「お前が十周も走る馬鹿だから、枢木教官は怒っていたんだよ」
「はぁ? ! 先に十周って言ったのは、あっちなのよ!」
 薫は横を歩く篤弘をキッと睨めつけて噛みつくが、直ぐさま顔を戻し「ああ、駄目」と小さく呻く。
「アンタみたいな馬鹿と言い合う気力もないわ……」
 今は歩く事で精一杯。と、重たい足をずりりと前に、前にと這わせた。

 そんな風に歩く薫と歩調を合わせながらも、篤弘はやれやれと心底呆れたため息を吐き出す。

「枢木教官の優しさを無下にするから、そんな身体で見回りをする羽目になるんだ。だからお前は正真正銘の馬鹿だ」
「あれを優しさと言う方が正真正銘の馬鹿よ」
 薫は横目でギロリと篤弘を睨み、彼の言い分を冷淡に一蹴した。

「あんなの、どこが優しさよ。人をただ馬鹿にしているだけ、そんなの優しさなんて言わないわ。邪悪って言うのよ」
 ふんっと鼻を鳴らして吐き捨てる。

 篤弘は「本当にお前は悲しい女だなぁ」と、呆れた顔で小さく肩を竦めた。
 その一言に、薫はゆらんと禍々しい顔を向け「今、なんて言った?」とおどろおどろしい口調で問いかける。

 篤弘はそんな彼女をまっすぐ見据えて答えた。

「悲しい女、だなぁ」
 意地悪く綻んだ口から発せられた一言に、薫山《かおるやま》と言う活火山がぼこおんっと轟音を立てて噴火する。
「なんですってぇ? !」
 と、怒りが弾けた刹那。

「はいはい、二人とも。そこまで」
 前から朗らかながらも、威圧的な仲裁が割り込んだ。

 薫と篤弘はピタッと言い合いを辞め、ハッとして前を向く。
 すると前を歩いていたはずの怜人が、自分達の前で立ち止まり、にこやかな笑みを向けていた。

「今は警邏《けいら》中だからね、そうも殺伐とした雰囲気を出されたら困るよ。町の人も驚くし、軍の印象が悪くなっちゃうからね」
 分かった? と、怜人は朗らかに窘める。物腰柔らかな口調で、優しい声音をしているが。そこにはいつだって、力強い威圧が込められているのだ。

 薫と篤弘は揃って「申し訳ありませんでしたっ!」と、直ぐさま敬礼して答える。
 怜人は「分かれば良いんだよ」とニコリと答えてから、「じゃあ、そろそろ雅の班と合流しようか」と、薫含む六人の小隊を見渡した。

 そうして怜人率いる小隊が町を巡回しながら、雅清率いる小隊の合流地点に向かうが。
 突然、最後尾を歩く薫に向かって「お姉ちゃん!」と、少女が彼女の手を取った。
 薫は自分を引き止めた手に驚きながらも、直ぐさま冷静を取り戻し「どうしたの?」と彼女と視線を合わせて屈み込もうとする。
 刹那、「助けて! お母さんが!」とぐいっと手を引かれ、薫の身体は前につんのめった。

 そして「わわわっ!」とたたらを踏みながら、引かれていく手の方に動いていく。
「薫!」
 篤弘は目を剥き、少女に引かれるがままの薫に小さく声を飛ばした。

「大丈夫、すぐ戻るわ!」
 薫は端的に告げてから「私が行くから、もう大丈夫よ!」と、自分の手を引く少女の背に向かって投げかける。

 そうして手を引かれるがまま走って行くが、隊からはどんどんと離れ、寂れた路地裏に突入してしまった。

 思ったより離れた所まで来ちゃったけれど。すぐに解決して、急いで戻れば大丈夫よね。

 心の中でぶつぶつと独り言を並べるが、突然フッと激怒に塗れた雅清の顔が現れ「何も言わず一人で消える馬鹿がいるか!」と一喝された。

 薫は「うわ、言いそう……」とゴクリと唾を飲み込む。
 そして現れた想像をぶんぶんっと頭《かぶり》を振って打ち消した。

 だ、大丈夫よ。きっと篤弘が、上手い事説明してくれるはずだわ。あ、でも、待って。篤弘が上手い言い訳を作って、教官達に披露する事が出来るかって言われたら……出来ないわ。
 あの馬鹿には期待出来ない。と、ガツンと打ちのめされた薫は、自分の手を引いて走る少女に向かって「ねぇ」と優しく声をかけた。

「何があったの? お母さんがって言っていたけれど、どうしたの?」
「物の怪に襲われてるの! 逃げなさいって、アタシだけを逃してくれたの! だから絶対お母さんを助けて欲しいの!」
 肩越しにぶつけられる必死の叫びに、薫の神経がビリリッと衝撃に打たれ、グッと引き締められる。

 薫は「勿論、絶対に助けるわ!」と力強く答えた。
 少女は「うん!」と涙ながらに大きく頷いてから、「ここ!」と足を止めて、指を指す。

 太陽の光も当たらない、影に落ち込んだ家。悲鳴も何も聞こえず、ひどく寂寞としているが。その静寂が、不気味をかき立て、家を覆う影を広げている様に感じた。

 ……間違い無い、物の怪が居るわ。この霊気的に、鼠の物の怪かしら。いや、今は何の物の怪が居るとかは関係無いわ。私がすべき事は、一刻も早い人命救出よ!

 薫は息を飲み、シャッと腰に差している刀を引き抜いた。

「貴女はここで六十を数えていて。数え終わっても私がお母さんを連れて出なかったら、戻って聖陽軍の人達を連れてきて」
 分かった? と、彼女の視線と合う様に屈み込んで、優しく告げる。
 少女は「分かった!」と、声を振わせながらも大きく頷いた。
 薫はそんな少女の頭に空いた手をのせ「絶対に大丈夫だからね」と彼女を宥めてから、一人、物の怪が巣食う家に近づく。

 感じ取れる全ての五感を鋭敏に研ぎ澄まし、恐る恐る扉を開いた。
 寂れた蝶番がギイイと軋み、静寂を引き裂く。薫の踵が踏みしめる音ですらも、カツンと大きく空気に伝わり、わんわんと反響する。

 薫はふうと小さく息を吐き出して、感じ取れる霊気の元へ歩を進めた。

 何の声も聞こえないわ。もしかして、もうあの子のお母さんは……。

 ううん、ご遺体であっても奪還しないと駄目よ。と、堅く作った決意をゴクリと飲み込み、ギュッと柄を握り直した。

 その時だった。カタカタッと地面に填められた木板が小さく震え出し、覆っていた埃もふわふわと空中へ逃げ出し始める。

 何か、来る……!
 薫の感覚が、一気に最上級まで引き上げられた。高い警戒を四方に張り巡らせ、どこからの攻撃でも対処出来る様にザッと左足を半歩引き下がらせる。

 するとバキバキッと目の前にあった階段の中央が割れ、バババッと突き上げる様に灰色の軍隊が飛び出した。「キキッ」と甲高い鳴き声を発しながら、それぞれがうぞうぞと小さな体躯を動かしている。

 薫は突如現れた数百を越える鼠の軍隊に、ゾッと総毛立ってしまうが。その思いをすぐに張り倒し、現れた軍隊を力強く睨めつけた。

 そしてカチャリと刀を構えた刹那、「じゅうううっ!」と醜い雄叫びがあがる。

 どおおんっと軍隊の中央から大きく現れたのは、おおよそ鼠とは思えない巨大な体つき。人の様に二足足で立ち、衣服を身につけているが。汚れ塗れで汚らしいばかりか、ジンジンと刺激のある腐敗臭が漂っていた。

「おぉおぉ、本当に旨そうな娘が迷い込んで来たじゅ!」
 現れた親玉の鼠が、醜く太った声で歓喜を張り叫ぶ。

 人語を話し、数多の鼠を操って軍隊を拵える鉄鼠《てっそ》が、こんな所に巣食っていたなんてね。

 薫は厳し過ぎる匂いと嫌悪で顔を歪めながら、現れた親玉に向かって鋒を向けた。

「ふざけた事言っていないで、さっさとご婦人を解放しなさい! 応じなければ斬るわよ!」
「失敬な女だじゅ! 儂は旨そうな女子を迷い込ますと言われたから、ここに居ただけだじゅ!」
 鉄鼠は目を吊り上げ、ダンダンッと地団駄を踏みながら答える。

 薫は張り上げられた答えに、「え」と零した。顔に広がっていた歪みも、ぐにゃりと種類を変える。

 どういう事? あの女の子は襲われているから助けてって言ってた。けれど、コイツは「旨そうな女子を迷い込ます」って言った。

 薫は食い違う言い分に困惑してしまうが、「いいえ、あんな女の子が嘘を言う訳がない」と生まれた疑念をバシッと叩き落とす。

「そんな嘘に騙されるものですか!」
「ワシの言葉を嘘呼ばわりとは、なんて失礼な女だじゅ!」
 鉄鼠はムキキッと小さな前歯を剥き出しにして吠えたが。「でも、ワシは勝ち気な女の方が好みだじゅ!」と、嬉しそうにチチッと髭を鳴らした。

 喜色が富んだ叫びに、薫の顔はまたしても嫌悪でぐにゃりと歪む。

 こんな気持ち悪い奴と問答するだけ無駄だわ。さっさと斬って、助けて、隊に合流と行くわよ!
 薫はパリパリッと闘気をみなぎらせ、構えていた刀の鋒を鉄鼠に定めた。

 その気に、鉄鼠は「やれるもんならやってみろじゅ!」と尊大に鼻を鳴らす。

「女如きにやられるわしじゃないじゅ!」
「私を女如きと括る余裕なんて、すぐになくならせてあげるわよっ!」
 薫はダンッと力強く床を踏みしめ、ダダダッと素早く距離を詰めた。

 それと同時に、「行けじゅ!」と野太い檄が飛ぶ。
 蠢いていた軍隊がざわわっと波を打つように統制されていき、「ちゅーちゅー!」と薫めがけて飛びかかった。

 薫は飛びかかる無数の鼠達を振り払う様に、ぶんぶんっと素早く刀を振う。

 素早く、そして正確に身体を斬り込む剣技によって、飛びかかった鼠達は悉く地に伏せった。
 彼女に向けられた牙が、次々と果てていく……が。

「えっ、嘘っ!」
 薫の絶叫が弾けた。

 なんと、斬り伏せった身体が分裂し、一から二へと数が増えたのである。

 薫が目の前の事態に愕然としていると、「ジュジュジュッ!」と野太い笑い声が発せられた。
「聖陽軍のくせに、とんだ阿呆だじゅ! ワシの鼠は攻撃したら増えるんだじゅ!」
 ご機嫌に入った説明に、薫は「そんなの知らないわ、まだ習ってない!」と絶叫する。

「それにズルいわよ、斬ったら増えるなんて!」
「ズルくないじゅ、鼠はそうして増えていかないと絶滅しちゃうじゅ!」
 鉄鼠はピシャリと言い返すと、「さぁ、捕らえてやるじゅ!」とバッと腕を広げた。

 そのやる気に連動して、鼠の軍隊が薫にバババッと襲いかかる。

 斬ったら増える、なら一撃必殺で攻撃するしかないわ。それか、操っている親玉を斬るしかないっ!
 どっちの手を取ろうか……? そんなの考える間でも無いわ、同時にどっちもやる!

 薫はキュッと唇を結び、「ガハハッ」と高らかに笑う鉄鼠を睨めつけた。そして仕切り直しだと言う様に、もう一度ダッと大地を力強く蹴倒す。
 そうして飛びかかる鼠達を素早くひぃひょいと躱しながら、鉄鼠に向かって距離を詰めていった。

 ダダダッと鼠共の間を縫う様に駆け、鼠の手足が届かぬ虚空へと思いきりバッと飛び上がる。
「醜い笑いもそこまでよ!」
 高らかに張り叫び、構えていた刀を振り上げた。

「雷電付呪《らいでんふじゅ》!」
 彼女の叫びに呼応し、バリバリッと鈍色の刀身に紫電が走る。

「豺牙《さいが》っ!」
 振り下ろされる刃と共に、紫電が豺《やまいぬ》の姿を成し「ガアアッ!」っと牙を剥き出して鉄鼠に襲いかかった。

「ひょああっ!」
 鉄鼠はわたわたと泡を食って、軍隊を盾と変える……が。豺と言う紫電に触れた鼠達はビリリッと感電していく為に、次々と盾が薄くなっていった。

 そして豺の牙と言う紫電が到達すると同時に、振り下ろされる刃が鉄鼠を裁断する。
「ギャアアアッ!」
 鉄鼠の大絶叫が空気を震撼させた。それと共に、幾匹の鼠達が一気に塵と化し、ぶわあっと霧散する。

 薫はトンッと軽やかに着地を決めてから、「良かったぁ」と胸をなで下ろして刀を鞘に収めた。

 キンッと甲高い金属音が弾けるが、戻って来た静寂によって溶け消えてしまう。

「よしっ、これで大丈夫!」
 薫が満足げに独り言ちた、刹那。