「もうっ! いくら暇そうだからって女の子にこんなに沢山のプリントを渡すなんて……人の心は無いのか! 陽ちゃんのばーかっ! 私のことなんだと思ってるんだ、よっ!」

 担任に半ば強制的に押し付けられたプリントの束を抱えて、千夏は足元に転がる石を蹴飛ばした。

 夏休みが明けて、旧校舎の取り壊しが本決定になってしまった今、旧校舎への立ち入り禁止が言い渡されて、生徒は入ることも叶わなくなっていた。旧校舎の壁には、立ち入り禁止の黄色いテープがあちこちに貼られている。

 勿論、旧校舎にある文芸部の部室も訪れることが出来なくなった千夏は、恨めしげに外から旧校舎を睨みつけるだけの日々を過ごしていた。

「そりゃあ、まぁ? 旧校舎の前を毎日うろうろしてたら、どんだけ暇人なんだって思うかもしれないけどさー」

 プリントを教室へと運び終えた千夏は、担任への報告の為に職員室へと戻って行く。職員室の扉を開ければ、ひんやりとした冷房の風が心地よく頬を撫でた。

「陽ちゃーん。言われた通り、プリント置いてきましたよー!」

「あのなぁ、陽ちゃんって呼ぶな。先生と呼びなさい!」

 担任の姿を見つけ、友達のような感覚で話しかけると、威厳を感じない態度でやんわりと窘められた。担任といってもまだ若く、気さくな性格もあって生徒たちからは友人のような気兼ねさで話しかけられていた。

「それで、プリント運ぶの手伝ったんだから、旧校舎の見回り、私もついていってもいいんでしょ?」

「まぁ、約束だからな。……にしても、あんなところに何の用があるんだ? 楽しいものなんかないだろ」

 不思議そうに尋ねてくる担任の言葉をのらりくらりと躱して、千夏はぐいぐいと急かすように背中を押した。

「うーん……。まぁ、ちょっと忘れ物、みたいな感じ? っていうか、来月には旧校舎も取り壊しでしょ。最後に少しくらい片付けでもしてあげようかなー、みたいな?」

「ふーん」

 大して興味がなさそうな返事を聞き流して、千夏は担任の後ろをついて、久しぶりの旧校舎へと足を踏み入れた。じゃりじゃりと砂を踏む音と、木の板の軋む音が響いている。

「じゃ、俺はこっちの部屋の片付けしてくるから。何かあったら大声で呼べよー」

 廊下で担任と別れると、千夏はあの日に拾った鍵を使って、文芸部の部室の扉を開けた。そこは、千夏にとっては見慣れている、とうの昔に廃部になって荒れ果てた文芸部の部室だった。

「……やっぱり駄目、か」

 慣れた様子で部室に入ると、ホコリだらけの部室の中で一つだけ綺麗に整えられた窓際の席へと腰かけた。透真と一緒に過ごしていた、千夏だけの特等席だ。

 机に突っ伏して目を閉じれば、心地のいい波の音がざざん、ざざんと耳の奥で波打っている。透真と過ごした、あの夏の日が昨日のことのように色鮮やかに思い出せた。

「……もっと、ちゃんとお別れ、すれば良かったのかな……」

 逃げるようにして飛び出してしまった最後の日を思い出して、千夏は大きくため息をついた。

 夏休み明けには旧校舎の取り壊しの為に、生徒の立ち入りが禁止になることが決まっていた。あの日が透真に会える最後の日だと、ずっと前からわかっていたはずなのに、どうしても透真の顔がちゃんと見れなかった。

「……私が、この鍵を持っているからなのかな。今日が、最後のチャンスだったのに……。過去(あっち)に繋がらなかったな……」

 過去、か。
 自分の生きている地続きの世界に、透真もいるかもしれない。そんな淡い期待が泡のように溢れてしまう。

「……ねぇ、後輩くん。この世界にも、キミはいるのかな……」

 小さく呟いた千夏の声を、潮騒(しおさい)の音がかき消した。



 ◇ ◇ ◇



 後輩くんと初めて出会ったあの日、旧校舎を訪れたのはたまたまだった。

 旧校舎の取り壊しが夏休み明けに行われると聞いた私は、どん底だった私を絶望の淵から救ってくれた『潮騒の心臓』の作者が、この学校の文芸部に所属していたという話を思い出して、なんとなく最後に見ておこうと旧校舎に足を運んだのだ。

 とっくの昔に廃部になったはずの文芸部の部室を覗いたのが、不思議な日々の始まりだった。

 廃墟同然の旧校舎の部室の扉が少しだけ開いていた。爽やかな風に導かれて扉を開けると、本当に旧校舎かと目を疑うくらい普通の部室がそこにはあった。
 僅かな違和感を感じながら、ふと窓の外に視線をやると、遥か遠くに海が見えた。

「……凄いっ! 海がまだ、あんなに遠くにある!」

 旧校舎を飲み込むように近づいてきている海が、この過去の世界では、まだまだ遠くにあった。無くなってしまったはずの坂道も、植物で覆われたはずの旧校舎の壁も綺麗なままで、私はここが過去の世界なんだと確信した。

 浮かれきった私は、本棚に溢れかえっている本を夢中で読んでいた。周りが見えないほど集中していた私の耳に、かたんと小さな物音が響いた。誰かの視線が自分に注がれているのに気がついて顔を上げると、不思議そうにこちらを見ている少年と目が合った。

「ねぇ! もしかして……キミ、文芸部員!?」

 話せば、少年は唯一の文芸部員なのだと言う。
 私は、過去(この世界)で会えたことが嬉しくて、後先のことなんて考えずに入部したい、と少年に告げた。

 自分でも強引だった自覚はあった。だけど、こうでもしなくちゃ、過去のキミとの繋がりなんて簡単に途切れてしまいそうで、私は強引に縁の糸を結んだんだ。

「感謝はしないですけど、これから宜しくお願いします。先輩」

 私が後輩と呼んだ彼が、私のことを真っ直ぐに見つめて先輩と呼んだ。
 大袈裟かもしれないけれど、この瞬間を私はずっと忘れないんだろうと思った。鬱陶しいくらい夏の暑さも、こびりつくような潮風の匂いも、今は不思議と嫌ではなかった。

 それから、部室の扉が開いている時だけ、過去の世界と繋がっていることがわかった。こんなことはずっとは続かないとわかっていながらも、後輩くんと過ごすのが楽しくて、私は嫌なことを考えないようにと明るく振る舞った。

 ふとした瞬間、ふとした言葉で、透真くんは私とは違う時間を生きているのだと思い知らされた。当たり前のように明日の約束を話す透真くんを見る度に、私は心が痛くなった。

 本当は、私だって透真くんが頑張っていた納涼祭の演劇を見に行きたかった。
 本当は、もっと一緒にやりたいことも行きたいところもあった。
 本当は、最後まで一緒に文集を完成させたかった。

 ――本当は、キミの明日に私がいればいいと、何度も何度も願っていた。



「おーい、千夏! ちょっとこっちの机を運ぶの手伝ってくれー!」

 遠くから叫ぶ担任の声で、はっと我に返る。
 部室の扉を開けっ放しにして、私は渋々と担任のいる教室へと足を運んだ。感傷的な気分が少しでも紛れるようにと、今行くよ、と私は大きな声で返事をした。

「……まったく、陽ちゃんってば、本当に人使いが荒いんだから」

 一人で部室に戻れば、透真と過ごした部室とは別物のように変わり果てた室内に視界が揺らいだ。

「……もう、後輩くんに会えないのかな。いやだな……。まだ、キミの書く小説を読んでないよ……っ」

 掠れた声を上げても、誰も返事をしない。
 ここには私しかいない。その事実に涙が滲んだ。

「キミが逢いに来てくれればいいのに。……まぁ、無理だよね。後輩くんは気づいてなさそうだったもんね」

 小さな声で呟くと、私は部室の中の違和感に気がついた。

「……あれ? なんで、カーテンが空いてるの。私、開けてないよね……?」

 私は、願望にも似た可能性を声に出した。

「……後輩くん?」

 返事はない。
 ただの希望的観測なのはわかっている。
 それでも、可能性があるのならば、探さずにはいられなかった。

 私は慌てて廊下を飛び出すと、裏口を回って海へ出た。もう一度、キミに会えるかもしれない。

「…………いない。あ、ははっ……。そう、だよね。キミがいるわけないもんね」

 ふと、足元を見るとまだ新しい一人分の上履きの跡があった。
 その横には、後輩くんが小説を書く時にいつも持っていた見慣れたシャープペンシルが砂に埋もれていた。

「……っ、後輩くん!  ……ねぇっ、透真くん! いるの……っ!?」

 私は必死で叫びながら、辺りを探した。

「もしかして、部室に戻ったのかも……っ」

 一刻も早く部室へ戻ろうと、私は廊下を駆けていった。高く跳ぶ為の足が、羽のように軽く感じた。

 ドンッ。

 廊下を曲がろうとした私は、勢い良く誰かにぶつかると、尻もちをついた。
 差し出された手に、私は期待の眼差しで顔を上げた。