薫は、現れた女性の姿に息を飲む。

 貴婦人然とした、何とも美しい姿。何度も梳いて、艶やかに手入れされた黒髪を丁寧に編み込み、しなやかに胸元へ流している。パッチリと大きな瞳、紅がささったぷるんと麗しい唇、スッと高い鼻。均整が見事に取れた、麗しい相貌である。
 纏っている上品な白色の洋服は、細い身体にピタリと沿い、艶めかしい女人的な線をくっきりと露わにしている。だからこそ、と言うべきなのか。彼女の肉体美が情欲に須く突き刺さる様であった。

「突然の来訪、大変申し訳ありません」
 鈴を転がす様な声が彼女から発せられて、薫はようやくハッと我に帰る。

「いえ、こちらこそ申し訳ありません。東雲嬢ともあろうお方に、この様な所に足を運ばせてしまったので」
 雅清はニコリと口角だけをあげて答えた。

 すると優衣子はその笑みに、にこやかに相好を崩して「いえ、そんな」と首を振ってから、スススッと雅清の方に歩み寄る。
「枢木様には、どうしても火急でお伝えしたい事がございましたのよ。ですから、私《わたくし》、こちらに参った次第なのです。そのお話と言うのは先日助けて頂いた時の事、そして今朝の朝刊の事です」
 ご覧になりまして? と、可愛らしく八の字に眉をさげ、きゅるんとした上目遣いで雅清に訊ねた。

 雅清が「えぇ」と淡々と頷くと、優衣子は「あぁ、やはり!」と手を両頬にパチンと当て、悲痛な声をあげる。
「あの記事は、父が先走って行った事ですのよ! 婚約どころかきちんと会ってすらいないのに、あたかも婚約が成立した様に書かせて……これじゃあ外堀だけを埋めていく様なものですわよね。本当に申し訳ありません!」
 父にはよくよく言っておきましたし、直に撤回が出るはずですわ! と、優衣子はガバッと大きく頭を下げ、悲痛に訴えだした。

 そんな令嬢の姿に、雅清は「頭を上げて下さい」と慌て、枢木隊の面々もギョッとする。
 彼女は現内務大臣の息女、つまりこんな面々に対して直々に頭を下げる事なぞあり得ないと言っても良い程の事態だからだ。

 だが、優衣子はそんな体裁を気にする事なく「此度の一件、私、本当に恥じておりますわ」と苦々しく言葉を継ぐ。
「こんなやり方、最低も最低ですもの。父のせいで、いいえ、私のせいで本当にご迷惑をおかけして……何と謝しても足りない位ですけれど、本当に申し訳ありませんでしたわ!」
「い、いえ。そこまで重篤な事態が起きたと思っておりませんので、そんなに気に病まないでいただきたい。そしてお父上様をそうもお恨みになる必要もございませんよ。きっと貴方様の幸せを思ってやった事、悪気があった訳ではありませんでしょう」
 雅清は彼女の頭を上げさせてから、ニコリと柔らかな微笑を向けた。
「……まぁ、本当に枢木様はお優しいお方ですね」
 優衣子はホッと胸をなで下ろし、口元を柔らかく綻ばして答える。

 だが、薫は見てしまった。彼女の頬がポッと紅潮して緩み、ただの笑みを彼に向けている訳ではないと言う事を。

 ……嗚呼。こんな事分かりたくないけれど、同じ女だからこそ分かってしまう。
 なんやかんや言いつつもこの女性は、枢木教官の事が本当に好きなのだわ。

 薫はキュッと唇を真一文字に結び、グッと奥歯を噛みしめた。

 私と同じ。でも、私なんかじゃ、こんな美しい人には太刀打ち出来ないわ。
 噛みしめる苦みが、じくじくと辛さに変わっていく。

 すると「まぁ!」と朗らかな声が飛んだ。その声にビクリとするや否や、薫の手がパッと勝手に宙に動き、ぎゅうっと温かく柔らかな手に包まれた。
「女性の方もいらっしゃったのね!」
 薫は突然の事に目を白黒とさせ、眼前の麗しい美に圧倒されながら「は、はい」と弱々しく答える。
「く、枢木隊、二等兵の柚木薫と申します」
「まぁまぁ、そうでしたのね。私、東雲優衣子と申しますわ。良かったわ、ここは女性が入ってはいけないと言われていたから不安で堪らなかったのだったけれど。貴女が居るから、そんな不安がなくなったわ!」
 心強い想いになりましたわ! と、目の前でキラキラと零される可愛らしい笑みに、薫は「え、えっと、そうですか、それなら良かった? です」とぎこちない言葉とぎこちない笑みを返した。

 優衣子はそんなぎこちなさを気にしないで、否、気づきもせずに「えぇ」と朗らかに頷く。
 そんな彼女に戸惑い、呆然とするばかりの薫であったが。「東雲嬢」と、助け船が入った。

 その声にハッとすると。雅清が薫の手を取ってはしゃぐ優衣子を見据えて「部屋を移動しましょう」と、優しく彼女に退出を促した。

「恥ずかしながら、私の部下はこんな歓談に興じる程の余裕はなく、鍛錬を積まねばならぬ身であります。しかし、貴女様にそんな光景をお見せする訳にはいかない。なので、どうか応接室にお移り願えますか?」
 私がご案内致しますので。と、サッと手を差し伸べる雅清。

 その姿に、優衣子は「分かりましたわ」と婉然と答え、麗しく雅清の元へ歩み寄る。そうして差し伸べられた手に自身の手を乗せると、雅清のエスコートで道場を辞去した。

 ズキン、ズキンと胸が緩慢に痛み続ける。一撃で沈めてくれれば良いものを、この痛みは強く、長く尾を引いた。

 薫は自分の手をソッと胸元に引き寄せ、キュッと握りしめる。

 ……柔らかかったな。あの人の手、女性の手って感じで。こんな手とは。豆だらけで、ゴツゴツと厚くなった皮膚をした汚い手とは大違いだったわ。
 それに、並んでいる姿がとても絵になっていたわよね。こんなちんちくりんと並ぶよりも、美男美女で本当にお似合いだった。
 嗚呼、私、あの人に近すぎて忘れていたわ。本当に、あの人の横に相応しい女性って言うのは、あんな女性なのよね……。

「私なんかじゃ、とてもじゃないわね」
 ハハと乾いた笑みがポロリと零れた。そしてじくじくと込み上げる熱い想いが、目を刺激し始める。

「柚木さん」
 後ろからかけられる柔らかな声に、薫は慌ててぐにゃぐにゃと歪む目をゴシゴシと掌底で拭い、パッと笑顔で振り返った。

「柊副教官、お相手お願い出来ますか!」
「……勿論、良いよ。何本でもね」
 怜人は柔らかく微笑んでから、木刀を構えた。

 そうして薫は自分の涙が乾ききるまでバシバシッと剣を振い、痛みが薄れるまで何度も立ち上がり、向かい続けたのだった。