人間、あまりにも驚いてしまうととんでもないことを言ってしまうし、してしまうらしい。なんというか、気持ちのままに行動してしまう。
二宮くんに「好き」と言われた俺もそうだった。
ただもう嬉しくて、何も考えないままに「俺も好き」と言ってしまった。
それで……二宮くんをこの上なく驚かせてしまったらしい。二宮くんはしばし壊れた機械のように「あ、え、あ」と言葉になってない声を漏らした後、ぼっ、と音がしそうな速さで顔を真っ赤にした。
「二宮くん、本当に、俺のこと好きなんだ」
言葉より何より、その反応が俺のことを好きだと伝えてくれていた。なにしろ二宮くんの頬はばあちゃんの漬けた梅干しより赤かったから。
嬉しさと照れ混じりの俺の呟きに、二宮くんは「や、だから、そうだってば」とどこか脱力したように返して、へなへなとその場に座り込んだ。手は繋いだままだったので、椅子に腰掛けた俺の手も下に引っ張られる。
「あ、ありがとう」
くん、と手を引かれて、こちらを見上げる二宮くんの顔と顔が近付く。二宮くんは照れたような、けどすっきりしたような顔で笑っていた。いつもの、太陽みたいにぴかぴかの笑顔だ。
「マジか……あぁ、あー……、言ってみるもんだな」
格好悪くても、と二宮くんが少し恥ずかしそうに言って。俺は、少しだけハッとする。
(そうか。そうか……)
二宮くんは、本当に恥ずかしそうだった。顔を赤くして、声も掠れていて。それでも、気持ちを伝えてくれた。
もし今ここで二宮くんにはっきりと「好き」と言ってもらえなかったら、俺はその思いに絶対に気付かなかっただろう。
今日の今日まで二宮くんを避けていたことを思い出し、俺は少し後ろめたい気持ちになって、そして反省する。
「うん。本当に、ありがとう」
気持ちを言葉にすることは、本当に大変なことだ。
俺はそれが下手くそで、本当に下手くそで……。母にもずっとそう言われていた。
こんなに下手くそなのは自分だけだと思っていた。他の人は楽に出来ることが、どうして自分には出来ないんだと。
(でも、二宮くんだって大変そうだ)
二宮くんは、本当に振り絞ったように気持ちを言葉にしてくれた。誰だって、大なり小なり同じ大変さを抱えているのだ。
「俺も、俺も二宮くんが好き。大好きだよ、本当に、本当」
俺が二宮くんの特別になるなんて無理だとか、女の子じゃなくていいのかとか。そういうもやもやが全部、ふわふわと飛んで弾けて、消えていく。
「マジ?」
「うん、嘘じゃない」
「……へへ、やった」
に、と歯を覗かせて二宮くんが笑う。
その笑顔を見ているとなんだかもうたまらなくなって。つられて俺も笑ってしまう。……と、笑っていた二宮くんが、ふと一瞬、顎を引いて真面目な顔をする。
「……八重沼」
名前を呼ばれて、もう一度手を引っ張られた。二宮くんの手を包み込んでいた俺の両手を、逆に二宮くんが掴む。そして、優しく二宮くんの方へと引き寄せられる。
「にのみ……」
近付いた分離れるかと思った二宮くんの顔が、もっとこっちに近付いてきた。ふわ、と二宮くんがいつもつけているらしい爽やかで、少しだけ甘い香りと、肌の香りがする。
視線が交わって、星のない夜空のように黒い目がどんどん、どんどん近付いて。
(あ)
俺の口と、二宮くんの口とが触れ合いそうになった、その時。
――ピン、ポン、パン、ポーン。
ちょっと間の抜けたチャイムが、教室の天井に設置されたスピーカーから聞こえて来た。音に驚いた俺の体がビクッと跳ねて、二宮くんの顔が横に逸れる。頬に、少しだけ熱いものが触れて、離れていく。
「あ、え」
『えー、お知らせです。二年八組、八重沼奏くん。二年八組、八重沼奏くん。至急二年八組の教室に……』
『えっ、これもうヌカちに聞こえてる?』
『ヌカち〜! どこっ? 大丈夫っ? なんか倒れてたってほんと? ヌカちー!』
『すみません、天使みたいに綺麗な人だから一目見たらわかると思うんですけど、本当に天使で……』
『あの、ちょっと、放送で呼び出しますから』
聞こえて来たのは呼び出し放送だった。八重沼奏……そう、俺の呼び出しだ。
しかもところどころ、後ろの方から複数の声が被さってくる。多分、山本くんや白石さんや、源さん、その他クラスメイトの声……な気がする。
『ヌカち〜! 一人にしてごめんねー!』
『戻ってこーい! いや、迎えに行くからどこにいるか教えてくれー!』
『すごい、すごい綺麗で可愛い天使なんです。皆さん見かけたら教えてくださいお願いしま……』
『えー、以上です! 八重沼くん、至急、大至急二年八組の教室に帰ってくださいお願いします』
わぁわぁという騒がしい放送が、ふつっ、と途切れる。おまけのように「ピン、ポン、パン、ポーン」ともう一度チャイムが鳴って……静けさが戻った。
思わず二宮くんを見ると、二宮くんも俺を見ていた。
二人して顔を見合わせて、俺はそろそろと首を傾げる。
「今の、……俺のこと、だよね?」
きっと、多分、おそらく……そう、だと思う。
*
二宮くんと連れ立って、そろそろと教室に戻る。
昼過ぎて少し客足が遠のいたらしく、思ったより人が少ない。その代わり、同じ制服を着たクラスメイトがたくさん居た。店番は交代制のはずなのにみんなが揃っているはずなどないのに、それなのに多分、ほとんど全員がいる。
「あの……」
「あっ、ヌカち! ヌカちだ!」
おそるおそる声をかけると、真っ先に俺を見つけた白石さんが駆けてくる。そして俺の手を取った。
「ヌカちー! 大丈夫? なんか具合悪そうだったって目撃情報聞いてさぁ、スマホに連絡入れても返事ないしさぁ、保健室にもいないしさぁ、どこにもいないしさぁ」
どわっ、と息継ぎなしに話しかけられて、思わず「う、うん」としか言えない。
と、白石さん以外のクラスメイトも集まって来て、あっという間に囲まれて、俺はそんな面々を見回すことしかできない。
「もーっ、心配したぁ〜!」
「大丈夫? 源ちゃんが『ヌカち様、誘拐されたかも』とか言うからますます不安になってさぁ」
「だ、だって、ヌカち様だから、それもあるかもって」
みんなが口々に俺に対しての心配を口にしてくれる。白石さんたち女子だけじゃない。山本くんや他の男子も「大丈夫だったか?」「まじで心配した」と言ってくれて。俺はただ「うん」と頷いて答えて……、そしてハッとする。
うん、じゃない。そうじゃない。
「あのっ」
一度口を開いて、閉じて、そしてもう一度開いて、俺は声を絞り出した。が、音量を間違えてしまい、やたら大きな声を出してしまう。
途端、わいわいと喋っていた面々が一斉にこちらを見た。
「ヌカち?」
「あの……」
首を傾げる白石さんたちに向かって、仕切り直すように「あの」ともう一度告げて、そして拳を握りしめる。
「お、俺……本当は一人で宣伝に行くんじゃなくて、みんなと一緒にお店のことやりたかった」
声が少し震えてしまったが、どうにか続ける。
「文化祭の準備も、もっと手伝いたかった。役立たずかもしれないけど、でも、みんなと一緒がいい」
言葉の合間に、ごく、と喉が鳴る。恥ずかしい、何を言っているんだって思われているかもしれない。
「せっかく髪とか、顔とか、良くしてもらったのにこんなこと言ってごめんなさい」
俺はそこで、源さんや白石さんたちに向かって頭を下げる。
彼女たちがクラスのことを思って準備してくれたのはわかっていたからだ。でも、それでも……。
「けど、でも、みんなと一緒に文化祭を頑張りたかったから。今からでも、頑張りたいから」
俺はそこまで話してから、は、と詰めていた息を吐いた。まとまらないけど、これ以上上手には話せる気がしなかった。
一瞬教室が、しん……と静まり返る。
山本くんも、白石さんも、源さんだって、みんな何も言わなくて。教室の外にある文化祭の喧騒も、なんだか遠くなって……。
やっぱり俺が喋るべきじゃなかったのかもしれない。と、後悔の念がじわりと胸の中に浮かんだ、その次の瞬間。
「ヌカち〜〜っ!」
わっ!と周りを囲んだみんなに押し潰されるように抱きしめられて、俺は「えっ、えっ?」と首を巡らせる。
「ヌカち、そんなこと思ってたの? ごめん、ごめんねっ」
「えーん、ヌカち〜!」
「ヌカち、めっちゃいい子じゃん!」
みんなが口々に「ヌカち」「ヌカち」と言うから、すべての話は聞き取れない。が、どうやら怒っているわけでも、引いているわけでもないらしい。
「あの、怒ってない?」
勝手なことを言ってしまった自覚はあったので、おそるおそるそう問うと、目の前にいた白石さんが眉根を寄せて首を振った。
「怒るわけないじゃん。ヌカちの見た目とか、キャラとかで、勝手に色々決めつけてたのはこっちだし。ヌカち、ごめんね」
白石さんの言葉に、俺は思わず目を瞬かせてしまう。
「一緒にやろう、一緒に頑張ろう。ね、ヌカち」
そう言われて、目頭がきゅうっと熱くなって。俺は何度もまばたきしながら浮かんできた涙を逃す。
そして少しだけ視線を逸らすと、教室の入り口に寄りかかってこちらを見ている二宮くんと目が合った。
『よかったな』
二宮くんが、ぱくぱく、と音を出さずに唇を動かして、そう伝えてくれる。そして、にこ、と笑った彼の笑顔に……胸が温かくなる。
(二宮くんの……)
「二宮くんのおかげだ」と、多分そう言ったら二宮くんは「俺じゃない。八重沼自身のおかげ」と言うだろう。だからその言葉は胸の中だけに仕舞って、俺は同じように笑顔を返した。ありがとう、という気持ちを込めて。
「ヌカち、お揃いがよかったんだな。俺の衣装着る? 多分サイズは…………うん、脚の長さ以外はいけると思う」
……と、山本くんが俺の頭から足の先まで視線で確認しながら話しかけてきた。その間がなんとも面白く、俺は思わず「えぇ?」と首を傾げながら吹き出してしまった。クラスのみんなも、俺と同じように、いや、俺以上に楽しそうに笑った。
みんなの笑い声を聞いたらますます楽しくなって、また笑ってしまって。そしたらみんなももっと笑って。笑いは伝染して、広がって……廊下を通っていた人や他のクラスに出入りしていた人も「なんだなんだ?」って感じで覗きにきて。
そして集まって来た人に、白石さんが「美味しいホットドッグいかがですか?」なんて声をかけて。それから……みんなで接客に励むことになった。
注目を集めたせいか、人が人を呼びどんどん客が増えていって。俺もいつの間にかウィンナーを茹でたり、会計作業をしたり、店員の一人として仕事を任されるようになっていった。自然と周りに溶け込めたことが嬉しくて、楽しくて、忙しさなんて全然苦にならなくて。俺は心から笑いながら、文化祭を楽しむことができた。
*
「クラス出店部門、一位おめでとう」
「あ、ありがとう」
ぽこ、と紙パックのジュースがぶつかり合う間抜けな音がして、俺はふにゃりと笑ってしまった。
文化祭の出し物に関するそれぞれの賞の発表がされる後夜祭も無事に終わった後。誰もいない夕暮れの……二年八組の教室(まだ西海岸のなごりがそこかしこに残っている)で、俺と二宮くんは床に並んで座って、小さな打ち上げを開いていた。
俺のクラスのホットドッグ屋は見事クラス出店部門で一位を獲得した。午前中の客入りもかなりよかったらしいが、午後は……それはもうすごかった。予定していた分のホットドッグは早々に売り切れてしまったので、最終的には陽気な西海岸ミュージックに合わせて踊るという即席クラブ……いや、コンセプトに合わせるなら往年の西海岸ディスコ(というのが正しいかどうかはわからないが)となって。それでもクラスのみんなが終始笑っているので、訪れた人たちも軽く踊ったり、写真を撮ったり、みんなつられるように笑顔になってくれて……とても楽しかった。
運動音痴の俺はもちろんダンスなんてできないけど、音楽にのってゆらゆら揺れているだけで「なんかクセになる動き」と褒められてしまった。
とにかく、そういった臨機応変な対応も認められて、俺たちのクラスは一位を獲得することができた。
「打ち上げ、行かなくてよかったのか?」
問われて、俺は素直に「うん」と頷く。
一位のお祝いもかねて、今日はカラオケで打ち上げ……らしいのだが、俺は参加を丁重に断った。今日はたくさんクラスのみんなと話せて、一緒に仕事ができて、楽しかった。けど、少しだけ疲れたのも事実だ。今日は楽しく文化祭をみんなで過ごせた、ということだけ大事に胸の中に抱えていたい。
(打ち上げはまたいつかの機会に参加できたらいいな)
一気に、ではなく、一歩一歩、少しずつみんなと馴染めていけたらいいな、と思う。いずれにせよ、今日の一歩は大いなる一歩だ。
「あ……でも、文化祭一緒に回ろうって言ってたのに、ごめんね」
しかしそうやって忙しくしていたせいで、二宮くんと一緒に文化祭を回る時間がなくなってしまった。
教室まで送ってもらった後、ふと気付いたら二宮くんはもういなくなっていて……。メッセージアプリには『俺も昼からクラス展示頑張るから、お互い頑張ろ。後夜祭後に打ち上げしよう』というメッセージとグッとサムズアップした犬のスタンプが届いていて……。俺は申し訳なく思いながらも、後ろから「ヌカち、お客さん!」という声をかけられて、結局「了解。ありがとう」というメッセージしか返せなかった。
しょぼ、と肩を落として謝る俺に、二宮くんは「全然いい」と笑ってくれた。
「俺、そんなんで文句言う狭量な恋人じゃないよ」
「うん……え?」
頷いた後、言葉の中にあった「恋人」という単語に反応して、思い切り顔を上げてしまった。
「……さらっと言ったつもりなんだけど、引っかかった?」
視線を上げた先には、笑顔の二宮くんがいた。夕日に照らされているせいだと思っていたその頬の赤みは、もしかすると内側から染まっているのかもしれない。
「あの……いや」
そうか。そう、お互いがお互いのことを「そういう意味」で好いているのであれば、そしてそれを確認し合っているのであれば、恋人という関係になることは何もおかしくない。
「うん、恋人。恋人……だよね?」
膝に顎を埋めながら確認するように問うと、二宮くんは「…………」と無言で微笑んでから、数秒後に「あーあー」とうめいて撃沈した。
「ぜんっぜん格好つかない。ごめん、ほんとごめん」
かっこわりー、と言いながら、二宮くんは天を仰ぐ。俺は訳がわからないまま、ぽかん、とそんな彼を見つめることしかできない。
「十分、格好いいと思うけど?」
クラスシャツの上にパーカーを羽織った二宮くんは、やっぱりおしゃれで格好いい。文化祭後で少しくたびれた感じはするが、いつもはちゃんとセットされた髪が少しくしゃっとしているのが、なんというか、俺は好きだ。
三百六十度どこから見ても格好いいと思うのだが……と顎を引いて二宮くんを見やる。と、二宮くんは緩く首を振った。
「格好悪いの」
「そうなの?」
「そうなの。俺、本当はもっとスマートにかっこつけれるんだって。それなりにモテるし、他の子の前では……」
他の子、という言葉に思わず反応して、肩が跳ねてしまった。
他の子って誰だろう。
俺じゃない人の話だよな。
そりゃあ二宮くんはモテるだろうな。
いろんな言葉が頭の中に浮かぶ。けど、そんなこと言われても二宮くんだって困るだろう。俺は誤魔化すように「うん」と曖昧に頷いた。
すると、言葉を切った二宮くんが「あ」という顔をして、少し気まずそうに頭を下げる。
「ごめん。そうじゃなくて。ただ、もう、あぁ……八重沼の前だとなんっにも格好つけられない」
「そんな……」
二宮くんは少し困ったような、下がり眉を見せて笑った。
「俺、八重沼の前だと、普通の男の子になっちゃう」
いたずらな……けど、心底参ったという顔でそんなことを言うから。俺は返事に困って、そして同じように笑った。
「俺も、俺だって、二宮くんの前で格好なんてつけられないよ。なにしろ、出会った時も墨汁がついてたくらいだし」
精一杯のジョークのつもりでそう言うと、一瞬きょとんとした二宮くんが「……ははっ」と口元を隠して笑った。
「なんだっけ、歯磨き粉がいいんだっけ?」
「そう。そういえばあのシャツ、ちゃんと真っ白になったよ」
そういえば言っていなかったかな、とシャツのその後を伝えると、二宮くんはますます笑った。
しばしそうやって楽しそうに笑って、目尻に浮かんだ涙を拭って「はー」と溜め息をついて。それから二宮くんは「なぁ」と膝に片頬を預けて、真っ直ぐに俺を見る。
「俺、ほんと、こんな笑ったりしないんだ」
「ん?」
「こんなに笑うのも、かっこつけられないのも、髪の毛ぐしゃぐしゃになって走っちゃうのも、八重沼の前だけ」
「俺にだけ?」
こく、と頷いてから改めて問うと、二宮くんは「そう」と笑う。
「本当に、好きなんだ」
二宮くんの黒い目が、ゆっくりと細くなる。目尻に寄った小さな皺が、なんだか愛らしい。愛しい。
「俺、多分八重沼が思ってるほどいい奴じゃないし、格好良くもないけど」
二宮くんはそこで一旦言葉を区切って、す、は、と短く深呼吸した。そして、俺の目と目をしっかりと合わせる。
「八重沼奏くん……俺と、付き合ってください。恋人になってください」
視線と同じく真っ直ぐなその言葉は、ふわふわと空気に漂うように優しく俺の耳に届いた。
「う、うん」
頷いて、そしてそれだけじゃ足りない気がして、俺は「うん」ともう二回頷いた。
「今年はできなかったけど、来年は一緒に文化祭回りたい」
「来年?」
「うん。今度は、恋人として」
友達以上、たった一人の特別になって。俺は来年の文化祭のことを想像して、そして楽しくなって笑った。
二宮くんも笑って、そしてもう一度手にしていた紙パックを俺の持っている紙パックにぶつける。
ぽこ、と間抜けな音がするのと同時。紙パックが触れ合うのに合わせるように、二宮くんの頭が少しだけ横に傾いた。そして、素早く近付いて……。
「キス、……していい?」
俺の唇の、すぐ側にある唇がそう問いかけてきた。
俺は驚いて、そして自分の心に嫌じゃないか聞いてみる。俺の心の中の俺は、俺に対して大きく腕で丸を作っていて。
俺もその意見に賛成だと、心の中の俺に笑い返して。そして「うん」と答えながら、自分から二宮くんに顔を寄せた。
二宮くんの薄い唇は想像よりふわりと柔らかくて、少しだけあたたかい。肌の匂いがなんだか艶(つや)めかしくて、俺は恥ずかしくなって目を閉じる。
ちゅ、と軽い音を立てて、二宮くんの顔はあっさりと離れていった。多分時間にすれば一秒とか、二秒とか、それくらいの時間だったのだろう。目を開けても、教室の明るさも、夕日の角度も、何も変わっていない。
変わったのは、キスを知った俺の唇くらいだ。
「……あー……」
沈黙を破ったのは、二宮くんのうめき声だった。
「ん、二宮くん?」
何か嫌だったかと名前を呼ぶ、と、二宮くんは紙パックを持った手の、その甲を赤くなった頬に当てた。
「この、八重沼を好きすぎる気持ち、キスしたら落ち着くかと思ったら……」
「たら?」
「もっと好きになっただけだった」
あーぁ、普通にもっとキスしたいし、とぶつぶつ言いながら二宮くんはいよいよ両手の甲で頬を押さえるようにして目元を隠してしまう。
きょと、と目を丸くしてしまってから、俺は我慢できずに笑ってしまった。
「二宮くん、俺のこと、本当に好きなんだ」
「いや、もう、だから……好きなんだって」
諦めたように、恥ずかしそうにそう言う二宮くんが愛しい。
いつもほんの少し上にいて俺のことを掬い上げてくれると思っていた二宮くんという存在が、俺の前でうずくまっている。
俺は面白くて、嬉しくて、そんな二宮くんの肩に自分の肩をぶつけた。
胸がぱんぱんに膨らんだようなこの気持ちが、どこまでも大きくなっていくこの気持ちが、きっと恋というものなんだろう。
「俺も好きだよ。好き。大好き」
特別になりたいけどなれないと、切なく思うのも恋で。こんな、押し付けても飛び出してきそうな思いもまた恋なんだ。そうか、そうなんだ。
新しい発見が嬉しくて、俺はその気持ちのままに二宮くんに好きを伝える。
二宮くんは赤い顔をしながら「もしかしてからかってない?」なんて言って、俺と同じように肩に肩を預けるように体を傾け力を抜いてきた。
互いに寄りかかりながら、俺たちは夕暮れの教室でくすくすと笑い続けた。ジュースを飲んで、文化祭の話をして、今度遊ぶ話や、もうすぐ出来上がる梅干しのことも話して。時々短いキスをしながら。
そうやって、ずっと、暗くなるまでずっと、隣に並んで話し続けた。
二宮くんに「好き」と言われた俺もそうだった。
ただもう嬉しくて、何も考えないままに「俺も好き」と言ってしまった。
それで……二宮くんをこの上なく驚かせてしまったらしい。二宮くんはしばし壊れた機械のように「あ、え、あ」と言葉になってない声を漏らした後、ぼっ、と音がしそうな速さで顔を真っ赤にした。
「二宮くん、本当に、俺のこと好きなんだ」
言葉より何より、その反応が俺のことを好きだと伝えてくれていた。なにしろ二宮くんの頬はばあちゃんの漬けた梅干しより赤かったから。
嬉しさと照れ混じりの俺の呟きに、二宮くんは「や、だから、そうだってば」とどこか脱力したように返して、へなへなとその場に座り込んだ。手は繋いだままだったので、椅子に腰掛けた俺の手も下に引っ張られる。
「あ、ありがとう」
くん、と手を引かれて、こちらを見上げる二宮くんの顔と顔が近付く。二宮くんは照れたような、けどすっきりしたような顔で笑っていた。いつもの、太陽みたいにぴかぴかの笑顔だ。
「マジか……あぁ、あー……、言ってみるもんだな」
格好悪くても、と二宮くんが少し恥ずかしそうに言って。俺は、少しだけハッとする。
(そうか。そうか……)
二宮くんは、本当に恥ずかしそうだった。顔を赤くして、声も掠れていて。それでも、気持ちを伝えてくれた。
もし今ここで二宮くんにはっきりと「好き」と言ってもらえなかったら、俺はその思いに絶対に気付かなかっただろう。
今日の今日まで二宮くんを避けていたことを思い出し、俺は少し後ろめたい気持ちになって、そして反省する。
「うん。本当に、ありがとう」
気持ちを言葉にすることは、本当に大変なことだ。
俺はそれが下手くそで、本当に下手くそで……。母にもずっとそう言われていた。
こんなに下手くそなのは自分だけだと思っていた。他の人は楽に出来ることが、どうして自分には出来ないんだと。
(でも、二宮くんだって大変そうだ)
二宮くんは、本当に振り絞ったように気持ちを言葉にしてくれた。誰だって、大なり小なり同じ大変さを抱えているのだ。
「俺も、俺も二宮くんが好き。大好きだよ、本当に、本当」
俺が二宮くんの特別になるなんて無理だとか、女の子じゃなくていいのかとか。そういうもやもやが全部、ふわふわと飛んで弾けて、消えていく。
「マジ?」
「うん、嘘じゃない」
「……へへ、やった」
に、と歯を覗かせて二宮くんが笑う。
その笑顔を見ているとなんだかもうたまらなくなって。つられて俺も笑ってしまう。……と、笑っていた二宮くんが、ふと一瞬、顎を引いて真面目な顔をする。
「……八重沼」
名前を呼ばれて、もう一度手を引っ張られた。二宮くんの手を包み込んでいた俺の両手を、逆に二宮くんが掴む。そして、優しく二宮くんの方へと引き寄せられる。
「にのみ……」
近付いた分離れるかと思った二宮くんの顔が、もっとこっちに近付いてきた。ふわ、と二宮くんがいつもつけているらしい爽やかで、少しだけ甘い香りと、肌の香りがする。
視線が交わって、星のない夜空のように黒い目がどんどん、どんどん近付いて。
(あ)
俺の口と、二宮くんの口とが触れ合いそうになった、その時。
――ピン、ポン、パン、ポーン。
ちょっと間の抜けたチャイムが、教室の天井に設置されたスピーカーから聞こえて来た。音に驚いた俺の体がビクッと跳ねて、二宮くんの顔が横に逸れる。頬に、少しだけ熱いものが触れて、離れていく。
「あ、え」
『えー、お知らせです。二年八組、八重沼奏くん。二年八組、八重沼奏くん。至急二年八組の教室に……』
『えっ、これもうヌカちに聞こえてる?』
『ヌカち〜! どこっ? 大丈夫っ? なんか倒れてたってほんと? ヌカちー!』
『すみません、天使みたいに綺麗な人だから一目見たらわかると思うんですけど、本当に天使で……』
『あの、ちょっと、放送で呼び出しますから』
聞こえて来たのは呼び出し放送だった。八重沼奏……そう、俺の呼び出しだ。
しかもところどころ、後ろの方から複数の声が被さってくる。多分、山本くんや白石さんや、源さん、その他クラスメイトの声……な気がする。
『ヌカち〜! 一人にしてごめんねー!』
『戻ってこーい! いや、迎えに行くからどこにいるか教えてくれー!』
『すごい、すごい綺麗で可愛い天使なんです。皆さん見かけたら教えてくださいお願いしま……』
『えー、以上です! 八重沼くん、至急、大至急二年八組の教室に帰ってくださいお願いします』
わぁわぁという騒がしい放送が、ふつっ、と途切れる。おまけのように「ピン、ポン、パン、ポーン」ともう一度チャイムが鳴って……静けさが戻った。
思わず二宮くんを見ると、二宮くんも俺を見ていた。
二人して顔を見合わせて、俺はそろそろと首を傾げる。
「今の、……俺のこと、だよね?」
きっと、多分、おそらく……そう、だと思う。
*
二宮くんと連れ立って、そろそろと教室に戻る。
昼過ぎて少し客足が遠のいたらしく、思ったより人が少ない。その代わり、同じ制服を着たクラスメイトがたくさん居た。店番は交代制のはずなのにみんなが揃っているはずなどないのに、それなのに多分、ほとんど全員がいる。
「あの……」
「あっ、ヌカち! ヌカちだ!」
おそるおそる声をかけると、真っ先に俺を見つけた白石さんが駆けてくる。そして俺の手を取った。
「ヌカちー! 大丈夫? なんか具合悪そうだったって目撃情報聞いてさぁ、スマホに連絡入れても返事ないしさぁ、保健室にもいないしさぁ、どこにもいないしさぁ」
どわっ、と息継ぎなしに話しかけられて、思わず「う、うん」としか言えない。
と、白石さん以外のクラスメイトも集まって来て、あっという間に囲まれて、俺はそんな面々を見回すことしかできない。
「もーっ、心配したぁ〜!」
「大丈夫? 源ちゃんが『ヌカち様、誘拐されたかも』とか言うからますます不安になってさぁ」
「だ、だって、ヌカち様だから、それもあるかもって」
みんなが口々に俺に対しての心配を口にしてくれる。白石さんたち女子だけじゃない。山本くんや他の男子も「大丈夫だったか?」「まじで心配した」と言ってくれて。俺はただ「うん」と頷いて答えて……、そしてハッとする。
うん、じゃない。そうじゃない。
「あのっ」
一度口を開いて、閉じて、そしてもう一度開いて、俺は声を絞り出した。が、音量を間違えてしまい、やたら大きな声を出してしまう。
途端、わいわいと喋っていた面々が一斉にこちらを見た。
「ヌカち?」
「あの……」
首を傾げる白石さんたちに向かって、仕切り直すように「あの」ともう一度告げて、そして拳を握りしめる。
「お、俺……本当は一人で宣伝に行くんじゃなくて、みんなと一緒にお店のことやりたかった」
声が少し震えてしまったが、どうにか続ける。
「文化祭の準備も、もっと手伝いたかった。役立たずかもしれないけど、でも、みんなと一緒がいい」
言葉の合間に、ごく、と喉が鳴る。恥ずかしい、何を言っているんだって思われているかもしれない。
「せっかく髪とか、顔とか、良くしてもらったのにこんなこと言ってごめんなさい」
俺はそこで、源さんや白石さんたちに向かって頭を下げる。
彼女たちがクラスのことを思って準備してくれたのはわかっていたからだ。でも、それでも……。
「けど、でも、みんなと一緒に文化祭を頑張りたかったから。今からでも、頑張りたいから」
俺はそこまで話してから、は、と詰めていた息を吐いた。まとまらないけど、これ以上上手には話せる気がしなかった。
一瞬教室が、しん……と静まり返る。
山本くんも、白石さんも、源さんだって、みんな何も言わなくて。教室の外にある文化祭の喧騒も、なんだか遠くなって……。
やっぱり俺が喋るべきじゃなかったのかもしれない。と、後悔の念がじわりと胸の中に浮かんだ、その次の瞬間。
「ヌカち〜〜っ!」
わっ!と周りを囲んだみんなに押し潰されるように抱きしめられて、俺は「えっ、えっ?」と首を巡らせる。
「ヌカち、そんなこと思ってたの? ごめん、ごめんねっ」
「えーん、ヌカち〜!」
「ヌカち、めっちゃいい子じゃん!」
みんなが口々に「ヌカち」「ヌカち」と言うから、すべての話は聞き取れない。が、どうやら怒っているわけでも、引いているわけでもないらしい。
「あの、怒ってない?」
勝手なことを言ってしまった自覚はあったので、おそるおそるそう問うと、目の前にいた白石さんが眉根を寄せて首を振った。
「怒るわけないじゃん。ヌカちの見た目とか、キャラとかで、勝手に色々決めつけてたのはこっちだし。ヌカち、ごめんね」
白石さんの言葉に、俺は思わず目を瞬かせてしまう。
「一緒にやろう、一緒に頑張ろう。ね、ヌカち」
そう言われて、目頭がきゅうっと熱くなって。俺は何度もまばたきしながら浮かんできた涙を逃す。
そして少しだけ視線を逸らすと、教室の入り口に寄りかかってこちらを見ている二宮くんと目が合った。
『よかったな』
二宮くんが、ぱくぱく、と音を出さずに唇を動かして、そう伝えてくれる。そして、にこ、と笑った彼の笑顔に……胸が温かくなる。
(二宮くんの……)
「二宮くんのおかげだ」と、多分そう言ったら二宮くんは「俺じゃない。八重沼自身のおかげ」と言うだろう。だからその言葉は胸の中だけに仕舞って、俺は同じように笑顔を返した。ありがとう、という気持ちを込めて。
「ヌカち、お揃いがよかったんだな。俺の衣装着る? 多分サイズは…………うん、脚の長さ以外はいけると思う」
……と、山本くんが俺の頭から足の先まで視線で確認しながら話しかけてきた。その間がなんとも面白く、俺は思わず「えぇ?」と首を傾げながら吹き出してしまった。クラスのみんなも、俺と同じように、いや、俺以上に楽しそうに笑った。
みんなの笑い声を聞いたらますます楽しくなって、また笑ってしまって。そしたらみんなももっと笑って。笑いは伝染して、広がって……廊下を通っていた人や他のクラスに出入りしていた人も「なんだなんだ?」って感じで覗きにきて。
そして集まって来た人に、白石さんが「美味しいホットドッグいかがですか?」なんて声をかけて。それから……みんなで接客に励むことになった。
注目を集めたせいか、人が人を呼びどんどん客が増えていって。俺もいつの間にかウィンナーを茹でたり、会計作業をしたり、店員の一人として仕事を任されるようになっていった。自然と周りに溶け込めたことが嬉しくて、楽しくて、忙しさなんて全然苦にならなくて。俺は心から笑いながら、文化祭を楽しむことができた。
*
「クラス出店部門、一位おめでとう」
「あ、ありがとう」
ぽこ、と紙パックのジュースがぶつかり合う間抜けな音がして、俺はふにゃりと笑ってしまった。
文化祭の出し物に関するそれぞれの賞の発表がされる後夜祭も無事に終わった後。誰もいない夕暮れの……二年八組の教室(まだ西海岸のなごりがそこかしこに残っている)で、俺と二宮くんは床に並んで座って、小さな打ち上げを開いていた。
俺のクラスのホットドッグ屋は見事クラス出店部門で一位を獲得した。午前中の客入りもかなりよかったらしいが、午後は……それはもうすごかった。予定していた分のホットドッグは早々に売り切れてしまったので、最終的には陽気な西海岸ミュージックに合わせて踊るという即席クラブ……いや、コンセプトに合わせるなら往年の西海岸ディスコ(というのが正しいかどうかはわからないが)となって。それでもクラスのみんなが終始笑っているので、訪れた人たちも軽く踊ったり、写真を撮ったり、みんなつられるように笑顔になってくれて……とても楽しかった。
運動音痴の俺はもちろんダンスなんてできないけど、音楽にのってゆらゆら揺れているだけで「なんかクセになる動き」と褒められてしまった。
とにかく、そういった臨機応変な対応も認められて、俺たちのクラスは一位を獲得することができた。
「打ち上げ、行かなくてよかったのか?」
問われて、俺は素直に「うん」と頷く。
一位のお祝いもかねて、今日はカラオケで打ち上げ……らしいのだが、俺は参加を丁重に断った。今日はたくさんクラスのみんなと話せて、一緒に仕事ができて、楽しかった。けど、少しだけ疲れたのも事実だ。今日は楽しく文化祭をみんなで過ごせた、ということだけ大事に胸の中に抱えていたい。
(打ち上げはまたいつかの機会に参加できたらいいな)
一気に、ではなく、一歩一歩、少しずつみんなと馴染めていけたらいいな、と思う。いずれにせよ、今日の一歩は大いなる一歩だ。
「あ……でも、文化祭一緒に回ろうって言ってたのに、ごめんね」
しかしそうやって忙しくしていたせいで、二宮くんと一緒に文化祭を回る時間がなくなってしまった。
教室まで送ってもらった後、ふと気付いたら二宮くんはもういなくなっていて……。メッセージアプリには『俺も昼からクラス展示頑張るから、お互い頑張ろ。後夜祭後に打ち上げしよう』というメッセージとグッとサムズアップした犬のスタンプが届いていて……。俺は申し訳なく思いながらも、後ろから「ヌカち、お客さん!」という声をかけられて、結局「了解。ありがとう」というメッセージしか返せなかった。
しょぼ、と肩を落として謝る俺に、二宮くんは「全然いい」と笑ってくれた。
「俺、そんなんで文句言う狭量な恋人じゃないよ」
「うん……え?」
頷いた後、言葉の中にあった「恋人」という単語に反応して、思い切り顔を上げてしまった。
「……さらっと言ったつもりなんだけど、引っかかった?」
視線を上げた先には、笑顔の二宮くんがいた。夕日に照らされているせいだと思っていたその頬の赤みは、もしかすると内側から染まっているのかもしれない。
「あの……いや」
そうか。そう、お互いがお互いのことを「そういう意味」で好いているのであれば、そしてそれを確認し合っているのであれば、恋人という関係になることは何もおかしくない。
「うん、恋人。恋人……だよね?」
膝に顎を埋めながら確認するように問うと、二宮くんは「…………」と無言で微笑んでから、数秒後に「あーあー」とうめいて撃沈した。
「ぜんっぜん格好つかない。ごめん、ほんとごめん」
かっこわりー、と言いながら、二宮くんは天を仰ぐ。俺は訳がわからないまま、ぽかん、とそんな彼を見つめることしかできない。
「十分、格好いいと思うけど?」
クラスシャツの上にパーカーを羽織った二宮くんは、やっぱりおしゃれで格好いい。文化祭後で少しくたびれた感じはするが、いつもはちゃんとセットされた髪が少しくしゃっとしているのが、なんというか、俺は好きだ。
三百六十度どこから見ても格好いいと思うのだが……と顎を引いて二宮くんを見やる。と、二宮くんは緩く首を振った。
「格好悪いの」
「そうなの?」
「そうなの。俺、本当はもっとスマートにかっこつけれるんだって。それなりにモテるし、他の子の前では……」
他の子、という言葉に思わず反応して、肩が跳ねてしまった。
他の子って誰だろう。
俺じゃない人の話だよな。
そりゃあ二宮くんはモテるだろうな。
いろんな言葉が頭の中に浮かぶ。けど、そんなこと言われても二宮くんだって困るだろう。俺は誤魔化すように「うん」と曖昧に頷いた。
すると、言葉を切った二宮くんが「あ」という顔をして、少し気まずそうに頭を下げる。
「ごめん。そうじゃなくて。ただ、もう、あぁ……八重沼の前だとなんっにも格好つけられない」
「そんな……」
二宮くんは少し困ったような、下がり眉を見せて笑った。
「俺、八重沼の前だと、普通の男の子になっちゃう」
いたずらな……けど、心底参ったという顔でそんなことを言うから。俺は返事に困って、そして同じように笑った。
「俺も、俺だって、二宮くんの前で格好なんてつけられないよ。なにしろ、出会った時も墨汁がついてたくらいだし」
精一杯のジョークのつもりでそう言うと、一瞬きょとんとした二宮くんが「……ははっ」と口元を隠して笑った。
「なんだっけ、歯磨き粉がいいんだっけ?」
「そう。そういえばあのシャツ、ちゃんと真っ白になったよ」
そういえば言っていなかったかな、とシャツのその後を伝えると、二宮くんはますます笑った。
しばしそうやって楽しそうに笑って、目尻に浮かんだ涙を拭って「はー」と溜め息をついて。それから二宮くんは「なぁ」と膝に片頬を預けて、真っ直ぐに俺を見る。
「俺、ほんと、こんな笑ったりしないんだ」
「ん?」
「こんなに笑うのも、かっこつけられないのも、髪の毛ぐしゃぐしゃになって走っちゃうのも、八重沼の前だけ」
「俺にだけ?」
こく、と頷いてから改めて問うと、二宮くんは「そう」と笑う。
「本当に、好きなんだ」
二宮くんの黒い目が、ゆっくりと細くなる。目尻に寄った小さな皺が、なんだか愛らしい。愛しい。
「俺、多分八重沼が思ってるほどいい奴じゃないし、格好良くもないけど」
二宮くんはそこで一旦言葉を区切って、す、は、と短く深呼吸した。そして、俺の目と目をしっかりと合わせる。
「八重沼奏くん……俺と、付き合ってください。恋人になってください」
視線と同じく真っ直ぐなその言葉は、ふわふわと空気に漂うように優しく俺の耳に届いた。
「う、うん」
頷いて、そしてそれだけじゃ足りない気がして、俺は「うん」ともう二回頷いた。
「今年はできなかったけど、来年は一緒に文化祭回りたい」
「来年?」
「うん。今度は、恋人として」
友達以上、たった一人の特別になって。俺は来年の文化祭のことを想像して、そして楽しくなって笑った。
二宮くんも笑って、そしてもう一度手にしていた紙パックを俺の持っている紙パックにぶつける。
ぽこ、と間抜けな音がするのと同時。紙パックが触れ合うのに合わせるように、二宮くんの頭が少しだけ横に傾いた。そして、素早く近付いて……。
「キス、……していい?」
俺の唇の、すぐ側にある唇がそう問いかけてきた。
俺は驚いて、そして自分の心に嫌じゃないか聞いてみる。俺の心の中の俺は、俺に対して大きく腕で丸を作っていて。
俺もその意見に賛成だと、心の中の俺に笑い返して。そして「うん」と答えながら、自分から二宮くんに顔を寄せた。
二宮くんの薄い唇は想像よりふわりと柔らかくて、少しだけあたたかい。肌の匂いがなんだか艶(つや)めかしくて、俺は恥ずかしくなって目を閉じる。
ちゅ、と軽い音を立てて、二宮くんの顔はあっさりと離れていった。多分時間にすれば一秒とか、二秒とか、それくらいの時間だったのだろう。目を開けても、教室の明るさも、夕日の角度も、何も変わっていない。
変わったのは、キスを知った俺の唇くらいだ。
「……あー……」
沈黙を破ったのは、二宮くんのうめき声だった。
「ん、二宮くん?」
何か嫌だったかと名前を呼ぶ、と、二宮くんは紙パックを持った手の、その甲を赤くなった頬に当てた。
「この、八重沼を好きすぎる気持ち、キスしたら落ち着くかと思ったら……」
「たら?」
「もっと好きになっただけだった」
あーぁ、普通にもっとキスしたいし、とぶつぶつ言いながら二宮くんはいよいよ両手の甲で頬を押さえるようにして目元を隠してしまう。
きょと、と目を丸くしてしまってから、俺は我慢できずに笑ってしまった。
「二宮くん、俺のこと、本当に好きなんだ」
「いや、もう、だから……好きなんだって」
諦めたように、恥ずかしそうにそう言う二宮くんが愛しい。
いつもほんの少し上にいて俺のことを掬い上げてくれると思っていた二宮くんという存在が、俺の前でうずくまっている。
俺は面白くて、嬉しくて、そんな二宮くんの肩に自分の肩をぶつけた。
胸がぱんぱんに膨らんだようなこの気持ちが、どこまでも大きくなっていくこの気持ちが、きっと恋というものなんだろう。
「俺も好きだよ。好き。大好き」
特別になりたいけどなれないと、切なく思うのも恋で。こんな、押し付けても飛び出してきそうな思いもまた恋なんだ。そうか、そうなんだ。
新しい発見が嬉しくて、俺はその気持ちのままに二宮くんに好きを伝える。
二宮くんは赤い顔をしながら「もしかしてからかってない?」なんて言って、俺と同じように肩に肩を預けるように体を傾け力を抜いてきた。
互いに寄りかかりながら、俺たちは夕暮れの教室でくすくすと笑い続けた。ジュースを飲んで、文化祭の話をして、今度遊ぶ話や、もうすぐ出来上がる梅干しのことも話して。時々短いキスをしながら。
そうやって、ずっと、暗くなるまでずっと、隣に並んで話し続けた。
