Pure─素直になれなくて─

 ○✕大学は楓花が通う大学より遠くにあるので、楓花はいつもより──二限から授業の日より早く家を出た。いつも降りる駅は通り過ぎてもう少し先へ行き、家を出て二時間を過ぎてからようやく駅構外に出た。彩里とはそこで待ち合わせていて、○✕大学までは長い坂道を上ることになる。
「うわぁ、キツそうやなぁ……」
「学生はバスあるんやって」
 勾配は緩やかではあるけれど、距離があるので運動不足の楓花と彩里には辛い時間だった。夏を過ぎて気持ち良い風が吹いていることが唯一の救いだ。
「はぁ……着いたぁ」
 正門で配られていた催し物の案内をもらってから、翔琉がいるはずの屋台を探した。キャンパスが広いのであちこち歩き、一周したところでようやく姿を見つけた。
「なんやぁ、逆に回ったらすぐやったんや」
「お疲れ。坂上って歩いて、疲れたやろ?」
 翔琉は店の前に出てきて、ははは、と笑っていた。まだお昼には早いので焼きそばを買いに来る人はいない。
「ん? 桧田──その子が例の?」
 鉄板のほうを見て調理していた男性が顔を上げて楓花を見ていた。
「あ、はい」
「これ、好きなのあげて。喉乾いてるやろし」
「良いんですか?」
「二人とも、好きなん飲み」
 焼きそばと一緒に売っていたペットボトル飲料をくれると言うので、楓花はお茶を選んだ。彩里ともお金を出すと言ったけれど、奢るから、と受け取ってもらえなかった。
 彼は翔琉のバイト先の先輩で、○✕大学の三年生らしい。気遣いはありがたかったし笑顔で話してくれるけれど──、最初に楓花を見たときの表情が品定めしているようで、嫌な感じがした。
「楓花ちゃん、俺、昼には終わるから、そこの正門で待っててもらって良い?」
「うん。あ──お腹は空かせといたほうが良いんかな?」
「そうやな……あ、軽くなら大丈夫」
 翔琉とは昼過ぎに待ち合わせることを約束し、楓花は彩里と一緒に催し物のある建物に入った。楓花が通う大学と○✕大学は規模やレベルが似ているけれど、受験しなかったのは単純に通えないからだ。
 いくつかの催し物を見て、彩里が友人と合流してから楓花は一人で正門に戻った。朝から歩きっぱなしでお腹は空いていたけれど、楓花は我慢してお腹を空かせたままにしていた。これから翔琉と行くカフェの食事を楽しみたかった。
「楓花ちゃん!」
 翔琉のほうが先に待ってくれていた。
「ごめん、待った?」
「ううん、腹減ったわぁ、俺、ソースのにおいしてない?」
「大丈夫、してない」
 カフェは隣町にあるようで、楓花は翔琉と話をしながら坂道を下りて、電車に乗った。昼間なので乗客はまばらで、けれど駅から近いカフェの駐車場は車がいっぱいだった。
「良かったぁ、電車で」
「翔琉君……免許持ってるん?」
「ううん、まだやけど……車やったらコインパーキング探さなあかんかったかもな」
 店内もやはり満席だったようで、しばらく待ってからようやく席に案内してもらった。天井が高くシーリングファンがいくつかあって、とても開放的だった。家具は北欧のもので統一されていて、店の中央に置かれたグランドピアノはナチュラルな木目がきれいなピュアオークだ。
「すごい、黒じゃないピアノ初めて見た」
「そうやな……だいたい黒よな? 楓花ちゃんはピアノ弾けるんやろ?」
「うん。もう長いこと弾いてないけど」
 楓花がピアノを見ていると、着飾った男性が二人現れた。一人はアコースティックギターを持っていて、もう一人はピアノの前に座った。演奏された曲を楓花は知らなかったけれど、聴いていて笑顔になっていたようで、いつの間にか翔琉に見つめられていた。
「楓花ちゃんのピアノ聴いてみたいなぁ」
「いや、もう無理無理。指が動かんと思うわ」
 注文した料理が届けられ、楓花は演奏を聴きながら食べた。演奏は上手くて料理も美味しくて、どちらかひとつに集中はできなかった。
「渡利は聞いたことあるんやろ?」
「え? あ──うん。そもそも出会いが音楽室やったし」
「音楽室? 何かしてたん?」
「違う違う、私が一人で弾いてたら、知らん間に聴かれてた。先生を探しに来たみたいで……。横におったのはその時だけやと思うけど」
「そうなん? 実は、楓花ちゃんがピアノ弾けるって、あいつに聞いた」
 翔琉は楓花をデートに誘う前、晴大から楓花の趣味を聞いていたらしい。彩里にも聞いたけれど詳しくは知らなかったので、迷った末に晴大に聞くことにした。もちろん晴大も楓花の趣味は知らなかったけれど、最後に思い出したように〝そういえばピアノ弾いてたな〟とポツリと言ったらしい。
「あいつ最近、楓花ちゃんに何も言ってきてない?」
「そうやなぁ……夏休みに一回だけバイト帰りに一緒になったけど、後期になってからは」
「渡利とは何もないって言ってたけど、告白もされてない?」
「うん。されてない。多分やけど、私に興味ないんちゃうかな」
「それなら、良いんやけど……」
 翔琉は安心したのか、カフェに入ってからようやく笑顔になった。つられて楓花も笑うと、翔琉は食後のアイスコーヒーを思いっきりストローで吸った。それがおかしくてつい声を出して笑ってしまった。
「今日、俺、バイト入ってもぉたから夕方には行かなあかんのやけど……こないだの返事、聞いて良い?」
「──ごめん、まだ答え出てない。でも翔琉君のことは嫌いじゃないから、前向きには考えてる」
「楓花ちゃん、ほんまは……俺なんかより、だいぶ頭良いんやろ? 渡利が言ってた。俺が知ったら傷つくから黙ってたって」
 成績が理由で離れられるのが嫌だったことも、晴大から聞いたらしい。
「優しすぎやわ。ま、それも含めて好きなんやけどな」
「なぁ──、何かあったんか?」
 声がしたほうを見ると、不思議そうな顔をして晴大が立っていた。
 大学のキャンパス内のベンチに一人で座っていると声を掛けられた。全ての学科の共通科目の授業しかない月曜日は彩里とは履修が違うので、楓花は一人で過ごす時間がある。
「最近あんまり授業に集中してないやろ?」
「別に……。何か用?」
「ああ、これ、俺のバイト先の割引券。いっぱい貰ったから、やるわ」
 晴大は鞄から小さい封筒を取り出した。白い無地のシンプルなもので、隅に店のロゴが──流れるような文字で〝ensoleillé〟と書かれていた。
「十枚あると思うわ」
「えっ、そんなに貰って良いん?」
「他に渡す奴いてないし。親も来ることないし。あ、戸坂さんとかにあげても良いけど、一応、優待券みたいなやつやから、使うとき俺の名前言ってな」
 詳しいことを聞こうとしていると、遠くのほうから晴大を呼ぶ女性の声がした。何となく見たことはあるけれど、楓花は彼女を知らない。楓花よりも可愛くてお洒落で、持ち物もブランドに見えた。
「晴大君、何してんの? その子は?」
「あ──いや、何もない、行くか」
 晴大はそのまま向きを変え、女性と一緒にどこかへ行ってしまった。もしかしたら晴大の彼女なのだろうかと思ったけれど、それ以上のことを考えるのはやめた。彼女もまた明日には泣いているのかもしれないし、けれど楓花にはどうすることもできない。
 翔琉にはまだ、返事をしていない。彼は楓花の成績を知っても何も変わらず、今までと同じように接してくれている。だから楓花も必要以上に気にするのをやめたけれど、どうしてか前には踏み出せなかった。
 気になっている人は、他に誰もいない。
 晴大とはよく話すけれど、彼との関係も何の変化もないし、付き合うつもりもない。楓花が晴大と地元が同じだとはクラス全員が知っているので彼のことを聞きに来る人が初めはいたけれど、最近はまた例の噂が広まったようで誰にも聞かれなくなった。
 楓花は食堂へ移動して二人分の席を確保した。お昼は何を食べようか、と考えていると、智輝が直子と一緒に入ってくるのが見えた。
「直子さん、お久しぶりです」
「あっ、楓花ちゃん! 元気?」
 直子は智輝と図書館に行っていて、早めの昼食を取ってから午後はデートらしい。
「授業ないんですか?」
「一限だけ入れてたんやけど、先生の都合で休講やって。嬉しいけど、ひどいよなぁ」
 せっかく出てきたので少しだけ勉強していた、と直子は笑った。
「ところで楓花ちゃん──桧田、どうしてる? 告白して返事まだ、とは聞いたんやけど」
 智輝に聞かれ、楓花は唸ってしまった。
「やっぱり楓花ちゃんとは合えへんのちゃうん?」
 直子が智輝に言った。
「どんな子か私は知らんけど……ちょっとチャラそう」
「そうなんよなぁ。あいつ見た目がな……」
「あ──いえ、嫌いではないし、前向きに考えてるんですけど、踏み出せなくて」
 その原因が何なのか楓花にも分からないけれど、少なくとも彼の見た目は関係していない。
「俺──ダブルデート誘っといてあれやけど、個人的に桧田はやめたほうが良いと思う」
「えっ? どういうことですか?」
「最初に言ったと思うけど、あんまり良い奴ちゃうねん。あ、でも、やること決めたら一生懸命で、そこは良いんやけどな。あいつのこと信じれるまではやめたほうが良い」
 智輝の視界に翔琉の姿が映ったようで直子を連れて食堂から出ていってしまい、楓花も彼に声を掛けるのはやめた。翔琉の姿を見失ったあと、彩里がやってきた。
 二人で日替わりランチを食べながら、やはり彩里は翔琉とのことを聞いてきた。
「何を迷っとんの?」
「分からん……。さっきちょっとだけ本田さんと話したんやけど、翔琉君はやめたほうが良い、って言われて……意味が分からん」
「こないだデートしたんやろ?」
「うん。別に嫌なとこ無かったから、付き合おうと思ってたんやけど、そんなこと言われたら気になって」
「何か──具体的に言ってた?」
「ううん」
 気になったけれど智輝は翔琉から逃げるように去っていってしまった。そういえば晴大も〝気をつけたほうが良い〟と言っていたな、と思い出して余計に迷ってしまう。
「あ──彩里ちゃん──、私のバイト先の隣のレストラン……行く?」
「え、なに急に? 隣って、渡利君がバイトしとぉとこやろ?」
「うん。さっき外で会って、割引券くれたんやけど」
「へぇー。わ、十五%オフってすごいな。……五千円以上の場合、一人一枚、やって」
 割引率はありがたいけれど安いレストランではないし、そもそも交通費が高くなるからと彩里は貰ってくれなかった。
「バイト帰りとかにパートさん誘って行こうかなぁ」
「渡利君は? それくれてからどっか行ったん?」
「──誰か知らんけど、可愛い女の子とどっか行った」
「うわぁ……とうとう見たんか」
 晴大がいつも違う女性と歩いている噂は何度も聞いていたけれど、彩里はまだ見たことがないし、楓花も初めて見た。晴大はいつも通りだったけれど、女性は嬉しそうに目を輝かせているように見えた。
「渡利君って、優秀やし、遊んでる風には見えんけどなぁ。どっちかと言うと、翔琉君のほうが遊んでそう」
「うーん……やっぱ、そう見えるよなぁ」
 翔琉の外見のことは気にしていないつもりだったけれど、晴大と比べると遊んでいるように見える。楓花にはいつも優しく接してくれているけれど、文化祭のときに○✕大学で会った彼のバイト先の先輩には冷たいものを感じてしまった。
 見た目やイメージが人の全て──ではないけれど。
 楓花にはまだ、正解が分からなかった。
 楓花が見た〝晴大と一緒にいた女性〟はやはり、晴大との関係はすぐに終わってしまったらしい。『あの人、やめたほうが良い!』と話しながらキャンパス内を歩くのを見かけた。晴大のほうはときどき見かけるけれど、本当にいつ見ても何も変わらない。教室移動のない休憩時間は勉強しているか机に伏せているかのどちらかだ。
「楓花ちゃん、何見てんの?」
「あっ、ううん、どうしたん?」
「いや? 楓花ちゃん見てただけ」
 楓花と翔琉の関係も変わっていない──けれど。楓花は彼と過ごす時間を増やし、翔琉も友人より楓花の隣にいるようにしていた。
 翔琉は楓花に良いように思われたかったのか、以前より真面目に勉強するようになった。空き時間も図書館で本を読んでいるし、楓花に英語の質問をしてくることも増えた。アルバイトも外国人客が多いところに変えたようで、日常会話がいちばん勉強になる、と嬉しそうにしていた。
「そうそう、掲示板見た? クリスマスツリーの点灯式やるって」
 キャンパス内に大きなもみの木があって、点灯式は冬の恒例行事になっているらしい。
「見たけど、私その日バイトやから行かれへん」
「ええー。マジ?」
「うん。週末やし」
 楓花はまた英語力が上がっているようで、最近はフロントにヘルプで入ることも増えた。
「あっ、おい渡利、おまえ……クリスマスツリーの点灯式、行くん?」
 晴大は席を移動しようとしていたようで、荷物を持って翔琉の近くを歩いていた。
「点灯式? 行かんけど。バイトやし」
「ふぅん……でも、誰か女の子に誘われたやろ?」
「まぁな。でもシフト変えられへんし」
「おまえ何その感じ? なんかムカつくわぁ」
 表情をほとんど変えずに答える晴大に、翔琉は明らかに嫉妬していた。翔琉と比べると晴大のほうが成績は良いし、モテているし、楓花のことを知っているし、顔を合わせればだいたい翔琉はイラついていた。楓花はどちらの味方もしていないし、どちらかと距離を置くつもりも今のところない。それも翔琉にとってはモヤッとするらしい。
「俺は事実を言ってるだけやけど」
「くっそー。あっ、楓花ちゃん、クリスマスは?」
「ごめん、バイト休まれへん……」
「マジかぁ……。いつやったら空いてる?」
「桧田、おまえ多分──、長瀬さんの親から嫌われるタイプ」
「はぁ? ──ごめん、ちょっと出てくるわ」
「翔琉君!」
 教室から出て行く翔琉を追いかけようとして、楓花は晴大に腕を捕まれてしまった。晴大は特に表情を変えずに楓花を見ていた。
「なんであんなこと言うん? 翔琉君に謝ってよ」
「何を謝るん? 実際そうやろ、紹介しても良い顔はせぇへんやろ」
「そうかもしれんけど……なんで渡利君が言うん?」
「長瀬さん、こないだ両親と三人で店に来てたやろ? 曲がったこと嫌いっぽく見えたんやけど」
 晴大に貰った割引券を使おうと、楓花はアルバイトが休みの日に晴大が働くレストランへ行った。晴大と顔は合わせなかったけれど、彼は離れて様子を見ていたらしい。楓花はごく普通の一般家庭に生まれているけれど、どちらかというと厳しめに育てられた。成績が下がると怒られたし、校風が乱れやすい公立高校よりも規律の厳しい私立高校に行けと言われた。
「俺、言ったよな? あいつには気をつけろって」
「何を根拠にそんなこと……。渡利君だって悪い噂あるくせに、人のこと言えんの? せっかく仲良くなろうとしてんのに、邪魔せんといてよ」
 楓花が言うと晴大は言葉を詰まらせていた。晴大の悪い噂を楓花は高校の頃から聞いていたし、実際に目撃した。
「悪かったな……。でもほんまにあいつ、優しいのは表面だけで良い噂ないぞ。俺のことは──」
 言いたいように言えば良い、と呟きながら晴大も教室を出て行ってしまった。それから少しして授業が始まったけれど、出席確認が終わっても、授業が終わっても、翔琉も晴大も戻ってこなかった。
 それから楓花は翔琉とも、もちろん晴大とも口を聞かないまま冬休みになった。彩里は翔琉と話したらしいけれど、楓花は顔を合わせられなかったし、連絡も来なかった。彼とはもめていないけれど、晴大の忠告を全く聞いていないわけではないので何となく気まずい。
 クリスマス期間も楓花はアルバイトだったので、ホテルのロビーに飾られたツリーを一人で眺めていた。仕事が終わってから私服に着替え、正面から中に入った。客のほとんどは食事の時間なのでロビーは静かだ。
(私……どうしよう……)
「──おい」
(翔琉君と話したいのに……渡利君があんなこと言うから……)
「おい。長瀬さん」
「はっ、はい、あ──。何?」
 楓花を呼んだのは晴大だった。
 彼もアルバイトが終わり、帰りにホテルの前を通って楓花が見えたらしい。
「隣──座って良いか?」
「……どうぞ」
 晴大は楓花の隣に座り、寒い、とか、忙しかった、とかぶつぶつ言っていた。クリスマスで忙しかったのは楓花も同じだ。
「桧田からは何も聞いてないんやろ?」
「……何を?」
「あいつのサークルとか、バイト先とか」
 翔琉は居酒屋でアルバイトをしていて、そこの先輩に○✕大学のアウトドアサークルに誘われた、と楓花は聞いている。アルバイト先は変わったらしいけれど、職種は同じらしい。
「それがどうかしたん?」
「俺、最初の頃に桧田の友達を見てな……。ややこしそうな感じやったから調べた」
 それから晴大は翔琉について分かったことをいろいろ教えてくれた。翔琉は楓花や彩里には学生生活を真面目に謳歌しているように話しているけれど、実際は悪いほうに足を踏み入れてしまっているらしい。
 年が明けて一月のうちに後期試験があった。楓花はまたほとんどの科目でA判定以上が出ていた。興味本位で受講した共通科目のうち社会心理学はなんとかBを貰えていたけれど、認知心理学は予想通りの不合格だった。
「楓花ちゃんが取るっていうから俺も取ったけど、無理やろあれ。友達で他の大学で心理学専攻してる奴いるんやけど、認知は必須じゃない、って言ってたで」
 翔琉とはしばらくは気まずかったけれど、試験が終わる頃にはもとの関係に戻っていた。もちろん、付き合うことにはなっていないし、そもそも返事がまだだ。
「そういえば渡利も取ってたよな……? おい、渡利、認知どうやった?」
 翔琉は晴大とは以前に増して仲が悪く見えるけれど、気になることはちゃんと聞くらしい。
「ああ……悪かったわ。C」
 それでも一応は合格しているので、晴大の成績が楓花より良いのは明らかだった。羨ましいけれど、楓花が彼に勉強を教えてもらう予定はない。

 クリスマスの夜、晴大が翔琉のことを話し終えると、楓花は難しい顔をしていた。信じたくないけれど、信じるしかなかった。
「俺が見ただけやから、絶対とは言えんかもしれんけどな」
 翔琉の周りには、見た目が派手な人が多くて。
 バイト先は外国人が多いので確かに英語の勉強にはなっているけれど、カタギではない人が来ることもあるパブで。
 そこを紹介してくれた○✕大学の先輩も、そういう人と繋がりがあるらしい。
「まぁ……桧田は今のとこ、まだ染まってはなさそうやけどな。じゃ、俺は帰るわ」
 晴大は立ち上がり、入口のほうへ向かう。
「渡利君、あの、その……ごめん、いろいろ」
「……別に」
「なんで翔琉君のこと教えてくれたん?」
「別に、長瀬さんは幼馴染みたいなもんやし、悪くならんように注意しただけ」
「こないだも……翔琉君に、私の趣味を教えたって」
「ああ……どうせ遊びに行くんやったら楽しいほうが良いやろ」
 晴大は改めて入口のほうに歩きだし、顔を上げてから足を止めた。そのまま数秒だけ外を見て、楓花を振り返った。
「帰るんやったら、送ってくけど」
「え?」
「暗いし。駅から家まで歩きやろ? ここで置いて帰って後悔すんのも嫌やし」
 楓花はいつも駅からは徒歩で慣れてはいるけれど、晴大と話している間にすっかり遅くなってしまっていた。楓花の家の近所は暗いので、晴大はきっと、楓花に何かあったら自分のせいになる、と思ったのだろう。
 晴大は本当に楓花を家の前まで送ってくれた。
「渡利君って、良い人なん?」
「さあな。噂を知ってんやったら、良くないやろ。……じゃあな」
 楓花は家の門扉に手を掛けてから、晴大の姿が見えなくなるまで後ろ姿を見ていた。彼にリコーダーを教えていたときのことを思い出して一瞬、また二人で過ごせたら、と思ったけれど、それは駄目だ、と考えを消した。

 後期試験のあとは、特別学期になった。全学科共通の講義があって、いくつか受講するとそれは単位に加えてもらえる。普段の共通科目と違っているのは、学生以外でも希望すれば社会人でも受講可能なことだ。楓花は単位は多めに取れているのでアルバイトを詰めて入れようかとも思ったけれど、せっかくなので受講することにした。ただし、少しは勉強から離れたかったので、簡単そうなものを選んだ。
「楓花ちゃんさぁ、翔琉君とはどうなっとるん?」
 キャンパスでいちばんお気に入りのカフェは定休日だったので、同じくキャンパス内にあるファストフード店に来ていた。メニューは基本的に外の店舗と一緒だけれど、ソフトドリンクがおかわり自由なのは有難い。先に食べ終えた彩里はドリンクをお代わりしてから楓花に聞いた。
「別に何も……」
「返事はしたん?」
「ううん……でも、断ることになると思う」
 楓花は晴大から聞いたことを、智輝の言葉と合わせて伝えた。彩里はもちろん驚いていたけれど、○✕大学の先輩のこともあって反論はしてこなかった。
「たださぁ、それが事実やとしても、ずっと仲良くしてきたし、何かされたわけでもないし、友達としてはこのままで良いか、って思うんやけど」
「そうやなぁ……翔琉君って、ちょっとお茶目で可愛いしなぁ」
「だから──言わんといてな?」
 翔琉はあれから楓花には返事を聞いてこなかったし、特別学期に大学で会うこともなかった。サークルに入っているので仲間と出掛けているのかもしれないし、単位はそれなりに取れているようなのでアルバイトを増やしたのかもしれない。
 大学生になれば新しい恋をするだろうと思っていたけれど、最初に憧れた智輝には直子というしっかりした彼女がいたし、翔琉とは仲良くはなったけれど友達止まりだった。晴大とは一緒に過ごす時間が多いけれど、そんな話をする関係ではない。春休みの間に一度、楓花はホテルのパートたちを誘ってensoleilléへ行き、たまたま晴大が担当になった。パートたちも彼のことは知っていたようで同級生だと言うと驚かれ、どうして友達止まりなのか、という質問はいつの間にか、楓花ほどの英語力があれば引く手数多だろうから外国人を選ぶのが良いかもしれない、という話に変わっていた。
 今のところ、晴大が一番の優良物件だけれど、楓花はまだ彼のことを信頼していない。たとえ好かれていたとしても、付き合うつもりはない。
(もしかしたら来年、化けてる男子に会えるかも)
 大学で会う男性の中に恋人候補はいないので、一年後にある成人式で同級生たちと再会するのを楽しみにしていた。当時は平均的な外見の男子が多かったけれど、良いほうに化けてお洒落になった人がいれば声をかけようと思った。高校時代は誰にも会わなかったので、五年間の話もあるはずだ。
 大学二年の最初の日はまた、クラスごとのガイダンスから始まった。クラスメイトとはだいたい週に一度は顔を合わせていたけれど留学していたメンバーもいるし、人によってはこの春休みでイメチェンしていて理解するまで時間がかかってしまう。
 楓花はもちろん彩里も晴大も特に変化はなかったけれど、翔琉は最初に会ったときよりも派手になっているように見えた。服装は見たことがあるけれど、髪色がワントーン明るくなって、ピアスも増えた──気がする。
「翔琉君、何か変わったなぁ?」
「そう? 特別学期の頃に染め直したから、もうみんな知ってると思ってた」
 明るく笑いながら話す翔琉は、キャラクターは特に変えていないらしい。
「そういえば楓花ちゃんも彩里ちゃんも、髪伸ばしてんの?」
「うん。成人式でアップしたいから」
「そうそう。短いのも可愛いけど、長いほうがアレンジしやすいし」
「へぇ……。二人とも、振袖着るんよなぁ」
 翔琉は見たそうにしているけれど、実際に見るのはおそらく不可能だ。
「楓花ちゃんて、渡利と同じとこ行くんやろ?」
「まぁ、うん」
 翔琉は少し離れて座る晴大をじっと見て、それに気づいた晴大は嫌そうな顔をしていた。

「なぁ、楓花ちゃん……そろそろ答え出た?」
 彩里と二人でキャンパス内のカフェにいた楓花は、通りかかった翔琉に呼び出された。カフェの中なので近くを他の学生が通るし、楓花はまだ食事中だ。
「……ごめん、翔琉君とは、付き合われへん」
 楓花が言うと翔琉は、やっぱりか、と肩を落とした。
「それは──今は、ってこと? もし俺が楓花ちゃんの好みに変わってたら、アリってこと? 今は、フリーなんよな? 渡利とは何もないんよな?」
「それは、そうやけど……」
 それならまだチャンスはある、と翔琉は元気になってどこかへ行ってしまった。楓花はため息をつきながら彩里のところに戻り、前期の授業のことを一緒に考えた。
 翔琉は喜んでいたけれど、楓花には彼と付き合う未来は見えていなかった。いつか晴大が言っていた通り楓花の両親に翔琉が受け入れてもらえるとは思えなかったし、楓花自身も彼への信用を落としてしまっていた。友人として話すのは問題ないけれど、それ以上の関係を築くのは無理だと思った。
 そしてそれは、いつの間にかクラス全員の共通の認識になってしまっていた。早くに二十歳の誕生日を迎えたクラスメイトが先輩に誘われて居酒屋に行き、その帰りに派手なメンバーで騒いでいる翔琉を見かけたらしい。翔琉は夜の街で屯してから、やがて近くのパブへ入っていった。彼はまだ一応は未成年で、その雰囲気が嫌だった、と噂は広まった。
「ほらな、言った通りやろ」
 楓花が彩里と二人で翔琉の話をしていると、晴大が割り込んできた。
「付き合っても良いことないわ。まぁ──更正したら、知らんけど」
 噂が広まり始めてから、翔琉の姿はあまり見なくなった。ごく稀に出席票に彼の筆跡で名前が書かれていたけれど楓花が姿を見つける前にいなくなってしまっていたし、嘘だと思いたいけれど悪いことをして警察にお世話になった、という噂も聞いた。
「無事やったら良いんやけど……とりあえず生きてれば」
「もう良いんちゃうん? あんな奴」
 それでも楓花は彼の心配をするけれど、晴大はやはり彼が嫌いらしい。彩里も心配しているけれど、同じような学生は少数派だ。

 五月の連休に振袖を買ってもらうことになって、楓花は母親と二人で母方の祖父母を訪ねた。祖母の知人が呉服屋をしているようで、祖父には留守番をしてもらって三人で出掛けた。
「楓花ちゃんは何色が似合うかなぁ?」
 あれでもないこれでもないと、何色も試してみた結果、定番の赤系で帯には黒を選んだ。母親のときはピンクだった、と祖母は懐かしみながら、草履やバッグ、髪飾りなど細かいものを決めて、最後に届け先を店に伝えてから昼食に向かった。
「おーい、こっちこっち」
 祖父とも合流し、入ったのは少しだけ高級な料亭『(てん)』だ。経営している会社・スカイクリアは、和食と洋食をそれぞれ数店舗、全て違う名前で近隣府県に展開しているらしい。
「楓花ちゃんのアルバイトしてるホテルの近くにもあるらしいよ」
「へぇ……。あ、もしかして」
 料理が運ばれてくる前に気になって調べると、やはりホテルの隣のensoleilléだった。箸袋には店名しか書かれていないけれど、テーブルナプキンの印字は見覚えのあるものだ。
「楓花──、あの店で同級生がバイトしてるって言ってたけど、どんな子?」
 晴大のことは割引券をもらったときに両親に簡単に話していた。店の雰囲気と客層からそれなりにちゃんとしている人間だと思っているらしい。
「どんなって、普通。成績は良いけどそんなに仲良くもないし、ちょっと性格悪いかな」
「その子は──楓花ちゃんの彼氏?」
「ちがっ、絶対違う。だいたい、性格悪いから嫌われてるし……」
「彼氏はいてるん? 前、水族館行ってたやん?」
「あれは……違う。あれも友達」
 言ってから楓花は、心の中で翔琉に謝った。悪い噂は確かにあるけれど、彼のことを〝あれ〟と言ってしまったのが嫌だった。好きにはならなかったけれど、いまも友達だ。
「楓花、あんまり変な子と遊ばんときや? 真面目な子と付き合い。顔はまぁ、二の次やけど、良いに越したことないわ」
 と言われてしまうと、そういう男性は今のところ楓花の近くにはいない。だから余計に成人式が楽しみで、地元の友人たちのいまの姿を想像したりする。おそらくほとんどの女性は振袖でほとんどの男性はスーツなので、市内全域から集まる新成人の中から知っている顔を探すのは難しいかもしれないけれど。
 中学一年の冬の頃──。
 晴大は相変わらず人気なようで、〝格好良くて成績が良くてスポーツもできる、完璧!〟という噂は学校中に広まっていた。同じクラスになった生徒はなぜか自慢していたし、体育祭でも彼のいるチームの成績は良かった。
 そんなんだから当然、晴大のことが気になる、という友人たちの声をいくつも聞いた。ほとんどは女同士で話しているだけだったけれど、何人かは告白しようとしていた。
「でも渡利君っていつも誰かと一緒やし、あんまり見かけへんしなぁ」
「休み時間に、授業終わった瞬間に走ったら間に合うんちゃう?」
「緊張するわぁ……どうしよう……ちゃんと喋れるかなぁ」
 楓花は稀に放課後に、他の生徒から隠れて晴大と一緒にいる。けれどそれは言うわけにはいかないし、言ってしまうとおそらく、楓花は友人たちに敵に回される。
 噂が勝手に大きくなっているけれど実際は普通の少年だ、と言ってやりたかった。晴大の噂は間違ってはいないけれど、楓花が出会った頃は楽器の演奏は壊滅的だった。そもそもドレミが分かっていなかったし、肩に力が入りすぎていた。楓花はまず楽譜の読み方から始め、リコーダーの構え方、裏穴に隙間を作るときの押さえ方や息の出し方など楓花なりのコツを教えた。
「──何? 俺、何か変なことした?」
「ううん。たださぁ……みんながこれを知ったら何て言うんかなぁ、と思って」
「い、言うなよ? 絶体アホにされる」
「そうかなぁ……楽器苦手な男子って結構いるし」
「あいつらと一緒にすんな……俺は俺や」
 学校内には晴大の他にもモテている男子生徒はいるけれど、女子生徒たちにとって晴大は別格らしい。
「今までどうしてたん? 小学校でも授業で使ったやろ?」
 リコーダーを使うのは中学校のアルトリコーダーが初めてではない。
「授業は適当にごまかして、テストの日はサボって後で一人で見てもらってた」
「……なるほど」
「なぁ、この、裏のとこ押さえへんやつは、どうするん?」
「それは、他の指で頑張るしかない」
「マジかよ、押さえるの一ヵ所やん」
「左手の押さえる指と、右手の親指でバランス取って、あとは咥えてるから離さんかったら大丈夫」
「難しいこと言うなぁ……」
 ぶつぶつ文句を言いながらも晴大は頑張って練習を続け、簡単な曲なら吹けるようになった。晴大の唯一の欠点が無くなり、彼はますます明るくなっていった。
 そんな彼をやはり周りは放っておかなかった。
「もうすぐバレンタインやけど、学校にお菓子を持ってくるのは禁止ですからね」
 ホームルームで担任が言っていたけれど、だいたい守られないのが通常運転だ。
「いつ渡そう? 放課後かな? 昼休み?」
 そんな声をあちこちで聞いた。
「楓花ちゃんは誰かに渡すん?」
「ううん、別に渡したい人もいてないし、そんなお金もないし」
 本当に、楓花は好きな人がいなかった。晴大ともそんな関係ではないし、気にしたこともない。
「あっ、長瀬さん、伝言なんやけど」
 用事があって職員室に行くと、佐藤に呼ばれた。
「今日もし時間あったら、練習見てほしい、って」
「──えええ? 今日?」
「予定あるの?」
「ないけど……今日は渡利君と離れときたいのに」
「ああ……ほんまやねぇ」
 放課後にいつもの場所に行くと、既に晴大は到着していた。部屋の隅で椅子に座り、リコーダーを構えていた。
「悪いな、急に頼んで」
「ほんまに急やわ……友達ごまかすの大変やった」
 晴大は練習を再開し、楓花も適当に座った。クラブがある日なので、生徒が寄り付かない場所にある会議室の更に奥にある、存在すら知らない生徒が多そうな部屋だ。
「渡利君は今日は、外にいたほうが良いんじゃないん?」
「ああ……ええねん、既にクラスの奴からいっぱいもらってるし。逃げるついでに練習しようと思って」
「──かわいそう」
 近いうちにリコーダーのテストが予定されているので、晴大はその練習をしていた。
「もう大丈夫なんじゃない?」
「そうなん? もしテスト失敗したら、おまえ──長瀬さんのせいにするからな」
「なんでそうなんの」
 宿題をしながら晴大のリコーダーを聴いていると、ときどき遠くのほうでバタバタという足音と共に、晴大を探す女子生徒の声が聞こえた。息を潜めて聞いていると、こんなところにいるわけがない、と言って体育館のほうへ探しに行った。
「私、そろそろ帰るわ。一緒にいるとこ見られても嫌やし」
「ああ──俺も帰ろ」
「待って、時間ずらして」
「良いやん別に」
「良くないわ、ただでさえ渡利君は人気やのに、今日一緒におるとこ見られたら、私が困る」
「……あっそ」
 不服そうに頬を膨らませる晴大を置いて、楓花は先に学校を出た。
 一人で歩いていると、しばらくしてから二人乗りの自転車が追い越していった。同じ学校の男子生徒が二人、一人はヘルメットを被っているけれど、後ろに乗っている人はノーヘルだ。自転車は楓花を追い越して少ししてから止まり、二人とも振り返った。運転していたのはクラスメイトの丈志(たけし)で、ノーヘルは晴大だった。
「長瀬さん、余ってるチョコある? 今日はバレンタインやろ?」
「──あるわけないやん。禁止って先生も言ってたし」
「真面目やなぁ……。あ、渡利、おまえどうせいっぱい貰ったんやろ? 一個くらいくれよ」
「ん? ……はい」
「サンキュー。これ、誰から?」
「忘れた。クラスの誰か」
「ふぅん。おし、じゃ行こか、長瀬さん、また明日な」
 丈志は楓花に挨拶してから自転車を漕ぎだした。晴大は少しの間だけ楓花を見ていたけれど、何も言わなかった。
 そんなことを思い出したのは、六月から七月の二ヶ月間、長瀬家がアメリカからの留学生を迎えてホストファミリーになったからだ。家の近くの大学から来てもらった同い年のEmily(エミリー)は日本の文化を学ぶために長期留学中で、ホストファミリーにお世話になるのは二回目らしい。
 楓花の家族はあまり英語は話せないけれど、Emilyは日本語を少しは話せたし、何より楓花が英語が得意だったので何も問題はなかった。楓花はホテルのアルバイトを続けているけれど、Emilyがいる二ヶ月は日数を減らした。
「フウカ、Ah──アルバイトは、何かリユウが? たとえば……オカネの……」
「ああ、ううん、Just study English. 大丈夫」
「ダイジョウブ? OK?」
「Yes! I just want to spend time with you」
「Oh……フウカ、アリガトウ」
 本当に、楓花はお金に困っていたわけではない。アルバイトを始めたので親からのお小遣いは貰っていないけれど、これまでにもそれほど使ってこなかったので十分に余裕があるし、外国人と話をして英語をちゃんと話せるようになりたかっただけだ。
「フウカは、ピアノ、弾く? リビングにあったよ」
「うん。最近はあんまり弾いてないけど……でもたまに……無性に弾きたくなる」
「どんなとき?」
「うーん……考え事してるときとか。Thinking while playing, but……no answers」
 ただ弾いただけで満足して終わる、と楓花が笑うと、Emilyはそれを理解してくれた。
 今ではほとんど弾かなくなっているけれど、たまに休みの日にピアノを弾いていた。大学生になってからは、翔琉との関係に悩んでいた。一緒にいても嫌な気はしなかったので前向きに考えていたけれど、彼は良くない、と周りから聞いた。
「ところでフウカ……コイビトはいる?」
「ええっ? いないいない」
「Hmm……でも、(晴大)はフウカを見てたよ」
 楓花はこの日、Emilyと一緒に彩里を誘ってensoleilléへ行った。たまたま晴大が出勤していたので、彼にもEmilyを紹介していた。ちなみに彼の店へ行ったのは、他には庶民的な店しかないからだ。
「あの人は、同じ中学校やったから。高校は違ったけど大学で再会して……」
「トモダチ? ……ヒミツがあるように見えたよ」
 Emilyはensoleilléに行ったとき、晴大が三人の中で楓花といちばん親しげだったことが気になったらしい。本当に彼とは何もないので何度もそう言ったけれど、Emilyは信じてくれなかった。だから仕方なく楓花は、晴大にリコーダーを教えていた、と正直に話した。その中で、バレンタインのことも思い出してしまった。あの日、晴大は本当にクラスメイトからしかチョコレートを貰わなかったようで、渡したかったのに見つからなかった、と悔しがる女子生徒の声を翌朝に聞いた。
「たぶん、彩里ちゃんにその話はするなよ、って訴えてたんやと思う」
「なるほど……彼、ハンサム」
「確かにねぇ……でも嫌われてるし。性格が悪くて……」
「Oh, Really? I don't see……」
 楓花が晴大の悪い話をすると、Emilyはしばらく〝信じたくない〟という顔をしていた。晴大は本当に外見と成績は良いので楓花もできれば彼には良い人であってほしかったけれど、実際に現場を見てしまってからは彼とはまた距離を置いていた。
「楓花ちゃん、Emilyいつまでおるん? どっか遊びに行こうよ、まだ行ってないとこ」
 休み明けに大学へ行くと、彩里がまたEmilyに会いたいと言った。Emilyは前のホストファミリーにもどこかを案内されているはずなので、まずはそれを聞くのが先だ。
「おーっす。何か聞こえたんやけど、エミリーって誰?」
「あ──翔琉君、おはよう」
「Emilyはいま、うちでホームステイしてる留学生。違う大学やけど」
「へぇー。どこの子? アメリカ?」
 久々に顔を合わせた翔琉は特に変わった様子はなく、Emilyの話を興味深く聞いていた。会ってみたいと言われたけれど、それは難しそうだ。
「遊びに行くんやったらさぁ、俺も行きたいな。あかん? あ、男一人か……渡利誘うんも嫌やしな……いや、あいつとは一回、腹括って話せなあかんな……」
 翔琉は教室を見渡したけれど、晴大はまだ来ていないらしい。
「あの、翔琉君ごめん、私できたら今回は、楓花ちゃんとEmilyと女同士で遊びたくて」
「ああ……そうか……ごめんごめん」
「ごめんな翔琉君、Emilyには話してみるけど。……渡利君と何を話すん?」
「いや……男の話」
 楓花と彩里は翔琉と以前のように話しているけれど、他の一部の学生は離れた席に移動してしまった。その理由をおそらく翔琉も知っているけれど、彼はそれには全く触れなかった。
「長瀬さん」
「ん? あ、渡利君……」
「これ、長瀬さんのやろ?」
「あっ、これ、もしかして店に?」
 晴大が楓花に渡したのは、失くしたと思っていたハンドタオルだ。ensoleilléで鞄を開けたときに落ちたか、テーブルの上に置いて忘れたか、楓花には記憶がない。
「一応、洗ってるから。椅子の下に落ちてたし」
「ありがとう……」
「おい渡利、おまえ……次の時間空いてるやろ。話あるから来い」
「いま言って。言われへんのやったら聞かん」
「おまえ……ほんまにムカつくな……まぁ良いわ……。おまえほんまは、楓花ちゃんに好かれようとしてるやろ?」
 翔琉の言葉に楓花は驚いてしまった。そして思わず晴大を見たけれど、彼の表情は全く変わらなかった。
「──おまえと一緒にすんな。俺は俺や」
 楓花は今までに何人か恋人がいたし、告白されて断ったことも何回かある。それは相手の外見や性格の総合判断が楓花には良くなかったからで──、好きになってもらえるのは嫌なことではない。だから断ったあとも相手との関係は変えなかったけれど、それは相手にも希望を与えてしまうらしい。
 大学二年になってから翔琉は楓花に断られても、キャンパスで会うことは減っていても、楓花のことが好きな気持ちは変わらなかったらしい。久々に会うと彩里より楓花に注目していたし、晴大のことも相変わらず気に入らない様子だった。外見や成績の話は一切していないので、楓花との関係だ。翔琉は晴大を見るなり表情を変えて、晴大に突っかかった。
 楓花は晴大とは特別な関係ではない。地元が同じで──秘密にしていることはあるけれど──、それ以外は特に何もない。それでも彼は外見と成績からモテてしまうので、翔琉には恋敵に映っているらしい。ただそれは翔琉の思い込みのようで、晴大は〝一緒にするな〟と言ってから離れた席を取りに行った。
 二人で話すことは何度かあったけれど、晴大が楓花に好かれようとしている、と思ったことはない。楓花に親切にはしてくれるけれど、それが特別なこととは思わない。それでも〝翔琉と一緒にするな〟ということは〝好かれようとしていない〟つまり〝女としては見ていない〟ので、否定されたような気もして悲しくなってしまう。
「別に良いけどさ……そんなんじゃないし」
 休日、楓花は彩里とEmilyと三人で買い物に来ていた。奈良や京都の観光は以前のホストファミリーと行ったようで、Emilyは買い物がしたいと言った。一通り店を回ったあと、いまはカフェで休憩中だ。
「フウカ……You are lovely」
「ありがとうEmily」
「そうそう。楓花ちゃんって実は人気あるし」
「ええっ?」
「いつも渡利君とか翔琉君が一緒やから諦めとぉみたいやけど」
 楓花の様子を遠くから見ている人が何人かいるらしい。楓花はいま恋人がいないので話し掛けてくれて構わないけれど、翔琉の噂や晴大の外見が邪魔をしているらしい。
「それにしてもさぁ、あのときの渡利君、ちょっと格好良くなかった? 俺は俺や、って」
「そうかなぁ?」
「誰にも流されへんぞ、みたいな?」
 翔琉と晴大の会話を、彩里は英語でEmilyに説明した。彩里が〝影響されない〟と言うと、Emilyは〝一匹狼〟とか〝自立している〟とか言いながら晴大を褒めていた。
「But, I don't know KAKERU……どんな人ですか?」
「うーん……服とか髪型とかが派手で、良くない友達がいて、あと……楓花ちゃんが好き」
「Oh……反対、ハルトと反対のimage」
「うん。そう。その……渡利君の〝俺は俺や〟って、中学のときから言ってるから、言い慣れてるんちがう?」
「そんな前から?」
「うん。他の男子たちとは一緒にされたくない、って言ってるって何回か聞いたわ。あの頃からモテてたし……誰からも影響受けてなかったんちゃうかな」
 友人はいたけれど特に群れようとはせず、ほとんど一人か二人で行動していた。彼は徒歩通学でいつもギリギリに登校していたし、バレンタインの帰りに自転車に乗せてくれていた丈志は晴大をいちばん理解していた人だ。その丈志にさえ晴大はリコーダーのことを秘密にしていた。
「もしさぁ、楓花ちゃん……翔琉君が真面目な人で、渡利君が性格良かったら、どっちと付き合う?」
「えええ?」
「キャラは今のままで、翔琉君が遊んどらんで、渡利君も女の子すぐ泣かす人じゃなかったら」
「うーん……どっちやろう……」
 翔琉は楓花が知っている男性の中ではイケメンなほうだと思う。優しくしてくれているし、先輩たちにも気に入られやすそうな可愛いキャラクターだ。一方の晴大は悔しいけれどトップクラスのイケメンで、成績も良いので文句のつけようがない。ただ彼は一匹狼なので、取っつきにくくもある。もちろん楓花は中学の頃にある程度は慣れてしまっているけれど。
「翔琉君かなぁ……。渡利君と付き合ったら、周りからの視線が怖そう」
「あー、それはあるかもなぁ」
 実際に一緒に電車に乗っているだけで痛いほど視線を浴びたことはある。
「じゃあ、もし、こないだ渡利君が、楓花ちゃんに気に入られようとしとぉ、て認めたらどうしてた?」
「……別にどうもなってないと思う」
 それはそれで喜んでいたかも知れないけれど。彼が恋人と長続きした話は聞いたことがないので、結局、どちらも選んでいないはずだ。
「フウカが羨ましい……二人に好かれてて二人とも格好良いって……! 私もそんな経験したいでーす」
「いや、だからEmily、翔琉君はともかく、渡利君は……、それより彩里ちゃんはどうなん? Emilyは?」
 長く楓花の話をしていて疲れてきたので、楓花は話題を彩里とEmilyのことに変えた。Emilyには大学に入ってから付き合っている人がいて、今も頻繁に連絡をくれているらしい。
「That's good! His name is?」
James(ジェームズ).彼は一つ上の学年、大学のChristmas Partyで出会いました。そんなに格好良くないけど、優しい」
 Emilyの話を聞いたあとは彩里のことを聞いた。彼女は最初に言っていた通り同級生には興味がないようで、サークルで同じ大学の先輩と仲良くなりかけているらしい。それでもイケメンには興味があるので、もしも晴大が年上で性格も良ければ狙っていた、と笑う。
「早く成人式にならんかなぁ。来年、一月……」
 大学二年前期の試験も、楓花は全て合格していた。彩里と翔琉も、英語関連の試験は全て合格したらしい。やはり晴大は共通科目も含めて全てA判定以上をもらっていたようで、前年に続いて受講した組織心理学も評価は良かったらしい。結果をもらった日の帰りに電車で一緒になった。
「渡利君は何を目指してるん? 英語じゃなかったん?」
「それもやけど、就職したらどうせまた人間関係変わるやろ。その勉強」
「ふぅん……」
「あの留学生……まだいてるん?」
「ううん、帰った」
 Emilyは長瀬家でのホームステイを終えたあと、少ししてから秋からの新年度に備えてアメリカに帰っていった。いつか話した成人式の振袖に興味を示していたけれど出席はできないので、楓花は写真を送ることを約束した。
「成人式か……いつやった? 日曜日? 成人の日て月曜か?」
「まだ案内来てないから分からんけど、地元離れてる人が多いから過去何年かは日曜にしたんやって」
 楓花は相変わらず実家で暮らしているけれど、友人は何人かが進学先や就職先の近くに引っ越していた。おそらく前日の日曜だろうと予想して、友人と待ち合わせの話を進めている。
 Emilyがいなくなり、楓花はまたアルバイトの日数を増やした。試験が終わって楓花自身も夏休みなので、また楽しい日々だ。晴大も同じくアルバイトの日が増えるけれど、別の用事も入っているらしい。
「長瀬さん、……怒ってない?」
「怒る? 何に?」
「こないだ──桧田に聞かれたとき──、よく考えたら長瀬さん傷つく発言やったよな。悪かったな」
「あ──うん……。怒ってはないけど、しばらく凹んだわ。でも別に、気にしてない」
 晴大は大学にいるとき、特に翔琉の前では顔をしかめているけれど、楓花には素直に話すことが多い。だから楓花も彼の噂は特に気にせず、普通に話すことにしていた。
「どうするん? 桧田と」
「え?」
「あいつはまだ長瀬さんのこと好きみたいやし。付き合うんやったら、俺が近くにおったら嫌がるやろ」
 晴大は聞いているけれど、表情からは何も読み取れない。ただ本当に翔琉との関係は良くないようで、彼との接触を避けているようにしか見えない。
「別に、どうもせーへん。断ったし、また今度言われても、付き合う予定はない」
「ふぅん。じゃ、何も変えんで良いんやな」
 聞きたかったことは聞けたのか、晴大は少しだけ笑うと「またな」と言って電車を降りていった。彼はアルバイトと言っていたけれど、楓花は予定がないのでそのまま帰宅する。
 健康スポーツ学部の智輝と直子は相変わらず仲良しで、大学三年になったので就職活動が始まっているらしい。キャンパス内で会うことは減ってしまったけれど、五月の連休明けに智輝に会えたので翔琉とのことを結果だけ伝えた。楓花はいつの間にか、智輝にも憧れなくなっていた。それは楓花の生活が充実しているからだと思うのは、今は恋人は必要ないと感じているからだろうか。
 思いきり遊べるのは二年の夏が最後だ、と周りの大人に言われた。三年になると就職活動で、四年になると卒業論文だ。それはもちろん、必要な単位を獲得して卒業が確実になったときに発生するもので──、楓花はまだそこまでイメージはできない。
 彩里からはときどき連絡があって、サークルで出会った先輩とうまくいっていると聞いた。わりと近くに住んでいるので休みにも会いやすく、お盆明けにドライブに誘われた、と嬉しそうにしていた。EmilyもJamesと久々に会って、Emilyの大学卒業が決まったときに日本旅行をしようと話しているらしい。二人とも恋人と楽しい日々を送っている──けれど、楓花にはそんな相手はいない。
 翔琉からは、あまり連絡はない。晴大が言っていたように翔琉は楓花のことがまだ好きなようで、教室にいるときはだいたい近くにいた。それでも楓花には特に何も言ってこないし、デートの誘いもない。ただ晴大の存在が気に入らないようで彼には敵意を向けているけれど、晴大は翔琉をほとんど相手にしない。翔琉に何を言われても表情を変えずに余裕でかわし、楓花とも必要な会話しかしない。翔琉は悪い仲間がいる噂があるし、晴大は何人もの女性を泣かせている。今は二人とも、楓花の恋人候補にはならない。
 楓花の夏休みは一年前と同じように、家とアルバイトの往復で終わってしまいそうだった。ホテルのロッカールームで着替えながら大きなため息をつくと、隣にいたパートの女性が「若いのに悩み事なんかあるかぁ?」と笑った。
「私らやったら旦那の文句とか子供の面倒とかあるけど、まだ大学生やん。楽しい時期やん」
「そうですけど、なんか……疲れて」
「今ごろから疲れてたらあかんで、まだ何十年もあんのに。彼氏に癒してもらい」
「……いてないですよ」
「ええっ? うそぉ、おったんちゃうん? 隣のレストランでバイトしてる子」
「違います、ただの同級生です」
 楓花が否定すると、パートは残念そうな顔をしていた。確かに晴大は格好良いけれど、全てを信用することはできない。だから楓花もまだ彼には、再会してからは本当の自分を見せたことはない。
「楓花ちゃんが私の娘やったら、あの子なんか大賛成やけどなぁ」
「いや……そんなことないと思いますよ」
 パートたちは晴大の表面しか知らないので、楓花は彼の悪い噂を簡単に話した。
「そんだけ女の子ら泣かしてんやったらさぁ、楓花ちゃんも泣かされたん?」
「いえ、私はないです。友達が泣いてて、それ聞いたあとで再会したから……」
「それってさあ、おかしくない? なんで楓花ちゃんを誘えへんのやろ?」
「興味ないんですよ。そんなこと言ってるの何回か聞いてるし」