「ヌカち、スキンケアってなにしてる?」
「スキン、ケア?」
 はてその横文字はなんだったか、と首を(ひね)る。
 スキンは肌で、ケアは手入れ。つまり肌の手入れだ。俺は心の中でポンと手を打つ。
「石鹸」
「は? こっちはガチで聞いてるから。冗談とかいらないの」
 わかる?と語尾上げめに問われて、俺は「うん」と頷く。もちろん冗談なんて言っていない。……のだが、クラスメイトの白石(しらいし)さんは「ヌカち、絶対わかってないじゃん」と薄くピンクに色付いた唇を尖らせた。
 ちなみに「ヌカち」というのは俺のあだ名だ。
 本名(っていうのも変だけど)は八重沼(やえぬま)(かなで)、たしかに名前の中に「ぬ」と「か」は入っているけどまったく関係ない。ヌカちのヌカは糠漬(ぬかづ)けのヌカだ。
『八重沼奏です。五月五日生まれです。趣味は糠漬けです』
 四月、高校二年生になって最初の自己紹介でそう言って以来、俺のあだ名は「糠漬けのヌカち」になった。それはじわじわとクラス中に浸透して、今では当たり前のようにヌカちと呼ばれている。
「もういいもん。ヌカちは自分の肌ピカの秘訣を教えてくれないんだ、ふーん、ふぅーん」
 茶色の、いつもふんわりとウェーブがかった白石さんの前髪がほわりと跳ねる。ツン、とそっぽを向くその顔は十分にピカピカして見えた。
「白石さんの肌は十分綺麗だと思う」
 じ、とその肌を見つめながらそう言うと、そっぽを向いていた彼女がバッとこっちを見た。
「やば。ヌカちだから勘違いしないけど、ヌカちがヌカちじゃなかったらそれ本当にやばいセリフだかんね」
 ヌカち、が多すぎて内容がよくわからない。俺はよく理解できないまま「うん」と曖昧に頷いた。
 白石は「ヌカちってほんとヌカちだよね」と言いながら、自身のグループの女子の元へと帰っていった。なんだったんだろう。
「……ヌカち、お前すごいよ」
 と、今度は後ろの席の山本(やまもと)くんが話しかけてきた。野球部(のエースらしい。山本くんが言うには)の山本くんはさっぱりとした短髪で、程よく日に焼けていてとても健康的な肌色をしている。
 山本くんは同じ「や」で始まる名字なので、なんとなく親近感が湧いている。俺は友達と思っているけど……山本くんはどうだろう。
「白石さんにあんなん言えるのヌカちだけだよ。あ、あと三組の二宮(にのみや)とか?」
「そうなの?」
 自分のことも気になるが、「三組の二宮くん」というのは誰だろう。
 俺と並列するように出された名前について確認しようと口を開く前に、山本くんが「あんな美人にさぁ」と話し出してしまった。
「話しかけられたら俺、『あ』とか『え』とかしか言えないよ」
 へぇ、と言いながら俺はまばたきをする。どうして美人に話しかけられると「あ」「え」になるんだろう。俺は不思議に思いながら、山本くんの顔をジッと見つめてみた。
 山本くんは俺の視線に気が付いたらしく「あ」と声をあげてから、「え」と気まずそうに首を傾げる。そして、手のひらを俺に見せるようにビシッと出してきた。
「ヌカちが男だってわかってても、その顔で見つめられると……困る」
「困る」
 山本くんの言葉をそのまま繰り返す。
『人と話す時は、その人の顔を見ないといけんよ』
 という祖母の教えを守っていたつもりなのだが、時々こういうことを言われる。
「ごめんね」
 困ることをされるのは嫌だろう。俺が素直に謝ると、山本くんは「あ、いやいやいや」と首を振った。
「別に謝ることじゃないんだけど、なんていうか、こう……ヌカちに見つめられるとドキドキするっていうか、勘違いしそうになるっていうか、うーん……あぁ〜」
 最終的に、山本くんは腕組みして天を仰いでしまった。俺はやっぱりよくわかっていないまま「なるほど」と頷いた。
 俺は母に『ピントがずれてる』『会話が噛み合わない』『ほんと空気読めないよね』なんて言われて育ってきた。多分それは本当のことなのだろう。現にこうやって山本くんを物凄く悩ませている。
 俺は中学の頃まで友達らしい友達がいなかった。なんというかみんな俺が話しかけると不自然に離れていくというか……、多分、積極的に話したいタイプではないのだ。
 高校に入ってからはそんな風に思われないように気をつけて、わかっていなくても、納得していなくても、「うん」と頷くことが増えた。そのおかげで、白石さんや山本くんにもこうやって気軽に話しかけてもらえているんだ……と思う。
(それは嬉しい、けど……)
 わからないまま、本当の気持ちを伝えられないまま話をするのは、なんとなく悲しい気持ちになる。
 本当の自分を出しても万人に嫌われたくないなんて贅沢なことは言わないけれど、せめて、せめて一人でも本音で話すことのできる人がいたら……。
(そしたら、学校生活ももっと楽しいのかもしれない)
 もう一度山本くんに「ごめんね」と謝ってから、俺は窓の外へ目を向けた。抜けるような空は青く澄んでいて、もうすぐ夏が訪れることを教えてくれる。
(夏は、茗荷(みょうが)を漬物にしよう。山芋や、オクラとかもいいな)
 気分が滅入りそうになる時は、自然と漬物のことを考える。そうすると少しだけ元気が湧いてくるのだ。……まぁ、こういうところが、いわゆる「ピントがずれてる」のかもしれない。
 そんなことを考えながら、俺はぼんやりと青空を眺めた。青空に浮かんだ白い雲はまるでふっくらと丸い(うり)のようで、少しだけテンションが上がった。



 なんの授業が好きかと聞かれたら答えに困る。
 国語や古典は色々な物語の片鱗に触れられるから好きだし、数学はたくさんの数と向き合えるから好きだし、化学や生物は新しい発見がたくさんあって好きだ。唯一、体育だけはちょっと困ることが多いけど……それも含めて好きだ。
 つまり俺は、大体どの授業も好きだ。
(選択芸術も、もちろん好き)
 しゃりしゃりと墨を()りながら、俺は内心わくわくと心躍らせる。
 半紙に筆を滑らせる瞬間も好きだが、こうやって水に少しずつ墨を溶かしていく時間も好きだ。半紙の手触りも、文鎮の重さも、なんとも言えない墨の香りも。
「墨溶かしてるだけなのにあんな美しいことある?」
「いや、それな」
 さわさわと聞こえてくる話し声を聞くのも好きだ。会話の内容まではしっかり聞き取れないが、なんだか自分もそのおしゃべりに参加しているような気持ちになれる。好き、好きだな、好き、と心の中で歌うように好きなところを挙げながら、俺は墨を(すずり)の横に置いて息を吐いた。
 選択芸術は、美術、書道、音楽の中からひとつ教科を選ぶタイプの授業だ。週に一回、他のクラスと合同で行われる。
 仲のいい(多分、おそらく、きっと)山本くんは音楽を選択して、他に話ができそうなクラスメイトもいないので、俺は授業中大体一人で黙々と作業している。
 誰とも話さないで何かをするのは慣れているので、困りはしない。
「なー、筆がカッチカチなんだけど」
「片す時にちゃんと洗ってねぇからだろ」
「そういう二宮は……あら、綺麗にしてんのな」
「二宮って意外と綺麗好きだよな」
「そういうとこまで抜かりなくマメだから女子にモテるんだって」
 なるほど〜、俺も真似しよっかな〜と感心したような言葉と笑い声。さわさわ、どころではない元気すぎるおしゃべり、そして「二宮」という名前に聞き覚えがあって、俺はふと視線を持ち上げる。
 斜め前の席に固まって座った彼らの真ん中に、黒髪の男子が見えた。横顔しか見えないからなんとも言えないが、鼻は高く頬もシュッとしていて、かっこいい。同じ制服を着ているのに、なんだか一人だけ芸能人のようだ。俺は芸能関係に(うと)いからちょっと自信がないが……周りの生徒も「モテる」と言っているので、多分間違いない。
(二宮くん、……あ、三組の二宮くん?)
 二宮くん、二宮くん、と何度も口の中で転がして、その名前をどこで聞いたか思い出す。山本くんだ。前に山本くんが、「三組の二宮」と言っていた。
「ま、二宮がモテるのはマメさだけじゃなくて、この顔面ありきだから」
 な、と肩を寄せられた男子はその黒髪をさらりと揺らして「それはそう」と笑っている。容姿を褒められて、それを否定せずさらりと笑いに持っていく「二宮くん」のその会話の(うま)さに、俺は目を瞬かせる。
 俺も時々「顔が良い」と言われるけど、あんな風に言えたことはない。毎度「うん」とか「いや」とか無難なことを言って、そこで会話終了だ。
(それはそう、か)
 今度使ってみるのもいいかもしれない。いや、俺がそんなことを言ったら場を凍らせてしまうだろうか。
 むむ、と考え込みながら筆を硯に浸した、その時。
「あぁもうっ、全然(やわ)くなんねぇ!」
 筆先を柔らかくするために墨汁に筆を浸していた男子が、それを大きく振り上げた。同時に筆先からピッと墨汁が飛び、後ろにいた俺の……制服の胸元から腹にかけて引っかかる。
「あ」
「うわっ、やべ……っ!」
 白いシャツに黒いシミがじわじわと広がっていく。俺は呆然とそれを見下ろした。それから顔を上げて、墨汁を飛ばしてきた男子を見つめた。
 彼はこちらを振り返っており、しっかりと目が合う。さてなんと言おうかと悩んだままジッと彼を見つめていると、何故か男子はたじろいだように身を引いた。
「な、なんだよ。悪かったって。そんな睨まなくてもいいじゃん」
 別に責めているつもりはなかったので、俺はぱちぱちとまばたきする。そして「いや、そんなつもりは……」と言おうとした時。男子の隣からヌッと腕が伸びてきて、彼の頭が無理矢理に下げられた。
「ぐぇ」
「いいじゃん、じゃなくて。どう考えてもまずは『ごめん』だろ」
 潰れたカエルのような声を出す彼の頭を下げさせたのは、「三組の二宮くん」だった。
「え、あ」
「な、それ洗いに行こっか」
 二宮くんはサッと素早く立ち上がると、俺の腕を掴んで同じく立ち上がるように促してきた。そして一度その手を放してから、手のひらを上向けて差し出してくる。
「大丈夫? 行ける?」
「あ、うん」
 断るのも変な気がして。俺は彼が差し出してくれた手に手を重ねる。
 そして、誘われるまま教室を抜け出して廊下の洗い場に向かうことになった。
「先生〜、制服に墨汁ついたから洗ってきまーす」
 と教師にそつなく声をかけていくあたり、やはり彼はコミュニケーション能力が高いのだろう。なんてことを考えながら、俺は二宮くんに引きずられるように教室を後にした。

「落ちねぇな〜」
 二宮くんは「うーん」と(うな)りながら白い開襟(かいきん)シャツを宙に掲げる。俺は半歩後ろでそれを見守りながら、首を傾げた。
(なんで、俺のシャツを二宮くんが洗ってくれているんだろう)
 洗い場に着いて、二宮くんに「ほら早く脱いで」と促されて、俺はあれよあれよという間にシャツを脱がされた。二宮くんはまったくためらうことなくそれをざぶざふと水道水で洗い出した。
 下にシャツを着ているので特段問題はないが、申し訳ない気分になる。だってそのシャツは俺のだし、二宮くんが汚したわけではない。
 たびたび「自分でやるよ」なんて申し出ようと試みているのだが、二宮くんがテンポよく「寒くない?」「悪いな」「これ落ちるかな」と話しかけてくれるので「うん」と答えるだけで終わってしまっている。
 二宮くんは正面から見ても、やっぱりかっこいい顔をしていた。さらりとした癖のない黒髪、少しつり上がり気味の目、機嫌良さそうに持ち上がった口元、全体的にくっきりとした顔立ち。多分二宮くんのような顔こそ、よく女子が言っている「顔面が強い」というやつだろう。身長も高く、シャツから伸びた腕もなかなかに(たくま)しい。もしかしたらスポーツもやっているのかもしれない。
(俺とは全然違うなぁ)
 ほけ、とそんなことを思っていると、二宮くんが腕で顔を擦りながら「あ〜」と声をあげた。
「墨汁って水じゃ落ちないんか」
 シャツを洗い場に引っかけて、いよいよ困ったように腰に手を当て首を傾げた。
「俺から買って返すように言って……」
「大丈夫」
 おそらく弁償しようとかそんな話になりそうな気がして、俺は二宮くんの言葉を遮った。二宮くんは少し驚いたような顔をして「あー……そう?」と苦笑を漏らした。多分、俺が冷たく言い切ってしまったせいだ。
「いや、大丈夫っていうのは」
 俺は焦って言葉を紡ぐ。
「墨汁は歯磨き粉で落ちるから」
「はみ……なに?」
 二宮くんが腰に手を当てたまま、きょとんとした顔で問うてくる。俺は聞こえなかったのかともう一度「歯磨き粉」と繰り返す。
「歯磨き粉つけて歯ブラシでごしごし擦ると落ちるんだ。それでも駄目なら住居用洗剤を入れたぬるま湯に浸けて、また同じように歯ブラシで……」
「あー、ちょ、待って待って」
 待ってと言われて、俺は言葉を途切らせる。
 二宮くんは片手を腰に、片手を額に当てて、何故か肩を震わせていた。
「怒ってたんじゃないの?」
「? 怒ってないよ」
 わざとじゃないし……、と続けると、二宮くんは「そっか」と息を吐いてから、ついで「ふっ」と吹き出した。
「すげぇ真顔だから怒ってると思ってた」
「怒ってないよ。真顔……真顔だったかな?」
 にこにこはしていないかもしれないが、そんな恐ろしい形相を浮かべていたつもりもなかったのだが。俺は両手を(ほお)に当てて、むにぃ、とつまんでみる。と、二宮くんがますます笑みを深めた。
「その顔でそれするのは反則だろ」
 何がどう反則なのかわからないので、俺は頬をつまんだまま困って首を傾げた。
「なぁ。俺、三組の二宮翔馬(しょうま)っていうんだけど、名前聞いてもいい?」
 うちの学校は二年進学時に理系と文系が分かれる。一組から五組が文系、六組から十組が理系。校舎も分かれてしまうので、二年次以降両者は極端に関わりが減る。
(やっぱり、この二宮くんが、三組の二宮くんだったんだ)
 ちなみに俺は八組だ。つまりそう、文系の二宮くんとはまったく交流がない。
 どうりであまり見覚えのない顔だったはずだ。もし同じクラスなり近くのクラスなら、さすがに覚えていただろう。二宮くんはそれほどに存在感がある。なんというか、立っているだけでピカピカと輝いているような、そんな感じだ。
「ん、嫌だった?」
 俺がいつまでも返事をしないからだろう、二宮くんが少し困ったように首を傾げる。
「全然。全然嫌じゃない。俺は八組の八重沼奏」
「八重沼。うん、よろしく」
 手を差し出されて、俺はちょっと迷ってからその手を掴んだ。先ほどまで水に触れていたからだろう、二宮くんの手はひんやりと冷えていた。
「そういえば二宮くんも名前に数字が入ってるね」
「数字?」
「うん。俺は八重沼で八、二宮くんは二。一緒……あ、でも俺普段はみんなからヌカちって呼ばれてて、あんまり八重沼って呼ばれないけど」
 二宮くんとの共通点とそうじゃないところについて思いつくままに話してみる。と、切れ長の目をきょとんと丸くした二宮くんが、一瞬くしゃりと表情を崩してから「わははっ」と笑いだした。それはもう廊下に響き渡るくらい思い切り。
「どうしたの?」
 何故笑っているのかわからずその理由を尋ねると、二宮くんはゆるゆると首を振った。
「いや、……なぁ八重沼」
「ん?」
「俺と友達になろうよ」
 どういう流れかわからず、俺は一瞬言葉に詰まる。が、「友達になろう」という響きが良すぎて……頭の中でそのフレーズだけがぐるぐると回る。
(友達になろう、友達、友達に……)
 小学校の標語のような言葉だが、今の俺にとってこれほど嬉しい言葉はない。
「うん」
 俺は握りしめた二宮くんの手をぶんぶんと上下に振って、力強く頷いた。
「俺も、二宮くんと友達になりたい」
「そっか、よかった。じゃあ今から友達な」
 冗談のように軽く(こぼ)したであろうその言葉が、俺にとってどれほど嬉しい言葉だったかなんて、多分二宮くんはわかっていないだろう。
(初めて言われた)
 高校生になって初めて言われたのだ。こうやって面と向かって「友達になろう」と。何がどう作用して俺と友達になりたいと思ったのかわからないが、二宮くんが嘘をついているようには見えない。
 俺は嬉しさに緩みそうになる頬に内側から力を入れて、どうにか(こら)える。
「よろしくお願いします」
 二宮くんのひんやりとした手を両手で包み頭を下げる。と、自分の体が目に入りシャツ一枚であったことを思い出す。
「こんな格好でごめんなさい」
 もう一度ぺこりと頭を下げて謝ると、二宮くんはさらに笑みを深めた……というか大笑いした。もしかして二宮くんは笑い上戸というやつなのだろうか。
 首を傾げながらも、俺は二宮くんとひたすら握手し続けた。