夕日の熱が不規則に揺らめく波へと落ちる。
 心地の良い音が耳を抜けるたび、橙色(だいだいいろ)に照らされた水面がゆらゆらと輝いた。

 濡れた砂で制服のスカートが汚れるのを気にもしないで僕の隣に座っている先輩の瞳に、映り込んだ海は一秒毎にその姿を変えていく。

 移りゆく時間への感傷が、先輩の瞳を揺らす。

 美しいのに何処か物悲しい。胸の奥がヒリヒリと締め付けられるような、この感情を表す言葉を僕はまだ見つけられずにいる。この胸の内を気取(けど)られないように、僕は背中を丸めて小さく膝を抱え込んだ。

 溢れる言葉が浮かんでは泡沫(うたかた)に消え、感情の海に溺れてしまいそうだ。



 ◇ ◇ ◇



 開け放たれた教室の窓から(ただよ)う潮の香りに、僕はふと窓の外へと視線を移す。教室の窓から見えるくらい近くにある海が、雲一つない真っ青な空を映してキラキラと輝いている。

「なんか今日、風がすげー気持ちいいよな! なっ! 透真(とうま)!」

「ちょっと。痛いよ、(はる)……」

 バシン、と力強い音とともに肩を叩かれて、非力な僕はよろめくのをなんとか耐えると(うら)めしい視線を陽へと向けて抗議(こうぎ)の声を上げた。
 口下手な僕とは対照的に常に喋っているような社交的な陽とは、子供の頃からの気心知れた友人だ。

「悪い悪い! ……それにしたって、透真が貧弱すぎるんだよ! こんなに細くて大丈夫か?」

「……別に、生きてるし」

「んなことはわかってるっつーの。やっぱり、お前も俺と一緒にサッカー部にすればよかったのに」

「僕には無理だよ。陽と違ってそんなに運動得意じゃないし」

「別に苦手って訳でもないだろ?」

「そうだけど。身体を動かすよりも、本を読む方が好きなんだよね」

「あー、文芸部だっけ?」

「そう。廃部寸前の文芸部だよ」

 文芸部とは名ばかりで一年生の自分しかいない閑散(かんさん)とした部室を思い浮かべて、僕は自嘲気味に肩を(すく)めた。

「透真くん! ほんとにごめんなんだけど、今日も掃除代わってくれない? この後、どーしても外せない用事があるんだ!」

「また? 最近、透真に代わって貰ってばっかじゃん」

「しょーがないじゃん。用事があって、遅れられないんだから!」

 僕よりも先に返事をした陽を横目にやり過ごすと、懇願(こんがん)するようにクラスメイトの女の子は手に持った(ほうき)を僕へと突き出した。

 どうしていつも僕なんだ、とか、たった二十分の掃除分をずらすことが出来ない用事なのか、とか聞きたいことは沢山あるのに、浮かんでは消え、浮かんでは消えて、声になる前にしゃぼん玉のように消えていく。

「用事があるなら仕方ないよ。いいよ、やっておくね」

「マジで、ありがとう! 透真くんってほんとに優しいよね、ちょー助かるー!」

 頼まれるのが嫌だという訳では無いけれど、もやもやと(くすぶ)る気持ちを形に出来ず、口に出すのを諦めた僕は人当たりの良い笑みを浮かべた。

 彼女に悪気はないんだろうし、毎回面倒事を押し付けられている訳でも、虐められている訳でもない。都合がいいタイミングで()()()()、ただそれだけなんだろう。

 菷を手渡すと、彼女は僕を拝み倒して明るい表情で帰っていった。

「お前さ、たまには断ったら? あいつだけって訳じゃないけどさ……ほいほい引き受けるから、女子に便利屋扱いされてるんじゃねーの?」

 呆れたように陽が言った。

 言葉には労力が必要だ。
 頭の中で練習をするように、いくつもの回答を考えては会話をシュミレートするのが癖になっている僕は、最適に悩まされては何も言えずに思考を放棄することが多かった。

「安請け合いしてるつもりはないんだけどさ。まぁ、嫌ってほどでもないし……」

「別に理由なんかなくてもいいんだぜ? 何回目だから今日は他の奴に頼んでくれっつったって良いんだしさ」

「そうなんだけど……咄嗟に言葉が出てこないんだよね。だから断る方が面倒っていうか、引き受けちゃった方が楽なんだよね」

「ほんと、お前はお人好しだなー。俺なら三回目くらいでキレちゃいそう」

「仏の顔も三度までってやつ?」

「そんないいもんじゃねーよ。自分でやれよ、って普通に腹立つってだけ。この前だって同じ奴から毎回日直押し付けられてただろ?」

「あはは。まぁ、あれは押し付けられてたよね」

「あははじゃなくってさ……。って、お前はそういう奴だよ」

 親友の呆れた顔を見るのも両手の数では数え足りない。だけど、こうやって自分の代わりに僕を心配してくれる存在がいるだけで、胸のつかえがとれる気がするんだ。

「お前がいいならいいんだけどさ」

「ありがと」

「……こうやって俺とは普通に話せてるのになんでだろうな」

「他の人とも普通に話してるよ?」

「……そうなんだよな。それでなんで、言葉が出てこないってなるんだ?」

「うーん、なんて言うんだろ。……選択肢のあるゲームみたいな感覚、なのかな? 普通の会話パートはさくさく進めるけど、緊張感のある……こっちを選んだらこっちは見れない、みたいな選択肢を前にすると止まっちゃうみたいな」

「あー、なんかちょっとわかるかも。でも、お前の場合は些細な分岐のたびにそうなってるんだろ? ……それって結構しんどくない?」

「もう、それが日常だからね。慣れたっていうか、折り合いはついてるよ」

「ふーん。まぁ、俺にはあんまわかんねー感覚だけど、たまには後先考えずに思い浮かんだまま言葉にしてみろよ。案外、悪くないかもよ」

 陽なりの助言を否定するでも肯定するでもなく、僕はへらりと笑った。

 キンコン、と部活の開始時間を知らせる予鈴が鳴った。

「やべっ、もうこんな時間か! お前も掃除なんか適当に終わらせていけよ! 部活、間に合わなくなるぜ」

「うちは部員は僕一人だけだから重役出勤でも大丈夫だよ。陽こそ、急がないと先輩に怒られちゃうよ」

 僕がそう言うと、陽は焦るようにスポーツバッグを肩からかけて、廊下を走っていった。

「さてと、僕もさっさと終わらせて部室行こう。昨日読んでた小説の続きも気になるし……」

 机の片付けられた教室の真ん中で、僕は小さく息を吸った。

 夏の匂いがする。

 教室に響く、ミンミンと力強い蝉の鳴き声が、この世界に一人だけ取り残されたように錯覚させる。ゆらゆらと揺れる白いカーテンの隙間から、眩しいくらいの青い空が覗いていた。

「夏だなぁ……」

 生温い夏の風が僕の頬を撫でた。



 ◇ ◇ ◇



 掃除を終えた僕は、部室へと向かう廊下ですれ違った清掃員に軽く会釈をした。本格的な器具を導入している部活もある為、部室の掃除は清掃員に一任されている。

 校舎の隅にひっそりと佇んでいる文芸部へ辿り着くと、()を使って部室のドアを開けた。
 開けた瞬間に鼻に抜ける本の匂いが僕は好きだった。

 いつも通り、紙の甘い香りが漂うと思い込んだ鼻が勝手に匂いを嗅ぎとろうとすると、何故か潮風の匂いがした。

「……なんだろう。潮の、香り?」

 本が傷むこともあり、文芸部の部室は海から一番遠い場所に位置取られている。潮の香りがこんなに濃いのはおかしい。

 (いぶか)しみながらドアを(くぐ)ると、見慣れた部室の窓際の席に座る少女が、静かに本を読んでいる姿が僕の目に飛び込んできた。

 窓からの風に長い黒髪を(なび)かせて、伏せられた視線を本へと滑らせる。室内に本の頁を(めく)る音だけが響く。まるで、彼女の周りだけ音が消えてしまったかのようだ。

 (なび)く髪が鬱陶しいのか、指で()くように耳へとかける仕草に、思わず僕は息を呑んだ。

 伏せられていた彼女の瞳が、ゆっくりと僕を捉える。吸い込まれそうな真っ黒な瞳が、僕を見つめて大きく見開くと星空を散りばめたかのように瞬いた。

 夏の風とともに僕の前に現れた少女は、潮風の匂いを(まと)っていた。