小さな島国の内で様々な思想がぶつかり合い、傷つけ合った幕末。
 人々の心は荒み、多くの怨嗟が生まれ、恨み辛みが至る所で溢れていた。

 そうして積もり募った負の念は、二百年ほども続いた平和によって力を失いかけていた物の怪共に力を与えてしまった。

 その結果、人は人だけでなく、物の怪共に淘汰される様になったのである。

 だが、その禍々しい事態が突如転機を迎える事になった。
 新政府の樹立、西洋の流入。明治と言う新時代の到来であった。

 強引に作り変えていく変化によって、人も、物の怪も、内だけの争いを繰り広げている場合ではなくなったのである。

 そしてそれは、人よりも物の怪の方が酸鼻を極めた。渡航してきた西洋のあやかしに自らの住処を追われ、淘汰される様になったのである。

 物の怪共は自らを確固たるものとする為に、西洋のあやかしと激しく争い始めた。無論、西洋からのあやかしも、やられるものかと迎撃に当たった。
 その戦いに巻き込まれ、人の怨嗟が重なっていく。それが、彼等の力の源となり、利用されている事も知らずに。

 そうして滾々と連なる負の連鎖によって、幕末期よりも小さな島国は荒れに荒れていった。

 これではいけない。と、新政府を樹立するに一役を担った岩倉具視《いわくらともみ》は、当時の陰陽師と神父等をかき集め、対魔の部隊として聖陽軍《せいようぐん》を組織した。

 人々の為、そして日の本の治安を平定する為に、彼等聖陽軍は力を振るう様になったのだ。
・・・
「そうして大正となった現在では、聖陽軍は陸軍部から離れ独立し……」
 淡々と紡がれていた雅清の言葉が不自然に止められる。

 そればかりか、教壇に立つ彼の目はある一点だけを捉えていた。
 皆が、そんな彼の視線の先を手繰ると。机に突っ伏し、スウスウと心地よさそうな寝息を立てている柚木薫の姿があった。

 雅清は教本を手にしながら、スッと教壇を下り、一歩ずつ着実に距離を詰める。

 カツン、カツン……床を冷淡に踏みしめる音が止まった。だが、それでもスウスウと心地良く立つ寝息は途切れない。

 すると、バシンッと荒々しい音が大きく弾けた。

 突然頭に入り込む重たい一撃に、ストンと闇に落ちていた薫の意識が急上昇する。
「この講義で居眠りをする馬鹿は初めてだ、柚木薫」
 ズキズキと迸る痛みに加えて、上から降り注ぐ冷淡な口撃によって、薫の意識はそのままバチッと漂着し、素早く覚醒した。

 薫はガタッと立ち上がり「も、申し訳ありません!」と、バッと敬礼をする。
 だが、目の前に居る鬼教官・枢木雅清がそんな謝罪だけで許しを与える訳もなく……
「十周、坂を走ってこい」
「えっ! ?」
 罰則は覚悟していたが、まさかの坂と言う限定コースに薫は顔を歪めてしまった。

「何が、えっ、だ。寝ていたお前が悪いんだろう?」
「そ、それはそうなんですけど。でも、罰なら他にもあるじゃないですか。坂道やったら、この時間が終わった後にある見回りが」
「見回りをへばった身体で行きたくなければ、さっさと行って来い!」
 雅清は薫に一喝してから、スタスタと教卓に戻り「そうしてこちらは力をつける環境を整えられたが、奴等も俺達と同じで力をつけてくる」と、何事もなかったかの様に講義の続きに入る。

 薫は取り付く島もない雅清にむむっと頬を膨らませてから、「行って参りますよっ!」とダッと駆け出した。

 そうして講義室を飛び出そうとした、その時だった。
「柚木」
 教卓に立つ雅清が、後ろの扉から出て行こうとしていた薫の足を止める。

「……はい?」
「今から出す難問に答えられたら、五周減らしてやる。答えられなかったら十周のままだ」
 思わぬ提案に、薫は「えっ」と面食らった。

 この鬼が自ら、回数を減らしてくれるなんて。いや、でも、待って。難問って言っていたわ。だからよっぽど難しい問題を出してくるに違いないのよ、私の頭じゃ答えられない様な難問をね。
 コイツは、ただでは甘い思いをさせてくれない鬼よ。本物の鬼も逃げ出す、冷酷無比の鬼だもの。

 薫の心の中でぶわりと言葉が並んだ。どれもこれも、雅清に対する悪口の様なものであるが。どれほどそんな言葉が並んでも、周回数を減らす事が出来るかもしれないと言う蜜に飛びつかない訳にはいかなかった。

 薫はキュッと唇を結び、「難問だろうが、上等です!」と言う顔付きで雅清を見据える。

 雅清はその眼差しを受け取ってから「では」と、徐に問いかけた。

「我々聖陽軍が取り決めた、物の怪とあやかしの総称を述べよ」
 薫は、前から告げられた問いに「ハアッ! ?」と面食らう。

 それの、どこが難問よ。こんなの聖陽軍に居る者なら、ううん、帝国民なら誰もが知ってる常識じゃないの!
 素っ頓狂な難問に、薫の心でごうっと火柱が勢い盛んに立ち上った。

「答えられないなら十周だぞ」
 雅清は泰然と言葉を継ぎ、「早く答えろ」と促す。

 相も変わらぬ冷静な姿に、薫の血管が一つ一つブチブチッと立て続けに弾けていく。

「魁魔《かいま》ですっ!」
 怒り猛った咆哮が飛んだ。
 だが、その咆哮をぐわっと一身に浴びせられた雅清は、平然としている。そればかりか、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべ「正解だ、五周に減らしてやる」と、彼女の怒りを助長させた。

 薫は依然飄々とする雅清をキッと睨めつける。

「《《十周》》、走って参ります!」
 捨て台詞の様に吐き捨ててから、薫はダッと廊下に飛び出した。

 一人、ダダダッと廊下を猛々しく駆け抜けていく。

 枢木雅清、あんなの人じゃないわ。本当に鬼よ。じゃなきゃ、皆の前であんな問題出さないし、私をお笑い種に祭り上げるなんて酷い事はしないもの!
 薫は沸々と煮えたぎる怒りで足を勇ましく動かしていた。

 だが、轟々と唸る火柱に突然フッと小さな水滴が飛んでくる。

 ……あ~あ。初めて会った時は、もっと優しくて、もっと素敵だったのになぁ。

 ピチャンと当たった水滴が一気に蒸発すると、そこに入れられていた思い出がじわじわと広がっていく。

 アレは忘れもしない、十六の春。厳しい家の監視と邪魔を何とかくぐり抜け、やっとの思いで家の外に出られた時の事。

 身一つで飛び出して来たにも関わらず、久しぶりの外の世界に胸が躍って、目に飛び込んでくる全てに気を取られていた。
 だからその時の私には「危ない」とか、「引き返せ」って言う縛りが一切なかった。
 まるで危機感なく歩いていた。魑魅魍魎《ちみもうりょう》が跋扈《ばっこ》し続ける外の世界で、そんな女は目立って仕方ない。

 案の定、私は天狗と言う物の怪に襲われた。突然だったと言う事もあるけれど、それ以上に全てが緩みきっていたせいで、私は素早く動けなかった。

 ……今でもあの時の力強い手と、空を飛び上がられた気持ち悪い感覚は忘れられない。

 嗚呼、私、死んじゃうのかも。
 本気でそう思ったし、「天を素早く駆ける天狗には、手も足も出ないから仕方ない」と諦めていた顔が、切羽詰まる私の視界に数多く映ったせいで余計にその思いが強まった。

 でも、その思いを断ち切るかの様に、彼は、雅清さんは来てくれた。

 二振りの刀を握りしめながらダダダッと素早く瓦屋根を駆け、力強く瓦を踏みしめて高く飛び上がる姿は、本当に格好良くて……そんな姿に見惚れていたら、私はいつの間にか彼の腕の中に居た。

 混乱するけれど、嫌ではなかった。ドキドキと緊張が走っていたけれど、死の恐怖を感じる様なものじゃなくなっていた。

「天狗は俺が斬ったから、もう怯えなくて大丈夫」
 なんて、柔らかく相好を崩しながら優しく言葉をかけられてからは、もう……私は、彼の虜だった。

 家の者に引き渡され、家の者にこっぴどく叱られても、私は夢見心地のままで彼だけを想っていた。

 でも、想うだけじゃちっとも満足しなくて。「彼にまた会いたい」って言う願望が生まれてからは、家から出られない私は動かせる人員を使って彼を調べた。

 自分でも恐ろしい程の粘着質だなって思ったれど。そんな事を気にしている場合じゃなかったのよね。
 彼には常に女性からの熱い好意が突き刺さっていて、誰かを助ける度にその好意が増えていくばかりらしかったから。

 ……それが心底嫌だった。彼にとっては、私なんて以前助けた人の認識もあるかどうか分からない位なのに。私は、傲慢にも嫉妬していたの。

 でも、そこからどんどんと「彼の目に映りたい」「彼の側に居たい」って。傲慢が加速して、想いが強い願望に変わっていった。

 じゃあ、どうするか……他の女性達と、一線を画すしかないわっ!

 そんな単純馬鹿な答えに背をバシバシッと蹴られ続け、とうとう私は聖陽軍の入隊を懇願した。勿論、家の者達からは猛反対。

 でも、私はなんとしてでも彼の側に居たかった。

 だから死ぬほど食い下がって、突き出される条件も飲み込んで、なんとか強引に入隊を認めさせた。
 そうして女性の入隊に渋る聖陽軍の面々も認めさせて、異例の入隊を果たすと。雅清さんが凄腕で、帝国きっての双刀の使い手だからと言う事もあって、私は運良く枢木隊に入れられた。

 だからすぐに、雅清さんに告白したのだけれど。その結果は分からない。と言うか、聞いていないのよね。

「不純な思いを抱いていますけれど、ここに入ったからには本気で戦いますし、強くなりますから! 手抜かりなく、ビシビシとしごいてください! これからよろしくお願いします、枢木教官!」
 って、吐き捨てて行っちゃったから……。

 告白したのも一方的、打ち切ったのも一方的。

 それだからか、雅清さんは踏み込んで来ない。多分、有象無象すり寄ってくる女と同じ戯れ言を吐かれた程度で、私の告白はなかった事になっているのだと思う。

 じゃないと、こうも普通に接してこないだろうし、周りの男衆以上にしごかれる訳がない。

「まぁね、まぁね。こっちだって現実を知ったおかげで、恋心なんて夢幻の如くですけれどもねっ?」

 薫は忌々しく呟き、滔々と流れた甘酸っぱい思い出に終止符を打った。
 そうしてバシッと心を切り替える、待ち構える地獄を迎撃する為のやる気に。