渡利家に生まれたことを、特に嬉しく思ったことはないが、嫌だったわけでもない。ありがたいことにスペックには恵まれ、友達にも恵まれて運動も好きになった。お陰で学校で人気だったのは良かったが、一つだけ苦手なものがあった──楽器だ。
 小学校のときはなんとかごまかせたが、中学からはそうはいかなかった。だから意を決して佐藤に個人練習を頼むと、体育祭の準備の後で音楽室で待てと言われた。
 先生たちは会議中で他の生徒は帰っているはずが、音楽室からピアノの音が聞こえた。そっと中を覗くと、弾いているのは見たことのない女子生徒だった。全く知らない曲だったが、不思議と惹かれて聞き入ってしまった。
 ──が、俺でも分かるくらい中途半端なところで音は止まってしまった。
「なんで止めたん? 上手いのに」
「えっ? ……渡利君?」
 ピアノを弾いていた楓花は、俺のことを知っていたらしい。
 俺が残っている理由は適当にごまかして、続けてピアノを弾けと言った。俺はそれを聴きながら窓の外を眺め、いつの間にか床に座って寝てしまっていた。
 体育祭の準備で疲れたのかもしれないが、音楽を聴いて寝たことは今までなかった。それくらい楓花のピアノが心地よくて、もしかすると佐藤よりも上手く教えてもらえるかもしれない、と思った。
 楓花は驚いていたが、俺にリコーダーを教えることを了承してくれた。俺はそもそも音楽の基本も分かっていなかったので、そこから始めてもらった。
 俺がたまに放課後にいなくなることは学校の七不思議の一つのように笑われたが、楓花は誰にも言わずにいてくれた。楓花の時間を削っていたはずなのに文句を言わなかったし、嫌な顔もしていなかった。
 俺を見て騒ぐ女子は多かったが楓花が騒いでいるのは見たことがなかったし、二人でいるときも緊張している様子はなかった。だから俺も練習をしやすかったが──、その時間が穏やかに過ごせたからか、いつの間にか楓花のことを女として意識するようになった。
「渡利君は今日は、外にいたほうが良いんじゃないん?」
「ああ……ええねん、既にクラスの奴からいっぱいもらってるし。逃げるついでに練習しようと思って」
 バレンタインに練習を追加したその理由は、厳密には嘘だ。
 クラスの奴らから貰ったのは本当だが、楓花と過ごしたくて練習を入れた。もしかすると何か貰えるんじゃないか、と期待もしていたが、結局は何も貰えなかった。
 学校を出てから丈志に会ったので自転車に乗せてもらい、そのまま遊ぶことになった。
「あっ、誰か歩いてる……俺のクラスの奴や」
 先に学校を出た楓花だった。丈志はお菓子をねだっていたが、楓花は本当に何も持っていなかったらしい。去り際に楓花を見ていたのはリコーダーの件もあるが、どうしてくれなかったのか、と訴えたつもりだった。誰にも秘密で会っている分、少しくらい気にしてくれていると思っていたが──。
 楓花はその日を最後に、練習に付き合ってくれなくなった。佐藤からは〝俺が上手くなったから〟だと聞いたが、本当なのかは疑問だった。楓花と二人では会わなくなったのでちゃんと理由は聞けず、残念なことに高校も別々のところに決まってしまった。卒業なので写真くらい──と思ったが、そんなチャンスは巡ってこなかった。
「わ、渡利君、あの、付き合ってください」
 高校に入ると、告白されることが増えた。高校生になって、そういうことに目覚める奴が多いのだろうか。嫌な気はしなかったが、正直、俺は興味がなかった。
 ただその場で断るのは、その人自身を否定するような気がして申し訳なくて、告白してきた勇気の分は返そうと思った。
「じゃあ──今日、一緒に帰るか? 部活あったら今度にするけど。俺もバイトあるし」
「うん……じゃあ、今日……。あ、あの、付き合って、もらえるん……?」
「それは後で決める」
 緊張している奴はだいたい良い奴だったが、俺の何が良いのかと聞いても〝格好良いから〟だけだったし、
「渡利君いま彼女おらんの? カラオケ行こうよ!」
 明るく誘ってくる奴は気分転換にはなったが、そのノリが俺には合わなかった。公立高校特有のガラの悪さが合わさって将来を考えられる相手ではなかった。まだ高校生なので遊びで良かったが、それよりは自分の職のことを、親父のスカイクリアを継ぐことを真剣に考えたかった。
 初めのうちは何回か会った奴もいたが、告白される数が増えて、いつの間にか一回で判断するようになった。どうしても外見が好みではない奴には申し訳ないがその場で断ることになったが──、俺が一回しか遊ばないことはいつの間にか、〝誰でも良いから女の子と遊びたいだけ〟という悪い話に変わってしまっていた。俺を見てキャーキャー言う奴は減っていったし、告白してくる奴は全くいなくなった。
「渡利、おまえの噂、他の学校にも広まってるみたいやで」
「マジかよ……俺、何か悪いことしたか?」
 遊びたいだけ、という話でもじゅうぶん嘘だったが、噂を聞いただけの奴らが余計なデマをくっつけて、俺と目が合うと女たちはだいたい逃げるようになった。
 ──環境を変えなければ、俺は誰にも相手にされなくなる。
 そんな気がして、噂を知っている奴らがいなさそうな、地元からは離れた大学を受験することにした。通えるギリギリの距離だったし、レベルも少しは高かったので、知っている奴がいたとしても根拠のない話はしないだろうと思った。大学は自分の意思で学ばないと卒業できないので、もしもの場合は孤立しても構わないと覚悟は決めていた。
 総合大学で学生数も多いので、受験当日は全く気付かなかったが──。
 入学式の日に、楓花と再会することになった。