本棚を引っくり返す勢いでボロボロの本を手に取った。これでも無い、と古びた本をかき分けていくと見慣れた手書きの文字の背表紙が見えた。文集だ。

「後輩くんの、字だ……」

 潮風でくたくたになった文集は、色も変色していて所々読みづらい。
 破ってしまわないように慎重にページを捲っていくと、透真くんの作品であるはずのタイトルが大きく印刷されていた。

「……え? 潮騒の、心臓……?  どうして、これがこんなところに……」

 恐る恐る冒頭を読み進めてみれば、それはあの時、絶望の中から自分を救ってくれたあの本の導入部と全く同じ文章で、それでも時折、自分と過ごしたあの夏の透真の姿がよぎるような内容だった。

 あぁ、やっぱり。

 不思議と、それが自然であるかのように受け入れていた。もしかしたら、心のどこかで私は感じ取っていたのかもしれない。

「…………透真、くん。……そっか。私を救ってくれたのは、キミだったんだね……」

 大切なものを抱えるように、文集を優しく胸に抱いた。青空の下で優しく微笑むキミの顔を思い出して、苦しさと愛しさが波のように交互に押し寄せる。

「……そっか。そりゃあ、人の心を打つような、あの本に出てくる台詞と似たような言葉が、キミから出てくるわけだよね」

 私はくしゃりと顔を歪めた。

「……そっかぁ、凄いなぁ……。透真くん、頑張ったんだね。キミは……キミの言葉で、人を救えるような小説家になったんだね」

 文集を握る指を涙が濡らす。

「格好よすぎ……。まったく、こんなの……適わないよ」

 私は涙を服の袖でぐいと拭って、こぼれ落ちないように上を向いた。

「……よしっ! 後輩くんにここまでされておいて、先輩の私がぐずぐずしてたら格好悪いよね」

 私は窓際の特等席に座り直すと、文集用に書いていた小説を黙々と書き進めた。後輩くんに恥じないような、『潮騒の心臓』に登場する先輩のような、格好いい先輩のままでいたかった。

「……キミには、私がこんな風に見えていたんだね」

 沈んでいた気持ちはどこかへ吹っ飛んでいて、不思議と、今だったら何でも出来るような無敵になったような気分だった。



 ◇ ◇ ◇



 真っ青な空に青い海。
 照りつける太陽の下、砂浜の上に僕と先輩の過ごしたあの窓際の席がある。

 これは夢だ。

 向かいに座った先輩が微笑む。
 これは、きっと僕の願望が見せる光景だ。
 それでも、夢の中でもいいから、先輩ともう一度話がしたかった。

「……先輩。僕の小説……読んで、くれましたか?」

「読んだよ」

 ほら、僕の望んだ受け答え。
 夢の中の先輩は、優しい眼差しで僕を見つめている。

「……私のこと、救ってくれたのはキミだったんだね」

「…………え?」

「何、その表情(かお)。『潮風の心臓』。あれ、私が救われた本のタイトルと一緒なの。後輩くんも気づいているでしょ?」

 夢の中の先輩が、僕が思っていたのと違う反応をするから、僕は思わずきょとんと目を丸くしたまま黙り込んだ。

「あれ? もしかして、気づいてなかった? 私が、キミの未来に続く世界で生きてるんだってこと」

「……いや、薄々はわかりました、けど……なんで先輩がそんなこと……これは、僕が見てる夢じゃないんですか?」

「夢だよ。だけど、私が見てる夢でもある。だから、きっと、私たち、普通に話せているんだと思うよ」

 なんて事ないことを言うかのように、先輩が笑った。
 屈託なく笑う、いつのも先輩の顔だった。

「ねぇ。『潮騒の心臓』って、どういう意味なの?」

「どういう意味って……」

「……キミが、何を感じてあの小説を書いたのか、知りたいの」

 先輩の真剣な瞳が僕を捕らえて離さない。

「それは、その……潮が満ちてくる時の、波の騒ぐ音が……まるで、心が満たされた時の鼓動の音に似ている気がしたから……」

 波の音だけが静かに響いている。

「心が満たされて、ざわめいて、波みたいに寄せては返していく。いろんな感情がごちゃ混ぜになって、伝えたい言葉が何も出て来なくなって、ただ騒がしく響く心臓の音が僕の心の全てだった」

 先輩を真っ直ぐ見つめて、僕は言う。

「『潮騒の心臓』は、先輩が教えてくれた、僕の心の原点なんです」

 先輩の瞳が涙で揺れたような気がした。

「……ありがとう。透真くん」

 僕たちは久しぶりに会えたのに、他愛のない話ばかりしていたように思う。
 先輩が過去と未来を行き来していたこと、僕が未来を覗いたこと、きっと今しか話せないとわかっていたから、僕たちは不思議な体験を共有した。

「……なんでだろ。この海に夕日が沈んだら、きっと私は目が覚める気がする。きっと、キミと話したこの時間を忘れてしまう気がする……」

「……きっと、そうなんでしょうね」

「……でも。でもね、夢だけど、会えてよかった」

「僕もです。もう一度、こうして先輩と話すことが出来て、よかった」

「……でも、我儘が言えるなら。もう少しだけ、あと少しだけ、キミとまだこうして話していたかったなぁ……」

 寂しそうに宙を見つめる先輩に、僕は思わず先輩の手を掴んで言った。

「……っ、大丈夫です! 二度と先輩とは会えないのかもしれないですけど、僕のいる過去は先輩の未来に繋がってる。だから、僕はこれからも沢山の小説を書きます! 沢山書いて、書いて、時を超えて……先輩に僕の言葉を届けます!」

 夕日が先輩の顔を照らす。
 そして、無慈悲に海へと沈みはじめていった。

「僕たちは、言葉でずっと繋がっています。だから、寂しくなんてないですよ」

 精一杯の虚勢をはって、僕は堂々とした態度で微笑んだ。それを見て、先輩は少しだけ弱々しくも、嬉しそうに微笑んだ。

「……っ、約束! キミはずっと書き続けて。キミの言葉に救われる人は必ずいるから! 絶対、絶対、キミは凄い小説家(ひと)になるよ! だって、キミの言葉に救われた……この先輩(わたし)保証するんだからっ……!」

 ありがとうございます、とお礼を告げようとした瞬間、太陽が海に飲み込まれ、ブツンとテレビが消えるように、先輩の姿はもうそこにはなかった。

 真っ暗な夜の海を月が照らし、夜空には無数の星が輝いていた。
 それは儚くも美しくて、夜の海に抱えていた恐怖をさらっていった。