そうして聞こえてくる音が微かになり、仄暗い暗闇を感じると、唐突に薫の全てがハッと我に帰る。

 小さく肩を上下させてハッハッと短くなった息を整えながら、周りを見渡すと……そこは丁寧に手入れされた薔薇が咲き誇る庭園であった。

「……私ってば、外まで飛び出しちゃったのね」
 仕事があるのに。と、思った以上に遠くまで駆け走ってしまった自分を責め立てるが。フッと蘇るあの二人の姿に、薫は免罪符を得た気がした。

 うん、うん。そうよ。ちょっとこうして一人で気持ちを作った方が良いもの。

 ふうと小さく息を吐き出し、込み上げる涙をググッと掌底で拭った。

 その時だった。
「おや、先客が居ましたか」
 後ろからかかる、艶やかな低い声音に、薫はハッとし身を翻す。

 見れば、闇を縫うようにして一人の男性が現れた。少し離れた所からでも、ふわりと漂う上品な香水。カッチリとした燕尾服に身を纏い、胸ポケットに上質な白色のハンカチを入れている。
 短めの黒髪を後ろに撫でつける様にして固め、キリッと上品な髪方をしているが。彫りの深い、端正な相貌で充分凜々しさが感じられた。

 な、なんか枢木教官とはまた違った格好良さだわ。魅惑的な何かを感じちゃう……。

 薫は現れた男性に息を飲んでから、「し、失礼します」とおずおずと脇を抜けて行こうとした……が。

「そうも慌てて行こうとしないで下さいよ、お嬢さん」
 男性は歩き出した薫の足を素早く且つにこやかに止めて、「折角ですからお話でもしませんか」と、朗らかに促した。

「今宵を楽しみにしてこちらを訪れたのですが、人酔いしてしまいましてね。しかしこのまま誰とも話さず、薔薇と話すだけは寂しいと思っていた所なのですよ」
 眉根を寄せ、小さく肩を竦めて話す彼に、薫は「そうだったんですか」と足を止めて、おずおずと向き合った。

「でも、私、仕事を少し抜け出してしまった所なので……」
「では、少しだけお付き合い下さい」
 男性はニコリと指先で「少し」と言うジェスチャーをして訴えかける。

 キリッとしていながらも、可愛らしい雰囲気に薫は「で、では少しだけ」と弱々しく白旗を揚げてしまった。

 こんな所まで一人で抜け出したのがバレただけでも怒られそうなのに、こんなサボりなんてもっと怒られそう……でも、今は、ちょっと位許されるわよね?
 いや、許されるべきよ。と、薫は内心で刺々しく独りごちてから、男性と対峙した。

 男性は話し相手となる事を承諾した薫に向かって「ありがとうございます」と、ふわりと微笑んで礼を述べた。

 薫はその礼に「いえ」と口元を綻ばせて答えてから、「でも、逆によろしいのですか?」と問いかける。

「こんな軍服を着た男女《おとこおんな》と、こんな所で二人きりになっても」
「男女《おとこおんな》、ですか? 私には貴女が実に可愛らしい女性にしか見えないので、正直この状況は喜ばしい事この上ありません」
 こうなっては、人酔いして良かったと心底思いますよ。と、男性はあっけらかんと打ち返した。

 思いも寄らない答えに、薫は「へっ」と素っ頓狂な声を上げてしまう。

 初めての男性からは百発百中と言って良い程に、悪口か罵倒が飛んで来るのに? ! 私を可愛らしいって褒めた? !
 薫は雷に打たれた様な衝撃に愕然とし「わ、私が、ですか?」と目を見開いて訊ねる。

 男性は、何もおかしい事は言っていないと言わんばかりに相好を崩して「えぇ」と柔らかく首肯した。
「薔薇も相まって、実に麗しい」
 フフと艶やかに微笑むと、カツカツと一歩ずつ距離を確実に詰め始める。

 薫はドギマギと暴れる内心を抑えるのに必死で、詰められていく距離にはどうにも出来なかった。

 見目麗しい顔が近づき、スッと頬に向かって伸ばされる手にただただドキリドキリと胸が跳ねる。

「ああ、本当に貴女は夜が良く似合いますね」
 ツツツと冷たい指先が、ほんわりと温かい頬をなぞった。
「暗闇が黒ければ黒い程良い。こうした真黒でないと、花影の貴女には相応しくないですから」

 ……花影の貴女?
 ドキドキと胸を打っていた薫はあまりにも泰然と吐き出された言葉に、一拍遅れて気がつく。

 ハッと息を飲み、怪訝を声高にぶつけようとした……刹那。薫の意識がぶわっと黒に染まり、身体を支えていたものがブチブチッと切れて弛緩する。

 ……な、何が起きたの。
 黒に飲まれまいと、薫は必死に抗いながら思ったが。その思考も、遂にブツリと寸断されてしまった。

 だが、全てが途切れる前に、薫の耳は遠くから発せられる冷たい声を拾っていた。

「クククッ……実に愚かな花影よ」