アメリカでは寮生活と決まっていたので、特に不安はなかった。同じ大学出身の奴も何人かいたし、毎日の食事は──休日と昼以外は──駐在の日本人が世話をしてくれた。部屋は個室だったが行き来は自由だったし、大人数で過ごせる部屋もあった。
 経営のことは一通り学んではいるが、それを英語で理解するのはまた別の問題だった。授業は全て録音して、部屋に帰ってから分かるまで聞いた。日本で経営学科の奴にも日本語で説明してもらった。日本の試験で苦労はしなかったが、アメリカではまず授業が大変だった。
 そんな日々が始まって、楓花に連絡できる時間が減ってしまった。
 五月下旬になってようやく連休ができたので、楓花が家にいそうな時間に電話した。日本は夜の九時頃で、ワシントン州は朝の七時だ。アメリカ人に釣りに誘われたが、楓花を優先させた。
「……どうした? 何か喋れよ?」
『うん……何喋ったら良いん……? 声聞いたら安心して、涙出てきた……はは……』
 電話の向こうで笑いながら鼻をすする音が聞こえた。
「大学は、みんな相変わらずか?」
『うん。必須のやつが減ったし、彩里ちゃんとも、翔琉君ともあんまり会わんけど』
「桧田──何もされてないか?」
『……晴大が見てないからってデート誘われたけど、すぐ断った。ちゃんと謝ってくれたし、それからは何もないかな。私、晴大に似てきたんやって。彩里ちゃんが笑ってた』
 それは何となく嬉しいが、真意が不明だ。
「楓花、何かしたんか?」
『ううん、性格かな。晴大と付き合うときに、正直になる、って決めた。今までは人を傷つけんようにしてたけど、晴大にも言われてたし……やめて自分の意見を言いだしたから』
「なるほど。でも俺、優しかったときの楓花も好きやで?」
『ええ? でも、自分を下げるな、って』
「優しくなかったら、リコーダー教えてくれてないやろ?」
 楓花は俺を知っていたが、あのときはほとんど初対面だった。そんな相手にリコーダーを教えると決められるのは、優しさでしかない。あのとき楓花に断られていたら、付き合えてはいない。
『晴大はどう? 半年、耐えられそう?』
「──なんとかな。あ、そういえばこないだEmilyに会ったわ。楓花は元気か、って言ってたぞ」
 今日、釣りに誘ってきたのは、Emilyの恋人のJamesだ。Emilyとはたまたまキャンパス内で会って、そのとき彼女と一緒にいた友人たちは俺のほうを興味深そうに見ていた。それからアメリカ人女性に声をかけられることが増えたが、恋人がいるからと二人で会うのは断り続けている。
 そのことを正直に楓花に言うと、楓花は笑ってから〝良かった〟と言った。
『実は翔琉君が、また晴大のこと悪く言ってたから……ちょっと怒った。私は晴大のこと信じてるから、腹立ってさ……』
「ありがとう、楓花」
 楓花は本当に、俺に似てきたと思う。
 中学で怒った姿を見たことはなかったし、リコーダーを教えてもらうときも不機嫌そうなことはなかった。大学に入ってからは俺への当たりはキツくなってしまっていたが、桧田には違った。あいつは見るからに楓花と合わなさそうなキャラクターだったし実際そうだったが、それでも楓花はせっかく出会ったからと嘘をついてでも仲良くなろうとしていた。
 あいつは良くない、自分を下げるな、と何度か言っているうちに楓花も桧田と距離を置くようになって、やがて本当の姿を曝すようになった。俺にキツく当たっていたのも嘘の噂を信じていたからで、本当のことを話してからは〝奥底で俺のことが好きだったから桧田を本能的に拒否した〟と正直に言ってくれた。楓花は桧田には冷たく当たるようになって、俺と二人きりのときはとことん甘えてくれた。
「楓花も強くなったよな」
『……だって、晴大が頑張ってるのに、楽なことしてられへんもん。就活も始まるし、卒論のテーマも考えていかなあかんし。それに……』
「ん? それに?」
『晴大と一緒にいたいから……。いつまで一緒にいられるか分かれへんけど、できるだけ同じ世界を見たい。だから頑張る』
「待て待て──、いつまでかわからんって……?」
 付き合い始めたところなので深くは考えていないが、今のところ別れるつもりはない。もしもどうしても合わなくなったときは仕方ないが、小さなズレは修正していきたい。
『いつ何が起こるか分からんし、もしかしたら大喧嘩するかもしれんし……深い意味はないけど……。晴大は前に進んでるから、私が止まってたら……足引っ張りたくもないし』
「──心配すんな。楓花がどんなんでも、俺は俺がしたいようにやる。もしも楓花がいま大学やめたとしても別れる気はないし。それくらい好きってこと、忘れんな」
 少しだけ照れながら言うと、電話の向こうで楓花も笑っていた。
 名残惜しいが電話を切って、俺は寮のキッチンへ行った。授業がない日は食事の用意もないので、お湯を沸かしてコーヒーを入れる。
「いい匂いすると思ったら渡利か。長電話してたな、彼女?」
「ああ……うん。聞こえてた?」
 キッチンに入ってきたのは同じ大学から来た同じ学年の経営学科のやつだ。成績が良さそうなので、俺はこいつに復習してもらっている。
「内容までは分からんかったけど。同じ学科の子?」
 どんな子だ、と聞かれたので、中学からの同級生で大学に入って再会し、付き合い始めたのは最近だと簡単に話した。
「それ、彼女だいぶ寂しいやつやん」
「だから早く経営覚えて、予定通りに帰りたい」
 最後の試験次第では期間延長の可能性もあるので、それだけは避けたかった。連休ではあるが外出の予定もないので、コーヒーが冷めないうちに部屋に戻って勉強を始めた。