ホームルームが終わり、生徒たちが一斉に下校する中……
 俺は、南校舎の二階――伍月のクラスがあるフロアの隅に身を潜めた。


 下級生がぞろぞろと階段を降りて行く中に、伍月の姿はない。
 大方、まだ教室に残っているのだろう。下校中、俺とばったり鉢合わせないようにするために。

「二年生もあらかた帰ったみたいだね……そろそろ教室に突撃する?」

 と、廊下の端で様子を窺う薙沙が、サングラスをずらしながら言う。
 素顔のままだと下級生がキャーキャーと寄って来るため、タオルを頭に巻き黒いサングラスをかけ、変装しているのだ。

 薙沙の問いに、俺は首を横に振る。

「いや、出て来るのを待とう。俺に考えがある」

 そうして、薙沙に作戦を伝え――
 俺たちは、それぞれの配置に就いた。



 ――十分後。

 教室のドアが開き、伍月が廊下に出て来た。
 他の生徒はとっくに下校している。誰もいない廊下を歩き、伍月は階段の方へ向かう。

(……よし、今だ)

 俺が思うのと同時に、伍月の進行方向――階段の曲がり角から、変装したままの薙沙がバッと飛び出した。

「ばぁーっ!」
「うわっ……変質者?!」

 伍月は足を止め、小さく悲鳴を上げる。
 そこで、薙沙は頭のタオルとサングラスを取り、満面の笑みで手を広げる。

「じゃじゃーん! 僕でしたー! 伍月ちゃん、びっくりし」
「ぎゃーっ! 平泉先輩イヤーーっ!!」

 薙沙を認識するなり、伍月は叫びながら反対方向――俺のいる方へと廊下を駆けた。

「え……? 僕って変質者よりも嫌われてるの……?」

 という薙沙の悲しい呟きが聞こえるが、構っている暇はない。
 廊下を走る伍月の足音に耳を澄ませ……

(――ここだ!)

 教室の前に伍月が到達したタイミングで、俺は隠れていたドアをガラッと開け、伍月の身体を捕まえた。

「へっ……? ヨシツネ先輩……?!」

 突然現れた俺に、伍月は目を見開く。
 驚いている隙に、俺はその身体を抱き上げると……
 教室の隅にある掃除用具入れへと彼女を運び、無理やり押し込むような形で、中に入った。

 ガチャンと閉めた、狭い用具入れの中。
 俺と伍月は、向かい合うようにして密着する。
 作戦は、無事に成功した。

 教室に引き込むだけでは完全な密室を作ることはできない。教室は前と後ろの二箇所にドアがあり、片方を閉めてももう片方から逃げられる可能性がある。
 だから、この用具入れに閉じ込め、"密室モード"を引き出そうと考えたのだ。

「ちょっ……先輩、近いっ……ていうか、なんでここに……?!」

 驚きと恥じらいが入り混じったような顔で、伍月が尋ねる。
 俺は目の前にある瞳をぐっと覗き込みながら、こう聞き返す。

「それはこっちのセリフだ。下校時刻はとっくに過ぎたのに、何故まだ教室にいる?」
「そ、それは……」
「……そんなに俺と遭遇したくなかったか?」

 伍月が「え……」と漏らすのを聞き、俺はすぐに自己嫌悪する。
 
 違う。こんな、伍月を責めるようなことが言いたいわけじゃない。
 俺が聞きたいのは……

「……どうして、俺を避けているんだ? 教えてくれ。俺に原因があるのなら、ちゃんと直すから」

 顔を近付け、真剣に尋ねる。
 戸惑いに震える、伍月の瞳。
 そのまま、一度唇を噛み締めたかと思うと……

 ――ぽろっ。

 ……と、揺れる瞳から、涙が溢れた。

 …………って、

「ど……どどどどうした、伍月?! ごめん、痛かったか? それとも、そんなに俺のことがイヤで……」

 初めて見る涙にぎょっとし、俺は大いに慌てる。
 しかし、

「ちがう……っ」

 伍月は、すぐに否定した。
 そして、涙に濡れたまつ毛を伏せながら……
 弱々しい声で、こう続けた。


「っ……だって、先輩……三年生になっちゃったんだもん……っ」


 …………ん?

「えっと……ごめん、どういうことだ?」
「だからっ……同じ学校にいられるのも、あと一年でしょ……? 先輩がいない生活に、今から慣れておかなきゃって思って……わざと距離を置いていたんです……っ」

 俺は……息を止める。
 俺のいない学校生活に慣れるために避けていた……?
 まさか、そんな理由だったなんて……思いもしなかった。
 
「伍月は…………俺が卒業したら、寂しいのか?」

 驚きのあまり、バカみたいな質問を投げかけてしまう。
 案の定、伍月は潤んだ瞳をきっと吊り上げて、


「あ……当たり前じゃないですか! 先輩がいない学校なんて、私さみしすぎて……このまま時間が止まればいいのにって、ずっと考えててっ……せんぱい、なんで三年生なの……? お願いだから、私を置いていかないでよぉっ……!」


 ……その言葉を聞いた瞬間。

 俺は、伍月の身体を――ぎゅうっと抱き締めていた。

 亜麻色の柔らかな髪が、俺の鼻をくすぐる。


 ……考えたことがないわけではない。
 俺と伍月は一学年違い。留年でもしない限り、俺の方が先に卒業してしまう。
 それまで当たり前のようにできていた昼休みのお喋りも、廊下ですれ違った時の目配せも、放課後の寄り道も、できなくなる。

 そのタイムリミットまで、もう一年を切った。
 それは、考える程に寂しくて、切なくて……どうしようもない事実。
 だけど……だからこそ、俺は……


「離れたくないなら、尚更……一緒にいられる今の内に、できるだけ側にいろよ……っ」
 

 ありったけの想いを込めて、伍月を抱き締めた。

 離れることに慣れるために離れるなんて、馬鹿げている。
 限られた時間の中で、一つでも多くの思い出を残すために、俺はできる限り側にいたい。
 それに……

「……安心しろ。卒業くらいじゃ簡単に離してやらないから。むしろ、離れないために大学へ行くんだぞ?」
「……どういうことですか?」
「言っただろ? お前と結婚して、"完全密室御殿"に住むんだって。卒業はそのための一歩だ。俺たちは別れに向かって進んでいるんじゃない。将来、誰よりも近くで生きるために、時間を進めているんだ」

 言って、俺は伍月の顔を見下ろす。

 不器用で、世界一可愛い、俺の彼女。
 赤く染まったその頬を、涙がぽろぽろとなぞってゆく。

 俺は愛おしさに目を細め、そっと顔を近付けると……


「だから――もう泣くな、伍月」


 そう囁いて。

 涙で濡れた頬に、ちゅ……っと、口付けをした。

 その途端、伍月が息を飲む。

「せ、せんぱっ……!?」
「……こっちも」

 言いながら俺は、反対側の頬にもキスをする。
 涙を上書きするように、何度も何度も。

「泣くなって……俺のこと、そんなに好きなのか?」
「っ……好きですよ! 好きだから、ずっとずっと、一緒にいたいの……っ」
「……俺も」

 低く囁き、キスの雨を降らせる。
 その度に、伍月の身体がぴくっと震える。

 ……伍月の想いが嬉しくて。
 唇に触れる頬が柔らかくて。
 密着した身体が熱くて……

 脳に、甘ったるい(もや)がかかり始める。

「んっ……せんぱ、い……」

 加えて、キスする度に伍月がくすぐったそうな声を上げるものだから、俺の熱はいよいよ沸点へと上り詰めてゆく。

 好きだ。
 好きだ好きだ、大好きだ。

「……伍月」

 キスの合間。
 俺は、吐息混じりに名前を呼ぶ。
 伍月は、それに応えるように俺を見つめ、

「せんぱい……」

 まるで熱に浮かされたように、目をとろんとさせながら、


「して…………口にも、ちゅって…………シて…………?」


 なんて……
 最高に可愛い顔で、甘えるように言った。

 心臓が、ドクンッと跳ね上がる。
 そのままバクバク暴れ、呼吸周期を乱してゆく。

 これは……反則だ。
 この状況でそんな風に言われたら、もう……

 …………もう、止まれない。

「………………」

 俺は、伍月の頬を両手で包むと……
 薄く開いた、その唇に……
 自分のを、そっと重ね………………

 ……ようとしたところで。


 ――ガタッ。


 俺の背後……掃除用具入れの扉の向こうから、そんな音がした。
 思わず固まる、俺と伍月。

 扉を隔てた先に感じる、人の気配……
 それが誰なのかは、言うまでもなかった。

 俺は、内側から扉をそっと開ける。
 案の定、目の前には……

 こちらの様子を窺うように耳を傾ける、薙沙がいた。

 伍月が「ひっ」と顔を赤らめ、震える。

「……盗み聞きしていたのか」

 ジトッと睨み付けながら低く尋ねると、薙沙は悪びれる様子もなく手をパタパタ振り、

「だってぇ、ちゃんと仲直りできたか気になってさぁ。んで? ちゃんと唇にちゅーできた?」
 
 なんて、にまにま笑いながら聞き返してくる。
 こいつは……間が悪いと言うべきか、良いと言うべきか。

 俺は息を吐き、用具入れから出る。
 そして伍月の手を取り、彼女が出るのを手伝いながら答える。

「お前が邪魔してくれたお陰で寸止めだ。危ないところだった」
「うっそ、ごめん。僕あっち行くから、続きしてどーぞ」
「いや、しない。もう大丈夫だ」
「えぇー? せっかく仲直りしたんだし、もうしちゃえばいいのに。たかがキスだよ?」
「……たかが、だと?」

 ギロッと、俺は鋭く薙沙を睨み付け、声を荒らげる。

「口と口でするキスは、紛れもない粘膜接触……そんなの、アダルトすぎるだろ!!」
「うわー、拗らせてるなぁ」
「俺はまだ高校生だ。責任が取れる年齢でもない。いくら伍月にねだられようと、刺激の強すぎる行為は避けるべきだ」
「へぇー……じゃあ、伍月ちゃんからキスをおねだりしたんだ。意外と積極的なんだね」

 ……と、軽い口調で放たれた薙沙の言葉に。
 伍月は、ぷるぷると震え始める。

 ……まずい。
 そう思った時には、もう遅かった。

 伍月は、右腕を思いっきり振りかぶると……


「……ばかぁあああっ!!」


 ――ゴッッ!!

 俺の頬に、強烈なストレートパンチをお見舞いした。
 俺が「ぐはっ」と倒れると、伍月はダッと駆け出し、

「この変態! サイテー! 先輩なんか早く卒業しちゃえ!!」

 そう言い捨てて、教室から出て行ってしまった。

 残されたのは、倒れた俺と、立ち尽くす薙沙のみ。
 俺は殴られた頬に手を当てながら、薙沙に冷たい視線を送る。

「……えっ、僕のせい?」
「どう考えてもそうだろう」
「えぇ……先にアダルトうんぬん言い出したのはヨシツネじゃん」
「くそっ。せっかく仲直りできたのに、また逃げられてしまった…………薙沙」
「今度はなに?」

 そのまま、俺は……
 薙沙に向けて、土下座するように頭を下げ、

「……いちごペラペチーノ追加で奢るから、伍月を捕まえるの手伝ってくれ」

 そう手を合わせると、薙沙はやれやれと首を振り、

「はぁ……抹茶スコーンもつけてよね」

 呆れたように笑いながら、ため息混じりに答えた。