もう好きって言っていい?

「えっ! なんかモデルいる、モデル!」
「誰? 芸能人? なんかの撮影?」
「動画撮っていいかな? 写真ならあり?」

 なんとなく漏れ聞こえてくる言葉を聞いて、俺は心の中で溜め息を噛み殺した。

「顔小さっ。え、男の子だよね」
「化粧してる?」

 手にした看板でさりげなく顔を隠し、足早に歩く。
 化粧もしているし、髪の毛もふわふわさせている。それに服だって……、みんなが着ている制服とはまったく違う。すっきりとした白いシャツにぴたりと脚に張り付いたようなパンツ。ヒールの高いブーツまで用意されていて……履いたはいいもののさっきから何度も転びそうになっている。おかげでゆっくりとしか歩けないし、ゆっくり歩いているとスマートフォンを向けられる。
 カメラを向けられている気配に、俺は短く息を吸って振り返る。と、後ろを歩いていた三人連れの女生徒がビクッと身を縮めた。

「二年八組、ホットドッグ屋をやってます。よかったら行ってみてください」

 ずい、と抱えている看板を前に押し出してみる。と、彼女たちは面食らったように目を丸くした後……。

「こ、声まで良い」

 と惚けたように呟いた。俺はもう何も言えず、ただこっそりと肩をすくめた。





 源さんたちに頼まれたのは、なんとホットドッグ屋の宣伝だった。

「この看板持って校内うろうろしてくれればそれでいいから。もうそれでいいから」

 と笑顔で頼み込まれて。俺は何か言おうかと思ったが……出てきたのはいつもどおり「うん」のひと言だけだった。
 狙い通りというかなんというか注目は集めているようなので、彼女たちの読みは当たっていたのだろう。制服や、クラスでお揃いのシャツ、うちのクラスのように模擬店用の衣装などに身を包んだ生徒と私服や他校の制服の一般客……色々な人が混じり合ってる校内で、俺はそれなりに目立っているらしい。
 話しかけられることこそ少ないが、先ほどのようにこそこそと何か言われたり、スマートフォンを向けられたりしているので、多分。

(良いこと、なんだよな)

 客が増えるのは良いことだ。それだけ売り上げも上がるし。そうすれば、クラス出店部門の一位に選ばれるかもしれない。それは名誉なことだ。

(そう、みんなで一位取りたいねって話もしてたし……うん)

 たしかそんなことを話していた気がする。
 それに貢献できるのであれば、それ以上にいいことはないだろう。だけど……。
 俺は廊下を歩きながら、他のクラスの店を覗く。そこはクラスの入り口に「お祭り屋」なんて描かれていて、奥には祭りでよく見かける出店のようなものがずらりと並んでいた。ヨーヨーすくいにわなげ、型抜きなど、比較的年齢層低めな子どもたちが楽しそうに遊んでいた。
 その隣はクレープ屋。色んな種類があるからか客をさばくのに時間がかかるらしく、長蛇の列ができている。他にも、教室プラネタリウム、和菓子喫茶などなど、様々な店が並んでいた。

(いいなぁ)

 どのクラスも、みんな楽しそうに笑い合って呼び込みをしたり、店番をしたり、調理したりして……その、まさに「みんなで協力し合っている」という様子が大層楽しそうで。俺は僻(ひが)みにも似た「いいな」を心の中で何度も呟いた。
 客を呼び込むのは大事なことだと、それはわかっている。けど、それでも。

(みんなと一緒にいたかったな)

 準備の期間から、それは、じわじわと感じていたことだった。

「ヌカちだから」

 という理由で、俺はみんなとちょっと違う場所に追いやられる。
 ヌカちは見てるだけでいいよ、ゴミ捨てだけでいいよ、看板持って歩いてるだけでいいよ。
 そういうことを言われるたびに、そこはかとない疎外感を抱いてしまう。
 クラスのみんなに、俺を仲間外れにしようという意図なんてないのは伝わってくるし、悪意がないのも重々承知だ。でも……。

『奏って本当に顔しか取り柄がないわよね』

 いつか母に言われた言葉が聞こえてきて、俺は驚いて振り返る。……と、すぐ後ろでスマートフォンを構えていた女子が「きゃっ」と驚いたような声をあげた。

「え、あ……」
「あ、ごめんなさ~い」

 謝っているのに、そのスマートフォンのカメラは俺に定められたまま動かない。
 なんだか急にその真っ黒い小さな輪っかが怖くなって、俺は二、三歩後退りした。母の言葉を思い出してからずっと、胸がドッドッと嫌な風に高鳴っている。

「あの、カメラ……」
「わ〜喋ってる! 人形みたいなのに、すご〜!」

 カメラを向けるのをやめて欲しい、とそう伝えようとしたが、それは弾けるような声に遮られてしまった。カメラを向ける彼女と、その連れらしい女性の声だ。

「いや、俺、は、人間で……」

 俺は人形じゃない。それに、顔だけしか価値がないモノでもない。俺にだって感情はあって、でもそれを上手く言葉にできなくて。でも、それでも俺は、俺も……。
 気が付いたら俺はくるりと踵を返して、ほとんど走るような早足で駆け出していた。心臓は変わらず脈打っているし、息もしっかり吸えなくて苦しい。

「あーん、逃げちゃった」
「動画撮るからじゃない?」

 後ろから聞こえてくる声も、走ることで向けられる視線も、「わ、あの人見て」というはしゃいだ声も、全部、全部嫌になって。俺はほとんど泣きそうな気持ちで廊下を駆け抜けた。





「……あっ」

 ようやく速度を落としたのは、階段に差し掛かったところだった。クラス出店がなく人通りもほとんどない、校舎の奥の方にある階段だ。階下に降りようとしたが、脚がもつれてしまって。手すりに捕まるようにしてどうにか踏みとどまる。
 もしかしたら階段から転げ落ちていたかもしれないと、俺はゾッとしてへたり込んだ。

「はっ、はっ……はー……」

 手に持っていた看板を横に置いて、立てた膝の間に顔を落とす。
 今はまだ人はいないが、そこかしこから楽しげな声が届く。このままここに座り込んでいるわけにもいかないだろう。

(お客さん呼ばなきゃ、嫌とか、そんなこと言ってる場合じゃない……)

 わかっている。わかっているのに、足が動かない。体中の力が抜けて、くたくただ。

(ばあちゃんの梅干しでも食べたら、元気出るかな)

 そんなことを考えて、ふ、と笑って、元気を出そうとして。けど、やっぱり無理で。

『顔しか取り柄ないんだから、愛想良くしなさいよ』
『奏って、会話のキャッチボールもできないの?』
『何言ってるか全然わからない。もう話さなくていいわ、会話にならないもの』

 元気を出そうと思えば思うほど、思い出したくない嫌な記憶や、言われた言葉が冷たい雨のようにしとしとと降り注いでくる。

(俺は、俺は……)

 階段の壁に身を寄せて、体を縮める。いっそここでこのまま壁と一緒になって、消えてしまえたらいいのに。
 そんな、馬鹿なことを考えて……俺は目を閉じた。
 壁にならなくてもいいから、とにかく、もうここから動きたくない。このまま、このまま……。

――トンッ、トンッ。

 うずくまったまま立ち上がれない俺の耳に、軽やかな、けど焦ったように忙(せわ)しない足音が聞こえてくる。誰かが、階段を駆け上がってくる音だ。そのままその「誰か」が登ってくれば、俺と鉢合わせることになるだろう。
 もう顔を見られたくない俺は、顔を膝に埋めて、膝裏に腕を回した。そして、小さく、小さく丸くなる。

――トンッ、トン……ッ。

 どんどん近付いてきた足音が止まる。俺の、すぐ側で。

「は、はっ、……八重沼?」

 荒い息の合間に呼ばれたのは、間違いなく俺の名前で。

「八重沼」

 もう一度名前を呼ばれて、俺は、のろのろと顔を持ち上げる。
 膝頭に目元を押し付けすぎて、視界がぼやけている。階段の踊り場に立つ誰かは、差し込む光を背にして真っ直ぐに俺を見ていた。そして、階段を二段飛ばしで、飛ぶように登ってくる。

「どうした? 具合悪い? 保健室行こうか」

 気遣うようなその声を聞いて、近付いてきた彼のその顔を見て、俺は……彼が誰だか知った。

「……二宮、くん」

 そこにいたのは、二宮くんだった。
 制服のスラックスの上にクラスTシャツと思われる黒いシャツを着た二宮くんは、肩で息をして額の汗を拭いながら俺の前に立って身を屈めてくれた。
 どうして、とか、なんでここに、とか、色々聞きたいことはあるのに、何も出てこない。

「大丈夫? 行ける?」

 ためらいなく差し出されたその手、その言葉に懐かしいものを感じて。少しの逡巡の後、俺は「あぁ」と思い出す。
 そう。それは二宮くんと初めて話した時に、彼が俺に向けてくれた手と、言葉、そのものだった。
 墨汁で汚れた俺のシャツを見て、二宮くんは迷うことなく手を差し伸べて、そして教室の外へと連れ出してくれた。

「あ……」

 なんだか胸がいっぱいになって、二宮くんを見上げたまま……ほろりとひと粒涙を零してしまった。

「やっ、八重沼。え、どうした、どっか痛い? 立てないならおぶって行くから。それか、抱き上げた方がいいかな? な、どうしたい?」

 どうしたら苦しくない?と二宮くんの方がよほど痛そうに問うてくる。それでもう、俺の顔は……くしゃくしゃになってしまった。

「にっ、のみや……く」

 俺はしゃくりあげるように泣きながら、首を振る。
 どうしたらいいか、と、俺に聞いてくれる二宮くんが、好きだと思った。
 俺がどうしたいか、聞いてくれる。
 自分の好きなものを教えてくれて、でも俺の好きなものも聞いて、受け入れてくれる。俺と……八重沼奏と会話してくれる二宮くんが、その優しさが。好きだ。

「にのみやくん……っ」

 でも、その気持ちは全然言葉にならなくて。俺はただ、ひぐ、ひぐ、と涙を流して喉を鳴らすしかない。

「あー、あぁ、あー、もう」

 二宮くんはおろおろとあっちを向いたりこっちを向いたり、俺の涙をシャツの袖で拭ったり、頬に貼り付いた髪を払ってくれたりしていたが、そのうち困ったように唸って、そして俺の目の前に座り込んだ。

「具合悪いとか、そういうんじゃないんだな?」

 二宮の問いに、俺は「うー、うぅ」と泣きじゃくりながら、こくこくと頷く。と、「わかった」と何かを決意したように頷いた二宮くんが両手を広げて、そして、俺の……頭を抱き込むようにして抱きしめてきた。

「泣いてもいいから、大丈夫だから」

 よしよし、と背中を撫でられて、俺は目を見開いてから、そしてまた涙を溢した。

 誰かに、無条件に慰められることが、こんなにも安心するなんて知らなかった。糠床のことも、楽しいことも考えなくていい。ただ、温かい腕の中に包まれているだけでいい。

「うー……うぅー……」

 泣きながら、俺は二宮くんの背中に腕を回した。しがみついても、すがりついても、二宮くんはその手を振り解かないでくれるだろうという、たしかな信頼があったからだ。
 二宮くんはきっと、俺がどんなにみっともなく泣いても、抱きしめていてくれる。そう、信じることができた。

 俺の勝手な信頼を裏切ることなく、二宮くんは泣いている俺をずっと抱きしめていてくれた。背中を撫でて、時々「大丈夫?」と優しく問うてくれて。
 氷のように冷たく固まっていた心が温かいお湯でじわじわと溶かされていくように、涙が止まるまで、ずっと。