クラスの皆の前で大見得を切ってから、早くも二日が過ぎようとしていた。
 名作中の名作であるロミオとジュリエットの脚本を書き換える重圧は、僕が想像していたよりもずっと重く筆を鈍らせた。

「調子はどうだー? 後輩くんっ!」

「…………先輩」

「わおっ! こりゃあ、順調じゃなさそうだね。酷い顔してるよ。ほら、すっごい隈が……」

 先輩の細い指先が、僕の目元に触れる。

「……自分で決めたことなので、弱音は吐きません。けど、全然いい結末が思いつかなくて……」

「いい心がけだね。まぁ、元々は悲劇……のバットエンドがウケてた作品をハッピーエンドにして、見た人も納得するような、っていうのは難しいかもね」

「……そうなんですよ。服毒じゃない死に方、とかであれば綺麗な死に際とか思いつくんですけど、恋人同士が死んでしまうこと自体が大人の地雷に引っかかるのなら変える意味もないし……」

 どうしても、元の物語の美しい悲劇に引きずられてしまって、二人がただ生きて逃れてハッピーエンドというのは何かが違うと自分でも思ってしまう。
 全てが整っている小説のラストだけ、それを書くのがこんなにも思うようにいかないなんて、分かってはいたはずなのに足踏みをしているみたいで苛立ちだけが募っていく。

「周りから見たら不幸かもしれないけど、本人達は幸せなメリーバッドエンド? いや、観客は本人達以外なんだから、それじゃあ駄目だ。いっそ、運命に導かれるみたいに障害が二人を避けてハッピーエンド? ……そんなご都合主義な展開、そこまで積み上げてきたものを全て蔑ろにしてしまう」

 頭の中を整理しようと、ぶつぶつと呟きながら、書いては消して書いては消してを繰り返す。そんな僕に相槌をうつように先輩が提案をしてくれていたが、いつの間にかその声すら耳に入らなくなっていった。

 まるで、僕だけが物語の世界に入り込んでしまったみたいに、作品の空気感に浸り、目を閉じる。

「……ふふっ、凄い集中力。もう聞こえてないみたい。……あと少し、キミなら絶対に大丈夫だよ。頑張ってね」

 目を閉じて空想しては、掴んだものを無我夢中で紙へと書き写していく。手が止まり、思考が沈み、また僕は深く作品へと潜っていく。
 苦しくて仕方が無いのに、時間を忘れてしまう感覚が心地が良くて、僕は夢中になって先へ先へと物語を進めていった。

「……っ、出来たっ……! 先輩っ、出来ました!」

 やっと、納得のいくラストが書けた。その高揚感に包まれて顔を上げると、空はいつのまにか夕日が沈みかけていて、先輩の姿は見当たらなかった。

「……いつの間にこんな時間に……。いや、でも、もう夜のような気もしたし、朝のような気もしたし……」

 そう思って初めて、ロミオとジュリエットと一緒に脚本の中の時間を過ごしていたことに気がついた。現実の時間が分からなくなるほどに、僕は脚本を書くことに集中していたようだ。

「……これなら、きっと大丈夫だ!」

 初めて完成させた脚本は、ほんのラストシーンだけだったけれど、それは確かに僕にしか書けなかったのだと思うと誇らしい気持ちになった。

 明日、胸を張って皆に見せよう。
 これが僕の書いた脚本なんだと、自信作なんだと、校長達へ勝負を仕掛けよう。



 ◇ ◇ ◇



「すげぇよ、透真っ! これなら絶対大丈夫だ! このラスト、すげー好きだ!」

 気恥しい気持ちと誇らしい気持ちのまま、クラスメイト達へと仕上げたばかりの脚本を渡す。真っ先に声を上げた(はる)が脚本を掲げると、キラキラと瞳を輝かせて僕の肩をばしばしと叩いた。

 その笑顔に何度助けられただろうか。陽の裏表のない力強い眼差しに、僕はほっと胸を撫で下ろした。

「ねぇ、陽ってば、まだ皆読んでるんだから持っていかないでってば!」

「ごめんごめん、つい!」

 慌てて持ち上げていた脚本を陽が皆の前へと戻すと、皆が再び僕の書いた脚本に視線を注ぐ。

 自分では自信作だと思っていても、名作のラストシーンを勝手に変えたんだ。きっと、作品の伝えたかったことなんて無視しているし、舞台に映えることを重視して書いた自覚はあった。この結末を受け入れてもらえるか不安で、僕は皆の顔色をそわそわと伺っていた。

「……うん。うん! 凄くいいと思う! ここのシーンは絶対に舞台映するし、切なさっていうか美しさも魅せれそう」

「ロミオとジュリエットの切なくて幻想的な感じを、バットエンドじゃなくて出せるのはいいよね」

「うん。無理やり過ぎず、ちゃんとハッピーエンドになってるから、こんな風に二人が結ばれるもしもの世界もあったかもって思えていいかも!」

 舞台演出を手伝っている明穂と演劇部員が僕の脚本を見ながら、わいわいと演技のプランを固めていく。
 当たり前のように自然に受け入れられていることが心地よくて、作品の元の雰囲気を弄りすぎないようにと心掛けていたところまで気づいて貰えたのがとても嬉しかった。

 これが言葉に込めた意味に誰かが気づいてくれる喜びなのか、と思うと、小説は僕の心を曝け出す行為に思えて、僕自身が認められたようなそんな気分だった。

「先生! この脚本だったら、劇を中止にしなくても大丈夫だよね!?」

 脚本に目を通した先生は驚いたように僕を見つめると、頑張ったねと言って優しく微笑んだ。
 ここからは先生(じぶん)の仕事だと言うと、新しい脚本と僕達のクラスがこれまでの準備にかけていたスケジュールがわかる資料を持って、校長室へと先生が説得に向かうようだった。

 先生を待っている間は、生きた心地がしなかった。
 僕の書いた脚本が大人に認めて貰えなかったら、僕の脚本がクラスを救えなかったら、そう思うと胃の奥にずしりと嫌な重みを感じていた。

「皆、校長先生から許可が下りたぞ! この内容なら予定通り劇をやってもいいそうだ。……よく、頑張ったな」

 僕の心配は杞憂(きゆう)に終わり、急いで戻ってきたのか息を切らした先生が明るい声でそう言った。

 それを合図にして、教室に皆の活気が戻っていった。



 ◇ ◇ ◇



 劇の許可が下りてからは、ラストシーンの演出に小道具や背景の追加、準備に追われてあっという間に過ぎていった。

 納涼祭当日。
 緊張した面持ちで、僕は舞台袖からロミオとジュリエットを演じるクラスメイト達を見守っていた。

「もうすぐだね。透真の書いたラストシーン」

 隣で見守っていた明穂が、小声で僕に耳打ちをした。

「……うん。こんなの、ロミオとジュリエットじゃないってがっかりされないといいけど……」

「大丈夫! 皆、凄く良かったって言ってたでしょ。自信もってよ!」

「う、うん……」

 楽しそうに舞台を見ている観客の表情が急に変わってしまったらどうしよう。満員の観客席に怖気付いて弱気になっていた僕に、明穂が力強く言い切った。

「そうだよね。うん、ちゃんといい作品になってたよね。皆で頑張って最後まで作り上げたんだ、僕が認めてあげないと皆の頑張りまで否定することになるよね」

 弱気は退散、と両手で頬を叩いて、僕は舞台へと視線を向けた。
 場面が変わり、暗くなった舞台上でスポットライトがジュリエットを照らした。

「お願い……っ、もう一度ロミオに会わせて……っ! ……貴方が隣にいない人生なんて、一人で歩いていけないわ……っ」

 ジュリエットの悲痛な叫びは誰にも届かないまま、独房のような石造りの部屋に虚しく響き渡る。
 ガチャン、と外から鍵をかける音がジュリエットの心を打ち砕いた。

「どうして……っ、どうして貴方はロミオなの……。……どうして。どうして、私は……」

 白くて細い腕を扉に強く打ちつけると、ジュリエットは力なく扉にもたれかかって、地面にへたり込む。
 ジュリエットの嗚咽だけが、静まり返った舞台の上で響く。どうにもならない絶望感に、観客の表情も暗く沈んでいく。

 迫真の演技に、客席からもすすり泣く声が聞こえてくる。さぁ、ここからだ。僕は震える拳を握りしめた。

「可哀想なジュリエット。……こちらへおいで。さぁ、ボクの手をとってごらん」

 いつの間にか開いていた窓から風が吹いて、白いカーテンがひらひらとなびく。
 ぱっ、と窓の縁にスポットライトがあたると、月に腰掛けるようにして、小さな妖精が妖しく微笑んでいた。

「貴方は誰……? もしかして、天使さん……?」

「うふふっ、キミにとっては救いの妖精(天使)かもしれないね。哀れなジュリエット、何を失ってもロミオに会いたいかい?」

 妖精がふわふわと飛び回り、ジュリエットの涙を拭って無邪気に訊ねた。

「……会いたいわ! 彼以外に失うものなんてないわ。……ロミオのいない世界でなんて、生きていけない……っ」

 大粒の涙を流すジュリエットに妖精が問いかけた。

「真実の愛ってやつかな。面白いね! ……それじゃあ、その言葉の通り、キミの全てを差し出してごらん。ボクがロミオに会わせてあげる!」

「……私の全て?」

「ロミオへの愛は奪わないであげる。キミの名前も、ロミオの名前も、争いも、過去も、キミの生きた証と未来を捨てて、ボクらの世界で生きるんだ」

「……勿論よ! ロミオと二人でなら、どんな世界だって怖くはないわ」

 ジュリエットは二つ返事で妖精の提案を受け入れると、ロミオ以外の全てを妖精へと捧げ、ロミオと二人だけで妖精の世界で生きる道を選択した。

 月に照らされたバルコニーに霧が立ち込めてロミオが姿を現すと、二人は涙を流して見つめ合い、もう二度と離さないとお互いの身体を強く抱きしめた。

「ジュリエット……! こうして、また君に会えるなんて夢みたいだ! 君と二人なら、どんな世界だろうと構わない。……愛しているよ」

「私も、貴方を深く……愛しているわ」

 口付けを交わした二人を幻想的な妖精の光が包み込み、霧に溶けるように二人の姿が暗闇の中へと消えていった。

 過去の争いにより感情を蔑ろにされてきたロミオとジュリエットは、家を捨て、名前を捨てて、真実の愛によって妖精の世界で結ばれた。

 しん、と静まり返った客席に、僕は唾を飲み込んだ。

 赤い幕が下りる。
 舞台袖の僕と、ロミオとジュリエット役の二人の視線が交わった。

 泣きそうだ。

 観客席からは、割れんばかりの拍手が聞こえていた。