何だかしゃべった彼より私のほうが感傷に浸ってしまったよう。
「あ、いやな気持ちにさせちゃった?」
「ううん。そんなことはない、大丈夫。」
彼の表情は本当に今までと変わらないように思える。
でもその中に埋まっていたものは相当大きなもの、きっと話してくれたのも氷山の一角に過ぎない。
彼が言った、「本気で好き」という言葉が私の中で何度もループする。
息が詰まるほど大きな音で。
「…ねえ。」
「なに?」
「好きって本当?」
我ながら何て言葉を投げかけてるんだと感じる。
今の今聞かなくてよかったな、と反省を繰り返す。
「本当だよ。沙雪は?」
嘘じゃない言葉の重さが私に伸し掛かる。
likeじゃなくてloveのほうであっているだろうか、なんて今更疑ったところで遅い。
私には彼のまっすぐな瞳しか見えない。
「私も、ほんとに好き。大好き。」
ずっと言えていなかった言葉が、考えていたよりも簡単に言葉になった。
「両想い、かな。」
「そうかも。」
まるで少女漫画の一部だ。
背景には夜景で海と星空が輝く中のセリフ。
「じゃあ、今から恋人かな?」
彼はいたずらっぽく笑みを浮かべ私の手を握った。
王子様がお姫様にするようにそっと手を包んでいた。
「恋人、なれるかな。」
「なれるよ、俺の一番好きな人が沙雪なんだから。」
握られた手からはあたたかな体温を感じた。
これまで引いた手とはまた違った熱量が。
そのまま、今日は寝ることになった。
昨日より布団を近づけて、手をつないだまま寝ようという話に落ち着いた。
ふかふかの布団に挟まれ大事な人の手がそばにあって温かい。
電気を消した後もなんだか少し熱が冷めない。
思い出したように火照る顔が恥ずかしい。
きっと今は見えていないけれど。
「TAI、起きてる?」
今にも寝てしまいそうなまどろみの中、小さな声をかけた。
「起きてる、どうしたの?」
「名前、TAIって名前音楽用語からとったのかなって。」
「あー……俺の名前か。」
TAIの名前の読み方である「タイ」という言葉、何が由来なのかずっと考えていた。
国の名前なのか誰かの名前や自分の名前からもらったのかもじったのか。
でも今日の話で合点が行った気がする。
タイという音楽用語の意味は「同じ高さの音符を繋げ一つの音のように演奏すること」よく見るフォルテなどとは違い、音符と音符をつなぐ弧線である。
「そうだよ、よくわかったね。」
「私、音楽はやってなかったけど趣味でよく聞いてたし。音楽の授業はちゃんと聞いてたから。」
私がそういうと彼は笑った。
「沙雪の言う通り、名前っぽい音楽用語を選んだんだ、TAIにした絶対的理由はないけど……なんだかピンと来たんだよね。」
暗闇の中彼の声が響いた。
ピンときた、彼の言葉はそこで途切れ空気に波紋が広がる。
可笑しいほどに彼の言葉はすっと私の中に入り込む。
「ほんとに音楽やめちゃったの?」
「うん、やめたよ。」
「そっか。」
音楽用語の名前、出会ったゲームも音楽ゲーム。
私には彼が引きずっているようにしか見えなかった。
彼は空っぽと言いながらも何かを抱えている。
聞き出したかったがどういうのが正解なのか彼の古傷をえぐることになるのではないかと一度考えてしまったら、もう二度と喉から出かかった言葉がこぼれることはなかった。
「沙雪は?」
「私?」
「沙雪はなんで沙雪っていうの?」
「私、かぁ……」
促されるまま初めてSNSに触れ、名前を書いた日を思い出す。
ニックネームが何かいるなとおもい画面の前で考えを巡らせたとても寒い真冬の日。
そのころ私は中学生で親にSNSは禁止されていた。
自分のアカウントを作り、自分から発信したり人とつながることを。
でも好奇心と自分だけ制御されるということに苛立ちを覚え一種の反抗としてアカウントを手にした。
名前を考えて10分15分と時がたった。
『奏』という私の名前はニックネームにも見えるしゲームではそのまま名乗っていたこともあり一から考えるのは苦悩の連続だった。
私自身が覚えられて印象に残って使いやすい名前……
TAIみたいに器用に探すこともできず、雪がちらつくのを見ながら暖房をつけるのを忘れた部屋でただひたすらブルーライトが光る画面と向き合う。
「初めてSNSアカウント作ったのが真冬の日でちょうど雪が舞ってたから__そこからとって沙雪。」
たしかそうだった、と朧げな記憶を頼りにする。
本当はもっとお洒落な名前が浮かべばよかった、と何度か反省したほど自分では気に入っていなかった。
名前を変えてしまったらせっかくつながった人に迷惑をかけてしまうと思い惰性で使っていたにすぎない。
それを変えてくれたのがTAIだったように思う。
彼に呼ばれると私の本当の名前が『沙雪』でないか考えてしまうほど。
『沙雪』になりたいと願うほど彼の声と温かさが私は大好きだった。
しばらく天井を向き、彼の返事を待ったものの言葉は返ってこない。
彼のほうを見ると瞼は閉じられ小さな寝息が聞こえた。
「寝ちゃった……疲れてたよね、おやすみなさい。」
起こさないように小さく呟く。
そして私も目を閉じた。
ぱっちりと目が覚めてしまったのはまだ朝日が昇らない時間だった。
暗い窓のほうを見てもう一度寝てしまおうとほんのり暑い真夏の香りがする空気を飲み込む。
瞼を閉じても寝付けず、目が覚めてしまったな。とあきらめて上半身を起こした。
布団から起き上がり小さな冷蔵庫からペットボトルの水を取り出す。
冷たい冷気を掌で受け止め一口水を口に含んだ。
飲み込めば喉から音がする。
このまま寝付ければ一番いいのだがそうもいかなそうで、TAIが起きてしまわないよう手で囲いスマホで時間を確認する。
真っ青に光るブルーライトの刺激が瞳に突き刺さるように痛い。
大好きなキャラクターが居座るロック画面に4:30と文字が映った。
寝るにも起きるにも微妙な時間。
彼もまだ起きないだろう。
布団に戻っても寝付けないと悟った私は少し外の空気を吸うことにした。
外は朝焼けで海側の空が淡いピンク色になり夜と比べてずいぶん明るい。
あと30分もすれが日が昇る、外を歩いていてもおかしくはない。
自分にそう言い聞かせ薄手のは織物を着込み、タオルと最低限の小銭を握りしめる。
バッグを漁っていると仄かな光が反射するものを見つけた。
取り出すとそれはハサミだった。
出発直前を思い出しそういえば持ってきてたな…と思いながら上着のポケットにしまう。
鍵を忘れないように確認し彼が起きていないことも確認しながらそっと部屋を離れた。
すでに朝食の準備が進んでいるのかところどころから音が聞こえる。
そんな音を聞き流しながら旅館を出た。
まだ少し肌寒い、冷たい潮風が頬を掠める。
息を吸い込むとすっきりとした気分になる。
早起きなど数えるほどしかしたことがない。
でもこうやってすがすがしい気分になっているのを感じるに早起きが得、というのは間違いでもなさそうだ。
人の影が見えないかと思ったがそうでもなく、散歩をする老婦人やランニングをする親子、大型犬がしっぽを振り飼い主と走る様子。
普段は見えないものが見えたような気がした。
特に行先もなくブラブラと砂浜を歩く。
一定の間隔で揺れる波の音。
しばらく行ったところで疲れてしまい、砂浜とアスファルトを隔てる石壁に腰を落とした。
かすかに聞こえるランニングの息遣いと誰かの声、目を閉じると音が鮮明に聞こえ想像が膨らむ。
好きなキャラにあこがれて伸ばし始めた背中に毛先が当たる私の髪の毛。
風で揺れるたびに毛先がくるっと収縮し体に巻き付くような感覚がある。
もう、あと数日で死ぬ、この海で死ぬ。
薄紫の空が海面に反射し不思議な色を保ち続けている。
ゆらゆらと揺れる波が私を誘っているような気がした。
髪の毛に触れるとふわふわと軽いタッチで指に絡みつく。
切ってしまおうか。
気づけばそう思っていた。
死んでしまうなら最後は知らない自分でいたい。
短くすればもう昔馴染みにも今のクラスメイトにもばれることなどない。
うまく流されればきっと身元もわからなくなる。
TAIと二人で二人でこの海の奥の奥まで行く。
それができればいい、私はそうありたい。
水平線の奥から少しづつ太陽が顔を出す。
ポケットからハサミを取り出すと刃渡りがきらっと光った。
左手で髪を握り右手でハサミを握る。
髪の毛にハサミが触れる。
手に力が入りすぎている、カタカタと小さく指先が震えた。
その瞬間はあっけなかった。
小説でよく見るような強い音もなることはなく、耳元で何かを切った音だけが繰り返し響く。
左手を恐る恐る見ると握っていた髪の毛は裁断され黒い糸くずのように掌に張り付いていた。
足元には髪の毛が少しだけ散らばっている。
肩の上あたりで切ったから首元に違和感を感じる。
セルフだからうまくできなくて毛先が首に刺激を加えた。
大体すべての後ろ髪が同じ長さになったのを確認する。
もう髪を切った、死ぬ準備は済ませた、TAIにとって私は『沙雪』……
『奏』であるものは今すべて消えた。
ああ、私は、私はもう……『奏』じゃない『沙雪』でいいんだ。
いやなものは捨てて好きな人とずっと一緒。
なんだかいいことのはずなのに考えていると目頭が熱くなった。
涙があふれて頬をいたずらに濡らす。
違う、これは泣いてない。
私は泣いてなんか__!
水平線をふと見ると太陽が上がっていた。
眩しい、輝いている。
この世のものとは思えないほど。
白く飛んでしまいそうな輝き、涙が出るのは太陽のせいだ。
涙を隠すように乱雑に拭う。
目と指の肌がこすれて痛い。
とまれと思えば思うほど止まらなくなった涙が視界を狭めていく。
冷たくなった水滴が頬で固まり違和感を残す。
「そろそろ、帰らなきゃ。」
TAIが起きてしまったら部屋にいないことで驚かせちゃうしきっと心配をかける。
早くいつも通りになって部屋に戻らないと。
そう思うのに、思うのに涙が止まってくれなくてどんな感情かもわからないほど表情がぐちゃぐちゃになって。
笑いたいけど泣きたくて悲しくてでもどこか暖かくてこれでいいってすっきりしててどうにも喪失感が埋まらなくて。
ポロポロと砂の上に水の跡が広がる。
水滴が何度も何度も肌を伝う。
「かえら、なきゃいけないのに。」
自分自身に言い聞かせるようにそう言った。
でもその言葉もうまく感じられなくて、止めることができない。
涼やかな風に乗ってよく知った匂いが私に届く。
日の出の太陽に照らされ伸びた影が近づいてきていた。
「なん、で。」
私が泣きながら絞り出したその声に人影が答えることはなく、私の隣に腰掛け私の背中を優しくなでた。
「こんなに短くしちゃって、失恋したみたいじゃん。」
短くなった私の髪の毛をそう言って触った。
「TAI……」
彼の名前を気づけば呟いていた。
「沙雪は恋が実ったばかりだっていうのに……短くなったね、でも似合ってる。」
私が泣いている理由を聞くことも髪を切った理由を聞き出しもせず、いつもの声で彼は言葉を放つ。
「あり、がと……」
「俺が起きた時にはもう部屋にいなかったからさ。いるならここかなって。」
「日の出と同時にイメチェンとはお転婆さんだね。」
そういった彼の瞳は海を向いていた。
なんだかずっと子犬に思っていた彼が少しお兄さんに見えた。
「……ごめんなさい。」
私はそう声に出して隣にいる彼をぎゅっと抱きしめた。
顔は見られるような状況じゃないし下を向いて、服に埋もれる。
「沙雪は悪いこと何もしてないよ。急に部屋からいなかったのは少しびっくりしたけど。」
彼は笑って言葉を紡ぐ。
私の頭を撫でながら。
温かさと一定のテンポで繰り返される撫でるリズムが心地よくてなんだか寝てしまいそうだった。
「綺麗だね。」
そうつぶやいた彼の顔は水平線を捉えている。
「うん、綺麗。」
鳥が鳴きだし人の通りも増え、車のエンジン音がどこかで響く。
この街に降り注ぐ朝が眩しくてそれを見守る海と太陽が暖かくて綺麗だった。
「さて、今日はショッピングかな?」
彼の問いに私は頷く。
「よーし、恋人になってから初めてのお出かけだし俺が何か買ってあげる!」
「いいの?」
「もちろん、短くしたし似合う髪留めでも買おうよ。」
笑った顔が私の瞳に強く反射する。
「うれしい、ありがとう。」
「やっと笑ってくれた。」
彼はそう言ってふんわりと笑った。
「ほら、朝ごはん食べなきゃ。部屋に帰ろ~」
くるっと振り返り、石壁から軽々と飛び降りた。
そのままTAIは私の手をつかむ。
「そうだね。」
ハサミをポケットに入れたのを確認して私もアスファルトの道に脚を下した。
部屋に入るまでずっと手は繋がれたままで心臓がうるさく鳴いた。
ちょっと息苦しくて痛いけど、いやなことを思い出した時より何倍も幸せな鼓動を感じる。
私の少し前を行く彼の表情はどうなんだろうか、同じようにドキドキしてるかな……そうだったら一番私が嬉しい。
そう思いながら絨毯が敷かれた廊下を歩いた。
「じゃあ、行こうか。」
朝食を食べ用意を済ませた後、二人で旅館の外へと立つ。
また私が案内役に戻り、彼は昨日と変わらない子犬のようだ。
違うのは手がつながれていること、そして恋人になったという外側からは見えない事実。
タクシーを呼び、乗り込めば一日目に旅館まで運んでくれたおばさんだと気づく。
「あら。」
と楽しそうな声が手をつないで待っていた私たちに掛かる。
もう付き合っているのだから、と私がおばさんに笑顔を見せるとこれまたニコッと笑顔がかえってきた。
行き先を伝えそこからは無言の時間が続いた。
私とTAIも自ら話すこともなく車窓をのぞき大通りを走る道を見つめる。
夏休み真っ最中ということもあり道は混んでいた。
ショッピングモールの先を行けば高速道路があることも相まって、車だらけ。
カラフルに彩られる道路、様々な県のナンバープレート。
中にはキャンピングカーも走っている。
少し渋滞にまかれた後、どうにか目的地までたどり着く。
「ありがとうございました。」
私はそう言ってお金を渡す。
「デートの続き、楽しんでね。」
「はい、ありがとうございます。」
一日目と同じようにそういわれる。
一日目と違い笑顔で言葉を返した。
「沙雪ー!」
一足早くタクシーから降りたTAIの声。
もう数メートル先まで歩いていて、大きく手を振り私を呼んでいる。
「今行くー!」
運転手さんへ小さく一礼をし小走りでショッピングモールの中へと向かった。
中に入ると周りの音がスッと消え冷房とショッピングモールの雑音が耳に響いく。
「広いね!」
彼は楽しそうにそう笑った。
スーパーの野菜コーナーと反対側には薬局とドラックストアがある入口。
夏休みで人は増えているといっても地方に比べたらもっと大きくて人が集まるものをTAIは見ているはずなのに、満面の笑みを浮かべ私のほうを見つめていた。
「そうだね。」
数歩前を行く彼の手をぎゅっと握る。
「ふふっ、俺の手あったかい?あ、あったかいとだめかな……暑いし……」
ふわっと花が咲くように笑顔を見せた後考え込むようなしぐさを見せた。
確かに私が握った手は暖かく、一定の熱と一時の熱が同時に紛れ込んでいる。
外が熱いから彼なりの気遣い、でも私は否定する言葉を彼に送ることも手を離すこともできなかった。
「……このままがいい。」
「わかった、今日は甘えん坊だね。」
消えかかった私の言葉は彼に届いた。
エスカレーターに乗り、二人で並ぶ。
手を彼はぎゅっと握って私の頭を優しくなでた。
朝の光景を思い出して甘えている自分に否定ができない。
少し揶揄うこともできなくて、曖昧な一音を適当に口から吐く。
髪のアレンジもできなくなった私の髪を大切そうに彼は何度も何度も撫でていた。
おもちゃが並ぶコーナーを二人でブラブラ歩く。
小さな子供と親やおばあちゃんたちがいる中で高校生二人が背の低い棚の間を進む。
懐かしいおもちゃを見つけて顔を見合わせて、最新のおもちゃの高性能に驚いて幼いころに戻ったように少しだけ遊ぶ。
「……ゲームセンター!」
「ちょっと遊んでいく?アーケードゲームはあんまりないけど。」
「大丈夫、クレーンゲームやろうよ。」
おもちゃコーナーとは一変してビビットな色がまんべんなく広がるゲームセンターのコーナーは異質で、別ベクトルの輝きを放っていた。
そこに吸い寄せられるように彼は足を進める、繋がれた手が私を引っ張っていく。
お菓子の取れる小さな機械から大きなぬいぐるみの機械まで、大きさも操作性も違う物を一つ一つショーケースの中をのぞいた。
「大きい……!」
「ほんとだ、テディベアかな。」
機械の中に50cmほどの大きなテディベアがクレーンに捕まえられるのを待っている。
淡いブラウンのカラー、一つ一つよく見ると首に巻かれるリボンの色とそこからぶら下がるチャームの色が違っている。
ブルー、グリーン、ピンク、レッド……
「誕生石のカラーかな。」
「誕生石……あ、ほんとだ。こっちがサファイアで、これはエメラルド?」
じーっと見るとリボンに各誕生月が英語で刺繍され、チャームは宝石のように輝いている。
「沙雪のはある?」
「えっと、私の?」
急に問いかけられ思わず聞き返すと頷きだけが返ってきた。
「私は、四月だから__あ、今丁度コーナーに出てるや。」
リボンは白色で透き通るようなチャーム。
「ダイヤモンド、沙雪にぴったりだね。」
嬉しそうに彼は笑い、同時に100円玉が機械に流れ込んだ音がした。
「や、やるの!?」
「もちろん、安心して俺こういうの得意だし。」
驚いたのもつかの間、彼の瞳はクレーンゲームに集中していた。
得意だと笑った彼は慣れたようにクレーンを動かす。
「と、取れた……!はい、沙雪。」
結果は彼の惨敗だった。
何回も何回も持ち上がりはするものの大きなぬいぐるみの体がクレーンから落ちてしまい、10数回はやっていたと思う。
クレーンがテディベアの体をぎゅっと掴み、取り出し口まで運ばれたのを見て喜びより安堵が勝った彼の声が聞こえた。
「いいの__?」
取れる過程を見ていた私からするともらっていいのか悩んでしまう。
「俺が沙雪にあげたくて取ったから。」
「じゃあ、ありがとう。」
大きなぬいぐるみはフワフワしていて抱きしめるとぎゅっと凹み綿が力を反発し、返ってくる。
「気に入ったみたいでよかった。」
私がぬいぐるみを触っているのを楽しそうに彼は見つめていた。
丁度店員さんが通りかかり、ショーケースからまた一体取り出してコーナーに置く。
その手早い動きになんだか目が行った。
「そういえば、TAIは何月?」
まだ聞いたことがなかった気がする。
「俺は10月。トルマリンだからピンク色かな?」
「ちょうど出てるね。」
先ほどおかれたものが10月のテディベア。
私は抱いているテディベアを見つめる。
黒く周りを反射する瞳、私が見える。
「私もやってみようかな。」
そう言って彼にテディベアを渡した。
「沙雪も?」
「うん、私はあんまりやったことがないけど……TAIの見てたらやりたくなって。」
財布の中から100円玉を探した。
輝く銀色の100円玉、機械に入れるとゲームの効果音が響く。
レバーを持ち、奥へと倒す。するとクレーンと連動しグラグラと揺れながら景品のほうへ進んでいった。
何度も移動させて位置を整える。
たぶんここかな、と思いつつも実際どうクレーンが動くかはうまく想像ができない。
手に少しだけ汗がにじんだ。
「こ、ここ!」
ボタンを探すのにも少し手惑いながら、降下ボタンを深く押し込む。
ゆっくりとクレーンが下がりぎゅっとクレーンがテディベアを握りしめた。
少し取れそうに見えたのもつかの間、上昇中に落ちてしまった。
その様子を見て驚いてしまう、焦ったようにもう一回100円を入れた。
どうやればとれるんだろう……クレーンを動かすもののなんだかさっきよりぎこちない気がする。
「ここはこっちかな。」
そっとレバーを握る私の手にTAIの手が重なった。
「ごめんね、ちょっとだけ。」
優しい声が聞こえたかと思うと手が優しく包み込まれ、誘導されながらクレーンを動かす。
その動きには迷いがなくて格好良かった。
顔が火照るような柔らかい熱が私を囲んだ。
「じゃあ、行くよ、せーの!」
掛け声に合わせてボタンを押した。
さっきと同じようにクレーンが下がり上昇する。
テディベアは落ちることなく一番上まで上がりきった。
ぐっと強い力で握られたテディベアはそのまま景品口へと進み、落下する。
「やった!」
「取れた、の!?」
「うん、そうだよ!」
私より喜んで彼は私に景品をとるように促した。
機械からにぎやかなBGMが掛かる。
ぬいぐるみを取り出し彼へと渡す。
「私がもらった子のお返し。」
「いいの?ありがとう。」
私がそうしていたように彼もテディベアに顔をうずめ、優しい表情で撫でていた。
その様子を見るだけで幸せな気分になる。
「私のほうこそ、さっきはありがとう。」
「あ、えっと、ごめんね。勝手にやっちゃったから。」
「ううん、助かったよ。」
「ちょっとテンパってるみたいだったし……」
「だからこそ一緒に動かしてくれて心強かった。」
「そっか、ならよかった。」
笑顔に戻った彼の手をもう一度取る。
二人とも片手に大きなぬいぐるみを抱えてもう一度ショッピングモールの中を歩き始めた。
書店で互いの趣味の小説を紹介しあって好きな作家さんの名前を探した。
フードコートで好きなものを二人で頬張った。
映画館に行くと甘いキャラメルポップコーンの匂いが鼻腔を刺激した。
何かアニメ映画でも見ようかと席をとり、大きなサイズのポップコーンを二人で分けた。
映画は二人とも初めて見るもので感動し二人で号泣した。
すべての行動に『二人で』とつけたくなるほど二人でいるのが特別でうれしくて幸せで仕方がなかった。
「ちょっとここで待ってて!」
ある雑貨屋の前を通りかかったときに彼が私に声をかける。
「わかった。」
内装はお洒落で高校生の姿が多くあった。
何か買いたいものがあったのだろうか。
ここで待っててと言われたからには動くわけにもいかず、店と店の間に壁を背にして立つ。
ざわざわとした声が遠くで纏まっている。
これまで一人できていたら気になっていた音が気にならない。
「お待たせ!」
「おかえり。」
それよりも聞いていたい音が増えてしまったせいだろうか。
ニコニコと笑いながら彼は小さな包みを私の前へと差し出す。
「沙雪に似合うと思って。」
「開けてもいい?」
「もちろん。」
丁寧に梱包された封を空ける。
真っ白な宝石が付いた雪の結晶の髪飾り。
証明に反射してキラキラと輝く。
「綺麗……」
「気に入った?」
「もちろん。」
「よかった。着けてあげる、貸して。」
片手にすっぽり収まる小さな髪飾りをTAIへ手渡した。
顔が近い、真剣な瞳に目が奪われる。
じっと見つめる訳にもいかず、ぐっと目を瞑った。
パチッとピンが止まる音が耳元で鳴る。
「よし、紗雪終わったよ。」
彼の優しい声がして瞼を開ける。
「可愛い、似合ってるね。」
笑顔の彼が瞳に映る。
「ありがとう。」
「あ、でも見えないよね__はい。」
私の前に出してくれたのはスマホのカメラ画面。
インカメにされたレンズが私の方を向く。
短くなった髪、髪の左側で輝く髪飾り。
証明に当てられて雪の結晶のようにキラキラと光る。
「可愛い……ありがとう。」
「ふふ、どういたしまして。」
彼は楽しそうに笑った。
「せっかくだし、着けたまま歩こうか。」
「うん、そうする。」
今度は彼が私の手を取った。
ぎゅっと握られる。
そのまま洋服を見て回って夏らしい真っ白なワンピースを買った。
TAIも服を買っていた。
海に行くから、とサンダルも選ぶ。
歩きやすくて爽やかな空色のサンダルを2人分。
彼のサイズは私よりも大きくて並べると違いは明らかだった。
すっかり私たちの両手は荷物でいっぱいになった。
空の色も夏日の目が眩む眩しさから柔らかい色に変わる。
「そろそろ帰ろうか。」
ショッピングモールを一周し、帰りの時間はすぐそこに迫っていた。
「そうだね。……最後に一つだけ買い物していい?」
「いいけど、何を買うの?」
彼の問いかけに答えぬまま、楽器店に足を踏み入れる。
「楽器買うの?」
「そんな感じ。」
床一面に並ぶアップライトピアノ。
奥へと進み、キーボードのコーナーへ歩く。
沢山並んでいるキーボードを一つ一つ見ていく。
高すぎず性能がいいのを探す。
私は音楽経験が少ないしどれがいいのかなんて分からないけれどなんとか説明と値段を読み込む。
最終的に白いキーボードに決める。
1音だけ触れた感じが柔らかく、小さく音が鳴った。
大きくなくて音量が調節出来るものを抱えてレジに持ち込んだ。
これなら音量を小さくすれば旅館で弾いても迷惑にはならないだろう。
この数日で両隣に宿泊客がいないことも知っている。
彼は音楽を辞めたと言った。
どこか寂しそうでそれでもスッキリとした表情で。
私は彼の音楽を知らない、輝いた世界を知らない。
少し弾いて欲しかった。
これは気遣いじゃなくて私のエゴでお節介。
輝く彼を見たかった。
もちろん強制する気は無い。
彼が弾けなかったら私が弾く。
……ドレミの歌とかは弾けるし。
TAIは私の道央は気にせずお店の外で待っていた。
もしかしたら入ることすら嫌だったのかもしれないと購入が終わってから少し後悔した。
「お待たせ。」
「ん、何買ったの?」
「えっと……キーボード。」
「キーボード__弾けるの?」
「弾けない、けど……!」
TAIに弾いてほしい、そういいたいだけなのに声が出ない。
言葉が詰まる。
「俺のため?それとも俺に教えてほしい?」
表情は曇らず、いつも通りの声色だった。
「TAIの音楽が聴きたかった。勿論いやだったらいいからね、その時は私に教えて。」
「それだとどう転んでも俺が弾かなきゃじゃん。」
そう言って彼は笑った。
笑い声は淡く空気中に浮かんで揺蕩う。
「あ、そっか。」
「ふふっ、いいよ。帰ったら弾いてみる。」
「本当?」
「うん、本当。俺の為にも買ってきてくれたんでしょ?」
意地悪な質問してごめんね。とTAIはいって私の頭をまた撫でる。
両手がすっかり塞がってしまい、ただ撫でられることしかできない私は静かに頷いた。
本当に荷物が手にいっぱいいっぱいになり、タクシーを呼んで外に出た。
柔らかくなった太陽の光は私たちのことを突き刺すのではなく優しく照らした。
ショッピングモールの中を沢山歩いてすっかり疲れてタクシーの中では今すぐにでも寝てしまいそうな朦朧とした意識。
「眠くなっちゃった?」
タクシーのリズムの整った微かな揺れと大好きな人の声。
質問に小さく頷くと頭を撫でられる。
「よしよし、到着したら起こすから寝てていいよ。」
その言葉に甘えて彼の体温を感じながらゆっくりと意識を夢の中へと放つ。
「沙雪ー」
「あ、起きた。おはよう、到着したよ。」
優しい声に起こされる。
「ん……おはよう。」
彼が荷物をほとんど持っていて、私はテディベアを二匹抱える。
そのまま部屋に戻り荷物を置く。
「あっ。」
「どうしたの?」
「えっと、タクシーのお金……」
夢と現実のはざまでテディベアを抱えていたからすっかりお金のことを忘れていた。
「俺がちゃんと払ったから安心して。」
なんだそんなことか。と言いたげに彼は笑った。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
荷物を置き終わってTAIはキーボードを取り出した。
説明書と顔を見合わせながら5分ほどで設置を終えたようだった。
「何を弾いてほしい?」
キーボードの前になれたように座り、彼は優しく鍵盤に指を乗せる。
数音音を出してから私に問いかけた。
「私は、TAIの音楽が聴きたい。」
「俺の?」
「うん。TAIが好きだった世界を見てみたいの。」
私が言葉を放った後沈黙が生まれる。
少し考えるように彼が口を閉ざした。
「わかった。やってみる。」
そう声が届いたのと同時に音色が響いた。
彼が鍵盤に触れるたびに空気が揺らぐ。
曲調は静かで優しくて、どこかに消えてしまいそうな、雪みたいな曲。
どこかへ飛び立ってしまいそうな軽やかなスタッカートがふわっと余韻になり漂う。
TAIは楽しそうに弾いていた。
何度も弾いたことがある曲なのだろうか、ところどころ目を伏せながら音楽にすべての感情を預けていた。
口角が少し上がっている。
滑らかに指先が鍵盤の上を滑る。
緩やかなリズムが急に崩れたかと思うとリズムが早くなり和音に着地した。
曲自体は3分ほど、でも私には一瞬に感じた。
彼の曲の世界観が私のそばを駆け抜ける。
「どう?」
「凄かった……綺麗な音、素敵な曲だね。」
「よかった。この曲実は俺が初めて作った曲。」
「初めて?」
彼はもう一度ピアノの鍵盤にすっと手を置き、慈しむような表情を浮かべた。
「うん、初めて作ったときの……5歳の時に作った曲。」
「5歳!?」
私の驚きの声に彼は頷いた。
「ぽくないって思った?」
ニコッと笑って彼は私に顔を向ける。
確かにそれっぽくないな、とは思った。
だけどそれはTAIへの言葉じゃなくて5歳で作ったように思えなかっただけ。
この曲を弾く小さなTAIが想像できなかった。
すごく有名な作曲家ですら作れないと思った、こんなに感情的できれいな曲。
「そういうわけじゃ、ない__けど本当に五歳の時?」
「やっぱりびっくりするよね。これを作ったのは妹の誕生日のためかな。」
「妹さん……?」
彼の口から家族の単語が出たことはなかった。
妹がいるというのも初めて知る、薄暗くなった部屋の中彼の言葉の続きをただ待つ。
「そう、妹。小さくてやっと1歳になったとき凄く嬉しくて__妹が生まれたとき雪が降ってたなぁって。」
口を動かしながら柔らかい音を彼は奏で始めた。
さっきの曲とはまた違った雰囲気。
太陽の光のような自然で温かい気持ちになる、ゆったりとしたテンポ。
「俺は最初妹のために曲を作った、そうだったね。」
先ほどまでとは違った少し寂しそうな悲しそうな表情を浮かべ彼は弾き続ける。
私に語り掛けるのではなく自分に言い聞かせてるような、空に向かって言葉を並べているような感じ。
段々と動いていく和音、神様が降りてきそうな神々しい響き、後光が差すようなアクセントの高い音。
聞き覚えがあった、それはコンサートや自分で奏でた音色ではなかったけれど確実にこんな雰囲気の曲を私は知っている。
「教会みたいな__」
ぽつりと零れた言葉はそこで止まった。
私の言葉と同時に彼の演奏も止まった、いや止まったのではない長く鍵盤に指を乗せ続け音がすっと途切れたのだ。
途切れた音の後から指を進めることはなく悲しそうな瞳で私を見つめる。
「気づいちゃった?」
「え……?」
確かにアニメやドラマで教会に入ったときに流れる落ち着きながら神々しいBGMに似ているなとは思っていた。
だかそれ以上の意味も考えも私は持っていない。
寂しそうな彼の表情の意図が読めない。
「……わかってない感じか。」
私の焦ったようにポカンとした表情を悟ったのか、彼は泣き笑いに近い笑みを浮かべ私のほうに向きなおる。
「俺の妹、死んじゃったんだ。もういない。」
声色は変わらずよく響く彼の声だけが部屋に残った。
唐突な言葉に私は声が出なかった。
胸と喉の奥がきゅっと閉まる、なんて声をかけていいかわからない。
「小さくて元々体が弱かった、10歳に届くかすらもわからないって4歳のころから宣告を受けててね。」
彼は涙を抑えるように軽く息を吸う、波形の揺れる呼吸音が微かに聞こえる。
「どんどんカウントダウンのように弱った体が更に衰弱していく、その様子を俺は見てることしかできなかった。でもどれだけ命の灯が尽きようとした姿でも俺がピアノを弾いたときは起きてくれた笑ってくれた。」
そこまで話したとき、彼の声に嗚咽が混ざった。
自分の話が邪魔されたのを怒るように彼は荒い呼吸で息を吐く。
「それが、俺は嬉しくて。でも妹の命はあっけなかった。10歳の誕生の瞬間を目の前に残して亡くなった。この曲は__この曲は俺から妹へ送る弔いの精一杯だよ。」
美しい輝きを放つ彼の瞳から涙がこぼれる。
私はまた声が出せない。
彼の語るものの重さに何故か私のほうが押しつぶされる。
頬を伝い零れる涙はこの世のものと思えないほど美麗に私の目に映る。
「そっか。」
数秒の時間がたったころ真夏なのに吹雪の後にように冷たい空気を破ったのはそんな気遣いもできないただの相槌だった。
言葉で埋めることはできない彼の気持ちをどうすることもできず、そっと隣に座り背中を摩った。
彼の体温が私の手のひらに移る。
「葬式で演奏して、うちは別に教会じゃなくて仏教式だったし怒られるかとも思ったんだけど親も親戚も何も言わなくて……葬式のホールで場違いな演奏だったなぁって今は思うけどね。」
彼は止まらぬ涙を雑にぬぐいながら小さく笑った。
その笑顔の奥には何が隠れているのだろうか。
「ごめん、嫌なこと思い出させちゃった……?」
「ううん、嫌なんかじゃないよ。音楽やめたのは妹のことと関係ないし。悲しいことも思い出すけどさ、でも同じぐらい妹の笑顔も思い出すんだよね。」
嫌じゃない、はっきりと凛とした声が響く。
本心であろうその言葉はいつもの彼より熱を持った声色。
「もう一曲、聞いて。」
枯れきった涙の跡が光に反射する彼の横顔。
手を伸ばすのは鍵盤、私は頷く。
彼の音楽は温かくて、雪をイメージした曲が多いせいか少し冷たくて。
でも心がきゅっとなる冷たさじゃない奥で愛情を感じる。
次の曲は明るく跳ねる音に軽快なメロディが乗っかる。
冬の明るく跳ねる曲。
ああ、これも私はよく知っている。
「クリスマスソング__」
「当たり。これも俺が作った曲。」
楽しそうな横顔からどんな思いで曲を作っていたのか想像できてしまう。
にぎやかな街に大きなクリスマスツリー、ある家の中には赤と白の新品の靴下があり小さな少女が何がもらえるかとワクワクしながら眠るのを拒む。
きっと私の想像した光景が彼の妹の姿でそうあってほしかった未来なのだろう。
「妹の誕生日はクリスマス前日の23時59分から始まる、だからイブからクリスマスへと変わる瞬間。いつも寝たくないってベッドの上でごねてね、寝ないとサンタさん来ないよって説得するんだけど嫌だってどこにそんな元気があるのかって程暴れてたなぁ。」
彼は思い出を思い出すように目を伏せながら弾く、優しい笑みを浮かべて弾き続ける。
「どうしても寝ないって騒ぐものだから、俺が寝かしつけの意味もかねてこの曲を作ってクリスマスが近くなると毎年弾いた。最後のほんとに最期の瞬間まで俺のこの曲をねだったんだよ。『お兄ちゃんの曲があればサンタさんが来るんだ。』って。」
軽快だったメロディが段々と落ち着いていく、街の明かりが一つ一つ消えていくように街が眠りにつく深い夜が来るように。
寝てしまいそうなほど穏やかなメロディへと変わる、妹のための子守歌。そう聞いてからだと手を取るように場面がわかる。
「俺泣きながら演奏したよ、そしたら『なんで泣いてるの?』って。もう終わりの時が近いってわかってたのに何も言えなくて、そしたら妹が力がない声でサンタさんへの願い事をつぶやき始めて『もう少しで私が生まれた時間、サンタさんお願い事一つかなえてください。お兄ちゃんがいっぱい楽しく過ごせますように。』」
その言葉と当時に曲が終わった。
ふわっと余韻が宙に浮かび、空気を震わす。
「……こんな感じで曲と同着で空に行っちゃって、きっとわかってたんだろうね俺が反抗期に入って親と険悪だったのも妹のことと自分のことで手一杯で苦しかったのも。元気になって外に遊びに行きたいとかもっともっとお願いしたいことあったはずなのに。」
彼の表情を見ると泣いているわけじゃない、微笑みを浮かべているなのに声が震えている。
何かを嚙み殺すように口を閉ざしぎゅっと拳を握っていた。
「いい曲だね。安心できる曲、きっと妹さんも最期までそう思ってたと私は思う。」
微かに震える彼の手を私の両手で包む。
冷たいのはどちらの指先だろうか、氷のように指先が悴む。
「そうかな……そうだといいな。」
部屋の窓からは満点の星空が見えた。
青や赤、沢山の星の光。
それぞれが輝きこちらを見守るように覗き込んでいる。
「暗い話聞かせちゃってごめんね。」
星々に見惚れる時間が過ぎた後の沈黙を終わらせたのはTAIだった。
「ううん。知れてよかった。」
私はテンプレートのような言葉を吐くことしかできない。
「ねえ。」
「なに?」
「私に教えてくれない?ピアノ。」
「沙雪も弾くの?」
「聞いてたら弾きたくなったの。」
「わかった。」
急なお願いにも笑顔で彼は答える。
プラスチック製の鍵盤は軽く少しの力でも押すことができた。
私がどうにか奏でる音はTAIの音の足元にも及ばない。
きっと歴がどうこう言うものじゃなくて音楽への愛、ただそれが違い。
一時間ほど教えてもらって一曲だけをマスターした。
その曲は彼が何となく作った短い曲と言われ、キラキラとしたメロディが夜空に光る星のように散っていく。
彼の助け無しで弾き終えたとき、彼は喜んでくれた。
「難しいけど楽しいね。」
「それならよかった。」
楽しい、と口にしたとき彼は決まって笑顔になる。
メロディを片手分弾くとか初めて両手で音がそろったとかそういう時よりもっと笑顔。
私が楽しんでいることがうれしいのだろうか。私はそうであると解釈をする。
彼が嬉しいなら私はもっと嬉しい。
そこから夜は更けていく、月が空に浮かび海に反射した。
夕ご飯を食べ終え、お風呂にも入り終わり仲居さんが敷いてくれた布団、そのうえで二人ゴロゴロと過ごす。
午前二時夜中まで二人で起きていた。
どちらも口を開かないだけで私たちの中で結論は出ていた。
浴衣ではなく普段着しかも初日の服を着て布団に入ることはなく時間をつぶしている。
「行こうか。」
彼からの言葉だった。
私は頷くことも言葉を返すこともせず立ち上がる。
今日プレゼントしてもらった髪飾りを付ける。
互いに無言で部屋を出た。
ほかの宿泊客は寝ているのか廊下も怖いほどシーンとした空気が漂っている。
重く苦しい熱帯夜の酸素が重く肺に伸し掛かる。
暗い闇に吸い込まれてしまう気がして浅い呼吸を繰り返す。
旅館を出ると建物内とは一変して爽やかな空気が私たちを誘う。
波音だけが定期的に空気を震わす。
あたりは明かり一つすらなく真っ暗で車のエンジン音も聞こえることがない。
どこかの横断歩道の音が遠くで響く、その音すら波音にかき消される。
大きな月が顔を出し海面に揺らめく、水平線の切れ目を月の明かりが照らし出す。
空には満点の星が鬱陶しいほど広がりモールス信号のようにきらめく。
「……行くの?」
「もちろん。」
私の手を引くのは彼で大きな手のひらに包まれる私の手。
波打ち際を暫く行く当てもなく歩いた。
踏み切ることが出来ぬまま足が疲れて立ち止まる。
立ち止まってしまった私はTAIの速度に追い付けつ無情にも手が解かれる。
「ごめん。」
手が離れたことに気づき、彼は焦って私のほうへと戻ってくる。
息が荒い、マラソンを走り切った後のように喉が渇く。
「大丈夫?……怖い?」
「怖くはないよ、怖くなんて。」
海のほうへと目をやると底が見えない蠢く闇。
立っているだけなのに飲み込まれてしまいそうで思わず息をのむ。
ここに沈んでしまえばすべてなくなる、全て全てが終わる。
そう考えればすがすがしい程だ、なにも怖いことなんてない。
大切にしていた長い髪を乱雑に切り好きな人と言葉を交わし私は私を捨てたのだから。
「歩くの早かったかな。」
ごめん、と彼は言い私の手をもう一度とる。
冷たい砂浜の上にしゃがんだ私に視線を合わせながら。
私は首を横に振り立ち上がった。
足に痛みが広がる、一歩動かす行動さえ鬱陶しくなるようなパンパンで感覚が鈍い。
彼の大きな瞳には絶望もやっと終わるという爽快な表情も感じない。
私の瞳に映るのは出会った時と同じ純粋な目をした少年が一人。
こうも表情が変わらないと彼は本当に私と死んでくれるんだろうか、いや、私が死なせて良いのだろうか。
TAIの良いところも過去もたくさん知った、沢山話した。
無邪気で犬のようにころころと表情が変わりなんにでも興味を示すところ、笑顔が愛らしいところ。
全部、全部彼の全てが大好きだ。
「そろそろ行こう。」
ふにゃっと彼は笑って私の手を引く、向かう方向は海。
段々と砂が湿っていく。
濃い海風が私たちを殴りつける。
心中を頼んだのは私、死んでくれるといったのは彼。
私がきっかけで彼にこの道を歩ませている。
……私が今から殺すんだ。
何もないって彼は何度も言った。
このままより私と死ぬと。
そう思うと足は中々進まなかった、死んでもいい死にたいのは本心。本心であると思い込んでいる。
実際がどうかなんてまだ分からない私は私のことを理解するのが怖い。
だから死にたいっていう何とも複雑でそれでいて現代で使いやすい言葉を多用するのだ。
言いたかった言葉なんて吐くことが出来ないままそのまま生きるしか噓をつきながら自分を騙しながら生きているのだから。
波音が大きく聞こえる、消波ブロックに当たった波が飛び散り顔を濡らした。
足元に冷たい水が当たる。
真昼に入ると生ぬるくそして冷たかった海水がどこでそれほどまで冷やされたのだろう。
太陽が沈み切れば世界が変わる。
星が輝く、月が上る、空気が冷やされる。
息を吸えば夏とは思えない潮風が体を一周する。
「怖くないよ。」
「うん、そうだね。怖くない。」
これまでより慎重に二人で手を取り進んでいく。
海底を歩けば砂が沈み込み足元が危うい。
ゆっくりと冷たい水が足の感覚を奪ってくる。
「ねえ、もう最期?」
「そうだね、最期かも。」
彼は声色を変えず淡々と答える。
「……私一つだけ知りたいことがあるの。」
「なーに?沙雪の頼みなら何でも。」
「TAIの__あなたの名前が知りたい。」
私の震えた声が海面に跳ね返る。
「俺の?俺は雪兎」
「雪兎……くん?」
「雪兎でいいよ。秋晴雪兎、改めてよろしくね。」
いつも通り彼は笑う。差し出された手から海水が滴る。
「うん、よろしく……」
「死んじゃうのによろしくってのも変かなぁ。あ、そういえば沙雪は?沙雪はなんていうの?」
「私は霧森 奏。」
「奏かぁ、かわいい。」
嬉しそうに彼はそういった。
「じゃあ奏は音楽の名前?」
「そういうことになるのかも。」
私が彼の問いに答えると膝上ほどまで迫ってきた水位の中を彼は軽々とその場で一回転をする。
「だったら、俺と反対だね。俺は音楽の名前を名乗っていたのに名前には『雪』が入ってる。奏は名前に『雪』を入れて名乗っていたのに名前には音楽が入ってる。」
「確かに、そうだね。」
私の言葉を聞き満足げに彼は笑顔を見せる。
「奏__来世ではちゃんと会おうね、最初っから会おうね。」
「最初っから……」
「うん、ちゃんと出会って奏の嫌だったことぜーんぶ忘れてさ俺も空っぽなんかじゃなくて幸せな世界で最初から会おうよ。」
約束。というように彼は小指を差し出す。
「巡り逢えたらいいね。」
答えの代わりに私も小指を彼の小指に絡める。
ぎゅっと力を感じる。
二人で目を伏せる。
しばらくたち私が目を開けると彼はまだ瞼を閉じていた。
その顔立ちはなんだか大人っぽくて、終わりのその時を待っているようだった。
ゆっくりと一定の間隔で海の奥へ奥へと向かう。
水平線のあの先へ私たちはいけるのだろうか。
息を吸えば潮のにおい、空を見上げれば瞬く星が空に揺蕩う。
……死にたくない。
唐突にそう思う。
いや死にたくないんじゃなくて私は私はやっぱり、彼を死なせたくない。
私と一緒に死なせてしまったら私が永遠と後悔してしまう。
後悔なんて死んでしまったらできないだろうど。
ああ、私は__
「どうしたの?奏、泣いてる。」
「え……あ、」
頬を伝うのは海水ではなく涙のようだった。
潮風で乾いた肌に水滴が張り付く。
私は、彼を雪兎を__
「雪兎__死なないで。」
言葉にしてしまった瞬間、伝えてしまった瞬間何を言っているのだろうと思った。
彼は私のために命を投げようとしているのに、死なないでって自分勝手すぎる。
「何言って……」
私の涙を拭おうとした彼の指の動きが止まった。
波音だけが鮮明に響く。
「嫌だよ、死なないでよ。私は、私は雪兎を殺したくない__!」
「ど、どいうこと……?俺は奏に殺されるんじゃない俺は自分の気持ちで。」
「死にたかったの。憧れてたきれいな人生、それが私には送れないものだって知った時から。」
いじめられていた記憶が脳裏によぎる。
今は今は倒れてる場合じゃない、呼吸を無理やり整え声を張る。
「きっと、きっと小説なら姿さえ書かれない私はモブ未満の人生。過去にとらわれるのも全部全部嫌だった……だから私は死ぬ。死のうとしてる。」
長台詞に息が持たない。
思いっきり重苦しくて綺麗な真夜中の空気を吸い込む。
「でも、雪兎は違う。空っぽならまた詰め込めばいい、これからきっときっと良いほうに変わっていける。だから__だから__!」
息が途切れ途切れで信じられないほど大きくて上ずった声。
「……雪、兎__」
彼の顔を除いた瞬間、呼吸が止まった。
どうにか彼を私は死なせたくなかった。
だから止めようと必死に言葉を紡いだつもりだった、必死だった。
でも言葉は届かなかったようだった、淡い色でどこかを見つめる彼の瞳は私が言葉を紡ぐ前と変わっていない。
腰ほどまで届くようになった海水が私たちを隔てるように流れを作る。
どうしよう、どうしたらいいんだろう。
私は何かが詰まったように言葉が出ない。
話そうと口を開くたびに声が出ない。
どうやったら彼に言葉が届くの?
私は私じゃダメだったのかもしれない。
私の言葉は空っぽな君には届かないのかな。
でも諦められない。
彼を殺して一緒に死ぬのも彼だけ死んでしまうのも絶対に嫌だ!
「__!」
何か言葉を紡ごうと一歩を踏み出し大声を出そうとした瞬間だった。
サラッとした砂に足元を取られる。
深い水位まで来た海に顔から突っ込む。
一瞬の出来事で画面が暗転したように景色が変わる。
肺に空気も残っていない、パニックになり冷静に立ち上がることができない。
酸素が取り込めない苦しい。
闇色の海が私を誘う。
走馬灯、というのだろかこの度の光景がアルバム機能のように流れていく。
『人間は顔が水に全面的に覆われればどんな水位でも死ぬ。』たしか小学生のころ先生に言われた言葉。
ああ、そっかそういうこと。
私は死んじゃうのか。
視界は痛くて歪んでて暗い闇しか見えなくて、あ、泡。
空気の泡が視界に入る。
雪兎とともっと一緒にいたかったな。
もし、こんなお願いが許されるのなら私は雪兎ともっと生きていたかった。
雪兎といれるならそれでいい。
そっか、私は死にたかったんじゃないんだ。
この気持ちをわかってくれて一緒に隣で歩いてくれる人と生きたかったんだ。
でももう声も出せない。この言葉を伝えられる機会なんてもう来ない。
水の冷たさと息苦しさと怖いほど冷静に回る思考。
プツンと回線を切ってしまったゲームのように意識が落ちた。

