「お前は、誰と過ごしてたんだ……?」

 陽の言葉を頭の中で反芻(はんすう)させる。
 先輩がいない。
 僕以外、誰も先輩が存在したことを証明出来ない。

 まさか、本当にあれは夢で先輩なんて初めからいなかったのか。僕だけが世界に取り残されて、ひとりぼっちになってしまった感覚だ。急に世界が違うものになってしまったような違和感に足がすくんだ。

「……千夏先輩。貴女は、誰なんですか?」

 誰もいない教室で、僕は小さく呟いた。
 ざぁぁ、と海風が僕の髪を撫でた。

「……っ、そうだ! 交換日記は!?」

 納涼祭の忙しさから解放されて部室での交流が戻り、なんとなく僕で止まっていた交換日記。あれは、確か教室のロッカーに閉まったままだった。

 僕は慌ててロッカーを探り、ノートが存在していたことにほっと胸を撫で下ろした。少なくとも、交換日記をした先輩は、確かに存在したのだ。

「……昨日は何を食べた、とか、納涼祭の準備はどうだとか、あんまり大したこと書いてなかったんだな」

 ペラペラと交換日記のページをめくると、他愛のないやり取りに頬が緩んだ。

「ふふっ。先輩、落書きしてる。猫かな。……下手だなぁ」

 交換日記の中の僕も、これは犬ですかと問いかけて、先輩に怒られていた。なんてことない日常が、ずっと続くと思っていたやり取りが、既に懐かしい。けれど、このまま思い出になんてしたくはなかった。

「あ、もう最後のページか。そういえば、先輩が救われたって言っていた小説のタイトルを聞こうとしていたんだっけ」

 海がテーマで、先輩の心に寄り添った本。
 それがどんな内容なのか知りたくて、先輩に尋ねたんだ。まるで自分のことを自慢するように嬉々としてお勧めされたのが、自分の知らない先輩をその本は知っているみたいで少しだけ嫌だった。

 見たこともない本になんか嫉妬して、納涼祭を終えた先輩と特別な時間を過ごしたことに安心して、すっかり先輩からの返事を読むのを忘れてしまっていた。

「我ながら馬鹿馬鹿しいな……。僕を救ってくれた、あの明るい先輩を救ったのが、僕の知らない誰かだなんて認めるのが嫌だったなんて」

 自分の青さに苦笑を洩らし、僕は静かに次のページをめくった。

「先輩が言っていた本のタイトルは……、潮騒(しおさい)の、心臓……」

 ページをめくる手が止まる。

 どうして。
 どうして、僕が今書いている小説のタイトルと同じ本を先輩が持っているんだ。

 そんな本は、この世に存在してないというのに。



 ◇ ◇ ◇



 存在しているわけがない、自分が今書いている小説のタイトルを先輩が知っていた。
 訳が分からないまま、僕の足は勝手に文芸部の部室へと向かっていた。

「……そういえば、鍵持ってないんだった。……僕は何をやっているんだろう」

 走って乱れた呼吸を整えながら、僕は大きくため息をついた。膝に手を当てて顔を上げると、不自然に開いた部室の扉が白く光っているような気がした。

「……っ、先輩っ……!」

 バタンと音を立てて扉を強く開け放つ。
 けれど、そこに先輩の姿はなかった。

「なんだ、これ……」

 それどころか、部室の中は酷く寂れていて、まるで廃墟のようだった。本棚の本も湿気で酷い有様で、濃い潮の香りがした。

「いやいや、いくらなんでも、たった数日でこんなことになってるわけが……」

 異世界に迷い込んでしまったような不安を抱えて、じゃりじゃりとした部室の中を一歩、また一歩と僕は進んでいく。
 まるで、何年もの時が過ぎたかのような室内に、ボロボロになったカーテンが割れた窓から入る隙間風でひらひらと靡いていた。

 カーテンを開けると、目と鼻の先に海があった。このままでは、部室も海に飲み込まれてしまうのではないか。そんな近さで目の前にまで広がっている海を見て、僕は慌てて窓ガラスが全て無くなっている窓から身を乗り出した。

「……白い、砂」

 建物には伸びきった植物が絡まって、酷く荒れ果てている。僕は白い砂を踏みしめた。本物だ。

 信じられない面持ちで部室の中に戻ると、僕は改めて辺りを見渡した。校舎は寂れて、潮風で窓の縁や机の足が錆びている。

 ここはどこだ。
 くらり、と目眩がした。

 よろけた拍子に懐からシャープペンが落ちる。そんなことを気にしていられるほどの余裕なんてなかった。

「……部室のこんな近くに海があるはずがない。先輩と登ったあの坂道はどこへ行ったんだ? どうして、こんな廃墟みたいになっているんだ?」

 ぐしゃり。

 紙束を踏んだ感触に、思わず飛び退いた。ついた砂を手で払い、変色した紙束を手に取った。足元に落ちていた()()は、ぐしゃぐしゃになって字も滲んでいたが、古い文集のようだった。

「平成十七年……。文芸部一年。潮騒の、心臓……」

 裏返すと、そこには僕の名前が書かれていた。

「まだ、書き終えていないのに……なんで、こんなところに……」

 一つの可能性が頭をよぎる。僕は地面に落ちていた雑誌や新聞紙を漁った。
 そんなことあるはずがない。
 だけど、そうとしか思えなかった。

「令和、一年……。令和って、なんだ……?」

 聞いた事の無い元号。
 寂れた校舎。
 廃墟のような部室。
 目前に迫る青い海。

「まさか、本当に……ここは未来、なのか……?」

 僕は慌てて、扉から部室の外へと足を運ぶ。そこには、いつも通りの見慣れた廊下。文芸部の部室の中だけが、異質な雰囲気を放っていた。

「おーい、透真!」

 廊下の向こうから呼ぶ、陽の声で現実へと引き戻される。駆け寄ってくる陽と、異質な部室を見比べて、僕は咄嗟に部室の扉を閉めた。
 どうしてだろう。陽にこの中を見られたら、もう二度と先輩には会えないようなそんな気がした。

「おーい!」

 走って探してくれていたのか、陽は息を切らしている。

「どうしたの?」

「いや……例の先輩のこと、落ち込んでるんじゃないかと思ってさ」

 陽が気まづそうに視線を逸らした。あの後も先輩達の教室を全て回って、千夏先輩が本当に存在しないのか、聞いて回ってくれていたようだ。

「……いや、もう大丈夫だよ。先輩には、もう会えないかもしれない。だけど、先輩に伝える方法は見つけたような気がするから……」

 僕は振り返って、部室の扉を開けようとしてみたけれど、部室の扉には鍵がかかっていて、もう開きそうになかった。

「……そっか。その先輩に、伝えられるといいな」

「……うん。ありがとう、陽」

 それは白昼夢のようで。
 けれど、上靴についた白い砂が廊下を汚すから、僕は二度と開かない部室の扉をそっと撫でた。

「……先輩。もう少しだけ、未来で待っていて下さい。貴女がくれた想い出で、今度は僕が救うから……」

 蝉の声がする。
 照りつけるような夏の空が、秋へと移り変っていく。
 遠くから潮騒の足音が近づいてくる。記憶の中の先輩の声が、止まっていた心臓を動かすように、僕の心を満たしていく。


 先輩と過ごしたこの夏を、僕は忘れることはないだろう。