八重沼に嫌われたかもしれない。
それは文化祭数日前の、特大の悲劇だった。
「はい。じゃあ明日の役割。希望通り午前中店番で、午後から自由な」
ぺら、と今日の役割分担が書かれた紙を受け取り、俺は「おー……」と気のない返事を返した。十日前なら俺はご機嫌でそれを受け取り、「八重沼と回れるのは午後。はー、どこから行こうかな」なんてうきうきしていただろう。……が、今はそんな気持ちにもなれない。
俺のやる気のなさに気付いたのだろう。プリントを手渡してきた武田が「なんだよー」と非難がましい声をあげる。
「文化祭だぞ? 他校の女子も来るんだぞ? もっと気合い入れてこうぜ! ってか二宮、こないだまでめちゃくちゃ元気だったくせになんでそんな意気消沈してんだよ」
武田に喚かれて、俺は「んー」とやはりふにゃふにゃした返事をしてしまう。
「あら、もしかして好きな子に振られたとか?」
武田の後ろから、にゅ、と瑞原が顔を出す。その言葉に一瞬片眉を持ち上げてしまってから、しまった、と思う。
「あれあれ〜? 冗談のつもりだったんだけど、もしや本気で振られた?」
瑞原はにやりと微笑んで顎に人差し指を当てている。瑞原は基本的に、人の不幸を楽しめる男なのだ。いいところもあるにはある奴だが、こういう時は友達をやめたくなる。
「えっ、それってマリナちゃん? あんなに二宮のこと好き好きオーラ出してたじゃん」
「ちーがーう」
あまり聞きたくない名前を出されて、俺はあからさまに眉をひそめてしまった。別に彼女が悪いわけではないのだが。マリナちゃん……そう、彼女と買い出しに行くところを見られてからというもの、八重沼は急に俺を避けるようになった。
(俺に彼女がいるって勘違いして、遠慮したとか? いや、彼女じゃないってはっきり伝えたし)
俺はメッセージアプリで、あの時一緒にいた子は彼女とかじゃない、と八重沼に伝えている。が、八重沼は「そうなんだ」とあっさりとした態度で、勘違いしている様子もなかった。
(あれが原因じゃないなら、なんであの日から俺のこと避けるようになったんだ?)
考えても考えても、答えは出ない。なにしろ、その答えを知っているのは八重沼だけだからだ。
何にしても、八重沼が俺から離れたがっているのは事実だ。毎日のようにやり取りしていたメッセージは減り(どころか八重沼発信のメッセージはほぼなくなった)、放課後に会うこともなくなり、学校ですれ違うことももちろんない。俺がいくら「会おう、それが駄目ならせめて通話しよう」ともちかけても駄目だ。
挙句の果てには……。
(アイコンが、虹じゃなくなった……)
そう。今までずっと俺が送った虹をメッセージアプリのアイコンにしてくれていた八重沼が、初期設定のような単色のそれに変えてしまった。もう、衝撃も衝撃だ。
思わずみっともなく「なぁ、なんでアイコン変えたの? 俺のこと嫌になった? なぁ、なぁなぁ」と問い詰めるために電話をかけそうになって……どうにか耐えた。あまりにも情けなさすぎるからだ。いや、そもそも何度も「会いたい」「話したい」とメッセージを送り続けること自体かなり情けないのだが。
(わかってるよ、馬鹿みたいだって)
それでも、八重沼を諦めることができないのだ。
避けられても、顔も合わせてくれなくても、それでもこっちを向いて欲しくて。もうどうしようもない、どん詰まり状態。
八重沼に嫌われたのかもしれない、という衝撃と、それが俺に与えるダメージはかなりのもので。最近の俺は絶不調そのものだ。
(単純に、忙しいとか、疲れてるとか、もしくは俺が連絡しすぎてうざくなったとか。そういうのならまだマシ。一番怖いのは……)
嫌な考えを頭の中に描いてしまって、手に持つ紙がくしゃりと歪む。
一番怖いのは、俺の気持ちがバレて、それで八重沼が俺を避け出したという場合だ。
八重沼はふわふわとした言動に比べて、意外と人の気持ちに敏感だ。恋愛の話をしたことはないが、好意を向けられることはたくさんあったのだろう。その敏感さで、俺の気持ちに気付いたとしたら。その上で「嫌だ」と思われて避けられているのだとしたら……。
「だぁっ!」
「うおっ、びびった。なに?」
思わず大声を出して思考を遮る。と、隣にいた武田が飛び上がった。
「いや……別に」
変な行動を取ってしまった気まずさから、俺は紙を手にしたまま、腕を組んで近くにあった机に寄りかかる。
「まぁ、なんか煮詰まってるんだろ、二宮なりに」
瑞原が笑いを堪えたような顔をしながら、諭すようにそんなことを言ってくる。こいつは、本当に人が苦悩しているところを見るのが好きらしい。
瑞原の言葉に「ふーん」と鼻を鳴らした武田が、首を傾げた。
「でも、二宮がそんなんなるなんて、珍しいな」
「あ、俺も思った。まじでらしくない」
と、小浦まで話に乗ってきた。
「二宮って基本人当たりいいし、不機嫌とか顔に出さないっていうか」
「そうそう。なんでもそつなくこなすし、女にモテるし、モテる」
「あんま人間関係とかで悩まなそう、っていうか、悩んだことないだろ」
武田たちの評は、俺自身自分に思っていたことだ。大体のことは難なくこなせるし、人付き合い……ましてや恋愛関係で悩んだことなんて一度もなかった。
なのに、八重沼のこととなるとこれだ。周りに気遣いなんてできないし、しつこく連絡してしまうし、八重沼の気持ちもわからなくて七転八倒している。
「そうだな」
俺は素直に認める。すると、武田と小浦が「うわ」と口元を押さえた。
「二宮〜、ごめん、ほんとに参ってんだな」
「なんか、こんなしょげてるお前初めて見た」
よくわからんけどどんまい、と肩を叩かれて、俺は「ん」と少し笑って頷いておく。
「意外と、話したらすっきりするかもしれんぞ」
「そうそう。言えることなら言ってみろ。恋愛系?」
武田と小浦の励ましに、俺は少しだけ悩んでから「まぁ、そう」と頷いた。
「なんか、あー……気になってる人に好きになってもらえなくて。で、好きになって欲しいがためにみっともないことしちゃいそう、っていうか」
そう。どんなに頑張っても、八重沼に俺のことを恋愛対象として好きになってもらえないかもしれないのが、悲しい。アイコンの件もそうだが、みっともなく「なんで?」と縋ってしまいそうな自分が怖い。
という気持ちを、噛み砕いて伝える。と、武田と小浦はきょとんと顔を見合わせた後「はぁ?」「そんなん当たり前じゃん」と喚いた。その後ろでは、瑞原が腹を抱えてけたけたと笑っている。
「おま、今までどんだけ苦労してないんだよ」
「そんな、好きな人に好きになってもらえないとか、当たり前じゃん。全部の恋が上手くいってたらこの世に片思いなんて言葉存在しないんだよっ」
両側からギャンギャンと責められて、俺は耳を塞ぐ。そして二人の言葉を反芻して……「え?」と首を傾げた。
「そういうもん?」
「そういうもん!」
武田も小浦も、ついでに瑞原も力強く頷いた。それはもう、しっかりと。
「なーんだ。心配してやって損した」
はーやれやれ、と武田がわざとらしく頭の後ろで手を組む。
「片思いなんて、みっともなくてなんぼだろ」
自信満々の小浦の言葉に、思わず「えぇ……」と溢してしまう。が、小浦はピシ、と俺の鼻先に指を突きつけてきた。
「俺もまぁちゃんと付き合えるまで苦労した。すげぇ苦労した。だってまぁちゃん爆モテ女子だし。最初は『私年上の人が好きなのよね』っつって振られたし。それでも俺はみっともなく諦めなかった。五回は告白した」
「な、るほど?」
小浦の熱い励ましに、思わずたじろいでしまう。ちなみに「まぁちゃん」というのは小浦の彼女のことだ。二人にそんな馴れ初めがあったとは知らなかった。
「武田なんて見てみろ。何回振られてるかわからんぞ。振られるたびに『別にそんな本気じゃなかったし』って言ってるみっともなさを見ろ」
見ろ、と今度は武田を指す。武田は「うんうん」と重々しく頷いた後、「ん?」と首を傾げた。
「え、なんか俺のことを馬鹿にしてない? してないよな?」
な、という武田の問いに答えず、小浦は拳を握りしめる。
「な? 片思いなんて、みっともなくてなんぼだろ」
もう一度、言い聞かせるように繰り返す小浦を、武田が「もしもーし、小浦っち?」とつつき、その後ろでは瑞原がもはや無言で机に突っ伏して体を震わせている。
俺も、小浦が妙に熱くなってるとか、武田がとばっちりくらってるとか、瑞原が死にそうなほど爆笑してるとか、今のこの状況がおかしい。おかしい……が、小浦の言葉だけは、妙にすとんと腹の内に収まった。
「みっともなくてなんぼ、か」
言葉にすると馬鹿馬鹿しくて、俺は吹き出すように笑ってしまう。
「おいこら、俺は真剣に言ってるんだぞ」
「いや、はっ、わかってる。……ははっ」
笑みが溢れるのは、馬鹿にしているからじゃない。本当にその通りだと思ったからだ。
俺は一人でぐるぐると「みっともない」「情けない」と悩んでいるだけで、その気持ちそのものを八重沼に伝えていない。ただ一人で悶々と抱え込んだ気持ちをこねくり回しているだけだ。
どうせみっともないなら、ちゃんと……気持ちくらい伝えてみればいいのだ。
(や、そんな今すぐには無理だけど……でも)
俺は笑いながら、手に持っていた紙を見下ろす。
八重沼は、約束はきっちり守る性格だ。これだけ避けていても、明日の約束は守ってくれるだろう。
嫌な顔……されたら悲しいけど。っていうか、嫌がられたら諦めなきゃいけないけど。でも、その前に……。
(みっともなくても、振り向いてもらえなくても、ちゃんと気持ちを伝えるくらいはさ。しなきゃだよな)
少しだけくしゃくしゃにしてしまった紙を丁寧に開いて、もう一度見る。
二宮翔馬、という名前の横には午前の部分に「◯」、午後の部分に「×」と端的に記されていた。俺はその×の部分を親指で優しく撫でて、祈るように目を閉じた。
どうか俺と八重沼にとって、楽しい、素晴らしい午後になりますように、と。
*
(の、はずだったんだけど……)
髪の毛に左手を突っ込んで、ぐしゃぐしゃにかき混ぜる。朝からアイロンと整髪剤を使ってばっちり決めてきたのだが、今はもうそんなこと気にしている場合ではない。し、その髪型を見せたかった人は目の前にいて、こちらも見れないくらい俯いているのだから。
「八重沼? ちょっとは落ち着いた?」
階段に座り込んでぐすぐすと泣く八重沼を連れて、人のいない空き教室に移動したのは三十分ほど前。さすがにもう涙は止まったらしいが、八重沼はくたりと疲れたように俯いている。
八重沼の髪も、今日は綺麗にセットされていた。ふわふわの髪はくるりと綺麗に巻かれて、なんだか……こんなことを言うのは恥ずかしいが、天使みたいだ。
顔にもうっすらと化粧が施されているが、その大部分は泣いて顔を擦ったことで落ちてしまったようだ。それでもやはり、八重沼は美しい。でも今は、その美しさも少し痛々しい。
(なんでこうなったって……多分、あれのせいだよな)
俺がタイミングよく八重沼のところに駆けつけられたのは、クラスメイトのマリナちゃんが見せてくれた動画のおかげだった。
*
「これ、ヌカちだよね? ヴィジュアルすごくない?」
先日俺と一緒にいる時に遭遇したからだろう。マリナちゃんは嬉々としてスマートフォンの画面を見せてきた。
開かれていたのは動画アプリで……そこには、うちの校舎内を看板を持って歩く八重沼が映されていた。最初は後ろ姿、そして何かに気付いたようにこちらを振り返り、驚いたように目を見張る。たった数秒の動画だが、八重沼のとんでもない美貌や、そのスタイルの良さが伝わってくる。
動画の概要欄には「文化祭。うちの学校のやばいイケメン」と書かれている。閲覧数はぼちぼちだが、「え、アイドルかモデル?」「芸能人でしょ」「かっこいい〜」というコメントが並んでいる。
短い動画ではあったが、それが八重沼だとはっきりわかる動画だ。俺は「は?」と声を漏らしてそれを見て……そして数秒後にはその場から駆け出していた。
「えっ、ちょ、二宮くん?」
マリナちゃんの引き留める声には振り向かず、俺は中庭を飛び出す。と、ちょうど校舎に入ってすぐの廊下に瑞原が立っていた。
「瑞原、なぁ、頼む、店番変わってくれ」
時刻はまだ十一時前。俺は十二時まで中庭に設置された巨大迷路の店番兼呼び込み担当だった。
「えー? なんでー?」
「なんでって、それは……」
俺は少し迷ってから、ぐ、と拳を握りしめた。
「好きな子が、困ってるから。助けに行きたい、今すぐ」
動画の中で見た八重沼は、ただ驚いたような顔をしている……ように見えた。けど、あれは驚いているだけじゃない。困ってたし、怯えていた。ここ何ヶ月、ずっと八重沼の顔を見てきたからわかる。小さな感情ひとつ逃さないようにと見つめてきたから、わかるのだ。
「んー、いいよ」
俺の言葉を聞いた瑞原は、ほとんど悩む様子もなく頷いてくれた。
「いいのか?」
頼みはしたものの、普段の瑞原の様子から「嫌だよ」と断られる覚悟もしていたので、思わず確認するように問うてしまう。
「いいよ。けど、今度その好きな子の話、ちゃんと聞かせろよ」
ウィンクするように片目を閉じた瑞原にそう言われて、俺は一瞬面食らって言葉を飲み込んでから、そして「おう」と頷いた。
瑞原は人の困るところを見るのが好きな奴だと思っていたが、意外と、そうではないのかもしれない。
「まぁ、その子と上手くいけばの話だろうけど」
けたけたとそれはもう楽しそうに笑う瑞原を見て、俺は半眼になる。そして心の中で「前言撤回」と判断を下した。
「……とりあえず、悪い。埋め合わせはするから、よろしく頼む」
何にしても、助けられていることは事実だ。俺は瑞原に手を合わせて、そして今度こそ校舎の方へ向かって駆け出した。
先ほどの動画から、八重沼が大体どのあたりを歩いていたかはわかる。しかもあれだけ目立つなら、道行く生徒に「ホットドッグ屋の看板持ったすげぇ美人見なかった?」と聞けば居場所もわかるだろう。
そうあたりをつけて、そして狙い通り目撃情報を辿って八重沼を追いかけて、探して、探し回って。そして、人通りのない階段に座り込んでいる彼を見つけた。
*
八重沼は俺を見て、しばらくして驚くほど盛大に泣き出した。わんわんとまではいかないが、しくしく、さめざめと、本当に苦しそうに泣くから、なんだか俺まで胸が痛くなって仕方ない。
「ご、ごめん」
そんな八重沼が、ようやくぽつりと言葉を溢した。すん、と鼻をすすって、本当に申し訳なさそうに肩を落としながら。
「え? 謝る必要ないよ」
「だって、こうやって助けてくれて……」
かさかさに掠れた声で謝る八重沼に、俺は「それなら」と提案してみる。
「ごめんじゃなくて、ありがとうの方が嬉しい」
俺の言葉を聞いて、ぽか、と、口と目を開く八重沼の表情はやたらと幼い。髪型も服装も大人っぽいのに、なんだか子どものような無垢さがアンバランスで、胸がキュッと切なくなった。
「大変だった、みたいだな。ごめん、すぐ来られなくて」
「え、いや……いや」
八重沼はゆっくりと首を振って、そしてぽつりと溢すように「ありがとう」と呟いた。
「二宮くんが来てくれなかったら、俺、あのままあそこにうずくまって立てなかった、と思う」
「そ、か」
少しでも役に立てたなら嬉しい、と伝えると八重沼がようやく顔を持ち上げる。
薄茶色の目とぱちりと目が合った。八重沼はその目をキュッと細めて、少しだけ口端を持ち上げた。
「ありがとう、二宮くん。二宮くんが来てくれて、嬉しかった」
八重沼はそう言って少し視線を揺らすと、また少しだけ顔を俯けた。
「俺、クラスの……宣伝係をすることになったんだけど」
「うん」
「一人で宣伝するんじゃなくて、みんなと一緒に、店の手伝いしたかったんだ」
「うん、そっか」
ぽつ、ぽつ、と泣いていた事情らしきものを、八重沼が教えてくれる。
「俺、空気読めないし、話すのも上手くないし、人の話にも『うん』って頷くばっかりで、楽しくない人間なんだ」
俺は「そんなことない」と断言できるが、八重沼はどうやらそんな慰めを求めている様子ではなかった。まるで自分の中のもやもやを、絡まったそれをほぐすように、正直に気持ちを話してくれている。
俺は口を挟むのをやめて、「それで?」と先を促した。
八重沼はその長いまつ毛を震わせて一瞬だけ俺を見ると、どこかホッとしたように目を細める。そして、安心したように話の続きを紡いだ。
「お母さん、……俺の、お母さんね。お母さんにも、結構、なんていうか……俺は顔だけしか取り柄がない、って感じのことを、ずっと言われてて」
初めて聞くことに、俺は思わず息を呑む。
八重沼が両親との関係が、そう上手くいっていないことはなんとなく察していた。八重沼から親の話はまったくといっていいほど聞いたことがなかったからだ。八重沼が過去の話をする時出てくるのはお祖母さんばかりだった。
でもまさか、そんなことを実の母親に言われていたなんて。
「見た目はよく褒められるけど、中身は……駄目な奴だから」
俯く八重沼の言う通り、彼の顔は憂いているその表情すら美しい。頬に残る涙の跡は痛々しいが、それに対して憐憫の情と共に劣情にも似た気持ちが込み上がるのも事実だ。
でも俺は、八重沼の中身が駄目だなんて、思ったことはない。
「二宮くんも、顔と声はいいけど……って言ってくれて。クラスでも、こう、手を動かす仕事じゃなくて一人で客寄せっていうのが、なんというか……その、顔しか役に立たないかな、って」
それを伝えようと口を開きかけたが……思いがけない八重沼の言葉に止まってしまう。
「あ、……え? お、俺? 俺がそんなこと言っ」
言った、と聞こうとして、少し前の通話の際にそんな会話をしたことを思い出す。
『顔もいいし、声もいいし。八重沼ってほんといいよな』
「言っ……たな。言った」
そう、間違いなくそう言った。それは八重沼を好きと言いそうになったのを誤魔化すための発言ではあったが。しかしそれは、八重沼の心の傷を抉るのに足るものだった。
「ごめん。あれは……」
「でも一番嫌なのは、そう言われて、『そうだよね』って思っちゃう自分なんだ。俺には顔しかないって、俺自身がそう思ってる」
俺の言葉を遮るように八重沼がそう言って、困ったような顔をして笑った。八重沼に、母親や、クラスメイトや、俺を責める気持ちはないのだ。ただ、ただ素直に傷付いている。
「八重沼」
悪かったとか、ごめんとか、あれは違うんだ……とか。言いたいけど、言えない。今ここでそれを言ってもきっと、八重沼は慰めとしてしか受け取ってくれないだろう。
「それで、沈みかけてたんだけど……でも、二宮くんが手を差し伸べてくれたから」
「……手?」
自分の不甲斐なさに下がっていた頭を、ゆっくり持ち上げる。八重沼は先ほどまでの寂しそうな顔に、それでも、笑顔を浮かべていた。
「うん、手」
手、と言われて、俺は自分の手を見下ろす。
「二宮くんの手を握ったら、なんか、それでもいいかもって……思えたんだ。ちょっと」
「八重沼」
「暗いところから掬い上げてもらったような、そんな気持ち。……だから、ありがとう」
先ほどの、階段でのことを言っているのだろうか。
俺はただ、八重沼の悲しんでいるところを見たくなくて探しただけで、そんなの自分のためでしかなかったのだが。でも、それでも。それが八重沼の救いになっていたのなら、嬉しい。
にこ、と笑ってくれる八重沼に、俺も笑顔を返す。
さっき俺も、ごめんよりありがとうが欲しいと言ったばかりだ。ネガティブより、ポジティブが欲しいし、与えたい。
「そっか。なら、廊下走って、八重沼に会いに来てよかった」
みっともないことをしてよかった、と。俺は「ほんとに、よかった」と心からの安堵を溢す。
「うん。ふふ、ありがとう」
再度、小さな声で礼を伝えてくれた八重沼のその耳のあたりが、ほのかに赤くなっている。それを見て、胸の奥の方がむず痒くなった。
(どういたしまして、とか)
いいんだ、とか。友達だろ、とか。そういう言葉を言うべきだ。今までの俺ならそうしていた。さらりと当たり障りのないことを言って、それで。
「俺さ、八重沼が好きだから」
でも、出て来たのはただの正直な気持ちだった。格好良くもなんともない。本当にただ、ただの気持ち。
「好きだから、悲しい時は助けたい」
「……え?」
弾かれたように顔を上げた八重沼が、信じられない、という表情をして俺を見ている。
「顔とか、声とかだけじゃない。素直なところとか、飾らないところとか、何も考えないで話すところ……っていや、これは悪い意味じゃなくてさ、あの……」
途中、あんまりなことを言っていると気が付いて言い訳をして、しどろもどろで気持ちを伝える。
「ごめん……もうちょっとかっこよく言いたいけど、駄目だな。俺は、ただもう、でも、八重沼が好きなんだ。八重沼の全部が、好き」
「え、あ、俺も……」
「友達って意味じゃないぞ?」
あっさりと同意を返してくれた八重沼に、釘を刺す。
多分俺の顔は今情けないほど赤くなっているだろうし、頭に手を突っ込んでいるから髪もくしゃくしゃだろう。爽やかな笑顔なんて浮かべられない。背中に汗もかいてる。
「恋愛感情で、八重沼が好きなんだ」
八重沼の目が、これ以上ないというほどに見開かれる。硝子玉みたいに綺麗なその目が、ぽろりと転げ落ちてきそうなほどだ。俺はそれを受け止めるように、八重沼の頬に手を伸ばした。
肌に触れようとしたその時、ぴく、と八重沼の身が跳ねた。
「ごめん、八重沼は友達って思ってくれてるのに、好きになって」
八重沼に触れそうになった手を、きゅ、と握りしめる。軽々しく人に触れてはいけないということすら忘れていた自分が恥ずかしい。
……が、八重沼は何を思ったのか、そんな俺の手を、自分の手で包み込んだ。
「え? な、なに?」
驚いて手を引こうとするが、八重沼がそれを許してくれない。柔らかく、しかしそれなりに強い力で俺の手を両手で包み、離さない。
「俺も好きだよ」
「……はっ?」
動揺して、声が盛大に震えてしまった。は?というより「はへ?」って感じだ。
そんな格好悪い俺の反応なんて気にした様子もなく、八重沼がきらきらとした目を俺に向けてくる。
「俺も、二宮くんが好き。好き。多分、初恋なんだ」
八重沼に手を掴まれていなかったら、俺は多分その場にひっくり返っていたかもしれない。ひっくり返って、「嘘? え、ほんと? やった、え、ほんと? 本当って言って、お願い。お願い!」なんてことを口走っていたかもしれない。
そのくらい、嬉しくて、嬉しくて堪らなくて、俺はまたも「は、は、へ?」と情けない震え声を漏らしてしまった。
もう、この上ないくらい情けない。……情けない、けど、もう情けなくていい。
八重沼の前なら、どんなに格好悪くてもいいや、と思えた。八重沼が、そんな俺を好きだと言ってくれるなら、なんだっていい。
それは文化祭数日前の、特大の悲劇だった。
「はい。じゃあ明日の役割。希望通り午前中店番で、午後から自由な」
ぺら、と今日の役割分担が書かれた紙を受け取り、俺は「おー……」と気のない返事を返した。十日前なら俺はご機嫌でそれを受け取り、「八重沼と回れるのは午後。はー、どこから行こうかな」なんてうきうきしていただろう。……が、今はそんな気持ちにもなれない。
俺のやる気のなさに気付いたのだろう。プリントを手渡してきた武田が「なんだよー」と非難がましい声をあげる。
「文化祭だぞ? 他校の女子も来るんだぞ? もっと気合い入れてこうぜ! ってか二宮、こないだまでめちゃくちゃ元気だったくせになんでそんな意気消沈してんだよ」
武田に喚かれて、俺は「んー」とやはりふにゃふにゃした返事をしてしまう。
「あら、もしかして好きな子に振られたとか?」
武田の後ろから、にゅ、と瑞原が顔を出す。その言葉に一瞬片眉を持ち上げてしまってから、しまった、と思う。
「あれあれ〜? 冗談のつもりだったんだけど、もしや本気で振られた?」
瑞原はにやりと微笑んで顎に人差し指を当てている。瑞原は基本的に、人の不幸を楽しめる男なのだ。いいところもあるにはある奴だが、こういう時は友達をやめたくなる。
「えっ、それってマリナちゃん? あんなに二宮のこと好き好きオーラ出してたじゃん」
「ちーがーう」
あまり聞きたくない名前を出されて、俺はあからさまに眉をひそめてしまった。別に彼女が悪いわけではないのだが。マリナちゃん……そう、彼女と買い出しに行くところを見られてからというもの、八重沼は急に俺を避けるようになった。
(俺に彼女がいるって勘違いして、遠慮したとか? いや、彼女じゃないってはっきり伝えたし)
俺はメッセージアプリで、あの時一緒にいた子は彼女とかじゃない、と八重沼に伝えている。が、八重沼は「そうなんだ」とあっさりとした態度で、勘違いしている様子もなかった。
(あれが原因じゃないなら、なんであの日から俺のこと避けるようになったんだ?)
考えても考えても、答えは出ない。なにしろ、その答えを知っているのは八重沼だけだからだ。
何にしても、八重沼が俺から離れたがっているのは事実だ。毎日のようにやり取りしていたメッセージは減り(どころか八重沼発信のメッセージはほぼなくなった)、放課後に会うこともなくなり、学校ですれ違うことももちろんない。俺がいくら「会おう、それが駄目ならせめて通話しよう」ともちかけても駄目だ。
挙句の果てには……。
(アイコンが、虹じゃなくなった……)
そう。今までずっと俺が送った虹をメッセージアプリのアイコンにしてくれていた八重沼が、初期設定のような単色のそれに変えてしまった。もう、衝撃も衝撃だ。
思わずみっともなく「なぁ、なんでアイコン変えたの? 俺のこと嫌になった? なぁ、なぁなぁ」と問い詰めるために電話をかけそうになって……どうにか耐えた。あまりにも情けなさすぎるからだ。いや、そもそも何度も「会いたい」「話したい」とメッセージを送り続けること自体かなり情けないのだが。
(わかってるよ、馬鹿みたいだって)
それでも、八重沼を諦めることができないのだ。
避けられても、顔も合わせてくれなくても、それでもこっちを向いて欲しくて。もうどうしようもない、どん詰まり状態。
八重沼に嫌われたのかもしれない、という衝撃と、それが俺に与えるダメージはかなりのもので。最近の俺は絶不調そのものだ。
(単純に、忙しいとか、疲れてるとか、もしくは俺が連絡しすぎてうざくなったとか。そういうのならまだマシ。一番怖いのは……)
嫌な考えを頭の中に描いてしまって、手に持つ紙がくしゃりと歪む。
一番怖いのは、俺の気持ちがバレて、それで八重沼が俺を避け出したという場合だ。
八重沼はふわふわとした言動に比べて、意外と人の気持ちに敏感だ。恋愛の話をしたことはないが、好意を向けられることはたくさんあったのだろう。その敏感さで、俺の気持ちに気付いたとしたら。その上で「嫌だ」と思われて避けられているのだとしたら……。
「だぁっ!」
「うおっ、びびった。なに?」
思わず大声を出して思考を遮る。と、隣にいた武田が飛び上がった。
「いや……別に」
変な行動を取ってしまった気まずさから、俺は紙を手にしたまま、腕を組んで近くにあった机に寄りかかる。
「まぁ、なんか煮詰まってるんだろ、二宮なりに」
瑞原が笑いを堪えたような顔をしながら、諭すようにそんなことを言ってくる。こいつは、本当に人が苦悩しているところを見るのが好きらしい。
瑞原の言葉に「ふーん」と鼻を鳴らした武田が、首を傾げた。
「でも、二宮がそんなんなるなんて、珍しいな」
「あ、俺も思った。まじでらしくない」
と、小浦まで話に乗ってきた。
「二宮って基本人当たりいいし、不機嫌とか顔に出さないっていうか」
「そうそう。なんでもそつなくこなすし、女にモテるし、モテる」
「あんま人間関係とかで悩まなそう、っていうか、悩んだことないだろ」
武田たちの評は、俺自身自分に思っていたことだ。大体のことは難なくこなせるし、人付き合い……ましてや恋愛関係で悩んだことなんて一度もなかった。
なのに、八重沼のこととなるとこれだ。周りに気遣いなんてできないし、しつこく連絡してしまうし、八重沼の気持ちもわからなくて七転八倒している。
「そうだな」
俺は素直に認める。すると、武田と小浦が「うわ」と口元を押さえた。
「二宮〜、ごめん、ほんとに参ってんだな」
「なんか、こんなしょげてるお前初めて見た」
よくわからんけどどんまい、と肩を叩かれて、俺は「ん」と少し笑って頷いておく。
「意外と、話したらすっきりするかもしれんぞ」
「そうそう。言えることなら言ってみろ。恋愛系?」
武田と小浦の励ましに、俺は少しだけ悩んでから「まぁ、そう」と頷いた。
「なんか、あー……気になってる人に好きになってもらえなくて。で、好きになって欲しいがためにみっともないことしちゃいそう、っていうか」
そう。どんなに頑張っても、八重沼に俺のことを恋愛対象として好きになってもらえないかもしれないのが、悲しい。アイコンの件もそうだが、みっともなく「なんで?」と縋ってしまいそうな自分が怖い。
という気持ちを、噛み砕いて伝える。と、武田と小浦はきょとんと顔を見合わせた後「はぁ?」「そんなん当たり前じゃん」と喚いた。その後ろでは、瑞原が腹を抱えてけたけたと笑っている。
「おま、今までどんだけ苦労してないんだよ」
「そんな、好きな人に好きになってもらえないとか、当たり前じゃん。全部の恋が上手くいってたらこの世に片思いなんて言葉存在しないんだよっ」
両側からギャンギャンと責められて、俺は耳を塞ぐ。そして二人の言葉を反芻して……「え?」と首を傾げた。
「そういうもん?」
「そういうもん!」
武田も小浦も、ついでに瑞原も力強く頷いた。それはもう、しっかりと。
「なーんだ。心配してやって損した」
はーやれやれ、と武田がわざとらしく頭の後ろで手を組む。
「片思いなんて、みっともなくてなんぼだろ」
自信満々の小浦の言葉に、思わず「えぇ……」と溢してしまう。が、小浦はピシ、と俺の鼻先に指を突きつけてきた。
「俺もまぁちゃんと付き合えるまで苦労した。すげぇ苦労した。だってまぁちゃん爆モテ女子だし。最初は『私年上の人が好きなのよね』っつって振られたし。それでも俺はみっともなく諦めなかった。五回は告白した」
「な、るほど?」
小浦の熱い励ましに、思わずたじろいでしまう。ちなみに「まぁちゃん」というのは小浦の彼女のことだ。二人にそんな馴れ初めがあったとは知らなかった。
「武田なんて見てみろ。何回振られてるかわからんぞ。振られるたびに『別にそんな本気じゃなかったし』って言ってるみっともなさを見ろ」
見ろ、と今度は武田を指す。武田は「うんうん」と重々しく頷いた後、「ん?」と首を傾げた。
「え、なんか俺のことを馬鹿にしてない? してないよな?」
な、という武田の問いに答えず、小浦は拳を握りしめる。
「な? 片思いなんて、みっともなくてなんぼだろ」
もう一度、言い聞かせるように繰り返す小浦を、武田が「もしもーし、小浦っち?」とつつき、その後ろでは瑞原がもはや無言で机に突っ伏して体を震わせている。
俺も、小浦が妙に熱くなってるとか、武田がとばっちりくらってるとか、瑞原が死にそうなほど爆笑してるとか、今のこの状況がおかしい。おかしい……が、小浦の言葉だけは、妙にすとんと腹の内に収まった。
「みっともなくてなんぼ、か」
言葉にすると馬鹿馬鹿しくて、俺は吹き出すように笑ってしまう。
「おいこら、俺は真剣に言ってるんだぞ」
「いや、はっ、わかってる。……ははっ」
笑みが溢れるのは、馬鹿にしているからじゃない。本当にその通りだと思ったからだ。
俺は一人でぐるぐると「みっともない」「情けない」と悩んでいるだけで、その気持ちそのものを八重沼に伝えていない。ただ一人で悶々と抱え込んだ気持ちをこねくり回しているだけだ。
どうせみっともないなら、ちゃんと……気持ちくらい伝えてみればいいのだ。
(や、そんな今すぐには無理だけど……でも)
俺は笑いながら、手に持っていた紙を見下ろす。
八重沼は、約束はきっちり守る性格だ。これだけ避けていても、明日の約束は守ってくれるだろう。
嫌な顔……されたら悲しいけど。っていうか、嫌がられたら諦めなきゃいけないけど。でも、その前に……。
(みっともなくても、振り向いてもらえなくても、ちゃんと気持ちを伝えるくらいはさ。しなきゃだよな)
少しだけくしゃくしゃにしてしまった紙を丁寧に開いて、もう一度見る。
二宮翔馬、という名前の横には午前の部分に「◯」、午後の部分に「×」と端的に記されていた。俺はその×の部分を親指で優しく撫でて、祈るように目を閉じた。
どうか俺と八重沼にとって、楽しい、素晴らしい午後になりますように、と。
*
(の、はずだったんだけど……)
髪の毛に左手を突っ込んで、ぐしゃぐしゃにかき混ぜる。朝からアイロンと整髪剤を使ってばっちり決めてきたのだが、今はもうそんなこと気にしている場合ではない。し、その髪型を見せたかった人は目の前にいて、こちらも見れないくらい俯いているのだから。
「八重沼? ちょっとは落ち着いた?」
階段に座り込んでぐすぐすと泣く八重沼を連れて、人のいない空き教室に移動したのは三十分ほど前。さすがにもう涙は止まったらしいが、八重沼はくたりと疲れたように俯いている。
八重沼の髪も、今日は綺麗にセットされていた。ふわふわの髪はくるりと綺麗に巻かれて、なんだか……こんなことを言うのは恥ずかしいが、天使みたいだ。
顔にもうっすらと化粧が施されているが、その大部分は泣いて顔を擦ったことで落ちてしまったようだ。それでもやはり、八重沼は美しい。でも今は、その美しさも少し痛々しい。
(なんでこうなったって……多分、あれのせいだよな)
俺がタイミングよく八重沼のところに駆けつけられたのは、クラスメイトのマリナちゃんが見せてくれた動画のおかげだった。
*
「これ、ヌカちだよね? ヴィジュアルすごくない?」
先日俺と一緒にいる時に遭遇したからだろう。マリナちゃんは嬉々としてスマートフォンの画面を見せてきた。
開かれていたのは動画アプリで……そこには、うちの校舎内を看板を持って歩く八重沼が映されていた。最初は後ろ姿、そして何かに気付いたようにこちらを振り返り、驚いたように目を見張る。たった数秒の動画だが、八重沼のとんでもない美貌や、そのスタイルの良さが伝わってくる。
動画の概要欄には「文化祭。うちの学校のやばいイケメン」と書かれている。閲覧数はぼちぼちだが、「え、アイドルかモデル?」「芸能人でしょ」「かっこいい〜」というコメントが並んでいる。
短い動画ではあったが、それが八重沼だとはっきりわかる動画だ。俺は「は?」と声を漏らしてそれを見て……そして数秒後にはその場から駆け出していた。
「えっ、ちょ、二宮くん?」
マリナちゃんの引き留める声には振り向かず、俺は中庭を飛び出す。と、ちょうど校舎に入ってすぐの廊下に瑞原が立っていた。
「瑞原、なぁ、頼む、店番変わってくれ」
時刻はまだ十一時前。俺は十二時まで中庭に設置された巨大迷路の店番兼呼び込み担当だった。
「えー? なんでー?」
「なんでって、それは……」
俺は少し迷ってから、ぐ、と拳を握りしめた。
「好きな子が、困ってるから。助けに行きたい、今すぐ」
動画の中で見た八重沼は、ただ驚いたような顔をしている……ように見えた。けど、あれは驚いているだけじゃない。困ってたし、怯えていた。ここ何ヶ月、ずっと八重沼の顔を見てきたからわかる。小さな感情ひとつ逃さないようにと見つめてきたから、わかるのだ。
「んー、いいよ」
俺の言葉を聞いた瑞原は、ほとんど悩む様子もなく頷いてくれた。
「いいのか?」
頼みはしたものの、普段の瑞原の様子から「嫌だよ」と断られる覚悟もしていたので、思わず確認するように問うてしまう。
「いいよ。けど、今度その好きな子の話、ちゃんと聞かせろよ」
ウィンクするように片目を閉じた瑞原にそう言われて、俺は一瞬面食らって言葉を飲み込んでから、そして「おう」と頷いた。
瑞原は人の困るところを見るのが好きな奴だと思っていたが、意外と、そうではないのかもしれない。
「まぁ、その子と上手くいけばの話だろうけど」
けたけたとそれはもう楽しそうに笑う瑞原を見て、俺は半眼になる。そして心の中で「前言撤回」と判断を下した。
「……とりあえず、悪い。埋め合わせはするから、よろしく頼む」
何にしても、助けられていることは事実だ。俺は瑞原に手を合わせて、そして今度こそ校舎の方へ向かって駆け出した。
先ほどの動画から、八重沼が大体どのあたりを歩いていたかはわかる。しかもあれだけ目立つなら、道行く生徒に「ホットドッグ屋の看板持ったすげぇ美人見なかった?」と聞けば居場所もわかるだろう。
そうあたりをつけて、そして狙い通り目撃情報を辿って八重沼を追いかけて、探して、探し回って。そして、人通りのない階段に座り込んでいる彼を見つけた。
*
八重沼は俺を見て、しばらくして驚くほど盛大に泣き出した。わんわんとまではいかないが、しくしく、さめざめと、本当に苦しそうに泣くから、なんだか俺まで胸が痛くなって仕方ない。
「ご、ごめん」
そんな八重沼が、ようやくぽつりと言葉を溢した。すん、と鼻をすすって、本当に申し訳なさそうに肩を落としながら。
「え? 謝る必要ないよ」
「だって、こうやって助けてくれて……」
かさかさに掠れた声で謝る八重沼に、俺は「それなら」と提案してみる。
「ごめんじゃなくて、ありがとうの方が嬉しい」
俺の言葉を聞いて、ぽか、と、口と目を開く八重沼の表情はやたらと幼い。髪型も服装も大人っぽいのに、なんだか子どものような無垢さがアンバランスで、胸がキュッと切なくなった。
「大変だった、みたいだな。ごめん、すぐ来られなくて」
「え、いや……いや」
八重沼はゆっくりと首を振って、そしてぽつりと溢すように「ありがとう」と呟いた。
「二宮くんが来てくれなかったら、俺、あのままあそこにうずくまって立てなかった、と思う」
「そ、か」
少しでも役に立てたなら嬉しい、と伝えると八重沼がようやく顔を持ち上げる。
薄茶色の目とぱちりと目が合った。八重沼はその目をキュッと細めて、少しだけ口端を持ち上げた。
「ありがとう、二宮くん。二宮くんが来てくれて、嬉しかった」
八重沼はそう言って少し視線を揺らすと、また少しだけ顔を俯けた。
「俺、クラスの……宣伝係をすることになったんだけど」
「うん」
「一人で宣伝するんじゃなくて、みんなと一緒に、店の手伝いしたかったんだ」
「うん、そっか」
ぽつ、ぽつ、と泣いていた事情らしきものを、八重沼が教えてくれる。
「俺、空気読めないし、話すのも上手くないし、人の話にも『うん』って頷くばっかりで、楽しくない人間なんだ」
俺は「そんなことない」と断言できるが、八重沼はどうやらそんな慰めを求めている様子ではなかった。まるで自分の中のもやもやを、絡まったそれをほぐすように、正直に気持ちを話してくれている。
俺は口を挟むのをやめて、「それで?」と先を促した。
八重沼はその長いまつ毛を震わせて一瞬だけ俺を見ると、どこかホッとしたように目を細める。そして、安心したように話の続きを紡いだ。
「お母さん、……俺の、お母さんね。お母さんにも、結構、なんていうか……俺は顔だけしか取り柄がない、って感じのことを、ずっと言われてて」
初めて聞くことに、俺は思わず息を呑む。
八重沼が両親との関係が、そう上手くいっていないことはなんとなく察していた。八重沼から親の話はまったくといっていいほど聞いたことがなかったからだ。八重沼が過去の話をする時出てくるのはお祖母さんばかりだった。
でもまさか、そんなことを実の母親に言われていたなんて。
「見た目はよく褒められるけど、中身は……駄目な奴だから」
俯く八重沼の言う通り、彼の顔は憂いているその表情すら美しい。頬に残る涙の跡は痛々しいが、それに対して憐憫の情と共に劣情にも似た気持ちが込み上がるのも事実だ。
でも俺は、八重沼の中身が駄目だなんて、思ったことはない。
「二宮くんも、顔と声はいいけど……って言ってくれて。クラスでも、こう、手を動かす仕事じゃなくて一人で客寄せっていうのが、なんというか……その、顔しか役に立たないかな、って」
それを伝えようと口を開きかけたが……思いがけない八重沼の言葉に止まってしまう。
「あ、……え? お、俺? 俺がそんなこと言っ」
言った、と聞こうとして、少し前の通話の際にそんな会話をしたことを思い出す。
『顔もいいし、声もいいし。八重沼ってほんといいよな』
「言っ……たな。言った」
そう、間違いなくそう言った。それは八重沼を好きと言いそうになったのを誤魔化すための発言ではあったが。しかしそれは、八重沼の心の傷を抉るのに足るものだった。
「ごめん。あれは……」
「でも一番嫌なのは、そう言われて、『そうだよね』って思っちゃう自分なんだ。俺には顔しかないって、俺自身がそう思ってる」
俺の言葉を遮るように八重沼がそう言って、困ったような顔をして笑った。八重沼に、母親や、クラスメイトや、俺を責める気持ちはないのだ。ただ、ただ素直に傷付いている。
「八重沼」
悪かったとか、ごめんとか、あれは違うんだ……とか。言いたいけど、言えない。今ここでそれを言ってもきっと、八重沼は慰めとしてしか受け取ってくれないだろう。
「それで、沈みかけてたんだけど……でも、二宮くんが手を差し伸べてくれたから」
「……手?」
自分の不甲斐なさに下がっていた頭を、ゆっくり持ち上げる。八重沼は先ほどまでの寂しそうな顔に、それでも、笑顔を浮かべていた。
「うん、手」
手、と言われて、俺は自分の手を見下ろす。
「二宮くんの手を握ったら、なんか、それでもいいかもって……思えたんだ。ちょっと」
「八重沼」
「暗いところから掬い上げてもらったような、そんな気持ち。……だから、ありがとう」
先ほどの、階段でのことを言っているのだろうか。
俺はただ、八重沼の悲しんでいるところを見たくなくて探しただけで、そんなの自分のためでしかなかったのだが。でも、それでも。それが八重沼の救いになっていたのなら、嬉しい。
にこ、と笑ってくれる八重沼に、俺も笑顔を返す。
さっき俺も、ごめんよりありがとうが欲しいと言ったばかりだ。ネガティブより、ポジティブが欲しいし、与えたい。
「そっか。なら、廊下走って、八重沼に会いに来てよかった」
みっともないことをしてよかった、と。俺は「ほんとに、よかった」と心からの安堵を溢す。
「うん。ふふ、ありがとう」
再度、小さな声で礼を伝えてくれた八重沼のその耳のあたりが、ほのかに赤くなっている。それを見て、胸の奥の方がむず痒くなった。
(どういたしまして、とか)
いいんだ、とか。友達だろ、とか。そういう言葉を言うべきだ。今までの俺ならそうしていた。さらりと当たり障りのないことを言って、それで。
「俺さ、八重沼が好きだから」
でも、出て来たのはただの正直な気持ちだった。格好良くもなんともない。本当にただ、ただの気持ち。
「好きだから、悲しい時は助けたい」
「……え?」
弾かれたように顔を上げた八重沼が、信じられない、という表情をして俺を見ている。
「顔とか、声とかだけじゃない。素直なところとか、飾らないところとか、何も考えないで話すところ……っていや、これは悪い意味じゃなくてさ、あの……」
途中、あんまりなことを言っていると気が付いて言い訳をして、しどろもどろで気持ちを伝える。
「ごめん……もうちょっとかっこよく言いたいけど、駄目だな。俺は、ただもう、でも、八重沼が好きなんだ。八重沼の全部が、好き」
「え、あ、俺も……」
「友達って意味じゃないぞ?」
あっさりと同意を返してくれた八重沼に、釘を刺す。
多分俺の顔は今情けないほど赤くなっているだろうし、頭に手を突っ込んでいるから髪もくしゃくしゃだろう。爽やかな笑顔なんて浮かべられない。背中に汗もかいてる。
「恋愛感情で、八重沼が好きなんだ」
八重沼の目が、これ以上ないというほどに見開かれる。硝子玉みたいに綺麗なその目が、ぽろりと転げ落ちてきそうなほどだ。俺はそれを受け止めるように、八重沼の頬に手を伸ばした。
肌に触れようとしたその時、ぴく、と八重沼の身が跳ねた。
「ごめん、八重沼は友達って思ってくれてるのに、好きになって」
八重沼に触れそうになった手を、きゅ、と握りしめる。軽々しく人に触れてはいけないということすら忘れていた自分が恥ずかしい。
……が、八重沼は何を思ったのか、そんな俺の手を、自分の手で包み込んだ。
「え? な、なに?」
驚いて手を引こうとするが、八重沼がそれを許してくれない。柔らかく、しかしそれなりに強い力で俺の手を両手で包み、離さない。
「俺も好きだよ」
「……はっ?」
動揺して、声が盛大に震えてしまった。は?というより「はへ?」って感じだ。
そんな格好悪い俺の反応なんて気にした様子もなく、八重沼がきらきらとした目を俺に向けてくる。
「俺も、二宮くんが好き。好き。多分、初恋なんだ」
八重沼に手を掴まれていなかったら、俺は多分その場にひっくり返っていたかもしれない。ひっくり返って、「嘘? え、ほんと? やった、え、ほんと? 本当って言って、お願い。お願い!」なんてことを口走っていたかもしれない。
そのくらい、嬉しくて、嬉しくて堪らなくて、俺はまたも「は、は、へ?」と情けない震え声を漏らしてしまった。
もう、この上ないくらい情けない。……情けない、けど、もう情けなくていい。
八重沼の前なら、どんなに格好悪くてもいいや、と思えた。八重沼が、そんな俺を好きだと言ってくれるなら、なんだっていい。
