「くそっ……あんなたくさんの敵とどうやって戦えば……」

 大地を覆い尽くし、黒く見えるほどに多くのモンスターが大挙して迫ってきていた。
 必死に抵抗を続けてきた人類であるが、これまでの戦いでかなり消耗していてこれほど多くのモンスターと戦うのは厳しかった。

「□□□だ!」

 誰かが誰かの名前を呼んだ。
 振り返ると黒いドラゴンが見えた。

 悠然と羽ばたいて空を飛んでいるように見えているが実際はすごい速度が出ている。
 黒いドラゴンは一度頭を上げて空高く舞い上がると迫り来るモンスターの方を見た。

 黒いドラゴンの口からビームのような火炎が放たれてモンスターたちの真ん中で大きな爆発が起こる。

「□□□が来たぞ! 反撃の時だ!」

 きっと黒いドラゴンの名前が呼ばれているのだろうと思う。
 なのに相変わらずその名前だけはなぜか聞こえてこない。

 覚醒者たちは強力な援軍に湧き上がり、戦う意欲を取り戻す。
 見るとドラゴンがモンスターの中に突っ込み、その背中から人が一緒に飛び降りていた。

「□□□と□□□□がいてくれるならきっと私たちは勝てる……」

 自分で声を発しているはずなのに名前が分からない。
 ただ胸に広がる希望は確かなものである。

「勝とう……人類はきっと……」

 ーーーーー

「どうして……」

 岸晴香(キシハルカ)は絶望の表情で武器を落としてへたり込む。

「未来視では確かに……」

 ハルカが戦っているのは巨大な黒いドラゴンだった。
 他の人々が必死に攻撃しても黒い鱗には傷一つなく、抵抗を嘲笑うかのように人々を蹂躙している。

「ハルカ! 何をしている」

 中年の男性が晴香の腕を掴んで立ち上がらせようとする。
 目の前にドラゴンが迫っているのにこんなところにいては危険すぎる。

「未来視は……ここまで大きく変わるなんてことなかった。どうして……あのドラゴンは人類の味方だった!」

 ハルカは未来視という未来を見る能力を持っていた。

「何を言ってる! お前も知っているだろう! あの邪竜がどれだけ多くの命を奪ったかを!」

「でも……そんな……じゃあ私が見たのは?」

「知るか! 立って走れ! 逃げるんだ!」

「どこに? もう逃げられる場所なんてないよ!」

「いいから……」

 次の瞬間黒い光が辺りを包み込んだ。
 後に残されたのは静寂。

 瓦礫すら残らず周辺は大きくただの荒れ果てた平野に変わってしまった。
 黒いドラゴンが一鳴きする。

「……クソッタレ」

 下半身が消し飛んで地面に倒れる愛染寅成(アイゼントモナリ)は悪態をついた。
 アーティファクトの効果で命を長らえているが、周りに助けてくれる人もいないのでただただ死を待つだけのわずらわしい時間となってしまった。

 腰から下がないのに痛みも感じないが足がないという違和感は感じる。
 非常に気持ち悪い感覚だと思う。

『レベルアップしました!』

「……今更なんだよ」

 トモナリの目の前にウィンドウが現れた。
 ゲームの中にあるようなステータスやメッセージの表示のようなものが見えている。

 倒れてるだけなのにレベルアップした。
 下半身が消し飛ぶ直前に剣を刺したモンスターが死んだのだろうとトモナリは思った。

『レベル100を達成しました! スキルスロットが利用可能になります!』

「こんな時にスキル解放してどうなるんだよ」

 もう後数分もすると死んでしまう。
 レベルアップしてスキルが増えても何の意味もない。

「……アイテム全ツッパでランダム抽選でスキル解放」

 どうせ世界も終わりなんだ、やってもやらなくても変わらないのなら最後に少しでも気分良く死にたいとトモナリは思った。
 トモナリのインベントリのウィンドウが現れて中に入れているアイテムが次々となくなっていく。

 ゴミみたいなものから必死になって手に入れた貴重な物まで全てがインベントリの中から消えていく。
 もはや持っていても仕方ない物だと分かっているのに惜しいような気持ちが湧いてしまうのは人として仕方がない。

『ランダムスキルの抽選を行います』

 インベントリの中がすっからかんになって、またメッセージが表示される。

『確率変動が起こりました!』

「……確率変動?」

 これまで見たことも聞いたこともないメッセージが現れた。
 言葉の意味は分かるのだが何の確率が変わったのだというのことは理解ができない。

『スキルの抽選が終わりました! EXスキルが抽選されました!』

「E……X?」

 またしても聞き馴染みのないメッセージ。
 良さそうなもののようではあるけれどトモナリはEXスキルがどんなものなのか知らない。

『EXスキル“モンスター交感力”を手に入れました!』

「モンスター交感力だって?」

 これまた聞いたこともないスキルだった。

「何ができるスキル……」

「うおおおおおおおん! みんないなくなっちゃったよー!」

 得られたスキルが何なのか確認しようとした瞬間、遠くに聞こえていたはずの邪竜の声が比較的近くで耳に届いてきた。
 しかもそれだけではなく、邪竜の声がなぜか頭の中でしっかりとした言葉として理解ができた。

「でも終わってない! ってことはまだ誰か生きてる?」

 体が浮き上がりそうな振動を感じ始めた。
 近いなと思っているとトモナリに影が落ちた。

「生きてる?」

 トモナリの視界を全て覆い尽くすほどの巨大な生き物が上から覗き込んできた。
 巨大な生き物、それはトモナリたちが邪竜と呼んでいた黒いドラゴンであった。

「死んでる……かな。体半分になってるしね」

 はたから見たらドラゴンが偶然見つけた奇妙な死体を覗き込んでいる程度の光景である。

「生きてる……」

「えっ!?」

 リアクションもないトモナリのことを死んでいると思った邪竜が顔を上げた。
 何で答えようと思ったのか分からない。

 でもトモナリは気まぐれに答えた。
 邪竜は大きく目を見開いて再びトモナリを覗き込んだ。

「君生きてるの? いや、それよりも僕の言葉が分かるの!?」

 覗き込んで振られた頭の風圧だけでトモナリは飛んでいってしまいそうになる。

「これが交感力ってやつの力か……」

 だからなんだと笑いそうになる。
 モンスターの言葉が分かるというのはすごいことかもしれない。

 だからといってそれをどう活かしていけばいい。
 戦いに使えるものじゃない。

 今この状況を打開するのにも役に立たないし、生きているモンスターだって目の前の邪竜のみである。

「ねねねねねね! 僕の言葉が分かるの!」

「顔近づけるな! 鼻息で死んでしまう……」

「あっ、ごめん」

 興奮したような邪竜がトモナリに鼻先を近づけた。
 巨大なドラゴンである邪竜の普通の鼻息ですら暴風みたいなものなのに興奮していると本当に死んでもおかしくなさそうな勢いがある。

 トモナリに怒られて邪竜がしゅんとなる。
 なんだかトモナリがイメージしていたものと大きく違う。

「でもでもでも! 僕の言葉が聞こえてるんだね!」

 やや顔を離しながら興奮して邪竜がトモナリに話しかける。

「ああ……分かるよ」

 人生最後の日、人類最後の日の会話が邪竜と役立たずの会話だとは面白いものである。

「ああ……初めて僕の言葉が分かる人に出会ったよ! 君の名前は?」

「俺はトモナリ」

「友、なり? ええっ!? 自己紹介の前に僕たち友達になっちゃったの!? うへへっ、それは嬉しいなぁ!」

「違う違う……俺の名前がトモナリなんだ」

「あっ……そういうこと」

 怒られた時よりも邪竜が大きくうなだれてしゅんとする。

「なんだお前……友達欲しいのか?」

 もう邪竜がなんだとかどうでもよくなったトモナリはざっくりと邪竜に話しかける。
「なっ……そんなこと…………ある、けど」

 恐ろしく大きな体してるのにギリギリ聞こえるぐらいのか細い返事だった。

「…………なら友達になるか?」

 なんで世界を滅ぼした。
 どうしてみんなを殺した。

 なぜこんなことを始めた。
 聞きたいことはたくさんある。

 でも聞くのはやめた。
 聞いたところで世界が戻るわけでもない。

 なら何か先のためになることをしてみようと思った。
 トモナリはこんなもの気の迷いだなと思ったけど最後にくだらない話を聞いて終わるよりは少しでも良いことした気分になりたかった。

 友達が欲しいならなってやろう。
 気まぐれに口にした言葉だった。

「本当!?」

「ああ、俺が生きている間は何があっても友達でいてやるよ」

 邪竜が笑ってる。
 そう前に言われた時は未来を繋ぐためにと残った覚醒者を皆殺しにした邪竜を遠くから見た時だ。

 確かに笑っているようにその時には見えたのだけど、今はちゃんと嬉しそうにしていることが分かる顔をしていた。
 邪竜の尻尾が振られ、風が巻き起こり地面に当たるために大きく振動がトモナリに伝わってくる。

(勘違いしていたのかもしれないな)

 ぼんやりとした頭でトモナリは思った。
 邪竜は敵であり、知ろうともしなかった。

 こんな犬みたいに邪竜が尻尾を振ることがあると誰が想像できただろうか。

「友達、友達、とっもだち〜」

 こんな風に友達ができたぐらいで大喜びすることがあるのだと誰も知らないだろうとトモナリは思わず顔をほころばせた。

「お前、名前は?」

 邪竜、と呼ぶわけにはいかない。
 人の都合で勝手に呼び始めたものだし名前があるはずだろうと思った。

「……僕、名前が無いんだ」

「名前が無い?」

「どこで生まれたかも、親がどんなのかも知らないんだ。ただ気づいたらここにいて、抗いようのない衝動で戦わされる……嫌だって叫んでも僕は……君たちを殺してしまったんだ」

「うわっ! 顔を俺の前からどけてくれ!」

「あっ、ごめん!」

 邪竜の目から涙が流れた。
 流れた涙は邪竜の真下にいたトモナリに降ってきた。
 
 邪竜にとっては些細な一滴の涙だったのかもしれないけれどトモナリにとっては大きなバケツをひっくり返したような量があるのだ。

「ごめんね……こんなことしたくないのに…………ごめんね」

 まだほんの少しだけ残っていた邪竜を責める気持ちが涙を流して小さくなって項垂れる姿を見た瞬間にチクリとした痛みに変わった。
 したくないのに戦わされる。

 立場も力も種族も違うが邪竜と人間は同じだったのかもしれない。
 何か、より上の存在によって戦わざるを得ないように仕向けられていたのだとトモナリは思った。

「……泣くな。せっかく友達ができた良い日に泣くもんじゃないさ」

「…………ゔん!」

 邪竜は口を閉じてグッと涙を堪えると尻尾で目を拭う。
 そこで拭うんだという驚きはあるがなんだか可愛らしい仕草にも見えてくるのだから不思議なものである。

「名前……つけてやらないとな」

「名前つけてくれるの?」

「呼ぶための名前が無いと不便だろ?」

「これまで名前で呼ばれることなかったから……」

「……何にしても名前ぐらいあってもいいだろ?」

 もう持っているアイテムも何もない。
 何かしてあげられることは名前をつけてやるぐらいだ。

 邪竜は期待するようにトモナリを見下ろしている。

「ポチ……」

「ダメ」

 トモナリは小さくため息をついた。
 名前をつけるとは言ったもののトモナリにネーミングセンスはないのだ。

 ポチも可愛いと思うのだけど邪竜は嫌らしい。
 チラリと邪竜の様子を見る。

 真っ黒なドラゴンは破壊のかぎりを尽くしながら戦う様子から邪竜と呼ばれていた。
 本来ならそうしたところをピックアップして名前をつけるべきなのかもしれない。

 しかしなんだか邪竜の本質はそうしたところじゃないような気がした。
 それに黒くてカッコいい名前よりももっと可愛らしい名前の方がいいと感じられてしょうがなかった。

「……ヒカリ」

「ヒカリ?」

 戦いの影響で今の世界の空は霞がかかっていて常に薄暗い。
 それでも昼夜ぐらいは分かるもので、薄く明るくなり始めていた空に太陽が顔を出し始めていた。

 だけどもうしばらく太陽の光をまともに見ていない。
 希望に満ちていた時代の暖かで柔らかな、眩しいぐらいの日の光をもう一度浴びたいと感じていた。

 どうせなら黒いとか闇とかそんなものじゃなくて明るい名前にしてやろう。
 オスかメスかも知らないがヒカリならオスでもメスでもいい。

 可愛らしいし邪竜なんてのとは程遠くて面白い。

「どうだ?」

「うん、僕ヒカリって好き」

「そうか……」

「お友達かぁ……何しようか?」

 名前ももらってヒカリはご機嫌だった。

「何したい?」

「友達とはねぇ……一緒にご飯食べるんだ」

「ご飯?」

「うん。おしゃべりしながら一緒に」

「そうか……良い夢だな」

 確かに他愛無い会話でも人と一緒に飯を食うと美味いものであるとトモナリも思う。

「あとは、綺麗なもの見たり色んな場所行ったり……トモナリに褒めてもらったりしたいな」

 ヒカリは曇った空を眺めて嬉しそうに語っている。

「すまないな」

「……どうしたの?」

「もう……お前とは一緒にいられない」

「どうして? ずっと友達だって……」

「見れば分かるだろ……俺、下半身消し飛んでんだ……」

 もはや血すら流れていない。
 特殊な魔道具の効果で生きているが生きていると言えるのかも正直怪しい。

 トモナリは感じていた。
 自分の命の時間が尽きようとしていることを。

「俺は死ぬんだ……せっかく友達になれたのに……ごめんな」

「ヤダ……ヤダよ!」

「死は止められない。あばよ、ヒカリ。強く生きろ……天国でお前は悪いやつじゃなかったとみんなを説得してやるからさ」

「お願い……死なないで! 友達でしょ!」

「今度は……もっと早く会えたらよかったな」

 ひどい耳鳴りがしてヒカリの声が聞こえなくなってきた。

「……次があるなら…………もっとまともに……今度はお前と友達に……」

「トモナリ……トモナリ!」

 トモナリのウツロな目は何も映し出さなくなった。
 邪竜は泣いた。

 初めてできた友達は悲しいほど短い時間でヒカリの元を去ってしまった。
 両目から激しく涙が溢れ出し、大地を揺るがすほどに大きな声で泣いたとしても友は目覚めない。

 ヒカリは願った。
 自分の全てを差し出してもいい。

 初めてできた友達を返してほしい。
 もっと一緒にいたかったと。

「うわあああああああん!」
 鳴り響く目覚まし時計の音が気持ちよくまどろんでいたトモナリの意識を無理矢理覚醒させる。
 目覚まし時計のアラームを止めて起きることに抵抗するように布団を引き寄せて丸くなった。
 
 死ぬほど頑張って戦ったんだ、少しぐらい寝ていてもいいだろうにと思った。

「トモナリ! いつまで寝てるの!」

 再び眠ろうとしていたら部屋のドアが激しく開かれる音がしてトモナリは飛び起きた。
 思わず腰に手をやったけれどパジャマ姿のトモナリの腰には何もない。

「……何やってるの?」

 ベッドの上で低い奇妙な体勢を取ったトモナリを怪訝そうな顔で見つめているのは母親のゆかりだった。

「母さん?」

「そうよ。この家に他に誰がいるってのよ?」

 トモナリは腰に手をやったままの体勢で大きく目を見開いてゆかりの顔を見つめる。
 ゆかりはトモナリの様子がおかしくて不思議そうに片眉を上げた。

「母さん!」

「……どうしたのよ、いきなり」

 トモナリはベッドから飛び降りるとゆかりの胸に飛び込んで抱きしめた。
 一瞬悪ふざけかなとゆかりは警戒したけれど、顔をうずめて強く抱きしめるトモナリにふざけている様子はなかった。

 よくある思春期の息子の行動にしては異常なものだが息子との抱擁などいつぶりだろうかと少し困ったように微笑んだ。

「母さん……生きててよかった……」

「どうしたの、この子は……」

 涙すら溢れそうになるけれどトモナリはなんとか涙を堪える。

「悪い夢でも見たのかしら?」
 
 ゆかりは困ったように笑いながらもトモナリの頭を撫でた。
 昨日なら手を払われただろうに今日は大人しく撫でられるトモナリに本当に悪夢でも見たのだろうと思った。

「母さん……」

「どうしたの?」

「愛してる」

 今度はゆかりの目が驚きに見開かれた。
 ゆかりの中で現在中学3年生のトモナリは思春期真っ只中で、反抗期というほどに強く当たることはなくても母であるゆかりに甘えた態度を取ることは無くなっていた。

 寂しいとは思いつつもこれが親離れというものなのだろうと思っていたのだが、トモナリはゆかりの目をまっすぐに見つめている。

「ほんと……どうしたのよ?」

「…………夢を見たんだ」

 長い夢。
 人類が追い詰められて滅びていく。

 必死に抵抗したけれどそれでもどうしようもなくて最後には人類は邪竜に敗北した。
 恐ろしい夢で二度とあんな経験はしたくないとトモナリは思った。

 トモナリの母親であるゆかりも戦いに巻き込まれて亡くなった。
 力がなくて、守ることもできなくて、大きな喪失感を覚えた記憶が最後まで伝えてあげることができなかった言葉を口にさせる。

「よほど怖い夢だったのね」

 こんな弱々しい息子の姿にゆかりはただ頭を撫で続けてくれた。

「ほら、そろそろ準備しなさい。学校に遅れるわよ」

 母親としてはいつまでもこうしていたいぐらいの気持ちがある。
 ただ思春期で嫌がるかもしれないトモナリの部屋を訪れた理由はトモナリの学校の時間が迫っているからだった。

「……うん」

 色々と考えを整理したいところであったけれど今はゆかりを困らせたくない。
 トモナリは優しく微笑むとゆかりから離れた。

「……それとあれは何かしら?」

「あれ?」

「枕の横にあるやつよ」

 なんのことか分からなくてトモナリが振り返る。

「ほんとだ」

 トモナリが寝ていたベッドの枕元に黒い丸い物が置いてあった。
 それが何なのか記憶になくてトモナリは首を傾げた。

「そこら辺で石でも拾ってきたのかしら? まあいいわ。朝ごはんもできてるから早く準備していらっしゃい」

 ゆかりが出ていって、トモナリは枕の横に置いてある黒い丸い物に手を伸ばした。

「石……いや、卵か?」

 吸い込まれそうなほど真っ黒なそれは卵に見えた。
 しかし黒い卵なんて見たこともない。

 やっぱり卵に似た形をした黒い石だろうかと首を傾げる。

「こんな物拾ったことがない……そもそもこの状況は何だ?」

 トモナリは記憶を辿ってみようとする。
 だけど少し前の記憶として思い出せるのは下半身が消し飛んで死にかけている胸くその悪い状況だった。

 色々な戦いがあって、屈辱的な出来事もあって、悲しい出来事もあった。
 何年もの記憶を思い出してようやく今の状況近くまで辿ることができた。

 まるで人生を一度歩んできたようだとトモナリは奇妙な感覚を覚える。
 今こうして生きている以上経験してきたように感じる記憶の数々も悪い夢だったのだとトモナリは思い込もうとする。

「まあいい」

 あまりぼんやりと考え事をしているとゆかりが怒り出す。
 トモナリは部屋を見回して壁にかけてある制服に着替えた。

「……細い体だな」

 トモナリは自分の体を見て舌打ちした。
 体型的にはごく一般に近い。

 しかし夢の中の自分は必死に生き延びるために意外と鍛えていた。
 それと比べると何のトレーニングもしていない微妙な体に自分の目には映ったのだ。

「遅いじゃない」

 ゆかりはエプロン姿からスーツ姿に変わっていた。
 テーブルの上には目玉焼きと焼いたウィンナー、それに炊き立てのご飯とオレンジジュースが置いてあった。

 我が家のいつもの朝食は記憶と変わりがない。

「私は先に行くから戸締りはお願いね」

「いってらっしゃい」

 トモナリが席に着くとゆかりは慌ただしく家を出ていった。
 家を出ていくゆかりの背中を見送ってトモナリは朝食を食べ始めた。
 まずはウィンナーから一口。

 少し焦げ目がつくぐらいに焼かれたウィンナーはパリッと音を立てて弾けるように割れた。
 なんてことはないどこにでもあるような既製品のウィンナーであるが安定した美味しさがある。

 続いて目玉焼き。
 トモナリの好みに合わせて黄身が半熟に焼かれている。

 箸で黄身の真ん中に穴を開けて醤油を垂らし入れて食べるのがいつものやり方だった。
 黄身が垂れそうになってすするようにして目玉焼きを口に運ぶ。

 口の端についた黄身をはしたなく舌で舐めとり、次はウィンナーを醤油が混ざった黄身につけて食べる。
 なんてことはない日常が胸に熱いものを込みあがらせる。

 感情を押し込むように朝ごはんを一気に食べてトモナリも家を出た。

「まさか住宅街に感動する日が来るとはな……」

 なんてことはない景色にまた胸が熱くなる。
 どこにでもありそうな住宅街、雲一つない青空、急ぐこともなく歩く人々。

 こんなものを見て感動する人など今はいない。
 だがトモナリにとっては時として焦がれるほどに求めた世界であった。

「……いけね!」

 学校の時間が迫っていた。
 トモナリは慌てて走り出す。

「ハァッ……ハァッ……この体……」

 少し走っただけなのにすぐに息が切れる。
 記憶の中で成長していた自分の体ならもっと走れたのにと息を整えながら早歩きで学校に向かう。

 最初は学校どこだっけなんて思っていたけれど歩いていると意外と体が覚えているもので迷うことなくたどり着けた。

「チッ……少しは鍛えとけよ……」

 自分の体で鍛えてこなかったのも自分なのにトモナリは思わず舌打ちしてしまった。
 三年二組がトモナリのクラス。

「おっ、来やがったぜ」

「どんなリアクションするかな?」

 ああ、そうかとトモナリは思い出した。
 この時期の記憶が薄い。

 それはなぜだったろうかと考えていたがようやく理由が分かった。
 机にいたずら書きがされている。

 バカにするものや直接的に死ねなんてことも書かれている。
 誰がやったのかは分かりきっていて、教室の隅で集まってクスクスと笑っているクソみたいな男子たちだ。

 トモナリが何かするのを期待して見ているけれどトモナリは一度小さくため息をつくとそのまま席に着いた。

「くだらねぇ……」

 イジメを受けていた。
 だから日々が嫌で、灰色に塗りつぶされたようで、覚えていないのだ。

 けれど今のトモナリは世界が滅びるほどの経験をしてきた。
 イジメなど隣の人が咳をした程度の取るに足らないことにしか感じない。

 どうして昔の自分はこの程度で参ってしまっていたのか疑問に思ってしまうぐらいである。

「なんだよアイツ……無視かよ?」

「つまんね」

 何のリアクションもしないトモナリに男子生徒はつまらそうな顔をしている。
 他のクラスメイトは何も言わない。

 次に自分がターゲットになったら嫌だからだ。
 そして先生が入ってくる。

 教卓の位置からでも机の状態は見えるはずなのに何も言わない。

「愛染さん」

 朝の連絡事項などの確認を終えて先生がトモナリに声をかけてきた。

「机のいたずら書き、消しなさい」
 
 けれども先生の目的は机の状態を見てイジメを心配するなんてことじゃない。
 ただ単に机をきれいにしろと言いに来たのである。

 事なかれ主義のクソ教師というのが今のトモナリが抱く先生への印象だった。
 どう見たって自分でやったわけじゃないのにそこについては何も触れずにただ机のいたずら書きを消せというのは自分のためである。

 机をそのままにしておくと他の先生にバレるから消せというのだ。

「イヤです」

「はっ?」

「俺はこのままでも構いません」

 事なかれ主義で生徒間の問題に手を出したくないのならそうすればいい。
 ただしトモナリもただでやられてやるつもりは毛頭ない。

 担任の先生に訴えかけても無駄なことは分かっている。
 けれど他の先生はどうだろうか。

 イジメを隠蔽しようとするのならやっても構わないがトモナリが進んで加担することはしない。

「机は学校の備品です! きれいにしなければいけないでしょう!」

 反抗的なトモナリにカッとなった先生が声を荒らげる。
 知るかボケナス、という言葉を飲み込んでトモナリはニコリと笑ってやる。

「では帰りまでにきれいにしておきます」

「なっ……」

 あくまでも今動いてやるつもりはない。
 椅子にふんぞり返ってトモナリは挑発的な目で先生を見る。

「あなた……!」

 その時予鈴のチャイムが鳴り響いた。

「次の授業、始まりますよ」

 イヤでも時間は流れる。
 先生が威圧的に睨みつける間にも次の授業までの時は迫っていた。

「消しゴム……どうして筆記用具も出していないの!」

 トモナリは動かない。
 ならば自分で消そうとした先生だったがトモナリは筆箱すら出していなかった。

「誰か消しゴムを貸しなさい!」

 もうすぐ授業を受け持つ先生が来る。
 担任は早く消さねばと慌てたように周りを見るが、巻き込まれたくない生徒たちはトモナリの席から離れて遠巻きに様子を眺めていた。

「騒がしいですね……何をしているのですか!」

 先生がトモナリの前の席の子の消しゴムを掴んで机のいたずら書きを消そうとした。
 ちょうどそのタイミングで次の授業の先生が入ってきた。
 良い角度、とトモナリは思った。
 入ってきた先生からもトモナリの机のいたずら書きはバッチリ見えた。

 それを担任の先生が消そうとしているのだからひどく怒りの表情を浮かべて担任の先生を止めに入った。

「えっ、いや……これは……」

 困ったような担任の先生が振り返るとトモナリの態度は一変していた。
 偉そうに椅子に座っていたはずのトモナリは足を閉じて座り、ややうなだれて泣きそうな目をしていた。

 内心少し恥ずかしいがこれぐらいやってみせる。
 トモナリの変わり身に担任の先生は言葉を失う。

「来なさい! 授業は自習だ! 机はそのままにしておきなさい!」

 どうなることかと思ったがたまたま最初の授業の先生は学年主任を務める真面目な人だった。
 担任の先生は怒りで赤っぽくなった学年主任の先生に連れて行かれて教室は騒然となった。

 自習でラッキーなんて喜べる生徒はいない。

「おい!」

 この状況にまずいと思ったのはいたずら書きをした男子生徒たちである。
 誰が書いたのか周りの生徒も見ている。

 言い逃れできる状況ではなくトモナリに詰め寄る。
 トモナリに詰め寄ってきた伊佐見海斗(いさみかいと)という生徒が今回のいじめの主犯なのである。

「消せよ!」

「なんでだよ? 消すなって言われたろ?」

 先生たちがいなくなってまたもトモナリはふてぶてしい態度に戻る。
 学年主任の先生に言われずとも消すつもりはないけど言われたからと言葉を盾にする。

「うるせぇ! さっさと消せよ!」

 トモナリのひょうひょうとした態度にカイトは怒りで顔を赤くする。

「はっ、お前が消えろ」

「何だとテメェ!」

 トモナリの挑発にカイトが乗せられた。
 カイトがトモナリに殴りかかる。

 一発顔に食らったトモナリはそのまま椅子から転げ落ちて床に倒れる。

「早く消せっつってんだよ!」

「ヤダね」

 トモナリは床に転がったまま笑った。
 それで完全にカイトの頭に血が上った。

「ぶっ殺してやる!」

 カイトがトモナリに馬乗りになった。
 トモナリは振り下ろされた拳を腕でガードするとカイトの胸元に手を伸ばした。

 胸ぐらを掴むと一度上半身を持ち上げ、体ごとグッと引き寄せる。
 地面に倒れたトモナリにカイトが覆いかぶさるような形になる。

 ほとんど密着状態で殴ろうにもその隙間がなくなる。

「テメ……放しやがれ!」

「放してくださいだろ?」

(こいつ……こんな目してたっけ?)

 額が触れ合いそうになりながらカイトはトモナリがこんなに燃えるような瞳をしていただろうかと疑問に思った。

「放せ」

「こんなのも振り解けないのか?」

 バカにしたように笑うトモナリにまた怒りが込み上がる。
 トモナリは冷静だった。

 周りはトモナリとカイトのことを固唾を飲んで見守っていて思いの外静か。
 音がよく聞こえる。

 担任を連れ出した学年主任の先生が慌ただしく戻ってくる足音もしっかりとトモナリの耳には聞こえていた。

「ほら、殴ってみろよ」

 トモナリはカイトから手を放して頬を差し出した。

「ぶっ殺す!」

「伊佐見さん!」

 カイトがトモナリの頬を殴った。
 それより一瞬早く入ってきていた先生たちはカイトがトモナリを殴るのをバッチリ見ていてすぐさま止めに入った。

 こんなパンチなんてことはない。
 下半身が消し飛んだことに比べればダメージなんてあってないようなものだ。

 ただこのまま余裕の態度で立ち上がればカイトの罪は軽くなる。
 ここはカイトが極限まで悪くなるように振る舞わねばならない。

(そういえば……眠かったな)

 朝ももっと寝ていたかった。
 ふとそんなことを思ったトモナリはそのまま目を閉じて動くことをやめた。

「愛染さん? 愛染さん!」

 殴られたトモナリは教室の真ん中で大の字になって寝転んだまま動かない。
 学年主任の先生が慌ててトモナリの肩を揺するけれど全く反応がなくて顔が真っ青になる。

「殺した……」

 誰かがボソリとつぶやいた。

「こ、殺してなんかない!」

 たかだか一発殴っただけ。
 普通ならば人が死ぬなんて思いもしないがぶっ殺すと言って激しく殴りつけた相手が動かなくなった。

 普段は冷静な学年主任の先生の顔が青くなっていて教室の空気はとてもじゃないが普通ではない。

「殺してない……殺してなんかいない!」

「早く救急車を呼んでください!」

 トモナリのそばにいる学年主任の先生にはトモナリが呼吸をしていることは分かっている。
 しかし気を失うほどに殴られたらどんな影響があるか分からない。

 学年主任の先生が救急車を呼ぶようにいっても先生たちすら動けないでいる。

「早く!」

 怒鳴りつけられるようにして担任とは別の先生がスマホを取り出した。
 程なくして救急車のサイレンが鳴り響いてきて学校全体が騒然となったのは言うまでもなかった。
「はぁ……」

 見慣れない天井にトモナリは失敗したと思った。
 せいぜい保健室だろうと思って寝たのに気づいたら病院だった。

 たっぷりと眠ったから頭はスッキリしたが気分は最悪だ。
 かなり大事になるだろうなと考えてはいたが病院までいくとちょっとやりすぎかなと反省する。

 学年主任の先生は真面目だったことをトモナリは初めて知った。

「ふぅ……」

 体を起こしてみる。
 頬は腫れていて痛いけれどそれ以外に問題はない。

「トモナリ!」

 看護士の人を呼んで状況でも聞こうかと思っていると病室にトモナリの母親であるゆかりが入ってきた。
 起きているトモナリを見るなり走ってきてギュッと抱きしめた。

「よかった……! 病院に運ばれたって聞いて心配したのよ!」

「…………ごめんなさい」

 普通におはようとでも言うつもりだったのに強く抱きしめられてトモナリは深く反省した。
 カイトに一泡吹かせて立場を無くしてやるだけの考えだったのだが今の自分には心配してくれる人がいると言うことを忘れていた。

「あなた……いじめられてたの?」

「……うん」

 昔は知らなかった。
 イジメの理由を本当は高校の時に人づてに理由を知ったのだが、今は不思議な記憶があるのでなんでいじめられているのか知っている。

 キッカケは些細なことだった。
 トモナリは比較的頭が良い方なのだがトップではない。

 同じくトップではないけど頭が良い方の友達がいて、どちらがテストで得点が上になるかという勝負を行った。
 だがその時たまたまカイトは気になる子がいてテストで良い点を取ってやると言っていた。

 頭も良くて運動神経も良いカイトは以前から中心的な人気者で少し本気を出せばクラスで一番になることなど容易いと考えていた。
 結果的にトモナリがクラスでトップになってしまった。

 たったの一点差。
 しかし負けたということにカイトはひどく醜い感情を持ったのだ。

 最初は憂さ晴らしのようなものだったのかもしれない。
 少し悪戯をする程度であったのだがいつの間にかそれはイジメになっていた。

「気づいてあげられなくてごめんなさい……」

 ゆかりが悲しげな目をしてゆっくりと首を振る。

「いいんだ、母さん」

 トモナリもゆかりに手を回して抱きしめる。
 記憶に残っている未来ではトモナリは最後まで母親にイジメのことを知られることなくひたすらに耐え忍んだ。

「俺……もう我慢しないから」

「トモナリ?」

「学んだんだ。自分から動かなきゃ何も変えられないって」

 世界が滅びに至る不思議な記憶がトモナリの中にはある。
 その中で色々な経験をした。

 臆病で逃げ回っているばかりだったトモナリは何も手にすることもできず、全ての大切なものが手をすり抜けていった。
 何が起きたのかはまだ分かっていない。

 しかし仮に人生をまた与えられたのなら今度は自らの手で掴み取っていく。

「今度は俺が母さんを守るから」

 そしてトモナリはもう二度と大事なものを何かに奪わせはしないと心の中で誓った。

「アイゼンさん」

 病室に学年主任の先生とトモナリの担任、そして校長と教頭が入ってきた。

「この度はこのような事件を起こしてしまい誠に申し訳ありませんでした」

 校長が前に立ち四人の大の大人がトモナリとゆかりに頭を下げる。
 校長の話によるとトモナリが寝こけている間に担任の先生やカイトから話を聞き、あるいはクラスでいじめがあったかの調査が行われた。

 普段どんなにいい子ちゃんしていても先生の前で人を殴ったという事実は変えようもない。
 最近尊大になってきたカイトに対して不満も溜まっていたのかここぞとばかりにみんなもカイトがトモナリをいじめていたことを答えた。

 ついでに担任の先生がいじめが発生したことを周りに知られたくなくてカイトの行動を止めもせずに黙認していたことも完全にバレたのだった。
 ゆかりは大激怒していた。

 こんなに怒った母親の姿を見たのは初めてかもしれないとすらトモナリは思った。
 校長は穏便に済ませたいと口にしたけれどぶん殴ってしまった以上完璧な事件である。

 暴行や傷害といった内容で警察のお世話になる可能性すらあるのだ。
 担任や校長の処分は後ほど決まることになっていてトモナリは身体的、精神的にもしばらく学校を休むことになった。

「どうしてこんなことに……」

「悲しまないで、母さん」

 全ての話が終わってゆかりは意気消沈したように椅子に座り込んだ。
 少しだけやり過ぎてしまったとは思うけれどトモナリとしてはこれでよかったのだと思う。

「これでよかったんだ。俺は大丈夫だから」

 むしろこうなったことで都合がいいとすら感じている。

「でも……ここじゃなくて家がいいな。母さんのそばがいい」

「トモナリ……そうね、あなたがそうしたいならそうしましょう」

 たかが殴られただけだ。
 入院するまでもないし、病院では自由に行動ができない。

 トモナリは家で様子を見ることにして退院したのであった。

 ーーーーー

「はぁ?」

 朝に家を出てからおよそ半日も経っていない。
 それでも久々の我が家に帰ってきたという感覚で自分の部屋に向かったトモナリは驚いた。

 卵デカくなってる。
 そう思ったからである。