「――伍月。これからは女も強くあらねばならぬ時代よ。常に凛と、背筋を伸ばしていなさい。舐められたら終わりだからね」


 それが、おばあちゃんの口癖だった。

 うちは歴史ある弓道の道場で、おばあちゃんが師範。
 お父さんがそうだったように、私も幼い頃からおばあちゃんの指導を受け、弓道の技術だけでなく、武の道に生きる者の心得を徹底的に叩き込まれた。

 おばあちゃんは、早くに夫――つまり、私のおじいちゃんに当たる人を亡くしていた。
 そこから女手一つで道場を切り盛りしていたから、余計に「女を理由に舐められたくない」という意識が強かったんだと思う。
 初めての孫娘である私に、おばあちゃんは自分の全てを注ぎ込もうとしていた。

 おばあちゃんに躾けられて、よかったこともたくさんある。
 礼儀作法とか、善悪とか、自尊心とか、生きる上で必要なことをたくさん学ばせてもらった。

 けれど、「舐められるな」「強くあれ」と散々刷り込まれた私の振る舞いは……
 周りから見れば、「気が強くて空気の読めない子」でしかなかった。

 私は、イエスもノーもはっきりと言う子供になってしまった。
 当然、周りからは煙たがられる。友達なんてできるはずもない。
 
 それで良かった。
 軟弱で薄っぺらい人間付き合いなんていらない。
 私はみんなと違って、強くて気高いのだから。

 ……なんて、嘘。
 本当は誰よりも臆病で寂しがり屋なのに、それを隠し、偽っていただけ。

 でも、言えなかった。
 おばあちゃんに怒られるのが怖いから。
 いつしか私は、お仕置きで閉じ込められる蔵の中でしか泣けない――密室でしか本心を曝け出せない人間になっていた。


 ――そんなおばあちゃんは、私が中学一年の時に亡くなった。
 でも、私の"密室弁慶"体質は変わらなかった。

 そのまま友達ができることなく、中学を卒業。
 高校では変わりたいと思いながら、第一志望校に入学した。

 しかし……

「見てみて、あの先輩カッコよくない?」
「二年の平泉薙沙センパイだって。ビジュ良ーっ」
「でもバスケ部には所属していないらしいよ? 一年生を集めるために助っ人で来ているだけみたい」

 ……部活見学に訪れた同級生の会話に、私は早くもウンザリしていた。

 見るからにチャラそーな金髪の先輩がシュートを決め、集まった一年女子にヒラヒラと手を振っている。湧き上がる黄色い声援。私は、密かにため息をつく。

(こういうくだらない話に同調しなきゃできない友達なら……いなくてもいいかも)

 なんて、友達作りに早くも心が折れそうになりながら、私は弓道場の見学へと向かった。

 その途中、空手部の道場を通りかかった時。
 ふと、一人の生徒に、視線が留まった。

 ――バシッ……!

 気合いを吐きながら、高い蹴りを叩き込む男子生徒。
 食らった試合相手が、後退しながらよろめく。

 鋭い目付きの、背の高い男子だった。
 一八〇センチは優に超えるであろう長身。がっちりした肩幅に、広い背中。大柄なのに動きは素早く、とても軽やかだ。
 試合中のため、殺気立った雰囲気を醸し出しているけれど……よく見ると精悍で整った顔立ちをしていた。

 しばらく釘付けになっていると、試合が終わり、両者が礼をした。
 勝利した例の男子に、監督らしき先生が歩み寄る。

「流石だな、吉武。次の試合も頼んだぞ」
「っす」
「三年が引退したら、主将はお前に任せる。これから入ってくる一年の面倒もしっかり見てやってくれ」
「っす」

 監督の期待満点の声かけに、汗を拭いながら短く答えるその人。
 吉武先輩……二年生か。
 強いのに謙虚で、かっこいいな。

(私は、さっきの金髪の人よりこういう人に憧れるんだけど……わかってくれる友達は少ないんだろうな)

 なんて、またため息をついて。
 私はそのまま、弓道場へと向かった。



 ――それから。
 私は吉武先輩を校内で見かける度、目で追うようになった。

 先輩は、いつも冷静で無表情。
 口数も少なく、お世辞にも愛想が良いとは言えない。
 硬派で真面目な、落ち着いた人という印象だった。

 気になるけれど、もちろん声をかけたりはしない。
 孤独で退屈な高校生活において、たまに見かけると「あ」ってなる、心の中の密かな推し。
 先輩は、そんな存在だった。

 当然、接点なんて皆無のまま、三ヶ月が過ぎ――



 ――七月。
 それは突然、訪れた。

 体育祭の実行委員を任され、初めての会議に向かうと……
 そこに、吉武先輩がいたのだ。
 ……女子に大人気な、あの平泉先輩と一緒に。

「――よっ、ヨシツネ。空手部の主将になったんだって? なーんか見る度に逞しくなってんなぁ」

 平泉先輩が吉武先輩に話しかけるのが聞こえる。
 まさか、あの二人が知り合いだったなんて……意外だ。タイプが真逆すぎるのに。

(にしても……吉武恒久(よしたけつねひさ)だから、ヨシツネかぁ……私もそう呼んでみたいな)

 そんなことを考えながら、初めて間近で見る先輩に少しドキドキしていると……

「ねぇ……これって、いつ始まるのかな?」
「私、今日習い事があって、早く帰らないといけないんだよね……」

 近くの席に座る一年生の女子が、困ったように囁くのが聞こえた。
 確かに、実行委員は全員集まったのに、会議は一向に始まらない。皆、思い思いに雑談しているばかりだ。
 ……これじゃあ、早く帰りたい人が困ってしまう。
 
「――あの」

 咄嗟に、私は手を上げていた。
 思ったより声が響き、その場にいる全員が一斉にこちらを向く。

「……体育祭に向けた会議、そろそろ始めませんか? 先輩方、どなたか仕切ってください」

 私としては、いつも通りの振る舞いだった。
 けれど、言ってから後悔する。

 ……そうだ。こういうところが「キツイ」と思われて倦厭されているのに……
 よりにもよって、憧れの先輩の前で発揮しちゃうなんて。

 しかし、時すでに遅し。
 私の言葉に教室の空気は凍り付き、三年生の先輩が気まずそうに司会を始めた。

(うぅ、やっちゃった……吉武先輩にも見られたよね……?)

 恐る恐る、吉武先輩の様子をチラ見すると……
 先輩は、真っ直ぐな目で、私のことをじっと見つめていた。

(お……思ったよりガン見されてる! なぜ?!)

 内心、汗をダラダラと流すけれど……その視線の理由は、わからなかった。



 その後のくじ引きの結果、私は吉武先輩と同じ、用具を管理する係になった。
 ……ついでに、平泉先輩も。

(まさか吉武先輩と話ができる機会に恵まれるだなんて……実行委員になって、本当によかった)

 胸の内で浮かれながら、私は先輩たちと係の仕事を進めた。

 吉武先輩は、遠くから眺めていた限りでは無口で冷たそうな印象だったけれど……
 実際に話してみると、平泉先輩にツッコんだり、時々冗談を言ったりする面白い人で……

「――重いものは一人で無理せず、俺に任せろ。怪我したら大変だ」

 ……こんな風に、困っているとすぐに助けてくれる、優しい人だった。

 一緒に過ごせば過ごす程、私はますます吉武先輩に惹かれていった。
 なのに、その想いとは裏腹に、私の強がりは留まるどころか悪化した。

 何故なら……
 恋心は、私が抱いた中で、最も脆くて弱い感情だったから。

 ……隠さなきゃ。
 毅然とした態度で、弱い心を隠さなきゃ。
 弱みを見せたら……負けだから。

 そんな脅迫めいた思い込みに囚われ、先輩の前では特に素直になれなかった。



 ――でも、あの日……
 七月中旬の、夕立が降りそうな放課後。
 体育倉庫に、吉武先輩と二人で閉じ込められた時。

「…………すき」

 突如として訪れた密室状態に、私は抑えていた本音が溢れてしまい……


「私、ヨシツネ先輩のことが…………ずっと、好きでした」


 いきなり、告白してしまった。

 ……馬鹿だ。
 散々辛辣な態度を取ってきたクセに、今さら「好き」だなんて。こんな都合の良い告白、受け入れてもらえるはずがない。

(せっかく同じ係になれたのに……これで、すべて台無しだ)

 自分の馬鹿さ加減に、涙が込み上げ……
 先輩の前から走り去ろうとした、その時。

「――待て」

 先輩に、腕を掴まれた。
 驚きながら、振り返ると……


「――好きだ。付き合ってくれ」」
 

 緊張した面持ちで、吉武先輩が、そう言った。

 これは……夢?
 それとも、私の願望が生んだ幻?

 そんな、信じられない展開を経て――
 私は、ヨシツネ先輩と付き合うことになった。



 * * * *



 付き合ってからの先輩は、それはもうギャップの嵐だった。

 無口で無愛想……ではなく、真顔でアホな発言ばかりする変人で。
 真面目で硬派……でもなく、むっつりスケベな変態で。
 無関心で冷たい人……どころか、誰よりも愛情深くて嫉妬深い、重すぎる人で。

 でも、そんなギャップを知る度に――
 私はますます、先輩のことが大好きになっていった。



「――大橋さんって、もっと怖い人かと思ってた」

 二年生も終わりに近付いた、ある時。
 席替えで近くの席になった女子に、こう言われた。

「他人に厳しそうだなぁって勝手に思っていたけど……話してみると全然そんなことない。むしろ、めちゃくちゃ話しやすくて安心しちゃった。もっと早くに声かければよかったぁ」

 その言葉に、私は驚く。
 そんなことを言われるのは、初めてだった。
 いつも知らず知らずの内に相手を傷付けて、嫌われるのが常だったから。

 もしかして、私……少しずつ変われている?
 そこまで意識していないつもりだったけど……何が原因だろう?

 なんて考えてみるけれど、理由は明白だった。
 ……馬鹿みたいに優しくて、しつこいくらいに気遣ってくれる、恋人のせい。

 ヨシツネ先輩が、強がりな私も弱虫な私も、すべて受け止めてくれたから……
 密室と、その外との境界が、曖昧になってきているのだ。



(……先輩のお陰で、ついに友達ができたよ)

 先ほどの女子と交換した連絡先を眺め、胸の内で呟く。

 ……ほんと、先輩がいてくれたから、孤独な毎日が驚くほど楽しくなった。
 昼休みに食べるお弁当も、一緒に回った文化祭も、図書室での勉強会も、放課後のお喋りも……
 みんなみんな、眩しいくらいにキラキラした思い出だ。

 けど……
 そんな日々は、もうすぐ終わる。

 ヨシツネ先輩が、卒業しちゃうから。

「………………」

 でも、もう泣かないと決めた。
 別れに向かっているんじゃない。もっと楽しい、二人の未来に向けて、私たちは進んでいるだけ。

 だから……
 最高の笑顔で、先輩を送り出してあげたい。

 そのためには――



「――あれ? 伍月ちゃんじゃん。どうしたの? こんなところで」

 放課後。
 私は、平泉先輩が一人でいるのを見計らい、彼の前に現れた。

 不思議そうに私を見つめる彼に、私はすっと息を吸って……


「――平泉先輩。期間限定の桜ペラペチーノ奢るので、私に協力してください」


 用意していたセリフを、高らかに突き付けた。