「……っ、後輩く……っ」

 差し伸べられた手に手を伸ばして、僅かな期待を胸に私は顔を上げた。

「日向、大丈夫か?」

「……陽、ちゃん」

 その淡い期待も簡単に打ち砕かれて、尻もちをついた私を心配そうに担任が引き起こした。

「……よいしょっと。凄い勢いで走ってくるからびっくりした。そんなに慌ててどうしたんだ?」

「陽ちゃん……」

「だから、先生と呼びなさいって言ってるだろ……。って、泣いてるのか?」

「そういうわけじゃ……っ」

 無意識に湧き上がっていた涙が溢れ出る。私はそれを隠すようにして、焦ってごしごしと服の袖で顔を擦った。

「……あー、なんだ。よく分からないけど、見なかったことにしとくから」

 そもそも涙を見せるようなキャラじゃない。私の涙に驚いたのか、陽ちゃんは困ったようにがしがしと頭をかいて私から視線を外した。
 止めたいのに流れ続ける涙が鬱陶しくて、噛み殺した嗚咽だけが静まり返った旧校舎に響いている。

 沈黙に耐えきれなかったのか、担任が私の持っていたシャープペンシルを指さして言った。

「また、懐かしいものを持ってるなぁ。どっかで拾ってきたのか?」

「……っ、何が……?」

「そのシャープペンだよ。俺がちょうど日向達くらいの時に凄い流行ってたんだよなぁ」

「……ふーん」

「ふーんって……。もうちょっと先生に興味持ってくれてもいいんじゃない?」

 わざとらしく寂しそうにおどけてみせる陽ちゃんを見ていると、しんみりしている自分が馬鹿馬鹿しいような気がして、さっきまで感じていた寂しさもいつの間にか溶けてしまった。

「……にしても、本当に懐かしいなぁ」

 文芸部の部室を覗き込んで、過去を懐かしむように目を細める陽ちゃんに私は尋ねた。

「陽ちゃん、文芸部じゃなかったよね?」

「あぁ、俺は違うけど、友達が文芸部だったんだよ。部員がいなくてあいつ一人しかいないからさ、時々遊びに来てたなぁ……。確か、俺らの代で文芸部は廃部になったから、あいつが最後の文芸部員だったんだよな」

「え?」

「元々ずっと人が集まらなくて廃部寸前でさ。結局、俺たちが三年になっても新入部員は一人も入ってくれず、そのままなくなっちまった。……あ、いや、一度だけ部員が増えたって言ってたな」

 思い出した、と手を叩いて、陽ちゃんは渾身のネタを話すように勿体つけて言った。

「一年の夏休み頃に、部員が増えたって言ってたんだ。俺もそいつが楽しそうでよかったなーって思ってたんだけど、せっかく増えた部員が夏休み明けに来なくなっちゃってさ……」

「そ、それで……?」

「それで、理由はなんだったのかって、話を聞いてたら……そもそも、そんな生徒は存在しなかったんだよ」

「存在しない生徒……」

「そ。突然来なくなるなんて家庭の事情とかかもしれないだろ? だから、事情を知ってる人がいるんじゃないかと思って、二年や三年の先輩達に聞きまくったんだよ。それなのに、そんな人はうちの学校にはいないって言われて……」

「その、先輩の名前って……」

「あー、なんだっけな。確か……ち、ち、ちひろ……? ちはる? みたいな名前の……」

「…………もしかして、千夏?」

 こんな偶然あるはずがない。
 そう思いながらも、後輩くんと過ごしたあの夏が、確かに未来()に繋がっているんだと、信じてもいいんだろうか。

「そう、千夏! って、なんで日向が知ってるんだ?」

 あぁ。私と過ごしたキミは、存在しているんだね。

「……別に。適当に、私の名前……言ってみた、だけ……」

「あぁ、そっか! そういえば、お前も千夏だったか! まぁ、そんな感じでいくら探してもその千夏先輩は見つからなくってさ」

「それで、その友達はどうしたの?」

「暫くは落ち込んでたよ。だけど、急に先輩にはもう会えないかもしれないけど、伝える方法は見つけたとか言い出してさ。その先輩と一緒に作ろうとしていた文集を完成させるんだって、意気込んでいたよ」

 私は、胸が熱くなった。

「その先輩に、読んでもらう約束をしてたからってさ」

 あぁ。その人は、紛れもなく、後輩くんだ。
 潤んだ瞳で視界が滲んだ。

「陽ちゃん……。その人は、今は……」

「あぁ、そいつならたまに遊んでるよ。今は……むぐぐっ」

「やっぱ無し! それ以上は聞かない! これはなんか、ずるい気がする!」

 それに、ここで陽ちゃんから未来()の後輩くんがどうしているのかを聞いてしまったら、本当に二度とあの後輩くんとは会えないような気がした。

「……私も、小説を完成させないと! ねぇ、陽ちゃん! 旧校舎、何時までならいてもいい?」

「俺が他の部屋の片付けをしてる間ならいてもいいぞ」

 陽ちゃんがよく分からないけど構わない、と首を傾げながら言った。

「……なんだ? あいつの話に感化されたのか? よく分からないけど、日向も小説書くなら頑張れよ!」

 そう言うと、陽ちゃんは励ますようにガッツポーズをして、太陽のようににっかりと笑った。

「……陽ちゃんっ、ありがとう! 愛してるっ!」

 きっと、後輩くんが言っていた、太陽みたいな親友が陽ちゃんなんだろう。
 過去と未来、ありったけの感謝を伝えたくて、大袈裟な身振りで叫んだ私を見て、陽ちゃんは不思議そうに首を傾けた。



 ◇ ◇ ◇



「……透真くん。約束、守ってくれようとしていたんだね。それなら、私ばっかりへこんでいられないよね。……私も頑張らなきゃ。だって、私はキミの先輩だもんね」

 荒れ果てた文芸部の部室に戻って、肌に潮風を感じながら窓際の席へと腰かけた。
 後輩くんが見える、私の特等席だ。

「……もう一度、キミの言葉が聞きたいな」

 感傷と感情に身を任せて、私は止めることなくペンを原稿用紙に滑らしていく。

「あっ、しまった! 破れちゃった……。こんなところに傷なんてあったっけ……?」

 机についた傷に躓いて、原稿用紙に穴が空く。

「もう、誰だよ。こんなところに落書きなんて……」

 筆がのってきていたところに水を差されたような気分で、私は頬を膨らまして机の上に突っ伏した。
 机に掘られた文字を指でなぞる。

「……先、輩……、本棚……の文集、を……読ん、で……下さい…………。……っ、これっ!」

 ガタンッ。

 椅子が倒れるのもお構い無しに、私は勢い良く立ち上がった。ボロボロのカーテンが揺れる。

 私の特等席。

 古びた机には、消えてしまわないように深く、深く、見慣れたキミの字が掘られていた。