生温い風が教室のカーテンを揺らした。うんざりするくらい毎日照りつける青空を僕は睨みつけた。
 誰も聞いていない担任の業務連絡を聞き流して、今日もホームルームの時間は過ぎ去っていく。

 窓の外を眺めて、何かいい(テーマ)はないかとシャープペンシルでノートを叩く。
 けれど、朝の眠気に支配された思考でいい案は思い浮かぶはずもなく、ノートにシャープペンシルの針の黒い跡だけが広がっていった。

 じっとりと汗ばんだシャツが肌にくっつくのが(わずら)わしい。(つんざ)くような蝉の声が、妙に僕を(あせ)らせた。

「おーい、透真。聞いてんのかー?」

「……聞いてないけど、何?」

「いや、聞いとけよ。なんかずっと上の空だけど、どうかしたのか?」

 珍しいな、と陽が不思議そうに訊ねてきた。

「文芸部の活動が出来そうで、その内容を考えてただけだよ」

「あれ、部員って透真だけだよな? 新しい部員でも入ったのか?」

「まぁ、そんなところかな」

「へぇ、よかったじゃん。それで、文芸部の活動って何をやるんだ? 大会、とかはないよな?」

「文集。自分達で小説を書くんだって」

「マジで!? 小説ってことは読書感想文より文字数多いよな……?」

「多いに決まってるでしょ」

「おぉ……やっぱり透真はすげーな!」

 歯を出して陽気に笑う(はる)に、本当に凄いのはそっちの方でしょ、と僕は心の中で呟いた。

 どう考えても、誰よりも朝早くサッカー部の部室に顔を出して、嫌な顔一つせず器具の準備をしてから練習に勤しむ毎日を送る陽の方が何十倍も凄いと思う。僕なら、きっと後から練習だけ出ている部員に悪態をついてしまいそうだ。勿論、心の中でだけど。

「ふーん。でもさ、その新入部員が言う通り、透真の考えすぎちゃう癖って小説書くのに向いてるのかもな。お前の普段口に出さないとこも知れるっていうんなら書けたら俺にも読ませてよ」

「え、やだ」

「やだってなんだよ!」

「……だって、恥ずかしいじゃん。それに……陽、小説なんて読めるの?」

「……無理。眠くなっちゃう。だけどお前が書いたやつなら読める、かも?」

 自信なさげに頬をかく陽に、気が向いたらね、とだけ僕は告げた。

「それで、小説の内容を悩んでるのか?」

「いや、文集だから、もう一人とテーマを合わせることになって考えてきてって言われてるんだけど、何にしようかなって思って」

「それって論文のテーマみたいなこと?」

「いや、そんな複雑なテーマじゃなくて、梅雨の話、とかファンタジー、とかそういうざっくりしたテーマのことだよ」

「それならさ、そんなに捻らなくたって『夏』とかでいいんじゃね? もうすぐ夏休みだろ」

 じりじりとした暑さの中、陽炎が揺らめいていた。



 ◇ ◇ ◇



「先輩、テーマは『夏』にするのはどうですか?」

「安直だねぇ」

「……暑くて何も考えられなかったんですよ。そういう先輩はどうなんですか?」

「聞きたい?」

「勿体ぶらないでくださいよ」

 とっておきの宝物を見せびらかすみたいに、溜めて溜めて宣言しようとする先輩を急かせるように僕はため息をついた。

「私のテーマは、ずばり『海』!」

「なんだ。五十歩百歩じゃないですか」

「なんだとはなんだ! 夏らしくていいテーマでしょ!」

「さっき僕のテーマを安直だって言ったの、覚えてますか?」

「私のはちょっとだけ捻ってるもーん」

「まぁ、いいんじゃないですか」

 半ばどうでもいい、という僕の様子が気に障ったのか、先輩は頬を膨らませて僕の手を掴んだ。

「そんなに言うなら海を見に行こう! キミもきっと、書きたくなってくるはず。海をみれば壮大な気持ちになれるからね!」

「別にいいですけど、いつ行きます?」

「今!」

「今!?」

「善は急げって言うでしょ!」

「ちょっと、流石に急ぎすぎじゃないですか!? っていうか、いくら校舎裏が海に繋がってるからって、立ち入り禁止だって……!」

「あー、そっか。じゃあ、いいや。このまま裏口から行こ!」

 そう言うと先輩は僕の手を引いて、部室の扉を開けっ放しにしたまま廊下へ駆け出した。

「先輩!?」

 靴も取りにいかないで、僕たちは上靴のままで校舎を飛び出した。地面の熱が、薄い上靴の裏から伝わってくる。

 息をつく暇もなく、先輩に手を引かれたまま僕は走った。
 脚がもつれそうになっても、走って、走って、走り続けて、僕たちは裏山の坂道を登っていく。やっと頂上だ。目の前を遮るものがなくなって、一瞬、視界を一面の空が埋め尽くす。

「あっはは! 見てよっ、後輩くん!」

 先輩の声に息を整えて顔を上げると、どこまでも広がる青い海が太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。

「…………綺麗だ」

 海まで続くアスファルトの上を、僕は無性に駆け出したくなった。

「窓から見えるからもっと近いと思っていたけど、こんなに遠かったんだ……」

 横目で先輩を見ると、息一つ乱れずに真っ直ぐ海を見つめていた。その瞳は空の青と海の青が混ざっていた。

「情けないぞー、若者のくせに!」

「……っ、二つしか……変わらないでしょ……」

 正面からの風で、先輩の前髪がかきあげられる。何処までも広がる水平線の美しさに、僕は暑さも疲れも忘れていた。

「どう? この景色、一度見たらもう二度と忘れられないでしょ?」

「……はい。凄く綺麗です」

「ほらね! 凄いものを見たら、選ぶ暇もないくらい、思わず言葉なんて(こぼ)れてきちゃうでしょ? 夏の温度も、汗ばんだ繋いだ手も、息切れした苦しさも、視界に広がる青も、全部、今だけなんだよ! 言葉だけで匂いまで思い出せるように、この一瞬を切り取れるって凄いことだと思わない?」

 そう言った先輩の笑った顔が眩しくて、僕は無性に泣きたくなった。

 くるっと(きびす)を返して、先輩が僕の顔を覗き込む。

「ねっ、来てみて良かったでしょ?」

 悪戯が成功した子供のような笑みで、自慢げに僕の返事を待つ姿がなんだかとってもおかしくて、僕は思わず声を出して笑った。

「……嘘っ! 後輩くんが笑った!」

「……普通に笑いますよ、僕だって」

「そんなことないよ! そんな屈託なく笑うのは初めてだもん! なんか特別なものを見た気分」

「もしかして、喧嘩売られてます?」

 そうしている間にも、先輩の表情はころころと変わっていく。

「あははっ、売ってない売ってない! けど、キミの笑顔がレアだなんて思わなくなるくらい、千夏先輩がこれからもっともっと引き出してあげるから、覚悟してね!」

 真夏の太陽の下で瞬く海を背景に、移りゆく先輩の笑顔が眩くて、僕は少しだけ目を細めた。

 たった一言では言い表せない。この光景を、この感情を、この空気感まで、余すことなく色褪せることなく閉じ込める言葉が欲しい。

 硝子(ガラス)の瓶を開けた瞬間に、炭酸が吹き出すように鮮烈(せんれつ)に、この瞬間に戻ってこられる言葉を見つけたい。

 きっと、この瞬間が僕のスタートラインになる。
 そう、確信していた。